七年語りCHAMBER OF SECRETS
30 別離

 

 近頃は忘れがちだったが、不運というのは不運を呼ぶのである。
 この法則の外れることがたまさかであるから、人はそれを幸運と呼ぶ。今日は、その“たまさか”ではなかった。

 ずんずんと滅茶苦茶な方向へ歩いていくハリーの一歩後ろをキープしながら、ダリルはおろおろとハリーに話しかけている。しかしハリーがダリルの慰めや励ましを聞き入れる様子はなかった――ハリーの怒りも仕方ないだろう。自分の悪口を言いふらされる現場に遭遇してご機嫌でいられる者がいるなら、顔を見てみたいぐらいだ。ダリルだって、アーニー・マクミランの言い草には呆れた。それでも今のハリーに必要なのは怒りに身を委ねて、やったらめったら歩き回るより、グリフィンドール寮の談話室で待っているハーマイオニーとロンの存在だとダリルは思っていた。ダリルは幾度も「談話室に戻りましょう?」とか、「そろそろ変身術の教科書を取りに戻らなきゃ!」とか言ってみたが、ハリーが応じる様子はなかった。それに授業が始まるまで、たっぷり一時間ある。まさか変身術の授業を忘れるほどは我を忘れていないだろう。兎に角クィディッチのシーカーであるハリーの歩幅に合わせて行くのはダリルに辛すぎた。

 ダリルは胸のあたりを押さえながら、小走りでハリーの背を追い掛ける。既にハリーとの距離は五歩ぐらいになっていた。
「ねえ、ハリー、どこへ行くの?」もう何度繰り返したか分からない問いを口にして、ダリルはちょっと立ち止まる。ハリーの返事は期待していなかったが、思いがけずハリーが立ち止まり、振り向いた。十分も怒りのまま歩きまわっていれば少しは気が晴れたのだろう。
「君は腹が立たないの!?」尤もまだ怒っているらしく、彼の口から出てきたのは返事ではなかった。
 ダリルはハリーが何を言っているかよく分からなかったが、数秒思考を捲れば合点する。アーニー・マクミランはハリーが継承者だと皆に納得させるため、ダリルを引きあいに出したのだ。ルシウス・マルフォイは例のあの人の支持者だった――ドラコ・マルフォイを見てみろよ、あんな奴の妹がまともなはずない――グリフィンドールに入ったのは「本当に」強力な闇の魔法使いであるハリーを手助けするためなのだとか、色々破綻した理論を繰り広げていた気がするとダリルは薄ら思いだした。
 アーニーの必死な話しぶりを思い出して、ダリルはくすくす笑ってしまったが、ハリーの眉がつり上がったのを見て笑みを仕舞う。
「ハリー、私は慣れているから平気よ。私への言葉で怒っているのなら、いつものハリーに戻ってくれるほうがずっと良いわ」
 そう言うと、ハリーは少しばつの悪そうな顔をした。つり上がっていた眉が下がる。

「……あいつら、無茶苦茶だ」
 自分の台詞を受けて思ったより意気消沈してしまったらしく、ダリルはしょんぼりするハリーに近寄った。そのくしゃくしゃ頭を撫でると、ハリーが緑の瞳でダリルを睨んだ。「ジニーと仲良くなって以来、駄目ね。つい手が出ちゃう」ダリルは手を引っ込めて、肩を竦める。
 ハリーはふるふると頭を振った。「いや、良いんじゃない? 君、ジニーと一緒にいると少しは心優しく見える」にやっと笑うハリーの足をダリルの足がぎゅっと踏んだ。そうしてから互いに吹き出す。何かが可笑しかったわけではない。緊張の糸が解れて、ほっとしたのだ。
「とりあえず寮に戻りましょう?」ダリルがにこっと笑って、周囲を見回した。「こーんな人気のないところまで来て、本物の継承者様に会っちゃうかもしれないわ」ダリルの台詞に、ハリーは自分が今どこにいるかやっと気付いた。
 二人が今いるのは四階の右側の廊下――賢者の石が隠された小部屋に続く扉がハリーの目に飛び込んでくる。「そうだね。ロン達も待ってるだろうし、戻ろう」ハリーは大慌てでダリルの提案に頷いた。ダリルの言うとおり「本物の」継承者が秘密の部屋の化け物を散歩させている場面に出くわしたらという思いもあったが、長居を避ける一番の理由はここに碌な思い出がないからだった。

