七年語り – CHAMBER OF SECRETS
33 閉ざされた未来を拓く呪文
クリスマス休暇が終わると同時にジニーもまた沈みがちになってしまった。
ロンは「そんなにクリスマスが終わっちまったのが惜しいのかな」などと日和見な意見を口にするが、ダリルはもっと別のところに理由があると――ジニーと同じく、休暇が終わるや否や暗い表情の多くなったハリーに纏わることが原因ではないかと、ダリルは考えていた。しかしダリルは目の前にある事を片づけるのに手いっぱいであり、原因究明に時間を割くことが出来ないでいた。
まずジニーの要望からダリルは四六時中彼女と一緒にいなければならなかったし、猫人間になったが故に入院中のハーマイオニーからは魔法史のノート作りを頼まれていて、しかもダリル自身の用事としてはヴォルデモートの本名探しがある。それに後期になってからは期末試験に備えてか、出される宿題の量も増え、ダリルは諸々をこなすために睡眠時間を削らなければならなかった。尤も睡眠時間の減少は、ヴォルデモートと過ごす時間が減ることを意味するので、慌ただしさは寧ろダリルを喜ばせた。ただし、その代償としてダリルはフレッドとジョージの言う“ビンズ教授の素ン晴らしい魔法”というのを味わう羽目になった。殆どの生徒は初回の授業で素ン晴らしい魔法の洗礼を受けるはずなのだが、ダリルはこれまで一度たりとも、魔法史の授業中に睡魔と対面したことがなかった。ダリルが睡魔と熾烈な争いを繰り広げるのは魔法薬学だ。魔法薬学自体が嫌いだし、担当教諭も嫌いだし、しかもスネイプの声が程良く低音で、心地よい。嫌味たらしい口調も慣れてしまえば、子守唄のメロディにしか聞こえなかった。それを知ったハリーとロンは「あの緊張感のなかでよく寝れるね……」と呆れたものだ。ちなみにハリーとは未だに口を利いていないが、ロンとはジニーに纏わる話をポツリポツリとするようになった。ハーマイオニーとは、まあ、ノート作りを頼まれるような仲に――つまり殆ど元通りの関係に戻っている。
クリスマス・プレゼントからもその好意が感じ取れたように、ハーマイオニーはダリルがクィレルの手伝いをしていたことを、そう気にしてはいないようだった。寧ろ「色々とスッキリしたわ。クィレルがどうやってユニコーンをおびき寄せたのかとか、ずーっと不思議だったの」と実にあっけらかんとした反応を見せてくれた。ハーマイオニーがやきもきしているのは、ダリルがいつまで経ってもハリーにミス・レターの正体をバラさないからだ。「友達同士が勘違いから喧嘩してるのって、凄く気まずいのよ」そう言うハーマイオニーには申し訳ないが、ダリルは改めて彼女に「ハリーにミス・レターが誰か言わないで頂戴」と念押ししなければならなかった。
ハーマイオニーは理解出来ないと言いたそうに口を尖らせたが、ダリルにも彼女へ上手く説明出来る自信がなくて、結局適当に誤魔化して、ノートの代償として約束を取り付けることに成功した。
多分、ダリルは何処かでハリーと繋がっていたいのだ。
ダリル・マルフォイは、ハリーの他にも考えなければならないことが沢山あるけど、ミス・レターは、ハリーのことだけを考えていれば良い。面と向かってだと嘘をついたり、冗談で茶化してしまうダリルだが、ミス・レターとしてなら素直にハリーを案じたり、誉め称えることが出来た。もしも遊びは卒業する年頃だとは思っているし、ハーマイオニーの言う通り虚偽を続けていても意味はないとも分かっている。
それでもダリルが――自分がもしもハーマイオニーのようにマグル生まれの魔女で、それともロンのように闇とは無縁な魔法族の家の子供だったら、きっとハリーとこんな会話をしただろう、一緒にあんな冒険をしただろうと心が弾む。
