七年語り – PHILOSOPHER’S STONE
35 教師のままで死んだ人
――本当に生きているわけではないから、殺すことも出来ん。クィレルを死なせてしまった。
光が遠い。薄暗い膜の向こう側に明るいものを感じる――ダリルは重い瞼を上へ押しのけて、ぼやけた視界に何が映っているか探ろうとした。白いカーテン、銀色のカーテンレール、灰色の天井、ツンと鼻を突く消毒液の匂い……ダリルは瞬きした。何故医務室にいるのだろうと、身を起して、もっと周囲をよく観察してみようと思った。思ったはずなのに、ダリルは寝転んだままでいた。
体中がだるく、肋骨のあたりが痛む。右手の小指の付け根がジクっと痛む。その痛みにダリルは自分の一番最後の記憶を思い出していた。泣いている自分に近寄るクィレル。目の前に散る光。そして――そして、ダリルは無理に体を起して、ベッドから降りようとした。
床に付こうとした右足が痛んだが、しかしダリルは自分の足が痛いことに気付かなかった。
「クィレルのように憎しみ、欲望、野望に満ちた者、ヴォルデモートと魂を分け合うような者は――」
クィレル教授……。
ダリルはブルーグレイの瞳を見開いた。耳元には今もまだクィレルの声の名残がある。
『インペリオ』
ダリルは許されざる呪文のスペルを知っていた。調べる切っ掛けを作ったのはクィレルで、それをダリルへ向けて唱えたのもクィレルだった。ダリルの頭にはまだ靄が掛かっていたが、ついさっき何が起きたかは思い出すことが出来た。
ダリルはおぼつかない足取りで立ち上がると、そっとカーテンを開けた。シンと静まり返った医務室をよろよろと横切って、出入口へと抜けていく。ダリルのベッドから三つ隣のベッドはカーテンが閉められ、白い布にダンブルドアとハリーの影が浮かんでいた。
布目からこぼれてくる話し声は、いつもだったら好奇心を覚えただろう内容だった。しかしダリルは彼らが何を話しているか……その善悪の所在や、ハリーが何故ここにいるのか――自分とハリーの二人きりで医務室にいる、その因果関係にまで思い馳せる余裕はなかった。白々とした頭のなかに、ダンブルドアの穏やかな声が、ただ音として響く。クィレルが、クィレルは、クィレルの……いや、最早ダリルの耳には誰の声も聞こえていなかった。二人は疾うに今回の事件についての話を止め、透明マントやスネイプの話に移っていた。
医務室を出たダリルは、自分の思うとおりに動かない足を引きずり、肩口で壁を擦りながら廊下を進んでいく。
途中で誰かがダリルに声を掛けたが、ダリルは歩みを止めなかった。
階段を上って、ガーゴイル像の前を通る。次の角を右に曲がり、空き教室を三つ通り過ぎたら、また階段をあがる。廊下を真っ直ぐ進めば闇の魔術に対する防衛術の教室がある。生徒の出入りがし易い両開きの扉から少し離れた場所に、ダリルの見慣れた小さな扉がある。
ダリルは扉へ寄りかかるようにしてノブを握ったまま、額に滲む脂汗を拭った。荒れた息を整えようとしても、逆に動悸が激しくなる一方だった。手の中の冷たさが、ゆるゆると温くなる。ダリルは手首を捻った。一瞬、ノブが回らないのではないか――開けるのは止したほうが良いとも思った。開けないほうがいいと、ダリルはそう思っていた。開けちゃ駄目だとも、開ける必要はないとも思っていた。
目頭がジンと熱を孕んで重たくなる。ダンブルドアの声に交じって、クィレルの怯えるような優しさが蘇った。
『き、き、きみは――魔法を使えない、と、恥じているみ、たいだけど』
開けないほうがいい。
『……そ、その考え方は素晴らしい、と、わ、私は思っている、よ』
開けないで。
カチャリとノブが回った。
扉が開いた先にはいつも通りソファがあって、クィレルの使っていた机があり、書類がその上に積まれていた。本棚も、クローゼットも、窓も、カーテンも、何もかもいつも通りだった。ただダリルのホグワーツでの日常が……部屋の主だけがいなかった。
ダリルはペタンとその場に膝をついた。
