七年語り – LULL BEFORE THE STORM
30 荒涼の向こう岸
川のあたりに住む子供なら、誰もが一度は「橋を渡っちゃいけないよ」と言われたことがあるだろう。
大人達は洗礼者ヨハネ以降何人の子供たちが不幸な水難事故で亡くなったかちゃんと知っている。人々の噂や、テレビという“千里眼”の魔法を持つ大人は、家並みの彼方でそびえる巨大な煙突が製糸工場の名残であることも、その麓でとぐろを巻くように入り組んだ住宅街に碌な品性が残っていないことも分かっているのだ。食べかけのフィッシュ・アンド・チップスや空き缶などがカラフルに散らかった彼岸を指さして、「スピナーズ・エンドに行っちゃいけないよ」と忠告する大人の大半は、イギリス中の殺人鬼と性犯罪者がそこに暮らしていると思っている。片方の耳しか傾けない子供たちにしろ、川向うの一画から不健全な何かが立ち上っていることぐらいは分かるのだろう。スピナーズ・エンドをそぞろ歩くのは酔っ払いか、もしくは凡庸さに倦んだ不良のどちらかだった。
彼らの“落し物”の放つ悪臭は空気を濁らす類のものではなかったが、しかし水底に貯まる滓のように重たく地面に積み重なって、人を不快な気持ちにさせる。迷路の区切り板の役割を果たす家々の壁では、無駄に発色の良い落書きが荒涼とした虚しさを煽るのに必死になっていた。こうした、一般に“底辺”だとか、“準スラム”と侮蔑されるような場所でスネイプは育ち、そして今も暮らしている。
スネイプの暮らす家はマグル界に有り触れた二階建ての家だ。
正式な入口は、表通りに面した狭い間口から入って、ぐるりと裏に回った場所に位置する。スネイプのずっと幼い頃に幾度か来客のあった時使った覚えがあるものの、今は段ボールの山に埋もれていた。もしスネイプに正式な来客があったとすれば――五年前のルシウス同様、段ボールの雪崩を経験することになるだろう。略式に甘んじることを良しとしない先輩を一次的に宥めるために、スネイプは数時間の謝罪を強いられた。それからも百回はその件で皮肉られているはずだ。勝手に鍵をこじ開けたのはルシウスなのに。
ルシウス曰く「まるで牛舎みたくユーリティの高い」スネイプの家は、勝手口を入ってすぐが小さな居間になっている。真ん中に打ち捨てられたソファに座る人間にとって殆ど威圧的でさえある本棚の隙間に、申し訳程度の小さな扉があった。扉の向こうには、建て売り住宅らしい詰まらぬ間取りが広がっていたように思う。一年の半分以上を留守にするからか、もしくは父親の死臭が漏れるのを恐れているからか、ここ数年ばかりスネイプが扉の向こうに広がる“マグルらしい”居住スペースに足を踏み入れることはない。
スネイプにとっての自宅は魔術書に覆われた狭い居間と、本棚の裏にある隠し扉から続く、魔法で拡張された空間だけだった。こうした“マグルらしくない”ギミックは、父親が去ってから付け足したもののはずだけれど、スネイプがそれを思うと同時に地下牢にこもる母親を煙たがる父親の醜悪な横顔も蘇ってくる。地下室へと続く隠し扉は入口脇にあり、それこそがスネイプが頻用する通路だった。三十四歳はまだ痴呆を迎えるに若すぎるが、スネイプにとって幼少時の思い出は百年も昔のようにおぼろだった。尤も好んで思い出したい部類のものでもなければ、歴史的価値のある何かがあったわけでもない。幼い頃の思い出がなかろうと、日々を暮らしていく上で不便はなかった。スネイプの無関心は己の幼少時に限ったことではない。凡そこの世に彼の関心事はないのだ。
スネイプは本も読むし、食事もする。魔法薬学に纏わる雑誌を定期購読して、そこに掲載された論説を打ち砕くために奔走したりもする。スネイプがこの世界で生きる理由は語るまでもないが、彼が人間らしい暮らしを送る理由は、そうしたほうが楽だからだ。