「ダリル、貴女はミス・レターなんかよりもずーっとハリーの身近な友達なのよ……」
猫耳をぺたっと寝かせながら、悲しそうにハーマイオニーは言ったが、唯一その台詞だけには同意出来なかった。多分ハーマイオニーも分かっているだろう。ダリルを純血思想の塊だと勘違いしたのは、ハーマイオニーが一番最初だ。
勿論ハーマイオニーが何か悪いというわけではなく、かつて二人が諍いを起こしたその“問題”は今ダリルの抱えている断絶感に直接は関係ない。しかし元は同じものであり、ダリルは彼女との諍いの原因の延長線上へ立っているだけに過ぎなかった。
いずれハーマイオニーも来ることになる場所で、結局ダリルが望んだのは“英雄”としてのハリーだった。
今ならまだ後戻りが出来るのかもしれないとダリルは思ったが、自分がどこへ進もうとしていて、どこに戻ろうとしているのか分からない。人生は選択の連続だ。いつ、どの選択肢で運命が変わるのか、占者としての才も賢者としての知恵も持たない平凡な人間にとって、生きる事というのは靄掛かった山中を往くようなものなのだろう。前も、後ろも、傍らにあるものも見えない。
そういう中で一つだけ見えるものがある。
『人は気がついたらこちらからそちらを見ていて、そちら側にいる君はこちらに進もうとしている』
夢の中のクィレルは、結局単なる夢幻だったのだろうか。それともヴォルデモートの作った何かだったのか、はたまた――多忙なのはつくづく喜ばしいことだった。ダリルがクィレルの言葉を理解することを、睡魔が阻んでくれる。
理解したら“後戻りは出来ない”とはダリルも分かっていた。この台詞はそういう種類の、ある種呪物にも似ている。そう考えると、やはりあのクィレルはヴォルデモートの見せたまやかしだったのかもしれないとダリルは思った。
思考は闇に転じて、瞬く間に光がダリルの瞼をこじ開けて行く。ヴォルデモートとの逢瀬は相変わらず続いていたが、夢だけあって現実とは時間の流れが違うのか、四時間の眠りはあっという間に醒めた。
そんな風にして、頭が空っぽになるぐらい忙しくしていれば瞬く間にひと月が過ぎた。その間ダリルはジニーと寝起きを共にし、ジニーを彼女が授業を受けるべき教室まで送り、迎えに行って、ジニーとその友達と朝昼晩と食事を取って、放課後も勿論ジニーと過ごす。朝から晩まで「ジニー、ジニー、ジニー」だ。フレッドとジョージは「あんまり過保護にすると、余計悪くなるんじゃないか」と釘を刺したし、パーシーも「ジニーの面倒を見てくれるのは勿論有難いけど、それで君が倒れたら元も子もない」とジニー三昧のダリルを諌めて、流石のロンも「そろそろハリーと仲直りして、僕らと一緒にいたら?」と若干的外れな助言をくれた。別にダリルはハリーと過ごすのが気まずくてジニーと行動しているわけではないし、そもそも結局ジニーとは授業中一緒にいられないわけだから、ハリーと気まずいというそれだけだったら、疾うに仲直りしているだろう。二人からは「別にハリーはダリルを嫌っているとか、スリザリンの奴らと通じているとか思っているわけじゃない」と聞いているし、ハーマイオニーは「どうせ知っているんでしょう? ポリジュース薬のことで、私達ピリピリしてたのよ……」とクリスマスまでダリルを遠巻きにしていた理由を打ち明けてもくれた。ここまで二人がお膳立てしてくれているのだから、あとはハリーときちんと話すだけとなっていたが、その“きちんと話す”時間が作れない。
