七年語り – LULL BEFORE THE STORM
10 マグル育ちの魔法使い
時刻表の貼られた棒に抱きつくダリルへ、ハーマイオニーは呆れを含んだ視線を向ける。
「だから二階は止めようって言ったじゃない」
はーっとため息交じりに言ってもダリルは顔を押さえたままだった。肩を震わせて、ペタペタと片手で顔の形を確かめている。「顔、潰れていない?」この十分間で千は繰り返されただろう問いをまた紡がれて、ハーマイオニーは眉尻を上げた。
ロンドンの中心街を出てから二人は三十分ほどバスに揺られていたが、目的地に着いたということでハーマイオニーが降車ボタンを押して席を立った。ダリルはそんなハーマイオニーを見て首を傾げている。ダリルの乗った事のある乗り物と言えば馬車かホグワーツ特急ぐらいで、そのどちらも走行中に降車の支度をしたりはしない。降りる場所が近づいているのにダリルは「立つと危ないわよ」なんて言って、ハーマイオニーを咎める始末だ。ハーマイオニーは「ダリルは異邦人なんだ」と念仏のように唱えることで己の苛立ちを静めると、ダリルを引きずって階段まで連れて行った。勿論ダリルは「無理よ」と宣言し、「止まってから下りましょう」とのほほんとのたまった。確かにバスの窓には「走行中は席を立たないで下さい」というステッカーが貼られているものの、二階席から扉まで移動している間にドアが閉まってしまうだろう。同じところで降りる客が他にいるならまだしも――ハーマイオニーが押すまで降車ボタンは押されなかった――自分達二人だけとなれば、早めに降りる準備をしておくに限るというものだ。それに人の多いところから早く去りたい。
ダリルの意見を無視してハーマイオニーは「二階席が良いって言ったのは誰?」と険しい顔をした。そうしてハーマイオニーがトントンと軽やかに階段を下ってしまえば、ダリルも手すりを頼りにそろそろと下りてきた。さて、不幸はまさにその時やってきた。
不運なことに二人が乗ったバスの運転手は淑女を乗せて走る訓練を受けてこなかったらしい。つまり――ハーマイオニーは薄々気づいていたが、運転が粗っぽかった。停留所を目前にした運転手は急ブレーキを掛け、その拍子にダリルが階段から落ちた。
不幸中の幸いと言うべきか、下りるのに五分も掛けたのだから当然と言うべきか、ダリルが体制を崩したのは階段の二段目に差しかかった時だったので大惨事ということにはならなかった。足も捻らなかった。床に投げ出されることもなかった。そもそも車内はそう広くないので、階段から落ちたとしても床にはダリルが倒れ込むスペースすらないのである。昨年の夏、同じ様にグリンゴッツの階段から落ちた時はフレッドが支えてくれた。ホグワーツで階段から落ちた時はジョージが浮遊魔法を掛けてくれた。さもなくばリーが受け止めてくれた。フレッドとジョージとリーの腕がない中で、ダリルを受け止めてくれたのは黄色の手すりだった。不運は重なる。運転手と同じく、この手すりも淑女の持て成し方を理解していないらしい――ダリルは手すりの上に真っ直ぐ生えている棒とキスをすることになった。鼻が降車ボタンを押す。鳴り響く降車ブザー。運転手が運転席から顔を出して吹き出し、乗客全員がどっと笑った。
ハーマイオニーは棒と接吻したまま怒りと羞恥に震えるダリルを見て、つくづく感心してしまった。
何となれば、近くに座っていた老人から飴を貰い、「今度は二階に上んないほうがいいよ」と子供にアドバイスされ、「イギリスを楽しんで行ってね」と少女から笑いかけられていたからである。ダリルは顔を押さえてスンスン言いながら飴を貰い、子供と少女に礼を言い、乗客全員に手を振ってバスから降りた。やっぱりロンドンを観光しにきた外人だと思われたようだ。
流石にフレッドとジョージと仲が良いだけあるわねと、ハーマイオニーは思った。フレッド達のように強烈で露骨なものではないにせよ、ダリルも場の空気を変えることがままある。昨年の夏に書店で起きたルシウスとウィーズリー氏の喧嘩を止めたのもダリルだった。
