七年語り – SPIN OFF
頬に厚情のキス
ルシウスはかつて「家族というのはフィクションだ」と思っていた。いや、正確に言えば“家族に対する強い感情”が、だ。
彼が妻を娶るまでの長い間、ルシウスの家族は母親と父親だけだった。たった三人きりの家族で、特別家族仲が悪いということはなく、さりとて建前の必要ない場で「良い」と言うに足る何かがあるわけでもない。知人が口にするように、もしくは多くの本へ記されているように、“家族”という単位に対して、思考を絡め取って如何しようもなくなるような気持ちを抱いたことさえなかった。ルシウスは自分が他人と違うことを理解していたし、家族という言葉に“枠組み”を連想することに引け目を覚えることもなかった。
ルシウスにとって自分で自分の感情を制御出来るか否かは極めて大事なことだ。自身の感情へ関心を寄せることも、好んで干渉してこようともしない両親の在り方はいっそ有り難い。父親やルシウスが取り繕う幻想と本気で向き合おうとする知人は、あたかも精神病患者の様だと思った。感情の重みに舵を取られて沈む船があることを知れば知るほどに、ルシウスは一層強くそう思うようになっていった。
家族が己の思考を揺らがす事などありはしない。そう育つ他ないほど機能的な家庭に生まれたのだから、何故揺らぐことがあるだろう。
同じ“枠組み”で言うなら、家族なんかよりスリザリンという括りのほうがずっとルシウスを感傷的にさせる。
七年もの間寝食を共にした友との会話は幾つになっても心和むものがあるし、彼らを相手どった隠し事や悪巧みには成否の如何に関わらず奇妙な爽快感があった。同級生でなくとも、己と志を同じくする後輩に対しても愛着がある。ルシウスは年上におもねる性質ではなく、寧ろ己に年上ぶるものを嫌う傾向にあったが、しかし先輩に対してもある程度の人間らしい――好意や嫉妬、意地などの感情が存在している。ホグワーツという場においてルシウスは普通の枠に留まる一生徒に過ぎず、周囲もまたそのように思っていた。
十一歳になるまで己の世界の中心であった父母より、ホグワーツで出会った学友達のほうが気安いというのはいささか不思議ではある。しかしルシウスは「自分はそういう人間なのだ」と思うことにした。そういう、“家族”や“家庭”というものに関心の湧かぬ人間なのだと結論づけて、やがて己の育った環境や生家について考えたことさえ忘れてしまった。
若かりしルシウスは、いつか持つかもしれない所帯や不透明な父母しか属していない“家族”という枠組みよりも、熱っぽく野心を語る友、そして終わりのない学問、己の培った知識を如何に活用していくか考えることのほうがずっと重要なことであるように思っていた。
やがて父の仕事を継ぐ身として魔法史や古代文明の魔法研究のほうへ重きを置いていたが、当の父は「そんなものより魔法薬学と闇の魔術に対する防衛術の成績を上げろ」と素っ気なかった。殆ど放任主義の癖にと父を鬱陶しく思いはしたものの、結局六年時の履修では魔法史を外した。そして大して好きでもない魔法薬学と、程度の低さを嘲笑い続けた闇の魔術に対する防衛術を選択した。
勿論父親の言うことに従わなくたって良かった。それまでだって父の命令に従わないことは少なくなかったし、ルシウスの反抗を前にしても無反応でいるのが常だった。履修に父の意見を反映させたのは、父の先見性が信頼の置けるものだと思ったからに過ぎない。
物心ついた時からずっとルシウスにとっての父は“家族”というより上司のようなものだった。
父に対して愛情や親しみを覚えることはなかったが、しかし徹底的に無駄を省く機能的な生き方とその優れた洞察力は尊敬していた。純血を保つ家系が少なくなってきたことと、マグル生まれ擁護が過激になりつつあった時勢を見抜き、父は誰より先にヴォルデモート擁立の意思を明確にした。優れた魔法使いであり、残酷な革命者でもあったヴォルデモートは純血主義者達のみならず、昨今のマグル贔屓の風潮に不信を抱いていた人々を取り込むことに成功した。反マグルという一つの思想が魔法界を揺らがすまでの長い間ヴォルデモートの右腕として忠実だった父もまた発言力を強めてきた。それまで魔法界の家格は“血の濃さ”のみで順位づけられていた。二十世代上まで遡れるか如何か危ういマルフォイ家と、紀元前まで遡れると鼻を膨らますブラック家。両家の家格を埋めることを可能にしたのは快挙といって良いだろう。
もう何十年の昔だろうか。幼いルシウスがその“偉業”を褒め称えると、気難しく何事にも淡泊な父が僅かに微笑った。
『時勢に乗るのはフェリックス・フェリシスを調合するより容易い。尤も、調合表さえ読めぬのならこちらが利用されるだろうがな』
父――アブラクサスは右手の試験管を己の目の高さまで持ち上げると、繊細な動きで傾けた。瞳が細められるのと同時、大鍋が空になる。失敗だと、杖を振り終えたアブラクサスが素っ気なく呻いた。それっきりルシウスの存在を認識してくれはしなかった。
実の息子である自分や妻である母に対してもこんな風なのだから、この人は何か特定のものに執着することがないのだろう。
ずっと、父親は淡泊なひとなのだと思っていた。……そう思っていたのにと、ルシウスの恨みがましい視線が床の溝をなぞった。
