ヴォルデモートは己の前で俯せになっている骸を足で蹴った。
物体じみた鈍さでひっくり返り、石畳に金の髪が広がる。何の因果か、果てを見つめる瞳は赤かった。いや、何の因果かなぞ口にするはわざとらしいなと心中に零す。ヴォルデモートは東洋の魔法生物、“サトリ”ではないが、それに似た生き物だ。開心術を遣えば大方のことは分かる。鏡と煙草が如何いう関係にあるのかも、如何して膝を擦り剥いて泣けないのかも、ヴォルデモートには分かっていた。
何もかも、この娘の瞳が赤いからだ。
少女の死体を足蹴にしたまま考え込んでいると、背後の扉が開いた。
赤い閃光が空を切り裂いて己が肢体を目指すが、眼前で掻き消される。目の前の女と違って、ヴォルデモートはいつ如何なる時でも杖を手離さない。金の髪に、青い瞳、かつて己の右腕であった女がヴォルデモートを睨んでいた。憎しみは視野を狭くするが、それでもヴォルデモートの足元にあるものは見える。女は叫んだ。少女がマグルを失明させた時と同じ声音で、否それよりも高い声で叫ぶ。
なんてことを、その子は、その子は――! 鼓膜が痛くなったヴォルデモートは、シレンシオを口遊んだ。女は、叫ぶ代わりに閃光をまき散らす。しかし自分の放った閃光が華奢な骸を貫いたのに、肩を震わせて、その場に崩れ落ちた。
女は何か言いたげに口が開くが、その恨みのこもった表情から零れるのは涙だけだった。
俺様とお前の娘だ。そうだな、ナマエ?
ナマエが金の髪を振って、固く握った拳で石畳を叩く。シレンシオを無理に解いて、引きつった呪詛を吐いた。そうよ。そう。あなたの、ああああああ、ああ、ああああ。ヴォルデモートへ杖を向けるナマエ。這うようにして、自分の娘の下へ向かう。
小さな声で、娘の名を呼んだ。応える声はない。ワナワナと震えるナマエが、二度と動くことのない胸に顔を埋めようとした。死後硬直の始まった皮膚を、ナマエの指が滑っていく。冷たい骸の上に、ナマエは覆いかぶさった。なんでホグワーツなんかに、なんでスリザリンなんかに、なんで、なんで、なんで、どうして、どうして私はこの子を。この子は、何故、息をしてないの。
冷たい頬に、ナマエの頬が寄り添う。キラキラと輝く金の髪が、骸のものと混じった。同色だ。明るさも、暗さも、長さも同じ。母の金の髪に、父の黒い瞳と膨大な魔力を持った子供。純血の魔法使いでありながらマグルに紛れて育った子供。あわれな子供。
ナマエは顔を上げると、胸元を押さえて喘いだ。
この子は殆ど純血だった。ええ、貴方の殺したマグルただ一人を覗いて、純血だった。何故殺したの。如何してこの子が死ななければならなかったの。喚き、冷たい骸を抱き寄せる。馬鹿な女だとヴォルデモートは赤い瞳を細めた。捨てたのはお前だろう。俺様の血を引くからと、こいつを疎み捨てたお前が、俺様の血を引くからと、こいつを殺した俺様を如何罵る。カランと、杖が石畳の上を転がっていった。
貴方は化け物だわ。ナマエがヴォルデモートへ笑いかけた。そしてこの子を捨てた私は畜生。
緑の光に貫かれ、骸が増える。娘の上に母親。脇には下手人の父親。
全く、ロマンス小説でも滅多にお目に掛かれないような修羅場だとヴォルデモートはため息をついた。そうしてから母娘の亡骸に近づいて、ナマエを蹴飛ばす。肉の塊が、ゴロンとひっくり返った。石畳の上に金の海。かつて指で梳いた髪と、ただの一度も梳いたことのない髪。ヴォルデモートは、小さな亡骸を抱き上げた。己と同じ色の瞳には、彼岸の景色が映っている。彼岸があるなどと、そんなことを思ったことはないけれど、少なくとも死の呪いは少女を傷めなかったはずだ。我が君に会うことの出来た喜びが潰えぬまま、少女は死んだだろう。目の前にいるのが己の父だとも、自分を捨てた母が魔法使いであることも、因果関係の何一つ知ることもなく死んだ。