そんなハーマイオニーの考えなど露知らず、というか全てに無関心なダリルはペタペタと己の顔の造形を確かめている。
「私の取り柄なんて顔しかないのに!」シェイクスピアの描く悲劇に勝るとも劣らずの悲劇だと言いたげな声でダリルが叫んだ。
ハーマイオニーはちょっと回り込んでダリルの顔を見てみたが、確かに鼻のあたりは少し赤くなっているものの、目を覆う手の下にはいつも通りの、嫌味なほど端正な顔があるのだろうと思った。ダリルの台詞通り、彼女の最大にして最高の取り柄である美貌だが、ハーマイオニーにはその台詞に思うところがあった。何も否定する気はさらさらない。そもそも、その台詞を一番に口にしたのはハーマイオニー自身だった。否定するまでもなく、ハーマイオニーとてそう思っている。しかし、それが当人の口から出たとなれば別だ。
しくしくと嘆くダリルを見つめるハーマイオニーの脳裏にホグワーツでの日々が浮かんでくる。フレッドとジョージとリーがダリルをからかって遊んでいる図がパッと浮かんできた。学期末にはそれにロンも混じるようになった。ダリルがちょっとしたことで怒って、菓子の一つで忘れるから面白いのだろう。アンジェリーナに見つかった瞬間に彼らは叱られることになるので、ハーマイオニーも放っておいていた。何よりも子供みたいにクルクル表情を変えるダリルが傍から見ていて面白かったのもある。
四人がダリルをからかう時に多用するのが「顔以外の取り柄なし」という一文であった。
四人も本気で取り柄が顔だけなどと――いやハーマイオニーは八割本気でそう思っている。何しろダリルと来たら大人しくしていれば良いものを、キャアキャア厄介事を引きずりまわして楽しそうに笑っているのだ。ああとでも言わなければ自重を覚えないに決まっていた。折角美人に産まれたのに、あのままフレッド達の真似をしていれば嫁の貰い手がなくなってしまうじゃあないか。何より調子に乗ると鬱陶しい。あまり誉めたりせず素っ気なく振る舞っている今でさえベタベタしてくるのに、露骨に誉めれば「ハーマイオニーは私のことが好きなのね」とか何とか調子に乗りそうだ。ハーマイオニーはジニーのように、ダリルとベタベタする気がない。
しかし本気で「私の取り柄は顔だけ」とダリルが思っているのなら、その思い込みを解いて慰めなくてはならなかった。
何よりも待ち合わせ時刻までもう三十分ほどしかない。
「私の取り柄は顔しかないのに……成績も落ちてるし、運動神経も切れてるのに……」
鬱々としたオーラを撒き散らすダリルへハーマイオニーは柔和な顔で話しかけた。
「そんなことはないでしょう?」優しい声を紡ぐ。「闇の魔術に対する防衛術とか、魔法史とか、とっても成績が良いじゃない!」
ダリルが鼻を押さえながらハーマイオニーを振り向いた。「全部、貴女の次かそれ以下にね」酷く冷めた声音であった。
そう言われれば何と言って良いか分からない。ハーマイオニーの困惑を見て我に返ったのか、ダリルが悲鳴以外の台詞を口にする気になったらしかった。眉を八の字に寄せて、手を下ろす。じいっとハーマイオニーのほうを見た。
「ねえ、鼻潰れてない? どこか変になっていないかしら?」
憂いを帯びた容貌は予想通り美しい。友として付き合う内にダリルの美しさを意識する機会が減ったのもあり、ハーマイオニーはその美貌をまじまじと穴があきそうなほどに凝視してしまった。ハーマイオニーの視線の強さに気づいたダリルの顔が曇っていく。
「大丈夫、いつも通りよ」慌ててフォローしたが、それは全くの逆効果だった。
ダリルがわあっと悲劇的な声をあげる。「鼻がひしゃげるか如何かしちゃったんだわ! どうやって繋ぎとめればいいの!」
言っている意味はちっとも分からないが、時計の長針は非情にも淡々と時を刻んでいる。腕時計に視線を走らせたハーマイオニーが苛立ち混じりに「貴女、鏡か何か持ってないの?」と口にした。途端にダリルは顔をあげて「ああ」とケロっと呟く。
「そう言えば鏡持ってきていたわ」
