花骸のこどもたち
短針で一回り
いつのまにか夏が終わろうとしていた。
生垣の向こうでは様々な変化があったものの、内側は何も変わりはしない。いつもの縁側、いつもの庭。トバリは短い足を縁側に下げたまま、いつもどおりに晩夏の庭を眺めていた。
疾うに暦の上では秋だというのに、庭の木々は青々とした生命力を発露させ、石囲いに縁どられた芝は瑞々しい輝きを放っている。こうして夏の名残が濃いのも困りものらしく、センテイは“時狂い”の片鱗を伺わせる庭を前に嘆息した。休憩の度に、センテイは縁側へやってくる。そうして「まだ日が長えもんで、へえ、残暑もひでえわ」とか「今年ぁ異常気象だってんで、うちとこの連中も困ってます」と言い訳を食む。そんなセンテイを横目に捉えながら、トバリは黙っていた。
母屋と温室の間に植わっている大樹は、その背丈の故で否が応にも朝晩の冷気に敏感になる。
俄かに色づき始めた枝先を思い返すと、トバリにとって、センテイの悩みは杞憂としか思えなかった。センテイは噤みつづけるトバリに幾らか寂しげな顔を見せたものの、しかし、もしトバリがそう――お前が気を揉まずとも、この庭の植生が時の巡りから外れることはあるまいよ――と、口にしてみたところで、それはそれで、きっと悲しい気持ちになったに違いない。
センテイはいつだってトバリの言動に“いとけなさ”を求め、その期待を裏切られる度に顔を曇らせる。トバリは、あの庭師が淡い失望を押し殺して笑う様を幾度も見てきた。無論トバリは出来る限りセンテイの求めに応じてやろうと考えていたものの、しかし“いとけない言動”とは……所謂“ふつうの子ども”が如何振る舞うのか、トバリには皆目検討もつかなかった。
望みを叶えることが出来ないならいっそ、噤んでいたほうがマシというものだ。
先ほどまでトバリの隣でぼやいていたセンテイは、とうに温室へ戻っていった。
金継ぎの続きをすると言って、見に来るかと誘われたが断った。膝上の手記はまだページの中程だったし、庭を眺めていたかった。この庭以上に価値あるものを、トバリは知らない。
庭はやがて来る豊穣の季節に備え、満ち足りていた。庭を囲む生け垣の刈り込みがどれだけ美しいかは言うまでもない。しおれかけの花は青い実を結び、木々は少しずつ葉の色をくすませている。庭の中心に位置する池の水は、よく磨かれた玻璃のようにつめたく澄んでいた。
水面すれすれに白い尾びれを広げる出目金は、つい最近になってセンテイが連れてきたものだ。それ以前には、赤と黒の、どこにでもいるようなちゃちな金魚が暮らしていた。出目金同様、その二匹の金魚もセンテイが連れてきたものだった。桔梗城下の露店で釣ってきたらしい。一回十両、和紙を張ったすくい網――ポイで二匹捕ったとのことで、一匹五両だったと聞いた覚えがある。
センテイが朝夕と丁寧に世話をしていたけれど、誰ぞにやってしまった。やがて来る冬を思えば、あの金魚たちはあんまりにちっぽけで、外で暮らすには向かないと言っていた。
センテイの言葉が本当かどうかはさておき、トバリは内心彼らが消えたことにホッとしていた。
赤いリボンが結ばれた、黒い、ちいさな死体。赤と黒のコントラストを目にすると、ふっと気まぐれに構った命についてを思い出すのだった。金魚と猫なんて、全く別の生き物であるというのに、何故連想してしまうのだろう。ああ、でも時折不思議そうに水面を叩いていたな。
小さいながらに聡明なねこは、水面をぱしゃんと叩くことはあれど、自分と同じ色彩をもつ魚をつついて遊ぶことはなかった。本当に性根の良いねこで、決してひとが嫌がることをしない。
つらつらと、あたかも今なお生きているかのように様々な情景が目に浮かぶ。その全てはトバリの記憶であり、過去の出来事に過ぎない。存外自分は死が何か分かっていないのかもしれないと、トバリは思った。トバリの愚かさのせいで、ねこは死んだ。それは要するに、トバリの手の及ばないところへいってしまったということだ。それだけのことで、確固たる事実であるというのに、時折トバリのなかで“揺らぎ”が起こる。何故このところ、あの子は姿を見せないのかな。
我が物顔の出目金に池を占拠されてから、“揺らぎ”の頻度が多くなっていた。
これが良いことか悪いことなのか、トバリにはよく分からない。なにも──何も、わからない。
トバリは幾らも進んでいない読み物を閉じて、脇に下ろした。小さすぎる手で頭を抱え込む。
一体、自分は如何してしまったのだろう。猫は死んだのだ。もう、とっくのことだ。
イライラと頭を掻きむしる。爛漫の春は去り、夏の名残もまた時の巡りと共にこの屋敷から拭われようとしている。夜半の熱も冷めて、明け方ともなれば初秋の澄んだ空気があたりに立ち込める。あれは死んだのだ。もう何ヶ月も過ぎた。増して猫と魚はまるで別種の生き物だと言うのに、あの子猫が死んだときは何も思わなかったのに、何故こうも立て続けに思い出してしまうのか。
自分のうちにどういう感情の動きがあるのか……それもトバリには分からなかった。無駄に年を重ねてきたくせ、分からないことだらけだ。これでは、そこいらの幼児と変わりがない。……ただでさえ奇異な体をしているのに、その上オツムまで弱いとあっては先が思いやられる。
トバリは深いため息を漏らすと、気のない仕草で先の手記を拾い上げた。パラパラ捲る。
ページを埋め尽くす几帳面な文字は、扉間のものだ。
自分用の覚え書きということで、題字も省かれ、文脈の整理も疎かになっているものの、主題は分かりやすい。このノートの最初から最後まで、“南蛮より伝わり聞いた呪術”について伝え聞いたこと、自分の閃き、関係しそうな文献名などが記してある。余程陰陽のチャクラに興味関心があったと見える。ヒルゼンら教え子の手が離れると共に、陰陽遁の解明に情熱を注いだに違いない。
実験。実験。貴重な文献の押収。また実験……どうも、乏しい資料を引っかき回して、検証実験を繰り返した痕跡がある。それが死体を用いたものだというのだから、ほとほと血は争えない。
尤も、この手記を読むのも五度目だ。日を置いたら改めて興味関心が湧いた……というわけでもなく、庫内蔵書が有限である都合上また読み返していた。それだけのこと。そもそも、扉間が解き明かそうとした“陰陽遁そのもの”であるトバリにとって、この手記は何ら目新しいものがない。
トバリはぽーっと、扉間の肉筆を見下ろした。どこから如何見ても文字以外の何物でもない筆跡が、何かの模様に見える。……果たして、この愚鈍さは“退屈”が原因なのだろうか?
このところ、とんと頭の回りが鈍くなった。今のように、ふいに自分が何をしていたのか忘れてしまったり、文字を読むことさえ億劫になって、知っていることをすぐに思い出せない。
トバリは人里離れて暮らした期間が長い分、社会通念や道徳については知らないことのほうが多い。その一方で、扉間が死の間際まで熱心に調べた“謎”の殆どは、産まれた時から知っている。
反魂の術、魂を変質させる方法、命を創造する術、輪廻転生の理……尤もどれもこれも知っているだけで、実際に使ってみせることは出来ない。兄なら未だしも、トバリの体はそういう用途に作られていない。それ故にトバリの言は“口から出まかせ”の域を出ないだろう。
しかし事の真偽はどうあれトバリは自分の知識を“真”だと信じていたし、人間社会への無知を差し引いても“自分は人並み以上に物識りだ”と思っていた。その、人並み以上に物識りだったはずの自分が、今さっき何をしていたかさえ容易には思い出せない。長生以外に何の取り柄もない自分がこのような──阿呆としか言いようがない有様に落ちぶれてしまったのは、ショックだった。
トバリはそのまま固まっていたが、やがて手記が自重で膝に落ちると考えを改めることにした。何故と言えば、挿絵を見ただけでその脇に何が書いてあるか見当がついたからだ。
……センテイに誘われた時は「集中力を鍛え直すためにも一冊通しで読み終わりたい」と思って断ったのだが、案外ことは単純で、読み物そのものに飽きているのかもしれない。
センテイに頼んで新しい書物を二三見繕って貰うとして、一先ずこの手記を書庫へ戻してこよう。すっくと立ちあがった拍子に、足元で鈍い音が鳴る。一歩踏み出す。二歩。三歩。
数歩進んだ限り、普通に歩いている分には軋まないらしかった。しかし今は良くとも、二年、そして三年後はどうなるであろう。様々なことを思い悩んで、トバリは顔を暗くした。
いったい、わたしは、いつまでここに居るつもりなんだ。
『直させますか。こんままじゃあ、じき床がぬけおっちまう』
『こりゃあ、来年あたり打ち釘を持ってこんと一歩も歩けなくなっちまわあ』
じき。来年。二年、そして三年後……その頃には、この通路の具合は如何なるだろう。
かように美しい庭が広がる一方、建物自体は老朽化が進んでいる。ヒルゼンなぞ「こうも手入れが疎かになってると、庭付き一軒家というより一軒家付きの庭園だのう」と口にして憚らない。
この縁側など、まだトバリの体には耐えるものの、大人が上を歩くたびにギシギシ軋んで喧しい。それを見かねてか、センテイは「直させますか?」と問う。返事をしないトバリに、何度も。
修繕の必要がないことを誰より分かっているくせ、センテイは困った男だ。
カンヌキは二度と妻を迎えることはない。男やもめが一人暮らすには母屋だけで十分だったし、それ故に離れは修繕を入れることもなく放っておかれたのだ。いつか、壊すつもりで。その“いつか”は、トバリがトバリでなくなった時──この屋敷に暮らすものがカンヌキ一人になった時だ。
やがて壊されるだけの建造物にわざわざ手を入れることもあるまいに、センテイは繰り返し問う。じきに床がぬけおっちまいまさあ。来年あたり、喧しくって誰も歩けんくなっちまう。へえ、トバリさま、どうしましょう。じき。来年。二年……そして三年後までもここで暮らしていかれますか。あなたにはその選択肢だってあるじゃありませんか。答えは決まっていたけれど、それをセンテイも承知しているはずなのだけど、トバリには何と返すことも出来なかった。
