七年語りCHAMBER OF SECRETS
28 傲慢について

 

 相変わらず学内では秘密の部屋に纏わる噂が床を這い、怯える生徒達の不安が宙に浮かんでいる。

 そういう状況だからか、魔除けやお守りなどの護身用グッズを持つ生徒が増えた。尤もダリルは買おうとは思わなかった。純血だからではない。ヴォルデモートがイモリの尻尾なんかを恐れるとは到底思えなかったからだ。パーシーは馬鹿げていると、そんなものを買おうとしている生徒を見つけた片端から説教している。ダリルは「まあ持っていることで心が落ち着くのであれば悪いだけのものではないだろう」とその風潮を静観していた。友達は殆どが純血だったし、殆どではない一握りもそういうものを信じる性質ではない。しかし個人が通信販売などで買い求めるだけなら良いのだが、それで一商売しようという輩まで出てきたのだから見過ごせなくなってきた。
 スリザリン生に散々脅かされたネビルは、彼らからきつい匂いを放つ青たまねぎを一ガリオンで売りつけられていた。ダリルはそのたまねぎが一号温室の隅に転がっているのを見た覚えがある。その話をシェーマスから聞かされたダリルは勿論苛立ったが、彼女を一番怒らせたのは、それを持ってウロウロしているネビルのことをスリザリン生が「第二のクィレル」などと言っていることだった。ダリルはネビルから取り上げた青たまねぎをクスクスやってるスリザリン生の頭にぶつけた。そうしてネビルを脅して、たまねぎを売りつけた生徒を吐かせ、たまねぎ片手にスリザリンのテーブルに乗り込んでいった。実にスクイブ宣言以来のスリザリン生との接触だったが、怒り狂うダリルは無事に一ガリオンとたまねぎをトレードして戻ってきた。この件により、後でスネイプから十点減点された。

 ダリルは「いい?」と、腐ったイモリの尻尾でネックレスを作ろうとしているネビルにガリオン金貨を押しつけて、睨んだ。「貴方が狙われるなら、まず私が真っ先に狙われるわ!」ダリルがピシャリと言い捨てたのを聞いて、グリフィンドール寮生の殆どは護身用グッズ集めに精を出さなくなった。フィルチよりも先にスクイブだと知れたダリルが平気でいるのだからと、馬鹿らしくなったのに違いない。だからと言って完全にこういうグッズを買い集める生徒がいなくなったわけではない。一年生でマグル産まれの生徒達は未だにコソコソ通販で蚊の目玉とかを買い求めているようだし、フレッドとジョージは悪戯の小道具として買い集めている。

「こいつは流行るぞ!」そう言うのはジョージだ。
「俺達はまず、このにんにくの束をスネイプの部屋の前に置いておく……おいダリル、あいつの行動記録つけてたろ?」フレッドが小突くので、ダリルは顔を歪めた。「そういう言い方すると、私がスネイプ教授の事好きみたいじゃない!」スネイプの行動記録を付けていたのは以前行った報復のためであり、今は更新されていない。しかし時間割が変わっておらず、スネイプが寝込みでもしない限り、変わらない毎日を送っているだろうことは想像に容易い。「スネイプの行くところ全部に魔除けグッズを置いておくんだ」ジョージがキラキラした目で虚空を見つめた。「そこでダリルが、きゃっ! スネイプ教授って邪悪な生き物じゃなかったんですね!? って言えば、きっと皆笑うぜ……」フレッドが頷く。皆は笑うかもしれないが、自分はスネイプに殺されてしまうだろうとダリルは思った。計画はぽしゃった。

