七年語り – CHAMBER OF SECRETS
15 恋うたもの
ハリーへ辛辣な言葉を投げかけてから三日が過ぎた。
ハーマイオニーが「一体どうしちゃったの?」と顔を顰めるぐらいダリルはハリーを避けていたし、ハリーも同様だった。別に如何したもこうしたも、自分がハリーと仲良くなりかけたのはあの一日だけで、元々こうやっているのが自然だとダリルは思ったが、彼女の周囲はそう思ってくれないようだ。何せダリルの友達(って言って良いと思うわとハーマイオニーは口を挟む)でダリルがハリーを好いていることを知らないのは、当の本人と(にぶちんの、とハーマイオニーが付け足した)ロンだけなのだ。
アンジェリーナはハリーと喧嘩したのかと心配し、アリシアとリーはもう痴話げんかかとからかい、フレッドはダリルをからかおうとした瞬間アンジェリーナに足を踏まれていた。ジョージは神妙な顔で「良い男は幾らでもいるよ。良い女は一握りしかいないし、俺は遭遇したこともないけどな」と余計なことを言って、女性陣から総すかんを食らっていた。アリシアとアンジェリーナという綺麗な少女を目の前にして、よくそんなことが言えるなとダリルは思った。ジョージとフレッドは――区別がつかなかったため二人一緒に無視されていた――「俺達の傍には天使のように心優しく美しい女の子が一杯います」と三回言うまで許されなかった。
本当にあいつが天使だったらとっくにハリーと付き合ってるさと膨れたフレッドが零しているのを聞いたが、ダリルはその台詞を聞かなかったことにした。確かに自分が天使のように心優しく美しかったら、ハリーにあんな酷いことを言う事はないだろう。
あれから変身術の授業は二度あったが、ダリルはハリーが傍に来る前にネビルと組むよう心がけていた。尤も心がけなくてもハリーはダリルと組もうとはしなかった。ネビルと組むと必ず何かが爆発したり、どこかに怪我を負ったりしたが、ハリーの視線へ気付かずにいるには丁度良かった。何よりもネビルと少しずつ試行錯誤していくのは面白かった。きっと、ネビルが失敗しがちなのは膨大な魔力を御しきれていないからなのだ。そう思えばダリルはネビルが羨ましくなった。ネビルは失敗の少ないダリルを羨んでいるが、ダリルがそつなく動けるのはイレギュラー、自分の理解の及ばない何かが存在しないからなのだ。相変わらず自分の中に魔力を感じることはなかった。
早く魔法が使えるようになりたい。
ハリーの親切を断わってから、今まで以上にそう思うようになった。しかし誰かがダリルを呼び出す気配はなく、痺れを切らしたダリルはマクゴナガル教授に誰が自分の問題を調べると言ったのか聞きに行ったが、ハリー達と親しくなってから浮ついた様子が多いですよと逆に叱られてしまった。確かにそうなので、ダリルは大人しくマクゴナガル教授の説教を聞くほかなくなってしまった。
一時間ほどマクゴナガル教授に拘束されて、説教やらクィディッチ杯への抱負等を聞かされた。しかし結局誰がダリルの問題に取り組んでくれているのかは結局知ることが出来なかった。勿論本業は教師で、そちらの仕事があるのだから、ダリルの面倒ばかり見ていられないだろうことは分かる。それでも挨拶ぐらいはさせてくれたって良いのではないかとダリルは思った。
フレッドとジョージは早くも悪戯(憂鬱な平日の夜を華やかにしてあげるのが自分達に科せられた使命、らしい)に勤しみ、ダリルも落とし穴掘り等に駆り出されていた。そこまでは良かったのだが、肉体労働に従事するダリルを見かねたアンジェリーナが「貴方達、穴を掘る魔法でも探しなさいよ」と言ってくれたのに、ダリルは悪戯と疎遠になっていた。都合の良い事に言い訳は沢山ある。授業で失敗したからと嘘をついて、ダリルはマクゴナガル教授から渡された課題を理由に、授業が終わるとすぐ部屋へ戻るようになった。
