七年語りCHAMBER OF SECRETS
23 思慮深き歯車の恋

 

「ああ、これ?」
 計画通りセドリックはダリルから視線を逸らして紙袋のほうを見る。手にとって、膝に乗せた。紙袋を開けると、甘い香りが漂う。セドリックが中から一切れのかぼちゃパイを取りだした。

「石以外食べれないって知らなかったから、君、去年もパーティ出てなかったろ? ホグワーツのかぼちゃパイは絶品なんだ……って、余計なお世話だったね。石でも拾ってくれば良かった」セドリックがちょっと冗談めかして言うので、ダリルは笑った。
「そのぐらい大丈夫よって言いたくて堪らないけど、またスネイプ教授の怒り狂う姿を見るのは楽しくないわね」
 クスクス笑っていると、段々セドリックの顔が申し訳なさそうなものになってきた。身を乗り出して、セドリックの耳に囁く。(マダム・ポンフリーに見つかったら大変よ)セドリックが顔を顰めた。「道理で君のサイドテーブルの上が糞爆弾だらけなわけだ」ダリルが笑うと、セドリックが変な顔をして、コンと自分の額を叩いた。(如何したの?)「いや……ちょっと、耳から顔を離してくれない?」
 セドリックの頬がちょっと赤くなっていた。多分くすぐったかったのだろう。ダリルは素直に身を引いた。耳元で話せない代わりに、声を潜める。「折角だから、セドリックが食べて頂戴」そう言って、ダリルはにっこり笑った。
 去年のハロウィンはクィレルと共に過ごせたが、それだって結局一人でノートを作るだけと言って相違ないものだった。それから比べると例え自分で食べることが出来ずとも、友達がかぼちゃパイを頬張るのを見れるのは十分素晴らしい。
「絶品のかぼちゃパイを食べれないのは残念だけど、それを美味しそうに食べる友達が横にいるって思うと俄然素敵よ」
「分かった。ジョンからはお前は物を不味そうに食う天才だって言われてるけど、頑張るよ」
 真剣にそんな事を言うので、ダリルは吹き出した。陽気な友達の横で考え事に耽るあまりムッツリと食事をするセドリックの姿が鮮明に浮かんだ。いつもはこんなに親切で人当たりが良いのに、何か思案していると不機嫌そうに見えるのはとても不思議だった。

 セドリックはパイを掴むと、もぐと頬張る。何とか美味しく食べている事を示そうと思っているのだろうが、顰めつらになっていた。ダリルは肩を揺らして笑う。「普通に食べて!」くっくと喉を鳴らす。「でなきゃ、貴方が食べ終わるまでに、私、死んじゃう!」
「……そこまで言われたのは初めてだ」
 かぼちゃパイを食べる手を休めたセドリックが不機嫌そうな声を出すので、ダリルは可笑しくなる一方だった。
「駄目、きっと今日が命日だわ」
 華奢な笑みを洩らして笑うダリルに、セドリックは残りのかぼちゃパイを全部口に押し込んだ。
「食べ終わったよ! さあ、もう死ぬ危険はないだろう?」断固とした響きで告げるセドリックの口端にカボチャのクリームが残っていて、ダリルは苦しくなるぐらい笑った。教えてやろうと思ったが、いつも大人っぽいセドリックがそうしているのが面白くて、ダリルは指摘しないでいることにした。この姿をセドリックの友達に見せて、反応が見たい。
「来年は絶対に皆と一緒に食べなくっちゃね」笑いすぎで荒れた息を整えながら、ダリルが目じりを拭った。
「僕とも?」
 セドリックはすっかり拗ねてしまっている。そりゃ折角の好意を断わられたうえに、ケラケラ笑われては拗ねもするというものだ。ダリルはクスクス笑いながら幾度も頷いた。
「ハッフルパフのネクタイを貰っておかないと」セドリックの胸元にある黄と黒のネクタイを掴んだ。刹那、ダリルの耳元で赤い瞳が笑う。
『僕のものだ』

