七年語り – SPIN OFF
星の死骸
貴方を喪うより残酷なことが、この世界に幾つあると言うのでしょう。
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母がリビングのソファへ深く腰掛けている。羽根の様に軽やかな脚で踊り、ほがらかに微笑う母が深く、深く沈んでいく。
廊下はぴいんと静まり返っていて、柱時計に寄りかかる私の指先が震えていた。時計の文字盤は見えなかったが、朝が遠いことだけは分かる。斜め前の壁をくりぬく窓にはカーテンが掛かっておらず、空には星がない。空と同じで、家にも光はない。ひたすらに淀んでいく暗さのなかで、私は母を――その胸中を推し量っていた。どのような気持ちで明かりも灯さず待つのかと、知りたかったのだ。
夜が立ち込める家のなかには一つのランプも輝かない。黒い家のなかに希望はなかった。
娘である私の目から見ても母は美しいひとだった。パーティがあれば誰もが母と一言二言話したがったものだ。列を為して……とまではいかずとも、男たちはチラチラと母の様子を伺い、話しかけるタイミングを掴む努力をしていた。実際着飾った母は華やかで、苦労する分の価値はあっただろう。父と並んで女王のように上座へ鎮座する母の姿は幼心に誇らしかったのを覚えている。
尤も誇らしかったのはごく幼い頃だけで、長じてからはその美しさが疎ましかった。母と同じく父もまた整った顔立ちをしていたが、それは男だったからだ。父に似た私は、輪郭やパーツの一つ一つがやや無骨だった。美しい母と並べば自然と比べられたし、母自身からも不器量だとせせら笑われていた。だから父の浮気が知れたとき、私は良い気味だとさえ思った。美しいだけで中身がないから余所の女に夫を取られるのだと、笑いたいような気持ちにさえなった。もしもシグナスが父の浮気を知ったなら両親の不仲に落胆し、夫婦仲の破たんしないようにと気を揉んだだろう。普段は母を顧みぬアルファードとて、憐憫染みたものは感じたに違いない。でも私はただ可笑しくて、微かに口端が綻ぶような愉悦を感じた後で、何かほの暗い甘さが肺を埋め尽くすような……そういう邪悪を感じるだけだった。
自分の邪悪さをも含めて、私は深く深く、母が沈んでいくのと同じだけ深く繰り返す。この家に希望はない。
父の浮気相手を見る機会は、柱時計の夜から早々にやってきた。どこぞの家で催されたガーデンパーティ、普段片時も母のそばを離れない父が飲み物を取りに行くと席を離れる。父はポットや菓子の並ぶテーブルへといやにゆっくり進んだ。そしてやっと着いたと思えば、そこで給仕をしていた年嵩の女と喋り出す。椅子に掛けて待つ母が苛立っているのが遠く離れた私にも分かった。女は母より老いていたし、さして美しいわけでもない。給仕として働いているぐらいだ、家柄とて母ほどには良くないだろう。なのに明らかに母よりも劣った女の隣に立つ父は肩の力を抜いていた。女へ向けて、母へは決して見せない安らいだ笑みを浮かべている。
それが如何いう事で、何故母がその女と父とを引き裂かないでいるのかは、当時八歳の私には到底分かり得ぬことだった。私は母の物分りの良さを不思議に思っていたが、幼く鈍感なシグナスを母から遠ざけるのを忘れはしなかった。母の隣に掛けるシグナスは私が手を引くのへきょとんとする。私は胸を撫で下ろした。弟には家の暗さを知ってほしくない。
親としての自覚に乏しい母と、そんな母に嫌気がさした無責任な父と、歪んだ私と、全てに無関心なすぐ下の弟。息が詰まりそうな暗い家のなかで唯一灯りらしいものがあったとすれば、それは末の弟であるシグナスだった。その優しい性格は両親のどちらにも似ていない。私は四歳年下のこの弟だけが愛しかった。両親は言うまでもなく、すぐ下の弟アルファードも私に関わろうとしない点では彼らと同じだったから。それに、母似で容姿の整ったアルファードは母から愛されていたし、長男ということで父からも愛されていた。アルファード本人にすれば両親からの愛情へ何かしら思うところがあったのかもしれないが、彼らからまるで愛されない私がそんな贅沢を許すはずもない。
私の容貌を哂う母よりも、私が寝込んだことさえ知ろうとしない父よりも、ずっとずっとこの弟が嫌いだった。
世界中から愛されるのが当然とでも言いたげに全てを顧みないアルファードはホグワーツへ入学してからも変わりはしなかった。いや、誰かに話しかけられればそれに応じていたのだから、両親以外には柔らかな対応をとるようになったのかもしれない。それでも校内であろうと家であろうと、場所がどこであれ私に対する反応は同じだった。無視か、その整った顔を少し歪めて、気の利いた皮肉を教えて下さるかのどちらかだけ。一日三時間の勉強を欠かさない私を、アルファードは「主席さん」と呼んでいた。そう口にするアルファードも学年次席だ。しかもアルファードは殆どの授業をサボっていた。私はアルファードが本を開いているところを見たことがない。
私が校内でアルファードを見かけると、大抵その横に女の子がいた。そうでなくとも友人達と馬鹿騒ぎをしているかだった。分家筋とはいえ歴史の古いブラック家に産まれて、そして姉である私がこんなにも真面目なのに何故アルファードはこうなのだろう。
私は姉としての使命感から幾度も両親へ手紙を送ったが、私の知りうる限り彼らがアルファードを叱っているのを見たことはない。シグナスに関しても同様だった。両親――母から叱られるのは、いつも私だった。