ハリーとマクゴナガル教授とフリットウィック教授とダンブルドア校長以外でダリルが魔法を使えないのだと知る人はいない。
あの五人と過ごした時は既に夏季休暇が目前で、しかも日数にしてほんの五日間だったからバレずに済んだのだ。これからも仲良くしていきたいと思うのなら、黙っていることは出来ないだろう。
ダリルはすっかり草臥れた魔法論の教科書をパラパラ捲りながら思索に耽る。バラすことは出来ない。そう思った。
勿論フレッドやジョージ、アンジェリーナ、リー、アリシアのことを信頼していないわけではない。だけど知る人が増えれば、他に広まる可能性も高くなる。何よりも、もう役立たずのようには思われたくなかった。魔法が使えないからと親切にされたくはなかった。
我儘だなとは自分でも思う。人にバレたくないのなら、誰かのバックアップを受けなければならない。それに今までだってマクゴナガル教授やクィレル教授がどれだけ自分の為に苦心してくれただろう。二人の親切を受けて置きながら、他は嫌というのは我儘だ。
ダリルはインク壺の横で丸まっているレディのほうへ指を差し出した。
「甘やかされて育ったから、駄目ね」
レディの滑らかな鱗を撫でる。と、ギイと背後で扉が軋いだ。ダリルは首だけで振り向いて、ジニーを迎える。「おかえりなさい」微笑んでそう言うと、ジニーがにっこり笑った。「ただいま。勉強熱心なのね」この数日ジニーが帰ってくる時には、ダリルは必ず勉強机に付いている。好きで勉強しているわけではないが、まあ傍から見ればそう見えるのかなとダリルは明確な否定をしなかった。
ジニーはきらきらした瞳をしている。談話室や廊下でジニーを見かけると、彼女はいつも人に囲まれていて、皆からムードメーカー扱いされているのがダリルにも分かった。彼女が引っ込み思案なのはハリーの前でだけなのだ。
鞄をベッドに置いて、ジニーも勉強机のほうへ歩み寄る。その手にはジニーお気に入りの日記帳が掴まれていた。自分が三日坊主の気があるからか、もう一週間も日記を付け続けているジニーは真面目なのだなとダリルは感じた。
他愛のない雑談を口ずさみながらこちらへ近づくジニーの顔が一瞬強張った。ダリルはジニーの視線を辿る。怯えたとび色の瞳の先にはレディがいた。ダリルは苦笑して、ジニーの目に触れないようレディを袖の中へ入れてしまう。
「その蛇、なんか不気味ね」二つ並んだ勉強机の内、右の方へ掛けながらジニーがぼやいた。
ダリルがきょとんとした顔をしていると、ジニーが慌てて言葉を続ける。「ごめんなさい。ペットをそう言われたら気を悪くするわね?」ジニーは済まなそうに言ったが、ダリルはまるで気にしていなかった。事実不気味だし、気持ち悪いし、蛇は好きではない。ダリルはレディが自分の腕を伝って首のところまで移動しようとする動きを感じながら、小さく唸った。
「うーん。そういえばそうね。すっかり忘れていたわ」
今度ぽかんとするのはジニーのほうだった。ジニーはダリルの言葉の意味が分からないようで、小首をちょこんと傾げている。その仕草が可愛くて、ダリルはちょっと腕を伸ばしてジニーを撫ぜた。勿論レディが絡みついていない方の腕で。
「一歳差よ」
「私はロンと同い年よ」
貴女のお兄さんと同い年だから、妹のように可愛がる権利があるとダリルは口を尖らせた。冗談めかした台詞だったのだが、ダリルの台詞にジニーがはっと顔を強張らせた。そうして酷く真剣な顔でダリルをじっと見つめる。
「如何したの?」
