七年語り – EXTRA STORY
頬に祝福のキス
幼い頃、ダリルは片割れと鏡写しであることを望み、蔓のように歪んだ自我を形成させていた。ドラコへの依存に気づいているのはナルシッサだけだったし、それを如何かしなければと考えているのもまた彼女だけだった。
当初はその性別が不満だと漏らしていた夫はいつの間にやら娘を溺愛するようになり、渦中の片割れは押しの弱さ故に妹へ逆らえない。「あんなにドラコベッタリで如何しましょう」カップに満ちた紅茶を、ナルシッサのため息が揺らす。ただでさえ純血思想に依って続いてきた一族の者は近親婚を繰り返し、内に流れる血が濃い。その純粋さこそが誇りではあったが、あまりに濃い血は人を狂わす。ブラック家やマルフォイ家などが今も続いているのは、自尊心や矜持等と適度に距離を置くための自制心が優れていたからだ。
純血主義者にとって子供の性癖や恋愛を“好き放題”させるわけにはいかない。ナルシッサの実家は既に途絶えかけている。彼女が己の嫁してきた家の繁栄を願うのは自然な流れであり、且つ切実なものであった。しかし新聞を読む片手間で妻の“お悩み相談”を受けていたルシウスは「放って置け、じきに『お父様と結婚する』とか何とか考えを改めるだろう」と唸るだけだった。
男はあてにならない。男っていうか、夫があてにならない。ナルシッサは無言で夫の足を踏みつけた。
「お前はいつもそうやって勝手に気分を害して一人でむくれるが、何か文句があるのならたまには口を有効活用したら如何なんだ」
「なんでもありませんわ、あなた」
ぎゅうぎゅう。
こと娘のことに関して男親というのは甘くなるらしい。何だかんだ父親のことは畏敬しているから、ルシウスから叱って貰えたらと思ったものの、当の本人が近親婚へ大した危機感を持っていないのでは説得力に欠ける。だらしのない父子へ腹を立てたナルシッサだが、その憤りもすぐ萎んでしまった。諦めたわけではない。ダリルが“ああ”なのは、邸内に二人きりでいることが多いから、必然的にドラコを選ばざるをえないだけなのだろうと見当をつけたからだ。じきに他の子供達と関わり社会性を学ぶ過程で、兄への執着は異常であると理解するだろう。
生まれてからほんの五年、幼い娘の執着を厳しく律するのも大人げないと、ナルシッサは暫し傍観を決め込むことにした。
「大きくなったらドラコと結婚するの」
その台詞はいつのものだったろうか。己に対して気を置かざるを得ない友人や、その子供らを招いての昼食会だったとナルシッサは記憶している。「だって、みんなの中で一等ドラコに似合うのは私だもの」食後の歓談の席で、慣れない人々に囲まれて緊張しているドラコの首根っこを掴んだダリルがキッパリ言い放った。まあ可愛らしいと笑う大人達に混じって、子供達もぎこちなく頬を引きつらせる。
ドラコにぴったり寄り添うダリルはまるで少女らしくなかったが、その――自分の両親の位がこの場において最も高いことを理解し、「勿論ドラコは私のだけど、今だけじゃなく、これから先もそうなのよ。貴方達は永遠に“私の”ドラコに近づけないの」と周囲の子供らを見下す――賢しさも、到底少年らしくはなかった。どんなにドラコを真似てみても、女の傲慢さは隠しきれるものではない。
ナルシッサは眉を顰めた。
自分への従順さを植え付ける以外ではダリルの“好き放題”に無関心な夫と、何だかんだ妹に所有されて満更でもない息子と、血脈や位の故にダリルを甘やかす友人達と、好きにものを言えない彼らの子供達。皆に合わせて笑ってはみせたものの、その実ナルシッサの頭は鈍く痛んでいた。“出血”よりも、澱んだ血が行き場もなく留まるほうがずっと悪い。ナルシッサは「自分が如何にかしなくては」と決意した。
