七年語り – CHAMBER OF SECRETS
01 夏季休暇は終わらない
またこの夢なの。ダリルは考えた。
幾度も見た気がするけれど、それとも夢の中で幾度もみたと思っているだけなのかもしれない。起きてみれば分かるのだろうが、ダリルはまだ夢の中にいる。それに起きてしまえば日常に飲まれて忘れてしまうだけなのだ。実際に幾度か同じ夢を見ていようと、それとも夢の中の“設定上”の既視感であろうと、どの道今のダリルはこの暗い部屋に馴染みがあるらしい。夢の中でぐらい色々と考えるのは止めよう。自分は今馴染みの暗い部屋の中にいて、扉のノブに手を掛けている。暗くて一寸先すら見えないし、扉が開いたとしてその先は崖かもしれなかったが、向こう側に行きたくてたまらなかった。前も同じことを思った気がする。ダリルは夢に身を委ねはじめた。居てはいけないと焦っていた。ここに居てはいけない、否向こうに行かなくてはならないと焦っていて、しかし今はもうそんな風には思っていなかった。ただ向こう側に行きたいという純粋な欲求がある。向こうに行きたい。そう思った瞬間ダリルの歩みを阻んでいた扉がさあっと、舌の上の砂糖菓子のように甘やかな速度で溶けていく。ダリルはどうして向こう側に行きたかったか思い出した。紫色のターバン、少し神経質そうな面持ち――四角い隙間の向こうにクィレルがいた。クィレル教授! ダリルは頬を緩ませる。教授ったらそんなところに居たんですね。扉に鍵なんて掛けても、私は諦めてどこかに行ったりしませんよ。私は教授が思っているよりずっと頑固なんですからね! ダリルは扉を越えて、クィレルの側に行こうとする。足が動かなかった。クィレルが首を振っている。「こ、こ、こちらに来ても、いけないし、そちらに戻ってもいけない」じゃあどこへ行けば良いと言うのだろう。ダリルは黙り込んだ。「そちらにもこちらにも同じものが満ちている」教授、どもらないんですね。喋ってはいけない気がしたが、夢の中だ。ダリルは好奇心を溢れさせた。例のあの人に出会う前は、そうやって喋っていたんですか。クィレルはダリルの問いに答えない。ダリルをじっと凝視している。「それを飛び越えることは出来ない」
甘やかに人を誘うが、開けることは出来ず、越えることも出来ない。人は気がついたらこちらからそちらを見ていて、そちら側にいる君はこちらに進もうとしている。悪とは、――とは、そういうものなのかもしれない――私は――戻らない――君が、ノイズ掛かって聞こえない。低く落ち着いたクィレルの声が高く騒がしくなっていく。クィレル教授! ダリルはノイズの向こうへ聞こえるように声を張り上げた。私わかりました! ダリルはぼんやりと薄らいでいくクィレルの残像に手を伸ばす。あの時と同じ、扉がダリルの指を遮った。
教授、私わかりました。私は教授の良い生徒ですもの。教授が何を言っているのか、私にはわかります。この扉は……
「この扉は……“死”なんですね……」
――無音からの音の爆発。
ダリルはまどろむ瞳を見開いた。何が写っているかわからない。「キィーリレルが!」キンと響いた。
「キィーリレルが起こしに参りましたら、お嬢様がお目覚めになった!!」
「きゃっ」
ダリルは視界の八割を埋め尽くす眼球に悲鳴をあげる。自分に覆い被さっている何かを払いのけると、払いのけられた何かはダリルの上でおんおんと泣き始めた。鼓膜が痛い。頭のなかで音がガンガンと響く。
「病み上がりのお嬢様を驚かしてしまうなんて、キィーリレルは駄目な屋敷僕妖精です……」
「え、あ、ええ……お前だったの……」
何が起こったかよく分からないままにダリルは半身を起こして、自分の腰に跨っている屋敷僕妖精をマジマジと見つめた。
屋敷僕妖精に特有の肥大化したビー玉のような目から、小さなビー玉がいくつもこぼれ落ちていくに従い、布団がびしょびしょになる。
体中の水分を出し尽くす勢いで泣いているキィーリレルをぼんやり眺めるダリルはまだ完全に夢から覚めていなかった。
『悪とは、――とは、そういうものなのかもしれない――私は――戻らない――君が、』
一体何を言おうとしていたのだろう。ちょっと考えてからダリルは頭を振った。あれは単なる夢で、クィレルはもうどこにもいない。そうと分かっていても、それが自分の作り出した存在であってもダリルはクィレルが何を言おうとしたのか知りたかった。