殆ど育児放棄な父親はさておき、妻としての存在価値を喪った母は見事に“教育ママ”へと進化を遂げていた。その、全く不平等でナンセンスな教育論に幾度思考をガツンをやられただろう。私は母の前で殊勝な顔を作り項垂れては、殆ど八つ当たりだと思ったものだ。幼い頃に憧れた美しさも、私が年頃になる頃には薄れ切っていた。ヒステリックな叱責へ鼓膜を震わせながら、私はこんな女にだけはなりたくないと思った。私が母になるなら、もっときちんと子供を育てる。そう決心した。
夫に見捨てられた惨めさを子供へぶつけるような、そんな馬鹿馬鹿しい女にはならない。
アルファードの“やんちゃ”へ眉を顰める私を、母は如何しても嘲笑いたがった。
自分が色恋に縁がないものだから、引く手あまたのアルファードが目につくのでしょ。貴女も少しは男の子と付き合ったら如何なの。そう笑う母は勿論私がおぼこであることを馬鹿にしているのだ。年甲斐もなく娘と女を張り合う母へ対する呆れは最早ない。かといって母の侮辱を「ああそう」と流せるほど達観しているわけでもなかった。普通の少女らは普通異性への憧れやときめきから恋を求めるのだろう。私が恋を求めた切っ掛けは、母への敵対心からだった。馬鹿にしないで、私だって恋の一つや二つ出来る。そう思っていたが、誰へときめくこともなく、またときめかぬ男と付き合えるほど捌けた性格であるはずもなく、その敵対心はゆるゆると燃え尽きようとしていた。第一誰と付き合おうと、いずれ親の定めた相手と添い遂げることになる。合理的で筋道だったことを好む私に、結婚相手以外の男と付き合うのは酷く無駄なことのように思えた。労力の無駄。感情の無駄。同世代の少女達が色恋へ浮つく時節、十六歳になった私は酷く頑なに暮らしていた。オリオンと出会ったのはそんな折だ。
当時十六歳の私と、十二歳だったオリオン。ホグワーツの図書室にて、高いところの本を取ろうと無茶な体勢をした私を支えようとしてくれたのが出会いだった。途中で言葉を切ると私達の出会いは酷く聞こえ良く、ロマンチックだ。しかし事の顛末としては、十二歳の子供が年上の少女を支えきれるわけもなく、結局私達は床へ叩きつけられた。私は咄嗟に受け身を取ったが、オリオンは私の下敷きとなって思い切り頭を打ったらしい。私は失神している年下の少年を前に途方に暮れた。このまま立ち去ってしまおうかとも思ったが、彼のネクタイが同じスリザリン・カラーであるのに気付いて腹を括った。スリザリンはただでさえ所属の生徒数が少ない。寮でばったり出くわして責められたくはなかった。私は周囲を片してから、オリオンを背負って医務室へ連れて行った。何と馬鹿げた出会いだろう。
医務室のベッドの上で目を覚ましたオリオンが酷く馴れ馴れしい口を利くのに眉を顰めると、彼はようやっと名乗ってくれた。彼の名前を知って、恥じ入るのは私のほうだった。「何度かパーティで会いましたよね?」オリオンははにかむように首を傾げた。彼は私を「忘れっぽい」と笑うだけで、私の無関心を追求しようとはしなかった。言われてみれば幾度か会ったような気もするが、私は元々社交的でない。大人や同世代の子らの顔を覚えるのが精いっぱいだ。私が他人の顔を覚えるのが苦手であると知っているシグナスが気を遣ってくれることもあり、年下の子らには完全なる無関心を貫いていた。やはり父の娘なのだとか、アルファードの姉だけはあると落ち込む私へ、オリオンは酷く申し訳なさそうに謝る。謝るべきは私のほうじゃないかと思ったものの、オリオンは私の無関心さを如何とも思っていないらしかった。支えきれなかったことを必死に謝るオリオンへ、私はいつしか笑っていた。
「良いわ。最初から誰か支えてくれるなんて思ってなかったもの」私の台詞へオリオンが奇妙な顔をする。ひょっとして変な事を言っただろうかと、彼の機嫌を損ねぬような言葉を連ねた。「君が支えようとしてくれただけで嬉しかったから、気にしないで」
四つ年下のシグナスは私の灯火。そのか細い明かりを途絶えさせぬため、私がどれ程骨を砕いてきただろう。守るべき存在だった弟と同い年の少年へ、自分よりも小さな少年へどんな期待をするだろうか。守ってくれとか、支えてくれだなどと望むはずもない。
出会った時、私にとってオリオンは少し変わった子供に過ぎなかった。
シグナスの友達の一人で、物静かで、大人しい性質の子供なのかと思えばおどけた台詞を口にする。出会ってから一年も経つ頃には、私もすっかりこの年下の奇妙な子供を友人のように思っていた。それに、オリオンは年下とは思えないほどに社交術に長けていて、しばしば助け舟を出してくれた。パーティで顔の分からぬ相手がいたときには、オリオンがそれとなく名前や経歴を思い出せてくれたし、私が友人と喧嘩したのを嗅ぎ付けるや仲裁に入ってくれもした。彼は気まずい空気を和らげるのが得意だった。
流石に勉強では私が世話してやることのほうが多かったが、オリオンは頭の回転が速く、渇いたスポンジのように私の知識を吸い取っていった。もしも同学年だったなら、私は学年次席にならざるを得なかったに違いない。オリオンは賢かった。まもなくオリオンは学年主席になった。酷く嬉しそうに成績を報告する彼の隣でシグナスが不貞腐れていたのを今も覚えている。
オリオンと親しくなってから、私は笑う事が増えたと思う。彼が私を笑わせようとしてくれたし、彼の助けによって私の生活は確実に良い方向へと動いていた。両親からの無関心は最早如何でも良かった。私にはシグナスがいたし、オリオンもいて、彼のおかげで友人も増えた。そして、やはりオリオンのおかげで、アルファードとの仲も修復されつつあった。相変わらずお互い無関心を決め込むことが多かったものの、二人きりの時は挨拶を交わすようになった。やがて用がある時は相手を訪ねられるようになった。
私はオリオンのことをかけがえのない友だと思っていて、このような少年が弟の友人でいてくれることへ感謝していた。