それで、決まって長々とした沈黙のあとで、センテイが根負けする形で話題を変える。
オレんがいないときゃあ何もねえですか──家政婦と上手くやっているか、ということだ。
大抵の場合、上手くいかない時はトバリのせいであることが多い。そもトバリは人の形をしているだけの化け物なので、ふつうの人間から奇異に思われてもごく自然で当たり前なのだ。それを分かっているのかいないのか、センテイはあたかもトバリ自身に何の非もないかのような口振りで“家政婦と上手くやっているか”と問う。よく分からないまま、トバリは頷くことにしていた。
新しい家政婦は以前のひとより若いけれど、どことなくセンテイに似ている。
ざっくばらんな口調が、そう思わせるのだろうか? 少なくとも、トバリの世話している生き物に毒を盛ることはないだろう。しかし、センテイ以外の人間と滅多に口を利かないよう、カンヌキから指示されている。きっと、直ぐにこの家を嫌いになってしまうだろう。何せトバリはふつうの子どもではないし、彼女の仕事場はうつくしい庭ではなく、この古びた離れの奥なのだ。日々ここで寝起きするトバリでさえ薄暗いと感じるのに、外界からやってくる彼女には耐え難かろう。
あれが辞めたくなったなら、すぐに辞めさせてやってほしい。トバリは、センテイに繰り返し言い含めておくことにした。センテイは勿論公平な男だが、情の深い人間の常で秤が偏り易いところがある。トバリの意見を気にするなら、新しい家政婦の意見も汲んでやって欲しかった。
『オレァ、ここを薄っ暗いとか、不気味だと思ったこたぁねえです』
センテイの顔がくしゃっと歪む。いつものこと。また、トバリの言葉を違った風に受け止めてしまったのだろう。家政婦がここを辞めたいと思うのと、センテイがこの屋敷に否定的な意見を持っていないのは関係ないのに、何故そんなことで傷ついたような顔をするのか分からない。
トバリは、この屋敷が好きだ。これまで過ごしたなかで一番穏やかに暮らせる。これまでに、いままで、今まで人型で過ごしたときは、いつも、なにか、よく分からなくて、分からなければならないことばかりで、それが嫌だった。でも、この屋敷ではトバリに理解を強いる者はそういないし、よく分からない行為を強いる者もいない。だから、薄暗いところがあってもここが好きだ。
そう言うと、センテイの顔はますます顰められて、苦しそうなものになる。
『トバリ様、何の咎めもなければ外へ出たいですか……?』
坊ちゃんの不興を買うことなく、三代目の手を煩わせることなく、そしてトバリさまが、トバリさまの意思で、好きにここへ戻ってくることが出来るなら、外へ行ってみたいとお思いですか。
一言一言噛みしめるようにして問うセンテイを思うと、頷くことは出来なかった。きっと、こないだ外へ出てしまったから、それでこんな顔をさせてしまったに違いない。その件に触れるのも億劫で、トバリは頭を振って応えた。いや、外へなど行きたくはない……外へは出たくない。
それは虚偽ではなく、トバリは「外へ出たい」という目的意識を抱いたことは一度もなかった。
カンヌキは元より、センテイも、ヒルゼンさえもトバリが外へ出るのを禁じている。ヒルゼンは監督者さえ付いていれば許可を出すかもしれなかったが、センテイはその限りではなかった。
センテイはいつだってトバリが“ふつうの子ども”でないと知れるのを恐れている。その恐れを間近で見ていながら、何故「外へ出たい」などと恩を仇で返すようなことが言えただろう。
確かに、生垣の向こうから溢れる喧噪はトバリにとって眩いものだった。それでもトバリは外界に対して努めて無関心に振る舞おうとしていた。生垣を越えて届く声がどれほど魅力的に響いても、それはトバリには必要のないものだ。……そう分かっていたはずなのに、外へ出た。
うつくしい庭を前に、トバリはつと眉間に深いしわを刻んだ。
一週間前、この完璧な庭に“センテイの昔なじみの息子”を名乗る異物が混じった。
息子と言っても、初老の男だ。ヒルゼンより幾らか若いぐらい。御多分に漏れず顔や手の至る所に傷がついていたが、何れも隆起や陥没、皮膚の引きつりを残すのみで塞がっていた。
尤も彼が現役を疾うに退いているのだろうことは、その顔かたちを確かめるまでもない。太っていたからだ。秋道という例外を除いては、忍者は痩身であることを求められる。それに秋道の者は見かけこそ嵩張っているが、ああ見えて無駄のない動きをする。そう言うわけで、脂肪のついた体を弾ませながら、ヨタヨタ駆け寄ってくる男はどこから如何見ても現役の忍者ではなかった。
それにしても忍び歩きが上手いのは“昔取った杵柄”だな……などと観察している内に、男も視線の主に気付いたらしかった。トバリが“困る”と思ったのと、男が目前に迫るのと、センテイがその場に駆けつけるのは、殆ど同時だった。いつも穏やかなセンテイが血相を変えて、トバリを背に庇った。そこからは、ふたりの声しかわからなかった。とはいえ、十の内九は男の台詞だった。
父があなたを呼んでる。来て貰わねば一生後悔する。もう、あなただけなのだと、訳の分からないことをまくし立てる男。この男の父親とセンテイの間にどんな因縁があったかは知らねど、センテイは言葉少なに男の求めを受け流そうとしていた。行きたくないと、センテイの全身が拒否していた。泥と汗にまみれた背中しか見えなかったけれど、トバリにはそういう気がした。
しかし押しの弱いセンテイの常で、結局は断ることも出来ずに連れていかれてしまった。男の話がトバリに及んだのも決め手だったのだろう。背後のトバリに振り向いたときには、もう剣呑な空気はなかった。下がり眉に苦笑、いつもの人の好い老爺の顔で「ちょっくら行ってきますわ」と言って庭を出ていった。それっきり、正午を回っても、夕刻が近づいても戻ってこない。
それ故──それ故に、センテイの身を案じる気持ちがあったのは事実だ。“すぐ”と言ったくせに、二時間も三時間も、五時間も過ぎてしまった。センテイが嘘を吐くはずがないのだから、用が済めばすぐ屋敷へ戻ってくるはずだ。トバリに「戻ってくる」と言ったからには、私事で疲れたから直帰しようなんてことは、絶対にない。センテイはそういう男だ。用が終わらないのだろう。
やがて家政婦が「困ったら、うちまで歩きで十分ですからね」と、自宅までの地図を残して帰っていって、道行く人の声は上機嫌で、陽は容赦なく傾いていくのに、それでも戻って来ない。
自分のせいで連れて行かれてしまったようなものだ。トバリには男を追い返すだけの力もなく、寧ろセンテイは一刻も早くトバリのもとから男を遠ざけたい気持ちもあったに違いない。
トバリはセンテイの帰りを待った。嫌な目にあっているのではないかと思った。
自分が“ふつうの子ども”であったならと、思った。緋に染まる景色のなか「そういえば日暮れの頃に、一人になるのは随分久しぶりだ」とも思った。何か要らないことを思い出してしまいそうな決まり悪さと、妙な居心地の悪さが重なって、初めて「ここに居たくない」と思った。
自分がふつうの子どもだったらパッと外へ駆けだして、センテイを探しに行っただろうに。
一週間前のことを思い出すにつれ、トバリの視線は自然と裏門へと向けられた。
あの日、センテイは前言通り戻って来た。それもトバリが思い切って外に出たのと殆ど同時で、些か気まずい思いをした。センテイはトバリを咎めようとはしなかったが、そうするだけの気力もないほど疲れ切っている……とわけでもなさそうだった。念のために不快な目にあったか問うたものの、それにも否で返ってきた。僅かに目がしょぼついていたので、きっと虐められたのだと思った。しかしセンテイはトバリの問いの全部に否定したのだった。何もされなかった、と。
今、家政婦は風呂場の掃除をしているし、センテイは温室で金継ぎをしている。
トバリは手記を放り出すと、地面に飛び降りた。小さなサンダルをつっかけて裏門へ近寄る。
二代目屋敷の裏門は所謂“数寄屋門”だ。例によって初代火影の建てたものなので精確な材質は不明だが、トバリは「紫檀に似ている」と思っていた。戸は何の細工もないまっさらな板戸で、屋根には黒い瓦が並んでいる。いずれも長い歳月で日に焼け、褪せているのだった。住居部と一緒だ。
トバリは秋の日でぬくまった木目に頬を寄せた。扉一枚隔てた向こうに、トバリの知らない世界がある。目を閉じると、浅い闇のなかに光の洪水がなだれ込む。外へ出た時にみたものの記憶だ。
もう日暮れだったのに、外の世界は赤に青に白に緑……とりどりの光にあふれていた。
勿論、夜になると商店街の電飾がつくことも、道端に電光看板が置かれることも知っていた。高所の光は生垣越しでも見えるし、喩え見えなくとも本には様々なことが書いてある。だから外へ行くまでもなく、外の世界がどんな風かなんて知っていたのだ──知っていたけれど、店の明かりや、道行く人を自分の目で見たら、何か言葉にしがたいものが湧いて動けなくなってしまった。
あの日トバリは、帰ってきたセンテイに「いじめられたのだろ」と聞いた。
否で返ってきたのが納得できなくて、二度三度聞いて、愚かにも「可哀想に」と口にした。
浅はかな自分が嫌になる。本当は、この扉の向こうへ行くことも、人里で生きていくことも出来ない自分を慰めるための“何か”が欲しいだけで、心からセンテイを哀れんだわけではなかった。
トバリは目を開けて、木目でさえない繊維を見つめる。唇が痛かった。無意識に口元に力が入ったのか、唇をキツく噛んでいるのに気づく。縁側へ戻ろう。手記を書庫へ戻して、次は何を読もうかな。全部読み飽きてしまった。新しい読み物が欲しいな。それも我侭な気がして、虚しい。