 望んでいない口づけが降ってくる。ダリルを服従させよう、隷属させよう、従順にしようと伸ばされる指。
『僕のものを生かすも殺すも僕の自由』
 生まれた時からそうなのだと言う。ダリルがルシウスの娘として生れた瞬間から、ダリルはヴォルデモートのものなのだと、彼へ忠誠を誓わなくてはならないのだと、我が君と呼ばせられた。足に縋らせられた。いずれダリルの意思でそうするだろうと言った。
『下僕だよ。僕の手足となって動く部下だ。道具と言っても良いね。僕のものだ』
 ダリルはセドリックのネクタイを掴んだまま、動けないで居た。ヴォルデモートの指が今も首筋に触れているような気がする。否実際触れているのかもしれない。ヴォルデモートにとってダリルを意のまま繰ることなど簡単なことなのだ。ダリルの指で腕で人を殺させることも、ダリルを己へ従わせることも、全ては赤子の手を捻るよりも容易く、そして大した意味合いのないことなのだろう。ダリルのことを己に使われるために生まれてきたと思っている男がいる。ダリルが何か感じて生きているなどと露ほどにも思わない男がいる。

 ヴォルデモートはダリルのことを犬か猫程度にしか思っていない。

「ダリル?」
 セドリックは急に黙りこんだダリルの表情を伺って、彼女の額へ手を伸ばそうとした。不意にグイとネクタイを引っ張られる。ダリルのブルーグレイの瞳が目の前にあった。唇に柔らかな温もりが触れていて、その正体に気付いた途端セドリックは動けなくなってしまった。ダリルは目を閉じもせずセドリックの唇に自身のものを重ね、唇を離す直前にぺろっとセドリックの唇を舐めていった。
「御馳走様」セドリックのネクタイから手を離すとダリルはケロリと口にした。
 ダリルが身を引くと、セドリックの顔が真っ赤になる。パクパクと二度三度物言いたげに口を開いたが、結局言葉にはならなかった。
 動揺するセドリックの存在など丸きり無視して、ダリルが虚空を睨んだ。
「ファースト・キスの相手ぐらい自分で選ぶわ。男からされるのを待っているなんて真っ平」キッパリと断言する。
 私は犬でも猫でもない。増してや道具でもなければ、下僕でもない。ヴォルデモートの手足でもない。「誰のものかは、私が決める」

「……そ、う。で、僕は、僕に何であんな事したかぐらい聞く権利があるんじゃない?」
「かぼちゃパイを食べていたからよ」
 疲労しきった様子で、まだ赤い顔を押さえているセドリックにダリルはさらりと呟いた。
「あんまりに、理不尽だ」セドリックは途切れ途切れ呻いた。それを目にしてもダリルは全く申し訳なさそうにする気配がない。
「良いじゃない。どうせ貴方、もう十四にもなっていればファースト・キスなんて遥か過去に捨て去っているでしょう。ちょっとぐらい私の思い出直しに付き合って頂戴」ダリルはいけしゃあしゃあと言い放った。人間、人へ唐突にキスしておいて、これだけ悪気なく居られるものなのだろうか。少なくともセドリックの周囲にはキスしたされたで一週間ぐらい動揺し続ける人間ばかりだ。
 セドリックはどこから突っ込めばいいのか分からなくなってしまった。
「あ――その」セドリックは更に顔を赤くした。「こないだ十五になった」確かについこの間誕生日を迎えたばかりだったが、それを言いたいわけではない。今のセドリックをダリル以外の人が見れば、人が此処まで赤くなれるものかと感心しただろう。「それで……つまり、その……ええと」蚊の泣くような声で続きを口にした。「今のが、ファースト・キスだった」
「まあ!」ダリルが吃驚するので、セドリックは赤い顔を手で覆ったが、ダリルが食いついたのは別の話題だった。ダリルがぱっとセドリックの手を取る。「誕生日おめでとう!!」その一言でセドリックは全ての羞恥を忘れて、吹き出した。
「ああ! どうして、もっと早く聞いておかなかったのかしら……! ちょっと遅いけど、絶対にカードか何か送るわね」
 はしゃいだ声で言うダリルにセドリックはクツクツ笑った。
 人に突然キスをしておいて、言い訳は目の前で物を食べていたからというそれだけで、全く悪びれる様子もない。セドリックのファースト・キスの相手が自分だったということよりも、セドリックの誕生日がもう過ぎていることを気にしている。

「そうだ。セドリック、何か欲しいものない?」
 天使のような純真さを振りまくダリルの唇へ、セドリックは口づけた。一瞬だけ触れて、あっという間に離れていく。掠めるようなキスだった。ダリルはきょとんとしている。その様子にまた顔が赤くなった。
「ええと、その、これでいい」言い訳するようにセドリックがもごもご呟いた。
「キスの練習相手になれってこと? それって素敵ね! ロックハートの「バンパイアとバッチリ船旅」読んだ? それに出てくる女スパイがロックハートにキスのお相手になってくださらない? ってしなだれかかるんだけど、ロックハートは彼女がスパイだって見抜くのよ」
「誰だって見抜くよ」
 セドリックは憮然と言い返した。