ダリルが促すとジニーは恐る恐る口を開いた。
「その、あのね……ダリル、ハリーと喧嘩したの?」
「そんなことないわよ」
ジニーにまで心配かけているのかと、ダリルは申し訳ない気持ちになった。元々そんなに仲は良くないのだと説明した方が良いのだろうか? ダリルが悩んでいると、ジニーは意を決したように言葉を続ける。
「だってこの間は凄く仲が良さそうにしていたのに――」
「そりゃあロンの妹の貴女やフレッドとジョージと仲が良いもの。仲は悪くないでしょうよ」
「そうじゃなくって!!」
おどけて誤魔化してしまおうと思ったのが恥ずかしくなるぐらいの直情だった。ダリルはジニーの強い否定を聞いて、ちょっと顔を赤くした。それを見てジニーも落ち着きを取り戻す。泣きそうに眉尻を下げて、ジニーが呟いた。
「私が……ダリルにけん制したつもりじゃあないのよ」
「勿論私もされたつもりなかったわ」ダリルはキッパリ言いきった。
本当に自分がハリーを好きなのだとすれば――ジニーの想いに釣り合うぐらいの恋情があれば、身を引くとか、そういう風には思えなかっただろう。第一、もしも恋情があったとして、ジニーのために諦めることが出来るなら、それはその程度のものなのだ。
そんな軽い気持ちでハリーを想うのも、ジニーの恋の後押しを迷うのも、ダリルには許せなかった。
家族と友達の間でさえ碌に身動き出来ない自分がハリーを好きになるのはおこがましいし、ダリルもそんなことは望んでいない。
ダリルはやっと自分の首元に辿りついたレディをひょいと机の上に置き、ジニーをぎゅっと抱きしめる。
ジニーは本当に可愛らしい少女だった。ずっと甘やかされ放題だったダリルでさえ、この少女を傷つける我儘は言いたくないと思うほどに可愛らしい。だからダリルは、なるたけジニーの気持ちに応えられるよう真剣な言葉を脳内から探った。
「ジニー、あのねよく聞いて頂戴。私は誰かと付き合う気なんてないのよ? 確かにハリーのこと好きだけど、私同じぐらいハーマイオニーやフレッド、ジョージ、ジニー、アンジェリーナ達のことも好きなの。ずっと家から出たことがなかったから、それではしゃいでいて、傍から見るとちょっと過剰なスキンシップをとったり、恋なんじゃないかって思うぐらいの好意を寄せたりするわ」
滔々と紡がれる言葉をジニーは大人しく聞いていた。
「でも五六人へ一遍に恋しちゃうなんて可笑しいでしょ? しかも同性にまで。私、性癖はノーマルのつもりよ」
結局最後は冗談で〆られたが、ジニーはもうダリルに不満をぶつけたりしなかった。
聡いジニーは人それぞれ誰かに踏みこまれたくない領域があることを、勿論理解している。ロンであれば優秀な兄達への劣等感だったり、フレッドとジョージであれば互いの存在を完全に独立したものだと指摘されることだったり――ダリルのそれは、スリザリンとグリフィンドールの狭間で宙ぶらりんな気持ちを誰かに知られることなのだろう。スリザリンが嫌いな自分は特に触れてはいけないとジニーは思った。
「でも、本当にハリーが好きになったら、教えてね」
「ジニーみたいな可愛い子と恋敵になるのは真っ平ごめんね」ダリルはクスクス笑って、ジニーを腕から解放する。
それでハリーの話題は終わりとなってしまった。
ダリルは羊皮紙をくるくる丸めて、机の引き出しに羽根ペンを放り込んだ。
欠伸をひとつ、レディを抱き上げてベッドのほうへ向かう。窓の外の夜は深い。寝るのだろう。ダリルは首にレディを巻きつかせると洋箪笥の扉を開け、ネグリジェを取りだした。シュルシュルと衣擦れの音を立てながら着替える。
「好きじゃないって言う割に、その蛇を大事にするのね」
