七年語りCHAMBER OF SECRETS
39 いつか添えることを

 

 柔らかな茶の髪、自分を見つめる優しい灰色の眼差し、焦がれ続けたものであるにも関わらず、「駄目!」と叫んだダリルはばっと布団のなかに隠れてしまった。繭を作って、その中で震える。セドリックは約四か月ぶりの会話の果ての拒絶に、憮然とした。
 尤も彼の不機嫌はダリルの態度だけが理由ではない。あれだけ自分がダリルを案じて多くの忠告をしたにも関わらず、彼女は酷く傷ついていた。恐らくにダリルが“あの子供”のために損ねたのは髪の毛一本どころではないだろう。
 セドリックは傍らの椅子を引き寄せて、それに掛けた。
「私、私、会えないわ……! 私……!」
 ダリルは布団のなかからくぐもった拒絶を口にする。ダリルは今更ながらに己の仕出かした事の重大さを理解していた。
『僕をちょっとでも大事に思うなら、もっと自分を大事にすると約束してくれ』
 ダリルは何をしただろう。ヴォルデモートへ未来と命を受け渡すことを近い、胸には闇の印まで刻まれている。セドリックの台詞を忘れたわけではなかったのに、ダリルは自分を大事にしなかった、のだと思う。少なくとも一緒に死んであげるという約束は、自分を大事にしている人間のするものではない。第一セドリックが居ながら、ダリルはヴォルデモートを一番に選ぶようなことを言いはしなかったろうか。

「今度はどんな危ないことをしたんだい」
 闇の向こうからはセドリックの静かな声が聞こえてくる。いっそ怒鳴ったり、叱られた方がマシだった。
 セドリックは今のダリルを見て、どう思っただろう。髪はボサボサで――否それは如何でも良い。顔はかき傷だらけで、肩は血みどろ、今まで自分を案じていてくれたセドリックに見せられる姿ではない。セドリックはどんなにか心を乱しただろう。スネイプも余計な事をするものだ。もう少しまともな状態になるまで、誰とも会うべきではなかった。セドリックでなくとも、アンジェリーナやフレッド達だって心配するだろう。それでも彼らになら謝罪という形で詫びることも出来た。だけどセドリックには、詫びきれない。
 ダリルの頬を涙が伝う。頬を横切って行ったそれが、シーツにじわりと滲んだ。
「お願い、帰って」
 帰ってもらって、それで如何するのだ。
 元気になったからと誤魔化す気なのだろうか? 第一ダリルはもうセドリックに触れることさえ出来ないのに、それで如何誤魔化すのだろう。ダリルは嗚咽が漏れそうになるのを必死で堪えていた。
 先のことは何も見えなかったが、兎に角今は顔を合わせられないというそれだけが頭を埋め尽くす。
「お願い……帰、って……!」
 セドリックが席を立つ気配はない。

「あと数日で学期が終わるね」
 ダリルの懇願へ応えず、セドリックはダリルへ話しかけた。ダリルが黙する。
『今学期中に、応えるわ』
 そう誓ったのはダリルのほうだった。ダリルはセドリックが何を言いたいか悟った。今は答えられない。お願いだから帰ってほしい。駄々っ子のように強いることは出来ないと思った。今までダリルは幾度待ってほしいと告げただろう。思わせぶりな態度を取るばかりで、セドリックの誠実さに応えようとする努力を怠ってきた。そんなダリルが、また待ってほしいと言うのか。それは出来ない。
 セドリックはダリルの顔があるだろうところをじっと見つめて、口を開く。
「ダリル、返事を聞かせてほしい」
 いつだって勝手なのはダリルのほうだった。セドリックのファースト・キスを承諾なしに奪って、セドリックのことを散々待たせて、セドリックを大事にしていない。どんなに案じられても我を曲げず、いつだって折れるのはセドリックのほうだった。その癖他の女の子と喋っていると強い嫉妬を抱いて、セドリックを問い詰める。セドリックはダリルがフレッドやジョージと遊びほうけていても、何も言わない。
 自分はセドリックを都合よく使っているだけなのかもしれない。ダリルがそう思った瞬間、セドリックが言葉を続ける。
「――君が待っていてほしいと言うなら、僕は待つよ」
 待っていてなどと、どの口が言えるだろう。
「君が僕に忘れてくれと言うなら、僕は君を忘れるよう努力する。何でも良い。君の返事が欲しい」
 ダリルは手で顔を覆った。瞳から溢れる涙が両手を熱く濡らす。セドリックに見えていないことは百も承知だったが、頭を振った。
 これ以上「待っていて」などと我儘を言うことは出来ない。そしたらダリルに許された返事は一つだけだ。
「たし、わ、たし」ダリルは胸が捩じれるような痛みを感じていた。
 言いたくない。だけど誤魔化すことは出来ない。これ以上セドリックを振り回すことも出来ない。
 セドリックはダリルの言葉を待って、黙っている。

