私は今五歳。パパはいなくて、ママと二人で暮らしている。

 家は小さいし、桟と硝子の隙間から滲む雲がランプの明かりを朧にするけれど、私は気にしない。ママの長い金の髪は陽光を束ねて伸ばしたようにまばゆくて、青い目は晴天のそれよりも澄み切っている。湿ったマットレスの上でも、ママさえいれば芝生に寝転んでいるようだ。ううん、芝生よりもずっと良い。外はじめっとしているし、本物の芝生に寝転んでいれば嫌な子達が私をからかいに来るから、家にいた方が良い。でもママは私を何とか外へ連れ出そうとする。いい加減にして頂戴と、ママがため息を吐く。
 もう少ししたら学校に通うことになるのよ。きちんとした大人になって頂戴とママは言う。きちんとしてないパパと別れた、きちんとしているママは、私がきちんとしてない血を受け継いでるって煙草をふかす。そう言う時のママの顔はとっても怖い。煙草が苦いのだろうと私は思う。煙草は苦い。女神様みたいに綺麗なママがそんな顔をするんだから、ピーマンよりずっと苦いんだろう。

 駄目、もう駄目。ママは弱音を零しながら煙草をふかす。
 煙草に添えていない手で頭を抱え込んで、テーブルに秘密を打ち明ける。なんで、こんな、うんじゃったんだろう。肩を震わせて泣くぐらいなら、煙草なんて止めてしまえば良いのに。ママは私の台詞に顔をあげてから、すぐに俯く。ああ、ああと、嗄れた声で喘いだ。
 そのままずるずるとテーブルに吸い込まれていくかと思ったけれど、ママはすっくと立ち上がると洗面室へ歩いていった。パリーンと何か割れる音がする。パリン。カン。高い音がぶつかる音。私は明日から何を見て、歯を磨いたり、髪を梳けば良いのか分からなくなる。でも、ママが鏡を割りたいなら、世界中の鏡がなくなったって良い。鏡が割れる音は刃物みたいに鋭い。私はママの手が心配になる。
 ママは鏡が嫌いだ。煙草で散々苦しめられたママは如何したって鏡を割らないではいられない。

 鏡と煙草が如何いう関係にあるのか私は知りたがるけど、ママは首を振るばかりで答えてくれない。
 馬鹿げたこと言ってる暇があるなら外で遊んできなさいと、ママが言う。でも本は駄目。あんたみたいなチビに、勉強なんて必要ない。ええ、神懸けて、勉強なんてしなくて良い。そこらの子供みたく、毬みたいに跳ねておいで。私は毬じゃないし、外になんて行きたくない。でもいつまでもグズグズしてれば、ママが私の頬で鞠をつく。ママの腕は花の茎のように華奢だけど、頬を打たれればピシャリと痛い。覚悟を決めた私は殆ど外れかかっているノブを何とか捻ってから、ギイギイ五月蝿い扉を潜る。
 嫌な子達のこない場所でママの納得行くまで跳ねなければ、という使命に駆られる私の背へ、ママが叫ぶ。水遊びも駄目よ。本も、水遊びも、硝子も駄目。大人の考えることは分からない。私は返事を喉で燻ぶらせながら外へ出た。

 外に出ると、街行く人が私を見ているのが分かる。髪がボサボサだからだろう。
 それ以外の理由もあるかもしれないけど、鼻がどこについてるのかさえ分からないぐらいだから、何を如何笑われているのかなんて考えるだけ無駄だ。私は落としてもいない落し物を探して歩き続ける。少なくとも、子供が毬みたいに跳ねるのに十分な時間は歩き続けなきゃいけない。そうしている間ずっと、世界中の人が沈んでいる私と跳ねてる髪をみてクスクス笑うのを聞いていなきゃならないけど、別に、それは良い。世界はクスクスやってるだけで、私の足を引っ掛けて転ばせたりしない。でも世界より少し近場で生きてる子達はそうじゃない。
 毬みたいに跳ねているそこらの子供達は、ママと一緒で、私をボール扱いするのに忙しい。