心中で毒を吐くルシウスの肩を碌々触れた覚えもない温もりが抱いている。「ヴォル」聞き慣れた声の初めて聴く響き、満ち足りた声音が、目の前の“玉座”に掛ける男を呼んだ。「私の息子だ。来年ホグワーツを卒業する。それまでに君に会わせておこうと思ってね」
「もう少し早くに会わせても良かっただろうが、君が中々関心を持ってくれないものだから……」
知らない。知らない。嫌悪感や拒絶ではなかったが、父が親しげにひとを呼ぶという、その違和感に胸がざわめいた。だからといって拗ねた子供のように床を見つめるのは馬鹿馬鹿しいと、ルシウスにだってそのぐらい分かる。でも顔を上げたくない。ぐるぐると巡る思考が父の呼び声に止まった。ルシウス。聞き慣れた声の聞き慣れた響き。父にせっつかれたルシウスは玉座の主を視界に入れた。
多くの闇の魔法使い達の忠誠と関心を手中に収め、闇の帝王として魔法界を震撼させる男の第一印象は“蛇”だった。
父からヴォルと呼ばれ、そしてやがては“ヴォルデモート卿”という恐怖を人々へ刻むために存在している男――辛うじて骨格からそう悟る他ないほど、人離れした何か――は椅子の手すりに肘をつき、気だるげに重たい視線でルシウスを眺める。切れ長というより刃物で切ったように細く鋭い赤眼が己を捉えた瞬間、ルシウスはこの男にとって自分が単なる被食者に過ぎないことを理解した。
「ルシウス、」乾いた喉を唾液で湿らせる。「ルシウス・マルフォイです。以後お見知りおきを」
我が君と付け足すべきか、一応の敬意は見せたのだから省いて良いか等と悩むルシウスの思索へヴォルデモートが割って入る。
「許されざる呪文を使った事はあるか?」ヴォルデモートは組んだ足へ腕を置いて、前屈体制を取った。
到底人らしさの残っていない容貌には、しかしルシウスへの嘲笑がはっきりと刻まれている。
ルシウスはヴォルデモートの質問の意図を測りかねていた。アブラクサスが不法をやらかしているとはいえ、その息子たるルシウスはホグワーツに籍を置く一介の学生だ。許されざる呪文など使う機会があるはずもないし、ヴォルデモートがそれを理解していないはずもない。
ヴォルデモートは返答に困窮するルシウスに浅くため息を吐いてみせると、その赤眼に呆れの色を含ませた。
「他者を害するために杖を振るった事は?」
幼子を教え諭すような声音に、己の頬が熱を孕むのがルシウスにも分かった。明かりの少なさから気づかれぬまいとは思ったが、その動揺さえヴォルデモートに見透かされている気がした。言い様のない悔しさからルシウスはきつく拳を握りしめた。何が闇の帝王だ。暴力のために杖を振るえなどと乱暴なことを言うチンピラに過ぎないじゃないかとルシウスは思った。ヴォルデモートの喉が低く鳴った。
「これはこれは……中々に面白い」ヴォルデモートの掛ける椅子がぎしと軋んだのにルシウスは身を竦ませる。
何が理由かは悟れないが、己の言動か――それとも考えが不興を買ったらしいとは分かった。闇の帝王が開心術に秀でているとは風の噂で聞いたことはある。しかし開心術等の高度な呪文を詠唱なしで使いこなす例など見たことはない。あり得ない。
張り詰める空気をアブラクサスの笑みが緩ませた。「ヴォル、ルシウスはまだ十六歳だ」はっと父のほうを見やれば、僅かに睨まれた。きっと帰宅後叱られるのだろう。それでも助け舟を出してもらえるのは有難かった。
「ああ、アブラクサス――秀才であれ阿呆であれ、皆同じように年を重ねて老いていくのは長らくの間、俺様の関心事だった」
ヴォルデモートが背もたれに寄りかかると、ルシウスの汗が引いた。
「アルバス・ダンブルドアが偉大な専制君主であらせることを知らない君ではないだろう?」アブラクサスは机の裏に貼り付けられたガムでも見るような顔をした。「奴は女子供が使うような下らない呪文しか学ばせん。呪いの“の”の字も口にしない内に警告文を送って寄越す」
「何で不興を買った?」そのままずっと父の相手をしていてくれと思ったにも関わらず、矛先が戻ってきた。
試すような声音は相変わらずだが、視線に含まれていた棘が丸くなった気がする。ヴォルデモートの人となりはまだ掴めていないものの、父とのやり取りを見るにやっていけないことは無さそうだと薄ら考えた。そもそも父にこの館へ連れてこられるまでは己が死喰い人になるとは思っていなかったのだけど、今思えば何故“自分は死喰い人にならない”と考えていたのか分からない。
「……穢れた血が騒がしかったので、全身金縛り術を」
「なるほど、上等な教育だ。ダンブルドアは魔法使いを育てるのを諦めたらしい。じき甲冑代わりの“優等生”を並べだすだろう」
「君がホグワーツの教育要綱に興味を持っているとは知らなかった」やはり聞き慣れぬ響きだと、ルシウスは思った。
「それなりの関心は持っている。如何に程度が下がったとはいえ、母校であることに変わりはないからな」椅子が軋む。闇色のローブの擦れる音まで、父が息を呑む音まで聞こえるように思った。「まあ、ホグワーツの今後についてはお前達理事に如何にかして貰うとしよう」
視界が暗くなる。ヴォルデモートがルシウスの前に立っていた。枝のように節ばった手が差し出される。ルシウスの指がぴくと動いた。
自分はこの男とやっていけるのだろうか?
この、何を考えているのか理解出来ぬのに、己より優れた魔法使いである稀代の暴君に付き合っていけるのか?