何もかもが虚しい。カンヌキの言いつけを破って、外へ出た自分が悪いのだ。手に入りようがないものを繰り返し思い浮かべて、未練がましく裏門まで来てみたり……本当に馬鹿馬鹿しい。
更に馬鹿馬鹿しいことに、物思いに耽るあまり扉一枚向こうに人がいるのにも気づかなかった。
「あのお、どなたか、いらっしゃいますかー?」
間延びした声を聞いて、トバリは咄嗟に一歩退いた。
……考えなしに飛び退ったため、必然的にジャリと土の擦れる音が鳴る。バカの上塗りだ。
「あー! オレ、シスイって言います!!」
門の向こうに人がいるのを悟ったのだろう。戸の向こうにいる人間が安堵の声を漏らす。
年の頃を察するに、トバリはますます逃げたくなった。突然の来客──シスイは、その声の高さから童子であろう。大人ならまだしも、自分と同年代の人間とは話した覚えもない。増して、カンヌキからは外部の人間と関わるな、外へ出るなと言いつけられているのに……このままでは、まずいことになる。いや、既になっているのか。咄嗟のことに、トバリは頭を抱え込んだ。
「さっき迷い猫を見つけて、トウ……友だちが、おたくの猫だって言うんですよお!」
トバリの困惑をよそに、シスイは声を張り上げる。空気を読めと思ったが、それは自らにも備わっていない機能だったため諦めることにした。何にせよ、シスイが“扉の向こうに居る”と思っている以上は居留守を使い続けるわけにもいくまい。センテイを呼びに行くべきであろうか。しかし温室で熱心に植木鉢の金継ぎをしている姿を思うと、詰まらぬ用で呼び出すのは気が咎めた。
それに、黙ってセンテイを呼びにいくわけにもいかない。普段、家政婦がヒルゼンやセンテイに来客を取り次ぐ時は、少々お待ち下さいとか、人を呼んでくるのでとか、何かしらの台詞を口にする。無言でこの場を離れては、シスイに「反応が遅い、変な家」と思われるのではあるまいか。
……と、まあ、トバリは思案した。様々に考えてみて「やはり幾らかはトバリ自身で相手をしなければならないだろう」という結論が出た。それなら大した用でもあるまいし、このまま、扉ごしに話を聞いて終わりにするのが良いのではなかろうか。ちょっと、常識の範疇で口を利く程度なら、カンヌキの言いつけを破ったことにもなるまい。トバリは意を決して、口を開こうとした。
待った。第一声を如何するか決めていない。何の話だったろうか。迷い猫、ねこ、
「あの~? 黒猫で、首に赤い──あ、おい! 痛いって!!」
シスイの弱り切った声に被せて、ミャアンと高い鳴き声が響いた。
ミャアン。トバリの膝に上がり込んで、読書を中断させようと企む時の鳴き声。
トバリが結んでやった首のリボンを誇らしげにひらめかして、縁側を闊歩する姿。池の際に佇んで、ぴしゃぴしゃと水面を叩いて遊んでいた。もっとと餌を欲しがって鳴くのを思い出す。
記憶に蓋をして、もう終わったことと諦めた。あの日、何故もっとと欲しがる猫に追加の餌を与えなかったのだろう。肥満なぞ気にせず、満足するまで餌を与えれば良かった。そうしたら、毒入りの餌を食べることはなかったのではないか。本当に寸分の苦しみもなく、裏切られたとか、何故こんな酷い仕打ちをするのか当惑する間もなく死んだのだろうか。もしほんの僅かでも苦しんだなら──何故、何故死んだ。トバリが疎ましいなら、トバリ自身に毒を盛れば良かったではないか。猫がうろついて不衛生だと思うなら、はっきり抗議すれば良かったのだ。もしくは自分がもっと良い環境に移るべく辞表を出せば良かったのではなかろうか。そう思い詰めるたび、それと同じだけ己の愚かさを突きつけられる。明日も明後日も次明後日、来年、二年、そして三年後……当たり前のように老いた姿を見れると信じて、一人で書庫へ降りていった。ミャアンと自分を呼ぶ“ねこ”に振り向こうとさえしなかった。その酷薄な別れが、生きている“ねこ”との最後だった。
あの日離れなければ、ずっと一緒にいたら、毒を盛る隙を与えなければ……そしたら、今も、もしかして、もしかしてあの死体はトバリの“ねこ”ではなかったかもしれない。
トバリは殆ど衝動的に戸を開けて、両の腕を差し出した。腹を空かせた“ねこ”が甘えた声で飛び込んでくるような気がしたからだ。しかし、誰も、何もトバリの腕のなかには帰ってこなかった。
戸の隙間から、きょとんとした表情の子どもが見える。その肩にしがみついている黒い子猫も。
子猫の首にある赤い首輪は既製品で、千手の家紋はなかった。それはトバリの知らない猫だった。猫は怯えた風に、憔悴しきった声を上げる。みゃああ。みい。シスイの保定は極めてメチャクチャだったが、それにも拘らず子猫の抵抗に屈する気配はなかった。それで癇癪を起こして、鳴いているのだ。知らない人間二人に挟まれて、子猫はすっかり興奮している。不憫だと思った。
“ねこ”の死骸は、ツツジの根元へ埋めた──それが一番慰められようと思って。
一体誰が慰められるのか分からない。祖父が選び、父の気に入りだったというツツジは晩春の庭のなかで一際華やかで、可憐で、枝ぶりが見事だったから毎日でも見ていられようと思った。誰が見る。センテイが気に掛けていたし、まさか単に捨てるわけにもいくまい。生ゴミや汚れもの、古びた衣類なんか一緒にされるぐらいなら、埋めよう。誰も掘り返せないよう、埋めてしまえ。
もう二度と、誰も、私の見ていないところで、あの命を不当に扱うことがありませんように。
「あ……ごめん」
トバリがボンヤリしているのを見て、シスイもまた、自分の連れてきた猫がトバリの“ねこ”でないことに気づいたらしかった。トバリは白む思考を立て直すために、ちょっと眉間を寄せる。顔の筋肉を動かすと、幾らか意識がしっかりしてきた。とりあえず、シスイに頭を振って見せる。
「自分ちの猫が迷ってんじゃないかって、驚かせちゃったよな」
「いや、大したことはない」
そう答える傍ら、トバリはシスイをまじまじと観察した。
年の頃は自分より少し上であろうか。顔だちといい、その口ぶりといい、如何にも利発そうに見える。やたらと弁が立つからか、口と腸が直結しているような印象も覚えた。弁が立つとは言っても、小賢しい感じは一切ない。本当に自分の思ったことをそのまま喋っているようで、屈託のなさが際立つ。あどけなく見えても四肢は年不相応に逞しく、如何にもアカデミー生といった風体だ。
よもや自分が値踏みされているなどと思いもよらないのか、シスイは俄かに小首を傾げた。
「おまえんちの猫も帰ってきてないのか? こいつの家わかったら、探すの手伝うけど……」
「もう、かえってこない」トバリは冷静に、平坦にシスイを一瞥した。「うちの猫はこないだ死んだ。あなたの手をわずらわせることはない……もう良いだろう、戸を閉めるから退いてくれ」
手を振って追い払おうとしたトバリに、シスイが変な顔をした。
折角の親切心を鬱陶しがられたのが不快だったのかもしれないけれど、そんなことは如何でも良かった。他人に見つかる前に、早くシスイを追い払って何事もなかったことにしたい。
「……それはさ、おまえ薄情す」
シスイがトバリの腕を掴んだ途端、子猫が“待ってました”とばかりにその胸元を蹴り上げた。「んおっ?! ど、ッあー!! もう、野良猫にボコボコにされたくせに元気だな!?」
あなたも大概元気が有り余ってらっしゃる、というのは野暮であろう。
シスイはトバリを押しのけるようにして庭に体を乗り出し、あ~と悲嘆にくれた声を上げる。
トバリはその隣で、猛スピードで庭の彼方へ走り去る点を見つめた。手荒な抱き方をするからいけないのだとか、猫の扱いも知らない癖によく捕まえる気になったものだとか、色々言ってやりたいことはあったが、嫌味を言って猫が戻ってくるわけでもない。トバリは眩暈を起こして、戸にもたれかかった。よもや「じゃ、これで!(バタン)」というわけにはいくまい。
「ごめん、猫捕まえたらすぐ出てくからさ」
シスイは案の定の台詞を吐いて、顔の前で手を合わせた。しかし本当に心から申し訳ないと思っているわけではなさそうだ。その証拠にもうシスイは体半分敷地内に踏みいっている。
これはシスイが人並み外れて常識はずれなわけではない。寧ろ、その逆だ。家主の許可をとって庭に入るのは然して“申し訳ないこと”ではない。ただただトバリ一人が“まずい”と思っているだけのこと。無論トバリが“まずい”と思うのは、この少年が庭に入ることではなく、カンヌキの言いつけを破った事実が明確になるからだ。扉越しに話すのは、まあ良い。うっかり扉を開けてしまったのも、まあ仕方ない。しかし庭へ引き入れたとなっては、それは完全にトバリの落ち度である。
トバリの心中なぞ知るよしもないシスイは、トバリの手を引っ張って「悪いけどさ、手伝ってくれな!」と一切申し訳ないと思ってなさげな笑みを浮かべる。最早、否も応も無意味であった。
いつもの庭が陽光に振り回されて、万華鏡のように輝いている。
何のことはない、トバリの目が回っているのだ。トバリはシスイのなすがまま、猫が逃げた方角へと猛スピードで引っ張られていた。手分けをして探すほうが効率がいいとか、そもそもチャクラを練って感知を行えばすぐ見つかるとか、そういう建設的な思考回路は疾うに失われていた。
同世代の人間と関わったことのないトバリには、如何したらシスイのペースから抜け出せるのか分からないのである。尤も「あー」も「うー」も言えずフリーズしているので、解が分かっていたところで何も変わらなかっただろう。ことはトバリの手に負えない段階になっていた。
最早シスイに身を委ねる他ないのだが、当のシスイは「あれ、どっち逃げたっけ?」などと言って笑っている。せめて傍目にはこの子どもと無関係であることが分かるよう無心でいよう。
「庭、すっげえキレー」
勢いのまま走って、丁度庭を横切り終わったあたりでシスイが足を止めて振り向いた。
