七年語り – CHAMBER OF SECRETS
21 暗室にて
目を瞑ると黒い部屋に辿りつく。もう慣れっこだった。この部屋のなかでダリルはぼんやりと様々なことを考えたりして過ごしていたが、二ヶ月ほども連続で訪れていれば飽きる。段々と現実との境目が失せて行くようなリアリティに、もう扉がどこにあったのかも分からなくなってしまった。それでダリルはこのひと月ほど、扉を探してペタペタと壁をまさぐり続けていた。
相変わらず何の変化もない部屋のなかをぐるぐる歩き回っていると、不意に指先が温かいものに触れた。ぺとり。布のような、スベスベした手触り。ぺとり、もう少し上を触ってみる。皮膚のようにしっとりと温かい――何かがダリルの手を掴んだ。グンと部屋が広くなる。
「この姿では初めましてかな。ようこそダリル、僕の記憶へ」
ダリルの手を掴んでいる青年が喋った。
「誰……?」
「誰だと思う?」
きょとんとした顔で首を傾げるダリルに青年がクスクス笑う。
青年はセドリックと同じか、それ以上にハンサムだったが、セドリックほど魅力的でないように感じた。瞳の色がいけないのかもしれない。セドリックの優しい灰色の瞳とまるで違う、暖色なのに冷え冷えとした印象を受ける赤だ。
赤目に黒髪の整った容貌。年の頃は十八九だろうか。胸のあたりまであるだろう髪を無造作に縛って、首横に垂らしているので、少しだけ幼く見えた。服の上には黒いローブを羽織り、それをピンで留めている。ピンの先に付いている髑髏に蛇が群がっていた。お世辞でもセンスが良いとは言えないだろう。しかしそのピンを見て、ダリルはふっと思いついた。「レディ?」
黒――蛇を人間にすると鱗が髪の色を表すのか、それとも皮膚の色にあたるのかは知れないが、ダリルの周りにいる赤い目の生き物というとレディ以外思いつかなかった。青年は自分を見上げるブルーグレイの視線を見返し、クスクス笑いながら口を開く。
「まあ一応当たりか、」
バチンと、何かが破裂するような音があたりに響いた。青年の頬が赤い。ダリルが青年に掴まれていない方の手で、思い切り平手打ちを喰らわせたのだ。ダリルは顔を真っ赤にして、無理に青年の手を振り払った。
「雄だったなんて!」くるりと、背を向けて叫ぶ。
ダリルはわなわなと、怒りに身を震わせた。
今まで幾度レディの前で着替えただろう。着替えだけなら兎も角、一緒にお風呂に入れたり、同じベッドで休んだり、自分の体の上を這うのも好きにしろと放っておいてきたのだ。雌だと思っていたから――否雌か雄か正確には分からないが、自分が雌だと思っていたかったのだ。どうせ調べでもしなければ性別など分からないし、興味もないし、雄の蛇が自分の体の上を這いまわっていると思うと気持ちが悪かったから、ご丁寧にレディという名前まで付けて雌だと思い込もうと頑張ったのである。そして実際思い込んでいた。なのに夢のなかだからと言って男の姿で出てくるなんて、あんまりに酷い。たかが夢と忘れてしまえれば良いが、最近は夢のなかで何を考え、何を感じたか殆ど記憶したまま目覚める。レディの性別が本当に雌だったとしても、こんな夢を見ればもう今まで通りには接せられない。
男の姿で出てくるにしろ、まだ子供とか少年であるならば救いがあるというものだ。あんな成人した姿で出てきたら、もう一緒にお風呂になど入れないし、同じベッドで寝たくもない。撫でるなど論外だ。ダリルは両手で顔を覆った。耳まで真っ赤になっていた。
「もう二度と私に触らないで頂戴。お父様にだって八歳を過ぎてからは裸なんて見せたことないのよ!!」
