七年語りPHILOSOPHER’S STONE
27 雪解け

 

『赤子でもなし、一人でも行けるだろう』
 あの時、如何してドラコはダリルを突き放してしまったのだろうか。
 温室育ちのダリルが初めて外に出ることで心細がっていることも、自分の助けを必要にしていることも、ドラコには分かっていたはずだ。なのにドラコはダリルを置いて行った。何故と問い詰めるダリルを無視して、ドラコは彼女を置いて行ったのだ。

 騒動の後、ダリルはきちんと羽根ペンを持って広間へ戻ってきた。目は赤かったし、ドラコのほうは決して見ないようにしていたが、四人でクリスマスのディナーを食べ、午後中一緒にいた。勿論ダリルは元気とは言い難かったものの、顔を上げて、いつも通りに振舞った。
 そうしてその翌日から、夏の時のように部屋へ引きこもるようになったのだった。

 ベッドの上で、布団で作った繭に閉じこもっていて、出てこない。
 ドラコ達はダリルがマクゴナガル教授から課題を出されていることも知っていたし、クリスマス・プレゼントへの礼状も書かなければならないとも思っていた。カウントダウンパーティに向けてドレスを新調したり、誰が来るのか覚えたり――しなければならないことは山とあったし、ダリル自身分かっているはずなのに、ダリルは布団に包まったまま動こうとはしなかった。何もかもを放棄するかのようにダリルはルシウスの慰めにもナルシッサの叱責にも応えず、そんな状態がもう三日も続いていた。
 水分は取っているようだから大丈夫だとナルシッサは夫を宥めたが、とうとうルシウスは聖マンゴ病院の特別病室に空きがあるか確認し、予約を取った。ホグワーツでの生活がダリルに合わないんだとルシウスは主張し、ナルシッサは反論していたものの、結局明日も同じ状況が続くなら数日ぐらい入院させましょうということで、折れた。何もルシウスだって、癒師が事態を良くしてくれると思っているわけではない。ダリルが大人しいのにかこつけて、ホグワーツを退学するに尤もらしい理由を作りたいだけなのだ。
 そもそもルシウスはダリルをホグワーツへやる気は毛頭なかったのだし、スクイブ疑惑が晴れただけで十分だった。ナルシッサとしては、娘に魔女としての適正が備わっているのであれば他の純血一族の子女同様に――この際、スクイブの娘を持つよりはグリフィンドール寮生の娘を持つほうが断然マシだと考えたらしかった――マルフォイ家の娘らしく、“きちんと”ホグワーツで暮らすことを望んでいた。
 要するに、二人ともダリルの気持ちに寄り添う気は欠片もなかった。お籠りの理由など、彼らには如何でも良いのだ。

 ドラコはダリルが部屋に閉じこもる理由を如何でも良いとは思えなかったし、またそれを知ってもいた。それでも、ドラコが彼女の部屋を訪れたり、両親の身勝手さを窘めるとか、何かダリルにとって良いことをしてやるわけではない。
 その代わり箒で庭を飛ぶのをやめて、部屋で考え込む時間が増えた。クリスマスの日にダリルがぶちまけた本音をドラコは何度も何度も心中で反芻した。それで、何故こうなってしまったのか、ドラコは考え込んでいた。
 ダリルがいつもそうしていたように窓辺に腰掛けて、かつて二人で駆け巡った広い庭を見つめながら、ダリルのことを考えていた。