そんなら最初からそれを出したら良かったのではないか。ハーマイオニーの考えなど慮ろうともせず、ダリルがほっとした顔でハンドバッグのなかに手をぐいっと突っ込んだ。肘のあたりまで入れて、腕を動かす。ハーマイオニーは「どうか誰も通りかかりませんように」と祈りながら、ダリルの行動を見守るしか出来なかった。幸いにしてすぐ目的の物は見つかったらしい。ダリルはハンドバッグのなかから己の顔ほどもある大きな手鏡を取り出した。細かな彫刻と華奢な銀細工に彩られた豪奢な手鏡で、取っ手には緑色の鉱石で作られた蛇が巻き付いている。見るからに“スリザリン”といったデザインのものだ。
綺麗と言えば綺麗かもしれないけれど、趣味が悪いとハーマイオニーは思った。ダリルは何とも感じないのだろうかとそこまで考えて、恐らく感覚がマヒしてるのだろうと自分で答えを出す。確かに普通の少女であれば蛇を不気味だと忌み嫌うだろうが、ダリルは特別好きでも嫌いでもなかった。それに本物の蛇となればまた話は別だが、蛇を模したデザインはどちらかと言えば好いている。
ダリルは鏡を覗きこんで首を傾げた。
「変なところないかしら……」
疑問に思ったりなどせずとも、鏡を見ればすぐに分かることじゃないかとハーマイオニーがそう呆れた瞬間、二人の内どちらのものでもない甲高い声があたり一面に響いた。「お嬢様は今日もお綺麗ですわ! まるで咲き初めの薔薇のよう!」
ハーマイオニーが目を見開いて、ダリルの鏡を見つめる。鏡が喋った。勿論知識としてはそういうものがあるのだと知っていたし、二年も魔法界で暮らしていれば何が起こっても驚いたりはしないのだが、マグルの街中で不意を突かれる形となったハーマイオニーはダリルのほうを見たまま固まってしまった。ダリルがにっこり微笑んで、ハーマイオニーのほうを向く。「変なところはないみたい」
ダリルがほっと一息ついている間も鏡はあらゆる美辞麗句を紡ぎ続けていた。
茶の瞳が忙しなくあたりを見渡す。閑散とした住宅街、丁度午前中ということもあって人の往来は少なかった。しかしいつ誰がどこで見ているかは分からない。ハーマイオニーはダリルの手のなかでペラペラ喋る鏡を指示した。
「早く――その鏡を――仕舞って」
ダリルはきょとんとしていたが、ハーマイオニーが険しい顔をしているので、理由も問わず素直に仕舞いこんだ。
大きな手鏡が、入るはずのないサイズのハンドバッグに呑まれていく。
「マグルの世界では鏡はみんな黙ってるものなのね」パチンとハンドバッグの蓋を閉めたダリルがしみじみと呟いた。
基本的に魔法界の鏡には三種類ある。作られたばかりで喋れない鏡と、長く使っていて喋るようになった鏡と、あまりに長く使われすぎて喋れなくなった鏡の三つだ。マルフォイ邸やホグワーツ城の鏡の殆どは後者に属する。
「貴女、家ではそんな鏡ばっかりなの?」唐突な問いにダリルが首を傾げた。「そんなお喋りな鏡に囲まれて暮らしてたら、ナルシストが酷くなるわよ」ハーマイオニーがピシャリと言い捨てた。ダリルが頬を膨らませる。「ナルシストじゃないわよ!」
ハーマイオニーは「やれやれ」と言いたげに肩を竦めて頭を振ると、ダリルを置いて歩き出した。
「皆が私のこと、顔しか取り柄がないって言うんだもの! そしたら現状維持に必死になるのは当然じゃない!」
ダリルは先を行くハーマイオニーのあとを追いながら、その背中に語りかけた。
「聞いてるの? 器量が悪くて性格も悪くて勉強もどの教科でも一番を取れないってことになったら、悲劇じゃない!」シェイクスピアの描く悲劇に勝るとも劣らずの悲劇だわ! とぼやくダリルは、キィーリレルの口癖がすっかり移っていることにも気づかない。
「貴女って何でそう極論なの? 健康で得意科目が二つもあれば良いじゃないの」ハーマイオニーが首だけで振り向いた。
「そりゃ、ハーマイオニーは健康で可愛くて勉強も一番だもの」ダリルがちょっと早足をして、ハーマイオニーと肩を並べる。ハーマイオニーを横目でチラっと見て、ふうと深いため息をついた。「……良いかもしれないわ」視線が下がる。