二人はいい加減四人のなかに漂ういやーな空気が面倒になってきたのか、一月も終わり頃になると「仲直りしろコール」で五月蠅くなった。特にロンは「君が近くにいるとハリーがピリピリして怖い」と切実なる理由を引っ提げているだけあって、かなりしつこくダリルにハリーとの仲直りを迫った。ロンの言い分としては「十分だけでいいんだから、そのぐらい時間作れよ」であり、それに対するダリルの反論は「まだ魔力が戻っていない自分は皆より多くの課題が出されているし、ジニーはハリーと顔を合わせられないと言っているから無理よ」、である。このままでは新しい喧嘩の種が出来ると判断したハーマイオニーの気遣いにより、ロンはダリルに文句を言わなくなった。
第一セドリックと話す時間だって作れないのに、ハリーと話す時間なんて作れるはずがないとダリルは思っていた。
セドリックとダリルはクリスマス・プレゼントの礼状とその返信を送り合ったきり、話していなかった。それこそ機会を作れば十分でも話せたのだろうが、互いにあまり直接的な約束を送らなかったのが仇となった。つまり、互いに尻ごみしているのだ。時折ダリルが話しかけようかなとじーっとセドリックのほうを見ることや、逆にセドリックがじーっとこちらを見ている事もあった。そういう時に限って邪魔が入るもので、上手く噛み合わないというのか、ダリルの慌ただしさや互いのタイミングの悪さを言い訳に尻ごみし続けている状態である。
ただ返信に「アルバムの一ページめは開けておいてくれると嬉しいな」とあったので、ダリルは然程セドリックとの仲に危機感を抱いていなかった。それこそジニーが元通り明るくなって、自分の身辺が落ち着けば、いつだって仲直り出来るというものだ。
そういうわけでダリルは安心してジニーに掛かりきりでいた。
確かに忙しいし、疲れるけれども、ハリーとセドリックとの仲はいつでも修復可能であるということがダリルを元気付かせた。それにクリスマスの時はジニーに慰められたのだし、ダリルはジニーが望む事なら、それこそ星だって取ってきてやろうという気になっている。ちょっとお節介に過ぎるだろうかとも思ったし、実際周囲はそう思っているようだが、ジニーはダリルが傍にいると少し不安が和らぐらしかった。眠りに落ちる間際、ジニーは必ず「お願い、傍にいて」と繰り返し、ダリルもそれへ頷く度に、周囲に如何思われようとジニーの傍にいようと思った。自分がいることで少しでも何か安心出来るのなら――と思っては来たが、昨日ハーマイオニーから「それじゃあ根本的解決にならないと思わない?」と至極真っ当な指摘を受けた。「それとも貴女が傍にいることで、ジニーが問題に立ち向かえるほどに元気になれるなら、今のまま何も考えず傍にいて良いと思うわよ」今年に入ってから、ハーマイオニーは厳しいことを口にするようになった。
多分にミス・レターの一件がハーマイオニーの心にしこりとして残っているのだろうが、やはりハリーには自分がミス・レターだと知られたくないと思うダリルは黙ってハーマイオニーの説教を聞くに甘んじていた。
「今の貴女って、忙しさへ逃げているだけだと思うわ」猫耳をピコピコ揺らし、ハーマイオニーが低い声で断言する。
御尤もだと、ダリルは思った。口を噤んで逃げているだけなら、犬にだって出来る――ダリルだって今の慌ただしさを心から喜んでいるわけではない。如何にかしなくては、という気持ちはあるし、正直言ってしまえば皆の言う通りジニーへお節介を焼きすぎているのかなとも思う。本当はジニーと一旦離れて、セドリックのことやハリーのこと、それにヴォルデモートのことも一区切りつけなくてはいけないのだ。それでもジニーが不安そうにしていると、離れるとか、きちんとしないとという考えが全部吹っ飛んでしまう。
ハーマイオニーにそう告げると、彼女は「まず自分が如何してジニーを気に掛けるのか考えてみたら?」とアドバイスしてくれた。
「明日、魔法史あるでしょう。その日のノートはロンとハリーに頼むから、その時間で考えなさいよ」