そんな――年下の友人であり、第三の弟のように思っていた彼から予想外な求愛を受けたのは、卒業間近の春だった。
私はその日も男子寮のアルファードの部屋にこもっていた。もう四日ほどもそこで壊れたオルゴールを弄り回していた。アルファードも直してからくれれば良いものをとか、ゴミを押し付けられたとか、勿論不服は感じていた。しかしアルファードからの初めての贈り物だと嬉しくて、文句を言ったら取り上げられそうで、仕方なく自分で修理を進めていた。工具など触れたこともない私がオルゴールを鳴らすまでには大分苦労を強いられたが、アルファードどころかシグナスも、オリオンですら修理を手伝ってくれなかった。アルファードは工具がどこにあるかだけ教えて、シグナスは何故か含み笑いでそそくさいなくなり、私とオリオンは二人きりだった。
汚れた指先でネジを回すせばオルゴールはぎこちない曲を奏で始める。達成感からオリオンの耳元へオルゴールを近づけると、彼は私の手を押し返した。私とオリオンの真ん中で手持無沙汰なオルゴールを、それを持つ私の手を彼が握る。オリオンが口を開いた。
「僕がホグワーツを出たら、あと四年経ったら、」俯くオリオンの耳は、微かに赤かった。「僕は貴女よりずっと年下で、子供としか思われていないのも分かっています」私とオリオンの手の中から漏れる音が微かになっていく。終わりが近いのだと、薄ら思った。
「必ず貴女を支えられるだけの男になります――どうか、僕がホグワーツを卒業するまで待っていて下さい」
アメージング・グレースの途絶えた室で、オリオンの声ははっきりと聞こえる。私は彼と約束した、彼を四年待つことを。
少年であるオリオンがゆるゆると異性へ育っていくのを見守る四年は、私の生涯において尤も幸福な時間だった。
物心ついてから私は常にアルファードや母への敵対心から焦り、苛立っていた。それが嘘のように、オリオンと過ごす時間は穏やかだった。劣等感も、虚無感も、彼と過ごす時には一抹の不安さえ抱くことはなかった。彼の手の大きさはまだ自分と変わりなく、背もほんの少し追い抜かれただけだったが、オリオンの言葉や私を気遣う仕草の一つ一つに確かな愛情が込められていた。もう敬語を使わなくなったオリオンがオルゴールの話をする。出会いが出会いだから、求愛の時だけでもロマンチックな空気を作りたくて、アルファードに相談したのだと言った。アルファードは多才であるが、なかでも女を落とすことに掛けては他の追随を許さない。私はそのネタバラシへ「道理でシグナスがニヤニヤしていたはずね」とか、「十三の少年が求愛するにはロマンチックすぎると思ったのよ……」とか色々脱力した。出会いも出会いだが、弟プロデュースのプロポーズへ了承するというのは、やはり間が抜けている感じがする。
しかし幼い頃の無機質な家庭を振り返るに、私はこの子となら幸福な家庭が築けるかもしれないと思った。オリオンは私を見てくれている。幼い頃から私を見ていたと、オリオンは呟いた。「君はいつも無理をしているようだったし、誰の助けも受けようとはしなかった」
「僕は君を支えていきたい」
私の手を握るオリオンはほんの四年ですっかり青年となったが、紡がれる愛情は変わらなかった。
オリオンはブラックの本家筋の長男だ。当然両親はオリオンとの結婚を祝福してくれたものの、卒業してすぐ式をあげることはオリオンの両親が了承してくれなかった。仕事が順調に行くまで、ちゃんと私を自分の力で養って行けるようになるまであと数年我慢しなさい。その誠実なアドバイスと私への愛情に、オリオンは忠実だった。オリオンが卒業してから三年後、私達が籍を入れた。
スリザリンの男子寮で結婚の約束を交わしてからはもう七年が経っていたが、オリオンは私を望んでくれたし、私もいつしかオリオンを異性として見るようになった。出会った時はほんの子供としか思ってはいなかったが、私達は愛し合っていた。幸福だった。
例えマグルの世界が乱れていようと、そして魔法界が混沌へ落ちかけていようと、それらは私達の幸福を微塵も妨げはしなかった。
純血一族に生まれた私もオリオンも、そもそもマグルのことなど特別意識したこともなかったし、マグル生まれの生徒とは言葉を交わした事さえない。彼らは確実に劣ったものであると言う考えが私達にはしみ込んでいた。だから、アルファードがマグル生まれの女と付き合っていると聞いた時には、最初誰が何を言っているのか理解出来なかった。頭が理解することを拒絶した。
私がオリオンと結婚したように、アルファードにも純血の婚約者が宛がわれていた。の、だが、アルファードが自由気ままに女遊びをしている内に向こう様から断られてしまい、それっきり彼の結婚問題はうやむやになっていた。元々私達の家は分家筋だ。長女たる私が本家に嫁いだのもあって、そう跡継ぎを要されていたわけでもないし、シグナスが継いでも良い。そういった背景もあって、私は「アルファードのことだから一人の女に縛られたくないのだろう」と結婚を急かしたりはしなかった。しかし穢れた血と……私の思考回路はそこで停止してしまった。仲は然程良くないとはいえ、アルファードは血の繋がった弟だ。それが穢れた血と触れ合い、愛し合うというのが生理的に受け付けなかった。私は駆け込んだ洗面室で吐いた。私を追ってきたシグナスも、困ったように頭を振っていた。一体何故穢れた血となぞ付き合うに至ったのだろうと零しながら、私の背を撫でさすってくれる。胃のなかを空っぽにした私が客間へ戻ると、もうアルファードはいなかった。「アルファードには帰って貰ったよ――ヴァルブルガ、大丈夫かい」ハンカチで口元を押さえる私の肩をオリオンが抱く。そのまま呼び寄せた椅子へ座らされた。シグナスは私よりわずかに遅れて戻ってきた。オリオンがため息をつく。「最近具合が悪くてね。些細なことで、いや今回のことは大したことだけど……吐きっぽいんだ。頭痛も酷いと言うし、近々癒師へ診せなければ」