ダリルはきっとキィーリレルを睨み付けた。この子があんなに喚き立てなければ最後まで聞くことが出来たろうにという思いもあったし、そもそもダリルはこの新しい屋敷僕妖精が嫌いだった。第一主人の体の上に馬乗りになるなんて、この子はどんな躾を受けてきたの。ドラコだって、そんなことは五歳の時に止めたっていうのに、馴れ馴れしいったらありゃしないわ。
「お嬢様がお起きになって、よかったです!」
キィーリレルはダリルに睨まれていることも――ついでに疎まれてることにも――気づかないで、まだ泣いている。ダリルの布団で鼻までかみ始めた。どうせ洗濯してしまえば済むことなのだけれど、キィーリレルは家事魔法が上手くないのだ。誰か別に屋敷僕妖精を呼びつけなければならない手間を思うとダリルはますます腹が立った。
キィーリレル――最近マルフォイ家に住み着いたこの屋敷僕妖精は何かと身分を弁えず(これはナルシッサの言だ)家の者へ馴れ馴れしい態度で接する。何でも前に仕えていた家には屋敷僕妖精がキィーリレルしかおらず、しかも主人が幼かったために徹底した躾を受けてこなかったらしい。キィーリレルによれば「古いお嬢様とキィーリレルは、すばらしいお友達同士でした!」らしい。
そうやって暮らしてきた屋敷僕妖精がマルフォイ家の家風に合うはずもなく、マルフォイ家に住み着いてからまだ二週間しか経っていないのにも関わらず、もうキィーリレルは全身をアイロンに掛けられていた。マルフォイ家にいる屋敷僕妖精達も変な奴だと思ってるのか、それとも尻ぬぐいをさせられたくないと思っているからか、キィーリレルは浮いた存在だった。彼女の失敗が多いのはフォローをしてくれるような誰かがいないせいもあるだろう。早速今朝もダリルを起こしに来る前に何かやらかしたのか、耳に焦げた跡が残っている。
性格に難があり、家事魔法も下手、しかも仲間意識が強いはずの屋敷僕妖精のなかでさえ浮いている。厄介というものに手と足をつけたようだとキィーリレルと初めて会ったときから思っていたダリルだが、ここ数日でその考えは全く変わってしまった。厄介のほうが、手足のない分ずっとマシ。キィーリレルは避けようと思っても追いかけてくるのだから。
追いかけっこに勝ったのはキィーリレルで、彼女は家族中でたらい回しにされた挙げ句、様々な事情によりダリル付きとなった。
ダリルは冷たい布団と自分の腰の上に跨っているキィーリレルから逃げようと身をよじる。キィーリレルは小さな女の屋敷僕妖精だったが、病み上がりのダリルにはそれすら重く感じた。否水を吸った布団が重いのかもしれない。兎に角懸命に脱出を計り続けたものの、ぜえぜえ言うダリルの上ではまだキィーリレルがめそめそ泣いていた。
「このお屋敷のなかで、お嬢様が居なくなってしまわれたら、キィーリレルはどんなにか寂しいでしょう」
嘆きの間々にチーン! とか、ブシュッ! とか鼻をかむ音が混じる。布団で鼻をかまれるのも鬱陶しいが、ダリルが何より鬱陶しいと思うのはキィーリレルが自分に懐いていることだった。
「ねえ、キィーリレル」
ダリルは風邪の名残とキィーリレルのキンキン声とで痛む頭を押さえながら、言葉を選んで話しかける。
「その、お前が前の主人と離れることになったのはとっても不幸な話だわ」
「シェイクスピアの描く悲劇に勝るとも劣らずのものでした」
「……言い直すわ。お前が前の主人と離れることになったのは、シェイクスピアの描く悲劇に勝るとも劣らずの辛いことだったでしょうね」
「その通りでございました。何しろキィーリレルと古いお嬢様は大大大親友でした!」
さっと顔をあげてダリルを見返したキィーリレルはにっこり笑っていた。ダリルの顔が引きつる。
「そうでしょうね。でも私はお前と大大……それにもう一つね、大、親友じゃあないわ」
ブルーグレイの視線がキィーリレルの大きな瞳を鋭く射貫いた。
「私はお前の主人よ。我が家では屋敷僕妖精は主人に馴れ馴れしくしたり、友達だなんて言ったりしないの!」
ピシャリと言い放つ。キィーリレルは理解しかねると言った調子でまじまじダリルを見つめていた。
「さあ、分かったらさっさと私の上からどいて頂戴。お前といたら治った病気も戻ってきてしまうじゃあない」
途端に今まで無反応でいたキィーリレルがぴょんっと飛び跳ねた。恐れおののいたという風に目をまん丸に見開いている。やっと分かってくれたのだろう。ダリルはほっとした。
「新しいお嬢様がまたキィーリレルの前からいなくなったら大変!」
