七年語り – CHAMBER OF SECRETS
25 闇を照らす明かり
お願い、傍にいて――ジニーの懇願を思いだし、ダリルは一体何がこの少女を追い詰めるのかと首を傾げた。
幼子のようにダリルの温もりを求めるジニーは愛しいというよりも、痛ましく見える。ダリルはジニーのためにも、一刻も早く事件の全貌を知りたいと思った。夏に会った時は気丈だったジニーはすっかり滅入っていて、ハリーのことさえ気にしていられないようだ。
ダリルはゆるゆると細くなっていくとび色の瞳へ優しく微笑みかけ、ジニーの胸が穏やかな上下運動を始めるまで、その手のひらを握っていた。布団を掛け直し、ジニーの額に口づけを落とす。「ママ……」ぽつんと華奢な響きがジニーの唇から零れた。
「お休みなさい、ジニー」ダリルはジニーの赤い髪を手櫛で梳いて、頭を撫ぜた。「優しいお母様の夢をね」そっと離れる。一歩、ジニーは眠っている。二歩、ジニーの瞳は閉じたままだ。躊躇いがちに擦れ合っていた衣がしゃらしゃらと涼やかな音を立てて、室内に響く。ダリルは部屋の隅へと向かった。入り口すぐ脇にあるベッドの横の床へ置いてある銀色のケージ。そのなかには黒い鱗と赤い瞳の、ダリルの飼い蛇がいる。談話室に置いておくと迷惑になるからと言い訳し、ジニーを宥めすかして、やっと部屋に連れ戻したのだ。
ダリルは屈んで、レディを見つめた。横のベッドの上に置いてある鍵束を手にとって、錠前を手繰った。カチ、カチン。白魚のような指がケージの扉に付けられた無骨な錠を解いていく。レディは呆れたような、さも如何でも良いと言いたげにケージの中にある枝へ寝そべっていた。一つ、二つ、三つ、四つ、全ての鍵が外され、ダリルはレディに指を伸ばした。
「おいで」赤い瞳がダリルを見上げる。
ダリルはにこりともせずに、じいっとそれを見返した。「一緒に眠りましょう」レディは身をもたげ、するりとダリルの指先に体を絡ませた。鱗が触れた瞬間、ダリルの眉が歪む。しかしダリルは直ぐに気を取り直して、傍らのベッドに腰掛けた。
レディがダリルの腕を這い、首元へ絡みつく。首吊り用の縄を巻かれたような気分がした。不快感はあったものの、ダリルはそれを無理に離そうとはせず、そのままベッドの上に横たわった。布団を体にかぶせて、サイドテーブルの上にあるランプへ手を伸ばす。
明かりを消せば、完全な闇が待っていた。目を閉じたのか、眠りに落ちたのかさえもわからない夜の訪れ。
ダリルはグラリと上体が宙に浮いている――否、両足が床について、きちんと立っているのを感じた。埃っぽい匂いが鼻をつく。ここは確かに黒い部屋だったが、一年ほどまえからずっと訪れ続けていたものとは違う気がした。黒く、暗く、己以外には何も見えない。しかし夢というにはリアリティがあって、足をつく床の質感も、自分の周囲を漂う空気も、何もかも幻とは思えなかった。
口を押さえてせき込んでいると、声が降ってくる。「君から呼び出されるとは思わなかったね」耳をジンと震わせるテノール。見上げると赤い瞳がダリルを見下ろして、嗤っていた。ダリルはぎゅっと手を握りしめて、なるたけ動揺が悟られないよう自制した。
黒よりも闇を思わせる部屋の内で自分ともう一人、ヴォルデモートの姿もハッキリと見える。恐らく相手も同じだろう。
「こんばんは、ヴォル」ヴォルデモートの瞳が冷たくなる。ダリルは視線を逸らした。「……ヴォルデモート卿」
ヴォルデモートがふんと鼻を鳴らした。
「まあ良いさ。好きに呼ぶと良い」前回会った時に服従の呪文まで使って、「我が君」と言わせたのは誰だ。ダリルは唇を噛んだ。
ローブを翻してどこぞへ進もうとするヴォルデモートを追って、ダリルも歩く。前に来た時は一歩進むことすら出来なかったのに、ヴォルデモートの足取りを辿ればきちんと進むことが出来た。この空間の主はダリルではなく、ヴォルデモートなのに違いない。