 彼らは私を車道に向かって突き飛ばしたり、背中を叩いたりしては、一体全体如何したことだと肩を竦めて顔を見合わせる。このチビは泣く素振りすら見せないと、何が可笑しいのかにやにや笑いあう。突き飛ばされた私は、転んだ拍子に膝をすりむいてしまうけど、そういう時、私は如何するべきなのかわからない。“泣く素振りすら見せない”というのは如何いうことだろう。
 勿論、泣くということが目から滴が零れる現象を指すものだとは知っている。でも膝をすりむいて泣くというのが、如何いう因果関係の下に成り立っているのかが分からなかった。世界中の人に笑われたり、そこらで馬鹿にされたり、足をくじいたり、溝に落ちたりしても私の胸は動かない。すうすうと、ミントガムを噛んだ後みたいに涼しい。代わりに頭のほうがヤカンみたいに熱くなって、常識という奴を超越した現象が起こる。その時爆発したのはゴミ箱だった。鋭いプラスチックの破片が私をからかってたそこらの連中の目に入る。
 潰れたような悲鳴を聞いて、私の頭もミントガムを噛む。スースーして気持ちが良い。
 目を押さえてのたうちまわる子を見て、私の口端が歪んだ。クスクス声が漏れる。そうやって笑っていると、頭がカッと熱くなる。なんてことを! と、ママが叫んでいるのに気付いた。私を取り囲んでる世界中の人々の輪からママが這い出して来て、私の頬を叩く。なんてことを……ともう一度呻いてから、ママは世界中に頭を下げてまわる。申し訳ございません。申し訳ございません。
 世界中に謝るママと、世界中から放置される私。誰も私を見ない。あ、いや、見てる。見てるけど、目が合いそうになるとさっと逸らされてしまう。首の長いおばさん達が頬に手を当てて言葉を濁す。いえねえ、別に単なる事故だから……。何か腐ってたのかもしれないわね。サイレンと一緒に世界も遠ざかって行く。それでも謝り足りないママは電柱に向かって頭を下げる。錯乱したゴミに向けて頭を下げる。何があったのかと首を傾げるおじさんが、バナナの皮を踏んづけて転んだ。ああ、ごめんなさい。ママは謝る人が増えて嬉しそうだ。
 どんなに謝りたくても、大人達は忙しい。やがてママは道路や、地面に貼りつくガムや、通りを行く野良犬に謝るようになる。一頻り謝ってから、ママは自分が何故謝っているのか思い出した。ママは私に謝らない。代わりに私の前に膝をついて、ハラハラと泣き続ける。
 ママは硝子を割るのや、煙草を吸うのに疲れたとハラハラ泣いて、私を聖パトリック救児院へ連れて行く。

 駄目、もう駄目なの。ママは私のことをテーブルか何かだと勘違いしながら、両手で頭を抱え込んだ。結局あなたもきちんとしてなかった。きちんとしてない血が一滴でもはいると、もうやり直せない。ママが私にパパを被せているのが分かる。ママ、待って。くるりと踵を返して遠ざかる背を呼ぶ。もうスッとしたりしない。そこらのものを爆発させたりしない。ママは地面に崩れ落ちると、駄々っ子のように頭を振った。失敗した。失敗した。失敗した。呪文みたいに繰り返すママを、シスターが外まで引っ張っていく。後から駆けつけてきた若いシスターが私を抱きすくめて、堪えきれない嗚咽を漏らす。ママは少し疲れてしまっただけ、すぐにお迎えに来るって言ってらした。
 すぐ? すぐってどのぐらいだろう。一時間、一晩、それとも一週間。その言葉を口にする大人の価値観によって、時間はガムみたいに伸縮していく。この時私が聞いた“すぐ”の期間は永遠だった。すぐお迎えに来るからね。
 永遠が過ぎたら、お迎えに来るからね。