また成長しているなんて、そんな馬鹿な。ダリルはハーマイオニー自身ですら気付かないサイズの変化を敏感に感じ取って、口を噤んだ。ハーマイオニーはちょっと頬を赤くしていたが、それは何もダリルの視線の行方に気付いたからではない。何気なくさらりと「可愛い」と真剣な声音で言われたことに対して、ハーマイオニーは顔を赤らめていた。
ダリルはすっかり拗ねてしまって、小声で「得意科目が二つしかないのに人とベタベタ出来ないなんて」と訳の分からない愚痴をぼやいている。得意科目が二つしかないとハーマイオニーは言ったが、だからと言ってそれ以外の成績が酷いわけではない。ロンあたりが聞いたらいやーな顔をするだろう。幾ら薬草学と魔法薬学の成績が下がっているとはいえ、ダリルはまだ上位を保っているはずだ。
ロンとハリーが「少なくとも君ら僕達よりマシな成績なんだから、そういう話するの止めてくれない」と言えば、ダリルは「信じられない」と言いたげな顔で、「貴方達こそ良いじゃない! ハリーは箒に乗るのが上手いし、ロンは友達が多いもの!! そんなこと言うなら私とそっくり交換して頂戴」と迫るのだった。ハーマイオニーは隣でブツブツと呪詛を紡ぐダリルを見やって、ため息をつく。
「如何育ったらそこまで卑屈になれるのか聞いてみたいものだわ」
「さっきはナルシストって言ったじゃない」ぱっと我に返ったダリルが膨れつらでハーマイオニーの上げ足を取る。
「分かったわ。極論、極端って言い直してあげる」
ハーマイオニーがツンと口にしてから、もうひとつため息をついた。
「貴女と初めて会った時、世の中にこんな完璧な女の子がいるのかって思ったのに……」
ダリルもハーマイオニー達と付き合い始めた時「何か想像と違う」と思ったものだが、無論ハーマイオニーとてダリルに対してそう思っていた。一年時は全く付き合いがなかったものの、それでも“ハロウィンの時に慰めてくれた人”として常に意識していた。何よりもその美しさに惹かれずには居られなかったのだ。氷で出来た精巧な女神像のような佇まい。触れようとする指すら凍らせてしまいそうに人を拒絶して、孤高を保つ姿に誰もが見とれただろう。黒蛇を連れた美しいダリル、グリフィンドール寮の赤が似合わない冷酷な少女。そんな彼女が己に対してだけ微かな優しさを見せてくれたのだろうかと嬉しく思ったものだ。
それが蓋を開ければ、誰それ構わず善意と優しさを振りまく博愛主義者だった。子犬よりも容易く懐きそうと言わしめる単純さ、警戒心の薄さ、一年時の凛とした立ち居振る舞いはなんだったのかと問いただしたくなるほどに間が抜けている。
詐欺だ。ハーマイオニーはしみじみ思った。
「典型的なお嬢様だなあって思ったのに」
「友達がいなかっただけよ」
ぶすっとした声に横を向けば、ダリルが世にも不愉快そうな顔をしていた。貶した覚えがないだけに、何故そんな顔をするのか分からない。ダリルがハーマイオニーの視線に気づいて、顔を上げる。その顔はもういつも通りだった。
取り繕うように苦笑して、ダリルが続きを口にする。
「不貞腐れてぶすっとしてたから――そんな、嫌そうな子に見えたんだわ」
一年時の自分が嫌いなのかとハーマイオニーはちょっと不思議に思って、そうしてからすぐに納得した。ハーマイオニーが今、わざとゆっくり歩いている理由と同じだ。
「私、そりゃちょっとは卑屈なのかもしれないけど、どんなに自分に自信を持ってたって完璧なんかじゃないって言うと思うわ」
キッパリした口調でダリルが断じて、ハーマイオニーへ悪戯っぽく笑いかけた。
「我儘で身勝手で無責任、厄介事と結婚してるトラブルメーカーって言ってくれたほうがずっと良い」クスクスと華奢な声が漏れる。「今思えば、さっきのバスでのことは大したネタだと思わない? フレッドとジョージが呼吸困難で御臨終召されるかもしれないわ」
フレッドとジョージが床に崩れ落ちてゲラゲラ笑っているのを想像して、ハーマイオニーは吹き出した。
ハーマイオニーが笑ったのに、ダリルが誇らしそうな顔をする。
