七年語り – CHAMBER OF SECRETS
34 謎かけ遊び
ここに来てから、どれほど時が経っただろう。
すっかり住み慣れた――などとは言い表したくはないものの、体感時間では少なくとも一日は夢のなかで過ごしているはずだ。外の世界、現実ではもっと時が経っているだろう。ダリルは目に見えて苛立っていた。一緒にいる相手はヴォルデモートだし、寝ることも出来ない。それにヴォルデモートの胸倉を掴んだら、いつもの如く服従の呪いを掛けられて、黙って放置された。この男は服従の呪いしか掛けられないのだろうかとダリルは唯一自由になる思考でヴォルデモートを罵り続ける。五時間ほどもそうやって無視されただろうか、ようやっとダリルに掛けた呪いを解いたかと思えば、ヴォルデモートはキャビネットにある本をダリルの上に降らせて「僕を罵るだけの頭があるなら、魔法の練習でもしたら?」と冷ややかに言い放つ。悪霊の火やら、闇の魔法しか載っていない本を渡されて、何を練習しろと言うのだろう。
自分の周りに散らばる本を拾い集めながら、ダリルはヴォルデモートを睨んだ。
「そんなに怒らなくても良いだろう」そろそろダリルの怒りを静めるのにも飽きたらしいヴォルデモートがため息をつく。
「そのうち目を覚まさせてあげるから、機嫌を直したら如何だい」
「直せるはずがないでしょう」
ダリルはキャビネットに本を仕舞いながら、尖った声を出す。
「君が間抜けで僕としては助かったけどね」ヴォルデモートがご機嫌な声音でダリルを馬鹿にした。
「えーえ、私ほどの間抜けはいないでしょうよ!」
最後の一冊を本と本の隙間へ滑り込ませると、ダリルはずんずん大股でヴォルデモートから遠ざかる。彼が掛けている木箱の向かいに腰を下ろした。二人の距離は一メートルちょっとだ。どんなに遠くへ逃げたくても、この狭い部屋のなかに逃げ場はない。
ダリルは膝の上にある拳をぎゅっと握ると、俯いた。ジニーはあの日記をマクゴナガル教授に見せてくれただろうか。否見せてはいないだろう。今もジニーの手元にあるに違いない。そうでなければヴォルデモートの機嫌がこんなに良いはずがなかった。
ヴォルデモートは無論外の出来事を把握しているのだろうが、それをダリルに教えてくれるほど親切ではない。今のダリルにはジニーがまだ無事でいるのか如何かさえ分からない。また何も出来なかった。ダリルは皮膚が白くなるほどきつく拳を握りしめた。
「ジニーがあんなに日記が日記がって言ってたのに、一度も心配しないで……ハーマイオニーの言う通りだわ! もっと早く、考えているだけじゃなくて、知っていることを全部ダンブルドア校長やマクゴナガル教授に話すべきだった!」
そう嘆いて震えるダリルへ、ヴォルデモートは笑みを浮かべる。
ヴォルデモートは確かに親切ではないが、ダリルが思っているほどではない。そうでなければダリルの憶測を肯定し、事の真相を語ることさえ拒んだだろう。尤もそれは真相を知ったダリルが己の愚かさを悔いる様を見て楽しむためという、十分に意地悪な理由がある。
クツクツとくぐもった笑みを零すヴォルデモートへ、ダリルは潤んだ瞳を向ける。「私を起こして」言葉尻が震えていた。
「私を起こして――大体ホグワーツで二三人殺したからって、貴方に何の得があるのよ」
「大した得はないけど君が起きてマクゴナガルにでもペラペラ話したら、どれ程の損失があるか、考えるだけで恐ろしいね」
「じゃあ何も話さなくて良かったわ!」ダリルが声を張り上げる。
「分かってないな。話しても話さなくても、どの道君をあのまま放っておくわけにはいかなかった」
ダリルは口ごもった。だったら、何故自分と関わったのだ。そう言い返したい気持ちはあったが、胸の内に靄が立ち込めて、思考が纏まらない。秘密の部屋とスリザリンの継承者については全て判明したが、そもそもの疑問は依然として謎のままだ。
「もう、何なのよ……」ダリルは泣きそうな声を出した。「大体、なんで私なのよ……魔法論のことだって、所詮詳しい学者を服従の呪いで操れば解決するじゃない。ハリーを殺すのに、私の手なんて必要ないじゃない」
考えれば考えるほどヴォルデモートが自分に固執する理由が分からなくなる。ダリルに何をさせたいのか、分からない。
「……君はそんなにポンポン、呼び寄せ呪文みたく気軽に許されざる呪いを使えると思っているの?」
現実世界で使えばすぐさま魔法省に感知されてしまうだろう。勿論前年度末にヴォルデモートがクィレルを使ってダリルに服従の呪いを掛けたことも、魔法省の記録には残っている。どの道クィレルは死か、アズカバン送りになるかの未来しかなかったということだ。