 ダリルの台詞が頭のなかをぐるぐる回る。
『貴方と一緒の寮に入りたいって思ってた。でも貴方は私を置いていったじゃない……』
『いつになったら私は貴方達に引け目を感じずに済むの? いつになったら貴方達は私を厄介者扱いしなくなるの?』
 記憶の中のダリルは怒っていて、泣いていて、全く幸福そうではなかった。ちょっと遡ってもダリルは幸福そうにしていない。ダリルが心の底から幸福そうにしているのを見たのはいつが最後か分からなくなる。おぼろげに古い記憶のなかで、ダリルは笑っていた。
 笑っているダリルは少年のようで、全く美しくないし、泥だらけで汚らしい。魔法が使えなくて、箒で飛ぶドラコの後を走ってついてきていたけれど、とても楽しそうだった。結局ドラコも箒から降りてダリルとじゃれあうのが常だった。
 一方今のダリルは如何だろう。彼女と会った人間は誰もがその美貌を誉め、未来の姿を思ってため息をつく。高価な装飾品とドレスで彩られ、立派な父親が彼女を溺愛――少なくとも世間にはそう見える――している。
 例え魔法が使えなくとも、ホグワーツに入れたのだし、もしもスクイブだったとして誰が彼女を娶るにそんなことを気にするのか。
 全くもって彼女ほど幸せになるために生れてきたという言葉に相応しい人間もいないだろう。
 なのにダリルは言う。置いて行った。貴方達より劣ってる。厄介者扱いされてる。何故、一体誰がダリルを置いて行くだろう。劣っているなどと蔑むだろう。厄介者扱いするだろう。ドラコはそう思っていた。なんでこの妹はこんなに卑屈でいるんだろう。
 ダリルはドラコの疑問に懇切丁寧な返事をくれた。

 ドラコが置いて行った。ドラコが自分を蔑んでいる。ドラコが私を厄介扱いしている。

 そんな馬鹿な……! しかしドラコがどんなにあり得ないと思ったところで、ダリルがそう感じているのは確かな事実だった。
 ドラコは決してダリルを蔑んでいるわけでも、厄介者扱いしているわけでもなかった。それどころか大事な片割れだとは常に思っていた。彼女を軽んじたりする気持ちはどこにもない。ダリルが笑っていると温かな気持ちになるし、悲しんでいれば胸が痛んだ。
 今も昔も、根本は変わらない。それが何故――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 ダリルの泣き顔が脳裏を過ぎる。痛々しいほどの張りつめた声音で、ドラコをなじる。

『貴方が私を置いていって、ハリーが私を助けてくれたから!!!』

 ダリルの嘆きは殆ど全てドラコの同情を誘ったが、唯一その台詞だけはドラコの神経を逆なでした。
 パンジーに笑われている自分を助けてくれなかったなどとダリルは言ったが、ダリルは自分がドラコよりハリーを選んだことでドラコが深く傷つくとは思わなかったのだろうか。思わなかったんだろう。ドラコは顔を引き攣らせながら尚も思考を続ける。
 大体にして卑屈すぎるのだ。自分の価値を分かっていないから、気軽に人を傷つける。それでいて自分が傷つくのには過剰反応する。それもこれも全部甘やかし続けた父親のせいだと、ドラコはナルシッサの意見に同調した。
 あの妹は何故あんなに自分を過小評価するのだろう。それさえなければ今頃――そう考えだすのを、ドラコは制した。
 そうやってどちらが悪いか考え出すから、思考は堂々巡りのまま元に戻ってしまうのだ。
 一体自分が幾つ折れれば、ダリルは気が済むのだ。ドラコは捨てきれない腹立ちを隅へ隅へと押しやるよう努力した。

 ドラコは、ダリルが自分よりハリーを選んだことが気に食わない。
 それはつまり、ハリー“なんか”に自分の妹――生れた時からずっと一緒にいた片割れ――が入れ込むのが嫌なのだ。それでは誰なら良いかと考えれば、誰もいない。ダリルはにっこり笑いながらずっとマルフォイ家に留まっているのが相応しい気がした。
 詳しく考えるのを放棄したドラコだったが、兎に角ハリーに何を感じているかは理解した。
 嫉妬だ。

 誰だって十一年間ずっと一緒にいた相手が、ぽっと出のどこの馬の骨とも知れない奴のことが世界で一番好きとか言いだしたら、十一年を共に過ごした甲斐がないではないか。立つ瀬がないというものだ。訳が分からない。あり得ない。認められない。許せない。
 誰だって同じことを思うはずだ。何しろダリルは大事大事に育てられたのだし、小さい頃はドラコだってダリルの我儘に翻弄された。
 なのにハリーがダリルの我儘に翻弄されることもなく、高価な装飾品を贈ることもなく、たかだかトランクを持ってやったぐらいでダリルに好かれるのは理不尽というものだ。世界の理が狂っているとしか思えない。間違ってる。理不尽だ。