大人げないとも、時期尚早なのではとも思ったが、ナルシッサはダリルに恋愛の何たるかを教え始めた。それは彼女が六歳のことだった。
ただでさえ口うるさい母親からぎゃあぎゃあ言われるのだから、ダリルがそれを歓迎するはずもない。
母娘二人の“勉強会”はまず、ダリルを捕縛するところから始めなければならなかった。しかし淑女たるナルシッサと違い、己をドラコと同じだと思っているダリルは逃亡に手段を選ばぬため二人の鬼ごっこは熾烈を極めた。
ルシウスは「お前は調教師には不向きなようだ」と妻を笑うだけだったけれど、ドラコは違う。何が違うって、立場の弱さが違う。関わりたくない関わりたくないと思っていても、双子の妹に胸倉を掴まれれば関わらざるを得なかった。鬼の形相で自室を訪ねてきた母親へ「ダリルなら、洋箪笥の中で丸くなってますよ」などと言おうものなら、後で何をされるか知れたものではない。
悔しさに身を震わせるナルシッサが扉を閉めると洋箪笥の戸が開き、「お母様ったら、しつこいわ!」ドラコのシャツやズボンに塗れたダリルが這いずり出てくる。視界を塞ぐネクタイを畳むでもなく、脇へ放り投げた。「私にばっかり厳しくして、酷い。そう思わない?」すっかり膨れているダリルを前にしてもドラコは妹を宥めようとは思わなかった。よっぽど「お前のほうが酷い」と言ってやろうかと思ったが、ドラコは紳士だ。というか妹の不興を買うのは面倒臭い――要するに彼はすっかり妹の尻に敷かれていた。
「ここのとこ、母上はお前にかかりっきりじゃないか」
大人しく衣服を拾い集めることに決めたドラコが、じと目でダリルを睨んだ。
「なあに、羨ましいの?」ドラコが否定しようとしたのを、ダリルは鼻を鳴らして遮った。「詰まんないことよ」
ダリルは肩に残っていたソックスを、ドラコのほうへ投げて寄こした。そのまま洋箪笥脇の壁へ寄り掛かる。人差し指で組んだ腕を苛立たしげに叩く仕草が父そっくりだと、ドラコはそんなことを思った。ルシウスの幼い頃そっくりだと言われるのは、いつだってダリルのほうだった。ダリルの勝気さと言ったら、子供の頃の君そっくりじゃあないか。友人達にからかわれた父親は不機嫌を気取ってみせるのだけど、ドラコの目には喜んでいるように見えた。跡継ぎであるのを理由に父から厳しく躾けられるドラコには勿論妹への嫉妬がある。勝気で、我儘で、自分よりずっと好き放題な妹が父親から叱られぬばかりか母親の小言からも逃れるのに成功するのはずるいとも思う。それでも、
「……いつまでもドラコドラコ言うのは止めなさいとか、そんなこと言われるのだもの。詰まらないわ」
――それでも、請うように伸ばされた腕を拒む気にはなれない。「お前は、しかたのない奴だな」ドラコは口を尖らせると、腕に抱えていたシャツをそこらへ放り出した。磁力の故に、己を待っているダリルに抱きつく。満足そうに瞳を細めるダリルの額に己の額をくっつけた。
「私は、ずっとドラコと一緒でいるの」間近に見える鏡映しの容貌がドラコの瞳を捉える。「だから、これからも木登りするし、ワンピースなんて着ない。ずっと、ドラコと同じズボンで良い」不貞腐れた台詞にドラコはぷっと噴き出した。同じ色、同じ長さの髪へ触れる。
「ワンピース着るなら、もっと髪を伸ばさなくっちゃな」ダリルの顰め面の理由は勿論ドラコに髪を引っ張られたことだけではない。「こないだのエピファニー、お前はワンピース着るだけで“仮装”になって良いなんて父上から言われてただろう」