オリオンの説明に、シグナスはきょとんとした。「それって悪阻じゃあないかな?」シグナスの台詞へ私たちはぽかんとする。つわり? 私達の動揺を見て、シグナスはヘラヘラ笑った。「アルファードのことで嫌な一日にならずに済んだじゃないか」
シグナスの言った通り、私は妊娠していた。結婚してから丁度十年、結婚当初は姑を始め、周囲から子供をせっつかれたりもしたが、最近では諦めさえ口にされていた。自分は妊娠できない体質なのかもしれないと悩んだりもしていたから、妊娠を知った時はとても嬉しく、愛しい人の子を成せたのが誇らしかったのを覚えている。オリオンは「出来ないのならそれで構わないさ」と今までは気にしていない風を装ってくれていたが、やはり私の妊娠へ浮かれていた。少女だった頃に母へ抱いた気持ちはもう私の胸になかった。
その時の私は夫から愛され、やがて生まれてくる子供をきちんと育て、幸福に老いていく己の姿しか描くことが出来なかった。
ブラックの血を引く子供には大体星の名をつける倣いがある。父が家を照らしてくれることはなかったが、常に私を支えてくれる愛しい夫へ敬意をこめて、生まれた子をシリウスと名付けた。天文学で、オリオンは他の星を探す時の目印になると教わった。ああいう両親の間に産まれた私だ。また星ひとつない不安な夜が来ても、オリオンがいてくれればシリウスを見失わずに済むだろうと思った。
私が妊娠・出産でてんてこ舞いをしている内にオリオンとシグナスが説得してくれたらしく、シリウスを見に来たアルファードはやつれた風に穢れた血と別れた旨を伝えてくれた。「シリウスのいるところで穢れた血の話なぞ出さないで」と言う私へ、アルファードは懐かしい呼び名で哂った。「主席さんは、その子も主席さんにするのかな」皮肉の真意が分からず、私は眉を顰める。
「そりゃ勿論、学年主席になって欲しいとは思うわ。私もオリオンもそうだったもの」
アルファードやオリオンと違って、私は頭の出来自体は良くない方だ。しかし毎日毎日コツコツ勉強することで学年主席になったし、監督生にもなった。分家筋とは言えブラック家は現存する純血一族のなかで尤も古いし、成績が低いのでは家名が泣くと思い、何にでも真剣に取り組んだ。オリオンだって同じような意見を口にする。私達はやって出来ない事は何一つないと考えていた。
もしシリウスの成績が低いとしたら、それは当人にやる気がないからだろう。学年主席以外認めないと言うではないが、ブラック家に産まれて、それも本家の長男であるのにやる気や向上心がないというのでは困る。
私の台詞へアルファードは肩を竦めた。「子供は親の思った通りにならないってことを、ちゃんと刻んでおいたほうがいい」
如何いう事だと真意を問いただすべく口を開いたが、それはシグナスの乱入により阻まれた。「アルフィー、ヴァルブルガのところへ行くなら誘ってくれたって良いじゃないか。やあ、シリウス」アルファードを詰ってから、シグナスはシリウスを抱き上げた。ぐずるシリウスをシグナスが器用にあやす。くしゃくしゃの顔が綻んだのに、私達三人も笑みを浮かべた。「シリウスはじきにアルフィーそっくりのハンサムになるだろうな」その無邪気な言葉にギクリと、何故か笑みが凍った。咄嗟に視線を滑らせれば、アルファードと目があった。気まずさからさっと顔を伏せ、何か、誤魔化すように拗ねた声音を紡いだと思う。兎に角シリウスが如何いう風に育つかという話題だけは嫌で、ヴォルデモート卿とその思想の話題へ流れて行ったのに胸を撫で下ろした。しかしマグル生まれを排除するべきだと語るシグナスにアルファードは複雑な顔を浮かべる。それに気づいて、また気持ちが沈んだ。オリオンのおかげで良くなった姉弟仲が穢れた血なぞに汚されているようで不愉快だった。穢れた血など地上から消え去ってしまえば良いのにと、私はそんなことを思った。
シリウスが二歳になった頃、私はレギュラスを産んだ。新聞に物騒な記事が増えてきたが、やはり私達には関係がない。私は子育てに夢中だった。相変わらずオリオンとは睦まじかったし、やんちゃ盛りのシリウスは可愛らしく、レギュラスは夜泣きもせずに大人しかった。全てが順調に進んでいて、私はアルファードの台詞をすっかり忘れていた。アルファードと会う事自体も減っていた。シリウスの誕生日などといった記念日には訪ねて来てくれたが、あんなに社交的だったのが嘘のように家へ閉じこもりがちになってしまった。実家で母と一緒に暮らしているから悪いのではと、何度も一人暮らしを勧めたり、結婚するよう説得したものの、結局応じてはくれなかった。
子供の躾けに忙しいのもあって、私とアルファードの縁はゆるゆると絶えて行った。
『子供は親の思った通りにならないってことを、ちゃんと刻んでおいたほうがいい』
アルファードの台詞を思い出した頃、シリウスはホグワーツへ入学した。私の手には姪からの便りがある。華奢な字でシリウスがスリザリン寮へ組み分けられなかったことを綴ってあった。――私は、私はよく分からなかった。レイブンクローならまだしも、穢れた血贔屓のグリフィンドール寮になぞ、如何してそんなことになったのだろうかと、思考には困惑が満ちる。釦を掛け違えた時のような焦燥感が胸を焦がした。オリオンのおかげで物事は良い方向に進んでいたはずなのに、アルファードは穢れた血と付き合い、シリウスはスリザリンに組み分けられなかった。私は幼い頃の不安を思い出しつつあった。歯車が噛み合わない恐怖。物事が外れていく恐怖。愛しいものから顧みられない恐怖。劣っている自分が引き寄せる不運。あんな母に育てられた私達でさえ全員スリザリン寮へ組み分けられた。なのに、母よりもずっと“まとも”に子育てに従事してきたはずなのに、何故シリウスはスリザリン寮へ組み分けられなかったのだろう。