自分の背負っているものの大きさについて思案したり、砂地に零れた水を掬う方法を編みだそうと躍起になるより、何かに没頭して、一時的に忘却して生きていくほうが楽だから――彼が己の才能を魔法薬に傾けるのは、彼が“人間”だからだ。
しかし彼自身は必ずしも人間らしい……健康かつ健全な生活を送っているとは言えない。
スネイプが殆どの時間を過ごす地下牢には文字盤のついた時計がない。日時計もなければ、鳩時計もない。唯一砂時計は存在しているが、勿論照っているのか、はたまた暮れているのか、地上の様子を知るには心もとない。尤もホグワーツにいる時だって、自分の受け持ちの授業と夕食の時間しか確かめないスネイプである。開廷時間を気にしたことはあっても、スーパーマーケットの開店時間や役所の受付時間等を意識に留めたことはない。窓の外が明るかろうと暮れてようと、そんなことは些末なことだ。
地下牢から上がってきたスネイプは皮脂で固まった髪を撫でつけながら、重たいカーテンの隙間から漏れる光に眉を寄せる。
月刊魔法薬ジャーナルに掲載された論文の穴を突くために地下室にこもって三日……ということも珍しくはない。風呂も入らぬ。食事もとらぬ。ヒゲも剃らぬ。水分は、フラスコで煮た紅茶から取る。清廉な光が埃っぽい部屋に刺すのを見て、己の不健全な生活習慣を悔いるどころか「雨でも降れば良いのに」と快晴を疎む始末だった。独身男性と言えど、あまりに酷過ぎる。ダリルがスネイプの“巣篭り”の実態を知ったら、ウッと口を覆ってから「何でもして差し上げますから、シャワーぐらい毎日浴びてください!」と語気を荒げただろう。幸いにしてスネイプの家はウィルトシャーから遠く、独身貴族故に彼の怠惰さを外に漏らす者はいない。
スネイプだって大人だ。最低限のエチケットは兼ね揃えている。ホグワーツで暮らしている分には毎日シャワーを浴びる。例えその清潔感が、視界を遮る髪を固めるためのポマードで台無しにされていようとシャワーを浴びる。
八月六日の夜、スネイプは一年ぶりに自宅のベッドで休んだ。翌朝、人間らしい時間に起きた彼はシャワーを浴びた。実に二日ぶりの爽快感である。居間のグラつくテーブルの上にはとある魔法薬学者の呪詛が積まれていたが、スネイプは杖の一振りでそれらを焼き払った。同寮の友人・マルシベールからの便りも一緒に燃えたが、それはスネイプの知ったことではない。もし手紙の存在を認識していたとしても、やはり燃やしただろう。大抵の場合、自分が送った手紙への返事以外は読まないことに決めている。
風呂上りのポマードで折角の清潔感を台無しにしたスネイプは、見知らぬ他人を不愉快にしてやったという達成感、そして人間関係を疎かにすることで大事にしてきた神経を更にすり減らさねばならない憂鬱とが入り混じるなか、朝食も食べた。偉いと思う。こんなに人間らしい朝を迎えていて、ダリルに会わなければならないのはちょっとした悲劇だ。叶うなら、このままノクターン横丁の古本屋でも冷やかしに行きたい。しかしスネイプは大人だ。私的感情から約束を破るわけにはいかない。
スネイプは御年三十四歳の立派な大人なので、例え訪ねてくるのが可愛げのないガキでも持て成す努力をする。部屋の掃除こそしなかったものの、四半世紀ぶりに窓を開けたし、ソファのほこりも掃わせておいた。ダリルに付き添って来るだろうドラコのために、茶菓子の用意も言いつけておいた。加えて言うなら、ルシウスの予定を把握するために何人かの旧友と連絡を取ったり、酒を呑みに行ったりもした。己の苦労を顧みればこそ、スネイプはダリルの訪問を今か今かと待ち構えていた。