嬉しそうににっこりしているダリルは勿論可愛い。それでも沈んでいる時や口ごもっている時のような美しさはなかった。ケラケラ笑っていたり、フレッドやジョージとからかいあっている時のダリルは不思議にそう美しく見えないのだ。その美貌はぼやけていて、そういえばと目を凝らさなければ彼女の美しさを思い出せない。ダリルが「全然モテない」とぼやくのに「珍妙な行動をとるから」と返し続けているハーマイオニーだが、ひょっとすると他の人々の目にも笑っているダリルがそう美しくなく映るのかもしれないと思った。
ハーマイオニーの視線に、ダリルが瞳を細める。
「私ね、仲良くなる前からハーマイオニーのこと好きだったし、憧れてたわ。とっても賢いんですもの……それに凄く努力家で、ハーマイオニーが教授達の質問にハキハキ答えてると凄いなあって思うの」優しい視線がハーマイオニーを包み込んだ。
「仲良くなったら、ロンの言うように口やかましさんだったし、冷静なようで、興奮すると周囲が見えなくなったりするのよね」
何を思い返しているのか、クスクスと楽しそうに笑う。ハーマイオニーは眉を寄せた。思えばダリルに面と向かって欠点を指摘されるのは初めてである。大体ダリルはハーマイオニーを称えるばかりで、ロンのようなからかいを口にすることは少ない。
今日、厳しい態度をとり過ぎたかなと思った刹那にダリルが口を開いた。
「でも、仲良くなってからのほうがずっとハーマイオニーのこと好きだわ」
蕩けるような笑みでダリルが微笑みかけた。軽やかに、歌うように可憐な響きが親愛を告げる。
「口やかましさんが好きよ」
気まぐれで、我儘で、身勝手で、無責任だし、秘密主義だけど、ダリルは開けっぴろげな好意をぶつけることを躊躇わない。
秘密主義だと分かっているのだから、嘘か冗談と受け取って然るべきだろうに、いつだってダリルの好意は尤もらしく響いた。天性の詐欺師なのかもしれないと幾度か思った事もあるが、ダリルの顔を見る度に疑うことが出来なくなる。
ハーマイオニーは頬を染めてそっぽを向いた。気まぐれで、我儘で、身勝手だから、自分の感情には正直なのだ。だから信じられる。
ダリルが自分のことが好きだと言って、とても幸福そうに笑うから、ハーマイオニーはダリルの笑顔が好きだ。どんなに美しくても悲しそうに俯いているより、凛と孤高に振る舞うより、その美貌を崩して笑い、フレッドやジョージとじゃれあっているほうが良い。
勿論当人に言うことはない。言ったら調子に乗りそうだし、ハーマイオニーは博愛主義者じゃないから。
「貴女」ハーマイオニーはもごもごと呟いた。「男の子に、そういうこと言わないほうが良いわよ」
「ん? ええ、じゃ、そうするわ」ハーマイオニーの台詞の意図するところを全く理解してなさそうな顔でダリルが頷いた。
「ハーマイオニーだけよ」
学期末、ジニーにも同じような事を言っていなかったか。ハーマイオニーはそんなことを考えた。
ダリルの好意のばら撒きっぷりを測っていたハーマイオニーへ、ふとダリルが首を傾げて問いかける。「そういえば、私達どこへ向かっているの?」ハーマイオニーがダリルを振り向いた。その口がパクと開いて、閉まる。
「学校よ」ハーマイオニーは素っ気ない口ぶりで呟いた。
その表情には僅か躊躇いが浮かんだが、ダリルはハーマイオニーほど聡くはない。「学校?」オウム返しに問い返すだけで、ハーマイオニーが学校に対して何らかの特別な感情を持っているとは思い至らなかった。
「ホグワーツの前に通ってた学校」
「ハーマイオニーが?」
「そうよ」
素っ気ない会話が続けば、ダリルだって変だなと気付く。気付いても如何していいか分からないのだけれど、そのもどかしさにダリルが手で口元を押さえて考え込んだ。「何故?」上の空染みた問いかけに、ハーマイオニーが苦笑する。
「質問攻めね」
己の知るハーマイオニーに戻ったことで、ダリルは瞳に安堵の色を浮かべた。
「用事があるからと呼びだされたのよ」なるたけ素っ気なくならないよう苦心したのだろうが、それでも声は強張っていて、何かを隠匿しているような響きだった。ハーマイオニーがピタリと立ち止まる。はあと、今日一番深いため息をついた。