 ゆっくりとグリフィンドール寮への帰路を辿りながら、二人で些細な会話を交わし合う。しかし完全にいつも通りとは行かなかった。
「でも皆、僕のことを“継承者”だって思ってるんだろうな……」
 会話の流れから“それ”に関する話は口に出しにくい雰囲気となっていたが、変身術の課題に関する話題が尽きると、ハリーの口からは自ずと“それ”に関する愚痴が零れてしまった。勿論ダリルは気を悪くはしなかったものの、口元の笑みには苦いものが交じる。
「ハリー、気にすることないわ。貴方は英雄なんだから、こんな悪事を働くはずないって皆分かっているわよ」
「蛇語を話していても?」ハリーは顔を顰めた。
 ハリーの耳にダリルの台詞は世間知らずなものとして響いたのだ。決闘クラブで蛇語を喋った時は皆ハリーのことを化け物でも見るように遠巻きにしていたし、ロンやハーマイオニーだって不味いことになったと言っていたのに、ダリルただ一人が楽観的なことを口にしている。サラザール・スリザリンの子孫であるはずがないと言って貰ったのは嬉しかったが、しかし、だからといって自分がスリザリン寮に入れられかけたという事実が消えるわけではないし、ハリーが蛇語を話した事を皆が忘れるわけでもない。
「組み分け帽子は僕をスリザリンに入れようとした」重々しい口調にダリルはハリーをじっと見つめた。「それに、僕は英雄なんかじゃない……僕が生き残ったのは母さんのおかげだ。僕自身が例のあの人を倒したわけじゃない」
 そう口にした時のハリーの気持ちというのは、如何言うものだったろう。ダリルを批難したいという気持ちもあったし、自分の力量をきちんと見てほしいという気持ちも、母親の手柄で誉れを受けたくないという気持ちもあった。しかし何よりは――、ハリーが己の感情を見つめて考え込んでいると、ダリルが穏やかに微笑んだ。普段冗談を飛ばし合っている時とは異なる、慈愛に満ちた表情は彼女の美しさを存分に引き出していたが、ハリーはその容貌に見とれるよりも、胸の内で何かが外れて行く不安を感じていた。

「彼らの言ったなかに一つ正しいことがあるわ」
 ダリルはハリーから視線を逸らすと、踊り場で立ち止まっているハリーを無視して段を下る。三段ほど下りてから振りかえり、自分を見つめている緑の瞳を見上げた。「私のお父様はヴォルデモートの配下だった。これだけは真実よ」
 ハリーはダリルを凝視したまま、何も言えないでいた。ダリルがヴォルデモートと呼び捨てたことへの衝撃もあったし、何よりも自分にそんなことを打ち明ける真意が掴めない。恐らく、その情報はタブーの一つであるはずだ。今までずっと家が不利になるような情報をハリー達に洩らさないで、巧みに追求を避け続けていたダリルが何故唐突にそんなことを言うのかハリーにはサッパリだった。
 ハリーの動揺を見て、ダリルがくすりと笑う。
「それで、私も産まれた時からそうなんですって――お父様がヴォルデモートの配下だから、私も産まれた時から彼に仕えることが決まっているそうよ。腕として、道具として、下僕として、何も考えない人形として彼の言う事を聞かなければならないんですって」
 ダリルがハリーから視線を逸らし、どこか遠くを見やった。「私はヴォルデモートのもの……」
「君は君のものだ!」ハリーが声を荒げる。ダリルが再びハリーを見返した。「ええ、そうね」悲しそうに微笑む姿に胸が苦しくなる。
 何故だか分からないが、ダリルの言い様が酷くハリーを苛立たせた。何かがカタ、カタンと外れて行く音が大きくなる。ハリーは頭を振った。言いたいことが台詞にならない。ただ激しい怒りだけがハリーを戸惑わせた。
「そうなのかもしれない――貴方が十二年前と前年度の終わりにヴォルデモートを打ち砕いてくれたから、少なくとも私は十二年間ずっとそう思って暮らしてこれたわ」くるりと前を向いて、ダリルは階段を下る。ハリーはダリルを追って階段を下り始めた。
「待って、」ダリルの右手首を掴むと、ダリルが呻いた。「ご――ごめん。怪我?」慌てて離す。
「そう。捻ったのよ」
「捻った? 医務室に行けばすぐ直して貰えるんじゃ……」
 ダリルは痛みとは別の理由から眉を寄せた。「ちょっと立てこんでて、それにノートを取ったりする分には平気だから……」
 マダム・ポンフリーは勿論怪我の理由を詮索するような人ではないが、一年の頃からお世話になっているからか、ダリルに関しては質問攻めにする嫌いがある。ダリルが黙せば、無理に聞く事はないと思っていても、何となく行きづらかった。
 気まずい沈黙が二人の間に広がったがダリルは気にしていなかった。今更に喋り過ぎたかもと思ったし、このままハリーが黙っていてくれるなら何事もなかったように振る舞おう等と思っていたものの、階段を下り終わるとハリーがダリルに向き直る。
「ダリル、何で僕が前年度末にヴォルデモートを倒したって知ってるの?」
 そう自分に問うハリーの顔は“友達”ではなく、“英雄”だった。ダリルは力なく微笑む。やはり、喋り過ぎた。