ダリルが「さて、いつ真面目に考えたものか」と思い悩み始めたのもバッチリ見とおすハーマイオニーは、相変わらず聡い。
ダリルが魔法史の時間中にノートも適当にしか取らず、ビンズ教授のまじないにも耳を傾けていないのは、そういう理由があってのことだった。ハリーとロンはダリルの右斜め前の席に座っているが、頭がカクカク動いていることから察するに舟を漕いでいるのだろう。ハーマイオニーには悪い事をしたなとダリルは思った。あの二人は“素ン晴らしい魔法”への耐性が全くないのだ。
今からでも遅くないから、ノートを取ろうかな――とダリルは思ったが、止めた。今から板書しても、前半部分は空白のままなのだし、それならハーマイオニーの気遣いを有難く受け取ったほうが良い。ダリルは何故ジニーを放っておけないのか考えることにした。
庇護欲ではないと思う。それじゃあ、何なのかと言うと、考えが纏まらない。ダリルは体裁のためだけに広げてある羊皮紙の上に、羽根ペンを滑らせた。「ジニーを放っておけない」これはまず確かなことだ。「傍にいてと望まれたら、抗えない」と、そこまで記して、ふとダリルはハーマイオニーのことを……否、医務室でのことを、何か喉のところで突っかかっていると感じた。
羽根ペンがすらりと黒い線を引く。「お願い、傍にいて」ジニーの台詞をもう一度繰り返す。「お願い――眠るまで、」言葉を綴る途中で、ダリルは羽根ペンを動かす手を止めた。灰色の視線を思い出す。
真っ白い、硬質な部屋の中で優しく響いたあの台詞が、ダリルの舌から零れた。
「……眠るまで、傍にいるよ」ダリルは自分にだけ聞こえるような低い声で囁いた。
記憶のなかのセドリックが微笑んだ。ダリルを安心させるために、真摯な声音で口にする。
『君が人を殺さないよう、見張ってるから、眠りなよ』
『お願い、傍にいて』
滑らかな黒い帯が文字を綴る。「眠るのが怖い」斜線を引いた。「意識がなくなるのが怖い」文字を続ける。「私と一緒にいたいのは、見張っていてもらいたいから」殆ど憶測の域を出ない散文だったが、ダリルは己の考えが正しいように思っていた。この考えが正しいのであれば、ダリルがジニーを放っておけないのは、つまり、己が孤独だった時の姿を投影しているからだ。否それだけなのだろうか。
ダリルの思考を占めるのはジニーとの会話や、セドリックとのやり取りだけだった。ダリルはガリガリと羊皮紙に散文を書き散らして行く。「何故見張っていてもらいたいの?」「何か自分が仕出かしそうだから、誰かに傍へ付いていてほしい」「ダリルを選んだのは同室で、朝から晩まで一緒にいることが出来るから」「自分を心配する家族にも言えない」「何をしているか、」
わからない。そう羽根ペンを動かすことはなかった。ダリルは自分が何故眠るのを拒んでいたか思い出したのだ。否、忘れていたわけではない。しかし、まさかジニーが――と選択肢から除外していたのだ。「強力な服従の呪いを掛けられることが多々あり、己でも操られていると分からないまま、記憶が一部欠けている?」思考を文字として刻んだ瞬間、ダリルの顔から血の気が引いた。表情が強張る。
『それでは言うわ。誰を使っているの』
『自分だとは思わない?』
使っていることは否定しなかった。確かにジニーを使うのであれば、ダリルと同室であることも関係して、スムーズに進むだろう。しかしダリルはヴォルデモートと初めて会って以来殆ど毎日夢の中で逢瀬を続けているはずだ。幻で誤魔化されているという可能性もあるが、そうとは思えなかった。また昼間にヴォルデモートとジニーが遭遇するのは不可能だろう。ジニーが授業をサボったという話は、聞いた事がない。ダリルが部屋を空けている間はジニーも同じに部屋へ戻らないはずだ。
かといって、ヴォルデモートが完全にジニーと無縁であるとは考えにくい。ダリルはヴォルデモートとの会話を思考に巡らせた。