 それを悟ったのは夜、寝る前に歯磨きをしにいってからだ。久しぶりにみる自分の顔は、屍蝋のように頑なだった。ママと同じ金の髪に縁どられ、白い顔が鏡に映る。両目は夜よりもずっと深い黒。ママが割ることを諦めた鏡の前で、私はきちんとしてないんだと理解する。この瞳が見えなくなる頃までお迎えは来ないだろう。私の顔の真ん中に、きちんとしていない二滴が存在している限りママは来ない。
 きちんとしてないなら、もうやり直しは利かない。私は独りぼっちになった。

 きちんとしていないんだと諦めれば、生活はずっと楽になった。鏡を見ない生活ともおさらばだ。
 孤児院は味のなくなったガムみたいに退屈なところだけれど、机の裏に貼りつけられたガムよりはずっと清潔だった。金の髪を梳かして、栄養をつけて、清潔な服を着ていると世界中から笑われなくて済む。それどころか微笑さえ浮かべてもらえることがあった。女神様のように美しかったママの子供だから、ひょっとすると私も女王様ぐらいにはなれるかもしれない。
 でも、私がそこらの子供達を牛耳るのに使ったのはママ譲りの容貌ではなかった。

 ママがいなくなってから、私は自由にミントガムを噛むようになった。
 今では手を使わずに物を動かすことも、爆発させることも容易に出来る。私の頬を引っぱたいてから世界中に謝るママがいないから、私は好き放題この力を使った。意地悪な年上の女の子をとっちめたり、その子に味方したがる子のぬいぐるみを破裂させたり、力を使うたびに頭がスッとして気持ちいい。今では大人達も私が変な子だって知ってるけど、如何しようもない。
 失明させた時と同じだ。単なる事故だから、考え過ぎよと大人は言う。そう思いたいなら、勝手にどうぞ、だ。
 その内私は大人を味方につけることを学んだ。大人達は“ここ”の統治をスムーズに行えさえすれば良い。力をセーブして、大人達にとっての厄介を起こさないようにすれば咎められることはなかった。学校でも孤児院でも私に逆らう子はいない。大人達に報告しても誰一人真剣に取り合ってはくれないし、例えそうだったとしても陰口は頂けない。私はノートに表を作って、クラスメイトや孤児院の子達を管理することにした。私に逆らったらマイナス五点、挨拶をしなかったらマイナス一点、大人に告げ口したら一気にマイナス二十点。二十点に達したら、その子の大事なものを壊すことに決めている。まわりにいる子供達はみんなバカで、間抜けで、何を考えているのか筒抜けだった。
 どういう風に彼らを締め付ければいいのかなんて、考える必要もなかった。

 お願いよ、ママの形見なのと、アリス。ブルーの瞳に涙を湛えて、肩を震わせながら私に縋る。貴女にあげるから、壊さないで。
 アリスの懇願へ私は眉を顰め、数拍置いてから微笑む。少しだけ顔を明るくしたアリスの前で、私は手の中の懐中時計を砂に変えてやった。あどけない指の股からサラサラと零れる砂を、アリスが必死に集める。ああ、ああ、あんなにお願いしたのに! と、アリスが怒りと悲しみに喘ぐ。あんなにお願いしたのに! 私は指をくるっと動かして、砂を吹き飛ばすための風を呼んだ。金の髪と砂とアリスの怒りが棚引いて、やがて静まる。ぜえぜえ胸を押さえるアリスへ、私は言い放つのだ。

 所有したところで、私に何の得があるの。貴女の時計を持てば、私が貴女のママの娘になれるわけ? そうじゃないなら要らない。私が要らないということは、世界も貴女の時計を必要としていない。だから消したの。そもそも切っ掛けは私の怒りを買った貴女の愚かさ。