「……私、今年の初めに貴方に逃げてるって言ったわね」
迷いを断ち切るように重い音、ハーマイオニーの視線は虚空を彷徨っている。
「そんな事もあったわね」ダリルは視線の先にあるものが何か分かればハーマイオニーの気持ちが理解の出来るのだと言うようにその視線を探ろうとしていた。セストラルでもいるなら別だが、どんなに視線を忙しくさせても周囲には家と道と青空しかない。
軽く、ハーマイオニーに気付かれないよう極浅いため息をついて、ダリルが沈黙を紛らわせた。
「ハーマイオニーはいつもきちんと叱ってくれるから、本当に有難いわ」ハーマイオニーに叱られた時のことを振り返ると、否が応にもその後の己の無力さが思い出される。「尤も私は何も出来なかったんだけど……」気まずさを誤魔化すように声を絞り出した。
「何かあったのよね?」
ハーマイオニーの台詞にダリルの肩がビクリと揺らぐ。しかしハーマイオニーはダリルを問い詰めたりはしなかった。
「私の台詞を受けて、何とかしようと立ち向かったのでしょう。それで、何かあったんだわ」
己の黙秘を受け容れてくれるハーマイオニーへダリルは申し訳ない気持ちになった。自分は結局誰の事も助けられなかった。折角ハーマイオニーからアドバイスを受けたのに、何も出来なかった。否定したくて堪らなかったが、ハーマイオニーが台詞を畳みかける。
「私、学校に行きたくないの」
ホグワーツに? と思いかけたが今向かっている先のことだろう。ハーマイオニーの台詞へ何と言うべきか考えあぐねて、結局ダリルは黙ったままになってしまった。ハーマイオニーは前を向いていたが、その瞳に映っているのは遥か遠くの景色だった。
「良い思い出なんて全然なかった」ハーマイオニーが手をぎゅっと強く握る。爪が手のひらに食い込んだ。
「友達なんて一人も出来なかった。味方なんて、パパとママ以外、誰もいなかった」
ダリルはハーマイオニーの台詞に何も言えなくなった。
普通十一歳に満たない魔法族の子供はマグルと違い学校へ通ったりはしない。
それは幼い子供が些細な感情の高まりからその魔力を暴走させる故だ。勿論人命に関わるようなことは起きないし、大人の魔法使いがその場に一人いれば容易に騒ぎを鎮めることが出来る。それで何故初等教育機関へ通う子供が少ないのかと言えば、大多数のなかで感情を暴走させたという――引いては己の意図せぬところで問題行動を起こしたと言う罪悪感が人格形成に悪影響を与えるからだ。
魔力を持つ子供は持たない子供と比べて格段に精神状態が不安定なところがある。その、ただでさえ不安定な時期の子供を大量に集めるデメリットを拭い去るより、家庭内に留めて置いたほうが無難という観点から、多くの魔法族の子供は初等教育を受けぬまま育つ。
しかし最近では魔法族の子供を初等教育機関に通わせても、マグル生まれの魔法使いがマグルの学校で味わう苦痛の半分も味わうことは出来ないだろうと言われている。そう言うのはマグル生まれの魔法使いについて調べる学者であり、勿論彼らは純血主義ではない。寧ろマグルに親しみを持つからこそ、何故マグルの内に魔法使いが生まれるのか調べようとしているのである。そういった学者の内に、マグルの精神医学に感銘を受けた者がいた。その学者は純血主義が擁立される理由を探ると共に、マグル生まれが低く見られる理由を調べている。その理由を、人格形成の過程に求めた。つまり――生まれてからずっと魔法界で育った魔法使いと、マグルの世界で異端扱いされ続けて苦労の末に己の属するものへ辿りついた魔法使い――どちらが歪みやすいかは火を見るより明らかである。
彼はマグル生まれの魔法使いをマグル育ちの魔法使いと呼ぶ。
ハーマイオニーはマグル育ちの魔法使いだった。
マグルのなかで異端と謗られ、可笑しいと詰られ、己が何者かも知らずまま十一歳まで過ごしてきた。
その年月はダリルの味わった孤独よりも永く、マグルのなかで己を知らずに暮らすことの苦痛は――それも感情の暴走しやすい幼少期に――魔法族に生まれたスクイブなどとは比べ物にならない。