 護身用グッズが流行りだした代わりに、「ホグワーツの歴史」は図書室に戻ってくるようになった。それはつまり生徒達の殆どが“秘密の部屋”についての知識を蓄えきったということに他ならず、それは校内のパニック症状が二段階目に突入したことを意味する。コリン・クリービーが襲われた直後ほど激しい異常はもう見られなくなっていたが、今度は一体誰が継承者なのかという疑惑が広がりを見せていた。恐怖が静まりを見せれば猜疑心が鎌首をもたげる。コリンが襲われてから、校内は常に軽いパニック状態に侵されていた。
 シェーマスがマクゴナガル教授のローブについているボタンを全部コガネムシの模型に変えてしまったので、とうとうマクゴナガル教授は変身術の〆に説教を始めた。一年間と少し変身術を学んできて、ハーマイオニー以外にもチラホラ一度で成功を収める生徒が出てきたのに、ここ一カ月ほど授業内で呪文を成功させるのはハーマイオニーただ一人となっていた。
 しかし魔力のないダリルには無関係な話だ。マクゴナガル教授がハーマイオニー以外の生徒を叱りつけている最中、頬を染めるハーマイオニーのスケッチを始めたが、ハーマイオニーが押し殺した声で「授業中に落書きなん、あら上手いわね。私こんなに可愛くないけど……だけど授業中は駄目!」と可愛らしく怒るので、ダリルとハーマイオニーはマクゴナガル教授が説教をしている最中ずっと呪文に込められた意味について筆談していた。ハーマイオニーはルーン文字に興味があるのだとダリルに打ち明けた。
 マクゴナガル教授だけでなく、フリットウィック教授なども同じように生徒達を叱りつけたが、それでも皆ソワソワと、腰を落ち着けることが出来ないままでいた。先生方は何か生徒達を安心させるような催しが必要だと感じたに違いない――決闘クラブの開催について掲示されたのはそんな折りだった。護身用グッズを買うよりは決闘の方法について学んだほうが、まだしも役に立つというものだ。
 掲示が出された翌日、ハーマイオニーは意気揚々とフォークを振り回し、ダリルを決闘クラブに誘った。以前のダリルだったら、「決闘クラブなんて、この知的な少女とはなんの接点もない催しだろう」と思ったに違いない。
「ダリル、決闘クラブよ!」ハーマイオニーは茶色の瞳をキラキラと朝日にきらめかせながら、にっこり笑った。「フリットウィック先生って若い頃決闘チャンピオンだったんですって」そうウットリするハーマイオニーは大事なことをひとつ忘れている。
「止めておくわ。格好の的になっちゃうもの」ダリルは水の満ちたコップを傾けながら、肩を竦めた。
 ダリルは魔力がないし、現在スリザリン生とは険悪な仲だ。恐らく決闘クラブにはスリザリン生も多く来るに違いない。そんなところへノコノコ出掛けていけば、何をされるか分かったものではない。ハーマイオニーも悟ったらしく、それっきりダリルを誘ったりしなかった。
 最近授業外の時間に話すことが出来ないハリー達と過ごすチャンスを失うのは残念なことだが、ダリルには都合が良かった。もしも魔法が使えたとしても――ダリルはやっぱり決闘クラブには行かなかっただろう。
 セドリックとダリルはあれから度々会うようになっていた。決闘クラブがある日の夕食後も二人は逢瀬の約束をしている。ダリルはセドリックからの手紙を、ハリーからのリボンや手紙と同じところに保管している。誰にも見られたくないものだ。セドリックは「束縛してくれて構わない」などと優しいことを言ってくれるけれど、ダリルはセドリックとの仲を表だって主張する気になれない。

 相変わらずセドリックの周りには可愛い女の子が一杯いるし、彼女たちはダリルとセドリックが話しているのを見ても「可愛い妹分って奴ね」とにっこり笑って、飴をくれたりした。彼女たちはセドリックのことを異性として見ていないのだろうかとダリルは思ったが、何のことはない。十二才と言えば、世間一般的に恋愛をするには幼すぎる年齢だと思われている。どんなに美しかろうが、セドリックがダリルのようなチビを相手にするはずがないと思っているのだ。そうと知ったダリルは少し嫌な気持ちになった。自分は脅威ですらないのか。
 普段アンジェリーナやフレッド、ジョージ達が同い年扱いしてくれるから、あまり意識したことがなかったが、十二才と十五才の三才差というのは大きなものだ。六月に十三才になったとしても、その数ヶ月後にはセドリックが十六才になってしまう。お子ちゃまだ。
 早く大きくなりたいとダリルは思った。例えば二十歳と十七歳だったら、そう大きな差ではないのに――フレッドとジョージはダリルがセドリックと親しいことすら知らないし、アンジェリーナやアリシアも「うちの男共と違って役に立つものねえ」なんて、ダリルがセドリックのことを頼れる先輩ぐらいにしか思っていないと考えている。唯一セドリックの友達三人はダリルとセドリックの関係を理解していて、セドリックの交友関係を教えてくれたり、ダリルの恋愛(?)相談に乗ってくれた。

 セドリックのことが好きになれば好きになるほど、心が乱れていく。しなければならないこと、きちんとしたいこと、その全てがセドリックと一緒にいるとあやふやになるのに、それでもダリルはセドリックと居たかった。ダリルがこの間セドリックと一緒にいたレイブンクローの女の子は誰かとか、どの女の子と仲が良いのかとか、色々聞いても怒らなかったし、きちんと答えてくれた。セドリックに答えて貰うとホッとして、胸が温かくなるのだが、反面で聞いちゃ駄目だったのにとも思い続けていた。セドリックのことを知りたいとか、構って欲しいと思えば思うほど、自分がきちんと出来なくなっていく。それでも一緒に居たいとは思ってしまって、ずるずると会いに行ってしまうし、求められればキスに応じたし、セドリックがしょんぼりしているとダリルからキスをすることもあった。

 こんなことでは駄目だわ……!