ジニーは日記帳を開くのも忘れて、着替えるダリルのほうをじっと見ていた。制服を脱いで布地が薄いネグリジェを着るとダリルの華奢さが一層露骨になる。絹糸のように細く長いプラチナ・ブロンドが蝋燭の炎を映して煌めいた。普段冗談などと言ってケラケラ笑っている時や、フレッド達と遊んでいる時は崩れる美貌が、こうして誰かから離れて一人で居ると際立つ。
憂鬱そうにしていたり、寂しそうに俯いていればいるほどダリルは綺麗だった。一種の近づきにくさすら感じさせる美しさだ。だからジニーは、ちょっとぐらい美貌が崩れていても、愛嬌たっぷりにケラケラ笑っているダリルのほうが好きだった。
レディを共に一人で佇む姿は丸きりグリフィンドール寮生らしくない。夏季休暇の間にフレッドとジョージから、ダリルのことを「ミス・スリザリン」と呼んでいた話は聞いていたが、そう呼びたくなる気持ちも分かると言うものだ。
ジニーは同級生達がダリルのことをミス・スリザリンと呼んでいるのを知っている。揶揄ではない。否、それよりもずっと悪いのかもしれなかった――ダリルが一人でいるのを見かけると、「ミス・スリザリンだ」と畏れるように呼ぶのである。誰かがダリルのことをそう呼ぶのを聞く度にジニーは「ダリルはグリフィンドール寮生よ。私の友達で、ルームメイトだわ」と訂正したが、ここ数日ダリルが落ち込んでいるので、ジニーの努力は無駄になってしまった。せめてレディさえいなくなれば、なんとかなるかもしれないのに――ジニーは疎ましいものでも見るようにダリルの首元にしっかと巻きつく黒い蛇を見た。赤い瞳がジニーを掠める。ジニーは思わず目を逸らしてしまった。
不気味な赤い目の蛇。友達の評判を落とす蛇。ジニーはレディのことが大嫌いだった。
「私だったら、そんな蛇捨てちゃうと思うわ」思わず本音が零れてしまった。
ダリルがクスクス笑う。ジニーはぶすっと膨れた。「なんでその蛇、大事にしているの?」ダリルが優しくレディを撫ぜる。レディが黒い体をしならせてダリルの左手首に絡みついた。ダリルの口元へ頭を寄せる。
「この子はね、黒い部屋へ連れて行ってくれる鍵なの」
ダリルはレディの頭に口づけを落とした。クィレル教授の虚像に会えるかもしれない可能性がダリルにレディを受け入れさせた。
「……私の日記帳と同じようなものなのかしら」
ジニーの声が少し沈んだ。ダリルはそれにクスクス笑って、ジニーのほうを振り向く。
「あんまり良くないことだって分かってるんだけど、手放せないの」
「そうね。朝が早い時なんかは、ほどほどにしたほうが良いのかも、今日は存分に書けるじゃない?」
友達と消灯時間ギリギリまでお喋りしては、それから日記を書くという生活を送っているジニー。彼女を起こすのがダリルの新しい日課となりつつあった。ダリルのからかいにジニーは変な顔をしたが、ダリルは気付かずに鞄のなかを整理している。今日使った本を取り出し、天文学の教科書からリボンを取って、洋箪笥に仕舞っておこうと思いだした。ハンカチを引っ張りだした時に紛れこんでしまい、失くさないよう天文学の分厚い教科書に挟んでおいたのだ。ダリルはあくびをしながら本を開いた。
パラパラ捲り、バサバサ振る。ジニーが如何したの? と声を掛けてきたのにも気づけないぐらい、ダリルの頭は真っ白だった。教科書をベッドに投げだして部屋の入り口へ駆けていく。
「何処へ行くの? もう消灯時間よ」
「天文塔に忘れ物してきてしまったの!!」
ダリルは振り向きもしないでそう叫んだ。上ってくる多くの人を避けて、談話室へ続く螺旋階段を下り、駆け足で談話室を横切る。天文学の教科書を何処で開いたか思い返して、天文塔以外で開いてないか幾度も己へ問いかけながら走る。寝間着姿で走るのを人に見られたらという気持ちもあったが、それよりもあのリボンを探しに行かなければという思いのほうが強かった。
