七年語りPHILOSOPHER’S STONE
14 忘れられた子供

 

 それは、純血を重んじる家に産まれた殆どのひとが知っている昔話だ――純血名家に生まれた少年がホグワーツの門をくぐった話。

 “彼”は全く恵まれた子供だった。立派な父母、聡明な弟、裕福な家、有史以前まで遡ることが出来る家系図、親類縁者達が成し遂げた多く偉業。世の人が望む全てを彼は手に入れていた。彼自身も環境が恵まれているだけに留まらず、美しい容貌に多彩な才能を有しており、ごく幼い頃から「この子以上に恵まれて優秀な子供はどこを探してもいないだろう」と褒めそやされていた。
 母親は彼を溺愛し、父親は彼を信頼した。そして弟は兄を敬愛し、妬むことなく誇らしいと心から思っていた。彼は幸福な子供だった。

 彼の名前はシリウス・ブラック。
 セブルス・スネイプの知らない世界に生まれ、互いにとって不幸なことに同じ世界で出会ってしまった。

 二人の不仲の理由は、誰にも、当の本人たちにも分からなかった。スネイプは彼が自分の世界へ組み込まれるのを拒んでいたし、シリウスはその現実を認めたうえで追い出そうとしていた。しかし――年を重ねたからではなく――相手が追い出された今になって、どうしようもない夜、“何か”から目を逸らすために彼を思い出すことがある。生まれた環境に何一つ共感出来るものがないにも関わらず、「これからお前達は平等なのだよ」と学校という名の治外法権へ放り出されたことが切っ掛けだろうと、スネイプはそう考えていて、それはつまり最初から何をされなくても自分はあの少年が嫌いだったのだと覚えていた。リリーと共に座っていたコンパートメントの扉を奴らが開けた時から、何もかも決まっていた。彼らのことを考える度にスネイプはままならない我が身の運命を自覚する。より大きな不安を誤魔化すために憎悪と嫌悪として思い返したにも関わらず、それらは一塊になってスネイプの首を絞めに掛かった。
 一人の夜、何をどうしても自分は幸福にはなれないのだと理解する。それが不幸でなくてなんだと言うのだろう。
 人の常として残酷な考えは払いのけたくなるものだ。スネイプは学生時代の全てを忘れるために探究心を呼び起こそうと努力するか、もしくはより身近な負の感情を思い起こすよう努力する。己の運命への不安と学生時代の取り返しのつかない怒り、絶望を忘れようと努力する。
 逃げて逃げて、遠ざかって、今やスネイプにも己の負債がどの程度のものか理解出来ない。

 ダリル・マルフォイという少女は、ハリー・ポッター以上に彼の不安を刺激した。ハリーにはリリーの面影がある。しかし彼女は丸きりシリウスそのものだった。スネイプをあざ笑うことのないシリウス、自分に露骨な悪意を持たないシリウス。

 彼女を目の前にすると、幾度やり直しても何も変わらないのだという絶望を思い出す。
 例えシリウスがあの時コンパートメントに来て二人をからかわなくとも、自分をあざ笑うことも、嫌がらせをしてくることがなくとも、スネイプは彼が何をしなくても憎かったのだ。生まれた時から相容れることはなかっただろう。何故なら己が変わらないからだ。変わる方法を知らない。変わるタイミングを幾度となく逃して、それに見切りをつけたリリーは彼の手を振り払った。
 スネイプにとってダリルは吸魂鬼に似ていた。

 彼女がグリフィンドールに入ったということで薄ら嫌な予感は覚えていたものの、ここまでとは覚悟していなかった。彼女との顔合わせが金曜日で良かった――午後の授業が入ってなくて良かったと思っていたのは、何もグリフィンドール生だけではない。
 授業が概ね無事に終わって良かったと、スネイプは生徒がいなくなった地下牢で重いため息をついた。

 純血の名家からグリフィンドールに入った例というのは無論多くはないが、決して少なくもない。シリウスほど皆の噂になった生徒は少ないものの、何人かはいる。だから油断していた。それに知人の子供を相手に、大人げもなく嫌悪を抱くはずもあるまいと思ったのである。
 増して幾度か会ったこともあるのだから、警戒しろというほうが可笑しいのだ。
 それに――例え彼が薄情であろうと、プラス感情がないとはいえマイナス感情を抱くはずがないと――ゴッド・チャイルドに。

 何の因果かと、スネイプはこれ以上は無理というほど眉間を歪める。

 スネイプにとってダリルは名付け子だったが、それに至る経緯はシリウスとハリーの間に置かれたものとかけ離れている。スネイプはダリルの親であるルシウスと格別の仲であったわけでもなく、彼女に親愛の気持ちを持っていたわけでもない。流れ作業の一貫だった。
 当時はマルフォイ家に娘が生まれたことを喜ぶ者は少なく、まあ親に似て綺麗になるわねといった程度の認識しかなかった。
 父親であるルシウスも「なんだ娘か」と言った調子で、名付け親を誰にするか悩むのはドラコのためのみであった。そもそも子供にかまけている暇もなかったのである。二人が生まれた頃から不死鳥の騎士団は力を増し、死喰い人達はその対応に四苦八苦していた。
 そんな慌ただしい時勢であったので、役所への届けを近日に出さなければならないのに名前が決まっていないからと、名付け親になることを強要されたのであった。スネイプ自身も名家と何かしらの繋がりを作っておけば自分の将来に有益だろうと考え、軽い気持ちで了承した。
 その後己が二重スパイになるなど知らずに、リリーが命を狙われるなどとは全く予想だにせず、自分のことだけを考えていた。