 果たしてダリルはキスの意味を理解しているのだろうか。セドリックは不安になってきた。ダリルはスキンシップを好むし、フレッドとジョージに思いっきり抱きついているのもよく見かける。ハーマイオニーに至っては、最早恋人同士なのではないかと思うほどに、イチャついている。主にダリルが彼女を膝の上に乗せようとして嫌がられていたり、後ろからのしかかってハーマイオニーの髪を弄っていたり。しかし彼女のスキンシップが過激になるのは何もハーマイオニーに対してのみではない。これもそういうことなのだろうか。ひょっとしてセドリックが知らないだけで、ぽんぽん人とキスをしているのか。セドリックはダリルの貞操観念に疑惑を抱いた。
「私は女スパイではないわよ」
 セドリックの思考など知るよしもないダリルは彼の胸に指を付きつけて宣言した。そうして首を傾げる。「キスの練習相手じゃないってことは、ベゾアール石が食べたかったの? 一つあげるわよ」
「いや――だから、その」
 鞄の中をまさぐろうとするダリルの手を止める。
「僕、さっき、君の気まぐれが初めてだった」
「いつも言うじゃない。こんなにハチャメチャな知り合い初めてだって」
 ダリルはケラケラ笑った。しかしセドリックは全く笑っていなかった。それで、ダリルはようやっと事の次第に気付いた。まさか。へらへら笑っていたダリルの顔も強張る。
「だから、つまり……ファースト・キスだった」
 気まずい沈黙がみるみる広がっていく。セドリックは年下の少女にファースト・キスを奪われた挙句、十五にもなって未経験だった事実を恥じていた。ダリルは人のファースト・キスを思いつきと衝動で奪ってしまった事を恥じていた。
 二人して真っ赤になる。

 どれぐらい黙っていただろう。唐突に、ダリルが覚悟を決めたように「うん」と零した。
 勇敢にもセドリックに「あのね」と話しかける。しかし勇気はそこで潰えてしまった。「その――犬に噛まれたと思ったら、」セドリックと目が合い、ダリルがどもる。「あ、案外忘れるものよ?」
「いや、ええと、別に忘れなくて構わないけど、僕は一応男だから、受け身のまま“始めて”を失うというのも、ちょっと悲しくない?」
 セドリックがしどろもどろ言うと、ダリルの顔からさっと赤みが引いた。真剣な顔で、考え込む。
「つまり男としての矜持を保つために、私がセドリックにキスすることで“これをファースト・キスということにしよう”と思ったのを無かったことにして、今のを自分のファースト・キスにしたいということ? なんだかこんがらがってきちゃったわ」
 事態を更に混乱させたいのか、本当にこんがらがっているのか、ダリルは滅茶苦茶な台詞を口にすると共に額を手で押さえた。
「ダリル、僕にキスしたのを自分のファースト・キスにするって言ってたよね?」
「ええ、言ったわ。あんなの犬にベロベロ舐められるのと一緒だもの!」ダリルは酷く嫌そうに頷いた。
 “あんなの”が何かは考えないことにして、セドリックは己の考えを口にすることへ集中する。
「だから、ええと、さっきの全部無かったことにして、僕とダリルで、ファースト・キスをやり直さないかい」

 言い終えてから、はっと思いだした。
『男からされるのを待っているなんて真っ平』
 その台詞から推し量るに相手からキスされるのは嫌なのだろう。となればダリルの目的・願望はセドリックの提案と根本的に食い違うことになる。「あー、あ、その、君は自分からしたいんだっけ? そしたら……」
「良いわ」
 目を白黒させるセドリックにダリルは承諾の返事を口にした。
「しましょう。でも誕生日のカードは送るわよ。私の誕生日にも欲しいもの」
「勿論送るよ」
 セドリックは急いた口調でダリルの誕生日を祝う事を彼女に約束した。ダリルがにっこり笑う。

「でも構わないの? 結局僕が押し切ったというか、その、犬に噛まれたのと変わらないんじゃ……」先ほど『犬にベロベロ舐められるのと一緒!』と断言した時のダリルの顔を思い出しながら、セドリックが恐る恐る聞いた。
「ちっとも」
 ダリルはセドリックが何を恐れているのか分からないと言いたげな顔で否定する。