父の手がとんと背を押すのに、ルシウスは慌てて左腕を上げた。カフスのボタンを外して、袖を捲る。むき出しになった手首をヴォルデモートが乱暴に取った。対の手に収まっている、すらりと長い杖の先端はやがてルシウスの皮膚に食い込むのだろう。
ルシウスは先の台詞を舌の上に転がした。自分はこの男と上手くやっていけるだろうか? 否、マルフォイ家に――アブラクサスの息子に生まれた以上やっていかねばならないのだ。何故父の息子というそれだけでヴォルデモートと上手くやっていかねばならないのかは、考えられなかった。この男と上手くやっていかなければならない。それ以外に己が生きていく道はないのだと、ルシウスはそう理解していた。
「ルシウス」ヴォルデモートの低い声が、ルシウスの意識を食い破る。「……俺様のために杖を振れるな?」
鼓膜を通さず、頭に直接訴えかけてくるようだ。ルシウスは他人事めいた思考でそんな風に思った。
傍らに立つ父の空気が和らいでいるのを感じる。
先まで息子が己が主君に気に入ってもらえるものか不安がっていた父が、ルシウスのことを省みてくれることのなかった父が、珍しくも履修に口を出してきた父が、いつだって人らしい感情を見せてくれなかった父がホッとしている。
この男に対する従属で埋め尽くされた思考に、父の存在が割り込んでくる。失敗だ。父の、うめき声が蘇る。何も考えたくない。少し身じろぎしただけで、何もかも転覆してしまいそうだった。自分が何に乗っているのかさえ分からない。何故、いつ聞いたものかも分からぬ父の台詞を思い出すのかも分からない。知りたくない。ルシウスは凍りつきそうな舌を無理に動かした。
「貴方のために、」
いつしか杖先が肉を焼く痛みへ救いさえ感じていた。
もう、何も考えたくない。目の前の男への従属で、虚無が手に入る。ルシウスはヴォルデモートの赤眼を見つめた。
「貴方の望みのままに――我が君」
確かにホグワーツも卒業していない子供の時分ではあったが、目の前に立つ男がちょっとでも救いになると思うほど愚かだったとは思っていない。人ならざるものへと昇華されかけていた存在は無論恐ろしかったが、「父にとっての自分はあの時消された魔法薬に等しい存在なのではないか」とか「自分はこの男への貢物として育てられたのではないか」とか、それらよりはずっと優しげであるように思った。
父親への疑念とヴォルデモートへの恐怖のなかで隷属を強いられた時、ルシウスは十六歳の青年だった。研ぎ澄まされた感性に剥き出しの闇が絡む。未来を奪われた青年がどのような愚かを抱いたとして、それを誰が責められるだろう。
我が君。父上よりも貴方の役に立つよう努力しますから、どうか貴方の右隣を私のために空けて下さい。
それはもう何十年もの遥か、父への怒りからこの男に要されることを望んだ。
ルシウスがホグワーツを卒業してから六年、死喰い人になってから七年が経つ頃には、アブラクサスは活動拠点をウィルトシャーの本宅からワイト島の別宅へと移し、あまりに早すぎる隠居生活を楽しむようになっていた。
ルシウスがアブラクサスの居場所を悉く奪ってやったことも関係するだろうが、一番の理由はルシウスの結婚が本決まりになったからだろう。意外なことにアブラクサスはブラック家から“下賜された”婚約者のことを大層気に入っていた。母が疾うに逝去していたのと関係して、「父が後妻に欲しかったのでは」とルシウスはそんな下種さえ思ったものだ。父が乗り気であればあるほどルシウスの不満は募る。
大体にしてルシウスは家庭など持ちたくなかったのである。
仕事とヴォルデモートの世話だけで精いっぱいなのに、それに加えて妻子の面倒まで見なければならないなんてとんだ悪夢だ。
妻の名前を聞いても、一歳年下にそんな女子もいたかもしれない程度にしか思い出せなかった。
顔も分からない女と結婚させられるのかと、いよいよ不満ははち切れんばかりに膨らんでいたが、聞けば内気な性質らしい。それなら自分の横暴を許してくれるかなと、ルシウスは少しばかり慰められた。子供を作る以外のことは何もしないと改めて決意する。
ヴォルデモートの命令が何かあるなら別だが、それ以外で喚くしか能のない生き物と触れ合うつもりはない。子育てはナルシッサに押し付け、自分はマルフォイ家の格を上げる作業にだけ勤しめばいいだろう。そして子供がギャアギャア喚かなくなった頃、跡継ぎとして教育し始めることに決めた。それが良い。大人しく内気な性質なら、夫の命令へ忠実に従ってくれるはずだ。向こうだって一度嫁して置きながら、夫の扱いが酷いので生家へ帰りますなんて恥を晒すことは出来ないに決まっている。父上だって妻子を蔑ろにしてヴォルデモートへ仕え続けたじゃないか。私が同じことをしたとて誰に責められるのか。恨むのならこの婚姻を決めた自分の両親と私の父を恨んでくれ。
情が湧いても困るから挙式まで会いたくないと思っていても周囲は許してくれない。
勝手にデートの日取りを決められたルシウスは死にたいような気持ちのまま当日を迎えた。