シリウスがホグワーツへ入学以来寝込みがちになった私を見舞ってくれるのはレギュラスだけだった。同じ時期から、私とオリオンは些細な事で口論しがちになっていた。オリオンは私を悲観しすぎだと叱り、私は彼を楽観的だと詰る毎日だった。
「グリフィンドールにだって“きちんとした”魔法使いはいる。私の友人にだっているよ。彼らは立派な魔法使いだ」
オリオンの台詞は、私にとって楽観視以外の何物でもない。良いわよね男はと、酷く苛立った。シリウスが出来そこないだった時、真っ先に責められるのは母たる自分だ。確かにオリオンは父よりもずっと子煩悩ではあったものの、やはり女の気持ちは分かってくれない。あんなに憎んでいた母。あんなに愛していたオリオン。いつしか私は母の気持ちへ沿うようになっていて、父とオリオンを被せるようにもなっていた。シリウスのことが不安で、心配で、頭が熱くて、冷静に考えられなくて、「それでも学生時代は“ああいうひとたち”と一緒に過ごしてきたのでしょう」とオリオンの友人を侮辱した。いつもなら折れてくれるオリオンの眉が寄せられる。
「同寮ということでちょっとは言葉も交わしたかもしれない。だけど、彼らは少なくとも穢れた血と付き合ったりなんてしない」
「アルファードは穢れた血に誑かされただけよ!」胃がムカムカする。「私は、私はただ――シリウスが、シリウスが」アルファードみたいになったら、その台詞を口にすることは出来なかった。アルファードとは昔から仲は悪かったし、オリオンやシグナスの助けを借りてでも親しくはなれなかった。それでもすぐ下の弟で、もう物心ついた時には一緒に暮らしていて、オリオンと私が結婚する切っ掛けを作ってくれた。アルファードの作ったオルゴールは今もまだ美しくもぎこちない音色を奏でる。その音があまりにも綺麗で、完璧すぎて、目頭が熱くなる。何か、大切なものが壊れていく音がした。不安に足元が溶けていくような気がした。
オリオンの見解は結局日和見だった。シリウスは“ああいうひとたち”と交友を深め、私が幾ら叱ろうと、“きちんとした”友人を作るように説得しようと、何もかも無意味だった。アルファードの言う通りに物事は進み、私は些細なことで苛立つようになっていた。
シリウスが十三になった冬、事の預言者たるアルファードは死んだ。自殺だった。
傍らに残されていた遺書には穢れた血の名前が綴ってあったので、私はそれを暖炉のなかに突っ込んだ。何も目にしたくはなかった。何もかも穢れた血のせいだと、私は全てを呪っていたかったのだ。アルファードは穢れた血に殺された。それ以上でもそれ以下でもない。私はアルファードの棺桶に縋りついく女を思い切り引っぱたいて、追い出した。アルファードの人生を台無しにしておいて、死んだ後も汚しにくる面の皮の厚い女。アルファードはハンサムだったし、頭も良くて、社交的だった。素晴らしい未来を約束されていたはずなのに、穢れた血なぞと付き合い出してから狂ってしまった。仕事も辞め、人と会うのを嫌い、家へこもるようになって、最期は一人だった。もっと、穢れた血なぞに誑かされなければ幾らでも良い人生が送れただろう。結婚もしただろうし、子供も出来ただろう。如何してこんな終わり方になってしまったのだろうか。何故自ら命を絶ってしまったのだろうか。思考が途絶える。何も考えられなかった。
嘆く私の周囲で、人々がアルファードに呆れているのが分かる。穢れた血に誑かされて、人生の全てを投げ出した男が死のうと生きようと世間には如何でも良いのだ。家名を汚していた出来そこないが死んで良かったじゃあないかと、そういう風に笑いかけられる。シグナスさえ、オリオンさえ薄らとそう思っているらしかった。責めることは出来ない。私だって少女の頃、アルファードを恨んでいた。あれだけ両親に愛されていながら、その愛情を重いと言ってのけ、必死に逃げようとしていたアルファード。私は彼へ何と言っただろう。贅沢だ、我儘だと、そう罵倒した気がする。過去にアルファードを呪った私が、如何して今更彼らを責められるのだろう。
アルファードは出来そこないじゃない。でも、シリウスにはアルファードのようになって欲しくない。矛盾した気持ちが私の内をぐるぐる廻る。遺産の相続について私を訪ねてきた役人が、サインしてくれと頼む。家屋敷を売り払ったお金と、アルファードの貯めたお金。相続人は私やシグナスではなく、シリウス・ブラックとなっていた。マダム、サインをして下さい。帰宅時間を気にする役人が繰り返す。
サインなどしないほうが良い。このお金はいつかシリウスを連れていってしまう。そうは分かっていたのだけれど、私の羽根ペンはすらりと動いた。誰かが私の手を使ってサインする。シリウスがこの遺産を相続することを、彼の保護者である私が許可します。アルファードが動かさせたのだと、私は思った。シリウスはアルファードによく似ている。遺されたのは金貨ではなく、叶わなかった彼の夢だった。
アルファードの望みが何だったのか、夢が何だったのか、私は考えることを拒む。それは生理的に受け付けないものだった。
私はアルファードを見殺しにしたのだろうか? したのだと、呟く。呟いて、ぎゅっと強く目を閉じる。僅かな光さえない暗い空間で、私は私に言い聞かせる。もっと話に行くべきだった。姉なのだから、アルファードが穢れた血に誑かされぬよう気を配るべきだった。