 もうこの際嫉妬でも妬みでも何でも良いし、如何でも良い。
 兎に角クリスマスに、包みを開けているダリルが声を立てて笑っていたのがドラコの機嫌をいたく損ねたのである。
 勿論その時点ではダリルが笑みを浮かべる相手が誰だか分かっていなかったが、その相手がドラコより短い付き合いなのは確実なのだ。そんな、ドラコにだって笑ってくれないダリルが自分以外の誰かにコロコロ笑って良いはずがない。
 それでドラコはダリルがナルシッサの用で広間を出て行った瞬間に迷うことなく、ダリルが誰に笑みを浮かべていたのか探ろうとした。そりゃドラコだって少しは悪いとは思っていたし、どうせ誰かは分からないだろうと諦め半分だった。なのにダリルは無防備にも――否ご丁寧にも件のカードを脇に避けており、引っ込みがつかなくなった。そしてカードを見たら、もう収まりは付かない。
 黙っておくか、上手い事して縁を切らせれば良かったのに――断固としてダリルに釘をさしておかねばならないと変な使命感を感じて、あの騒動に繋がるのである。どうせいつものように悲しげに首を傾げて、頷くだろうと思っていたのもある。

 ダリルの激怒は二度と買いたくない部類のものであったが、同時に少し嬉しくなる自分もいた。
 少なくともあの時のダリルはドラコの顔色を窺っていなかった。卑屈ではなかった。懐かしく愛しい妹がそこには居たが、無論些細な喜びは一瞬で消えうせた。ダリルが今何のために怒っているかを思うととてもじゃないが喜ぶ気にはなれない。
 ドラコの大嫌いな、あのマグル贔屓のハリー・ポッターのためにダリルは感情を露出させたのである。

 忌々しいポッター……!

 なんでダリルは自分に笑いかけてくれなくなったのだろう。なんでダリルは自分を避けるようになったのだろう。全ての原因がハリーにあるような気がした。ハリーがダリルに自分の悪口を吹き込んでいるんじゃないかとすら一時考えた。
 しかしそうでないことはダリルの言動から明らかである。
『スリザリンに入って、頑張れば前のようになれるって――貴方と一緒の寮に入りたいって思ってた』
 これと似たような台詞を、ドラコは幾度聞いただろう。

『あなたと一緒に、ホグワーツへ行くわ!』
『……私、ホグワーツで頑張るわ』
 手紙を受け取って、自分と一緒にホグワーツへ行くのだと言ったダリルをドラコは無視した。
 ホグワーツ特急で自分と前のように仲良くなるためホグワーツで頑張ると言ったダリルをドラコは置いて行った。
 ダリルはドラコを望んでいた。置いていかないでと言っていて、ドラコの手を必要としていたのに、冷たく突き放した。どんなに手を差し伸べても手を取らないから、どうせいつか自分を置いて遠くに行ってしまうだろうから……ドラコは眉を顰めた。
 そのままじーっと朱色の空が紺に変わるまで窓の外を眺め続け、唐突に明かりがなく薄暗くなった自室を出ていった。

「入るぞ」

 ダリルの部屋はドラコのそれよりも暗い。カーテンは閉め切っているし、勿論明かりもつけていない。しかし廊下から差し込む光と、カーテンの隙間から漏れる日色の残滓だけで、ベッドの上の繭が三日前から全く変わっていないのは分かった。
 ドラコはダリルの部屋に入って扉を閉めると、腰に差してある杖を一振りして、部屋に明かりを灯した。
「このまま引きこもってれば明日からお前の部屋は聖マンゴ病院の特別病室になるだろうな」
 繭はぴくりとも動かない。ドラコはもう少し繭に近寄ることにした。「それで……ホグワーツも辞めることになる」一歩、二歩、三歩。動かない。何の反応もない。また一歩、二歩、三歩、四歩、五歩――繭まで一メートルの距離で止まる。
 部屋には重い沈黙が満ちていて、ダリルの憂鬱さを反映しているようだった。ドラコは繭をまじまじと観察する。動かない。眠っているのかなと思った瞬間、もぞっと胎動した。やはり起きているらしかった。
 ダリルの反応を待って黙っていると、もう一度もぞっと動いた。一体何の意思表示なのだろうとドラコは不思議に思ったが、部屋に留まる許可を貰ったのだと思う事にした。もうちょっと待ってみたが、繭はもう動かなかった。 