『あ、ああ。や、闇の帝王はか、彼に向けて死――死の呪文を放ったが、ハリーは死ななかった……』
『き、君は折角あのような家に生まれたのだから……その、マグル生まれにかまけていてはいけない』
『クィレルのように憎しみ、欲望、野望に満ちた者、ヴォルデモートと魂を分け合うような者は』
『インペリオ』
タガが外れたように、瞳に貯まった熱が滴になって頬を伝う。涙がぼろぼろとこぼれた。涙の道が幾重にも別れ、視界に膜が張る。はっはっと荒く息を吐く度に胸が潰れるようだった。足の痛みより、右手の違和感より、嗚咽に引きつる喉や、酸素を求めて奇妙に伸縮する胸のほうが痛かった。クィレルが自分に服従の呪いを、一体いつから……最初から自分に優しくしてくれたのは全部嘘だったのだろうか? 自分なんかを何に利用したかったのか知らないが、今ダリルが怪我をしているのは、明らかにクィレルのせいだった。クィレルはヒトに使ってはいけないという、許されざる呪文の一つをダリルに使ったのだ。少なくとも、ちょっとでも情のある相手へ掛けられる魔法ではない。
何故、如何して――否それよりも、信頼していた相手に裏切られたという絶望がダリルの胸に満ちていた。
ダリルは這うようにして、クィレルと長い時間を過ごした部屋のなかへ入っていく。
嘘だと言ってほしかった、ソファに座って待っていれば、またクィレルが戻ってきてくれるのではないか、どもりながら自分に謝ってくれるのではないかと思った。肩を震わせながらソファにしがみ付き、よじ登るようにして腰かける。
定位置から見た世界は馬鹿げたほどに“いつも通り”だった。
開いた窓の向こうから、庭に出ているのだろう生徒達の嬌声が聞こえる。笑い声が響く。青い空から吹いてくる風は穏やかにカーテンを揺らしていた。机の上の書類が風に踊る。集めなければと反射的に思ってしまったが、もうあの書類を読む人はいないのだ。あのペンを握る人も、あの棚を覗きこむ人も、あの本を読む人も――ダリルはクィレルが大事にしていた本の背表紙をブルーグレイの視線でなぞった。
生物の持つ魔力について、魔法生物は何処から来たのか、水生圏の魔法生物達、稀少な遺伝子、狼人間、森に住む狼人間とその家族、さあ森に行ってみよう!、分類の方法――ぼんやりと一番左の本のタイトルから順に読み取ってから、ダリルは立ち上がった。
恐る恐る本棚に近づいて、本の題の頭文字を繋げる。生魔水稀狼森さ分……『生魔水稀狼森さ分生生性優魔、真ん中、まん真ん中』!
ダリルは「さあ森に行ってみよう!」を手にとって、真ん中、まん真ん中、ぴったり真ん中のページ、五百六ページを開いた。
――私の最期の教え子へ。ページの余白に小さな文字で何か書いてあった。
本を持つ手が震える。
騙してすまない。
視界がかすんだ。
文字の上に涙が落ちる。古びたページにじわりとシミが広がる。
君は無知だったが、決して私のように愚かではなかった。
最期に君という素晴らしい生徒に出会えたことを、教師として誇りに思う。
「愚かなんか、じゃあ……」ダリルは本を抱きしめた。
胸の痛みも、足の痛みも、小指が痛むのも、もう何も気にならなかった。裏切りへの絶望も消えうせていた。ただクィレルがもうこの世のどこにもいないという悲しみだけがダリルの胸を押しつぶそうとしていた。呼吸が出来ない。何も見えない。何も聞こえない。
「……愚かなんかじゃ、なかった、わたし、全然良い生徒じゃなかった、わたし、わたし」
溢れる涙が止まらない。頭の奥が苦しいほどに熱い。泣いても泣いても、何も気は晴れなかった。悲しみだけが増していく。
ダリルにとってこの一年、クィレルがどれだけ支えになっただろう。クィレルと魔法論について語っている間どれほど楽しかっただろう。ダリルの話をまともに聞いてくれたクィレル。笑ったり、馬鹿にしたりしなかった。ドラコとも仲が悪くて、グリフィンドールに友達一人いなくて、その孤独を紛らわせてくれたのはクィレルだった。ハリーに罵られた時、ダリルが真っ先に向かったのはクィレルのところだった。