 ダリルは魔法史に関する本の棚の横にある机にかけて、ページを捲りながら、強くそう思った。デートの待ち合わせ場所で考えるには手遅れ過ぎる後悔だった。こんなことでは駄目だって、バッチリ待ち合わせの三十分前に来ている人間の考えることじゃない。ダリルは自分の頭を抱え込んだ。だって待ち合わせしちゃったら、すっぽかすわけには行かないもの!! 苦悩に体を震わせているダリルを見つけて、セドリックは首を傾げた。ここ最近、セドリックの前で、ダリルは悶々としていることが多い。フレッドやジョージ達といる時の明るさも、ジニーと一緒にいる時の思いやり深さもなかったが、セドリックは気にしなかった。ダリルが自分に心を許して、素直な感情をさらけ出しているのが嬉しいのだ。それで百面相をしているだろうダリルの顔を想像して、クスリと笑った。
「何をしてるんだい」後ろから抱きしめて、頭に軽くキスをする。
「セドリック!」ダリルが押し殺した声で叫び、振り向いた。びっくりした顔をしてから、はにかんだ微笑みを浮かべる。
 セドリックはダリルの隣の椅子を引いて、腰掛けた。鞄から羊皮紙一巻きとインク壺、羽根ペンを取り出す。チラとダリルを見れば、彼女は卒業者名簿を捲っていた。「……六十年前のものじゃないか」セドリックは黄ばんだページに連なっている、古くさい名前をなぞった。
「ちょっと、人を探していたの」ダリルは困ったように眉尻を下げて、パタンと名簿を閉じる。
「僕も手伝おうか?」
「ううん。セドリックは魔法薬学の宿題が出ているでしょう? 大丈夫よ」ダリルはセドリックの親切をやんわりと拒絶する。セドリックは少し悲しくなったが、ダリルは考え込んでいて、セドリックの変化に気付いていなかった。セドリックはダリルの望んでいるよう振る舞う事にした――ダリルが何故名簿など漁っているのか知りたいと思ったが、それを聞いたらダリルが気を悪くするのは火を見るより明らかだ。
「どこでそんな情報を?」鞄から魔法薬学の教科書を取り出すふりをして、セドリックはダリルから視線を逸らした。
「私のお友達と何の授業でご一緒してるかお忘れのようですね」ダリルがスネイプ教授を真似ると、セドリックの肩が震えた。ダリルは六十年前の卒業者名簿を脇に除けて、傍らに積んである名簿のなかから五十九年前の卒業者名簿を手に取る。
「私もハッフルパフとの合同授業が良かったわ。スリザリンって、ドラコ以外皆嫌い」
 他寮生から一番嫌われているスリザリン寮生というのはドラコなのだが、双子の妹には何も見えないらしい。セドリックは苦笑した。