ダリルの体に刻むための逆呪は夏季休暇に入ってすぐ完成していたが、実行に移すに当たっては七月末から八月半ばまでのルシウスの繁忙期を待った。ダリルの胸に誰の呪いが刻まれているか、ルシウスに知られるわけにはいかなかった。元よりスネイプは玄関ホールに積まれた段ボールを無断で“消し去って”下さったルシウスを家に招くのを避けてきた。勿論ルシウスがスピナーズ・エンドを訪れたがるはずもない。わざわざダリルを招かねばならない理由については、輸送するのに難しい薬草を使う必要があると嘘八百並べてある。勿論娘を――それも生粋のトラブルメーカーを外に出すのには抵抗があるのだろう。「久方ぶりに会いたいし、自分の都合の良い日に変えてくれ」と返信が届いたが、「七日を逃すと八月末まで空かない」と返したところ、難なく折れた。どうやらスネイプの想像以上に娘を溺愛しているらしい。一日も早く娘とイチャつきたいのか……と思うと、まあ他人の家庭事情など如何でも良い。
ダリルの素行の悪さを知っているスネイプは「ドラコがいれば、幾ら彼女が突飛だとはいえ世界一周の旅には出ないでしょう」と付け足しておいた。ダリルを野に放つ切っ掛けを与えるからには当然見張りは必要だ。ルシウスがくっ付いてきても困るが、一人で放り出されても困る。流石のダリルとて馬車から振り落とされることはないだろうし、スネイプとの約束がどれだけ大事な事かも理解しているはずだ。そうと分かっていても、あれが一人で外をうろつくかと思うとスネイプは不安になる。ダリルに帰巣本能を期待するのは困難だ。あの馬鹿一人を馬車に乗せて放ったが最後、無事に帰還する可能性は鳩のそれより低い。
最早何故自分がダリルに肩入れしているのかさえ見失いかけていたが、まあ、これが最後だ。これを最後にするための肩入れだ。あの狸ジジイ――ダンブルドアの思惑通り、馬鹿の面倒を見つつの二重スパイ生活など真っ平御免だった。
ダリルの胸に刻まれた呪いが誰の手に寄るものかなど、スネイプには如何でも良い。とりあえずあの呪印を一時的に如何にかしたら、スネイプはこれまで通りハリーに集中する。ダリルは好きにしたらいい。好きに……要するに、シリウス・ブラック同様の過ちを犯すべきだ。それが正しいと、スネイプは思った。今日という一日さえ無事に終われば、二人の関係は元通りになる。
名づけ子など、友達さえ碌々いないスネイプが如何して赤の他人とそんな関係を持ちたがるだろう? 明日からまたスネイプは歪みない私怨からダリルを毛嫌いするし、ダリルもきっとスネイプを嫌って、精々が悪戯の標的に選んでやる程度の扱いに戻る。
大丈夫、何も不安要素はない。予定通り、順調に進む。
胸中で沸き立つ不安を何とか誤魔化しながら、スネイプは本棚を漁った。ドラコの退屈に配慮してのことだったが、妙に落ち着かない気持ちを静めるために手慰みでもあった。魔法薬の調合然り、魔法論の組み立て然り、スネイプは何かの作業に没頭しているのが好きだった。何かやるべきことがある限り、スネイプは色々な……思い出したくないことを忘れていることが出来た。
入口から見て左手に広がる本棚の隅には、若い頃読んだ本が並んでいる。カーペットに膝をついたスネイプは、豊かな表現力でダリルを侮辱しながら、背表紙のタイトルや本の傷み具合を確認していった。
スネイプは割と大雑把なほうだ。ただでさえ神経質なのに、日々の暮らしに神経を割いてたらストレス過多で死んでしまう。希少な本はそれなりに扱うが、大抵は「読めればそれで良い」という考えに基づいて杜撰な管理を行っている。久しぶりに手に取った本の殆どは紙魚に荒らされていた。スネイプは紙魚を駆除するための本を買う必要を感じた。
ふと、端から順繰りに確かめていた指が、たった一冊奇妙に優しい色彩のものを引き当てる。スネイプはするりと、褪せたパステルカラーの冊子を取り出した。何気ない懐かしさから、表紙を撫でる。木漏れ日を受けて羽ばたいていた蝶が数匹、スネイプの指に驚いて森の奥へ消えて行った。魔法界に独特の命を吹き込まれた絵の上部には、幼い字体で「もりのくらし」と記されている。