 ふっと大人びた顔をした。無邪気でも、脆そうでもない、しっかりした意思の込められたものだ。
「私も今、セドリックと話してて気づいたんだけどね。“選ぶ”のは物事を進めて行くことじゃないのね。その場に停滞することを望むのも選択の一つで、そう考えると、男の子達のキスを待つ女の子ってのも随分幸せなんでしょうね」
「……君は色んな事を考えるね」
 ついさっきまで子猫のように甘えていたかと思えば、少年のような気まぐれを見せたり、少女として恥ずかしがったり、背伸びをしてみたりする。年下の女の子だなと思っていたのに、急に自分よりも大人びた口を聞いたり、自分と同じ人間なのだとは思えないほど無邪気な顔をして、水のように掴みどころがない態度を取り、光のようにキラキラした瞳で、天使のような無垢を口遊ぶ。
「私って纏まらない内に思いつきで言ってしまうから、セドリックの相槌や言葉に随分助けられているのよ」
 そう言ってダリルは眩しいものでも見るようにセドリックの瞳を見詰めた。

 ダリルは酷く遠いところから、あっという間にセドリックの傍に戻ってくる。

 セドリックはダリルの言葉に苦笑を浮かべた。そしてガラス細工に触れるより注意深くダリルの肩に手を置く。
「キスってどうやって待てばいいの? 目を瞑るの? 口は……勿論半開きじゃ駄目よね?」ダリルが首を傾げて問うた。
「僕も君に聞きたいぐらいなんだけど」セドリックは切迫した響きで答える。
 二人して吹き出した。

「さっきは結構スムーズだったと思うわ」
 ダリルはキスの先輩として――尤も経験は犬ことヴォルデモートを含めても三回ぐらいなのだが、二回のセドリックよりは多いだろう――セドリックに自信を持たせようと、鷹揚に誉めた。セドリックは眉を寄せて、頬を染めている。
「改まると、如何してもね……」
「やっぱり私から」しましょうか? その言葉を遮って、飲み込むようにセドリックの唇が落ちてきた。セドリックが背に手を回す。ダリルは黙ってセドリックに身を委ねていた。間近に迫るセドリックの顔をじっと観察する。セドリックは目を瞑っていた。灰色の瞳は見えない。まつ毛が長いなとダリルは思った。セドリックの腕がダリルを抱き寄せる。ダリルはセドリックの胸に腕を添わせた。
 一秒、二秒、三秒、少し唇が離れて、二人して短く息を吸い、またセドリックがダリルの唇を貪る。それを数度繰り返し、ダリルはセドリックのまつ毛の本数まで数え終わってしまった。まつ毛も長いが、キスも長い。ダリルはそんなことを思って、ペロっとセドリックの唇を舐めてみた。途端にセドリックがダリルから手を離して身を引いた。殆ど飛び退るのと同じ速度だ。口を手で押さえて、顔を赤くしていた。
 一体如何したのだとダリルが首を傾げる。
「そ、っれは……何か違うと思う」
「こういうものじゃないの?」
 ヴォルデモートは舌をねじ込んできた。そこまでやってキスなのだろうとダリルは思ったが、セドリックはぶんぶん首を振った。そうしてから、ふと酷く嫌そうな顔をする。

「犬には口舐められただけ? その……何か、他にされたりとかは」
 セドリックはダリルが図書館で男子学生に絡まれていた時のことを思い出した。ダリルは「皆、私が自分の掘った落とし穴にはまったって知ると逃げていくわ」と言っていたものの、一部のスリザリン生にカルト的人気があるのをセドリックは知っている。フレッド達が冗談で呼びだしたミス・スリザリンという呼び名を彼らは好意的に呼び、高貴な血を引く美少女だと、あたかも血統書付の犬のことでも話しているかの如くダリルを持て囃す。闇の魔術に対する防衛術の参考にと、奥の書棚――闇の魔術の入門書が揃っている付近へ近づくとダリルのことを話す声がよく聞こえたものだ。ダリルがスクイブと知れてからは近寄ってないので、今彼らが如何思っているのかは知れないが、丸きり好意的なだけではないだろう。それに、ただでさえダリルは勝気な物言いで敵を作りやすい傾向にある。ハリー達と行動するようになって安全だとは言え、一人でふらふら出歩いて何かに巻き込まれたりしている可能性というのも十分にあった。
 急に咎めるような顔をするセドリックに、ダリルが首を捻った。
「え――ええ、そうよ」
 ダリルは反射的に喉に巻いた包帯へ触れそうになったが、セドリックは気付かなかったようだ。
「あまり一人でフラフラしないようにね」
「ええと、気を付けるわ」
 セドリックの唐突な注意にダリルは何が何だか分からないと言いたげな顔をした。