じっと己を見つめるダリルへ、ハーマイオニーが微笑みかけた。その笑みは酷く悲しいもののように映った。
「ホグワーツの入学許可証が届いた時、凄く嬉しかった。これで――これで、もう私は“仲間はずれ”じゃないって思ったわ」
勉強だけが支え、否勉強だけでも出来なければ自分は本当にこの世界で通用しないのだと思い込んでいた。自分は可笑しいから、普通じゃないから、勉強で一番を取らないと受け容れて貰えない。勉強さえ出来れば何を言われても、「一度でもあなた、私より良い成績取った事あるの?」と見下し、あしらうことが出来る。嫌な子供だった。それでも、嫌な子供にならなくてはやっていけなかった。
そうやって言い訳して逃げるように出てきた学校へ、今向かっている。「もう二度とこんなところ来ないって思った」
ハーマイオニーは笑おうとしていたが、それが空元気であるのはロンにだって分かっただろう。
「先生も同級生も大嫌い。私はホグワーツに行くんだ。二度とこんな学校に来るものかって、そう思っていたの」
そう言って、ダリルへぎこちなく笑いかける。「そう思ってたのに、ほんと、馬鹿げた理由で行くことになっちゃったわ」
「コンクールに出した絵が戻ってきたのですって、それで、取りに来るよう言われたの」
「……行かなくても良いんじゃあないかしら」ダリルが乾いた声を紡ぐ。ブルーグレイの瞳が真っ直ぐハーマイオニーを射抜いていた。
「止めましょう。そんな嫌な場所、行くことないわ。ハーマイオニーはホグワーツの生徒で、その学校とはもう無関係なのよ。もう卒業してから二年も経ってるじゃない。今更取りに行くことないわ。如何しても置く場所がないってなら、梟便で届けて貰えば良いのよ」
一気に捲し立ててから、ダリルが泣きそうな顔をした。ハーマイオニー当人が泣いてないのに、何故ダリルがそんな顔をするのか。
「やなことを思い出すのなら、行くの止めましょう」
何故ハリーやロンではなく、ダリルを頼ったのだろうと思った事がある。
ダリルとの付き合いよりも二人との付き合いのほうが長いし、ダリルとの関係を友達と躊躇いがちに言うのに比べて、二人との関係は親友とハッキリ言う事が出来る。なのにハーマイオニーはダリルを頼った。
ずっと、その理由をダリルが己の嫌っていたあの教師に似ているからなのだと思っていた。それでも、確かに出会った当初はダリルの言動から彼女を連想することがあったが、今はもうない。二人は全く違う。
じゃあ自分は何故親友の二人ではなく、ダリルを頼ったのだ。その答えが目の前にあった。悲しそうにするダリルを見ていると、胸の苦しさが失せる。冷静になれた。
多分、ダリルの前では「学年一の才女、賢くて、大人びたハーマイオニー」でいられるのだ。ダリルといると、一人でいるときの不安が失せた。あの学校へ通っていた時の嫌な自分は過去の姿で、今の自分はそうじゃないと思えるから、だからダリルを頼ったのだろう。
ブルーグレイの瞳から涙が零れて、ダリルが慌てて目じりを拭う。
「ご、ごめんなさい、わたし」ポケットからハンカチを取り出そうとした手が、目だし帽を取り出した。ハーマイオニーが吹き出す。
「貴女、なんで、そんなものつけてきたの」
漏れ鍋に出現した時のダリルの出で立ちを思い出して、ケラケラと笑う。ダリルの憮然とした顔に、ハーマイオニーはお腹を押さえてしゃがみこんだ。「もう、やだ! ダリルって、本当に――貴女って馬鹿ね!」
ダリルもしゃがみこんで、拗ねた声音で「どうせ馬鹿よ」と呟いた。それが一層ハーマイオニーを笑わせる。
やがて仏頂面をしていたダリルも頬を綻ばせて、クスクス笑った。
一頻り笑うってから、ハーマイオニーが目じりを拭って「あのね」と言う。
「私も、二年ずっとそう思ってたの」
唐突に先の話題に戻り、“そう”が何に掛かっているか分からないダリルがきょとんとする。ハーマイオニーが苦笑した。
「二年前から取りに来るよう言われていたのよ。だけど私は忙しいからって言い訳して、なのにママが取ってきてあげるって言ってくれたのも断わって、郵送――ふくろう便で届けて貰おうかって提案も断わって、いつか行くからって……」