何も理解してくれないままキィーリレルは姿を消した。後に残るのはぐったりしたダリルと、同じくぐったり――ぐっしょりした布団。
もたもたと布団から這い出して床へ降り立ったダリルの耳にボーイソプラノの笑い声が聞こえてくる。
ドラコが扉のところからダリルのほうを見ていた。笑っているということは、キィーリレルとダリルのやりとりを聞いていたに違いない。
「いつからいたの」
ダリルはばつの悪そうな顔をしてドラコを睨む。冗談交じりのものだ。それを分かっているから、ドラコも笑みを仕舞わない。
「ちょっと見舞いに来た――別に屋敷中にお前とキィーリレルの声が聞こえていたわけじゃない」
ドラコは扉を後ろ手で閉めて、洋箪笥の前にいるダリルへ向かう。ダリルは洋箪笥を開けて替えの寝間着を引きずり出した。「胸のところまでびしょびしょだわ」ブツブツと文句を言いながら、濡れて体に張り付いている寝間着を脱ぎだす。ドラコは眉を顰めた。
「母上が今部屋に来たら僕まで叱られるだろう……」
「お母様だってお父様のいるところで着替えてるのよ。構いやしないわ」
ダリルは口を尖らして反論する。その割に先より焦っているように見えるのは、やはり叱られるのが怖いからだろう。
反論を受けてドラコはそれとこれは無関係だと思ったが、説明するのも面倒になってダリルの着替えを手伝ってやることにした。ホグワーツでは毎朝どうしていたのだろうと思うほどダリルはもたもたしている。そもそも替えの服を手に取るのは脱いでからにすればいいのに――ドラコはダリルが右手で抱えている寝間着を手に持ってやった。
「お前、ホグワーツでは一人部屋だろ。毎朝どうしてたんだ」
「……今の騒ぎが聞こえてたらお母様が来ないわけもないわね」ダリルはドラコの言葉を無視してから「お母様とお父様は何をしていらっしゃるの」逆に聞いた。相変わらずの理不尽っぷりにドラコがため息をつく。
「リビングで話してる」
「また何かしら嫌なことを思いついたんじゃないでしょうね」
寝間着をパサリと床に落とすと、ダリルはドラコから替えの寝間着を受け取って羽織った。脱ぐときよりはボタンを留める速度が速い。
「キィーリレルの面倒を見なくちゃいけないより酷いことがまだあると思うか?」
「ないわ」
ダリルは断言した。
キィーリレルがダリル付きになった理由としては、キィーリレルがそれを望んだからというのもあるが、一番はダリルが裏でコソコソ「血を裏切るもの」と文通をしているのがルシウスにばれたから――だから無能なキィーリレルを付けられたのだった。
前までダリル付きだった屋敷僕妖精は今はルシウスのほうに回されている。しかも四六時中何らかの命令を出しているようで、ダリルはもう裏でコソコソ出来なくなってしまった。何せキィーリレルときたら、彼女が役に立つことを探すだけで夏期休暇が終わってしまうのではないかと真剣に思うほどに役立たずなのだ。魔法使い達を手伝うために生まれてきて、どうしてああも無能なのだろう。
ダリルはキィーリレルの駄目っぷりを思い出して眉尻をつり上げた。隣でドラコが肩を竦めている。滅多に怒らない分、一度怒ると人より激しいものを見せるダリル。彼女の怒りを買ったキィーリレルへの同情もあったし、それに元から妹の行動を推奨するわけではないと明言している身としては、ダリルの怒りへ同調することも出来なかった。でも実際ドラコもあれは笑える……否悲劇的だったなと思っている。
マルフォイ家では基本的に家族四人で朝食を取っている時に各種郵便物が届くことになっている。
イースターの頃から二月ほどの間、ミス・レターとハリーの文通はストップしていたわけだが、夏期休暇になると二人のやりとりがまた始まった。ダリルが一通目を受け取れたのは偶然の産物だった。何しろホグワーツから帰ってきたダリルを待っていたのはルシウスの叱責だ。
ダリルがウィーズリーの双子と仲良くなったのをルシウスが知らぬはずもないだろう。そういう理由で、家に帰ってくるなり、ダリルに届く手紙は検閲に掛けられるようになった。双子からの手紙も、アンジェリーナからの手紙も、アリシアからの手紙も、みんな捨てられた。
そんな状況下でハリーからの手紙が検閲に掛けられることなく、無事にダリルの手元に来たのは非常に幸運なことだった。あんまりに薄かったので、誰かからの手紙の下に隠れて、ルシウスに気づかれなかったのである。その日のルシウスが忙しかったのもラッキーだった。