「僕は……お前のことを馬鹿にしてきたつもりはなかった」
 ぽつんとドラコは部屋の静寂さを壊さないよう、そっと言葉を落とす。

「でも、憎たらしいとか、そう思うことはあった。僕は父上に口うるさく帝王学だコミュニケーション能力だなんだ、わけのわからないキムズカシイ話をされてる間中、お前はずっと部屋でぼんやり外を見ていたり、絵本を読んだり、好きにしていて……だからお前がホグワーツに入ることになって、母上から口うるさく言われてるのを見てざまあみろと思った」
 もぞもぞと繭が動いた。
「昔は、お前は強引で、凄く我がままで、男みたいにはしゃぎまわってて……そりゃその翌日バタンと倒れたりすることはあったけど、お前は自由きままに僕を振り回してた。正直ウンザリだったけど、お前は楽しそうで、あんまり楽しそうに僕を振り回すから――」
 言いたいことが纏まらない。あんなに色々考えたのに、思いついたことを適当に言っているのと同じだった。
「七歳になった辺りからお前は急に塞ぎこむことが多くなった。
 今みたいに部屋に閉じこもって、僕が遊ぼうと言っても首を振るだけで、あんなに五月蠅かったのが嘘のように大人しくなった。それから僕も母上と父上がお前について話してるのを聞いて、お前はあんなんだったし、もう前みたいには遊べないんだなと思った」
 両親の言葉を受けてそう思ったのか、ダリルの異変にそう思ったのか、本当はハッキリとは覚えていなかった。
「僕はお前が何を考えてるのか全く分からなくなった。髪が伸びるにつれ、僕は……僕は、お前を誰か知らない女の子のようだと思った。だって、そうだろう? あんなに我儘だったお前が“はい”しか言わなくなって、僕や母上や父上が反対すれば何でもすぐに諦めるようになった。お前はますます閉じこもるようになって、人の顔色を窺うようになって、卑屈になった」
「……スクイブは家の恥だもの」
 繭のなかから、ダリルがくぐもった反論をした。三日ぶりに声を発したからか、それとも泣きじゃくっていたからか、声は掠れている。
「またそれだ。言っておくが、最初にスクイブだなんだと言いだしたのはお前だ」
 如何して遊ばなくなったのかは曖昧だったが、これは確かだとドラコは自信を持っていた。繭がもぞっと動く。

 あれは確か七歳の時のことだ。
 晩夏に風邪をこじらせてからダリルはこの部屋の窓からドラコを見下ろすばかりになって、庭へは下りてこなくなった。
 最初は単に具合が悪いから両親に禁止されているのだと思っていたドラコだったが、寝込んでからひと月経っても、体調がいつも通りになっても、ダリルは庭に来なかった。悲しそうにドラコを見下ろしているだけで、それでドラコは二階にいるダリルに庭から話しかけた。
 秋になったとはいえまだ暑さは厳しく、涼しい風をいれるためにダリルの部屋の窓は開いていた。
『ダリル、箒とってこいよ。遊ぼう。夕方だから涼しいぞ』
 その台詞は妹を慮ってというより、ダリルがいないとルシウスから箒を借りにくいというのが一番の理由だった。しかし、兎に角ドラコはダリルを遊びに誘った。それまで同様、自分の誘いにぱっと顔を明るくさせたダリルが庭へ降りてくることを疑わずに話しかけたのだ。
『駄目よ』
 片割れからの誘いをダリルはゆるゆると拒絶する。
 そうしてダリルは言ったのだった。

『私、スクイブだもの……』
 物憂げに響くその台詞。
 ドラコが“これは今まで一緒に遊んでいた妹ではない”と、自分とは異なる生き物なのだと理解したのは、それからだったと思う。