そうと知ればダリルはどう思うのだろうと、ヴォルデモートは不意にそんなことを思った。ダンブルドアへ不信を寄せるダリルだったが、あの賢人がダリルを慮って幾つかの説明を省いたとヴォルデモートは知っている。勿論それについて教える義理も、ダリルの抱く不信を解いてやるほどの善意も持ち合わせてはいなかったが、ダリルが己を害するか否かではなく、誠実か否かで相手を判断するのが面白いとヴォルデモートは思った。そんな不確かなもので人を見極めようなどと思っているから、ここに留まる羽目になる。
「貴方はポンポン使うじゃない」
キッと鋭いブルーグレイの視線がヴォルデモートをねめつけたが、ヴォルデモートは動じない。いつもと同じように、己の膝の上にある本のページを丁寧に捲った。「“ここ”ではね」流石の魔法省も精神世界での出来ごとまでは関与出来ない。
「まあ君の言う事も一理あるよ。君が今僕の隣にいるのに、大した理由はない。偶然と選択を積み重ねた結果だ」
「つまり不運だったってことね」間髪入れず、ダリルが呻いた。
「何が幸運に転じるかは分からないじゃないか」ヴォルデモートはにやっと笑い、大げさに肩を竦める。
「ここでじっとしてる内にジニーの魂が貴方の記憶体に吸い取られているって言うのに?」
それが如何幸福に繋がるのだと、勿論ヴォルデモートのからかいであることは分かっていたが、ダリルは怒りに身を震わせた。
ジニーの傍にいることも出来ず、彼女が孤独と不安に押しつぶされそうになりながら衰弱していく様がダリルの脳裏に過ぎる。怒りに紅潮した頬を涙が濡らした。「お願い、傍にいて」弱々しく懇願するジニーの声がダリルの頭に響いた。
半年近く共に居ながら、ジニーの不調の理由を見逃してきた己のふがいなさが何よりも苛立たしい。今共にいるのがジニーではなく、ヴォルデモートなのが不愉快だった。また何も出来ず、大事な人が消えて行くのを待つしか出来ないのが、悔しい。
「あの子を殺したら、許さない」
「それで、何が出来る?」
ヴォルデモートが、その赤い瞳に冷酷な闇を蠢かせながら、ダリルの無力さをせせら笑う。
「クィレルを殺した僕に、そして今ジニーを殺しかけている僕に君が何を出来ると?」
反論の言葉は見つからなかった。ヴォルデモートの言う通りなのだと、かっと怒りに熱くなる頭のどこかで理解している。魔力が戻っても、ヴォルデモートの前ではダリルは依然無力だった。事の真相を聞くなりダリルはヴォルデモートへ失神呪文を掛けようとしたが、ダリルが詠唱し終えるよりも先にヴォルデモートが沈黙呪いをダリルに向けて放った。ご丁寧にも、ダリルがヴォルデモートに失神呪文を掛けることへ成功していたら如何なったかなどの説明を加えつつ、“ここ”で使える魔法についての講義を披露してくれた。
『その呪文を選んだのは誉めてあげよう。確かに君をここへ繋ぎとめている僕が意識を失えば、君は起きることが出来る。
ただし僕が君如きの魔法を受けるとちょっとでも思っているのなら、それは愚かな勘違いだ』
「……許さないわ」ダリルは惨めさを噛み締めながら、うわ言のように繰り返した。「絶対に、許さない」
「そうやって勝手にいじけていれば良いじゃないか」
薄い唇から零れる言葉には悪意が満ちている。ダリルの神経を逆なでしようと声音を優しくして、瞳には侮蔑を浮かべて、笑った。
「起きれば全部終わってて、君は悪くない」
「そんなこと思ってもいないくせに、」ダリルは自分がすっかり落ち込んでいる時にヴォルデモートがくれた慰めを思い出していた。今のダリルがそれらの言葉へ抱くのは安らぎではなく、不快感だ。胸のなかに立ちこめる靄が濃さを増す。
「本心さ。君に何が出来る? 弱者が強者に翻弄されるほかないのは世界の理だ」
そう断言すると、ヴォルデモートはページに視線を戻した。しかしダリルは到底本を読む気分にはなれない。俯いているヴォルデモートの、その冷淡さすら思わせるほど整った容貌をじっと見つめていた。ダリルの視線に気づいたヴォルデモートがチラと見返してきたが、何を言うでもなく再びページを捲り、本のほうへ意識を向ける。ダリルとの口論にも、飽きたらしい。
つくづくヴォルデモートがダリルに向ける感情には、己の圧倒的優位と、ダリルの従順さへの信頼が伺える。信頼と言うほど良いものではないが、自分にしてやられることはないと見くびっているのは確かだ。ダリルは眉間を歪めた。