勿論同じ幸運は二度ない。ダリルは自分の周辺の世話を焼いてくれる屋敷僕妖精へ「梟が朝食の席に来る前にハリーからの手紙を取っておいて」と命じ、ハリーからの手紙がルシウスの目に止まる危険性を廃していた。それでダリルはコソコソと文通を続けていたのだ。
上手くいったとダリルは思っていた。思っていた、のに。
ダリルは最後のボタンを留めると、きりっと唇を噛んだ。
「あの子ったら……あけすけすぎるのよ。お嬢様には有名な友達がいらっしゃるんですね! なんて食事中にいわなくったっていいのに」
何もかも上手くいったと思っていたダリルだったが、まさかキィーリレルが自分の机の上にあった手紙を見ているなんて――差出人が誰か分かるほどまじまじと――それだけならまだしも、給仕をしているときに家族の話に割り込むなんて、否見られたことも、話に割り込んだこともダリルには如何でも良い。ダリルが咎めたいのはハリーと文通していることをルシウスの前で言ってしまったことなのだ。
ドラコは荒ぶる腹筋と戦いながら、殊勝な態度をしているように、「くっ……」見せかけれなかった。笑みが洩れた瞬間ダリルが睨んだ。
「他人事だと思って……。そうね、ドラコはあの席でも一人だけ笑ってたわね? 私の不幸がそんなに楽しいのかしら」
ダリルが恨めしそうにぼやく。ごほっとドラコは咳をしてみせた。
「それより、父上は随分と怒ってるようだぞ。如何する」
如何すると言っても如何すれば良いと言うのだろう。
ドラコの言うとおり、ルシウスは愛娘の裏切り行為へ酷く怒っている。いつもなら何をしでかそうとダリルがパタンと倒れるだけで帳消しにしてくれると言うのに、一昨日まで夏風邪を患っていたダリルを見舞うことさえなかった。余程腹に据えかねたのだろう。
「九月には僕一人でホグワーツに戻ることになりそうだな」
「ドラコ、置いていったら千年恨むわよ」
唯一の救いと言えばドラコが怒っていないことだった。ドラコはダリルとハリーが文通友達であることを知っていたので、ルシウスをたばかったことに呆れこそしたものの、そう怒ってはいないようだった。おかげで全く悲劇的――それこそキィーリレルの言う「シェイクスピアの描く悲劇に勝るとも劣らず」な状況に置かれているものの、夏休みを一人憂鬱に過ごさないで済んでいる。
しかし憂鬱がまるきり晴れるわけではない。はあ。ダリルが深いため息をついた。
「なんでこんなことになってしまったのかしら。ハリーは私と文通してるだなんて、気づくそぶりもないのよ」キングズクロス駅のプラットホームで会ったハリーは赤いリボンにまるで言及しなかった。「なのにうちじゃあ誰もそのことを知らない人はいないわ……」
「ポッターの手紙のこと、父上にはなんて話したんだ?」
ルシウスの尋問――それこそ冬休みのそれとはまるで比べものにならないほど厳しい追及を受けてダリルは「ハリーの手紙を如何やって受け取っていたか」に始まり「ハリーに好意を持っているのか」に至るまで五時間も問い詰められていた。
「A to Z……つまりお父様の気に入るまでよ。これで全部おじゃんだわ」
ダリルは如何にも同情してくれと言わんばかりに憂いの満ちた表情をしていたが、ドラコはふんと鼻で笑うだけだった。
「精々休みが終わるまでに点を稼いでおくんだな」
酷いと言いたい気持ちはあったものの、ドラコがハリーを嫌っているのは分かっている。だからドラコに相談することなく一人で打開策を考えて、頑張ってきたのに……ダリルは再びキィーリレルのキンキン声を思い出して顔を顰めた。
「言っておくけど、僕は何も手伝わないぞ。
よりにもよってウィーズリーの双子とつきあいだすなんて……奇跡が起こらない限りホグワーツに戻れないだろうな」
ハリーのことは二人のなかで終わったことだが、新しい火種は常に存在している。ドラコとダリルの新しい議題――つまり喧嘩の理由はダリルがウィーズリーの双子と仲良くしだしたことだった。
「あの二人は純血よ。お父様同士のそりが合わないからって、私までわりをくうことないわ」
「父上の前でそう言うんだな。兎に角、僕は本当に、なんっにも手伝わない」
ドラコはダリルの部屋をずんずんと横切る。「本当に手伝わないからな!」もう一度念を押すと、ドラコは廊下へ出て行ってしまった。ダリルは開けっ放しだった洋箪笥を閉めて、扉のほうを恨めしそうに睨む。
「良いわよ。どうせ当てになんて……ちょっとはしてたわ」
その年の夏季休暇はダリルにとって、最悪ではないが、最善でもなかった。
七年語り – CHAMBER OF SECRETS