『代わりに言うだろう。答えはイエスであり、ノーなのだと』
ダリルが秘密の部屋の継承者は貴方かと聞いた時の返事だ。「ヴォルデモートが秘密の部屋の継承者であることは確定」羽根ペンが動く。「己の体で動かず、人を使っているのも確定」サラサラとペン先が文字を紡いだ。
そもそもヴォルデモートというのは、ダリルが知る限りで二種類存在する。「いつも夢で会うヴォルデモート(若)」とダリルはメモする。「本体であろうヴォルデモート(霞)」と、横に並べて書く。二種類存在するということは、ヴォルデモートの“イエスでありノーなのだ”という主張が成立することになり、彼が真実を言っていることが証明される。嘘だったら、考えれば考えるほど訳が分からなくなるだけだ。
ダリルは羽根で己の鼻をくすぐりながら考えた。ヴォルデモートの台詞を書きこんでから、その下に「この台詞は本当のことであると仮定する」と足す。「ヴォルデモート(若)はしていないが、ヴォルデモート(霞)がしている」そこまで書いて、斜線を引いた。
しっくりこない。ダリルは尚も、何か手掛かりはないかと思考を漁る。継承者について話したことは片手で数えるほどしかないはずだ。
『コリン・クリービーを襲ったのは、マグル生まれだから?』
『さあ、知らないね』
『嘘はつかないって言ったわ。知らないなんて、はずないでしょう』
『まず、その台詞が真実である証拠がどこにある』
分からなかった。
ダリルは記憶の隅から拾って来た会話の断片を頭のなかで反芻させながら、左手で額を押さえる。
ジニーの行動から漁ったほうが良いのだろうか。ヴォルデモートがジニーの傍にいると仮定して、尚且つヴォルデモート(若)とは別種の姿かたちで存在しているとしたら、どこにいる? 何に宿っている? クィレルの時は、ヴォルデモートは彼のすぐ傍にいた。ジニーを利用しているのなら、きっと同じ様に、彼女が肌身離さず持っているようなものに宿っている――そこまで考えて、ダリルは顔を顰めた。ヴォルデモート(霞)は物体にも宿れるの? 何故“物体”だなんて思ったの? そう疑問に思った瞬間、雷のような衝撃を伴う台詞が脳裏に浮かんだ。
『日記を書きたくないのに、書かないといけない気がするの……ダリル、私もう嫌なの……! もう、書きたくないの、私、なんで』
日記だ。ダリルは、目を見開いた。何故気付かなかったのだろう。あれほどジニーが嫌がっているのを見て、何故単なる生真面目さから書き続けているだけだなどと――嫌だと言いながらジニーは日記を書いていた。学期初めの九月一日、部屋にいたジニーは日記を書いていて、ダリルがそれについて触れただけで過剰に反応したじゃないか。
『……私の日記帳と同じようなものなのかしら』
『あんまり良くないことだって分かってるんだけど、手放せないの』
ダリルは勢いよく席を立った。ビンズ教授は例のまじないを休める様子はないが、舟を漕いでいたはずの生徒達は全員椅子が床に叩きつけられる衝撃音で現実に引き戻されたらしい。皆がダリルのほうを見ていた。ダリルは己の思考がメモ書きにされた羊皮紙をぐしゃりと握りつぶす。「ビンズ教授、私医務室に行ってきます」そう言うなりダリルは鞄もインク壺も羽根ペンも何もかも置き去りに、入口目掛けて早足で歩きだした。途中でシェーマスがダリルのローブの裾を引っ張って、何事か聞こうともしたが、ダリルは歩みを止めなかった。廊下に出るなりダリルは駆けだす。今もまだ日記を開いているのは見るが、最近はもう持ち歩くほどの執着は見せていないはずだ。きっと机のなかに仕舞ってあるに違いない。ダリルは階段を二段飛ばしで降り、玄関ホールに辿りつくと、大急ぎでグリフィンドール寮のある塔へ続く階段を駆け上がる。ジニーが部屋へ戻ってくる前にあの日記を確かめて、処分しなければならない。