そうすればアルファードは今も生きていて、私やシグナスと親しく、私には甥もいたかもしれない。
アルファードの葬儀から数日後、私は客間のタペストリーに焦げ跡が増えているのに気付いた。私とシグナスの間、アルファードの名が消えている。シリウスとレギュラスはホグワーツだ。この家には、このタペストリーへ触れられるのは私を含めても二人しかいない。
私がリビングへ行くと、オリオンはまだ長い葉巻を灰皿に押し付けていた。視線を重ねてはくれない。
かつてオリオンは怖いほどのひたむきさで私を愛してくれたし、その愛情へ身を委ねれば不安も恐怖も感じることはなかった。この人とならどんなことでも語らうことが出来るし、私の両親が作ることの出来なかった幸福な家庭が築けると信じて疑いはしなかった。
シグナスが含み笑いで友の恋路を見守り、アルファードがその背を押して、オルゴールが響いていたあの日――もう、約束を交わした日から幾年経ったか分からない。永遠が続くと過信しきっていた若い頃は疾うに過ぎ、鏡に映る私は老いている。
オリオンの帰宅時間は遅くなり、週に一度は帰ってこない日があった。私には浮気を問い詰める気力さえない。不安に苛まれてヒステリックな女に魅力などないことはよくよく知っていた。美しかった母でさえそうなのだ。平凡な容姿の私が神経質な顔をして、しかもオリオンより四つも老いていて、それでもまだ支えたいなどと彼が思ってくれるはずがない。幾年もの間オリオンは私へ尽くしてくれた。私のせいで疲れ切った夫が誰かに癒されたいと望むのを、嫉妬や苛立ちで止めさせることは出来なかった。
私はオリオンの帰りを待って、ソファに腰掛ける。オリオンが帰ってこないことは分かっていた。そして待っていたのだと彼に見せつける気もない。朝が来る前に私は一人でベッドに入り、オリオンが扉を開ける音で目を瞑る。昼になってから昨日は遅かったのねと一言だけ言い、日付が変わった頃に帰ってらしのでしょうと嘘を吐く。ランプを一つも灯さないのは貴方を騙すため、もう愛して等いないと、貴方の罪悪感を減らすために、私は黒い家のなかで沈んでいくのだ。母がそうだったように、私も同じ夜を繰り返す。
せめてシリウスとレギュラスだけには、幼い頃の私達のような気持ちを味わわせたくない。アルファードのようにはしたくない。私がオリオンからのプロポーズを受けたときの幸福へずっと浸って欲しい。完璧に幸福な家庭を築いて欲しい。
そのためにはどうしても“穢れた血”や“血を裏切る者”たちと手を切ってもらう必要があった。
ジェームズ・ポッターはまだ良いとしても、ピーター・ペティグリューは祖父が穢れた血だし、リーマス・ルーピンなんて母親が血を裏切る者の家系だ。幸いにも成績は良いし、グリフィンドールに属していることもこの際如何でも良いから、ピーター・ペティグリューとリーマス・ルーピンとだけは縁を切りなさい。そう叱りつけても、シリウスは応じなかった。アルファードと同じだ。でもきっと、穢れた血がどれ程害悪か根気よく語りかければ理解してくれる。幼い頃はあんなに優しくて、物分りの良い子だった。シリウスの部屋に鍵を掛けて、何度も何度も説得しに行った。頷かないのであればホグワーツへは戻さないとも脅した。最初は罵倒を口にしていたシリウスが段々と言葉少なになっていく。二月も経つ頃には私が部屋へ入っても身動き一つしなくなっていた。あともう少しで頷いてもらえる。
安堵が胸を満たしたが、それが絶望と落胆に塗り替えられるまではあっという間だった。
「母さん」とレギュラスが、リビングのソファへ腰掛ける私を呼ぶ。今日はシリウスへ何と説得しようか考えている途中なのにと、苛立ちから返事が低くなった。アルファード似で活動的なシリウスと違い、レギュラスはオリオン似で大人しく、人の顔色を察するのが上手い。そんなレギュラスが、私の不機嫌を無視した言葉を落とした。大人びた瞳が私を写す。「シリウスがいません」
言葉は出なかった。シリウスの部屋へ確認しに行こうとも思わなかった。私には誰がシリウスの部屋の錠を解いたのか、検討がついている。レギュラスは人差し指で太ももをトントン小突いていた。視線が重なった瞬間、すっと逸らされる。喉に力が入らなかった。
黙っている私に、レギュラスが張りつめた吐息を漏らす。「僕は……僕が」レギュラスはもごもごと、途切れ途切れに紡いでいた。「兄さんより賢くないかもしれないけど、それでも僕が貴女の望むだけの結果を出しますから、」
大人びたと思えば、もう私へプロポーズした時のオリオンよりも一つ年上か。シリウスに至っては、オリオンと出会った時の私と同い年だ。ぼうと考え事へ耽る私の耳に、レギュラスの声が遠い。「母さん、僕を見てくれとまでは望みません」アルファードの台詞と同じ。乱入者がいなくても、私には真意を訪ねることなど出来なかった。黙りこくる私を後に、レギュラスが部屋から出ていく。レギュラスがいない。オリオンもいない。シリウスもいない。アルファードもいない。誰もいない。誰にも手が届かない。
何もかもが星よりも遠い。
『禁じられているとは分かっていた。姉さんや弟、友に理解されるまいとも理解していた。生きる世界が違う。産まれた場所が悪かった。仕方のないことだ。幾度繰り返しただろう。それでも私は、如何しても彼女が好きだった。手を伸ばせば触れられる場所にいると分かっていて、私は姉さん達の言いつけどおりに彼女の下へ行かないでいることは出来ないと思った。それでも、私がマグル生まれの女性と添い遂げたなどと知れれば嫌な気持ちになるだろうし、周囲から謗られるだろう。
私は彼女のいない世界へ逝くことにした。そうしたら彼女と結ばれるよりはずっと恥ずかしくはないだろうから』