やはり単なる夢ではない。ダリルはヴォルデモートの背を見上げながら、改めて思った。しかし初めてヴォルデモートと対峙したときと比べて、恐怖は軽減されていた。得体のしれないものと話すよりも邪悪な闇の魔法使いと話すほうが幾らかマシだ。
それにダリルは目的を持ってここに来ている。大丈夫だとダリルは自らを落ち着かせた。
(大丈夫)
(ちょっと――少し、話を聞くだけ。ヴォルデモートはきっと事件に関わってる……本や現場を調べるより手っ取り早いわ)
(ドラコがこの事件の後押しを望むなら、それを問いたださなくては。勿論言い逃れの出来ない証拠と共に)
ダリルの存在を背後に感じ、ヴォルデモートは眉を顰めた。心中で唱えた呪文を終わらせると、無音と闇が彼に傅く。
開心術への抵抗には個人差がある。ヴォルデモートの知るうちで最もそれが高いのはスネイプだ。優秀な配下であったが、その拒絶の強さ故にヴォルデモートは彼を信頼しきれなかった。――しかし、その逆だからといって自分に都合が良いわけでもない。
この室の内でならヴォルデモートは容易に開心術を用いることが出来たし、現実ではなく眠りのなかでダリルとの邂逅を果たしたのはそのためだった。ダリルの思考が分かれば物事を進めるに容易だと思っていたものの、あまりに――スネイプの真逆だと、ヴォルデモートは額を押さえる。ダリルほど開心術への抵抗が低い者もいないに違いない。
勿論閉心術というのを自然に身につける者は稀だが、普通最低限の拒絶は纏っているものだ。ここまで自分の胸の内を垂れ流しにして生きていけるはずがない。犬猫でもダリルほどは愚かではないとヴォルデモートは思った。
この警戒心の薄さは“場所”や“時間”の問題ではない。夢の外でもヴォルデモートは同じことを思ったはずだ。不気味な少女。闇を見据える赤い瞳に白い光が過ぎった。この記憶は誰のものだったか、何を見たものだったか……答えを見つけようとした瞬間、「……どこへ行くの?」とダリルがヴォルデモートの纏うローブを引く。その手をパンと叩き落とした。
「客人を持て成すに、少しの明かりぐらいあったほうが良いと思ってね」
ヴォルデモートがそう呟いた途端に二人を覆っていた闇が溶けて行く。木の床に黒い影が二つ落ちていた。埃の匂いはない。小さなランプが木箱の上に一つ、それだけで照らしだせるほどに小さな部屋だった。五歩も歩かない内に一周してしまいそうだとダリルは思った。部屋の角に沿って置かれた三つの木箱の真ん中にランプが置かれ、木箱の横に小さな本棚がある。
「ここは?」
ダリルはぐるりと部屋の中を見渡して疑問を零す。ヴォルデモートは答えようとせず、木箱の上に腰かけた。「ここは何処なの?」ダリルがもう一度問うと、「夢だよ」そう投げやりに答えて、傍らの本棚から分厚い本を抜きとった。
ダリルの存在などまるで気に掛けず読書をするヴォルデモート。ダリルは自分がゴーストにでもなった気がした。自分に害をなさず、そうやって黙っていると普通の――少なくとも人を殺したりはしない――男に見える。闇のなかに居た時の威圧感が少し薄れていた。ダリルはヴォルデモートに背を向けて、ペタリと漆喰の壁に触れる。ぽろっと白い欠片が落ちてきた。夢のなか。ヴォルデモートの台詞は間違っていないだろう。恐らく自分が目覚めれば、グリフィンドール寮にある自室のベッドの上にいるはずだ。
否、そうではない。ダリルは漆喰で白くなった指を擦る。夢――意味のないものなのだと言うにはリアリティがありすぎる。ここは、そしてあの闇はヴォルデモートの、『ようこそダリル、僕の記憶へ』ヴォルデモートの記憶の一部なのだろうか。その言葉が一番しっくりきた。