この子どもにセンテイの仕事の確かさが分かるかは甚だ疑わしかったが、トバリは幾らか誇らしい気持ちになった。やはりこの庭は、外から来た者にとっても大した美しさなのだ。
シスイに対する心証が良くなったのもつかの間、シスイが「こっちか」と走り出した。シスイコースターの再開である。何故この子どもは初対面の人間にこうも馴れ馴れしく振る舞えるのか。
「あとで友だちに自慢しよ。トウヤってんだけど、親戚だし会ったことぐらいあるよな?」
よく舌を噛まないものだと、トバリはつくづく感心した。舌を噛んでしまえばいいのに。
「オレ、そいつと仲良くってさ。今日もアカデミーサボって二人で修行してたんだ。もう卒業条件満たしちゃったし、アカデミーの授業って低レベルでつまらないんだもん」屈託のない傲慢が、晴れ晴れとした声音に乗って耳朶を撫でる。「四月なんてまだ戦時下だったのに、誰も彼もボケてんだよな。まあ神無毘橋で優勢に転じてからずっと勝ち戦だったけど、オレもトウヤもカカシ上忍みたいになりたいって入学当初からずっと思ってたんだ。六歳で中忍は無理だったけど、カカシ上忍と同じ十二歳までには絶対上忍になりたい……ほんとこの庭広いな、猫どこ行った」
トバリの知っている中ではアスマがやはり、こんな風にベラベラと口数が多い。尤もトバリに反応を求めてこないだけ、シスイの話に付き合うほうが楽かもしれなかった。
「トウヤがさ、二代目のお屋敷は庭が凄い綺麗だけど、お嬢様が病弱で中に入れないって、」
そこまで口にしてから、不意にスピードを落とした。ぴたりと歩みを止める。一歩下がろうとしたトバリの腕を自分の側に引っ張って、旋毛からつま先までジロジロ不躾に睨め回す。
「……まさか病弱なのか? オレと走ってて息切れ一つしてないよな。てか女?」
面倒くさい。トバリは思った。めんどうくさい。めんどうくさい。何故こんなことになっているのだろう。ねこが死んだことなぞ分かっているはずなのに、何故戸を開けてしまったのだ。
この子どもの手を振り払って、書庫に閉じこもってしまいたい。勝手に一人で探して、出て行けと言えば良かったのに、何故為すがまま振り回されているのだろう。いっそセンテイか家政婦に見つかったほうが楽だろうに、そのどちらも互いの仕事に耽るあまり幼い闖入者に気付いていないらしかった。でももう、今更だ。トバリは勢いよくシスイの手を振り払って、横を向いた。
「日によってらくさがある。今日はさほどわるくない」
「そっか、そうだよな」シスイは何でもない風に再びトバリの手を取った。「オレ、男かと思った。チビだし陰気で、お嬢様って柄じゃないもんな。……とか言ったらトウヤが怒るか」
シスイは陽気に笑って、また歩き出した。母屋の際まで来て遮蔽物が多くなったからか、もう走ろうとはしなかった。「今は良いって言うけど、悪くなったらすぐに言えよ」
口ではそう気遣うものの、トバリの手は離さない。トバリはシスイの後頭部を睨みつけた。
シスイの手は体温が高くて、湿っていて、気持ちが悪い。センテイの手とは大違いだ。センテイの手は温くて、乾いていて、土の匂いがする。でも、傷がついて、所々皮膚が隆起してるのは似ている。忍者の手だ。トバリはこの手をよく知っている。それに、シスイが背負ってる家紋も。
奇妙な既視感を覚えて、トバリは記憶を漁った。けれど、何か嫌なことを思い出しそうだったのですぐに思索を打ち切ってしまった。古い忍一族の家紋なのだろうと思うだけに留めて、それから都合よく扉間の著作を思い出す。そうだ、千手扉間が目の敵にしていた“うちは”の家紋だ。
千手扉間は賢い人間だが、ことうちは一族について記す時は偏見が入り混じる。それが彼の人の魅力を大いに損ねているようで、残念に思ったのだろう。そういうことに、しておこう。
そこで終わっておかないと、もっと、嫌なことを思い出す気がした。
「どっか入っちまったのかなー」
シスイはトバリの手を引いたまま、当てもなく母屋のまわりを歩いている。
シスイの口数が減る一方、トバリには幾らかの余裕が産まれていた。シスイについて歩きながら、静かにチャクラを練る。まだ他人の気配を感じ取るだけで個々の区別が付かないなど、未熟な点が目立つとはいえ、流石に猫と人間の区別はつくだろう。薄く伸ばしたチャクラを地面に流す。
十メートルほど感知してみたところで、目的とするものの気配を感じ取った。
トバリは深くため息をつきたいのを堪えて、空いている手でシスイの服の裾を引っ張った。
「はなれの床下を見てみよう」トバリはさりげなさを装って提案する。「……よく猫が入り込む」
「そっか! そこから入れるよな? 行こう」
トバリはシスイ曰くの“そこ”を見てみた。よく見ると、勝手口の傍に床下換気口がある。
長年(といっても、たかが数年)暮らしていながら、そんなものがあることに気付かなかった。増して、それがどこに繋がっているかなど考えたこともない。トバリに分かるのは、その床下換気口は確かに子ども一人なら通れそうな大きさであること、そして今まさにナメクジがニュルリと出てきたことぐらいだ。トバリの両腕に凄まじい勢いで鳥肌が立つ。ぜったいに、とおりたくない。
フリーズしたトバリの手を離すと、シスイは勝手口に走り寄る。床下換気口を塞いでいた金属柵を手際よく外すと、輝かんばかりの笑顔でトバリに振り向いた。「ほら、入れる!」
センテイであれば「服がよごれちまいますで、オレんが行きます」と言うところだ。しかしセンテイの人生の十分の一も生きていない子どもに配慮を期待してはならない。床下は無論蜘蛛の巣まみれで決して衛生的な環境ではないが、行く気満々のシスイを「お前一人で探してこい」と送り出すことは出来まい。でも、そんな不衛生極まりない穴を通るのは絶対に避けたい。絶対イヤだ。
「ウッはい、はい」トバリは身振り手振り、シスイを思い直させるべく頭をフル回転させた。そこから入る必要はないのだから、絶対に分かってくれる。「そっ縁側、すぐ、そっち、かくじつ」
「ほら、猫がいなきゃまた引き返せば良いしさ」
シスイは苦笑と共にトバリを不浄の穴に押し込んだ。
・
・
・
「ダメだな、すっかりビビって……室内飼いだったんだろうな」
トバリはハッと我に返った。穴に突っ込まれてから、どこをどう通ったのか記憶がない。いや実際にはある程度覚えているのだが、巨大ナメクジを手で潰したことで一時的に自我が崩壊した。
体中蜘蛛の巣だらけ、膝は泥塗れ、手はナメクジ及びその他雑菌の温床と化している。トバリはもう猫もシスイも、カンヌキの言いつけさえも如何でもいい気持ちになっていた。水浴びをしたい。汚い。この服は捨てよう。トバリが不平不満を募らせる脇で、シスイは「ほら、来いって」「家に帰んないと困るだろー?」などと声を掛けている。無事に猫と接触出来たらしい。
猫はトバリが感知した通りの場所──かつて野良猫一家が暮らしていた窪みにすっぽりハマったまま、移動していなかった。だから、縁側から入ったほうが近かったのに……という恨み言が喉元までせり上がる。トバリは唇を噛んで、堪えた。もうちょっとの辛抱だと己に言い聞かせる。
シスイが猫を捕まえれば、それで全部終わり。シスイは帰り、トバリはセンテイたちに気付かれる前に風呂場へ行って、何事もなかったように振る舞う。それで全部丸く済む。ナメクジを押しつぶしたのも、台所の下が湿って泥まみれなのも、巣を壊された蜘蛛がどこへ行くかも、もうトバリの知ったことではない。早く、早く、トバリは殆ど祈るような気持ちでシスイを見つめた。
「ほら、こっち来い……ここで暮らすわけにも行かないだろ?」
一見してフワフワの毛玉にしか見えない猫が、健気にもシスイを威嚇している。
こいつに任しておいたら、一生ここから出られないだろう。トバリはため息をついて、四つん這いのままシスイの前に出た。相対する人間が変わろうと、猫の警戒は解けない。生き物というのは、そうでなければならなかった。人に慣れ過ぎた生き物は、人の庇護なしには生きていけない。
目を丸くしてこちらを見つめる猫に、トバリは目を眇めた。
毛並みも瞳の色も、トバリの“ねこ”によく似ている。でも、トバリの“ねこ”ではない。
この猫はトバリの膝で丸くなることがない。トバリの行動を先読みして賢しげな視線をくれることがない。トバリに柔らかな腹を見せることも、無防備な鳴き声をくれることがない。
……それでも共に在れば、いつか同じような振る舞いをすることも、その仕草に既視感を覚えることもあるだろう。今傍にあるもので喪失は埋まり、いつしか失ったことさえ忘れることが出来る。しかし、それがどれだけ残酷な独りよがりなのか、トバリにも分かるようになっていた。
どこかで自分の下を去った時のまま待っているのではないか。
結局は、その狂気に自ら応じるしかないのだ。後の千年も、その先の万年までも「あれは死んだのだ」と言い聞かす他ない。トバリの“ねこ”は死んだ。でも、この猫を待つ者がどこかにいる。
自分の手に入らなかった幸運を得る者がいるからといって、それを妬んではならない。
「おいで」
トバリは、猫に差し出した指を小刻みに振ってみせる。
猫はふうふう、荒い息を繰り返してトバリとの距離を計っていたものの、幾らも経たないうちに黙り込む。指を振るのを止めてジッと見つめていると、ややあってから毛が萎んだ。
猫がミャーと、心細げな声で鳴いた。逃げる様子がないので、舌を鳴らしながら距離を詰める。
「……おいで、ここはおまえのいえではない」するりと喉元を撫でて、頬骨をこすった。猫は前足を動かして、その場で芦踏みを始める。上手くいきそうだ。「いい子だ、こっちへ来るんだ」
猫はチラリとシスイに視線をくれてから、ソロソロとトバリの側へ寄ってきた。
やはり元が家猫なだけあって、丸きり人に慣れていないわけではない。時間をかけて射程内に招き寄せた猫を慎重に抱き上げる。トバリはその場で脱力した。……ようやっと人心地ついた。