「着ないもん!」ダリルはすかさず否定した。拘束を解いて、ドラコの薄い胸をとんと押す。僅かによろけたドラコも眉間にしわを寄せた。
「父上が着ろって言ったら着なくちゃならないだろう。母上だって、そのぐらい分かってるさ」
こんな風に小言から逃げていても直に掴まるぞと皮肉ったのへ気づいたらしいダリルの表情が険しくなる。
「ワンピースなんて絶対に着ない! そんなにワンピースが気になるなら、ドラコが着たら良いじゃない」ダリルがくっと顎をあげた。せせら笑うような声音を作る。「ドラコは泣き虫だもの。髪を伸ばしたら本物の女の子に見えるでしょうね」
「泣き虫じゃない!」ドラコは退いてと己を押した腕を掴んだ。
引きとめられたダリルはあからさまに顔を歪めると、冷たい瞳でドラコを射抜いた。「嘘、うーそ!」クスクスと笑われたのに、ドラコが赤くなる。単純に馬鹿にされたことも苛立たしかったし、先まで己を求めていた妹の変わり身の早さも悔しかった。
「こないだだって、ちょっと転んだだけで泣いてたじゃない、ほら……」
「違う!」段々ドラコで遊ぶのが楽しくなってきたらしく楽しげなダリルの声音へ否定を被せる。「砂が目に入ったんだ!」
「それじゃなくて、こないだお父様といた時のことよ」
長いこと椅子に座っていたんで足が痺れちゃって、絨毯のだまに蹴躓いたじゃないと思い出させてやれば、ドラコがダリルの腕を引いた。ドンと壁に叩きつけられる。ダリルの不機嫌が再び鎌首をもたげた。「何、するの!」ドラコの頬をパンと打つ。
あとは、互いの癇癪をぶつけ合うための取っ組み合い。絨毯の上をゴロゴロ転がりながら、相手の髪を引っ張ったり、胸倉を掴んだり、鼻を摘まんだり――騒ぎの割に地味な攻撃ばかりだ。十分ほどもやらかしていれば騒ぎを聞きつけたナルシッサが駆け付けるのだけれど、ダリルを探して庭へ出ているのか三十分ほどが過ぎても誰も来ない。そうこうする内に、体力のないダリルのほうが先にへばった。
「ドラコの、くせに……」
ドラコの上でマウントを取ったは良いものの、すっかり疲れ果てたダリルはその場で崩れ落ちた。
「ドラコのばかぁ」
取っ組み合いをする元気はなくても口は動く。自分の胸のあたりでぎゃあぎゃあ五月蠅いダリルを、ドラコが突き飛ばした。背後の壁にドンとぶつかる。「一々お前は、」体力もない癖に一丁前に騒ぎだけは起こすんだからと罵りかけたのを、鈍い衝撃音がかき消した。
ダリルの頭があったところに、茶色の文字盤が見える。「うっ……ぅえ……」“何か”の鋲がドラコの太ももの傍にある。ぱっと壁を見上げれば、常に自分たちを優しく見守ってくれていた掛け時計が、なかった。わあっと、サイレンのような泣き声が響く。
「いた……っどい、ドラコ」ダリルが俯いて泣き始めると、その頭に乗っかっていた時計が脇に落ちた。「ドラコが、おしっぇ、いたい、押したぁ――」半径七センチほどもある、木製の掛け時計だ。そんなものが頭に当たったら余程痛いだろう。ダリルが大声で泣き出したのに、ナルシッサが来る気配がない。ドラコは茫然と時計とダリルとを見比べていた。妹が、死んでしまう。「っえ、も、きらい、やだ、」
「ダリル、」ようやっと我に返ったドラコがダリルに手を伸ばした。「母上を、母上が」それをダリルが叩き落とす。
ぽろぽろと涙を零すブルーグレイがドラコを睨みつけていた。「ど、ドラコなんて」ひっくと、ダリルの声が引き攣る。「だいっきらい!」