私はヴォルデモートに「ここは貴方にとって何か思い入れのある場所なの」と聞こうとしたのかもしれない。そう考えてから、ダリルはやんわり微笑んだ。それは全く持って日常的な疑問だった。ダリルはヴォルデモートのことが嫌いだ。そしてヴォルデモートは邪悪な人間で、誰もが名前すら恐れるほど、ある種偉大とも言える大魔法使い。それが例え若い姿でいるからと言って、ダリルが彼を恐れない理由にはならない。現にまだ首には彼に首を絞められた時の痣が残っているし、恐ろしいと強く感じたはずだった。クィレルを死に追いやり、ハリーの両親を殺し、ルシウスの手を己の道具だと言いきる残酷な魔法使い。恐怖と憎悪を向ける相手としては十分すぎる相手だ。それなのに、何を思ってダリルは彼にそんなことを聞こうとしたのだろう。彼にとってこの場所が特別だろうが何だろうが、今は如何でも良い。ダリルはローブを翻して、振り向いた。グリフィンドール・カラーのネクタイが目に入る。漆喰に汚れた指でそのストライプをなぞった。
ヴォルデモートはダリルの敵だ。ダリルは顔をあげて、凛とヴォルデモートを見つめた。
ダリルの視線を感じて、ヴォルデモートが視線を上げた。
「それで、散々僕から逃げ回ってた君が僕に会いに来た理由は何?」ヴォルデモートは嘲りを秘めた口調で首を傾げる。
「……暇だったからよ。貴方も暇なのでしょう」
嘘であることは明白だった。しかし今はどれだけ上手く嘘をつけるかなど、大した問題ではない。ダリルはこの数日間で考えたことを幾度も繰り返しながら言葉を続けた。「それで貴方は、その暇を潰すためにお父様とのお願いを叶えると言ったわ」
ダリルが何かを企んでいるということは無論ヴォルデモートにも悟れた。ヴォルデモートは薄く笑う。開心術を使う必要はない。たどたどしく駆け引きを持ちかけるダリルの企みを知るに術など不要だ。マグルの“もどき”で十分すぎるほどダリルは分かりやすく、何よりも彼女が何故自分を呼び出したか等は疾うに知っている。ダリルの言うとおり、“今”のヴォルデモートは退屈していた。
「私をご立派な純血主義者にすると言ったわね」
少しばかりこれで遊んでも不都合はないだろう。見え見えの罠を仕掛けるダリルにヴォルデモートは赤い視線を注いだ。
「私だって馬鹿じゃないわ。貴方の思想が本当に正しいものだったら、服従の呪文なしでも貴方の足元へ口づけるでしょう」
それに幼い唇から悪への従順を匂わす台詞が零れるのはヴォルデモートにとって多少面白かった。故に“もどき”――読心術を用いることさえ一瞬忘れる。ダリルは全身の感覚を研ぎ澄ませて、嘲りからくる油断があることを理解した。
動揺を隠すのは最低限で良い。ダリルは胸の内にある緊張を緩めた。何に動揺しているのか知られなければ、それで良いのだ。
「はっきり言ったら如何だい?」
ヴォルデモートの指はもうページを捲ろうとしていなかった。愉悦を潜めた笑みで、ダリルを甚振ろうと、それに相応しい言葉を探っている。彼にとってダリルの企みを知ることはゲームのひとつであり、ダリルにとって彼に企みを知られまいとするのは真剣なものだった。
もしもダリルがヴォルデモートが己に対して開心術を使っていると知っていれば、そもそも抗おうという気すら失せていただろう。どんなにダリルが無知で、ヴォルデモートのことを“子供の癇癪を本気で実行する幼稚な人間”だと思っていたとしても、素晴らしい魔法使いである父親を従わせているのだから、その程度の能力は持っているとは分かっている。
ヴォルデモートは偉大な闇の魔法使いだ。彼が自分と同じ十二歳だった頃に対峙したとしても、敵いはしなかっただろう。しかし年齢差があるから、向こうを罠にはめられる可能性が出てくる。ダリルは父親の友人達が自分を如何思い、如何接してくるか思い返した。何も考えられない馬鹿な女の子。例えヴォルデモートが自分を何かに利用したいと思っていても、根底にある感情までは消しきれない。
何も考えられない馬鹿な女の子が罠にはめようとしている。それを避けるのは容易だ。なら、それを避けた後は?