「安心しなよ。幾ら綺麗だったってどこも発達してないチビには興味がないし、蛇の姿で居る時は然程ヒトとしての思考回路はない」
レディは呆れたようにぼやいた。
スネイプといい、こいつといい、ダリルをなんだと思っているのだ。そりゃ勿論今までちやほやされていたのは家柄のせいもあるだろうが、顔だって……そんな、多分、ブスではないはずだろう。ダリルはちょっと不安になる。
兎も角レディの釈明はダリルの怒りに油を注ぐ結果となった。
「ヒト? 蛇でしょう。捨てるわ。これがたかが夢だったとしても、目が覚めたら、ぜったいに捨てるわ」
ダリルはずんずんと歩き出した。ちょっとでも遠くに行って、レディから離れたかったのである。間違いなく主観にして五十メートルは遠ざかったと思ったし、レディが後を付けてきている気配もなかったのに、ぽんと肩を掴まれ、無理に振り向かされた。
レディの指がダリルの首元を撫ぜる。するりとうなじを捉え、指が首筋をなぞった。体が強張る。赤い瞳がダリルを覗きこんでいた。
「クィレルの本心を知りたくはない?」
「知っているはずがないわ」
ダリルは自分を見つめるレディに、幼い頃読んだ本を思い出した。
人を誘う黒の蛇。楽園を終わらせる果実を齧れ、その果汁で唇を濡らし、甘美なる果肉を舌で味わえと囁く。ダリルが黒蛇を初めてみたのは、創世神話の挿絵でだ。無垢な二人を愚かな人間に変えた邪悪なる誘惑者としての存在。
ここはエデンの園ではないし、ダリルはイブでもなく、アダムはいない。音を紡ぐことが出来ない喉を叱咤して、ダリルは呟いた。
ダリルにとってクィレルの本心とは、自分に残されたあのメッセージだけだ。自分の選択を悔やみ、そしてダリルを慰めてくれた優しい人。愚かものなどではなく、ただ少し弱くて、不器用なだけの素晴らしい魔法使い。それが本来のクィレルだとダリルは知っていた。
改めて誰かに聞く必要はない。否、それとも聞く事が出来ないからそう思い込んでいるだけなのかもしれない。赤い目をじっと見上げている内に、ダリルは足元が消えて行くような不安を感じた。それでも申し出を断るぐらいの理性は残っている。
「……蛇の貴方が、知るわけないわ」
ふっと赤い目から視線を逸らし、首に添えられた手を外そうとするダリルを、レディがもう片方の手で抱きあげた。足が宙に浮く。下へ降りようと足をばたつかせるダリルの耳元へレディが唇を寄せた。低い音が耳朶に響いた。
「僕は人だよ、ダリル」
首筋をなぞっていた指が背に回される。
単なる夢だ。そう思おうとしても、ドラコとルシウス以外の男へ抱かれたのは初めてで、眉間にしわを寄せても赤い頬は誤魔化せなかった。クツクツと笑う声が鼓膜を揺らす。ダリルは瞳を伏せて、出来うる限りレディの顔を見ないよう心がけた。
ブルーグレイの瞳は己の手を見つめていて、赤い瞳が残忍な輝きを宿したのに気付かない。
顔を赤くして俯くダリルの長い髪を弄び、人形のように華奢な肢体を撫ぜる。吐息が耳に掛かる度にダリルの体がピクと身じろぐ。滑らかな皮膚の下に、高貴な血を流す美しい人形。彼は口元へ薄い笑みを浮かべて、彼女へ己が名を告げる。
「名前はヴォルデモート――君の主だ」
ダリルがはっとヴォルデモートを見上げた。先まで赤かった頬は青白く、瞳には怯えの色が浮かんでいる。
暫し黙って赤い瞳を見つめていたが、おもむろに首を振った。そうしてからキッとヴォルデモートを睨みつけるダリルの瞳には、ハッキリとした敵意と拒絶が満ちており、主人がどちらで、ペットがどちらなのか教え込む必要があると彼は感じた。