ダリルは荒れる息を整えもせずに太った淑女の裏にある穴へよじ登り、誰も居ない談話室を横切って女子寮に続く螺旋階段を上る。「二年生兼一年生」と刻まれたプレートのついた、見慣れた扉へ倒れ込むようにしてダリルは自室へ入った。
赤い部屋の中には誰も居ない。胸を掻き毟りながら、ダリルがジニーの机に駆け寄る。今度こそダリルはその場に崩れ落ちた。カーペットの上に座り込んで、ジニーの机の引き出しを開け続ける。一段目は羊皮紙の束と羽根ペンとインクが、二段目は女の子らしい細々した雑貨と写真が、三段目には教科書の群れ。ダリルはジニーの机の引き出しをひっくり返して、あの黒い日記帳を探した。持って行っているはずはない。ここひと月ほど触れるのは日記を書く夜だけで、あとは――あとは、そこまで回想して、ダリルは動きを止めた。
あと調べていないのは、一番上の引き出しの横、椅子が入るスペースの上にある平べったい引き出しだけだ。そしてその引き出しには鍵が掛かっている。ダリルは呆然とその鍵穴を見つめていたが、震える指でローブのポケットに入っている杖を取りだした。
鍵穴に杖を向けて、ごくりと唾を飲み込む。日記を見つけて処分しなければならない。否マクゴナガル教授のところか、ダンブルドアのところへ行こう。ジニーを死なせるわけにはいかない。もうクィレルのように、誰もヴォルデモートには利用させない。
ダリルの瞳が怯えに揺らいだ。プツンと意識の切れたのち、手のひらに砂粒一つ残らない喪失感。最初から何もかも夢だったのではと思わせるほどに空虚で、砂の城よりも儚い幻影だけが己を呼ぶ焦燥感。
『最悪私が貴女の姉になって、貴方の兄に相応しい人と結婚するわ!』
『姉さんが出来たら、こんな感じなのかしら……』
『最期に君という素晴らしい生徒に出会えたことを、教師として誇りに思う』
嫌だ。もう失いたくない。いつも同じだ。もっと早く気付けばよかったと、そればかり思って、何も出来ないまま、また失うのだろうか。日記を処分しなくてはならない。ジニーはヴォルデモートなんかに利用されてはいけない女の子だ。可愛くて、優しくて、人への気遣いが出来て、素直で、明るくて、ハリーのことを純粋に思っている。ジニーはこちらに来てはいけない。
「アロ、」
杖先が震えた。
「ッロ……モ、ラ」
声が裏返る。呪文が紡げない。紡げるはずがないのだ。ダリルはスクイブだ。魔法なんて使えない。使えるわけがない。いつだってそうだ。ホグワーツに通っても、スクイブではないと分かっても、今までと何も変わらない。望みが叶えば叶うほどまた新しい問題が発生する。何も変わらない。――将来魔法が使えるようになっても、一番使いたい魔法は使えないままなのだ。
魔法使いにだって何でも出来るわけじゃない。だけど、今解錠の魔法が使えればジニーは助かる。きっと襲撃事件も終わる。
六歳の頃には戻れなくても、新しい未来を切り開いていくことが出来る。自分の力で立って、歩いていくことが出来る。
『魔力が戻ってきたみたいだね』
皮肉なことにヴォルデモートの台詞がダリルの背を押した。
『ゴーントの次に永い純血一族の末裔、スクイブでもマグルでもないのに、そちら側の思考回路を兼ね揃えた魔女だ』
黒く尖った杖先がハッキリと鍵穴を指した。ダリルのブルーグレイの瞳からぽたっと一粒涙が落ちて、カーペットを丸く濡らす。
「――アロホモーラ!」