夜の闇に冷え込む廊下を過ぎて、階段を二段飛ばしで下り、渡り廊下を通り、天文塔の下の階段へ付く。荒れる息も整えないままダリルは石造りの階段を駆け上がった。空が近くなればなるほど寒い。天文塔の天辺につくと、寝間着姿では寒いぐらいだった。
震える腕をこすって、ダリルは石畳の上を見渡す。誰かが持って行ってしまっただろうかとも思ったが、幸いにして天文塔は滅多に人が来ない――入り口から一番遠くの壁に赤いリボンは寄り添っていた。ダリルは泣きそうなぐらい安堵して、近寄る。
「あった」
踏まれたのだろう。誰かの靴あとが赤いリボンに刻まれていた。ダリルはくったりしているそれを拾い上げて、頬を寄せた。ハリーからの贈り物。友達だという言葉と共に贈られたもの。ダリルはずるずるとその場にへたり込んだ。
いつもハリーを励まして、優しい言葉を掛けるミス・レター。ハリーと上手く話せなくて、彼の親切を酷い言葉で断わってしまうダリルとは大違いだ。ダリルの瞳が涙が溢れた。酷い事を言ってしまった。子供っぽい八つ当たりをしてしまった。
私はただハリーに魔法が使えないと知られたくなかっただけなのに。
泣きながらリボンについた靴あとを指でこすって消そうとしていると、レディがするりとダリルの首から膝の上に下りる。頭をもたげてリボンに触れようとした。パクと開けた口から覗く牙が赤に触れる――ダリルは声を荒げた。「触らないで!!」ピタリとレディが静止する。
赤がダリルのブルーグレイの瞳を覗きこんだ。ダリルもその赤を覗きこむ。震える声音が漏れた。
「そうよ。本当はハリーのこと、好きになりかけているわ」
一年間ずっとミス・レターとして彼のことを見ていた。そうして今ダリル・マルフォイとして仲良くなれるのかもしれないと思っている。だけど、その希望が怖い。幸福の後に続く落胆が怖い。ダリルは縋るように両手でリボンを握りしめた。
もしも自分がミス・レターだとバレたら、それでもしもハリーに嫌われたら、もう二度とハリーと好意的な言葉を交わすことは出来ない。
失うのが怖いのに望んでしまう果てなき欲望。どっちつかずの自分が恐ろしかった。
「だから対等に見てほしい。最初はちょっと彼と言葉を交わせるだけで良かった! なのに、友達になりたくなって、少し親しくなったら、もっともっとと望んでしまう」
ハリーの優しい緑の瞳。それを、もっと近くで見れるだろうかなどと思ってしまう。
『ポッターやウィーズリー共とはいずれ袂を分かつこととなる』
ダリルはルシウスの言葉を思い出して笑った。胸の前には去年のクリスマスにルシウスから貰ったネックレスと共に黒の鍵がぶら下がっている。家の事も、友達のことも、ハリーのことも諦めきれない。そんなどっちつかずの態度で、許されるはずがない。
「ハリーのこと好きになったら後で辛い目を見るわ。彼が私を好いてくれるはずがないもの。それに好きになって、もしも彼からも望まれたら、私、絶対に裏切りたくないものを裏切ることになるわ。平時ならそれで良いかもしれない。ドラコも仕方ないなって許してくれると思うわ。でも――でも」ダリルの胸の内に体全体が潰れるような痛みが満ちた。「だけど、私、向こう側に戻りたくない……」
このまま過ごしていればダリルはルシウスの言うとおり、友よりも家を選ぶことになるだろう。闇も父の思想も窮屈な人間関係も何もかも疎ましかったが、それらの全てをひっくるめてもまだ捨てきれないものがダリルにはある。向こう側にはドラコがいる。