 ちょっとばかりの雑談を交わしていたものの、段々と互いの作業に夢中になり、会話がなくなる。セドリックは「上級魔法薬」と「薬草ときのこ千種」を交互に覗きこんで、難しい顔をしていた。ダリルも卒業者名簿との睨めっこに集中して、羽根ペンを動かす。
 ダリルは名簿の一番上にいた“アバークロンビー、トム”の名前と寮と就職先を羊皮紙にメモした。トムという名前を持つ生徒は多く、千九二二年度の卒業者名簿からまだ十冊辿っただけなのに、スリザリン寮生だけでも二百人のトムが存在している。
 ヴォルデモートのことを調べたからといって、自分に何の得があるのだろうとダリルは思った。それに、あの子供がヴォルデモートだという確証もない――そう思ってみようとはしたものの、ダリルはあれがヴォルデモートなのだという確信を抱いている。
『お前達みたいなマグルに、僕の何が分かる』
 私が知る必要はないじゃないか。そうは思っても、如何しても調べないではいられないのだった。
 沢山の“トム”のフルネームをメモしていくダリルを見て、セドリックはふと羽ペンを休めた。インク壺に差して、頬づえをつく。
「甘やかに人を誘うが、開けることは出来ず、越えることも出来ない……」セドリックがそう零すとダリルが顔をあげた。「人は気がついたらこちらからそちらを見ていて、そちら側にいる貴方はこちらに進もうとしている、だったよね?」
 ブルーグレイの瞳がセドリックを映している。しかし自分の事を見ていないようにセドリックは思った。セドリックは瞳を伏せる。
「まだ、中てられてる?」
 セドリックの問いにダリルが浅いため息をついた。そうして、眉を寄せる。セドリックがご機嫌でないことは理解していた。
「そうね……理由があって誘ってるんだなってことはわかったわ」冗談っぽく言ってみたが、「余計悪い」それで一層セドリックの機嫌を損ねてしまったようだ。ダリルは困惑した。これがヴォルデモートと無関係の話題であればまだしも誠実な反応をしたいと努力出来るものを、「ここのところ毎日夢のなかでヴォルデモートと会ってて……」などと言うぐらいなら、セドリックを怒らせた方がまだマシというものだ。

 勿論セドリックへ洗いざらい打ち明ければ、きっとダリルに困るようなことにはしないだろう。多分助けてくれるし、慰めてくれる。上級生らしい確かなアドバイスをくれるに違いない。しかしダリルはいつもの――セドリックへ己の嫉妬から来る質問をぶつけた後の後ろめたさを思い出した。ヴォルデモートのことを打ち明ければダリルは楽になる。その代わり酷く後悔することになるだろう。
 それだけなら良いが、如何なるか分からない。何よりもダリルはセドリックにヴォルデモートのことを知ってほしくないと思っていた。いつかヴォルデモートが蘇るかもしれないという不安を、セドリックには抱いてほしくなかった。
「君は――また何か無茶を、」しようとしているのかい? という疑問を遮って、ダリルが口早に問うた。
「セドリックは悪って何だと思う?」
「悪?」セドリックはオウム返しにダリルの問いかけを口にした。 ダリルはセドリックの説教が始まる前に話を逸らすことに成功した。
 勿論、セドリックがついさっきまで話していたことを忘れたわけでも、ダリルが話を逸らしたがっているのに気付かなかったわけでもない。寧ろ気付いたからこそ、ダリルの無謀を問いただすことを止めたのだ。精々が秘密の部屋について調べている程度のことで、自分が見張っていれば然程危ないことはするまいと思ったのである。もしもダリルがヴォルデモートの過去について調べていると知ったらセドリックは無理にでもダンブルドアのもとへ引きずっていったに違いない。しかしセドリックはダリルが己に何を隠しているか知らず、そしてヴォルデモートは疾うに滅んだと思っている。だから不承不承ではあるものの、セドリックはダリルの願望を叶えてやることにした。

「なんで、そんなことを?」
「さっきの謎かけをした人は、私に悪とその人は似てるって言ったの」
 ――また“彼”の話か。セドリックはダリルの台詞に酷く嫌な気持ちになった。ダリルがその男を語ると、彼女が遥か彼方に行ってしまうようで、こんなに近くにいるのに、砂の城のようにサラリと崩れて行ってしまう気すらして怖くなる。
 セドリックは羽根ペンを握っているダリルの手に触れた。ダリルが不思議そうな顔をして、セドリックに微笑みかける。羽根ペンを落として、セドリックの手を握った。羽根ペンの先から広がるインクが“トム”を一人呑みこんでいくのを見て、セドリックはホッとした。
「悪の定義は人それぞれだから、僕にとっての悪が謎かけをした人と同じである可能性はないと思うよ」
「ええ。セドリックにとっての悪が知りたいの」
 セドリックは命綱でも手繰るかのようにダリルの手を握り返し、自分のほうへと引いた。胸の内の焦燥感が消えない。
「僕にとっての“悪”は、人を害することへの無関心さだ」
 それは実にセドリックらしい返答だった。単純に傷つけた者を罰するだけではなく、反省の有無を善悪の区切りとする誠実さが伺える。ダリルもセドリックの台詞から彼の優しさを感じていた。しかし反射的に浮かべた微笑みが、己への苛立ちに揺らいでいく。
 ダリルは俯いた。「私は、ね」セドリックの真っ直ぐな灰色の瞳に映る自分の姿が見えない。耳元に語りかけるノイズから身を捩ろうと、ぎゅっと目を瞑る。瞼の裏には夜が広がっていた。“トム”が暮らしてきた場所。ダリルがこの二年で幾度も不安を煽られてきた闇。
「悪とは何なのかしら……」
 ポツンとこぼれた響きには、ましろの邪悪さえ含まれている。