魔法を使えない理由を探るために話始めて、いつの間にここまで大きな存在になっていただろうか。
クリスマス休暇の前に二人でユニコーンを探しに行ったのを思い出す。あの時、既にクィレルはダリルに許されざる呪文を掛けることを決めていたのだろう。あのクリスマス・カードは、クィレルが死んだ時のためのものだった。
本を抱きしめたままダリルはその場へ座り込んだ。
私の最期の教え子へ
騙してすまない。
君は無知だったが、決して私のように愚かではなかった。
最期に君という素晴らしい生徒に出会えたことを、教師として誇りに思う。
「なんで……」
ダリルは呆然と呟いた。
「きょうじゅ、教授は……なんで、なんで――如何して、如何して、なんで教授が死ななきゃいけなかったの」
『クィレルのように憎しみ、欲望、野望に満ちた者、ヴォルデモートと魂を分け合うような者は』
憎しみを抱くのがそんなに罪なのか。欲を持つのが、そんなに罰せられるべきことなのか。野望を持つのが、そんなに悪いのだろうか。悪がどこにあるのか、ダリルには分からない。弱さにあるのか、愚かさにあるのか、怯える群衆にあるのか――どこにもない。どこにもなかった。ダリルは下唇を噛んで、肩を震わせた。誰が悪いのか分からない。ハリーが悪いわけではない。クィレルが悪いわけではない。
「きょう……教授」ダリルは腕の中の本に語りかけた。「私、怒ってないです。小指がなくても、足がなくても……服従の呪いも、もう、もう良いです……本当に、」声が引きつる。喉がひしゃげたような息が漏れた。「もう怒ってない……何でも、もう、も……」
「もど、クィレ、きょ……もどって、もどってきて……」
静まり返った部屋にダリルのすすり泣く声だけが響く。
ほんのちょっと前まで、ダリルはここでクィレルに泣きごとを言っていた。
クィレルはそこの椅子に座っていた。二人は確かにこの部屋に、一緒に居たのだ。ついさっきまで――それは、ダリルにとって一時間ほど前のことのように思えた。ハリーに罵られた時もこれほどには苦しくなかった。もう二度と会うことは出来ない。もう二度と魔法論について語り合うことは出来ない。もう二度と……クィレルはもうどこにもいない。ダリルの手が、声が、届かないところに逝ってしまった。
悲しみに打ち震えるダリルを、部屋の入り口に立つダンブルドアが見つめていた。
「クィレルは憎しみと欲望と野望に満ちていたが――君の前では、人間味と向上心と好奇心に満ちた教師じゃった……」
ダンブルドアはゆっくりダリルに近づくと、その頭を優しく撫ぜた。
「君は素晴らしい生徒だとも」
撫でられている内に、段々とダリルの震えが収まっていく。
ポタっと一粒、「期」という文字を滲ませると、ダリルの目からもう涙は出なかった。
「君は呪文を唱えることよりも大事なことを知っている。素晴らしい魔女じゃよ。君は多くの愛をクィレルに注いでいたのじゃろう」
「わたし」ダリルが掠れた声で喉を震わせた。「何も……何も、返せなかった」
「今ここでクィレルのために悲しんでおる」
「大事な人でした」
「多くの人が君と同じように悲しめるわけでも、大事だったと言えるわけではない……さあ、ベッドに戻らねばならん」
ダンブルドアに促されて、ダリルは立ち上がった。クィレルからのメッセージが刻まれた本を抱えて、クィレルと多くの時間を過ごした部屋を出る。ダンブルドアが扉を閉めるまでダリルは向こうを覗いていたが、ほんの刹那、扉が閉まる一秒前……クィレルが椅子に掛けて、机に向かっているのが見えた。手を伸ばす。ペタリと、木で出来た扉に指先が触れた。ノブを回しても誰もいないだろうとは分かっていた。
「あれは内気だったが、心から学ぶことや、人に教えるということを愛していた」
ダリルが扉に触れたままでいるのを見て、ダンブルドアが零す。
ああ――ダリルはクィレルの神経質そうな容貌を思い出した。あの人は、学者ではなく、教師だったのだ。
七年語り – PHILOSOPHER’S STONE