「やっぱ飼ってただけあって、猫あしらいが上手いな」
事の発端であるはずのシスイが他人事っぽい声を出す。トバリはシスイを睨んだ。
「力づくで押さえていたあなたに比べれば誰だってマシというものだ」
「あ、やっぱ抱き方可笑しかったか。グニャグニャしてて持ち方が分かんないんだもん」
オレ、猫飼ったことないし。無責任な言葉をつけたして、シスイは明るい笑みを浮かべた。何故……ひとを、こんなに、泥まみれ、雑菌塗れにしておいて、何故こんなに屈託なく笑えるのだ。
トバリは疲弊しきって、腕のなかの猫に頬を寄せた。猫はトバリを労わるようにナーと声を上げる。その小さな頭を撫でて、赤い首輪のベルトを緩めて外す。案の定、ベルトの裏には飼い主の名前と所在が記してあった。どうせ、ベルトの裏はまだ見ていないと思ったのだ。
「この番地、アカデミーの近くだろう。ここから半刻もかからない」
「あ、ほんとだ」ベルトを受け取ったシスイが、草臥れた顔を見せる。「最初から表に書いといてくれたら良かったのに……ま、表だと汚れて読めなくなったりするのか。色々考えんだなあ」
シスイから手渡された首輪を再び猫の首につける。猫は単に疲れたのか、乱暴されないと思ったのか、トバリの膝上で大人しくしていた。その細い首に指を二本挟んで、調整する傍ら口を開く。
「外飼いなら、こうするのが一番賢い。それか縫ってしまうかだな……うちのは、」
首輪一つ買ってやらなかったなと、不意に思い至る。いなくなるということが如何いうことかも分からず、碌な対処を考えなかった。赤いリボンがこよなく似合う猫だった。
この猫がつけているような、金の飾りがついた赤い皮の首輪だって似合ったに違いない。
千手の家紋を書いておけば、怪我をしても誰かが届けてくれる。
どこへ行っても、帰ることが出来なくなっても、きっとここに戻ってきますようにと願った。
先のことを考えようともせず、明日も、明後日も、永遠に“昨日”と同じだと思っていた。いつか死ぬ生き物だと分かっていたはずなのに、自分が死なないから、自分は明日も明後日も同じだから、この腕のなかの命がそうでないことを忘れてしまった。これからも、トバリには分からない。
神樹に魅入られて正気を失った母親は勿論、母親を屠ることで神威を捨てた長兄たちにも、母親に従うことで産まれ直すことが出来ると信じる兄にも、誰にもトバリの気持ちは分からない。
この猫の飼い主は愛猫が天命を全うするまで、そして自分の悲しみを分かち合ってくれる者たちと生きていく。でもトバリは、この天にも地にも自分と同じ時間を生きる者は存在しない。
他人を妬めば、母親と同じ狂気に食われる。トバリを作ったカンヌキが罰せられる。センテイが愛した里が瓦解する。センテイが丹精した美しい庭が崩れ落ちる。正気を保たねばならない。
それでも……何故、あれを失いたくなかったなら、傍を離れなければ良かったのだ。
トバリは二三瞬きしてから、自分の“幸運”ではない猫の頭を撫でた。
「あなっ」シスイに猫を手渡そうと顔をあげた途端、何の前触れもなく左目に指を突っ込まれる。トバリは咄嗟に目元を手で庇おうとした。が、慌てて前腕を使う。「……なにを?」
低い声で問い質すと、シスイは彼らしくもない狼狽えた声を出した。「あの、」ちょっと考えてから、ズボンのポケットをまさぐる。取り出した懐紙の一二枚目で自分の手を拭ってから、その残りをトバリに付きだす。トバリは顰め面で、懐紙とシスイの顔を見比べた。
「ふまんがあるなら、手を出す前に口で言ってくれ」
「いや、それは本当にごめん!」シスイは居た堪れない様子で、眉間にしわを寄せる。「目潰しする気はなかったんだけど、急に顔を上げたから、目んとこゴミついてたの取ろうと思ったんだよ」
「こんなゴミだらけの場所に引きずり込んでおきながら、今更目元もクソもない」
「結局オレ一人じゃ捕まえらんなかったし、しょうがないだろ? 誰かが連れて帰らないと、」
ツラツラと言い訳めいたセリフを漏らしていたシスイが、不意に言いよどんだ。ちょっと考えた後に、トバリから目を逸らす。貰った懐紙全てを使って、目元、手のひら、指の股を拭い清める様が嫌味っぽいと思ったのだろうか。トバリはシスイを無視して手の甲を拭う。これからまた汚れるとしても、一時でも衛生的でありたい。猫はトバリの気持ちなど何処吹く風で、綺麗になった手に泥のスタンプを押してくれる。わあ、可愛い。肉球型で、泥に砂利が混じって立体的になってる。
トバリがしょっぱい顔でスタンプを見ていると、シスイが猫を抱きとった。
「さっき、薄情とか言って悪かったな」
トバリは怪訝な顔をした。
何故今になって出会い頭のやり取りを蒸し返されるのか、シスイの考えていることがよく分からなかった。シスイはトバリの膝の懐紙でもう一度自分の指を拭うと、その指でトバリの目尻をなぞった。落とし損ねた泥が付いていたのだろうか。シスイが触れたところを、自分でも撫でる。
「べつに、手伝おうともせずに追い返したんだ。あなたに比べれば、充分“はくじょう”だろう」
トバリはそう淡々と呟いてから、シスイの腕を取った。「背を腕で支えて、しりを手のひら全体で持て。また逃げられるぞ」シスイが頷いて、言われた通り抱き直す。猫はもう暴れなかった。
「……さ、出よう。猫はつかまえたし、飼い主は分かった。あとは一人でがんばってくれ」
シスイは無言で頷くと、来た時とは逆に縁側へ向かって進み出した。
「あのさ、オレんちの近所で猫生まれた家があって里親探してんだけど……見にこないか?」
蜘蛛の巣は相変わらずだが、土は乾いているし、ナメクジやカマドウマの気配はない。
どうせ床下に入れば手と膝が汚れるのは避けようがないのだ。トバリは「最初から縁側から入れば良かったんだ」と言う気も失せて──というより、気を抜けば詰まらない嫌味が漏れそうなのが嫌だった。シスイには、センテイやアスマ、ヒルゼンのような配慮は望めない。それ故に口数を増やさざるを得なかったわけだ。飽く迄シスイに自分の意思を伝える必要が生じたから喋っていただけで、トバリ自身の意思でシスイと喋っていたいわけではない。もう会話は不要だ。
「何ならオレが一匹連れてきてもいいし、家に篭りっきりだと詰まんないだろ」
「いい、どうせ死ぬ」
口にしてから、ハッと我に返る。シスイがあれこれ話しかけるので、つい応じてしまった。
「……せわをしていただけで、かっていたわけではない。半分のらだったんだ」
手を繋いでるわけでもないのに、もう終わりなのに、二度と会わない相手に振り回されている。
「のらねこが庭をうろつくのにたえられなかった家政婦が毒を盛って殺した」
自分でもシスイに口を利くことで苛立つ理由が分からないまま、感情任せに喋る。
「もうその家政婦はいないけれど、きっと同じことのくりかえしになる」
そうだ。シスイと来たら何も分かっていないくせに口を挟んで──抱き方さえ分からないなか、迷子の猫を保護するようなお節介、腹が立たないほうが可笑しい。トバリは一言だって猫が欲しいだなんて言わなかったのに、家から出たことがないなんて言わなかったのに、あんまり当たり前みたいに見透かすから、イライラする。シスイなど、どうせトバリよりずっと弱い、いつか死んでしまう生き物なのだ。そんな惰弱な生き物に目下扱いを受けるなんて、腹立たしいったらない。
「“そっこうせい”の毒で、さして苦しまなかった。そう言っていたから、」
白目を剥いた苦悶の表情。だらんと伸びた舌。吐しゃ物で汚れた毛並み。痛みに縮まった体。汚物にでも触れるかのように猫の死体を指先で摘まむ女。おぞましいものでも見るような視線。
全部に蓋をする。それは全部終わったことだ。今シスイに真実を告げても、何にもならない。
「そう言っていたから、そうなんだろう。おだやかで、わたしには眠っているようにみえた」
苦しまなかったんだ。センテイの言葉を心中に繰り返す。即効性の毒で、猫は苦しまなかった。穏やかで、まるで眠っているように見えた。苦しまなかった。ちっとも苦しまなかったんだ。
「……んだよ、それ」
いつの間にか隣に並んでいたシスイが、怒気のこもった呟きを漏らす。
トバリは俄かに居たたまれない気持ちになった。見ず知らずの迷い猫を家まで送り届けようとする正義漢が、トバリの話を聞いて腹を立てないはずがない。シスイの反感を買うのは仕方のないことで、十分想像出来たはずだ。それなのに、反感を買った事実に嫌な気持ちになる。
何故なのか、心のどこかでシスイの反感を買いたくないと思っていたらしい。分からない。
トバリはシスイの顔を見つめたまま、逡巡し始める。自分の考えていることが分からなかった。シスイはじきにこの庭を出ていく。そして二度と戻ってこない。トバリはカンヌキの許しを得た一握りの人間にしか会わないし、この庭の外へは行かない。だから、如何思われても良いはずだ。
シスイはぱっと視線を逸らすと、腕のなかの猫を宥めるように背を撫でた。
「オレ、おまえに怒ってるわけじゃなくて……なんか、さっきから、顔がピクリともしないで」
「わたしは生まれつきこういう顔なんだ」
「違う」
突然ひとの顔を侮辱しておいて何が違うんだ。
そう思ったけど、シスイが一生懸命なので皮肉を飲みこむ。
出会ってから未だ短いけれど、シスイは何をするにも一生懸命だ。トバリは思った。
お節介なところがあるものの、トバリが斯様にめんどうくさい生まれでなければ有難く感じるはずだ。自分が間違っていたと知るや不貞腐れるでもなく直す。闊達としていて、きっと頭も悪くない。言葉も達者だ。まだ十二歳じゃなかろうに、もうアカデミー卒業見込みが立っているのだから、忍者としても優秀なんだろう。行動力がある。汚れるのを厭わない。シスイは良い子だ。
言葉を探すシスイを見つめて、トバリは思う。きっと“トバリ”はこんな子どもだったのだろう。