 正直に言えば、セドリックの内にはこれ以上ダリルに付き合えないという気持ちがあった。
 ダリルは危ないことばかりやらかす。その奔放さに惹かれることもあるが、惹かれれば惹かれるほど彼女が傷を負うのを見ていられない。最初こそダリルの愛情の強さに焦がれたものの、それが己を顧みることがないと思えば胸が苦しかった。
 今日、本当はダリルに返事を強いるつもりはなかった。ダリルが疲弊しているだろうことは察しがついていたし、ただ今度こそ誰よりも早くダリルを見舞いたかっただけなのだ。そしてセドリックの見慣れた微笑みを少し見れれば、それで良かった。
 しかしベッドの上に身を起こすダリルはセドリックの想像以上にボロボロだった。傷だらけで、皮膚のあちこち青く痣になっている。ダリルの傍にいれば、これからも幾度となくダリルが傷ついていく姿を見ることになるだろう。そしてやがて些細な理由から、失う。

 今離れておけば、傷つかずに済む。ダリルの奔放さを微笑ましく眺めることが出来る。他人のために己を切り売りするダリルを素晴らしいと讃えることが出来る。恋した相手が自分以外の誰かのために身を削って傷つくのは、これ以上見ていられない。

 ダリルもセドリックの本音を薄らと悟っていた。だからこそ、セドリックを自分から解放しようと言葉を紡ぐ。
「駄目だわ。だって、私、わたし」
 ごめんなさい。私のことを忘れて下さい。その短い言葉が口に出来ない。口にすることを、拒んでいる。ダリルは己を嫌悪した。
 ダリルが選んだのはヴォルデモートだった。不実じゃあないか。未来すら約束できないのに、彼を引きとめるの? それはダリルが“恋”に望んだものではない。ダリルがしたかったのは、もっときちんとした恋愛だ。こんな己の我を押し付けるような汚いものではない。
 ダリルにはもう二度と物語のように美しい恋は出来ない。ダリルはヴォルデモートに尽くすと決めた。彼の傍に入れるのは自分だけで、ハリーやセドリックの傍にいるのは自分じゃなくて良いから、自分が居なくても皆幸福になれるから――ダリルは唇を噛む。
 セドリックは自分に勿体ないほど優れた青年だ。きっと、自分よりも優れた少女と幸福な恋愛が出来る。
「ごめん、なさ」頭の中が真っ白になった。「ごめんなさい……」忘れて下さいとまでは、如何しても言えなかった。
 虚脱感がダリルを襲う。このまま死んでしまえたら楽なのにという気持ちと、自分が死ぬときはヴォルデモートが死ぬときだという義理が胸の中で交差する。それとも、プツンと意識が無くなってしまったら楽なのかもしれない。
「わかった」

 何も考えたくない。ダリルはどこか遠いところから響く声を、ぼんやり聞き流していた。
 セドリックが椅子から立ち上がる。引き留めなければと僅か思ったが、もうそんな必要はないのだと気づく。何も動かない。ただ頬を涙だけが伝って、シーツに染みを作る。何もかも終わってしまった。
「さようなら、ダリル」セドリックの手が布団の上からダリルの頭を撫ぜる。痛みがないのと同様に、温もりを感じることもない。

 これから永遠にダリルは死ぬまで、誰かの温もりを感じることはないのだ。

 セドリックとキスをすることも出来ないし、セドリックに触れることも出来ない。頭を破裂させるかのような痛みに怯えて、ヴォルデモートの寵を乞うる他ダリルには人と繋がる術がない。ダリルが選んだのはそういう未来だ。愚かしい選択だった。
 シャーとカーテンが開く音がする。セドリックが一歩踏み出す。二歩。四歩も歩けば、もうカーテンの向こうへ行ってしまう。
「や、」潰れたとばかり思っていた喉から、声が漏れる。
『手を振り払ったのは我輩だ。尤も振り払わなかったからと言って、得られるはずもなかったがな……』
 振り払わなければ得られるのだろうか。
『望んだものが自分を選んでくれる幸運というのは人生にそう幾度もあるわけではない。一度もない者とている』
 望まれているのだろうか。そのたまさかの幸運を、ダリルは振り払おうとしているのだろうか。
 手を振り払うの? 私は今、手を振り払ったのか。握り返せば得られるはずのものを――得たいと望んでいるものを振り払ったのだろうか。後でやり直すことが出来るわけがない。これっきりだ。セドリックがダリルを選んでくれることは、二度とない。彼は自分の前から去り、自分の知らない少女と付き合い始めるだろう。幸福になるだろう。私以外の誰かと、私は、私といたらセドリックは不幸になるの? わからない。何も分からない。ただひとつ、