 ダリルがセドリックの手を強く握った。「私、よく分からないの」ダリルの肩が小刻みに震える。「わからない」ダリルの鼓膜がノイズに触れていた。女が、男が、子供が憎悪をダリルに撒き散らす。聞きたくないのに、ダリルは一言一句たりとも聞き洩らせない。
 ダリルは華奢な声音で言葉を続けた。「勿論大事な人を傷つけられたら嫌だし、そんな人は嫌いよ」セドリックはダリルの言葉を待って、黙りこくっている。静かな図書室のなかで、蜻蛉よりも微かな独白が紡がれていた。
「――でもね、何故そこに至ったのだろうって考えると分からなくなってしまうの」
 ヴォルデモートは何故純血思想に拘るのだろう。彼が人を拒絶するのは何故なのだろう。考えれば考えるほど、クィレルが死んだことに対する感情のやり場に困ってしまった。自分がしたのだと強く感じるようになった。ヴォルデモートが悪いのだと思えなくなった。単なる人殺し、そう思っていたし、今だってそう思ってはいるのに、彼に対する尊敬がダリルのなかには存在している。それは可笑しいことだ。相手はクィレルを死に至らしめた男で、ルシウスを道具と言い切り、やがてドラコにも人を殺させるだろう悪魔のはずだろう。なのにダリルは何故あの男へ関心を抱いている? 何故あの男を哀れだと思う? 自分よりずっと年上で、遥かに賢く邪悪な魔法使いの背を、あたかも五歳の子供へそう抱くように――何故撫ぜてやりたいなどと思ってしまったのだろうか。
「物事って何もかも表裏一体だわ。例えば今ここで人を殺せば、勿論その人は罪に問われるでしょうね。そしてその人の事を皆、悪人だと言うの。だけど、例えば、自分の大事な人を殺されたからと相手を殺したら、それは罪なの?」
 ダリルがゆるゆると目を開けた。スカートのしわを見つめる。
「奪われたら報復したいと思うのは自然なことでしょう。きっと誰もそれを単なる悪だとか、罪だとは言えないと思うわ」
 言葉がスルスルと落ちてくる。自分ですら理解出来ない感情が、勝手に音となってしまう。
「……人を殺すのって、相手を直接害する必要はないんじゃないかしら」目頭が熱くなる。脳裏に子供の姿が過ぎる。黒い髪に黒い瞳、闇の申し子と言っても違和感のない凍った瞳、人の温もりを知らない冷たい肌、死だけが彼に手を伸ばしていた。
 人を害するというの器のことだけではない。死というのは、肉体の機能が停止するというそれだけではない。もっと広い意味を持っている。人はパンのみにて生きるに非ず――肉体が健康ならば良いと言うことではない。
『不気味な子供! 帰ってこなければ良いのに』
『変な奴、化け物だ。誰だってこんな子供を育てたいとは思わないだろうよ』
 ナイフよりも鋭い刃に刻まれて心が朽ちることもある。死体として日々を生きる者がいる。小さな子供が寄る辺もなく、ずぶずぶと夜に沈んでいく。伸ばした手を掴むものはなく、ちょっとやそっと差し出しただけでは彼に届かない。初め彼を救おうとした者も、やがて諦めて去っていってしまう。その遠ざかる足音に尚心を閉ざし、死に近づいていくのだ。
 ダリルはセドリックの手を握っていないほうの手で、口元を押さえた。胸が潰れそうな圧迫感、深い悲しみが肺に満ちる。
「奪われたから奪うの? それを繰り返すの?」頬を涙が伝う。「自分が奪われたから、誰かの大事な人を憎み、殺すの?」
『僕に触るな』
 記憶のなかの赤い闇がダリルを射抜いた。
「あの人が誰からも大事にされてないから、抱きしめられたことがないから、だから――」ダリルは何かから逃れようとするかのように身を捩った。「それが、許されるの……!?」
 誰かがヴォルデモートの傍にいてやれば、彼はきっとあそこまで心を硬化させることはなかった。善悪の区別を持たず、世界の全てを拒絶するように彼を育てた者は悪くないのか。一人で暗い部屋のなかにいた彼だけを、悪として裁けば全てが終わるのか。
 セドリックがダリルを抱きしめた。「ダリル」不安そうな声がダリルの耳朶を溶かす。胸の内に満ちていた圧迫感が和らいだ。ダリルは縋るように、セドリックの背に手を回す。何もかも忘れてしまいたかった。手を伸ばさなければ良かったと思った。