要するにダリルはヴォルデモートの脅威を中途半端にしか理解していなかったが、今回はそれがプラスに働いたのである。
ダリルの考えとは違い、ヴォルデモートは彼女を“何も考えられない馬鹿な女の子”とは思っていなかったものの、開心術を使えば好きに思考を覗く事が出来るという油断から、結局ヴォルデモートはダリルを見くびっていた。
「スリザリンの継承者は貴方ですかと君が聞いたとして、僕は君を咎めたりはしないよ」表情を強張らせて自分を見つめるダリルに、ヴォルデモートは微笑みかける。「代わりに言うだろう。答えはイエスであり、ノーなのだと」
彼には人を見くびっているという自覚はない。
自分以外の生き物は常に自分の下で、誰も彼を謀ろうとは試みないし、試みたものは全て葬ってきた。故に、あんまりに自然なことすぎて、ヴォルデモートは今目の前にいる少女――ダリルが自分を謀っても殺せないことを忘れていた。それに結局はルシウスの娘で、前に会った時あれほど痛めつけたのだから、たかが十二歳の小娘が偉大なヴォルデモート卿に刃向かうとも思えなかったのだ。
人は結局己の身が一番大切だ。ルシウスの下で育ったダリルがその自己保身と無縁に生きていられるはずがない。そう思ったヴォルデモートの思考へ、また白いものがチラと過ぎる。一瞬顔を歪めたが、それにダリルは怯えた様子を見せなかった。
「それでは言うわ。誰を使っているの」ダリルはブルーグレイの視線を揺らがせず、ヴォルデモートへ真っ直ぐな疑問をぶつけた。
「自分だとは思わない?」
くすと悪戯っぽく笑うヴォルデモート、ダリルの眉が少し寄った。しかし「……思わない」と、否定を返した。
ダリルの胸がバクバクと鼓動を早くする。緊張が指先にまで満ちる。
痺れる指でローブに触れた。立っている自分と、掛けているヴォルデモート。視線はダリルのほうが高いのに、押さえつけられているような圧迫感がダリルの呼吸を重くする。動揺は隠せなくて良い。寧ろ今動揺していなければ、一層ヴォルデモートに警戒させてしまう。
様々な記憶がダリルの脳裏に巡る。どれを探していたのか分からなくなるような熱がこめかみにあった。
赤い目がダリルを無感情に見つめている。
「平和で何より」そう言ってから、ヴォルデモートはダリルを揺らがせに掛かる。「セドリック・ディゴリーだっけ? あの男が隣にいたから大丈夫だと思っているのなら考えを改めたほうがいい」せせら笑った。
その揶揄はダリルに大きな動揺をもたらさなかった。ヴォルデモートが己の行動を把握しているだろうことは疾うに予想がついていた。寧ろ己の考えの正しさを証明されたようで、ダリルの鼓動が静かになっていく。大丈夫、上手く行く――ダリルは切り込んだ。
「私を使うのであれば、犯人が分からないなどということにはしないわ。ダリル・マルフォイがしたのだと、もっと大仰に示すでしょうよ」
「これからしてもらわないといけない仕事があるからだとは思わない?」
ダリルは微笑んだ。ヴォルデモートが眉を潜め、ややあってからダリルが求めていた言葉を己が口にしてしまったことに気付く。
「使わないという選択肢はないのね」
勝ち誇った響きを口遊み、ダリルは瞳を輝かせた。ヴォルデモートの赤い瞳が歪む。
ダリルが今日ヴォルデモートに会いに来たのは、何も今回の事件について聞こうと思ったわけではない。そんな事、例え知っていても教えてくれないのは明白だ。寧ろダリルが聞けば聞くほど、例え知らなくても誤魔化し、ダリルが悩む様を見て笑うだろう。
ヴォルデモートはダリルを好いていないことは明白だ。それでは好いていないものへ関わる理由は? 本当に自分を必要としているのか? それがはっきりしない限り、この捕食者と被食者という絶対的な関係は変わりはしない。
ダリルが求めたのは“目の前にいる”ヴォルデモートと対等な立場に上がることだった。つまり相手が自分を必要としているのだという絶対的な証拠、言質、「何をしても今のヴォルデモートは自分を殺すことは出来ない」という確証を得るためにダリルはここへ来た。
ヴォルデモートはダリルが己の立場を理解しているとは思っておらず、馬鹿な小娘――それも自分に従順になろうとしないダリルがきちんと分をわきまえているなどとは考えもしなかったに違いない。無謀で傲慢なグリフィンドール寮生が一度嫌った相手の力量を素直に認めることは稀だ。ヴォルデモートはギリとページの上に爪を立てる。こんなところでダリルにスリザリン気質があると知ることになろうとは、まるで予想だにしていなかった。ヴォルデモートは赤い瞳に獰猛な闇を蠢かせ、ダリルを睨んだ。