「ヴォルデモートがこんなに若いはずないわ」ヴォルデモートの腕の中でダリルは果敢にも彼を呼び捨てた。「彼は今霞の姿で彷徨っているもの。貴方がご自分を私の夢の中の登場人物でないと仰るのなら、私はヴォルデモートがこんなところにいるはずがないと言うわ」
「勇敢だね」
勇敢というよりは無知に近いだろうとヴォルデモートは思った。
闇のなかで育ちながら、闇から隔離されて育ったダリルはヴォルデモートの恐ろしさを知らないのだ。ただそういう悪人がいるというそれだけで、ハリーのことも、暗黒の時代についても、ルシウスが死喰い人であったことも隠されて育った。だからダリルはその名を恐れない。彼女がヴォルデモートを例のあの人と呼ぶのは、名前で呼ぶと相手を怯えさせてしまうからという、それだけの理由だ。ヴォルデモート本人の前でその名を食んだとしても、無論ヴォルデモートは怯えなどしまい。そう思ったのは実際勇敢だったのかもしれない。
ダリルはからかうような声音に眉を顰めた。
「何が? 貴方に誉められても嬉しく、」ない。言いきるよりも早く、ギリと、しなやかな指がダリルの首に食い込んだ。
「勇気の使いどころは時と場合を確かめるべきだ」
そうせせら笑うヴォルデモートが右手でダリルの首を絞めていた。両手でヴォルデモートの手首を掴むが、動かない。呼吸が出来ない。肺が空気を求めて硬直している。苦しみに顔を歪めるダリルを見てヴォルデモートが楽しそうに笑った。
羞恥とは違う理由からダリルの顔が赤くなる。瞳が潤む。小さな手が腕に触れ、力なくずり落ちて行く――ヴォルデモートはダリルの首から手を離すと共にダリルを床へ叩きつけた。鈍い音がして、黒い床の上でダリルが体を丸くする。ぜえはあと背が大きく揺れた。
魔法を使うまでもなく、簡単に殺すことが出来る弱い生き物だ。ヴォルデモートはしゃがみこみ、ダリルの長く美しい髪を掴んだ。痛みに喘ぐ顔が見えるよう思い切り引っ張る。「やっ……」ブチブチと髪が抜ける音と共に、ダリルが呻いた。余程痛かったのか、腕に力を込めて、ダリルが上体を持ち上げた。ヴォルデモートの手とダリルの間でピンと張っていた髪が緩んだ。
ヴォルデモートが先ほどダリルの首を絞めた手で、その頭を撫ぜると、涙を貯めて、潤んでいた瞳が生意気に歪む。ぐいと髪を引っ張ると、びくりと体が震え、屈辱を宿していた瞳に怯えが戻ってきた。満足そうにヴォルデモートは微笑んだ。
「少なくとも、ヴォルデモート卿を目の前にしてその名前を呼び捨てるのは賢くないと僕は思うね」
「い、や」
ダリルの言葉を無視してヴォルデモートは語り続ける。
「闇の帝王か――そうだな、我が君とかでも面白いだろう。父親のように、僕のことを我が君って呼んでごらん」
「絶対に、嫌!」
ルシウスのことを持ち出され、ダリルは激しい拒絶を口にした。ヴォルデモートの赤い瞳が鋭くなる。髪を抜かれるか、また首を絞められるか――それでも我が君だなどとふざけたことを言うよりは、暴力でも何でも振るわれたほうがずっと良い。
しかし予想に反して、ヴォルデモートは手をあげなかった。それどころかダリルの髪から手を離し、立ちあがった。ダリルはホッとした。得たいのしれない男に痛い目を合わされるというのは、出来うる限り遠慮したい。
そう思ったのも束の間のことだった。ダリルは急に眠る直前のように思考がぐにゃりと歪んだのを理解した。ぼんやりと視界が遠のく。思考能力が完全に消え去ったわけではないが、プツンと全ての神経から切り離されてしまったかのように体が動かない。ヴォルデモートの顔を見たいと思ったが、ダリルの意思に反して、ダリルの額はヴォルデモートの靴のつま先に触れた。両手で彼の足に縋る。嫌だ。強く念じても体が動かない。唇が震える。駄目。嫌だ。絶対に嫌。言いたくない。唇から自分の声が零れた。