 無邪気で誰からも愛されていると思っていて、実際誰からも愛されていた妹。
 それが如何して、たった数カ月であんな哀愁に満ちた言葉を紡ぐようになったのか、ドラコは未だに分からない。
「僕は昔のお前のほうが好きだった」
 何故ここまで兄妹仲がこじれてしまったのかも、ダリルが卑屈になってしまったのかも分からないが、それだけはハッキリ分かっていた。
 甘えたな妹。自分からの愛情を決して疑わず、我儘だった。愛されていると確証もない癖に信じていた。その隣にいつも居た。どんなに彼女が自分の神経を逆なでするようなことを言っても、彼女は自分が彼女に苛立っていることなんて夢にも見ず、笑ってよドラコと自分を愛することを求める。愛されるのが当然。大事にされるのが当然。父に愛されるために色んなことをしているのにと苛立つ自分に、そんな妹がどんなにか傲慢に見えただろう。でもにっこりと微笑みかけられれば、その傲慢も皮肉も許せた。
 許せた。何をされても、どんな無茶を強いられても、ただ……ただ、ダリルが微笑みかけてくれるだけで怒りも憎しみも消え去った。
 ダリルはただ自分の愛情を信じてさえくれれば良かったのだ。そうすれば、こんな馬鹿げた意地の張り合いを四年も続けないで済んだのに――例えスクイブでも、ホグワーツからの入学許可証が届かなかろうと、ドラコは、

 目の前にいるのが屋敷僕妖精でないことなんて、産まれた時から――産まれる前から知っていた。

「幸せそうで、楽しそうに笑ってて、自由きままに何でもかんでも勝手に決めて、だから、だから僕は……お前が、一人で、僕がいたら……父上のように、ダリルの考えを、僕がダリルと居たいから、それで、ダリルがしたくもないことをして、無理に、作り笑顔で、閉じこもって、悲しそうにすると――ホグワーツ特急の中で、お前はまた無理をして、したくもないのに、本当はスリザリンになんて入りたくもなかったろうに、僕の、僕と同じ寮に、ホグワーツで頑張るって、頑張れなんて……無理をしろと……僕がいつ、そんなことを」
 指先が震えた。自分が何を言っているのか、自分でももうよく分からなかった。
 ダリルは『もう何も分からない』と言っていたが、分からないのはドラコも同じだった。何も分からない。
「僕はどうせお前がグリフィンドールに入ると思っていた。
 ポッターなんかに出会わなくても、お前はどの道グリフィンドールに入っていたんだ。僕は知ってた。知ってて、お前を止めなかった」
 この震えはどこからくるのだろう。何かに触れでもしたかのように指先が震え、触れ続けているのかゆっくりと震えが広がっていく。
「そりゃ、勿論お前がスリザリンに入りたくないってのは腹が立ったさ。お前は昔、僕になんて言った」
 肩が震えていた。声が震えていた。
「僕らは生れてから死ぬまでずっと一緒だ、皆が一人で死んでいくなかで私達はいつも一緒だって、そんなふざけたこと言った癖に……」
 つうっと生温かいものが頬を伝っていた。すーっと、同じ場所を幾度も伝っていく。ドラコの瞳から涙が溢れている。
 ダリルが布団の端から顔を覗かせていた。驚いたような顔をして、体を起こす。

「お前と来たら、ちょっと自分が魔法を使えないからって引きこもるし、卑屈だし、すぐに人を傷つけて、それで気付かないし、僕の考えに合わせない。でも、僕は……お前がそうやって泣くぐらいだったら、僕の考えに合わせなくて良いと、思っていた」
「……怒っていたわ。今も怒ってるじゃない」
「怒ってない!」
 ドラコがダリルの反論に噛みついた。
「だってハリーと、仲良くするなって言ったわ」
 ダリルもドラコ同様顰めつらして、厳しい視線を緩めない。
「それは……」
 自分でも言っていることが矛盾している気がして、言い淀んだ。ダリルはじーっとドラコを睨みつけている。
 先に視線を逸らしたのはドラコだった。
「笑ってたじゃないか」
「え?」
「僕には、ちっとも、笑って……くれないのに、ポッターには、あんなちゃちなクリスマス・カード一枚で」
 ダリルはドラコの横顔をまじまじと眺めた。唖然という言葉がぴったり合う表情で、ドラコの台詞を頭のなかで繰り返している。

「ドラコ、いつも私の顔見るとフロバーワームでも食べたんじゃないかってぐらい酷い顔するわ」
 ダリルが短い沈黙を破った。
「お前こそ僕に遭遇するとトロールにでも出くわしたような顔するじゃないか」
「そんな――そんなこと、ふ」
「く、」
 笑いだすのは同時だった。
 ダリルは口に手を当てて大きな声で笑っている。ドラコはおなかを押さえてしゃがみこんだ。もう何が可笑しいのかは分からなかったが、ダリルがケラケラ笑っているのを見るとドラコも笑みを抑えられなかった。