 ヴォルデモートになんか、あの人が……あの子が可哀想だなんて、

「ダリル、君は何も奪ってない。人を害してない」セドリックは祈るような気持ちで続けた。「君は何もしてない……!」本当はダリルが“何”をしているか分からない。不安が肺から湧いてくる。それを紛らわすために、セドリックはダリルをきつく抱きしめた。
「何もしていないよダリル。君は誰からも何も奪ってない。人を害したとしても、それに無関心でいられはしない」
 クィレルの死に傷ついたダリルの姿が脳裏に過ぎる。彼の喪失へ身を切るような痛みを訴えていた背が焼き付いて離れない。
『……あの子はバランスを崩せば一気に落ちていく危うさと、他から責められるが故の孤独を秘めているのじゃろうな』
『対象の悪事に左右されぬ愛情というのは時に身を滅ぼす』
『大事な人が幸せになってくれるなら、腕がなくなっても、足がなくなっても、死んでも良いわ』
 関心を向けるものが多くなれば多くなるほどダリルは脆くなる。ダリルを目にしたものが彼女を拒絶出来ないのと同じように、彼女もまた一度目にしたものを愛さずにはいられない。無防備で、己が傷つく事を理解しないダリル。誰かが傍で守ってやらねば、彼女はあっという間に四肢を捨ててしまうだろう。彼女は何の自衛もなく人へ手を差し伸べるから、人の心を開く。今まではそれで上手く行っていたかもしれない。しかし彼女を傷つけることが目的で近づく者が居れば――セドリックは背筋が寒くなった。
 己の腕のなかで“誰か”のためにしくしく泣いているダリルへ、セドリックは口を開いた。
「頼むから、人を切り捨てることを覚えてくれ。さもなくば僕に何もかも教えてほしい」ダリルがビクリと震えたが、セドリックは躊躇わなかった。「君の腕や足がなくなったら僕は不幸だ。君を失うだなんて、考えるだけでもぞっとする」
 セドリックは心中を浸す焦燥感から、己が急いているとは気付けなかった。ダリルが待ってほしいと言ったのは、正にその選択なのである。愛する誰かのために誰かを見殺しにすることが出来るか――ダリルはその覚悟が出来るまで、セドリックに待ってと頼んだのだ。
「僕をちょっとでも大事に思うなら、もっと自分を大事にすると約束してくれ」
 イエス以外の返事を聞きたくないと言いたげにキッパリした口調で己を諭すセドリックに、ダリルは眉尻を下げた。俯く。

『お前達みたいなマグルに、僕の何が分かる』
「……化け物って言われて育った子供は、どんな大人になるかしら」
 ダリルが口にしたのはノーでも、増してやイエスでもなかった。
「誰からも必要ないって、誰からも必要とされないだろうって嘲笑われた子供は幸福になれるのかしら」
「君はその子供の為に髪の毛一本たりとも損ねてはいけない」
 セドリックは語気を荒くして、ダリルを咎める。ダリルを抱きしめる腕を緩めて、右手で俯いているダリルの顔を上げさせる。悲しみを湛えたブルーグレイの湖面にセドリックの姿が映らない。クィレルの死に悲しんでいる時と全く同じ、死んだ瞳がそこにはあった。

 やっと距離が近づいたと思ったのに、瞬く間に遠ざかっていく。

 セドリックはダリルが必ず自分のところへ戻ってきてくれるという確証が欲しかった。しかしダリルの瞳にチラと怯えの色が見え隠れするのに気付き、セドリックはそっぽを向いた。なるたけ穏やかな響きで、ダリルを諭そうとする。
「分かるだろう。その子供が変わるチャンスは幾らだってあった。誰にでも幸福になるチャンスがある。本人がはねつけなければね」
「受け入れられない子供だっているはずよ」
 ダリルは小さな声で、しかしハッキリとセドリックの言葉を否定した。
 如何してこうなのだろうとセドリックは苛立つ。自分の与える感情も愛情も、何もかも、裏切られるとは考えることすらなく、己が傷つくことを恐れない。ダリルはそれで良いかもしれない。しかしダリルを大事に思う人の気持ちは如何なるのだろうか。ダリルが平気な顔で足や腕を切り取り、人に与えて、何の見返りもなく朽ちて行くのを温かく見守れと言うのだろうか。
 言ってもダリルは理解しようとしないだろう。彼女は傲慢だから――自分に注がれる愛情を信頼することが出来ない。彼女が確固たるものだと信頼を置くのは己が人に与える愛情だけなのだ。だからセドリックの気持ちを顧みようとしない。