デートをキャンセルするに足る理由が降ってこないかな等と重い足を引きずって出かけると、しかし待ち合わせ場所である噴水の前には猫一匹いなかった。これ幸いと帰ってしまわなかったのは、それまで女に待たされたことがないからに他ならない。
言っちゃなんだが容姿は整っているほうだし、結婚が決まってからも「不倫で構わない」と媚を売ってくる女は掃いて捨てるほどいる。学生時代に付き合った女の数だって決して少なくはない。そんな自分を待ちぼうけさせるとはと苛立ったルシウスは根気よく待ち続けた。根気よくと言ってもたかだか一時間だ、そもそもルシウスだって十分遅刻したのだから。
狭量なルシウスが冬の冷たい空気に頬を染めて走ってくる女を叱り飛ばさなかった理由は、彼女が美人だったというそれ以外に存在していない。豊かなブロンドの髪をなびかせ、かじかんだ指で口元を押さえる少女はとても美しかった。ハッキリ言って好みだった。諸事情によりベラトリックス・レストレンジと馴染み深いルシウスは土壇場で婚約者が変わったのだろうかとさえ思った。
壮大な詐欺に引っ掛けられているのではと狼狽したが、ダークグリーンのコートが良く似合う美しい少女は当初の予定通りナルシッサ・ブラックだった。遺伝子の悪戯としか思えない。
妻子を持つのも嫌だし、家庭に縛られるのも嫌だけど、ルシウスだって男だ。女に興味関心がないわけではない。容姿が美しければ尚そそられる。二人は白薔薇の美しい六月に結ばれ、二年の蜜月を楽しんだ後に子が出来た。
その頃にはもう左薬指の閉塞感など忘れさっていた。
妻を持つのは割と良いと考えを改めるようになったからと言って、子育てに従事する心持りになったわけではない。
子供――それも男女の子供が産まれたと聞いた時は「ゲッ」と呻きたくなった。勿論二人の子供を大事そうに抱く妻の前で「子育てしたくない」とか言えるはずもない。辛うじて「よくやった」と絞り出したのだが、息子を抱き取ろうとした夫を見つめるナルシッサの目には猜疑が含まれていた。息子どころか娘にも触らせてもらえなかった。「首が据わってないから貴方に抱かせるのは心配だわ」とか何とか言っていたが、ルシウスが子供を床に叩きつけるんじゃないかと言わんばかりの剣幕だった。
ナルシッサに子供嫌いを見抜かれたことで、ルシウスはいよいよ子育てに従事する気力を失った。素直に「子育てしたくない」とか言おうとも思ったが、それこそ離縁されかねないので我慢することにした。舅は愛娘がネギを背負って帰ってくるのを心待ちにしている。
二年も経てば、父親としての自覚も芽生えるだろう。類人猿の親戚か何かとしか認識出来ない我が子を前に、ルシウスはそう考えた。
ほんの二年辛抱すればいいのだ。父上とかお父様とか呼ぶようになれば自然と愛しく思うに違いない。最近では子供の甲高い声を聞くだけで苛立つようになったとはいえ、我が子だ。それもナルシッサとの子供。可愛くないはずがない。ルシウスは自己暗示に一生懸命になった。
そういう時に限ってルシウスを揺さぶりに来る男がいる。ルシウスの実父であり、子供らの祖父に当たるアブラクサスだ。
余程「二年後まで会いたくない」と言ってやろうと思ったが、父であるシグナス・ブラックに愛されて育ったナルシッサには父子の確執が理解できない。予言だ何だとここのところスピリチュアルなことをほざくようになったヴォルデモートの世話も大概にして帰宅すると、リビングに父がいた。まあそこまでは何とか許容出来る。ナルシッサの前では人畜無害を気取る父をあしらうのは簡単だ。
そう思っていたのに、ナルシッサが変な方向に気を使うせいで予定が崩れていく。ナルシッサが厨房へ引っ込むや否や、アブラクサスはルシウスの慣れ親しんだ仏頂面に戻った。このクソジジイ、ナルシッサと我が君の前では強気になれない癖にと腹立たしく思うも、自分もそうであることに気が付いてしまった。自分とてナルシッサの前では“父を敬う息子”の役に没頭しているではないかと、誰かが囁きかける。
『父上だって妻子を蔑ろにしてヴォルデモートへ仕え続けたじゃないか。私が同じことをしたとて誰に責められるのか』
自分が変わったわけではない。ただ優れた妻を貰ったから思いのほか上手くいっているだけで、ルシウスの根本は何も変わっていない。
ルシウスは揺りかごのなかで眠る男女の双子へ視線を滑らせた。男女の区別がつかないルシウスのために、おくるみの色を分けてある。ルシウス側にいる、薄桃色のおくるみに包まれているのが娘で、対岸のアブラクサスの隣で薄青色のおくるみに包まれているのが息子だ。二人は寄りそうように眠っている。息子がもぞりと動いて、娘のおくるみを引っ張ってしゃぶりだした。その刺激を受けてか、それまで眠っていた娘が嫌そうな顔をする。類人猿そっくりなのに、割と神経質だなとルシウスは思った。……自分に似ているのかもしれない。
嫌々と身もだえする娘をあやそうと伸ばされたルシウスの手に、アブラクサスが低く笑った。 「男女の双子か」
「……何かご不満でも?」