いつか。音もなく、ハーマイオニーの唇がそう紡いだ。「私は本当にあの場所が嫌いだったのかしら」
嫌いだから行きたくないのか、それとも怖いから行きたくないのか。でも「怖いから嫌い」ではない気がしていた。
いつか行くと、ハーマイオニーはいつもそう己に言い聞かせていた。逃れる術など幾つもあったのに、最後の一線だけは越せなくて、今ダリルと共に向かっている。多分、ダリルに断わられたらその“いつか”は来なかったに違いない。
ハーマイオニーは不思議そうに自分を見つめるダリルを見返した。
「ダリルに逃げてるって言ったでしょう。偉そうに言った癖に、私も逃げてるんじゃないかって思って、でも一人で行くのは怖くて、またあの頃の――私に戻ってしまうんじゃないかって思って、」
「ハーマイオニーと初めて会った時は、学校を卒業してすぐだったのね?」何を変なことを聞くのだろうとハーマイオニーは思った。
コクリとハーマイオニーが頷いたのを見て、ダリルがにっこり笑う。
「戻っても良いじゃない」
今度きょとんとするのはハーマイオニーのほうだった。
「私、初めて会った時のハーマイオニー好きよ。ハキハキしてて、とっても利発そうで、私もこうなれたらって思ってたのよ」
『貴女は素晴らしい魔女よ。確かに少しだけ意地っ張りなところがあると思うけど、貴女は誰に恥じることもないじゃない』
『貴女みたいになりたいってずっと思ってた――私の方こそ、ずっと、貴女と友達になれたらって、思っていたのよ……』
『ハーマイオニー、こう言う時役に立ちそうな魔法を知っていない? 貴女が知らないんじゃ、この場にいる誰も知らないでしょうね』
ダリルとハーマイオニーは出会って二年しか経たない。しかも、これ以上はないという最悪な出会い方をした。仲良くなってからは一年ぐらいしか経たないけれど、それだって互いに数か月はなかったようなものだ。
酷く短い付き合いで、そうしたら相手に嫌なところがあると思うのは当然で、自分が思っているよりずっと嫌な奴なのかもと思ってしまっても仕方ないし、相手のことを知ることを恐れたり、知らない一面に拒絶を浮かべても、誰からも責められることはないだろう。
なのにダリルは馬鹿みたいに「ハーマイオニーって凄い」と手放しで誉めるから、子犬みたいにパタパタ尻尾を振っているから、
「ハーマイオニーが嫌なこと言われたらハンドバッグで殴ってやるわ」
ダリルがハンドバッグを掲げ持った。「それで、すっごく嫌なことがあったら二人でどこか遠くへ逃げちゃいましょう」
「孤児ってことにして、どこか小さな村で何でも屋さんでもしましょうよ! まだ二年分の知識しかないって言っても、食いぶちぐらい稼げるはずだわ。それって凄く楽しそうじゃない?」弾んだ声が夢見がちな計画を立てる。
「馬鹿ね――私達未成年魔法使いの所在は魔法省に把握されてるのよ。魔法なんか使えばすぐに連れ戻されちゃうに決まってるわ」
笑いながら言えば、ダリルが「つまらないわね」とため息をつきながら立ちあがった。ダリルが手を差し出す。
「早く用事を済ませて、お父様達が帰ってくるまでにマグルの街を案内して貰わなきゃ!」
ハーマイオニーはその手を取って、立ちあがった。
「貴女と一緒に街を歩くぐらいだったらトロールとデートしたほうがずっとマシ」
「……酷いわ」
「あ、もうこんな時間! 貴女が鼻が鼻がとか言ってるから、あんなに余裕を持って出たのに、待ち合わせに遅れそう!」
ダリルの不服を無視して腕時計に視線を滑らせたハーマイオニーが叫んで、駆けだした。ダリルがそれを追って、駆ける。
「待って、私、ヒールなのよ!!」
「ヒールなんか履いてるからこけるのよ。それに、そんなこと無駄な努力だわ」首だけで振り向いて、からかった。
「別に背を大きくみせようなんて!」一拍の間をおいてから「……そりゃ、ちょっとは思ったわよ」
ハーマイオニーが吹き出した。
一人でしか辿ったことのない通学路、今は孤独ではなかった。
七年語り – LULL BEFORE THE STORM