ヴォルデモートの台詞に嘘はない。理などとまでは言わないが、少なくとも弱者が強者をやり込める確立が低いのは真実だろう。それはヴォルデモートと自分の関係を見ても分かることだ。いつだってヴォルデモートは悠々とダリルをあしらい、その感情を弄ぶ。
『……奇遇だね。僕も君のことが大嫌いだよ』
そこまで考えたダリルの耳朶を、過去の音が掠めて行った。その台詞には明らかに動揺の色が浮かんでいて、ダリルが知る限りおよそヴォルデモートらしくない声だった。あの時は突然脳裏を駆け巡った映像と音へ意識が奪われていて気付かなかったが、この台詞は――ダリルは思考を止めた。考えたくなかったわけではない。明瞭なものにせずとも、もう分かっていたからだ。
夢で語られたクィレルの言葉と同じだ。分かっている。嫌になるほど理解していて、だから分からないと嘘を吐き続けていた。
『ねえ、ダリル』ハーマイオニーがしきりに猫耳を撫でつけながら、心配そうな顔をする。『貴女、ジニーのことを心配している余裕があるの? 自分の事を疎かにして、人の事ばかり構っているとどんどん物事がこんがらがって、分かることも分からなくなってしまうし、出来ることも出来なくなってしまうわよ。勿論貴女のそれって、自分のこと以上に他人を案じられるのって美徳だし、長所だわ』
ハーマイオニーは眉尻を下げてダリルを見つめた。
『逃げているなんて言って、ごめんなさい。
だけど貴女を大事に思う人が、貴女が自分を押し殺しているのを見て、どう思うか気付いて欲しいのよ……』
セドリックが厳しい声音で、ダリルに懇願する。
『僕をちょっとでも大事に思うなら、もっと自分を大事にすると約束してくれ』
私は何を考えているだろう。ダリルは思った。今、如何したいと――何もかも無関係に、この男と如何なりたいのだろう。
『不運にも一生出会うことがなく別れる相手もいるだろう』
耳元でセドリックが微笑み、ダリルの問いに答える。ダリルは膝の上の本を閉じた。俯いて、その表紙をそっと指でなぞる。「深い闇の秘術」と題された本も、“トム”の憎しみも、ヴォルデモートの戸惑いも、クィレルの問いも、今や靄ではなかった。
『――ホグワーツには君を縛る鎖はない。君を閉じ込める檻もない。押さえつける蓋もない。君は自由だ。君は何にでもなれる。
君は何でもない、その代わりなんにでもなれる。君は何になりたい?』
ダリルはゆるゆると顔をあげて、そのブルーグレイの瞳にヴォルデモートを映した。少し震えた指を、右手で押さえつける。
死は怖くない。裏切りも怖くない。私は、虚偽に迷い込んだまま私を失ってしまうことだけが恐ろしい。だから、
「謎々は、嫌いかしら」
僅かに言葉尻が揺らいだ問いかけに、ヴォルデモートがダリルへと視線を滑らせる。赤とブルーグレイが繋がった。虚をつかれて憮然としていたヴォルデモートが口端を持ち上げる。「然程……そうだな、嫌いじゃあない」
「ジニーが死ぬまでまだ時間があるのでしょう」ダリルは微笑んだ。「本を読むのは飽きちゃったわ。貴方もそうではない?」
「いや元々読書は好きなんだ。君っていう気分転換の道具もあるしね」
「それじゃあ、今から気分転換しましょうよ」
ヴォルデモートは笑みこそ浮かべているが、心中ダリルを警戒しているに違いない。先までジニーを殺さないでと散々喚いていたのに、急にあっさりその死を認めるような台詞を口にするのだから、違和感を抱かない方が可笑しいだろう。
ダリルは別にヴォルデモートに一矢報いてやろうと、彼に己を警戒させたのではない。ただダリルはなるたけ全てを忘れるように意識しただけだ。セドリックへの気持ち、ジニーへの気持ち、ハリーへの気持ち――全てを忘れて、振る舞うよう意識する。今ここにいるのはヴォルデモートとダリルだけだ。自分が彼へ向ける感情に、他は関係ない。
『僕は自分より下の人間に僕について語られるのが堪らなく嫌だし、知られたくない』
年齢も知恵も魔力も思考能力も聡さも、その全てにおいてダリルはヴォルデモートよりも劣っている。だけど恐れることはないとダリルは思っていた。いつだって、そうだったはずだ。いつもダリルは皆より劣っていて、だけど今までやってこれた。
だから、これからもやっていける。
ダリルはにっこり笑った。
「甘やかに人を誘うが、開けることは出来ず、越えることも出来ない。
人は気がついたらこちらからそちらを見ていて、そちら側にいる“人”はこちらに進もうとしている――これって、だーれだ」
例えそれが彼の怒りを買う事になろうとも、一度出会った者と“出会う”ことなく別れたくはないとダリルは思った。
出会ってしまったから、ダリルはトムのことを知りたいと望む。
七年語り – CHAMBER OF SECRETS