ルシウスは低くぐずりだした娘の頬へ触れた。柔い皮膚をナルシッサがするように優しく撫でてやると、ひくひく震えて泣きそうに顔を歪めていた娘がルシウスの指を掴んだ。「ゲッ」とか言いたかったけれど、父の前で露骨に子供を嫌おうものなら面倒なことになる。ルシウスは自分の指をしゃぶりだした娘に気持ちが冷めていくのを感じた。それを見通してか、アブラクサスが笑みを深める。
「一人“出来損なう”と、もう片方も引きずられる。それに、長じてからは二人の世界に閉じこもって親の存在を軽んじるようになるぞ」
アブラクサスはソファの背もたれに寄り掛かると、冷めた目つきでルシウスにひっついている娘を射抜いた。
「なるたけ隔離して育てることだ」っぱいだ。ルシウスの背後から誰かが囁きかける。「異性の双子は少し育て方を間違うと面倒なことになる」耳朶に絡む影が、繰り返す。「それに、どうせ女ではヴォルの役に立たんのだから捨てても良いかもしれんな」
『失敗だ』
父の声以外、何も聞こえない。何も見えない。
失敗だと一言、何を作ろうとしていたのかも教えてくれずに杖の一振りで消し去ってしまった。
十六の時に封印したはずの懸念がルシウスの内で鎌首をもたげる。いや、あの頃よりももっと確実な恐怖としてルシウスの心中を侵した。「父にとって自分はあの時消された魔法薬に等しい存在なのだ」「この男への貢物として育てられたのだろう」「自分が産まれた時もこんな風に考えていたのだ」「父の望み通りに育たなければ自分は捨てられていた」「父の望み通りに育てなければ、」ちゅぽんと鳴ったと同時、ルシウスの人差し指を温い風が冷やしていった。指を握ったままの娘がにこにこと笑いかける。唾液だらけの手を、自分に伸ばす。
「……冗談さ」こちらを見ようともせず、ナルシッサの足音だけに意識を向ける父が鼻で笑う。「可愛い娘じゃあないか、なあルシウス」
ルシウスは娘の手を振り払った。何も考えたくはなかった。望んでいたものが与えられなかった娘がまたぐずり始める。ルシウスもナルシッサの気配に耳を澄ませた。ナルシッサが戻ってきてくれれば、娘が泣き始めても自分があやす必要はない。
頑なな表情で子供達から目をそむけるルシウスにアブラクサスが追い打ちをかける。「つけ上がらせるなよ」
貴方に言われなくとも。あと一秒でもナルシッサの帰還が遅ければ、ルシウスはそう口にしただろう。
この子たちをきちんと育てなくてはならない。少しでも可愛いと思うのなら、この子たちを“失敗作”にしてはならない。それが親としての優しさだ。愛情だなどと傲慢で押しつけがましい能書きを垂れる気はない。自分はこの子たちを愛せない。何も考えたくない。
何も考えない。そうすればダリルが死にかけた時、このまま死んでも良いかもしれないと僅かに思っていたことへ気づかなくて済む。
ルシウスの苦悩を余所にアブラクサスは良い祖父を見事に演じ切っていた。ヴォルデモートが倒れたので心を入れ替えたのかもしれないと思ったが、「ヴォルは生きている」と熱っぽく語っていたのを思い返すに自分と同じで根本は変わっていないのだろう。
ダリルもドラコも父の見せかけの優しさに騙され、ナルシッサは薄々気づいてきたものの子供に害をなさないのであればと放置を決め込んでいる。ルシウスだけが大人になれないでいた。アブラクサスが訪ねてくる日には無理にでも予定を入れる。子供とも、関わりたくない。
父がダリルに面と向かって「お前は役に立たんのだから捨てようか」と言うのも恐ろしかったが、自分が口にするよりマシだと思った。
ルシウスと屋敷僕妖精の連携プレーによりダリルが薬品棚にシュートを決められた一件で、ナルシッサも「夫に子育ては無理だ」と理解したらしい。そして世間体を気にして、中々医師へ見せようとしなかったことで離婚寸前まで揉めた。分かりました。貴方は、要するに跡継ぎ以外――妻の非難の続きは聞かなくとも分かる。強烈な夫婦喧嘩以降、ナルシッサはルシウスにダリルを触らせようとしなかった。ルシウスにしても、別にダリルと関わりたいと思わなかった。おとうさまと、そう呼ばれるようになっても不思議と愛しさは覚えなかった。怯えるような顔でこちらを伺う幼い娘に、ルシウスは自分もどこか空恐ろしい気持ちを抱くのだった。
成長を微笑ましいとも、生きながらえたことを喜ばしいと思えないばかりか――幼い娘を見て恐ろしいとは、何故だろう。
ダリルを避ける一方で彼女と殆ど同じ顔をした息子はその成長に応じて素直に可愛いらしいと思えるようになった。
ドラコはダリルと違って健康だし、物覚えも良い。「ちちうえ、ちちうえ」と自分を呼んで、後をついて歩くのがカルガモのようで堪らなく可愛らしかった。ドラコへの愛着を感じる度に胸の底で「子供はドラコだけで良かったのに」とダリルへの嫌悪が募る。それならそれではっきりと「ダリルは要らない」と態度に表してしまえば良いのに、それが自分以外の誰かに知れることも恐ろしいのだった。果たしてダリルという存在そのものが恐ろしいのか、ダリルと関わることで生じる何かが恐ろしいのか――尤も突き止める気はなかった。