 私の台詞にアリスが泣き喚き、陰から見ていた女の子たちは伺うような目で私を見つめる。私はくんと顎を上げて、アリスへの無関心を示す。恐る恐る出てきた女の子たちが当たり障りのない言葉でアリスを慰める。ねえアリス、無くなったものはしょうがないじゃない。さっきまで有ったわ! 有ったのよ!! しっ。びくりと肩を竦めて、私に媚びる女の子たち。馬鹿馬鹿しい。私は肩で風を切りながら自分の部屋へ戻る。もう少しでプライマリースクールを卒業するからと与えられた一人部屋。私という化け物の隔離部屋。私のための檻。
 檻のなかにはベッドと最低限の衣服と文具しかない。その限りなく病室に近い白の内へ、黒い影が佇んでいた。

 ノブに手を掛けたまま黒い男を凝視していれば、男の影から出てきたシスターがわざとらしい笑顔で私に話しかける。貴女にお話があるんですって、二人きりが良いと言うから、私は行くわね。大人の頭には、後ろ髪がない。私の返事も待たずにそそくさと出て行ったシスターの背をとっくり見つめてから、私は目の前の男へ如何振舞ったものか困惑していた。何故なら男が窓辺に寄りかかっていて、窓が開いていて、その窓は今もアリスがしくしく泣いている裏庭に面しているから、私は沈黙する。男は瞳を細めると、首だけで傍らを振り向いた。
 貴様のような奴と関わり合いになるのは五千ガリオンと引き換えにしてでも断りたいものだと、男は酷薄な笑みを浮かべる。それじゃ、貴方は五千ガリオンとやらより重いもののために私を訪ねているわけですね。
 驕るな、例えだ。男はフーと、ため息と共に両肩を落としてから、言葉を続けた。いつも、ああやって杖なしで魔法を使うのか。

 魔法? 私の力をきちんと認識する大人などこの世に存在するはずはないと思っていたが、何度瞬きしても男は消えない。
 さっきのが貴方の言うところでいう魔法なら、いつもああやってます。少し頬が上気しているのが分かる。風も呼べるし、火もつけられる。爆発させることも、粉々に砕くことも、何だって出来る。抑えきれない興奮と共に続けられる言葉を遮って、男が手を振る。酷く詰まらなそうな顔で、何かを治すことは出来ないのかねと問うた。さっきから聞いていれば、貴様の能力は壊すことに特化している様子だ。お前の名前は確かに名簿に刻まれているが、そんなことしか出来ない生徒は要らない。男が何を言っているのかよくわからなかった。勿論私はきちんとしてないし、誰かから慕われるということがない。でもいつだって私を使って何かしたいという人は多くいた。勉強でも運動でも何でも私より秀でた人間はいない。増してや私と同じ力を持った人なんて、誰もいなかった。世界でただ一人私だけだ。その特別を“そんなこと”と称せられる男が如何いう神経をしているのか、私には分からない。全てを突っぱねているような男の前で、途端に私は自分が十一歳の子供に過ぎないことを理解した。私は俯いて、胸の前で指を組む。ああ、その、そうかもしれません。シスターに告解を聞いてもらっている時の誠実さを装って、私は頭を振った。私もこの力をもっと色々なことへ応用したいと思ってます。
 色々なことへ、かね。俯いていても、男がせせら笑っているのが分かる。はい、色んなことへ。例えば如何いう事だね。そうですね、さっき貴方が言っていたように何かを治したり――私は顔をあげて、男の背後を見つめる――今まで自分がしてきたことの償いを出来るようになりたいですね。お前がまともに七年間を過ごせたら、我輩は逆立ちで校内を一周するだろう。そう皮肉ってから男はようやっと名乗り、手紙を差し出した。差出名はホグワーツ魔法魔術学校。下らない校名だけど、ここよりはずっと良い。ガムを噛んでるだけでママが世界中に頭を下げて回り、煙草を吸っては鏡を壊さなくちゃいけない“ここ”よりは、きっと良い。

 私は十一歳。ママが大好きだった五歳の頃から六年も歳を取って、今はあの女を見下している。
 

ひとつめのはなし

 
 


世界で一番うつくしい名前をもつ化け物