親のない男と女。同じ志を持っていたはずなのに、募る恋情の果てに女は腹の子を抱えて逃げた。
私はもう純血も穢れた血も如何でも良い。この子と貴方と普通の暮らしがしたい。普通の家庭が欲しい。ヴォルデモートは馬鹿な女と、彼女を追うこともなかった。尤もそれから一年もしないうちに追う追わないどころではなくなってしまうのだけれど、それでも男か女か己の血を引く子がいることは知っていた。己の、愚かな魔女とそれを捨てたマグルの血を引く子供を如何して生かしておける。
ヴォルデモートの青ざめて長い指が金の髪を梳いた。
お前は、名をなんと言うのか。問うても答える声はない。最初から、応えて欲しいなんて期待はなかった。そうでなければ、仮にも自分を慕う我が子は殺せない。ヴォルデモートは、言葉を続けた。化け物と畜生の子として産まれて、生きていけないほどに弱いなら死んだほうがずっと良い。もうお前の頬を叩く母も、お前を穢れた血と罵る者も、空虚なお前が奪わねばならない物も、その最果てにはないだろう。
お前は俺様の骸だ。だれもいない暗やみで、安らかに寝むれ。
・
・
・
娘を見る度にヴォルデモートと、己の犯してきた罪を思い出す。
殺してきた人々が、女の幸せを阻んだ。そうして、女もそうでなくてはならないと思いこむ。女はヴォルデモートが滅びても、魔法省から逃げる必要があった。仕方なく、マグルの街に留まる。スラム一歩手前の荒れた通りにある、ボロボロの家具付きアパートが女と娘の住処。可愛い娘とマグルとして生きていきたい。だけど娘の目は黒くて、性格も変わっている。普通の子みたいに跳ねまわらないし、あの人みたいに頭が良い。顔も私よりあの人に似ている。私の子なのに、如何してこの子を顧みないあの人に似ているの。私がずっと育てて来たのに、如何してあの人に似てしまうの。魔法なんて使えないで良い。それでも生後一ヵ月で、ランプを浮かせて遊んでいた。この子のなかには魔力がある。いつか私とあの人の暮らしたホグワーツ魔法魔術学校への入学許可証が届き、この子は魔法界の存在を知るだろう。その時、私はこの子になんて言えば良いんだろう。マグルの学校に友達でもいれば、自分から行きたくないと言うかもしれない。でもこの子はあの人と同じで変わっていて、周囲と馴染めない。自分の魔力で人を傷つけてクスクス笑っている。ああ、どうかこの子を魔法界に連れて行かないで。私とあの人の暮らしたスリザリンへ放り込まないで。ごめんなさい。どうか、この子には普通の暮らしをしてほしいんです。純血だ穢れた血だなんて馬鹿げた論争に巻き込まれない、マグルの街で普通に友達を作って普通に学校へ通って普通に恋をして普通に結婚して、私とあの人の縁のなかった普通の家庭で暮らして欲しい。この子は人殺しじゃあない。幸せになって構わない。
この子のためなら世界中に頭を下げて回って良かった。でもその黒い双眼から逃げたくて堪らなかった。人殺しの私が如何して子供と二人幸せになれるの。親を知らない私が如何してこの子をきちんと育てられるの。金の髪に縁どられた白い顔に、黒は二滴。ヴォルデモートと私の罪の証。この子に一滴だってきちんとした血の流れていない証拠。こんな両親なら、この子には親なんていない方が良い。娘とヴォルデモートの血の繋がりを写し続ける鏡を割っては煙草で嫌悪を紛らわせなければならない世界に、女は耐え切れなかった。