そもそもにして、所詮娘など政略結婚のコマだ。このまま勝手に育ってどこかへ嫁ぐだろう娘にかまけるのは馬鹿馬鹿しい。自分が娘にかまけぬ言い訳など、それこそ山とある。ダリルに対する嫌悪や恐怖を晒す必要など、どこにもないのだ。妻にさえ、黙っていられる。
子育てはナルシッサに押し付け、自分はマルフォイ家の格を上げる作業にだけ勤しもう。最初からそのつもりだったじゃないか。
娘と関わるのは結婚相手を決める時ぐらいだと思っていたのに、当の本人が書斎に忍び込んでいたことで全ての予定が狂うことになる。
何が如何してどうなっているのか考えるより先にルシウスは反射でダリルを引っ叩いた。父親の書斎へ勝手に入ってはいけないと言い聞かされているはずだし、刃物へ触れることも禁止されている。ルシウスはダリルの手からこぼれたハサミを拾い上げた。
「勝手に刃物を弄るなとは言ってあるはずだろう。私の書斎へ勝手に入り、引き出しを漁るに十分な理由があるのなら言ってみるが良い」
ダリルの髪が滅茶苦茶になっていることへ気づいたのは、ハサミの持ち手を突き付けて叱った後だった。肩まであったはずの髪が、床に散らばっている。まさかドラコと床屋ごっこでもしていたわけでもあるまいと眉を寄せたところで、ダリルが喋っているのに気づいた。
「あ、の」父の意識が己に向いたと察したのか、ダリルがビクリと身を震わせる。 「ダリルもドラコといっしょがい……くて、」
嗚咽混じりな上眠たげにむにゃむにゃ喋るので、何を言いたいのかまるで分からない。ルシウスは痛む額を押さえると、ダリルをナルシッサに引き渡してしまうことにした。大体明後日が納期の書類がまた終わっていない。子供の戯言に付き合っている暇はないのだ。
「おじいさまが、ドラコにがおがおくれて、ダリルも」
ナルシッサを呼ぼうとローブを翻したルシウスの背を、“おじいさま”という単語が引きとめた。おじいさまが、がおがお。昨日訪ねてきた父がドラコにドラゴンの模型を持ってきたとは、ナルシッサから聞いて知っていた。ルシウスは再びダリルへ視線を合わせ、娘の寝言がよく聞き取れるよう絨毯に膝をついた。玩具が貰えないことと自分の書斎に忍び込んで髪を切ることとが如何結びつくのか気になる。
「玩具が欲しくて何故髪を切る? ナルシッサにねだれば良いだろう」
ルシウスはダリルを脅かさないようにゆっくり問いかけた。ひぐひぐと、ダリルの嗚咽が大きくなる。これだから子供はと思わないでもなかったが、この疑問を解決しないことには仕事へ取りかかる気になれない。騒音を無視して、問いかける他ないのだ。ルシウスが全ての叡智――子供を泣き止ますための手段を舌さきに集めた結果、ダリルはたどたどしい口調で弁明を再開させた。
「ちが、がおがおじゃなくて、ダリル、おなこだから、おじいさまよくわからなて、でもかみみじかくをちいさくしたらおなじって、」
ごめにゃさ……ごめしゃさい……。ダリルが怯えた謝罪を繰り返す。こうなってはもうどのような賢者の手にも負えない。ナルシッサが宥めても落ち着くまで数時間は掛かるだろうし、それから事実関係を整理し終えるまでに数日掛かる。その時ではもう遅い。
震えるダリルの肩に触れると、赤く腫れた瞳が化け物でも見るように自分を見上げた。それも今は如何でも良い。恐ろしくも、なかった。
「――おじいさまが、お前は女の子だから可愛くないとでも言ったのか?」
ダリルはぶんぶんと頭を振った。「わ、ダリルが、わ、わがままだから、ダリルが、おじいさまはなにも、ダリルがわるいこ、でした」
まだ三つになったばかりの子供が自分の髪を切り刻んで、それでも自分が悪いと言う。それだけで十分だと思った。屋敷僕からの報告に駆けつけたナルシッサへダリルを任せると、ルシウスは取るものも取らず暖炉へ飛び込んだ。緑に染まる景色に、父の姿を探す。
父が余生を過ごす屋敷には幼い頃数度訪れただけだが、それでも勝手は知っていた。
ルシウスは玄関ホールを突っ切って居間に入ると、入り口脇の絵画を蹴り上げた。その途端に壁がせり上がり、地下に続く薄暗い階段が現れる。己の来訪を告げるため乱暴に階段を下れば、案の定魔法薬の調合途中なのだろうアブラクサスの背が出迎えてくれた。
「手紙もなしに来るとは久しいな。なにぞあったか?」
空々しい響きで問うてから、アブラクサスは指先についた粉末を大なべへ振りいれた。
「ドラコとダリルとで差別するのは止めて頂きたい」振り向こうともしない父親に苛立ちを募らせつつ、ルシウスはキッパリと宣言した。
息子の非難に、老いた父はピクリとも動かなかった。その孫は祖父の些細な一言で、母親が大事に伸ばした髪を切り捨ててしまうというのに、この男の図太さはどこへ消えてしまったのだろうか。ルシウスは傍らの壁へトンと手をついた。石壁へ爪を立てる。無性に苛立っていた。まだ三歳の子供が一人で髪を切ろうと考えつくはずがない。ダリルはアブラクサスを擁護し続けていたが、大方髪を切ったらドラコそっくりなのになあとか何とか焚きつけたのだろう。「あれはまだ三つになったばかりの子供です。大人気ないとは思わないんですか」