どこで歯車が狂ってしまったのか分からない。私は、アルファードもシグナスも、少なからず互いを思いあっていたはずだ。家族として愛しているし、オリオンのことだって、シリウスのことだって、レギュラスのことだって愛している。なのに何を考えているか分からない。ただ幸福な響きだけが耳朶をくすぐっていく。私とオリオンの手の中で、アルファードの作ったオルゴールが音を奏でていた。Am zing grace…How sweet the so…und T t s…キリキリと歯車の回る音と金高い不自然なメロディが瞼を掠めていく。目じりから涙が零れた。滴はするりと頬を撫でず、皮膚へ刻まれたしわに貯まる。私の手へ触れていた温もりが頬を拭ってくれた。Throu…gh ma y da…ngers, t i s, a…nd snares、金気臭さのない丸い響き。それが少女のものであると気づいた瞬間、眠っていたのだと理解した。
まだ辛うじて家族が存在していた頃の夢を……懐かしい曲に誘われ、昔を夢に見ていたらしい。
頬へ触れていた温もりがもう一度頬を拭い、離れていった。いつの間にか歌は途切れていて、子供が私の顔を覗き込んでいる。
「大おばさま、おきてしまわれたの?」子供が小首を傾げると、短いプラチナ・ブロンドが僅かにそよいだ。
ソプラノの声に短い髪というギャップが思考に空白を産んだが、にこりと笑う表情の無邪気さに思い出す。少女――ダリル・マルフォイはシグナスの孫だった。夢に見ていた時からもう十数年が経っている。シグナスの子供は疾うに嫁いで、一人は家を出て、もう一人はシリウスと同じアズカバンへ容れられている。ほんの少し前まで私へ語りかけていたレギュラスも、オリオンも、シグナスも、もういない。夢から醒めぬ私の胸に掛けられている毛布をダリルが引っ張り上げた。少女の笑みは寝起きに眩しすぎる。「おかあさまがね、大おばさまがおきるまでおそばについていてさしあげなさいって言って、毛布を持ってきてくれたの」
周囲には薄暗い庭が広がっていた。作りたての薔薇園を見て、何故招かれたか思い出しす。ここの所家へ籠りがちな私を心配して、ナルシッサが家へ招いてくれたのだ。庭を見ている内に疲れたのだろう。テラスにあるロッキングチェアーへ腰掛けたところまでしか記憶に残っていない。どうも、そのまま寝入ってしまったらしい。冬は過ぎたとはいえまだ夜は寒いはずだが、毛布と保温魔法のおかげで温かい。ダリルもそう寒がっている様子はなかった。子煩悩のルシウスがここへ彼女を置いておくぐらいだから、彼らもすぐ近くにいるだろう。経緯と状況を探る私の傍らで、ダリルは相変わらずにこにこと笑っていた。男装していることもあって活発な性質なのだろうと思ったが、こうして私の傍で待ち続けられるということは、然程でもないのかもしれない。少なくともシリウスならどこかへ消えてしまうだろう。もうすっかり成人した息子を、年若い少女と比べている自分へ、少し苦笑した。複雑な気持ちを持て余しながら背筋を伸ばす。
「私はどのぐらい眠っていたの?」何気なく問うただけなのに、途端にダリルは困り顔を浮かべた。外見から察するにまだ四五歳だろう。シリウスでさえ時計を読めるようになったのは六歳の時だった。「分からないなら良いわ、大体の予想はつくから」
私の台詞へダリルの表情が緩む。自分にもこういう娘がいたら、何か変わったのかもしれないと思った。それはそれでまた繰り返すだけなのだろうけど、不思議に穏やかな気持ちだった。久しぶりに外へ出て、泣いたからなのかもしれない。
歳を取ってみるとアルファードが人と会うのを嫌う気持ちも分かる。人付き合いは面倒なものだ。老いれば老いるほどに、矜持と見得に挟まれて息苦しい。着こんだ鎧の重みで窒息しそうにさえなる。子供の前ではまだしも楽だ。ダリルは私のことを知らないだろう。じきに知ることになるのだとしても、今は何も知らない。その瞳に映る私は単なる老婆に過ぎないのだろう。だから私も過去を忘れることが出来る。老婆として、ほんの少し彼女へ優しくしてやることが出来る。
夜風に乱れた髪を手櫛で整えてやれば、ダリルはくすぐったそうにはにかんだ。
「貴女、ずっと待ってたの。暇だったんじゃない」
ダリルはぶんと頭を振ろうとしたが、髪を気にしてから動きを小さくする。「だいじょうぶ」ダリルの声音へ、僅かに面食らった。ダリルは大丈夫、そんなことなかったわと私に微笑みかける。「ちょっと前までドラコが一緒だったから、二人でほしをみていたの」
「星を……」私がシリウスへ星の見方を教えたのはいつだっただろうか。
頭のなかが色々な事柄で埋まる。もう眠りから覚めたはずなのに、まだ夢を見ているようだった。子供と接するのが久しぶりだから色々なことを思いだしてしまうのだろうか。オリオンたちの夢を見たから、求めてしまうのだろうか。この子がシグナスの孫だから、面影を探してしまうのだろうか。歳を取ったから、被せることしか出来なくなっているのだろうか。ダリルはルシウスから星の見方を教わっている話をしている。双子の兄と、厳しいけど時々甘い父親と、ちょっと素っ気ないけど優しい母親のことを嬉しそうに口遊む。
「ドラコのほうが見つけるの得意なんだけど、冬の星座はね、私のほうが見つけるの早いの」ダリルが誇らしそうに薄い胸を張った。そうしてから秘密ねと、ダリルが私の耳朶へ唇を寄せる。ブルーグレイがきょろりと周囲を確認した。
「オリオン座を見つけたら、あとは全部分かっちゃうわ」
ちょっとだけ、この名前恥ずかしいなと幼いオリオンがはにかむ。友達が、冬空を見上げる度にお前がいるぞなんて言うんだよ。