「わ――が、きみ」嫌だ。言いたくない。「我が君」言いたくなかった。
そう言い終えると、思考がクリアになった。ずるりと手が落ち、そのまま床の上に倒れ込む。指が動いた。
何故、何が起こったのだろう。ダリルが怯えていると、ヴォルデモートの手がダリルの頬を撫ぜた。指が顎を掴み、グイと上を向かせる。
「良く出来ました」
自分の目の前に膝をついたヴォルデモートの赤い瞳――ダリルを“人”として見ていない瞳が冷淡に笑っていた。
「無言呪文の一種だよ。尤も服従の呪文をそうやって使うのは僕以外に出来る人はいないし、それだって条件がいくつかあるけどね」
呆然と自分を見つめるダリルにヴォルデモートは言葉を続ける。
今はまだ完全に服従させる気はなかった。本気で唱えたのだったら、ダリルは自分の体が思うように動かないと感じることもなく、滑らかな響きで「我が君」と、ヴォルデモートを呼んだだろう。そうするよりも、辛うじて抵抗できる程度のものを掛けた方が躾になるということをヴォルデモートはよくよく理解していた。絶対にしたくなかったことを無理強いさせられた動揺と、幾度でもそれを繰り返すことが出来るという事実を突き付けられ、ダリルはぐったりと倒れ込んでいる。潔癖な少女を従順にさせるに十分有効な手段だった。
ヴォルデモートはダリルを労わるように穏やかな笑みを浮かべた。びくりとダリルの顔が強張る。瞳には恐怖と怯え、ヴォルデモートは何もかもが予想通りに進んでいるのを理解して、上機嫌だった。
「前年度に僕から服従の呪文に掛けられただろう? 一度術に掛けると、次からは楽に掛けることが出来る」
「良かった」
不意に予想外の希望をダリルが口にした。
ヴォルデモートの表情から笑みが抜け落ちたことにすら気付かず、ダリルは涙を零す。
「やっぱり、クィレル教授じゃなかった」
クィレルが己の意思でダリルを利用しようと思ったわけではなかった。ダリルへ服従の呪文を掛けたのはヴォルデモートだった。恐怖に支配されていたダリルの胸が温かくなった。何をされても決して零れなかった涙がダリルの頬を伝い、ヴォルデモートの指を濡らす。
「君を裏切っていた」
ヴォルデモートは冷ややかに断言した。ダリルは床に手をついて、身を起こそうとする。
パンとヴォルデモートの手を叩き落として、ダリルは赤い瞳を挑むように睨んだ。クィレルを死に追いやった男、ハリーの両親を殺した男、ルシウスに人を殺させる男――そして、蘇った暁にはドラコにもそれを強いるだろう悪魔。
「裏切られてなんて、ない!」
「全くもって愚かしいね」
ふんと鼻で笑うだけで、ヴォルデモートはダリルの反抗へ何をしようともしなかった。
沈黙が部屋を満たす。いつ何をされるか分からない緊張はあったものの、少しだけ思考を休めることが出来た。ヴォルデモートは何を考えているのか、ダリルをじっと見つめている。
「何の目的で、私の夢に? いいえ、そもそも何故レディに取りついているの」
ダリルは聞きたかったことを口にした。
「取りついているわけじゃないさ。レディは僕自身だ。僕、つまりヴォルデモートの記憶体がアニメーガスとして形を取っている」
「……そんなことは」無理だ。そう言おうとした瞬間思考が白み、シャボン玉が弾けるようにぱっと体の自由が戻ってきた。
「君はもう少し賢くなったほうが良い。たかが夢だけど、僕に逆らい続ければ植物人間になるだろうね」
何故、こんなに親切に手の内を見せてくれるのだろう。