「君だって、最初から僕がほんの暇つぶしで君みたいなつまらない子供に関わるとは思っていなかっただろう」
ダリルはちょっと怯んだが、それでも勝気な視線で睨み返した。
「言質は何よりも大事なことだわ」ダリルはキッパリと言い放った。「……特に純血主義の諸兄においては、何よりも重要だもの」
ダリルの知る限り、父や兄、そして彼らの知り合いは一度口にした本音を誤魔化したりはしない。律義に一度口にした本音を翻す時はそうと言うし、それだって余程のことがない限り貫き通す。嘘が多い彼らが少ない真実を尊ぶことをダリルは知っていた。
沈黙するヴォルデモートにダリルは言葉を続ける。まだ、ダリルはヴォルデモートの本音を言い当てただけの段階だ。言い逃れが出来ないほどに追い詰め、相手に認めさせなければならない。本音を口にさせるに至ってはいない。
目に見えてダリルは焦っていたが、反対にヴォルデモートの内に沸いた動揺は静まりを見せていた。今彼の胸に満ちるのは先ほどの愉悦だった。否、先ほどとは比べようがないほどに彼の退屈を拭い去ってくれた。
力関係はまだ変わっていない。変わりようもないのだ。ダリルがどんなにヴォルデモートの油断を誘っても、精々が自分――この出来ることに限りのある弱い姿に追いつくことしか出来ず、それだっていつ元に戻ってしまうか分からない不安定な立ち位置だ。
そうと理解すれば逆にヴォルデモートは自分の裏を掻こうと懸命になるダリルがいじらしく思えた。
愚かなだけではなく、きちんと自分を尊ぶ気持ちもダリルの内にはある。それは忠誠心の切っ掛けとしては十分すぎるものだ。
ヴォルデモートの考えなど知るよしもないダリルは巡る記憶のなかから言葉を引きずりだし、たどたどしい口ぶりでヴォルデモートの本音を得ようと努力していた。「貴方は私を使って何かしようとしている。でも、それを隠そうとするのはまだ時期ではないからね」
口元に指を触れさせながら、言葉を紡ぎ続ける。
「その“仕事”は、貴方が私の機嫌を取りたいと思うほど大事なもの、」
セドリックに言ったように、ダリルは考えを纏めてから口にすることは出来ない。口にしながら考えるのだ。そして確実に正しいとも思ってはいない。今はただ思いつきで口にした言葉から一遍の真実が転がり出でもすれば良かった。
「……だから大事な仕事をしなくてはならない私を使うことは出来ない。万にひとつでも不安は取り除いておきたいでしょうから」
自分なんかを構ってくるヴォルデモート。校内で起きている事件。石になったミセス・ノリス。秘密の部屋と継承者。自分を使わなければならないから損ねることが出来ない。人に関心がなく冷酷なはずのヴォルデモートがダリルへの威圧を緩めるのは何故だ。
「ミセス・ノリスが襲われた時、確実に誰にも見つからないという保証はなかったわ。直後にハリーが通りかかっているもの」
ダリルがスネイプの部屋を襲った時と同じだ。粗のあるずさんな計画、見つかれば勿論ダンブルドアが犯人を罰するだろう。何の保険も掛けずに、ヴォルデモートがそんなことをするのか。そしてミセス・ノリスを襲った理由は――否ミセス・ノリスは本命ではない。それでは本当の狙いはハリー? それも違う。あの日ハリーは絶命日パーティに行っていたから偶然そこを通りかかっただけだ。“確実”ではない。ヴォルデモートがハリーの行動を把握していることはないだろう。何よりもハリーを狙っていたとすれば、不安要素が多すぎる。流石のヴォルデモートだって今の状態で多くの生徒に己の姿を見られるということは避けるはずだ。だから誰かを狙っていたわけではないと仮定する。何か、別に目的がある。そして“自分自身”ではなく、誰かを使っているのは間違いないようだった。
『自分だとは思わない?』
使っていないとは言わなかった。あの口ぶりから察するにダリルでもない。何よりもダリルは魔法が使えない。
目の前にいるヴォルデモートが魔法を使えるのは確実だが、誰かを使う以上は自分一人の魔力で補いきれない何かをしているのに違いない。誰かを使っている。あの時の、あのとき――あのひとの、あのひとへしたように?