「いや、もう苦しい――ドラコったら、小さいころからお父様の真似ばかりするから、顰めつらが張り付いちゃったんだわ」
「お前こそ、トロールの出てくる本を読み過ぎたんじゃないか」
「そんなことないわ、だとしても貴方を見てトロールに出くわしたような顔をするのは、貴方とトロールが似たようなものだからよ」
「フロバーワームみたいに憂鬱な生き物の癖して、如何言うことだ」
「貴方って鈍感で無口だから、よくわからないの。そんな相手ににっこり笑えないわ」
 つんと口にしてから「でも顔は全然似てないわよ」と付け加えた。
 ドラコは顔を顰める。
「フロバーワームって美味しいの?」
 肩を竦めるふりをして、ダリルが笑っていた。それで毒気が抜かれ――ついでに一気に疲れてしまい、その場に座りこもうとする。
「ベッドにいらっしゃいよ。顔も拭かなくちゃならないわ」ダリルが手招きした。
 ドラコを呼びよせるなりダリルはサイドテーブルに置いてあったハンカチでドラコの顔を削った。全くもってそれは削るというに相応しい乱暴さで、ドラコは「僕の鼻はゴミじゃないからな」と忠告する必要性を感じた。
「まあこれで、あとは顔を洗えば良いんじゃないかしら」
「だったら最初から顔を洗ってくれば良かった」
 ヒリヒリする頬を押さえてドラコが文句を言う。ダリルはまた眉を顰めたものの、急に眉尻を下げた。
「怒らないでね」

「そんな元気があるように見えるか?」
「丁度良かったわ。私、ハリーが好きよ。とっても面白いし、貴方は無謀なだけだって言うでしょうけど、勇気があるもの。
 それにハーマイオニーのことも好き。マグル生まれだけど、彼女とっても賢くって、素敵だわ」
 嬉しそうに続けてから、ダリルは――何年ぶりのものだろう――飛びきりの笑みをドラコに向けた。
「でも同じぐらい。ううん、それ以上にドラコのことが好きよ」

 ドラコは何故自分がダリルに折れ続けなければならないのか、薄らと理解した。

「ドラコは私が自分といると望まない選択をして、それで悲しくなるんじゃないかって思っているみたいだけど、私は好きな人のためならなんだって我慢出来るわ。我慢したいの。でもどんなに我慢しても応えてくれないんじゃ、寂しいわ。
 その、寂しいと思った時にハリーやハーマイオニーを見ていると心が慰められたの……。ハリーやハーマイオニー、私が二人みたいだったらドラコは私に優しくしてくれたかなとか、お父様は私を信頼してくれたかなって思うと頑張れる気がしたのよ。
 だからドラコ、どうか私がハリーやハーマイオニーを快く思うのを否定しないで。勿論私も、貴方に二人を好きになってとは言わない。私の目の前で悪口を言っても良いわ。でも私は二人を嫌わないし、ドラコの言葉に同調もしない。
 憧れているの二人に……、ああいう風になりたいなって思っているの」
 絶対になってくれるなと思ったし、あんな奴らのどこを吸収したいんだとも思ったが、幸いなことにドラコはもう疲れ切っていた。
「――僕が如何してもポッター達に近づくなって行ったら、そうするんだな」
「ええ、それでドラコが気にしないなら」
 自分の台詞にダリルが悲しそうに俯く――しかし、その台詞は黙って同情出来る類のものではないとドラコは感じていた。
「如何言う意味だ」
 恐る恐る問いかけると、ふふっとダリルが笑った。
「だってドラコは私が悲しそうだと、気になるんでしょ?」
『ドラコは私が大好きだものね!』
 呼び起こしてはならないものを呼び起こした気がして、ドラコの顔が凍った。