ダリルは考えた。目ざわりならば殺してしまえば良い。植物人間になろうと構わないはずだ。そうしないのは――情が沸いた? それとも利用価値があるから? 前者のはずがない。たかだか一年程度一緒にいた相手へ親しみを抱けるのなら、人を殺せるはずがないし、そもそも首を絞めてくるはずもない。しかし利用価値があると見出したとして、自分の何が役に立つのだろうか。
ハーマイオニーの台詞を鵜呑みにするわけではないが、ダリルが最も秀でているところが何かと言えば顔ぐらいで、あとは学力も運動能力も並みといったところだ。天下のヴォルデモート卿様が利用したいと思う特技など、ダリルにはない。
そう考えると、利用価値があるというよりは、ダリルのことしか利用出来ないということだろう。ダリルは自分を見つめるヴォルデモートを見返した。嘘をついたら見抜けるようにと思ったのだが、開心術に長けたヴォルデモートにとっては可愛い警戒だ。
うっすら微笑むとダリルが身構える。
「君に関わる気になったのは暇だったからだよ。あと、夏季休暇中にルシウスの魔力をたっぷり貰ったしね。彼のお願いぐらいは叶えてあげようかなと、まあもう一年ほども前のことか」
何でもない風にヴォルデモートはそう呟いた。
嘘はないと思う。ダリルはヴォルデモートの台詞を脳内で反芻した、その思考すらヴォルデモートに知られているとも思わず、思案する。
「お父様のお願い……?」ダリルがヴォルデモートの台詞の一部をオウム返しに口ずさんだ。
「純血の魔法族として生まれた癖に、グリフィンドールなんて馬鹿の群れに飛び込んだ君のお守と監視」
ダリルを馬鹿にしたようにヴォルデモートがクツクツ喉を鳴らした。ヴォルデモートの指がダリルの首元へ伸びる。ダリルは体を強張らせて、来るだろう痛みに眉を寄せたが、ヴォルデモートが掴んだのはネクタイだった。
その時やっとダリルは自分が制服を着ていることに気付いた。グリフィンドール・カラーのネクタイをヴォルデモートが掴んでいた。
「勿論そうしろとは言わなかったけどね。あれは僕の下僕なのだし、幾ら記憶体とはいえ我が君に不遜な態度は取れない」
「下僕じゃないわ!」ダリルが叫んだ。「貴方はハリーに倒されたのよ。もう二度と蘇らない。だからお父様は死喰い人じゃ――」
グイとネクタイを引っ張られる。眼前で赤い闇が獰猛に蠢くのが見えた。ヴォルデモートがその整った容貌を憎しみで歪め、吐き捨てる。
「下僕だよ。僕の手足となって動く部下だ。道具と言っても良いね。僕のものだ」
ぞっとするほど残酷な響きで言いきったヴォルデモートにダリルが何も言えないで居ると、ヴォルデモートが優しく微笑んだ。ヴォルデモートの皮膚から放たれる温もりが頬に触れる。アンバランスな感覚、得体のしれない焦燥感。
ヴォルデモートがダリルの頭を撫ぜた。
「心配せずとも、無論君もそうだよ」
ダリルの唇に冷たい物が触れる。身を捩って逃げようとするダリルの後頭部を引きよせ、背後の壁に背を押しつける。自分の胸を押し返そうとするダリルの腕を掴んだ。唇を離すと、それまで息を止めていたダリルが荒い息を洩らした。羞恥よりも混乱のほうが強いらしく、目を白黒させている。「何を、わたし」言葉を放とうと開いた唇を塞ぎ、隙間から舌を入れる。びくりとダリルの肩が跳ねた。ようやっと自分が何をされているのか理解したらしく、触れている唇が熱くなった。頬が赤い。歯列をなぞり、割って入る。ちゅく、と水音が頭のなかで響いた。唇の脇から唾液が零れる。どれぐらい、そうやって唇を重ね合わせていただろう。ヴォルデモートがダリルを解放した時には、ダリルはもう抵抗する気力もなくぐったり壁に寄りかかっていた。懸命に呼吸を整えるダリルを見て、赤い瞳が笑う。