クィレルの整った文字がダリルの思考を揺らがせる。
ふっと思考を多くの光が過ぎった。ダリルは口元を手で覆って、俯く。肩が震える。恐怖がダリルの胸を打った。誰も居ない部屋、戸を閉める一瞬の隙間から見た記憶の残滓、もういない、誰もいない。あの喪失をまたダリルは味わうのだろうか。自分ではない誰かがヴォルデモートに利用されているのだろうか。その可能性を実感として抱いた時、ダリルの内に例えようのない焦燥感が沸いた。
己よりも他が害されるほうがダリルには恐ろしい。その“害される”の内に“自由を奪われること”が入るとは、今まで気付かなかった。
恐怖に怯えるダリルの上に影が落ちる。ぱっと視線を上げると、ヴォルデモートがダリルの前に立っていた。口元に薄い笑みを浮かべている。ダリルは自分がしくじったことを理解した。どんなに動揺しても、怯えても良い。しかし恐怖だけは見せてはならなかった。
勇気が失せたことだけは知られてはならなかったのに――ヴォルデモートは余裕に満ちた瞳でダリルを見下ろしている。
すらりと長い指がダリルに向けて伸びた。頬に触れる。ダリルの肩が悲しみとは別の理由から震えた。もうヴォルデモート相手に駆け引きを仕掛ける度胸は挫かれていて、奪われたことへの絶望が思考を蝕んでいる。早く目覚めたかった。
「如何かな。僕が今干渉出来るのは君しかいない。だから君を殺しもしなければ、こうして相手もしてやる」
ヴォルデモートは覇気の失せたダリルへ、笑みの絡んだ言葉を掛ける。愚かにも、この偉大なる闇の魔法使いを謀りきれるなどと思い、身の程知らずな駆け引きを仕掛けたのはダリルで、舌戦を持ちかけたのもダリルだ。心の折れているダリルをからかうように、ヴォルデモートは嗤う。「何か考えがあって僕を呼んだんだろう? なら、最後まできちんと言ってごらん」そう言ってダリルの髪を掬い、口元へ運ぶ。さらと柔らかな髪がヴォルデモートの指を滑って行く。「それとも、僕の気でも惹きに来たのかい?」
ダリルは顔を赤くした。怯えていた瞳に勝気な光が宿る。「あなたは」掠れた声が、そのブルーグレイの視線がヴォルデモートの赤い瞳を射抜いた瞬間に凛とする。「貴方は“現在”のヴォルデモート卿ではないけど、“現在”のヴォルデモート卿と繋がっている。」
駆け引き抜きで、ダリルは自分のカードを全て晒すことにした。ヴォルデモートの気を惹く愚かな娘にだけはなりたくない。どうせなら邪魔だと始末されたほうがずっと良かった。気に入られるなど真っ平だ。役に立たないと見放されるか、殺されたほうがずっとマシ。
「ヴォルデモート卿の一部、物体ではなく生き物ととして――少なくともアニメーガスとして実体を取るための定義を満たすほどには生命体としての役割を果たしているのね? あの魔法は単なる記憶体には使えないはずよ。記憶は宿すもの、魔力があれば勿論実体化出来るけど、貴方は魔力に欠けている時でも最低限実体を取ることが出来るわ。ヴォルデモートの魔力の一部が常に留まっていて、」
ヴォルデモートの手がダリルの口を塞いだ。骨ばった指がダリルの唇に触れる。何がヴォルデモートの琴線に触れたのか、その顔は少し青ざめていた。憎しみでも嫌悪でもなく、見知らぬものでも見るように、警戒と好奇心と恐怖の入り混じった視線をダリルに注いでいる。
ダリルはきょとんとヴォルデモートの視線を受けていた。ゆるゆるとヴォルデモートがいつも通り感情の読めない顔を作る。
「如何やら、僕は君を侮っていたらしい」
クツクツと喉を鳴らして笑った。ダリルの口を塞いでいた手を下ろし、肩に触れる。「もう嘘は言わないよ」
「そして、本当の事も言わないのでしょう」ダリルは恐る恐る口にした。
「それは君が考えることだ。僕にその義務を奪ってやる義理はない」ヴォルデモートはダリルを咎めようとはしなかった。
「僕は君が欲しいんだ」
勿論君は生まれた時から僕のものだけれどねと、注釈を入れることも忘れない。
ダリルはヴォルデモートの台詞の意味が分からず、黙り込んでいた。ヴォルデモートの配下にはルシウスを始めとして、優秀な魔法使いが多くいる。ダリルのような子供を要する必要が何処にあると言うのか。自分しか使えないから要するのであれば話は分かる。しかしそうであれば「君が欲しい」などと言う必要はない。尤もそう言えばダリルがほだされると思っているのであれば話は別だが……。
ヴォルデモートは俯こうとしたダリルの顎を掴み、自分のほうを向かせた。