『ダリル、自分の心には素直になることだ』
 スネイプの言葉がダリルの背を押す。

「待って!」
 ダリルはベッドから飛び起きた。布団を跳ね飛ばして身を捩ると、セドリックのローブに手を伸ばす。上半身がベッドから落ち、足がサイドテーブルに絡んだ。タイルの床にサイドテーブルが転がる硬い音と、柔らかなものがぶつかる鈍い音が響いた。
「ダリル、何を」セドリックがぎょっとした顔で振り向く。
 床の上に倒れ込んだダリルの上にテーブルが乗っている。ダリルはセドリックのローブを掴んだ。
「セドリック、お願い、待って」
「分かった。待つから、なんで、こんな、声を出して呼べば、きちんと待った。君が、そんな……」
 普段はプラチナ・ブロンドを美しく煌めかせ、傷一つない美貌に悠然と笑みを湛えているダリルが、惨めたらしく床に這いつくばり、自分のローブの裾を握っている。その姿はセドリックを動揺させた。セドリックにとって常にダリルは己よりも高い位置にいた。セドリックを振り回すのはダリルだったし、その我儘を聞いて折れるのも、一言一句に気分を左右されるのも自分のほうだと思っていた。なのに今ダリルはセドリックに去らないでくれと懇願している。自分が傷つくことも顧みずにセドリックへ待ってほしいと乞うている。
 スネイプから「触れるな」と釘を刺されているだけに助け起こすことも出来ず、セドリックはダリルの前に膝をついて、彼女へ立ってベッドへ戻るよう促した。それでもダリルはセドリックの言葉に応じない。うわ言のように、懇願を繰り返す。
「行かないで、見捨てないで、一緒にいて、ごめんなさい。行かないで、他の女の子のところに行かないで、ごめんなさい」
 自分を見上げるブルーグレイの瞳は涙で潤んでいたが、その奥にある燃えるような激情は微塵も霞んでいなかった。
 あまりの激しさにセドリックはダリルを茫然と見つめる。
「貴方が好き、貴方が好きなの。我儘で、不実で、嘘つきで、何も約束出来ないけど、あなたが、すき」
 恋情に濡れた瞳がセドリックを射抜いた。後から後から頬を涙が伝う。顎から垂れた滴がタイルの上に零れていた。

「そばに、いて」
 誰がダリルの懇願を払いのけられるだろう。

 セドリックが苦笑すると、ダリルも笑った。頬に残る涙の痕も、切り傷も、肩を濡らす血も、手首の傷も、痣も、何もかも痛々しい。しかし愛を語るダリルはセドリックにとって何よりも美しく思えた。「過去も未来も命も捧げられない不実な私ですが、貴方の事が好きです」激情を緩ませ、ダリルが落ち着いた声音で口にする。セドリックはコクリと頷いて見せた。ダリルの瞳に安堵が広がる。
「僕は、未来も過去も命も要らない。今一瞬だけでいい。一秒だけで構わない」
 恋は愚かなことだし、人の理性を奪う厄介な病だ。一度掛かると、相手を求めずにはいられない。
「君が好きだ」
「私もセドリックが好き」
 心から幸福そうにダリルが微笑むから、セドリックはスネイプの忠告も忘れてダリルの唇へ己のものを重ねようとした――その背後でカーテンが引かれる音がする。セドリックとダリルは互いに顔を真っ赤にして、離れた。