「……その子供は、君がどんなに尽くしても応えない」
 諦めの籠った響きで、セドリックが眉を寄せる。ダリルは黙っていた。言いたいことは色々あったが、強い衝撃がダリルの思考をかき乱していた。私はヴォルデモートに尽くす気なのだろうか? 応えてくれるとでも、そんな馬鹿げた偽善を抱いているのだろうか? その問いの答えに気付くのが嫌で、ダリルはセドリックの胸を押し返した。セドリックが引きとめようとする腕を振り払って、帰り仕度を整える。
 “トム”達がインクに呑まれて真黒になっていたのを見て、ダリルは少しホッとした。名簿と汚れた羊皮紙とインク壺と羽根ペンを鞄に詰めて、椅子から立ち上がる。「私、行くわ」丁度ぼーんと、消灯時間三十分前を知らす鐘が鳴った。
 ダリルが一歩、二歩、遠ざかろうとするのを、セドリックの腕が阻む。ダリルは顔を歪めた。セドリックが握っていたのは、先日ヴォルデモートに握られたほうの手首だった。痣はまだ引かず、包帯の下は青黒くうっ血している。

「ダリル、僕の話を聞いてくれ」セドリックが真剣な声で、ダリルの小さな背に話しかけた。
「明日でも良いわ」ダリルは冷淡な声で応える。「消灯時刻が近いもの……ね、また今度話しましょう?」
 話をうやむやにする気なのだとセドリックは悟った。それでも、いつものように頷くことは出来ない。今手を離せば二度と戻ってこないような気すらした。その焦りからセドリックは禁忌を口にしてしまう。

「クィレル教授は君を顧みなかったじゃないか! 自分の行動でどれだけ君を傷つけるか理解しようとしなかった……! また、」続けようとしたセドリックの頬を破裂音が掠めて行った。じわりと熱が痛みとなって滲む。ダリルが手を振り上げて、涙目でセドリックを睨んでいた。わなわなと震えている。ダリル自身、自分が何にショックを受けているのか分からなかった。
 唯一、こんな形でクィレルのことを語り合いたくなかったという気持ちだけがハッキリ理解出来た。涙の道をまた滴が伝っていく。
「クィレル教授は私に応えてくれたわ」
 ダリルが己を見る目に失望が込められていると気付かされたセドリックは、するりとダリルの手首を掴む手を下ろす。ダリルは逃げなかった。クィレルの死を知った時より、クィレルの面影を探して歩いた時よりもずっと傷ついた顔をしている。
「私がクィレル教授を殺したのよ。止められなかった。あの人は、あのひとは……」ダリルはこれ以上セドリックを見ていられなくなって、背を向けた。「あの人はもっと、私よりもずっと賢くて、優しくて、素晴らしい人だった!」
 セドリックはダリルを追わなかった。後悔よりも怒りよりも、何より先に彼を震わせたのは、この口論が名前も顔も知らない“誰か”についての会話から始まったという恐怖だった。そしてダリルが関与しているのは、自分が思うよりもずっと重いことなのではと怖くなった。
『一見して魅力的な人間はその倍の負債を抱え込んでおるよ』
 耳元でダンブルドアが囁いたが、セドリックは誰を想ってその台詞を思い出したのか分からないで居た。



 ダリルが部屋に戻った時はもう消灯時間を過ぎていたが、ジニーは戻ってきていなかった。普段ならジニーのことを気にして、彼女を探しに行っただろう。しかし今のダリルは自分の事で手いっぱいだった。セドリックに酷い事を言ってしまったとも思ったし、セドリックに言われたことを思い出して、枕に顔を埋めて泣いたりした。嗚咽を漏らして泣いている内、ダリルはそのまま眠りについてしまった。