「……分かった。好きにし」
「ああ、有り難うドラコ!」
 ろ。ドラコの台詞を最後まで待たずに、ダリルはドラコに思い切り抱きついた。華奢な腕がドラコをぎゅっと締めつける。耳に吐息がかかる。胸が当っている。この数年間どんなに近づいても半径二十センチは隙間を残していたのに、近すぎる。
「その……ごめんなさいね」
 抱きついたままダリルが話し出した。声が耳を掠めていく。
「私達一緒に生れたけど、きっと一緒に死ぬことは出来ないわ――それに私、ドラコには私が死んだあとも生きていて欲しいもの。
 大きくなって、私達世界に二人きりじゃないって知ったわね? 仲たがいしている間中、私達別の世界で生きていたはずよ。だから分かったの。例え私がいなくてもドラコは幸福になれるって……それはドラコを放っておこうってことじゃないわ。ドラコと私が別々の人間だってことが分かって、そうしたらもう子供の頃みたいにドラコを独占しようとは思えないなって思ったの。
 だって、それって凄く傲慢な考えだもの。だから私達、もう一緒に死ねないわ」
 もう如何でも良いし、そんな昔のことを掘り返したりしないから、離してほしいとドラコは思った。
 しかしダリルの話は続く。勿論逃がすまいとべっとりくっついたままで、ドラコは自分の記憶力の良さを呪う他なかった。

「でも私が死ぬまで、いいえ死んでも――私の幸せはドラコの幸せと共にあるの」
 ダリルが紡いだ言葉で、ドラコは自分達が何故すれ違ったか理解した。
 いつまでも一緒だと約束した其れを、叶うはずはないのに、口にしたダリルよりもドラコのほうが強く信じていた。自分が嫌うものを好いている妹が浅はかにも、一緒に行こうと言う。いつまでも一緒よと現実を見ていない夢見がちな言葉を囁く。ドラコがどんなにそれを望んでいたか、信じていたか、何も知らずに裏切りめいた無邪気さで幾度となく叶わぬ口約束を交わす。

 裏切ったのは、自分のほうだった。

「……ドラコ、その、今日は涙腺が緩いのね?」
 ダリルが子供をあやすようにドラコを揺らした。涙の流れるドラコの頬に、彼女が自分のそれをくっつける。
 幼いころからドラコに対するダリルの想いは変わっていない。二人は少し大人になって、物事がままならないことや、自分達がアダムとイブでないことを知った。そうしてドラコは幼いころダリルに感じた異端を引きずって、これは自分と違う種類の生き物なのだと思い込んでしまった。アダムとイブではないから、二人はずっと一緒にいることは出来ないし、共に行くことも出来ない。
 諦めてしまったドラコと違って、ダリルはずっと約束を覚えていた。口にした言葉を忘れていても、ずっと覚えていた。

 一緒にいなくても、共に行けなくても、私は貴方を愛してます。
 別の道を歩んでも、その幸せの隣に自分の姿が見えなくともただ貴方の幸せだけを望み、常に貴方の幸福を祈ってます。
 それがダリルにとって最上級の愛情表現であることは疑いようのない事実だった。

 美しくなったダリル、少年のようだったのに、すっかり少女らしく成長した片割れ。
 かつて知らない生き物だとドラコに感じた少女の物憂げな表情と、幸福そうに我儘を口にしてきた妹の姿が、やっと繋がった。
 ひたむきに自分のことを愛してくれる双子の妹。
 永久に揺らがないだろう彼女を愛情を得るためにドラコは幾度も折れてきたし、そしてこれからも折れることになるだろう。

「ドラコ、私と……、仲直りして、今幸せ?」
 ドラコの涙を拭いながら、ダリルがそわそわとドラコに問うた。
「……ああ、まあ。まだウンザリって気分じゃない」
「私もとても幸せ! もうドラコとトロールを同一視しなくて良いのだし、それにドラコが幸せだから、二倍幸せ」
 ぎゅーっとドラコの内臓でも絞り出す気なのか、ダリルは嬉々としてドラコを抱きしめている。ずっと見たいと思っていた笑みのはずだが、ドラコはこれで良かったのだろうかとグルグル考える他喜ばしいとは感じなかった。
 何はともあれ、これで両親がダリルの進路でやりあっている姿を目にしなくて済む……そこまで考えたドラコはふとある事が気になった。
「ダリル」
「なあに、ドラコ」
「課題はどの程度進んだんだ?」

 世界が時を止めた。――否、止まってくれたら良いのにとダリルは思った。
 

雪解け

 
 


七年語りPHILOSOPHER’S STONE