子供向けに簡素なタイトルを下の上で繰り返した途端、ぶわっと、あたかもフラッシュバックの如き素早さで、様々な映像がスネイプの脳裏に蘇った。常日頃“局地的痴呆症状”に悩まされているスネイプだったが、その本だけはページを捲る必要はなかった。本の中で活き活きと暮らす動物の名前と生態を教える母親の横顔、マグルらしくない自分を忌むように昏い父親の視線、子リスを突いて遊ぶリリーの無邪気さ、二人して気に入りだったページの鮮やかさ――スネイプはその本を元あった場所に戻した。
その場に座り込んだスネイプが、最早あの本を捲るに大きすぎる手で視界を覆う。大丈夫だと、ひっそり繰り返した。
ダリルのためのお節介は、スネイプの“やるべきこと”の一つだ。それが片付いたからといって、スネイプの仕事がなくなるわけではない。スネイプは正直言ってあの子供が嫌いだ。否、ダリルだけじゃない。この地球上の誰一人スネイプの関心事になりはしない。
スネイプは何もダリルに好かれたいとか、恩を着せたいわけではなかった。全て自分のためだ。あの子供はどこか己に似たところがある。立ち位置か、考え方か、もしくはスネイプの思い込みかまでは分からないが、確かに“似ている”のだ。
自分と似たところのあるダリルが、己と同じ道を辿るのはスネイプにとって面白からぬことだった。人生をやり直せるなら、スネイプは誰にも組みしないだろう。若い頃に夢見た“偉大さ”は所詮まやかしに過ぎなかった。馬鹿馬鹿しい。馬鹿げていると、スネイプは低く呻いた。スネイプは、足手まといにしかならない“お手伝い”など要らなかった。
ダリルは普通の子供らしく、彼女の慕う愚か者たちと暮らしていればいいのだ。自分がそう暮らすことを、遠く夢見たように。
書棚に寄りかかるようにして深い呼吸を繰り返すスネイプは「まだ来るな」「自分の気持ちが落ち着くまで、来るな」と念じたが、その甲斐あってダリル達は約束の時間になっても、それから一時間過ぎても、屋敷僕妖精の用意したマカロンを食べきっても、不貞腐れたように頬杖をついても、更にはうつらうつらと舟を漕ぎ始めても来なかった。窓の外は暮れはじめていた。
コンコンと窓をノックする音に重たい視線をあげると、銀製の足環をつけた梟が低木に留まっていた。チラリと煌めく緑の石が、その梟がマルフォイ家の使いであることを示している。スネイプは諦めと希望を半分半分、仕方なく梟を招き入れた。
梟の差し出した手紙には、ルシウスの流れるような文字で「ダリルをあまり永く引き留めてくれるな」と記してあった。
それは事実上のゲームオーバーだった。スネイプはため息と共に立ち上がる。知人の娘が行方不明――それもルシウスが外に出すのは不安だと言っていたのを自分が押し切っていながら、梟便だけで済ますわけにはいかなかった。
ダンブルドアが特別賢いわけではないのだと、スネイプは思う。千里眼や魔法の目、増して予知能力があるわけでもない。あの老人は冷酷で、人生に草臥れているだけに過ぎない。そして、だからこそ彼の見通しは常に正しかった。
恐らくはダリルがダンブルドアを信頼せずに口を噤んだ時から……こうなることは、最初から決まっていたのだ。
星の向こうに消えていく飛び姿をぼんやり見送りながら、スネイプは「馬鹿な奴だ」と一人ごちた。十三歳という幼さはまだ十分大人に守ってもらえる年齢だ。それなのに、彼女が何故“偉大なる魔法使い”であるダンブルドアを頼らなかったのか理解出来ない。
疲弊しきったため息に続いてポンと空間の歪む音がこもった。狭い居間に静寂が戻る頃にはもうスネイプの姿は消えていた。
七年語り – LULL BEFORE THE STORM