恋愛感情も、欲望もない、ただ自分の嫌がることをしたかったという、それだけの行為だ。ダリルは唇を噛んで、ヴォルデモートを睨みつける。元から迫力などないが、上気した頬に潤んだ瞳で睨まれても全く脅威は感じない。
「僕のものを生かすも殺すも僕の自由。だから死にたくなかったら、そのお喋りな口を噤んでいたほうがいい」
ダリルはゴシゴシと唇をこすった。所詮口づけのひとつだ。ヴォルデモートとキスしたよ! とか言えばナルシッサとルシウスが泣いて喜ぶだろう。否、嫌がらせの一種だから、然程喜びもしないか。嫌がらせでファーストキスを奪われるぐらいなら、ドラコかルシウスにあげてしまえば良かった。しかしファーストキスを大事にしろと言っていたのはナルシッサで、だからダリルが父親や兄の口にキスしようとすると酷く叱られたものだ。結婚は好きにさせないと断言したくせに、変なところでロマンを残すから、こんなことになる。
じわりと目じりに涙が貯まった。
「殺せば良いわ」
静かに呟くと、涙が一筋、頬を伝っていった。
こんな子供じみた嫌がらせしか出来ないほどに今のヴォルデモートは弱っている。何のためかは分からないが、自分が必要なのだ。磔の呪文ぐらいは使ってくるかもしれないが、殺すことは出来ない。ダリルはネクタイを握りしめて、言葉を続けた。
「貴方が私を殺しても、私が貴方のものだという証拠にはならない。貴方はクィレル教授に取りついて、支配しようとしていたけれど、完全には支配出来なかった。それとも貴方がクィレル教授に指図したのかしら? 私に手紙を残せとでも、それを貴方が許したの?」
体が震えた。恐怖ではない、怒りがふつふつと沸き上がってきたのだ。
クィレルを利用したのと同じように、ダリルのことも利用するのだろうか。しかし自分を利用するしかないと思っているのであれば、よっぽど困窮しているのだろう。ダリルはせせら笑った。憎悪が胸に満ちる。殺してやりたい。ダリルはそう強く思った。誰でも良い、ヴォルデモートを殺してくれ。この男さえ居なければ、ダリルは平和に暮らせる。グリフィンドール寮の友達と、何の衒いもなく笑いあい、素晴らしい未来へ胸をときめかせることが出来る。ルシウスが手を汚すことへ怯えなくて良い、ドラコのことを案じなくても良い。
ヴォルデモートさえ居なければ死と無関係に生きて行ける。
「貴方が好き勝手殺して飛び回っていたとしても、誰も貴方のものにはならないわよ、ヴォルデモート」
ダリルはブルーグレイの真っ直ぐな視線で、ヴォルデモートの瞳を覗きこんだ。
「私が誰のものかは、私が決めるわ」
ハッキリと拒絶の意思を示すダリルに、ヴォルデモートはゆるゆるとため息をついた。ダリルの首元に顔を埋める。「君は、僕が戻ってきたら、こちら側へ来ると言った」くぐもった響きにダリルは眉間にしわを寄せる。
ヴォルデモートがダリルの髪を手繰り、闇の中でもうっすら光を放つプラチナ・ブロンドに口づけを落とした。
「僕は蘇るよ。そして君は未来の僕の足元に跪いて、寵を乞うだろう」
パンとダリルはヴォルデモートの手を叩き落とし、すっくと立ち上がる。パンパンと髪を掃い、服からも埃を叩き落とした。
「目が覚めたら、真っ先に貴方を捨てるわ。魔力が足りないんでしょう」
「君が思っているほどじゃない」
ダリルはちょっと笑みを浮かべた。これでヴォルデモートが外で動き回るのは無理だということが判明した。些細な情報だと言うのに、ダリルは勝ち誇ったようにきらきらした瞳でヴォルデモートを見つめる。「でも足りないのは事実なのね」