「正確に言うと、君の思考能力が欲しいんだよ。魔法論に長けた君の頭脳がね」それでもダリルは良く分からなかった。
ヴォルデモートはダリルがかつてクィレルに語った言葉を思い出す。そして前年度末にハリーに野望を挫かれたことも思いだした。
『死の呪文を防ぐことが出来ないのは、呪文だけだと私は思うんです』
この台詞と向き合う事を拒まなければ、例え弱っていたからといってあんな子供にしてやられることはなかったはずだ。
赤い瞳が怖くなる。見たくないと思っているのに、ダリルは視線すら外せない。ヴォルデモートが顎から指を外しても、俯けないでいた。
「僕は何故ハリーに二度もしてやられたか知りたい。君はそれについて考えられる」
ダリルは首を振ろうとした。ハリーを害する手伝いはしたくない。恐怖を瞳に滲ませるダリルへヴォルデモートは優しく微笑んだ。
「ダリル、ノーはなしだよ」まだ己の跡が残るそこへ指を滑らせた。びくりと華奢な喉が跳ねる。ヴォルデモートは身を屈めて、ダリルの喉へ口づけた。「君が僕を拒絶するなら、僕は君を殺さなくてはならない――君を野放しにしておくのは危険だから」
白い皮膚に赤黒い痣の残る喉がゴクリと嚥下した。
「私はただの子供よ」今にも泣きだしそうな声だった。「それも貴方の嫌いなスクイブだわ。魔法論だって、私より詳しい人は山といる」
何故ヴォルデモートが自分を求めるのかダリルにはまるで分からなかった。自分は魔法が使えない。例え使えるようになったとして、ヴォルデモートの配下になるには魔力が少なすぎるかもしれない。何よりもダリルより魔法論に詳しい人間は数多くいる。魔法論という教科書があることからもそれは明らかで、ダリルは先人の歩んだ道を辿っているに過ぎない。
魔法が使えなかったから、それを要していただけだ。詳しくなろうと思って学んでいたわけではなかった。ダリルよりも魔法論について真剣に取り組み、調べ、纏めているものがいる。彼らを求めるよりも己を求める理由は何なのだろう。
「その通りだ。君より賢い魔法使いも、魔法論に長けた魔女も山といる」
ヴォルデモートが顔をあげて、ダリルを見やった。常にダリルを見下し、侮り、からかい続けていた赤い瞳が真摯になる。
「でも、君ほど魔法論に詳しい子供は君しかいない」
“彼ら”は手に入らない。しかしダリルは手を伸ばせば届く位置にいて、今もヴォルデモートの腕の内にいる。
ダリルは恐怖も怯えも嫌悪も憎しみもないまっさらな瞳でヴォルデモートを見つめていた。ヴォルデモートはその瞳に、先も思考を過ぎった白いものを思い出す。しかし嫌悪はなかった。ただの子供だから価値がある。幼いから価値がある。
その“価値”は幼いものには分からないだろう。己の手で、この娘が至上の道具に育つ可能性があるとヴォルデモートは思っていた。
「何故か? 魔法を使える者にとってそれを知る必要がないから――学ばなくても魔法が使えるから――意味を知らなくても音として知ることが出来るから。ダリル、僕の部下は皆純血主義者だ。スクイブのこともマグルのことも見下しているよ。
勿論魔法論のことになど詳しくはない。だから僕は君が欲しい。君は僕らの知らないことを知っている」
ようやくダリルはヴォルデモートが何を言っているのか理解出来た。
「ゴーントの次に永い純血一族の末裔、スクイブでもマグルでもないのに、そちら側の思考回路を兼ね揃えた魔女だ」
この男もまたダリルを血で判断し、求めているのだ。ダリルが純血だから求めているだけで、ダリル自身を見ているわけではない。ダリルの胸を怒りが満たした。道具や物、犬猫として見られること以上に、“純血”というそれだけで判断されたくはない。
ダリルの内に再びヴォルデモートへの闘争心が沸いてきた。
「……ゴーント?」ダリルの感情になど関心を向けず、ヴォルデモートはその疑問を単なる疑問として処理する。
「サラザール・スリザリンの末裔のうちの一つだ。尤も君が知る必要はない。これからも、この先も関わることはないだろうからね」
「いいえ」
先までの動揺が嘘のように、ハッキリとした敵意が声に満ちていた。ヴォルデモートは眉間にしわを寄せる。ダリルは澄んだ瞳でヴォルデモートを見つめていた。「本当に私を自分のものにしたかったら、何もかもそっくり教えて頂戴」
「あのディゴリーとかいう男のように、僕に白痴になれとでも?」