 涙の跡が残る寝顔を赤い瞳が覗きこむ。黒いローブにランプの柔らな光を吸いこませ、ヴォルデモートがダリルのベッドに腰かけていた。普段蛇の姿を取っているのはその方が動きやすいからであって、この姿で現実に存在出来ないわけではない。寧ろこの姿でいるほうが魔力の消耗を抑えられるぐらいだ。ヴォルデモートが久方ぶりに元の姿に戻ったのは“ジニーが暫く戻ってこない”と知る故だった。
 明日は寝坊する生徒がいるだろうな等と思ってヴォルデモートはクスクス笑う。彼の上機嫌は口煩いダリルが黙っているからという、それだけではない。ヴォルデモートは眠るダリルの髪を指に遊ばせる。プラチナ・ブロンドへ触れていないほうの手には彼女の杖が弄ばれており、先ほどから彼はダリルに開心術を用いていた。思考にダリルの記憶が流れ込んでくる。
 不意に己の過去が交じり、ヴォルデモートは顔を歪めた。そうではないかとは思っていたが、実際にダリルに開心術を用いられたと知って、ヴォルデモートは幾分不愉快になった。彼は他者に“自分”を知られたくないのである。

「――もう夢で会わないほうが良いかな」
 今まではダリルが己の意思で魔力を操れなかったから、平気で己の精神世界に彼女の精神を招いていた。しかしダリルが自在に魔法を使えるようになれば、ヴォルデモートがあの場所でダリルの心を容易に覗けるのと同じに、否ヴォルデモートよりずっと楽に、ダリルはヴォルデモートの心を容易に覗けるようになるだろう。何せ“招いた”のはヴォルデモートなのだから、それはつまりダリルに心を許したと同じ事になる。もう少し慎重に事を進めるべきだったなとヴォルデモートは自分の油断に憤った。
 その憤りも、ダリルの記憶がついさっき――セドリックとの口論の部分に差しかかったことで溶けてしまう。呪文を終わらせたヴォルデモートは、くるくると杖を回して遊ぶ。口元には笑みが浮かんでいた。
『私はヴォルデモートに尽くす気なのだろうか? 応えてくれるとでも、そんな馬鹿げた偽善を抱いているのだろうか?』
 喉元に笑みが広がる。クツクツと低いものだったそれは次第に大きくなり、ヴォルデモートは声を立てて笑った。眠っているダリルが顔を歪める。掠れた声で何事か唸った。それを見てヴォルデモートは声を抑える。それでも瞳には愉悦が満ちていた。
 笑みで肩を震わせながら、ヴォルデモートはダリルの頬に手を寄せる。「あの男と仲違いしたのかい」ダリルは応えない。薄い胸が規則的な上下運動を繰り返しており、頬に残る涙の乾いた跡は痛々しかったものの、黒い部屋とは無縁な優しい夢を見ているらしかった。
 夢で嬉しいことがあったのか、ダリルの口元がやんわりと微笑む。ヴォルデモートの指がダリルの唇をなぞった。

『それって、寂しいのではない?』
 頬に触れる柔らかな温もり、自分の過去を想って切なそうに歪められた眉、慈愛の満ちた瞳がヴォルデモートを映す。

「馬鹿な女……」ヴォルデモートは身を屈めて、ダリルの頬に口づけた。涙の苦い味が舌の上に広がる。閉ざされた瞳に唇で触れ、まだ微笑んでいる唇に口づけた。首に顔を埋めると、ダリルの体がピクリと身動いだ。
 もう自分の痕の消えた白い首に赤い花を咲かせて、ヴォルデモートはゆっくり体をあげる。杖を一振りすると、布団がダリルの上に掛かった。もう一振りするとランプの炎が消える。最後に一振りすると、そこにはもうヴォルデモートの姿はなかった。
 黒い蛇が一匹、布団の上を這って、主人の懐に潜り込む。彼が赤い瞳を閉じた途端に扉が開いた。

 戸の前に立っているジニーがシクシク泣く音を聞きながら、ヴォルデモートは眠りについた。ジニーは己の制服を赤く染め、涙を零しながらそこに棒立ちでいたが、我に返ると慌てて室内に滑り込んだ。眠っているダリルのほうをチラリと見て、起こそうか悩む。しかしジニーは言えないと思った。ダリルが知ったら、自分を不気味だと思うだろう……。ジニーにとってダリルは初めて得た同性の友達であり、また姉のようにも慕っていた。甲斐甲斐しく己の世話を焼いてくれるダリル、もし彼女に嫌われたら――それは考えるだけで恐ろしいことだった。ダリルに不安を打ち明けることは出来ないとジニーは改めて思った。ジニーはダリルを起こさないよう押し殺した嗚咽を漏らす。
 己を責めながら、寄る辺がないと自分を追い詰めながら、ジニーはいつまでも泣いていた。
 

傲慢について

 
 


七年語りCHAMBER OF SECRETS