「床下に宝箱でもあったかな」
──冷ややかな声に鳥肌が立った。
恐る恐る声の方角を確かめると、沓脱石の脇にしゃがみ込んだカンヌキが床下を覗き込んでいた。逆光で表情こそ読めないものの、声の調子から露骨に不機嫌であることが分かる。
やや遅れて、使い古された長靴がカンヌキの隣に並ぶ。
「坊ちゃん、」センテイがワナワナと唇を振るわせる様子が目に浮かんだ。「坊ちゃん、オレんが相手しますから、坊ちゃんは部屋にへえっててくだせえ……そんな大したことでもねえに」
「センテイ、下がってろ。あれが僕の言いつけを破った、充分大したことだ」
シスイは呆気にとられた様子で言い争う大人を見ていたが、幾らもしないうちにトバリに目をくれた。目は口程に物を言う。一体あれは何だと問う眼差しに、トバリは唇を噛んだ。
「父だ」喉がカラカラに乾いて、そう言うのが精いっぱいだった。「わたしに怒っている」
シスイは何を言うでもなくトバリの顔をマジマジ見つめていたが、それ以上何か聞いてくることはなかった。その代わりに猫を片方の腕に収めて、空いた手でトバリの手を取った。至近距離に顔を寄せて囁く。とりあえず出よう。トバリはもう永遠に床下にいたいような気持ちにもなっていたが、どの道反抗的な態度を取れば更にカンヌキの機嫌が損なわれる。諦観と共に静かに頷いた。
裏門を開けなければ良かったとか、すぐセンテイを呼んでいれば、床下に入る前に家政婦の助言を仰いでいれば、せめて床下にいるうちに敷地内の気配を探っていれば──色んなことを悔いたけど、さっきまで気持ち悪かったシスイの手に安心を見出す自分がいて、それに驚くあまり、ほんの少しだけ後悔を忘れた。アスマとも、センテイとも、ヒルゼンとも違う生き物は無遠慮で、新鮮で、一緒にいると考える間もなく口が動いて、色んなことを思いついて、少しだけ安心する。
庭でああだこうだ言い争っている二人の声を聞きながら、シスイに導かれるまま床下を出る。
下手に慣れあっていると余計カンヌキの怒りを買うのではと気づいたと同時、シスイがトバリの手を振り払った。幸いカンヌキはセンテイを追い払うのに夢中で、床下から出るまでの間ずっと手を繋いでいたのにも気づいた様子はない。気づいたら問答無用でトバリの胸倉を掴むだろう。
そもそも、何故、よりにもよって今日帰っているのだ。それに、カンヌキは我が子に会わないという話なのに、初対面を装ったほうが良いのか、子供相手に嘘を吐く必要はないと思っているのか、分からない。カンヌキが表向き我が子に会ったことがない体を取りたがるのだって、理由が分からないのだ。トバリにはカンヌキのやることなすこと一から十まで理解出来ない。
「本当にすみませんでした!!!!」
噤んだまま思案し始めるトバリと、少しずつ二人に近づくカンヌキ、それを邪魔するセンテイ──混沌とした現場に、シスイの声が響き渡った。今度はトバリたちが呆気にとられる番だった。
シスイは頭を下げたまま、有無を言わせぬ調子で言葉を続ける。
「猫が入りこんじゃったんで、お邪魔させてもらいました。おかげで見つかりました!」トバリたちに輪を掛けて混乱している猫を、カンヌキの前に掲げる。「ありがとうございます!!!」
フリーズしているカンヌキたちを無視して、シスイは再びトバリの手を取った。じっとりと汗ばんだ皮膚が、きつく絡みつく。何故こんなに強く握られるのか、よく、本当に分からない。
「で、オレ、どっから出ればいい?」
どっからも何も、斜め後方に裏門があって、そこから入ったのだから、そこから出れば良いのは自明の理だ。馬鹿正直にそう答えそうになったところで、シスイの手の力が増す。言外に「ちょっとは考えて物を言え」と咎められた気がして、慌てて考え直す。シスイの言動から推察するに「裏門まで一緒に来い」ということなのだろうが、でも、カンヌキを後回しにすることは出来ない。
トバリは目を白黒させながらもカンヌキの様子を伺おうと振り向き、絶句した。
カンヌキは僅かに目を細めて、楽し気にシスイを見つめていた。その口端はつり上がり、傍目にも彼が“笑っている”らしいことは明らかだ。センテイも目を剥いて、主人を凝視している。こわ。
「君は頭のいい子だね」
揶揄されたと思ったのか、シスイが眉根を寄せて口を尖らせる。
なんなんだ、これは──そう思案する間もなく、シスイに引っ張られて一歩退く。それと同時にカンヌキが一歩踏み出していた。シスイの小さな肩越しにカンヌキを見上げる形になって、トバリは小首を傾げる。シスイは、そんなにカンヌキと喋りたいのだろうか。そう不思議に思った途端にカンヌキが冷たい視線を寄越したので、何となく安心する。いつものカンヌキだ。
それでもシスイに笑みを浮かべる訳は分からないまま、カンヌキが見慣れた冷笑に切り替える。
「僕の友だちにもね、君のような頭の良い子がいたよ。頭が良くて、優しくて、いつも他人のことばかり。それに、僕は忍者としてはほとほと出来損ないだけれど、」カンヌキの背後にいるセンテイの顔が引きつる。「……その子には才能があった。僕は彼に、彼が望む全てを教えた」
トバリはセンテイに目をやった。カンヌキが何を言っているか分からない以上、そうするのが一番無難だと思ったからだ。しかしセンテイは沈痛な面持ちで俯くばかりで、トバリの視線に気づかないらしかった。トバリの不安が通じたのか、シスイの手がぎゅっとトバリの手を強く握る。
シスイの顔が見たいなと、トバリは思った。トバリには、人間同士のことは分からないことだらけで、他人の感情や知ってることを組み合わせなければ“自分が如何振る舞うべきか”判断できない。千手扉間については沢山の書物が残されていた。でも、カンヌキについては。
不意に、トバリはカンヌキのことを殆ど知らないことに思い当たる。千手扉間については幼少期の出来事から晩年の野望まで知っているのに、実子であるはずのカンヌキのことは何も知らない。あの膨大な記録のなかに、末子に纏わる記述が殆どない。それに何の違和感も覚えなかった。
一緒にいても、碌に口も利かない。何か本に残っているわけでもない。センテイが教えてくれるわけでもない──センテイでさえ知らないことが、あんまりにも多すぎる。親戚はカンヌキの愚痴を言うだけで、今どこで何をしているのか知る者がいない。ヒルゼンにしても同様だ。
以前、最近は“ダンゾウ”や“オロチマル”と一緒にいることが多いと聞いた覚えがある。よりにもよってカンヌキと付き合いの深い二人が一度も顔を見に来ないのだから、薄情なものだ。ヒルゼンがセンテイにぼやいていた。それに、センテイは苦笑していた。あん二人にゃあ随分困らされましたで、いっそトバリ様に会わないのが友達孝行かもしれませんわ。
センテイが暗に「トバリに会わせたくない」と言ったのは、後にも先にもあれっきりだった。
「坊ちゃん、子どもに話すこっじゃあねえ」
トバリより一足早く我に返ったセンテイが、カンヌキの肩に手を掛けて制止する。
「何が?」それに応じるカンヌキの声はどこまでも冷たい。「二代目火影が我が子の不出来を公言していたのは然したることじゃあない。何しろ、あの人はこの子のお祖父様がお気に入りだった」
シスイの肩がビクリと揺れる。俯きがちだった頭が真っ直ぐカンヌキを見上げたのが分かった。
「見てすぐ分かった。センテイだって分かるだろう。カガミの孫だ。
二代目火影が愛した俊英の血筋なんだから、早い内に大人にしてやったほうがいい。いや、もう、とっくに知ってるかな。結束力の強い一族のなかにあって、何故自分の家だけ」
「坊ちゃん!!!」
センテイが殆ど悲鳴に近い声を上げて、カンヌキの台詞を遮った。
カンヌキは如何にも気分を害したと言わんばかりの表情でセンテイに振り向く。「……分かってるさ。フガクだって僕の教え子だった。負い目のある彼らが露骨な村八分をするわけがない」
「だからと言って──こんな子どもに、こんな……坊ちゃん、嬲るようなことは止めてください」
今、シスイを帰らせればいいのだろうか。トバリは迷った。今なら、シスイ一人帰らせられる。じきに日も暮れるし、猫だって退屈して、また逃げ出すかもしれない。トバリはシスイの手を引いた。流石に至近距離にカンヌキがいる状況で耳打ちは出来ないが、シスイなら察するだろう。
シスイの手を、裏門のほうへ引っ張る。でもシスイは動かなかった。カンヌキを見上げている。
「はたけサクモ上忍は、立派な忍者で、オレの憧れの一人です」
センテイとカンヌキ、その二人共にギョッとした様子でシスイを凝視する。
シスイは覚悟を決めた声で言葉を続けた。
「オレが産まれてすぐに首つりしたのも知ってます。父さんが惜しい人を失くしたとずっと言っていたし、オレは一人息子なので、父さんも母さんも子ども扱いせず色んなことを教えてくれました。だから、なんで、そうなったのかも、幾らかは知ってます……機密事項はわかんないけど」
スラスラ出てくる口上は年不相応に落ち着いていて、トバリよりずっと大人びていた。
『六歳で中忍は無理だったけど、カカシ上忍と同じ十二歳までには絶対上忍になりたい』
先の言葉を思い返して、それが決して分不相応な理想でなかったことを理解する。この子どもは、トバリよりずっと短い時間しか生きていないけれど、そのなかでトバリよりずっと色んなことを学んで暮らしてきた子どもだ。そんな子どもがいるとは思いもよらず、言葉を失う。尤も、世の子ども全員がシスイ並に賢しいわけではないらしい。その証拠に、カンヌキも口を噤んでいる。
「オレは、はたけサクモ上忍は全部間違ってたとは思いません。一度の失敗で信用を失うほど生半可な仕事をしてきたわけでもなし……生きている限り、汚名を晴らすことは出来たはず」
「あの子のプライドは、生きることに耐え切れなかった」
カンヌキが語気を強めてシスイの言葉を阻んだ。ちょっと顔を歪めてから、表情を失くす。