机の奥でカチリと、くぐもった金属音が鳴る。ダリルはポカンと鍵穴を見ていた。杖を落とし、恐る恐る取っ手に手を掛ける。引き出しはスルリとダリルに従順だった。キャンディーやビーズなどが転がる横に、黒い長方形があった。日記だ。ダリルは安らいだ笑みを浮かべる。これでジニーはもう大丈夫だ。この日記が良いものであれ、悪いものであれ、マクゴナガル教授のところへ行こう。自分一人の勝手や強がりへジニーを巻き込むわけにはいかない。ダリルの華奢な手が掴むよりも先に、骨ばった大人の手が日記に触れていた。ひやりとした冷たさがダリルの首筋に触れる。肌が粟立った。「――まずは、初めての呪文詠唱おめでとう」耳元でテノールが笑う。
鼓膜に響く音は徐々にダリルの思考を蝕み、黒い穴を開ける。ダリルは自分の舌を強く噛んだ。床に散らばっている羽根ペンを掴み、その横に落ちている羊皮紙をペンの跡が残るよう強くなぞる。伝えたいことが伝えきれない。カクンとダリルの体がカーペットに沈んだ。指が動かない。白と黒が交互に瞬き、視界に映る世界が輪郭を失っていく。
ヴォルデモートは倒れ込んだダリルの横に膝をついて、眠りに抗おうと顰めつらを続けるダリルの顔を覗きこんだ。
「今、君にマクゴナガルのところへ行かれるわけには行かないんだよ」
そのまま世界が暗転する。
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今日は珍しく、ダリルが教室へ迎えにこなかった。そればかりか昼食の席にも、結局夕食の席にもダリルは現れなかった。ロンの話では魔法史の時間、急に体調を崩して医務室へ行ったとのことだったが――夕食の帰りに友人たちと寄った医務室にもダリルはいなかった。キャシーが首を傾げる。彼女はダリルの次に友達になった女の子で、サバサバしていて付き合い易い。「お姉さん、どこ行っちゃったのかしらね」頷くのはエリィだ。「ほんと。いっつも、ジニーのこと迎えに来るし、ずーっと傍にいるのに……」
友人たちの言いぶりにジニーは力なく微笑んだ。「ダリルだって忙しいもの。本当は私のことばっかり構ってちゃ、いけないのよ」
「大丈夫よ。お姉さん、去年は学年五位だったんでしょ」エリィがそう言って笑う。お姉さんというのはダリルのことだ。ここ最近ジニーの世話ばかり焼いているので、とうとうそんなあだ名をつけられてしまった。
「凄いよねえー」キャシーが上の空で頷いた。カンカンと音を立てながら、三人で螺旋階段を上る。まだ就寝時間までは余裕があるものの、今日が返却期限の本を図書室へ返しに行きたいと言うジニーに付き合って、二人も読み終わった本を取りに女子寮へ来たのだ。
「だけど、本当どこ行っちゃったんだろう。図書室とかにいるのかしら」
三人の部屋のなかで一番談話室に近いのはジニーの部屋だ。ジニーは「二年生兼一年生」というプレートのついた扉の前に立つと、取っ手を掴んだ。「そういえばジニーとお姉さんで二人だけなんでしょ?」キャシーがそう言うと、階段を上りかけていたエリィが戻ってくる。「あ、私も見たい! どうやって使ってるの?」二人とも興味津津でジニーに張り付いた。
ジニーは右手でカチと取っ手を押さえて、向こうへ押す。「同じ部屋よ。まあ、ベッドが余分にあるってだけ――」その続きは紡がれることがなかった。すっかり荒らされたジニーの机の前で、ダリルが黒い日記を片手に倒れている。
キャシーとエリィは困惑と衝撃から狼狽するばかりで、何故何どうしてをパニック気味に繰りかえすだけだったが、ジニーは彼女達の疑問に全て応えられると思った。ジニーのとび色の瞳に怯えが浮かぶ。トムが、ダリルを傷つけたのだ。何らかの理由で日記が怪しいと気付いたダリルが――あの日記を捨てなくてはならない。ジニーは強く決意した。
「日記を先生に」とだけ刻まれた羊皮紙に気付くものはおらず、翌朝から「ダリル・マルフォイがスリザリンの継承者に襲われた」という噂が校内に飛び交うこととなる。
七年語り – CHAMBER OF SECRETS