 始めは命名式で、二度目は彼女の治療に呼ばれて、三度目は彼女を遠目に見かけて、それからはルシウスとの話にも上がらない。
 一応は名付け親ということで、勿論スネイプは彼女のことを覚えていた。しかしホグワーツ入学が決まるまで彼女は忘れられた子供だった。シリウスのように持て囃されもせず、家族から強く愛されていたわけでもなく、スネイプの中では彼女は片手間の娘に過ぎなかった。
 そうでなければ自分が名付け親になるはずもないし、自分以外の誰かから彼女の話を聞かぬはずがない。
 彼女は愛されなかったのだと、スネイプはそう思った。年を追うごとに内気になったかして、ルシウスも特別彼女を人前で自慢したいとは思わなかったのだろう。大体にして、ダリルが死に掛けた時だって、彼女の無事を優先するならいの一番に聖マンゴへ連れていくべきだったのに――ルシウスはそうしなかった。医者でも何でもない、ただ魔法薬に長けているだけの自分を呼びつけて、最終的に闇医者へ見せたと聞いた。表向きは“病弱な娘を疲れさせたくない”と如何にも娘を愛している風に振舞っているが、ルシウスが演技掛かった生き方を愛しているのは周知のことだ。「実のところ娘を人前に出すのが恥ずかしいのではないか」という噂が誰ともなしに立ち、スネイプは声に出さなかったものの、それが真実だろうと確信していた――自分なんかを名付け親に持ち、両親から愛されることもない哀れな娘だ。
 入学名簿のなかに名づけ子を見つけたスネイプは久方ぶりに彼女の存在を思いだし、彼女が勉学に誠実であるなら、教師としてほんの少し優しくしてやろうと思った。かつてスネイプが彼女よりずっと孤独だったなかで、その救いは探究心だけだった。
 人心を惹きつける魅力や努力の要らぬ才能、立派な父母、聡明な兄弟、裕福な家、有史以前まで遡ることが出来る家系図、親類縁者達が成し遂げた多くの偉業……スネイプはその殆どを持ちえなかったが、今はホグワーツの魔法薬学教授という一角の職を得ている。それはひとえに自分の探究心と学問、努力が与えてくれたものだと思っていた。生まれ持ったものは人を堕落させるだけだ――シリウスが良い例だろう。
 ダリルもスリザリンで過ごす内にかつてのスネイプと同じように、生きていくためには誰の愛情も要らないことへ気づくだろう。

 彼女は自分と同じだと思っていたのに、帽子が口にしたのはあの忌々しい寮の名だった。

 彼女は実際整った容貌をしていたし、立派な父母、聡明な兄、裕福な家、世の人が望む全てを彼女は手に入れていているはずだった。それなのに、ダリルはスネイプが「出来損ない」と漏らした台詞へ、愚かにも露わにしてしまった憎悪を否定しなかった。ダリルはブルーグレイの瞳を大きくするでもなく、じいっと受け容れがたい絶望を湛えた視線をスネイプに注いでいた。
 出来損ない。その台詞は決して彼女がために発したものではなかったのに、彼女が諦めた瞬間に彼女のものになってしまった。
 これがシリウスだったならば、例え相手が教師であろうと諦めはしなかっただろう。誰がなんと罵り、そして拒絶しようと彼は幸福な子供だった。しかしダリルはどうだろう。彼と同じ環境に生まれ、同じ選択をした。スネイプにとってはシリウスと同じ種類の生き物に相違なかった。愚かな生き物――自分がどこに属するのか知らず、勇気とは名ばかりの無茶を振りかざす嫌悪すべき種類のものだ。
 そうであるべきなのに、そうであったならばこんなにも彼の記憶を揺さぶりはしなかったろうに。スネイプはもう彼女について考えるのは止めようと思考に蓋をしてしまった。直視しがたい可能性に気づき掛けた本能は、自身を守るための忘却を選んだ。

 彼が彼女の瞳の中に見たのは、光に出会うまでの孤独な子供であった。
 本だけが唯一の支え、それ以外には何もなく、誰からも顧みられることがなかった小さな子供。暗い家の底に沈殿した泥のような陰気さに囲まれて暮らしていた。何もない。誰もいない。だから変容はない。何も変わらない。世界が彼を忘れて動き続けている。
 そもそもスネイプはリリーに出会ったことも忘れたいと望んでいるのだ。それをいつか失うことが分かっているから、失う痛みを知るぐらいなら永久にそのままでいた方が良い。過去の自分を否定して、向き合うことも記憶として認めることも避けた。
 シリウスはダリルだったし、ダリルは過去の彼で、過去の彼はやがてリリーという忘れがたい光に出会う。その何もかもが苦痛だった。

 スネイプは、今はただ理由を亡くした未来のために生きている。
 廊下を駆ける生徒よりゴーストのほうがまだしも己に近いというものだ。自分はもう殆ど“生きていない”のだと、スネイプは考えていた。
 ダリル・マルフォイは生きている頃の彼だった。やがて光に出会い、そして絶望を知るまでの自分だった。だから憎い。だから怖い。だから……だから、その光の名前を知るのが、その、視線の先に愛しい面影が微笑んでいるのでないかと馬鹿げた夢を見る。
 子供だった頃などないと言わんばかりに暮らす自分の胸中に、まだ少年が残っているのなら、それはとんだお笑い草だ。書き物机に肘をつくスネイプは、ダリルのブルーグレイの瞳に映る人影を思い返そうと瞼を下ろした。苛立たしいほどの感傷に、眉間に深くしわが寄る。

 自分の“少女”は疾うに死んでしまったと言うのに――何故この世界は……彼女の隣にいた少年は生きているのだろうか。
 

忘れられた子供

 
 


七年語りPHILOSOPHER’S STONE