大なべへ意識を向けていたアブラクサスが顔だけでルシウスに振り向いた。
「それじゃ、何かね?」見慣れた仏頂面に、何もかもに無関心そうな瞳。幼い頃から変わらぬ父の威圧的な態度に怯みそうになる。「面と向かって『おじいさまは三つにもなるのに魔力の兆候のでない子に興味がないよ』と言えば満足なのか」
「そういうことじゃ――そういうことではありません」ルシウスはギリと拳を握りしめた。
初めてヴォルデモートに引きあわされた十六の頃、ダリルとドラコが産まれた二十六の頃、知らんふりを決め込んだ感情が溢れだす。考えるのは止めよう。関わらなければ楽になる。どうせ手放すことになる娘だ。それが勝手に髪を切ろうと如何でも良いじゃないか。止めよう。何も考えたくない。いつだってそうやってきたじゃないか。いつだって結果を出せと脅す父親と、己の夫がどんなに素晴らしいか言い聞かせる母親に挟まれて、何も考えないほうが良いと学んできた。ダリルもじきに学ぶだろう。
あの子だって、両親から愛されずとも、自分の才能の及ぶ世界でやっていく術を学ぶに決まっている。
『ダリルがわるいこ、でした』
父上が僕に構ってくれないのは僕が悪いからだ。頑張って結果を出せば、きっと僕を見てくれる。
そう願ってきたのは誰だろう。貴方は私を愛してくれなかった。その台詞をいつか子供達から聞くことになるのだろうか。それも仕方がない。先に手放したのはルシウスだ。二十九にもなって馬鹿らしいことに、まだ父の愛情を求めている。だから我が子を切り捨てるのか。
ルシウスは壁に寄り掛かった。気温の変化で生じた結露にローブが濡れる。手のひらで顔を覆って、苦しげに喘いだ。
反論の糸口を探そうとしていることさえ父に縋っているようだと思った。こんな人でも父親だ。愛されたかった、普通の父子のように親しくなりたかった。ナルシッサを前にした嘘しかない父子のやり取りに心地よさを感じている自分が堪らなく惨めだった。
叶うものなら、あの嘘を本当にしたい。ヴォルデモートがいないのであればダリルがスクイブであることもそう大した問題になりはしないと、父にそう思って欲しかった。そうしたら、自分も――「あれは体が少し弱い……それに一度死にかけてる」
「ああ」アブラクサスは紫色の湖面に己を映し出した。手に掴んだ葉を投げ入れ、掻き消す。「その時死んでおくべきだった」
しっぱいだ。おんなではやくにたたないからすててもいい。しんでおくべきだった。
「あなたは……実の孫に対して、あなたという人は、」
手を振り払った。遠ざけた。理由も聞かず引っ叩いた。ドラコのほうが可愛いと思った。ドラコだけで良かったとも、思った。
あの時死んでしまったらなんて、自分がそう思ったことにダリルは気づいているのかもしれない。
動揺を顔へ出すルシウスに、アブラクサスが冷笑を浮かべた。
「出来損ないのスクイブを孫に持った覚えはない」
「違う――違う……!」ルシウスが吠えた。ドンと、握った拳で壁を殴る。「私とナルシッサの娘だ。れっきとした魔女だ。あれが十一歳になったらホグワーツからの入学許可証が届く、必ずだ」壁を打ち続けた拳に、血がにじむ。痺れるような痛みに思考もぼやけていった。
感情を露わにするのは愚かしいことだ。それでもルシウスは父を否定したかった。
貴方の思い通りになりたくないと、己が意思を示したかった。
息子の訴えに耳を傾けていたアブラクサスが杖を振る。くるりと振り向いて、空になった大なべに寄り掛かった。
「お前、子は可愛いか」
「……私とて人の子のつもりです」
「それなら、あれを可愛がれば良いではないか」ルシウスを小馬鹿にする表情を作って哂う。どうせ出来はしないと決めつけてかかる声音で、残酷な台詞を口にする。「『お父様はお前が出来損ないでも役立たずでも愛してるよ』と言ってみるが良い――言えるものならな」
ヴォルデモートは疾うに人を捨てた身だが、それを恋い慕う貴方も人ではない。ルシウスは静かにそう思った。
この人にとって、やはり自分は大なべのなかの魔法薬に過ぎなかったのだ。ただ自分が言うことを聞き続けたから“父”として振舞ってくださっただけで、もし自分がスクイブだったり、父に反抗的だったなら杖の一振りで切り捨てられたのに違いない。
それは長年アブラクサスの愛情を求め続けたルシウスにとって酷く惨めな結論だった。
子供みたいに父の後を追い続けた挙句、最後には切り捨てられる悪夢。しかしルシウスの家庭はもうこの男の元にない。十六の時と同じ、それよりも激しい怒りが胸を揺らした。もう転覆も怖くなかった。もう、ルシウスがまだ若かったあの頃に乗っていた舟は疾うに転覆していたのだ。冷たい湖水のなかで、ルシウスはただ助けを待っていた。家族の、目の前の男の――今の自分が誰かに引き上げられ湖水から逃れられたとすれば、それはこの男のおかげではない。だと言うのに、何故自分はこの男に従い続けねばならないのだろう。疾うに自分のほうが腕力も魔力も知力も上回っていて、それで何故父としての責務を果たさぬ男のために激昂したり苦しんだりしなければならない?