少女は母になりたいと望むほどにナマエを求めていたのに、ナマエは逃げた。
彼女が今世に幸福などないと諦めていたことを、ドラコだけが知っている。
自分が特別だ、母親とは違うと思うことでやっと精神の均衡を保っていたのに、魔法界に来ることで、自分が母親と同じ劣等種なのだと突きつけられてしまった。彼女が自分の十一年を恨むために捧げたものは、彼女自身だった。
純血思想を言い訳に少女は己の弱さから視線を逸らす。母に捨てられても尚母を求め続けてしまう屈辱に、両目を覆う。思慕を否定するために自分ごと否定する。その父と違い、少女は誰から奪おうと何一つ己の物にならないことを知っていた。時計を奪ったからと言って自分がアリスの母に愛されるわけではない。マグルを殺したからって、母が自分を捨てた過去が消えるわけではない。どうしようもないほどの諦念の内で彼女はホグワーツに暮らしていた。どうしようもないほどの空虚と絶望と憎悪に絞められながら過ごしていた。孤児院育ちであると知られることも、穢れた血と罵られることも、常に酸欠であることを悟られるよりはずっと矜持を傷つけない。自分が弱っていることも、絶望していることも、寂しいことも、手を引いてもらいたいことも、誰にも知られたくない。そう思っていたのに、ドラコの前ではいつも仮面が落ちる。触れないで、話しかけないで、純血の貴方が如何して穢れた血である私に話しかけるのよ。同情しないでよ。そう思っても、純血であるドラコの言う事には逆らえない。それに少し話している分には悟られないだろうからと、ズルズル引きずられていった。
いつか貴方は純血の女の子と恋をして、ママと同じに私を捨てていくだろう。
ホグワーツ城を見つめながら、少女は己の空虚を思う。もしも自分がドラコと同じ純血だったら、今世を諦めなくて良かっただろうか。ドラコが誰か他の女の子と話しているのを眺めながら、彼に話しかけて貰えるのをじっと待たなくて良い。捨てられることもない。
もしも来世があるなら、ドラコの子供に生まれて、ナマエってつけてもらうの。そうしたら捨てられないし、貴方と恋が出来るから。
ボートの上で少年少女が二人きり、愛の告白をしたとて罪にはならない。それでも少女は最期まで好意を口に出来なかった。彼女は己の過去を振り返り、果てのない未来を夢見るだけで、今隣にいるドラコを顧みることがなかった。
もう読む人のいない分厚い本が書棚に収まっているのを見て、ドラコは“捨てられたのは自分だ”と思った。
堪えきれない空虚から己の気持ちを何一つ語ることのなかった少女を責めたが、その一つ一つが胸に刺さる。自分こそ彼女に気持ちを語ることがなかったではないか。矜持を言い訳に本心を晒すことがなかった。マグル生まれでも、血が穢れていても、お前が好きだ。今目の前にいるお前が好きだから、そんな悲しいことを言うな。僕の子供に生まれたら、お前を恋人にすることが出来ないじゃあないか。彼女の愛読書に打ち明けたとて、今更如何しようもない。十五の少年には、それこそ果てない未来が残っている。
今は喪失に涙しようと、その涙が渇くより早く忘却が訪れるだろう。だから、共に過ごすことを望まなければ駄目になってしまう。
愛読書は純血魔法族の優性遺伝子について、好きなものは貴方と終に口に出来なかったホワイトシープ。純血の少年に焦がれ、己の血筋を知らずに逝った純血の魔女。忘れられない痛みだけを残して、もう名前さえ思い出せない少年期のまぼろし。僕の初恋。
きっと、あの少女の居場所は自分の隣にしかなかった。
世界で一番うつくしい名前をもつ化け物