 また、ちょっと無音になる。

「その」
 会話を切りだしたのはセドリックだった。ちょっとウトウトしていたダリルはぱっとセドリックの灰色の目を見つめる。セドリックは困惑しきったように、「あの」とか「ええと」とか「その」ともごもご繰り返していた。
「これからも、時々、して良いの?」
「駄目よ」
 セドリックが懸命に紡いだ問いへダリルはサラっと否定の言葉を返した。

「だって恋人同士じゃないもの」へらっと笑う。
「ちょっと待ってくれ」反対にセドリックの表情が厳しくなった。「普通キスって、そういう仲の者同士がやるんじゃあ」
「普通はね。でも、これって私の気まぐれが発端だもの。小さい頃に済ましておかなかった通過儀礼を果たさなかったから今果たしたの」
 恐れていたことが現実になってしまった。セドリックはこれ以上は無理だと言うほどに顔を引き攣らせた。もしもセドリックが紳士的でなければ「君の貞操観念は如何なってるんだい」ぐらい言っただろう。しかしセドリックは忍耐強かった。
「でも――」何とか相互理解を深めようと決心したセドリックへ、ダリルは碌でもないフォローをする。
「それにスリザリン寮生以外の恋人を作ったら、私今度こそ勘当されるわ」
 それはあんまりではなかろうか。セドリックはダリルが何を考えて生きているのか、つくづく分からなくなってしまった。確かにダリルは気まぐれではあるものの、ファースト・キスの重要性は分かっているようだし、セドリックがそれを「良いだろうか」と伺いを立てれば、構わないと頷いた。そして“あんなの”とは違うとハッキリ断言した。無かったことにはしないし、これから忘れる気もないだろう。それって要するに「男女の仲になりますよ」と宣言したのと同じことなのではなかろうか。違うんだろうか。自分の価値観が可笑しいんだろうか。あんまりにダリルが堂々としているので、セドリックは分からなくなってきた。散々弄ばれた結果捨てられたような気分すらあった。
 移り気で浮気性な友人に会ったら、今度一発殴ろう。ダリルへ手荒に出来ない分、厳しく叱ろう。セドリックはぼんやり逃避した。
「君、じゃあこのまま友達だけ作って、学校を卒業したら親の決めた相手と結婚するだけの人生を?」
 今時信じられない。セドリックがぼやいた。
「んー」
 てっきり「そうね! だってそっちのほうが安定した生活が送れるもの」ぐらい言うかと思ったのに、ダリルは首を傾げて、セドリックをじっと見ている。悪意の全くない綺麗な瞳がキラっと光った。「絶対にそうしなくても、良いのかなあってセドリックといると少し思うわ」
 風向きが変わってきた。

 ダリルは真剣な顔をして、ゆっくり言葉を選び、音にしていった。
「私ね、今までずーっと一つ選んだら他は全部駄目なんだって思ってたの。だけどセドリックは、なんか、うーん、そうじゃないんだよっていう感じのことを思わせてくれるというか……何か他の道があるんじゃないかって思わせてくれるの」
 友達を選んだら家族を諦めなければならない。家族を選んだら友達を裏切らなくてはならない。ダリルは常にそう思って来たし、今だって全く思っていないわけではない。どちらかを選べば必ずダリルは板挟みになる。それがずっと怖くて、いつも自分は中途半端だと思っていた。どちらかを選べない自分は臆病者だとさえ思ったりした。だけど、「停滞も、一つの選択よね……」ダリルはぽつんと零した。
「待つことや、黙っていることや、選ばないで居ることを選ぶのも、きちんとしたことだわ。大事なのは考え続けることよね」
 ダリルの台詞に、セドリックはダンブルドアの台詞を思いだした。
『“思う”というのは、まず物事の初めに必要なことじゃよ』
 思えば、ダリルは今まで一度たりともハッフルパフを見下すような素振りを見せなかった。それどころか良いものだと焦がれる台詞すら口にした。常にダリルは自分の考えを口に出して、相手と対等でいようとしている。