『失敗だ』
父親としての失敗作は貴方だった。
ルシウスは数歩前に出て、アブラクサスの喉元に杖を突き付けた。「あれは、私のものだ」冷えた声で己の優位を告げる。
「貴方のものではない。ナルシッサもドラコも、家屋敷も、職も、財産も、もう何もかも私のものだ。私の領域を土足で荒らすのは許さない。貴方がダリルをスクイブ扱いしようとすまいとどうでもいい。私のものを勝手に害するな。あれの髪の毛一本、涙の一滴たりとも貴方のものではない。私の娘だ。私の所有物だ。貴方にはダリルを傷つける権利はない」
「……勿論、私は老いぼれだ。息子へ従うにやぶさかではないとも」
お前が望むのならそうしよう。嗄れ声で頷く父は記憶にあるよりも小さく見えた。それもそうだ。ルシウスはもう二十九歳になるし、子供が二人もいる。老境に差し掛かった父を何故恐れることがあるのかと、杖を突き付けているのは自分のはずなのに涙が零れてきた。
僕はただ貴方に愛してほしかっただけなのに。結果を出せずとも、死喰い人にならずとも愛しているよと、それだけを求めていたのに。
泣き疲れたのか妻に抱き着いて眠る娘の髪はもう昨日までと同じ長さに戻されていた。
ルシウスはダリルの小さな背を撫でながら、訝しげに自分を見つめてくるナルシッサに「ダリルの望むように、ドラコと同じ長さに切ってやれ」と口にした。ドラコと同じ髪型、同じ服で、それでダリルが満足するなら好きなだけ付き合ってやれとも言った。
ナルシッサはダリルが男装するのに不満があるようだったが、理由を問うたりはしなかった。賢い女だ。家柄に雁字搦めになって息も出来ない人間が多いなか、己のような男の元に嫁ぐ不運をものともせずに母として努力している。自分を遠巻きにするダリルがナルシッサにはべたべたしていることからも、その賢母ぶりが窺えた。それに何も話していないはずなのに、父との一件以来ダリルの世話を任されるようになった。あと外に女を作っていたのもバレた。女って怖い。些細なアバンチュールも許してくれないなんて、結婚なんかするんじゃなかった。「そんなに女を構いたいならダリルでも構ったら如何?」なんてダリルの世話を押しつけられるとは思わなかった。ドラコは「ちちうえーめかけってなあにー」「おんなずきっておいしいー?」とか聞いてくるし、ダリルはナルシッサにしがみ付いてるし、その視線がまた自分を蔑んでいるようで辛い。私がいない間に何を吹き込んだ。いやナニをしていたのは自分なのだけれど、でも子供を巻き込むのは酷いと思う。
もう浮気しないから自分のことを嫌っている娘と二人きりにするのは止めてくれと懇願したにも関わらず、「貴方が心から反省するまで私もドラコと浮気することにしました」などと吐き捨てられてしまった。「ははうえ、うわきってなあに」「お父様の代名詞よ」妻が酷い。
ドラコと二人で庭の世話をするなどとほざいて消えた妻のことを呪っていると、不意にローブを引っ張られた。何だと見下ろせばダリルが身じろいだのに、ナルシッサの叱責が脳裏を掠めた。貴方とダリル、どれだけ身長差があるか分かっていて――ルシウスはしゃがみ込んだ。
「その本を読めば良いのか?」ダリルが手にしている絵本を指すと、ダリルの顔がぱっと明るくなる。
なんだか、とても、気まり悪い。まあ言語が通じたのなら良かったと絵本に手を伸ばした瞬間、ダリルがぶんぶんと頭を振った。絵本を背中に隠す。この絵本を貴様の手あかなどで汚したくはないという意思表示かもしれない。
被害妄想めいた思考を展開させていたルシウスだが、「あの、おじいさまね」というダリルの台詞で我に返った。
「おじいさま、ドラコとそっくりっておどろいてらっちた」
驚いてらしたと言いたいのだろう。当然と言えば当然なのだけれど、どうもナルシッサの気取った喋り方に影響されているらしい。ルシウスはひくつく口はしを手のひらで覆った。笑ってはいけない。たかだが子供の言い間違いに笑うなど、あってはならない。「……そうか」
「あの、あのね」スカートを履いていた時はナルシッサから離れようともしなかったダリルが、ドラコのようにすり寄ってくる。
ルシウスはダリルが落としかけた絵本を手にとって、テーブルの上へ置いた。ダリルがあどけない掌をルシウスに伸ばす。
「おとうさま、ドラコと見分けつく?」
ダリルから伸ばされた手を取って、小さな肩に触れた。
「いや、つかないとも」本当はダリルとドラコを見分けることなど容易だ。すぐ庭へ行きたがるのがドラコで、本を持ってウロウロしているのがダリル。躊躇なく自分に抱きつくのがドラコで、数歩離れたところでもじもじしているのがダリル。
見分けるのは容易だけれど、お前がドラコと同一でいることで安心するのなら見分けるのは止めておこう。
ルシウスが頬に触れるとダリルの肩がビクリとはねた。本能的に露わになった怯えを誤魔化すように、自分の首へ抱きつく。 「……ドラコにするみたくに、こひーのませてくれる?」くぐもった声がルシウスの愛を乞うる。「あの、ドラコみたくいいこしてたら」
『お父様はお前が出来損ないでも役立たずでも愛してるよ』
貴方は私がその台詞を求め続けてきたことを知っていた。知っていて、私を愛してはくれなかった。
そして今ダリルの求める台詞を知っている私も、それを口に出来ないでいる。ドラコの真似などしなくても良い。お前を愛している。髪を伸ばしたら、可愛いワンピースを買ってやろう。それを口に出来ないから、全てをお前の選択にゆだねて誤魔化す。
私は父上とは違うと、嘘を吐く。
頬を伝い顎から落ちるはずの涙が、淡い温もりに吸い込まれていった。ダリルがルシウスの頬へ口づけていた唇を離した。不安げに揺れる瞳が自分を見上げている。子供の前で泣くだなんて、とんだ醜態を晒してしまった。そう恥じ入りかけたのをダリルの声が掻き消す。
「おとうさま、なかないでー」細い腕がぎゅうぎゅうと自分を抱きしめた。「ダリル、おとうさますきだから、ないてるのやあ……」
愛しているよ。そういえば、父母からそう言われたことがない。お前が好きだとも言われたことがない。良い成績を取れば褒めてもらえた。彼らの望みを叶えれば、一時だけでも父母に愛される夢を見ることが出来た。しかしその劣等感やトラウマが子供達と何の関係がある。この子らとは何の関係もない、昔の話だ。お前が産まれてもいない頃の咎をお前が被る必要はない。
ルシウスもダリルを抱きしめた。小さな体を腕に閉じ込めて、誰にも連れてかれぬよう束縛する。「ああ、お父様もだ」
お前を愛するために全ての不安を誤魔化す。十年後の未来でお前がどんな選択をするのか考える余裕はない。ただ今だけ、損得計算を止めて愚かに浸る。目の前しか見えない。愛しているよ。愛している。そう口に出来ない代わりに、私はお前を所有し続けるだろう。
父親として出来損ないである自分の愛情を求める愚かな娘。
出来損ないかもしれない娘を所有していたい、娘よりずっと愚かな自分。
七年語り – SPIN OFF