 前年度に起こった事件の真相を知るのはハリー達三人とダンブルドアとマクゴナガル教授、そしてダリルぐらいだろう。理由は、クィレルの名誉を守って欲しいと詰めよったダリルにダンブルドアが答えた通りだ。ヴォルデモートが十二年前に滅んだということになっている今、「真相を明かせば混乱が生じる」とのことだった。だから教師たちの殆ども知らないままになっている。
 だから、ハリーにとっては“その事実をダリルが知るはずはない”のだ。そうなれば「何故そのことを知っている」と疑問を抱くのは当然と言えた。事件が起こった時、ダリルはまだハリー達と親しくしていなかったし、ダンブルドアとマクゴナガル教授が一生徒にバラすとも思えなかったのだろう。そうなれば、ハリーのなかで残る選択肢は一つだけだ。
 ダリルは何とも言えない孤独感を抱いた。なるべく明るく見えるように口端を吊り上げて、視線をハリーから逸らす。
『奴はそうではあるまい』ルシウスの声が頭のなかで響いた。『お前が戻ってくるのはこちら側だ』
「ユニコーンをおびき寄せるのに協力したの、私よ」
 ハリーの顔から血の気が引いた。
 これだけで通じるとは思わなかったが、ハリー達は賢者の石を守る為に多くを調べてきたらしい。それともダリルと同じようにダンブルドアから聞かされたのかもしれない。ダリルだって、まさかクィレルが己の声を使ってユニコーン達を呼び寄せていたとは知らなかった。ハリーから猜疑の視線で射抜かれるのは辛かったが、ダリルが口にしているのは全て事実なのだ。
 例えそれが言わなくて良いことだったとしても、そして言うことで抉れるものがあると分かっていたとしても真実だった。ハリーが己をヴォルデモートの配下かもしれないと思って、何の得があるのか、自分の心が軽くなるのかさえ分からなかったが、ダリルは抉れた糸を治そうとはしなかった。ハリーは何か言ってほしそうにダリルを見つめている。
 一言「冗談よ」と言ってくれさえすれば――その言葉の続きをハリーは思い浮かべることが出来ないでいた。

 ハリーの願望を悟りつつ、ダリルは彼の期待を裏切るような言葉を続ける。
「ダンブルドア校長があの日学校に居なかったのは、私が呼びだしたからなの。よく覚えていないけど、相当手こずらせたみたいね」
「らしいって言うのは、どういうこと?」
「魔法のなかに、使うだけで罪に問われるものがあるのは知っているかしら?」ハリーが首を振ると、ダリルがハリーの胸に指を一本付きつけた。「一つめは人を操るための魔法」指をもう一本立てる。「二つ目は人を拷問にかけるための魔法」また、一本。ダリルが押し殺した声と、怖い響きで言い放った。「――そして最後は人を死に至らしめるための魔法」
「順に服従の呪い、磔の呪い、死の呪いと言うわ」
 ダリルが凛と告げる言葉をハリーは何処か遠いところで聞いていた。「……ごめんなさい。きっと無神経だったわね」ハリーが何を連想しているか悟ったダリルは話を中断しようとしたが、ハリーは続きを促した。ダリルはハリーに誤解されて構わないと思っていたし、心のどこかでは父の言うとおりハリーに受け入れられることはないとも思っていた。しかしハリーはこのまま、ダリルを誤解したままでいたくないと思っていた。ダリルを信じたいと言う気持ちがあり、それを自分に打ち明けたダリルの真意を知りたいと思っている。

 噛み合わない。

 もう一度ハリーに促されると、ダリルは口を開いた。
「……ヴォルデモートは私に服従の呪いを掛けたわ」真実を言っているはずなのに、ダリルは己を擁護しているかのような後ろめたさを感じて、それを誤魔化すように急いた口調になる。「それで、指を切ってダンブルドアに届けたの。如何してもダンブルドアを学校から離さなければならなかったから……禁じられた森で待ってます、来なかったら指を全部切って送りますって脅したのよ」
 ダリルはサラリと言ったが、ハリーはダリルの言っている意味がよく分からなかった。ただでさえ服従の呪いというものに対しての認識があやふやなのに、指を切っただの、脅しただの、あんまりにポンポンと何でもない事のように言うので、理解が追いつかない。
 唯一分かるのはダリルはやはりヴォルデモートの配下などではなく、単なる被害者なのだということだったが、ダリルはハリーの考えを見透かしたように、厳しい口調で言い切った。「ハリー、私がやったのよ」ダリルは頭を振る。ハリーの同情も許しも欲しくなかった。
「例え操られていたのだとしても、その事実は消えないわ」
 服従の呪いが許されぬ所以はそこにある。単に操られるだけなら兎も角、この呪文は加害者と被害者の境を曖昧にしてしまうのだ。故に術に掛けた本人以外は、例え掛けられた当人であっても完全には“自分は服従の呪いに掛けられていただけなのだ”と思えない。つまり逆を言えば「服従の呪いに掛けられていた!」と断定的な口調で己の不幸を訴えられる者は八割の確率で嘘を吐いているということになる。しかしそう決めつけることで本当に術に掛けられた者を罪に問うのは忍びないということで、魔法界の法規上「服従の呪いに掛けられたと証言する者は余程の証拠がない限り無罪とする」となっている。