後頭部を抑え、壁に寄り掛かってしくしく嗚咽を漏らす。大きな声で泣くよりも、そうやって押し殺した声で泣かれることのほうが辛かった。ダリルが泣いているのも嫌だし、痛い思いをしたのも嫌だし、こんなに大きな時計で頭を打ったのだから死んじゃうかもしれないとも思って、それが全部自分のせいで、手を叩き落とされて、大嫌いと言われて、ドラコは如何したら良いのか分からなくなってしまった。
ドラコはぎゅっと拳を握りしめて、俯いた。「お、おし」ぽとり、絨毯に丸い染みが出来る。「おして、押したけど、でも」うっく。嗚咽に喉を震わせた。「でも、そん、ば……そんな、落ちてくるなんて、おも、思って、き、きらっ」
「嫌いなんて、ダリル、おし、押しった、けど――」
言いようのない悲しみを肺から押しだすべく泣き続けていると、ぎゅっと抱きしめられた。「……ドラコ、泣かないで」
ダリルに包まれて薄暗い視界で、自分と同じに潤んだ瞳が見える。
「もう痛くないし、嫌いなんて嘘だから、ね?」ダリルは兄の背へ腕を回したまま二の腕で涙を拭おうとしたが、結局ドラコの膝に落ちた。
「……うそだ」ドラコが後頭部に手を伸ばすと、ダリルの身が竦んだ。未だ熱を持った患部を優しく撫でる。「はれてる」
「ドラコが泣いてるほうがずっと痛いから、平気」
ダリルはドラコの肩へ顔を埋めると、くぐもった声で「だから、もう泣かないで?」と囁きかけた。その響きにまた涙が零れる。手を下ろすと、ドラコもダリルを抱きしめた。己と同じ温もりを腕に閉じ込めて、逃がすまいと束縛をきつくする。「押して、ごめん」
「私も、からかってごめんなさい」耳朶を掠めていくダリルの微笑がくすぐったい。
こそばしさから少しだけ拘束を緩めるとダリルが顔を上げた。悪戯っぽくはにかむ。「私達、泣き虫も一緒ね」照れたように笑う片割れへ唇を寄せる。仲直りの証に、両親がするみたくキスをしてみようと思ったドラコにダリルが人差し指を突き立てた。「だーめ」
明らかに気分を害した様子のドラコへ、ダリルが申し訳なさそうに小首を傾げる。
「お母様が、ドラコと口でちゅってしちゃ駄目って言うの」
「その、口でちゅってするのは、大きくなって、“そいとげたい”っておもう人が出来た時のためにとっとかなきゃ駄目なんですって」
「そいとげたい?」
拒んでおいてなんだが、ダリルだって母親の台詞を理解出来ていない。大人達がするように口へキスしたら母親に怒られる程度の認識しかないダリルにとってドラコを納得させるのは困難なことのように思えた。「んー」ダリルが言葉を濁すとドラコも大体のところを理解した。己の理解の範疇を超えた拒絶を行使するダリルへ不満もあったが、ドラコだって母親の雷は怖い。
何より母親が禁止するのならそれで正しいのだろうと思った。
「ずーっと一緒にいたくて、ずっとぎゅってしててもらいたくて、一緒にいるとドキドキする人……みたいに言ってたわ」
「……ずっと僕と一緒にいるって言ったじゃないか」考え考え絞り出すダリルを拗ねたような声音で非難する。
「勿論そうよ。でも、まだ大きくなってないもの」
誤魔化すような笑みを浮かべると、ダリルが腰を浮かせた。ドラコの前髪を掻きあげて、口づける。お決まりのキスだ。二人交わし合う謝罪で、告白で、約束。ダリルのキスが終わると、ドラコも同じようにして額へ唇を寄せた。ダリルの声が僅か下のほうから聞こえる。
「大きくなったら、そいとげましょうね」
そんな風に――「二人きりの世界で一緒に死のうね」と言って憚らなかったお前が、「別々の世界で一緒に大人になろうね」と、あの頃と変わらぬ気安さで僕の手を取る。
共に生まれてきた幸福を忘れはしない、永遠に。
七年語り – EXTRA STORY