「……今こうやって彼を庇う僕にしろ、彼に首を括らせた人間の一人だ。半人前の子どもにその絶望が分かるはずもない。増してや君のお祖父様は愚かな盲信から一族を売ったんだ」
「坊ちゃん、もう」見かねたセンテイが、シスイに掴みかからん勢いのカンヌキを羽交い絞めにする。「もう、もう……カガミは二代目が好きだったんです……カガミがいなけりゃあ、うちはは」
「……祖父ちゃんがいなかったら、うちはは?」
シスイの唇から幼い好奇心が漏れる。咄嗟にセンテイが口を押さえ、その隙にカンヌキがセンテイの拘束を払いのける。カンヌキは面白いものでも見たかのように、楽しそうに笑っていた。
「勘違いしないで欲しいのだけれど、僕は君のお祖父様のことだってとても好きだったんだよ。優しくて、明るくて、僕の兄と親しくってね。僕だって本当の兄のように思っていたんだ。
でも生きることへの執着が無さすぎた。サクモと同じだ。君のお祖父様はね、僕の父が仕出かした愚行の責任を取るよう強いられたんだよ。君のお父上が蔑ろにされてるみたいにね。
親しい仲間から、共に育った友から、教えを乞うた師から“生き恥を晒すな”と言われたんだ」
センテイは地面にしゃがみ込んで、頭を抱え込んでいる。センテイがカンヌキの暴走を止められないのはいつものことだ。だから、トバリは気にしない。カンヌキに何を言われても、何をされても、トバリは如何でも良い。でも、シスイは……トバリは、そっとシスイの前に出ようとした。
トバリは何をされても死なないけれど、シスイはそうではない。ここまで激情すると何があるか分からない。前に出て、一番マシな結果にしなくてはならない。そう思っているのに、上手く足が動かない。そうこうするうちに、またシスイがトバリの手を握る。ぐっと自分の後ろに引いた。
それに気づいてか、もしくは回顧に耽るあまり見落としたのか──カンヌキが微笑する。
「きっと、君もそうなるよ。もう、ここから先を生きるのはやめようってね」
シスイの手が緩んだ。それを握り返すのも躊躇われて、手が落ちるままに委ねる。
カンヌキは微笑みを崩すことなく、柔和に話しかける。
「さあ、その手を離して、ひとりで帰りなさい。
君が連れていこうとしているのは、少しばかり君の手に余るものだ」
命は大切にしなくてはね。そう低く囁いたカンヌキがトバリに手を伸ばす。咄嗟に身構えたものの、いつまで待っても続く衝撃はなかった。カンヌキはトバリの頭に手を乗せただけで、微動だにさせない。シスイに笑いかける傍ら、ようよう顔を上げたセンテイにも悪戯っぽく目を滑らせる。
「自分の責任を負うならまだしも、こんなものを背負って死んだら良い笑い種になるよ」
もう、誰も、何も言わなかった。トバリも、如何したら良いのか分からない。こんなことになるのなら裏門を開けなければ良かった。でも、開けてしまったものは仕方ない。ぎゅっと口を引き結んで、俯く。些細な好奇心からこんなことになるのだとは、想像もつかなかった。いや、そもそも好奇心を抱いたことが悪いのかもしれない。化け物の自分が外へ行ってみたいなどと。
「トバリ、見送っておやり」
……トバリはカンヌキを見上げて、コクリと頷いた。
トバリはシスイの手を取ることもなく、一歩裏門のほうへ足を踏み出した。
未だカンヌキの前で立ち尽くしているシスイを手招きして、誘導する。シスイはカンヌキに一瞥くれてから、無言でトバリに付いてきた。来た時とは逆に、遅々とした足取りで二人進む。
暫く歩いて、カンヌキから十分離れた途端にシスイが口火を切る。
「一緒に来るか?」
一瞬、何を言われたのか分からなくて振り向く。いっしょに? オウム返しで口に食むと、シスイが力強く頷いた。小走りでトバリとの距離を詰めて、横に並ぶ。トバリは目を瞬いた。
「オレ、おまえのことも、おまえの家の事情も何もわかってないけど……でも、ダメだろ」
シスイの声音は元通りの、闊達なものに戻っていた。さっきカンヌキと話していたのがウソのようだと僅かに思う。そう思ってから、この子どもの明るさは“そういうものなのだ”と察する。
「おじさんがおまえの頭に手を振りかざした時、体、竦んでた」
それが何だと、トバリは思った。痛覚がある以上、必ずそれに対する躊躇が生ずる。でも、それだけのことだ。増して今日は何もされなかった。そこに一体何の問題があると言うのか。トバリはシスイの目をじっと見つめた。その網膜に、彼の感情が記してあるのではないかと期待した。
さっきまで、シスイと一緒の時は考えるまでもなく口が動いた。それが嫌だった。でも、もう、トバリの唇はピクリとも動かない。これが自分の本来あるべき姿だとトバリは安堵した。
何も感じない。何も考えない。何も欲しない。それで、そうしていれば、悪いことは起きない。
「オレんち来いよ。そっからトウヤの親とかさ、親戚頼って、」
トバリとちぐはぐに、シスイはヒートアップしていく。
シスイの顔が、グッと泣きそうに歪められる。トバリは、それを漫然と眺めていた。
「オレは……何人背負っても、それで辛くても……絶対、自分のためだけに死んだりしない」
トバリは無表情のまま、シスイに手を翳した。虚を突かれた表情のシスイを置き去りに、その頭に触れる。癖のある黒い髪はまだ柔らかかった。トバリの指がたどたどしくシスイの髪を梳いて、頭を撫でる。シスイが年相応の幼い顔で、トバリを見下ろす。その物言いたげな目に頭を振った。
この子どもは、トバリとさして年が違わない。精々が七つかそこらのはずだ。
それなのに、色んなものを背負っているのが見える。自分に言い聞かせているのだと、トバリは思った。この子どもは、これから色んなものを背負って生きる子どもだ。些細な過ちから中傷の的にあることもあろう。責められることもあるだろう。その時に、トバリには如何することもできない。トバリは他人に何を言われても傷つかないし、責め詰られても何とも感じない。
そういう生き物が、この子どもと一緒にいてはならないと思う。
シスイの拘束が緩んだ隙に、それまで大人しくしていた猫がトバリの腕に飛び乗る。
トバリはシスイから手を離して、猫を抱きなおした。トバリが失ったものによく似ている猫は、あの子と同じように柔らかくて、温かかった。最後に一度両腕で抱きしめて、シスイに手渡す。
いつの間にか終わりだった。シスイは猫を抱きとっても、その場から動かなかった。すぐ横に裏門があるのに、帰ろうとしない。すっかり慣れた手つきで猫をあやしながら、トバリを見ている。
「思えば……出会いがしらから、あなたにはすまないことをした」トバリは真っ直ぐ、シスイの目を見つめた。「今日のことはだれにも言わないでほしい。そして、もう二度とここへは来るな」
シスイは静かだった。反論するでも、茶化すでもなく、真っ直ぐトバリを見つめている。
もう“あの時、裏門を開けなければ良かった”とは思っていない。
シスイはアスマとも、センテイとも、ヒルゼンとも違う生き物で、無遠慮で、新鮮で、一緒にいると考える間もなく口が動いて、色んなことを思いついて、少しだけ安心する。
トバリは、あの子猫に一切の苦しみを知って欲しくなかった。
あの短い命の、ほんの僅かでさえ痛みや苦しみと無縁であってほしいと願った。
死を免れることがない命だからこそ、一分一秒でも長く、安らかでいてほしいと望んだ。
……ここに、未だ起きていないことで、自分の意思で変えられる未来がある。
「わたしは、あなたとは行かない」
トバリの返事を聞いたシスイは二三頷くと、黙ったまま裏門へと歩き出した。
その腕に抱かれた猫が、名残り惜し気にミャアーンと鳴く。トバリは心中で別れを告げた。
トバリにはあの猫が自分の猫と違うことが分かっている。生きるということは、そういうものだ。もう二度と戻ってこないものの存在を認め、どれほど近しいものがあろうと同一でないことを識って、それでも飽かず探し続けてこそ“生”なのだろう。気が遠くなるような時間を……。
不意に頭痛がして、トバリは額を押さえた。シスイの背に縫い付けられた家紋に意識が向く。赤と白に彩られた団扇型の家紋。うちは一族の紋だ。それだけの、関係ないものなのに、視界が緋に染まる。トバリは戸に寄り掛かって、気持ちを静めようとした。おもいだしたくない。しわにまみれ、枯れ木のように痩せ細った腕が伸ばされる。赤い双眼がじっとこちらを見つめている。
霞んで焦点の合わない瞳は疾うに“今”を盲いて、“先”しか映さない。ひとも、屋敷も、刀も、何も見えない孤独のなかで、わたしの手だけ握っていた。わたしだけが見えると言っていた。
十年百年千年……気が遠くなるような未来にトバリが呪われることを祈った男。
友も父も、弟さえ要らぬと拒絶して、いつも敵だけを探す男だった。シスイの背が遠ざかっていく。彼の赴くところ全てで戦火は滾り、美しい春も、鮮やかな夏も、静かな冬も……全てを緋に染めて往く子ども。偶さか、暮れゆく秋だけは穏やかだった。背の紋に見覚えがある。あれのものだ。紅葉を背負った子どもは冷たい指に筆を握らせ、死んだ体に書をしたためさせる。寂しい目をした子だった。何度も、何かを祈っていた。あの祈りは成就したのだろうか。
『……おまえに呪いをかけたかった。気が遠くなるような果てで、彼方でこそ結ばれるものを』
永久に叶わぬ呪いを願い続ける悲しい佳人。その名をインドラと言う、トバリの甥だ。
甥と言っても色々あるが、記憶が確かであれば長兄の子だったはずだ。
同じ時代に在ったにも拘わらず、トバリは長兄との面識がない。肉親だと思ったこともないので、インドラにしろトバリを“叔母”として意識することはなかっただろう──そも当時のトバリは人間ではなかったのだが。何にせよ“甥”と思うのは今のトバリだけで、過去にはそのような意識はなかった。そうでなければ、和合の真似事に付き合わされることもなかったに違いない。