幾ら道を違えても愛しているとは思っていても、実際にドラコと敵対することは出来なかった。彼の意見に同意していなくとも、彼の意見を阻むことは出来ない。ハリーやフレッド、ジョージにはダリルがいなくても良い。でもドラコには――ダリルにも、互いが必要なのだ。
ヴォルデモートが戻ってくればダリルはグリフィンドールを裏切るだろう。それよりも大事なものが向こうにはある。
『お前が戻ってくるのはこちら側だ』
「戻りたくない……」
ダリルの慟哭をレディはじっと見守っていた。赤い瞳にダリルの泣き顔が映る。
「あそこへ戻れば、また守られるだけの私になってしまう。私のせいで誰かに何かを強いてしまう。いいえ、彼らはそれを望んでいるのよ。私を大事だって言ってくれている。私を守りたいって言ってくれている。でも、それは私が求めているものじゃない」
ルシウスはナルシッサやドラコやダリルを守るためにもヴォルデモートに尽くさなければならないと思っている。だけどダリルは心から思っている――自分の為に彼らが手を汚すのなら、彼らがそれを望んでいたのだとしても、私を言い訳に使うのであれば死んだ方が良い。
「ハリーを好きになったら、私は家を捨てられるのかしら」ダリルはぼんやりと零した。
ハリーが自分を求めてくれたのなら、ダリルは家よりも友を選べるだろう。戻らずに済むだろう。自分達が望んで行っていることへ、私を言い訳に使わないでと怒れるだろう。彼らを軽蔑出来る。見捨てられる。
「もしもヴォルデモートが戻ってきても、私はグリフィンドール寮生でいられる? 彼の隣にいることが出来れば、」クスと嗤って、頭を振った。「これって恋じゃないわね」
こんな気持ちで如何してジニーへハリーが好きかもしれないなどと言えるのか。ジニーの純粋な思慕の想いと比べるのもおこがましい。ダリルはハリーを利用して家を捨てたいだけなのだ。自分を愛している家族を捨てる大義名分が欲しいのだ。
自分が光のなかで暮らしたいから――光のなかが温かいと知ってしまったから――大事なものを裏切って行こうとしている。
揺らぐ地盤。誰か自分を捕まえていてくれと思った。手を離さないで、このまま落ちていってしまいそう。ルシウスでも、ドラコでも、フレッドでも、ジョージでも、誰でも構わない。自分が何を選べば良いのか教えてくれ。後悔だけが胸を浸す。
無知で居たかった。愚かな自分に気付きたくなかった。天使のようだと愛されていたかった。何も、自分で決めたくなかった。
「ぜーんぶ、中途半端」
自嘲するようにぼやいた。華奢な声音が果てない夜空に吸い込まれていく。
自分は白いあひるの子の中にいる醜い雛のようだとダリルは思った。童話の中では美しい白鳥になれても現実ではそうはいかない。
純血名家の中に生まれたスクイブ。家族代々スリザリンだったのに、グリフィンドールへ入った馬鹿な子供。
どっち付かずで、家族が友達を悪く言えば肩身が狭くて、友達がスリザリンを悪しざまに言えば息が詰まる思いがする。どちらへも入りきれない。中途半端に知っているから、おさまりがつかない。全部知っていないから正しい選択が出来ない。中途半端。
何もかもが眩しく、妬ましかった。手を伸ばせば掴めると思って、そうがむしゃらに信じ切れたら良いものを――僅かな知恵が躊躇いを産む。半端な知性が疑惑となって胸に暗雲をもたらす。進むだけの勇気も、引き返すだけの賢さもない。邪道を行く狡猾さもなく、あるがままを受け入れる誠実さもダリルにはなかった。何もない。帽子が告げた通り、ダリルには何の才覚もないのだ。
何も出来ない我儘な子供がそこにはいた。
七年語り – CHAMBER OF SECRETS