「私も、星を見つけるのは得意なのよ」ダリルがじいっと私を見つめている。せがむような視線に誘われて、私は夜空を見上げた。久しぶりではあったものの、春の大三角形はすぐにみつかった。一番右端にある星を辿って、獅子を見つける。すっと指で示せば、ダリルも空を見上げた。「大三角は分かる?」夜空を探っていたダリルがコクと頷いた。手を動かしながら説明する。
「右端の星の横、同じ高さに星があるでしょう。また右へゆるやかに下っていって、そうするとね……」
決して届くことのない、淡く光る星へ指先が触れた。
――僕が貴女の望むだけの結果を出しますから、どうか兄さんの好きにさせてあげてください。
あの子の瞳に私とシリウスは如何映っていたのだろう。シリウスの瞳に、私は如何映っていたのだろう。
「獅子座の、レグルス!」
ダリルのはしゃいだ声が辛うじて涙を押しとどめてくれた。私が幸福だったこと、そしてそれを失ってしまったことなど知りもしないダリルが無邪気に、嬉しそうに私へ笑いかける。「あとでドラコにも教えてあげなくっちゃ。実はね、あのね、ドラコと私、レグルスを見つけられたことがないの。他の星よりも光が淡くて、見つけ辛いのね」何も知らない。「なんだか、レグルスって優しい星みたい」
何も知らないこの子のほうがずっと分かっている。レギュラスは優しい子だった。優しすぎて何も言わなかった。何も、何も。
「……大おばさま?」ダリルが心配そうに顔を曇らせて、私の頬へ指を伸ばす。華奢な指が滴を捉えた。さらりとプラチナ・ブロンドが揺らぐ。動揺しているらしかった。それもそうだろう。急に大人が泣きだせば、誰だって戸惑う。私は頭を振って、喉を振るわせようとした。何でもないの、大丈夫よ。その台詞が私からではなく、少女の唇から零れる。「大丈夫よ。何かあったら、お父様とお母様がすぐそばにいるから」頬に触れていない手が私の頭を撫ぜていた。目頭が熱い。昔を思い出す。失くした夢が蘇る。無邪気な笑みで私に取りすがるシリウス。躊躇いがちに自分の勉強の成果を口にするレギュラス。私の差し向かいでソファに寛いでいるオリオン。もう戻れないから懐かしい。何所で狂ってしまったのか分かれないからまだ悔やんでいる。愛おしいから、涙が出る。
私は震える喉を引きつらせた。「もう一度、」もう一度歌って、あの歌を。あの頃の夢を、愛しい人々の声を、壊れてしまう前の平穏を、この胸に淀む憎悪が薄れている内に思い出させて欲しい。掠れた願いはダリルの耳に入ったようだ。ぎこちないメロディが聞こえる。誰がこの子にこの歌を教えたのだろう。アルファードや、オリオンであるはずはあるまい。マグルの戦火とは無縁とはいえ、私達魔法界も少なからぬ混乱に満ちていた。至る所でこのメロディを聞いたものだ。神への救いと、己が孤独でないことを求めるこの歌を色々なところで聞いた。ダリルのものだけが胸を突き動かすのは、それがシグナスと繋がっていると思えるからだ。私とオリオンを冷やかすためにシグナスが口遊み、アルファードが笑っていた過去が今に繋がっていると思えるからだ。
少女の歌声から一人じゃないと、例え今孤独でも、あの頃の幸福が確かに存在していたのだと感じることが出来た。
――君を支えて生きていきたい。
ダリルの歌の隙間から、オリオンが私へ囁きかける。私の手に気付くことなくとも、その背が崩れぬよう寄り添い続けたい。
二十一歳の私が十七歳のオリオンへ不安を感じていた。私で良いの。娘時代にとって四歳差は大きすぎるし、時間や距離と共に心まで離れているかもしれない。もう婚約は交わしているから別れることは出来ないけれど、誰か好きな子がいるのなら囲ってもいいのよ。お父様がそうしたように、貴方も私への気持ちが無くなったのなら好きにして頂戴。オリオンは苦笑を浮かべて頭を振る。老人になってしまえば四歳差など誰も気にしはしないさ。ねえヴァルブルガ、大丈夫だよ。大丈夫。オリオンの腕が私を抱きしめる。あやすように大丈夫だよと繰り返す。I love you…オリオンが私の耳元へ囁いた。愛しているよヴァルブルガ、だから私を信じておくれ。
『君が孤独を感じている時も、私は必ず君を想っているよ。君がそれに気づくまで、気づいてからも、私は君の傍にいることを誓おう』
貴方は女を囲ったりなどしていなかったわね。ただグリフィンドール寮出身の友人へシリウスについて相談したり、私の不安を如何したら取り除けるのか癒師に聞いてみたり、パブで時間を潰していたり、そんなことをしていただけだった。貴方は何も悪くなかった。
ねえオリオン。私達がこうなってしまったのは、誰が悪かったのかしら。
明かりがないのなら君が灯せば良い。そう笑ってくれた人の思い出を引きずりながら、私は今も昏い家へ暮らしている。私は弱い女だ。誰かの手がなければ明かりを灯すことさえ出来ない。何でも貴方に頼りっぱなしで、それで今更になって自分の弱さを気づくのだ。
孤独と不安に窒息しそうな胸中を、思い出だけが宥めてくれる。狂いそうなほど張りつめた気持ちが愛しさに絆されていく。愛していた。愛している。いつだって想っていないわけではなかったのに、私はオリオンへ幾度愛情を伝えただろうか。シリウスへ、レギュラスへ、貴方達を愛しているから心配なのだと、果たして伝えたことがあっただろうか。父へ、母へ、愛してくれと乞うたことがあったろうか。
たった三単語の短い台詞を、私は何故惜しみ続けてきたのだろう。それだけは分かる。愚かで、頑固だったから――否今もそうだから、私は今も多くを憎み、何故と、声もなく問いかけているのに違いない。痛いほどにハッキリしている答えを拒むために恨んでいる。
涙を零す私の頭上には幾千もの輝きが散らばっていた。嗚呼、しかしあの星々は疾うに潰えているのだ。
七年語り – SPIN OFF