ダリルの記憶から垣間見た愚鈍そうな男の姿を思い出し、ヴォルデモートが鼻で嗤う。不意にダリルがヴォルデモートの手を取った。両手で包み、頭を垂れる。「我が君」と呼ぶのをあれほど拒絶した少女の取る行動とは思えなかった。
ダリルは鈴の音よりも涼やかな響きで音を紡ぐ。
「私が忠実になるのは真実に対してだけです。真実を与えてくれる人にだけ、私は跪き、その寵を求めます」
それが闇のものでも光のものでも大した差はない。ダリルは真実を口にする誠実さを尊敬するし、例え相手がヴォルデモートであれ己へ本音を晒したのであれば、その誠実さは己が頭を垂れるに相応しいものだとダリルは思った。
今日の邂逅でヴォルデモートはダリルを恐怖で押さえつけようとはせず、ダリルが仕掛けた駆け引きに乗ってくれた。それに対する感謝へ、ヴォルデモートの今までの悪事は関与出来ない。クィレルのことも、ハリーのことも、ルシウスのことも、これにだけは無関係だ。
ダリルの胸の内には己の大事な人を害するかもしれない可能性への警戒と、例え闇のものであろうと自分よりも賢く、強力な魔法を使いこなすことが出来る偉大な魔法使いへの畏敬の念とがあった。
今己がヴォルデモートへ畏敬の念を示すことで誰も害されはしないとダリルは判断する。
『貴方の思想が本当に正しいものだったら、服従の呪文なしでも貴方の足元へ口づけるでしょう』
ヴォルデモートはダリルの言葉に嘘がないことを理解した。
この娘は台詞の通り、ヴォルデモートの思想が正しいと思えば己のものになるだろう。しかしそのためには真実を明かさなければならない。ヴォルデモートはダリルの手を振り払おうか迷った。“偉大なる”闇の帝王が小娘一人恐れるというのか。ヴォルデモートの困惑など知るよしもないダリルはするりとヴォルデモートの手を離し、顔をあげた。
薄らと彼女の輪郭がぼやけていく。朝が近いのだろう。ヴォルデモートは早く消えてしまえと思った。ダリルは語り続ける。
「これから毎夜、私は貴方を訪ねるわ。嘘をついても、本当のことを言っても、私を利用しようとしても構わないけれど……」
朝日がダリルの瞳を煌めかせる。冷酷さを欠片も秘めていないブルーグレイの瞳が、ヴォルデモートへ穏やかに微笑みかけた。
「ヴォルデモート、私を従順に出来るのは呪文でも痛みでもないわ」
そう残してダリルは目覚めた。ヴォルデモートの腕の中から、あの華奢な体が消える。
ぐにゃりと部屋が歪んだ。ヴォルデモートもそろそろ眠りに落ちなければならない。一日中ずっと活動しているには魔力が足りなさすぎるのだ。ダリルが思っているほど足りないわけではないが、しかし十全でないのは事実だ。忌々しい娘だとヴォルデモートは顔を歪めた。白いものが脳裏を掠めていく。ヴォルデモートは己の思考を沼へ沈ませながら、脳裏を過ぎる白いものが何か思いだした。
『私は魔法使えないもの……それに何にも持っていないわ』
枯れた木立の向こうで白いユニコーンに寄り添うダリル。光すらあの景色よりは白くないだろう。朝の気配にまどろみながら、ヴォルデモートはクィレルの目を通して見たダリルの姿を視界に浮かばせる。ヴォルデモートがクィレルの本心を知っているとダリルに言ったのは嘘ではない。現在のヴォルデモートの視覚や聴覚の一部とリンクしているのだ。だから蓄積された記憶は多く、その分思考が鈍くなる。
ヴォルデモートの視界にダリルの笑みが浮かぶ。純粋なものだ。『教授』唇が蕩けるような響きを口にする。『クィレル教授って、本当に本がお好きなんですね』笑っていた。心の底からの笑み。無垢な、穢れの無い容貌。
『私、教授とお話するの大好きです』
白い闇がヴォルデモートを蝕む。何もない眠り、己を制御出来ない時間への不快な感情がダリルの笑みに薄らいでいく。『大好きです』何もない眠りのなかでダリルの声が響いた。綺麗な笑みを浮かべて、こちらを向いている。自分のものではない。自分に向けられたものではない。それでも――ユニコーンよりも邪悪に疎いあの娘なら、微かにそう思うのだった。
無防備な仕草、闇を焼くことのない柔らな光、献身的な本質、己の価値を知らない愚かなダリル。生まれた時から全て自分のものだった。だから、光へと逃げるのは許さない。そちら側で幸福になるのも許しはしない。
あの娘には恋も友も与えない。ヴォルデモートがダリルに与えるのは、闇のなかで孤独に朽ち果てる未来だけだ。
七年語り – CHAMBER OF SECRETS