 この呪文の真の恐ろしさは混乱を招くところにあり、ダリルもまさにその術中に嵌っていたのだが、許されざる呪文について中途半端にしか知らないダリルと、彼女以上にその三つの呪文について知らないハリーには分からぬことであった。
 噛み合わないのも当然だろう。ヴォルデモートだけが全てを理解しており、ダリルの自己嫌悪を手のひらで転がして楽しんでいる。

 ダリルの拒絶から気まずい空気が立ち込めていたが、ダリルがおもむろに口を開いた。
「きっと貴方も大変な目にあったでしょうね」酷く申し訳なさそうな顔で、しかし確固とした響きで言葉を紡ぐ。
 祈るように胸の前で手を組み、ぎゅっと目を瞑った。
「お願い。でも、どうかクィレル教授のことをあんまり恨まないで頂戴――」
 その台詞にハリーは頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。多くの点が繋がり、線になる。ダリルがよくクィレルと話していた事、如何してダリルがヴォルデモートに協力する羽目になったか、ネビルがスリザリン生に絡まれているのへむきになったのか、断片としてしか存在していなかった情報が圧迫感を伴うほどの塊になる。同時に先ほど四階から早く去りたいと思った本当の理由に気付いた。
 悪であり、敵でもある。そんな単純な見方で捉えていた人々が生身の人間としてハリーの内へ根を下ろす。ハリーは口元を押さえた。クィレルの皮膚が溶けて行く音と感触が脳裏に蘇る。ダリルを見る事が出来ない。「僕を、恨む?」声が震えた。
 ハリーの動揺に気付いたダリルがハリーの手を掴む。「いいえ!」ハッキリと否定した。そうしてから、泣きそうな顔をする。「いいえ、ハリー! 私、貴方にそんな想いさせるつもりなかった……私は、ただ」ブルーグレイの瞳から涙が零れる。
 ダリルはハリーの手を持ち上げて、頬に寄せた。
「貴方は英雄だわ」ハリーの指をダリルの涙が伝う。「貴方は光なのよ。ハリー、如何して、貴方にそれが分からないの」
 ハリーはダリルの台詞にドビーの言葉を思い出していた。
「私はヴォルデモートのために働きたくない。でも私の家族はそうではないと、貴方も分かっているわね? 貴方達は勿論嫌いでしょうけど、それでも彼らが私の家族なのよ。ハリー、私は貴方達のことが大好きよ。仲良くなれて、とっても嬉しい」
 もう良い。そう言いたくてたまらないのに、口が動かない。聞きたくないのに、ダリルの言葉は鮮明で、鮮烈でさえあった。
 ダリルはハリーの手を離して、涙を零しながら笑う。

「貴方は光で、正義で、英雄――だけど私は闇と、悪と、貴方の敵を見捨てられないの」
 ハリーはダリルに背を向けて、駆けだした。ダリルはハリーを追わず、そこに立ちつくしている。喋り過ぎたとは思っているが、これで良かったのだとも思う。ハリーはダリル・マルフォイを信頼しすぎてはならなかった。“友達”になってはいけなかった。
 ハリーの友達の役はミス・レターで十分だ。ダリルは彼に近づきすぎてはならない。いずれ蘇ったヴォルデモートがダリルの情報を利用してハリーを害そうと企むだろうから、友達で居てはいけないのだ。増してや親友など、無理にも程がある。
 ダリルは涙を拭いもしないでクスクス笑いだした。
 ヴォルデモートのものになりたくないから、そのためにはハリーに彼を倒して貰わねばならないから、だから遠ざける。そこに幸福はあるのだろうか。安らぎはあるのだろうか。分からない。ただ一つ言えることは、己にハリーを裏切る気がないという、それだけだ。
 闇のなかで産まれたからという些細な咎のために何の報いも与えられない、無意味な忠誠だった。

 歯車が噛み合わない。
 

別離

 
 


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