どういう経緯で知り合ったかまでは覚えていないものの、どうせ兄の悪巧みが発端なのに決まっている。定型を持たない故に自在に姿を変えられる妹と、定型を持つ故に異形から逃れられない兄。どちらが人間の懐に入りやすいかは一目瞭然だ。四六時中変化の術を維持するだけの技量もなく、兄は死体をつぎはぎして“妹の体”を作った。成長することはなく、腐敗を免れただけの動く死体。悍ましいことに“それ”で動くのだから、トバリの思考中枢は頭部にないのかもしれない。
その、到底“ひと”とは言い難い化け物に、インドラは言葉を教えた。
文字を教え、彼自身の意志で捨てたはずの家族の情を求めた。やがて利便性を見出したのか、性欲処理にまで付き合わされた覚えがある。インドラは死体の硬い頬に触れて、血の気のない唇に自身のそれを重ねる。動かすのがやっとの指に自身の男性の部分を触れさせ、低い声で何事か話しかける。指が折れ、足が外れるのもお構いなしの行為に、厭わしいような、不愉快な感覚を抱いたのを覚えている。それだけだった。当時のトバリにはインドラが執拗に問うほどの好きも嫌いもなく、理解出来ない行為を強いられる疎ましさだけがあった。四肢がほつれたら、二度と動けなくなる気がして、億劫なような、厭わしいような、何とも言えない不快感。それを伝えることもままならないもどかしさ。知識が蓄積されればされるほどに、知性の無さが過去のトバリを苦しめた。
あれが所謂“性行為”と悟ったのも、たった今だ。扉間が細君との夜の記憶を残してなければ未だに分からなかったに違いない。確かに時の奔流が記憶を薄れさせた面もあるものの、そもトバリの知性は宿主の肉体に依存する。何の感情も絡んでいない、単なる記録は思い返しづらいのだろう。
今になって行為のなかに意味を見いだしても、当時は目に映るままにしか受け取れなかった。
死体の手を掴んで離せない子どもが、トバリではないトバリに囁きかける。
お前だけは分かってくれ……この怒り、果てのない残虐、焦燥、苦しみが何だったのか。
息も絶え絶えに──それでも瞳の赫は褪せることなく、彼に千年万年彼方の孤独を伝えて止まない。その異能の瞳が産む未来視の故に自らが欲した全てを失った。それを、トバリではないトバリは何ともいえない空っぽな感覚で見守っていた。寂しいとも、悲しいとも思っていたし、この男から解放されるという喜びもあった。自分は、目の前の男が視るだけで苦しむ“先”へ往くことが出来る。繁殖という明確な目的を有するが故に判断を誤ることもない。わたしは、これとは違う。
どことなく浮ついた死体人形に、インドラは言葉を続ける。死の際で肉体から剥がれかかった魂が千年万年越して、数億光年の先までも視たのだろう。この世の理から外れた神威へ予言する。
千年後の未来におまえは肉の体を得る。人智を超えた己に関係がないと見下していた痛み、怒り、苦しみ、渇望も、お前らが俺の瞳力を育むために利用したものの全てがお前を蝕むだろう。
『その時にこそ、おまえは俺の呪いを解する』
それが彼の終わりだった。
自分と同じ骸と化した老爺を見下ろして、トバリではないトバリは思った。
星の寿命を丸ごと費やして呪うほど憎いなら、いつまでも傍に置くことはなかったのに。
あなたの瞳に宿った異能はあなたの欲したものを根こそぎ奪っていったが、異能によって生かされる身の空虚を知ろうともせず良い気なものだ。千年万年、億年超えて光年までも……それがどれ程永いかも知らぬ身で安易に神威を呪ってくれるなよ。トバリは、本当に千年経ってしまった。
インドラの呪いは成ったのだろうか。約束の千年を超えて、彼を思い出したことこそ成就の証なのかもしれない。痛み、怒り、苦しみ、渇望……インドラの瞳力を育むために利用したもの。
人を人と思う脳もなく、兄の言いなりになっていた罰が下ったとでも言いたいのか。
それが、あなたが人の身で識った絶望を未来永劫味わい続けることだと言うなら、最初から、いや──どうせ、インドラが視ようと視なかろうと、肉体を得ることに代わりはないのだ。
ただ千年前にトバリを呪った男がいただけのこと。
そして今も、トバリを呪う男は存在する。
この二人の存在をして「大したことではない」と結論付けるべきなのか、何か違う解があるのか。この疑問を解いた果てに、何か救いはあるのかと考える。この苦しみは終わるのか、と。
「行ってくだせえ」
緩慢な仕草で振り向くと、裏門から少し離れた場所にセンテイが立っていた。
「あとは全部オレんが何とかします、だから、もう……あなたの心が望むままにして下さい」
頭痛は失せて、視界も思考も明瞭そのもの。ほんの僅かばかり四肢の繋ぎ目が気になったが、肉の体は脈絡もなく腐り落ちたりしない。トバリは目を眇めて、センテイを見つめる。
外へ出たいと思う。一人は寂しいと思う。自由がなくて退屈だと思う。自分のことを分かってほしいと思う。その何れも……他人が心から願ったものの、何一つ与えることはなかった。
トバリは母を見限り、兄を裏切り、インドラを理解せず、“トバリ”を殺し、カンヌキを狂わせた。そんな自分に、この老爺は“欲しても良い”と言う。望んでしまうものは仕方がない、と。
それ故に、自分に僅かばかりの善性があるなら、この老爺だけは決して苦しめてはならない。
トバリは後ろ手に門扉を閉めた。
センテイが今にも泣きだしそうな顔をするので、気を逸らすために口を開く。
「さあ、カンヌキのところへもどろう。この“ぐこう”のもうしひらきをしなくてはな」
何でもない風に振る舞って、何も思い出しはしなかったと言い聞かせて、どうせ呪われているのだと開き直って、センテイの下へ近寄る。その潤んだ目元を拭って、しわだらけの手を取る。
じき、トバリはこの屋敷を出ていく。センテイとの約束を違えることになるけれど、戦争も終わって、これからはカンヌキも屋敷に帰ってこないでは居られない。何かと敵を作りがちなセンテイは、暇を持て余した親戚にとって都合のいい玩具だ。センテイ一人で凌いでいた嘘も、カンヌキが間に入れば滅茶苦茶になってしまう。ボロが出る前にこの家の“一人娘”は消えたほうが良い。
この庭は美しいし、センテイにトバリの名で呼ばれるのも好きだった。
ここに自分の居場所があるかもしれないと思った。ここに自分の居場所が欲しい、とも。
でも、結局のところ、ここはトバリの居場所ではなかった。
思えば、トバリの願いは“外へ出たい”わけではなかったのだろう。
トバリはただカンヌキの二人目の娘に成って、ここへ帰ってきたかったのだ。
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カンヌキの折檻はさほど酷くなかった。兄の精神支配が随分緩んでいるらしかった。
いつもどおりの怪我。いつもどおりの痛み。体を気遣うセンテイが、あたりの血痕を始末しながら「今日はまだてえしたことにならねえで、ホッとしました」と漏らす。きっとシスイのおかげだと思っているに違いない。実際、その通りだった。何故なのか、カンヌキはシスイを気に入ったらしかった。多分“はたけサクモ”に似ているからだ。自分の失ったものに似ているから、少しだけ優しい気持ちになったのだろう。シスイがいなければ、もっと手酷く扱われたかもしれない。
トバリ様、どのような形であれ……お嬢様を戻すことは出来ねえでしょうか。おれぁ、坊ちゃんは何か、区切りが欲しいんだと思う。だから、今すぐは無理でも……。センテイが低く呻く。トバリはそれを、なんだか、遠くの見知らぬひとの言葉のように感じていた。汐のように全身の感覚が失せては、僅かな間をおいて打ち寄せる塩水に浸される。その繰り返しに意識が遠のく。
おじょうさま……“トバリ”を蘇らせろと言っても、それは無理な話だ。トバリは母や兄と違って、この身に宿る神威を行使することは出来ない。飽く迄“神威そのもの”なのだから、ハサミに向かって「紐を切れ」と言うのと同じ。増して、トバリは呪言に縛られている面もある。インドラの未来視から免れて、その更に先……彼が視ることの出来なかった時を迎えるまで“カグヤの系譜”という、所謂“神格”を得ることは出来ない。トバリはその性質が既に“隷属”であり、それと同時にその言動が人間から逸脱しすぎることがないよう縛られている。要するに、何もかも識っているだけで何も出来ない存在なのだ。ただ使われるだけで、トバリには自らの神威を使うことは出来ない。
そんなら、人間でも……使い方さえ分かれば?
どこまで話したか、切れ切れにしか話していないのか──何にせよ、安易に話して良いことではなかった。今日は然程殴られなかったのに、何故頭がボウッとするのだろう。色んな事があって、色んなことを思い出したからだな。もう、もう……センテイ、もう、この話はやめだ。
結局のところ命というのは、定数だ。この地にはこの地の理があり、生きる者は皆それに縛られている。そうでなければ生きていくことが出来ない。私と兄はそうではないんだ。上の兄たちは人としての側面が強かった。母がまだ人だった頃に産んだからだ。彼らは母の胎で十月十日過ごし、産道を通ってこの世界にやってきた。でも私たちは違う。私たちが母のなかで二月も過ごさないうちに、兄たちが彼女を殺した。私たちは産まれそこなった。それを、人の形で固定した男がいる。
本来なら──ほんとうは、母さまだって出来ないんだ。偶さかの偶然で、兄は運が良かった。いや、もしくは……こうなることも見越して……センテイ、今日が新月でもこれで終わりだ。
あの人たちが何を考えているか、何が出来るのか、私にだって分からない。ただ、大きな流れをそっくり変えることは出来ないはずだ。だから、一を入れるなら一を外さなければならない。
「……私を受肉させるために、あれの魂は輪廻から消え去ったんだ」
襖の向こうで、床板が軋む音がした。
花骸のこどもたち