許されざる呪文を使うには莫大な魔力を要する。幾らルシウスから貰って来たとは言え、二度も使っていれば――それもより多くの魔力を消費する無言呪文という形で――もう自我を保つことさえ難しいのではなかろうか。
ヴォルデモートはダリルの自信を鼻で笑った。
赤い瞳がぼやける。黒い部屋が石を投じられた水面のように揺らいでいく、ダリルは起きたら真っ直ぐダンブルドア校長のところへ行こうと決意した。未だに心を許しきることは出来ていないが、彼が知恵者であることは重々承知している。悪いようにはしないだろう。少なくともダリルがこのままレディを飼っているよりはずっと良い結果になるはずだ。
瞼をこじあけようとする朝日にダリルは喜ばしい気持ちになった。夢だ。もう二度と見ることのない悪夢。別れの朝を嬉しそうに待つダリルに、ヴォルデモートが手を伸ばす。掴めない。目覚めの時が近いのだ。
しかしヴォルデモートの最後の台詞だけはダリルの鼓膜をハッキリと揺らし、耳朶にこびりつく。
「双子の兄を守るための知識を得る機会を捨てようとするとは、流石グリフィンドール寮生だね。愚かしい」
負け台詞だ。ダンブルドア校長に事の次第を話すほうが、ずっとドラコを守ることへ繋がる。あの人は賢者だ。だから――『いつか罪が晴れる時がくる。クィレルはただヴォルデモートに利用されただけの被害者なのだと知れる時が来る』罪が晴れても、被害者なのだと知れても、死んでからでは意味がない。ダリルの胸が冷たくなる。薄れて行く夜のなかで、赤い瞳が笑った気がした。
目が覚めると、目の前に赤があった。ビクリと恐怖に体が震えたものの、その赤の正体はジニーの髪だった。ジニーがとび色の瞳に不安を滲ませてダリルに覆いかぶさっていた。「もう朝よ! 全然起きないから……如何したのかと思っちゃった」ダリルが目を開けたのに、瞳を潤ませて安堵の吐息を紡ぐ。ダリルはコクリと頷いた。ジニーに起こされるというのは、初めてだった。
変な夢を見てしまった。寝つきが悪かったから、悪夢を見たのだろう。ダリルはジニーへ笑いかけながらそれで何もかも終わらせてしまおうと思った。何もかも知らないふりをして、ただ蛇はやはり嫌いだからと、どこかへ捨ててこよう。
自分の横でとぐろを巻いているレディを睨んで置き上がると、ジニーが吃驚したような顔をしていた。
「ダリル、如何したの? 首に痣が……」
ベッドの横にある鏡を覗きこむ。白い首にどす黒い痣があった。レディのものではない。髪を持ち上げると、耳の下あたりに四本の細い線がある。「まるで――手、みたい」ダリルと一緒に鏡を覗きこんでいたジニーが怯えた様子で呟いた。
「変な夢を、見てしまったの」ダリルが上ずった声で呟く。「それで、きっと、自分でやってしまったんでしょう、ね」
痣はダリルの手よりもずっと大きい。ジニーはダリルの嘘に気付いたが、追及しようとはせず、「気を付けて」という注意だけを残して朝食へと駆けて行った。時刻はもう八時半だ。九時からの授業へ遅刻しないためには、朝食を抜かなければならない。ダリルはベッドから下りて、洋箪笥から制服とローブとネクタイを取り出した。そのまま暫し黙っていたが、覚悟を決めたように振り向く。
「――着替えるから、籠に入っていて。ガキの裸に興味はないんでしょう」
レディは鎌首をもたげて、その赤い目でダリルを見つめた。シュルと舌をちらつかせて、ベッドの向こうに置いてある籠の中へと入った。
捨てることは、いつでも出来る。
七年語り – CHAMBER OF SECRETS