 ダリルは色々な考えを頭に巡らせた。許してくれと遺して死んでいったクィレル、助けられなかった恩師。自分に好意を示して寄ってきてくれたユニコーン達。父親が殺しただろう人々のこと、関わっただろう多くの事件――これからの未来。
「……考えるのを止めないで頑張ってれば、幸福になれるわよね?」ダリルは声を震わせた。「なっても良いわよね?」
 この世界には光の中で幸福になれない種類の生き物がいる。それでも夜を恐れ、朝に焦がれる異端がある。苛烈な朝の光や、長い昼を耐えることが出来ずとも、僅かな夕暮れに身を寄せて生きていくことが出来るだろうか。
「勿論、僕はそう思う」
 セドリックはダリルの手に触れた。
「そしたら、私、恋もしてみたいわ」ダリルが微笑んだ。「フレッドとジョージのご両親みたいに、好きになった人と結婚して、グリフィンドール寮の友達と会うのも禁じられなくて、私の事を綺麗なだけの馬鹿な人形だって思わないでくれて、私も相手のことを凄く尊敬出来て、この人のためなら何もかも失っても大丈夫だって相手と恋がしたいわ」夢見る瞳が宙に溶けていった。

 少女達が日々さりげなく口にする夢をダリルは崇めるように口にする。ダリルが恋を語ると、それは酷く神聖なものに聞こえた。
「失ってもって、諦めるわけじゃないのよ」話に聞き入っていたセドリックへ、ダリルは慌てて注釈する。
「うん」セドリックは頷いた。やんわりと微笑む。「君が言い終わるまで待ってるよ」
 セドリックの台詞にダリルはほっとした表情を見せた。ちょっと黙ってから、そろりそろり、丁寧に言葉を紡ぎ出す。
「私は凄く弱虫で、怖くなると諦めてしまうような性格だから、グリフィンドール寮生の癖に全然勇気なんてないの。無謀なだけ」
「そんなことない。ちゃんと勇気があると僕は思うよ」セドリックはダリルの台詞に吃驚して、思わず反論してしまった。「君は失ったもののために、声を張り上げて泣くことが出来る」クィレルの死に人目も気にせず己の痛みを訴えていたダリルを思いだす。
 あの時はセドリックのことを見ようともしなかったダリルが、今はセドリックを見て、セドリックのためだけに話している。不思議だった。そう思ったのはダリルも同様だったらしい。セドリックの台詞にちょっと首を傾げると、困ったように苦笑する。
「セドリックだって同じようにするわよ」
 ダリルは何でもない風に、ケロリとそう口にした。
「例えば私が死んだら、悲しんでくれるでしょう? 私と同じように悲しむと思うわ」ちょっとダリルが誇らしげな顔をする。セドリックの手を握り返した。「私達“出会ってる”もの」
『不運だよ。言葉が通じているのに、ちょっとした行き違いから相手を理解出来ず、自分も理解されない』
 セドリックとダリルは言葉が通じていて、そして相手を理解しようと、ちょっとずつでも語らいを続けている。それでダリルは「自分は貴方を理解しているし、貴方も私を理解しているでしょう」と、寮杯でも手にしたかのように誇らしげな顔で言うのだ。
 それを幸運と言わずに、何を幸運と呼べばいいのだろう。
「……君は、本当に」セドリックはそう呟いて、ダリルの手を強く握った。
 自分の言葉の一つ一つでダリルが変わっていくのが分かる。そしてダリルもそれを求めていて、セドリックも手助けしてやりたい。自分の手がなくともダリルは歩き出すことが出来る。しかし、共にいたいと思う。いずれ素晴らしい女性になるだろうとセドリックは思った。
 彼女と恋をしたら幸せになれるだろう。ダリルはセドリックの弱さを素晴らしいものだと言ってくれる。停滞しがちなセドリックの手を引いてくれる。何よりも留まることも、黙することも、選ばないことも一つの勇気で、選択なのだと笑う。

 出会ったころは気にかかるだけで、彼女の恋愛の相手になりたいとは全く思っていなかった。自分よりちょっと下にみていたかもしれない。可愛そうで、守ってやらなければならない不安そうな少女。瞳の奥にはいつも怯えがあって、守るのが義務だとさえ感じていた。
 なのに気がつけば逞しくなっていて、こんな少女だったのかとゲンナリしたり、奔放さにドキドキしたり、時々瞳を過ぎるかつての不安へ心が乱されたりする。泣いていたと思ったらすぐに笑って、おしとやかなのかなと思ったら、乱暴な事を言う。
 セドリックはダリルのような少女を他に知らない。こんなに人の心を乱す少女が、他に、どこにいるというのだろうか。