「……先ほどからバタバタと、何の騒ぎだね」スネイプが二人を馬鹿にしたそうな顔でカーテンの隙間から覗き込んでいた。
 まだ医務室にいたのか。ダリルは茹蛸よりも赤くなった。てっきりもういなくなったものと思って、否何も考えず告白など仕出かしてしまったのだが、あれを全てスネイプに聞かれていたかもしれないなどと思えば生きていけない。
 セドリックは黙り込んでしまったダリルを庇うように口を開いた。
「ミス・マルフォイが、椅子から転げ落ちた僕を助けようとして、」最後まで聞き終えない内にスネイプはふんと鼻を鳴らす。
「それでミス・マルフォイはディゴリーのローブにしがみ付き、二人して床に転がっているというわけか。中々に馬鹿げたでっち上げだな」
 もうセドリックも言い訳をしようとはしなかった。元から実直なセドリックはそもそも口先のやり取りが苦手なのである。ダリルが普段通りであればスネイプ相手に応戦出来るだろうが、生憎羞恥に悶えていた。
 スネイプは勝ち誇った顔で二人を交互に見やった。このネタで半年はダリルを黙らせることが出来る。セドリックは何故スネイプの機嫌が良好なのかまるで分かっていなかった。ダリルはスネイプの思考を見通して、顔を歪める。
「ふむ」
 そうして暫く二人を見ていたスネイプだったが、不意に床に転がっているポロライド・カメラに手を伸ばして拾い上げた。チカっと光が瞬いて、ゆっくり写真が出てくる。ダリルは壊れなくて良かったなどと、少しズレたことを考えていた。
 セドリックはぽかんとスネイプを眺めている。出てきた写真を眼前にかざして、スネイプが意地悪く笑った。
「ああ。中々良い構図じゃあないかね?」
 ぽいと二人の前に落として、カメラをベッドの上に置く。「次に騒いだら二人とも追い出されると思っておけ」とキッパリ断言して、カーテンの向こうへ戻って行った。シャーとカーテンが閉められ、また二人きりになる。

 ダリルとセドリックは顔を見合わせて、笑い出した。勿論追い出されては困るので、声を押し殺して、肩を震わせる。
 写真のなかの二人は笑えるぐらいぽかんとしていたし、多分セドリックとダリル以外は、この写真を見ても如何いう状況なのか分からないはずだ。ダリルは目じりの涙を拭って、セドリックが持っている写真を手に取った。床に膝をついたセドリックと、床に寝転んでいる自分が映っている。

 そういえばクリスマスに、二人で写真を撮ろうと約束したのだった。もっときちんとした写真をと思う気持ちもあったが、ダリルは恐らくこの写真をアルバムの一番初めの頁に飾るのだろうなとも思っていた。ダリルが写真のなかで慌てる自分たちを見て、微笑む。
「この写真、三年後に二人で覗きこめるかしら」
「少なくとも明日は覗きこめると思うよ」セドリックがダリルに優しく笑いかける。「それを三年分続けて行こう」
「今を十秒続ければ、十秒後の未来に行ける。そうやって、一緒にいよう」
 ダリルはこくりと頷いた。
「一緒に、いていい?」
「うん」頷きながら立ち上がり、ダリルの上に乗っているテーブルを元の位置に戻し、ベッドの下に入ってしまった椅子を引きずり出す。
 ダリルも腕に力を籠めて上半身を起こすと、よろよろベッドの上に戻った。セドリックが反対側に落ちている布団を取って、ダリルの上に掛ける。「そろそろ休んだほうが良い」ヘッドボードに背を寄りかからせようとしたダリルを制して、セドリックが厳しい声を出した。
「ドラコみたい」
 口を尖らせるダリルに、セドリックが苦笑した。普通母親のようと言われるべきところで、何故片割れの名前が出てくるのか。多分に、あの純血主義の少年は己の片割れを酷く大事にしているに違いない。自分とダリルの関係が彼に知れたら、どうなるだろう。セドリックはそんなことを思ってほんのり怖くなった。否、片割れだけの話ではない。父親であるルシウス・マルフォイに知れるほうがずっと面倒な事になりそうな気がする。フレッドとジョージと遊んでいたのがバレて父親に退学させられそうになったと、笑顔で語るダリルを思い出し、セドリックは何とも言えない気持ちになった。家族がセドリックとの付き合いを禁じたら、ダリルは如何するだろうか。
「……君がしたいなら、何を望んでもいいんだよ」如何か家族に多くを禁じられても、ダリルが自分の手を離さずにいますように。そんな思いを込めて言葉を紡ぐと、ブルーグレイの瞳がセドリックににっこり笑いかけた。「君の心は自由だ」
 セドリックの言葉を受けて、ダリルはふるふる頭を振った。「私の持ち主は、もう決めているの」
 ダリルは怪訝な顔をしているセドリックを手招きして、顔を近づけるように言う。ダリルはセドリックに触れないように、その耳朶に吐息を吹きこんだ。I love you forever――唄よりも滑らかな音を紡ぐ。

「貴方を恋うた瞬間から、私の心は永久に貴方のものです」
『私は貴方のものにならない。その代わりに私の未来も、命も、貴方にあげる』
 ――貴方への気持ちを偽らずに済むのなら、未来も、命も、自分の全てを引き換えにして構わない。
 

いつか添えることを

 
 


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