 言葉を途中で切り、黙ってしまったセドリックへダリルは言葉を続ける。
「そのね、私は弱虫だから、半端な気持ちで誰かと付き合ったら裏切ってしまうと思うの……」
 何も貞操観念がないわけではない。だから、そういうことをしたなら、きちんと付き合うべきなのかなとも、チラと思った。それでも今は、それを家に知られたら如何しようとか、お父様が何て言うだろうとか、そういう気持ちのほうが強い。まだ無理だとダリルは思った。
「婚約者がその内出来るって分かってるのに、軽い気持ちで誰かと付き合いたくないわ。付き合うんだったら、その人の為に家も全部捨てられる覚悟が出来てから、家と向き合って、きちんと問題を片していきたいの」
「――君が裏切られるかもしれない」
 セドリックの台詞にダリルは笑った。何だ、そんなこと? 己の裏切りを語った時の重さとは真逆の軽い笑い方。
「構わないわ。相手へ無理を強いるのは、裏切ることよりもずっと嫌だもの。私と別れることで幸せになってくれるなら、私は裏切られたって思わない。一時でも私の想いに応えてくれたなら、私は裏切られたりなんてしない」
 苛烈な響きだった。瞳のなかに激しい炎を燃やして、ダリルが言いきった。

「大事な人が幸せになってくれるなら、腕がなくなっても、足がなくなっても、死んでも良いわ」

『対象の悪事に左右されぬ愛情というのは時に身を滅ぼす』
 ダリルを傷つけることが出来るのは愛情だけなのだろう。自分の与える感情も愛情も、何もかも、裏切られるとは考えることすらなく、己が傷つくことを恐れない。ひたむきに愛し続け、信頼し続け、だから脆いところがあるのだ。
 我儘で、気が強くて、冷淡で、人を気軽に傷つけるダリル。美しいのに、性格は欠点だらけねと言われることの多い少女。それでもセドリックはダリルの我儘も、気の強さも、冷淡さも、人を傷つけるところも好きなのだ。何をしても、ダリルはセドリックが求めればきちんと説明してくれるだろう。セドリックが理解するまで説明を諦めはしないし、又セドリックを理解するまで質問を止めはしないだろう。
 この儚い美貌の裏に隠された激情と、勝気な瞳の奥の弱い少女へセドリックは強い尊敬の念を抱いた。

 人を愛することは世界で一番尊く、美しく、幸福で、勇敢なことだ。

 セドリックは屈んで、ダリルの手に口づけた。
「君は僕の知りうる人のなかで、一番勇敢だ。――これまでも、これからも、君より勇敢な人は僕の前に現れないだろう」
 その称賛を受けて、ダリルがはにかむように微笑んだ。
「私も、貴方ほど誠実な人がいるなんてホグワーツに来るまでちっとも思ったことなかったわ」
 そうして、そっと付け足した。
「……私の前にも、きっと、貴方のような人は二度と現れないでしょうね」
 優しい人。ダリルの言葉へきちんと耳を傾けてくれる人。誠実で、真っ直ぐで、スリザリン家系で育ったダリルにとって半ば愚かなぐらい素直で、嘘を吐くのが下手な人だった。付こうと思えば上手に嘘をつけるダリルとは違う。セドリックは本当に嘘を付けないのだ。
 ハリーやハーマイオニー、フレッドやジョージとは全然違う。ハッと心を付き動かしたり、悲しみを吹きとばしたりすることは出来ないけれど、人が悲しみから立ち直るまで傍にいることが出来る人だった。人の言動にぎょっとしたり、めまいを起こしたりで、気が弱いところもあるが、根気強く諭したり、長く長く付き合っていくことが出来る。とても善良な人だ。自分と何一つ同じところがない、誠実な人。
 ダリルは自分がどんなに嫌な奴か分かっている。ロンの言う事も尤もだ。ハーマイオニーを傷つけたことがあるし、フレッドとジョージのからかいをからかいと思う余裕すらなく、無知で、愚かで、偽善的な性格をしている。本当のダリルはそういう醜い少女だ。フェンリル狼よりも貪欲で、醜い。ちっとも綺麗などではない。いつも劣等感に苛まれていて、多くのものに嫉妬して生きている。
 セドリックはそんなダリルのことをまるでフェンリル狼のように醜いんだなと優しく笑ってくれた。

 現実逃避のロマンスは要らない。地に足をつけて、きちんと一緒に歩いていける人と、世界で一番しゃんとした恋愛をしたかった。ヴォルデモートが蘇る不安を隠さなくて済む恋愛。苦痛も不安も恐怖も全て受け止めあえるような、そんなものを望んだ。

「夢を、見るの」
 ダリルの言葉にセドリックは顔をあげた。ブルーグレイの瞳に不安を宿して、ダリルが恐怖を紡いでいる。「人を殺してしまうから、寝ると、私、私で無くなってしまう気がするの」クマの上を涙が零れていく。
「私のことを裏切っていないのに、悔いていたわ。私も同じになってしまう。眠るのが怖いの。誰かを損ねてしまうのが、」
 文章として成り立っていない羅列を口遊ぶ。
「私、物じゃない。道具じゃない。生まれた、ときから」
 魔法の使えない娘。純血思想に染まることも出来ず、家族を憎むことも出来ず、自分がどう生きるべきなのか常に悩んでいた。手を引いてくれといつも望んできた。誰か繋ぎとめてと縋り続けてきた。生まれた理由をいつも探してた。それでも人を殺すために生まれてきたわけではない。ヴォルデモートの配下になるという、そんなことのために生まれてきて、今まで暮らしてきたわけではなかった。
『僕は蘇るよ』
 夜よりも深く、無音よりも暗い声音が、ダリルの記憶から囁いていた。
 予言は成就するだろう。やがてヴォルデモートは魔法界へ戻り、闇が空を覆う。暗い時代がやってくる。

「眠るまで傍にいるよ」
 セドリックはダリルを慰めるように呟いた。

「君が人を殺さないよう、見張ってるから、眠りなよ」ちょっとからかってから、セドリックは少し考え込んだ。「……君は誰のことも裏切れやしない」困ったものを見つめるように、灰の瞳がダリルを見守っていた。
 その台詞に、ふっと張りつめていたものが緩んだ。靄が思考を覆う。しかし指先を握る温もりが恐怖を和らげた。ダリルはセドリックの手をぎゅっと握り、その温もりを幻ではないと何度も己に言い聞かせながら、やがて眠りに落ちて行った。

 夢に出てきたのは明るい陽光。赤い車体と、それを囲む大勢の人々、窓から身を乗り出し別れを告げるあどけない少年少女達。ホグワーツ特急だ。ダリルは重たいトランクを持っていて、一人で列車に上がることが出来ない。ドラコへの不満と孤独と恐怖が胸を締め付ける。余裕は何処にもなかった。馬鹿にされることを恐れる醜く弱い少女がそこにいた。大丈夫? 緑色の光。差し出された手。ハリー。再会を望んだ。彼と親しくなることを望んだ。彼の為にダリルはグリフィンドールを選んだ。そうしてフレッド、ジョージに出会った。アンジェリーナ、アリシア、リーに出会った。ハーマイオニーに出会った。ロンに出会った。ネビルと、シェーマス、ディーン、多くのグリフィンドール寮生と出会った。セドリックと出会った。彼の友達とも親しくなった。
 ハリーの為にグリフィンドールに入り、そしてハリーに導かれてダリルはここまでやってきた。ハリーはダリルの光だった。勇気の象徴だった。彼を見ていて、ダリルは自分の足で歩いて、進んでいきたいと思うようになった。いつも大切な出会いの影にはハリーがいた。ハリーと喧嘩して図書室を出た時に、ダリルはフレッドとジョージにぶつかった。ハリーとロンがハーマイオニーの悪口を言っていたから、ダリルはハーマイオニーへ素直に自分の気持ちを伝えられた。ドラコと和解したのだって、ハリーからの手紙が理由だった。
 いつもハリーはダリルへ良いものをもたらしてくれる。
 ヴォルデモートを倒したからなどではなく、彼が例え単なる一人の少年だったとしてもダリルはハリーを尊敬しただろう。
 ハリーは光だった。正義のヒーローで、英雄だった。幾度ヴォルデモートが蘇っても彼が倒す。そして、それでどんな結果が出ようとも自分は一人ではないだろう。それでダリルが全てを手ひどく裏切ることになろうと、きっとセドリックはダリルの隣で叱ったり、顰めつらしたりしているだろう。セドリックはそういう青年だ。愚直で、一度肩入れしたものに傷つけられても見捨てることは出来ない。彼はハッフルパフ寮生だから、そしてダリルの知りうる中で誰よりも誠実だから、多分大丈夫だ。ダリルは一人にならない。
 誰も裏切らない。誰もダリルを裏切れない。ダリルは自由だ。

 ダリルは繰り人形でも愛玩人形でもない、自分で考えて、人と繋がることの出来る一人の人間だった。
 

思慮深き歯車の恋

 
 


七年語りCHAMBER OF SECRETS