七年語りCHAMBER OF SECRETS
36 閉じた目の上なら、

 

 暫く二人は無言で抱き合っていたが、やがてどちらともなく離れた。今は互いに元居た木箱に腰掛けている。勿論互いに本など読んではいなかった。ヴォルデモートはダリルをじっと見つめ、ダリルもヴォルデモートを見つめていた。視線をぶつけ合いながら、まるで別々のことを考える。ヴォルデモートはダリルがどこまで己の記憶をこじ開けたか考え、ダリルはこれからするべきことについて考えていた。
 口火を切ったのはダリルだった。先まで思索へと意識を向けて、ややぼんやりしていたその顔がやんわり微笑む。
「さあ、トム。私を夢から醒まさせて頂戴」
 ヴォルデモートは何と答えるか考えあぐねているらしかった。それもそうだろう。ダリルにどこまで己の記憶を覗かれたか分からない以上、下手な返事をすれば与えなくても良い情報を与える切っ掛けになりかねない。しかしダリルはヴォルデモートを悩ませるつもりはないし、己の知る情報のなかで彼の知らぬものはないと知っているので、彼の疑問へ素直に答えることにした。
「ジニーが秘密の部屋に連れさらわれる前に、日記のなかにある貴方の魂を私に埋め込めなければならないでしょう」
「……どこまで見た」ヴォルデモートは手のひらで視界を覆って、呻く。
「お父様と日記を誰に使わせるか話しあっていた貴方が、私を分霊箱にしようと思いついたところまで」
 ダリルはケロリと言いはなった。その台詞はつまりヴォルデモートの企みが全てダリルに知られてしまったということを意味する。
 先まで張りつめていた赤い瞳が緩む。それは和やかなものというよりも、「何を言っているんだ、この馬鹿は」と言いたげな緩み方で、ダリルは己がまたもヴォルデモートから馬鹿にされていることを悟った。

 ヴォルデモートは――今ダリルの目の前に存在している、ヴォルデモートの十九の時の記憶体は、日記を見張る為に存在している。
 正確に言えば、その“日記”が愚かなことをしでかして、または愚かな企みに使われて内に込められたヴォルデモートの魂を危険に晒さないよう見張り、事が起こった時には魂を別の器に移す役割を負っている。ヴォルデモートが日記に己の記憶を閉じ込め、それを分霊箱として完成させたのは彼が十六の時だ。ヴォルデモートが日記に閉じ込めた瞬間から、“記憶”は彼と切り離されてしまったが故に十六歳時以上の知識を“ヴォルデモートとして”蓄えることが出来ない。要するに日記のなかの記憶はヴォルデモートとは別個のものとして存在しており、そのためヴォルデモートは日記を信頼するに値しないと判断したのである。
 そういう不信を抱きつつも日記から魂を移さなかったのは、やはりヴォルデモートがホグワーツに並々ならぬ執着を持っていたからだろう。スリザリンの継承者として、当時の自分がやり遂げることが出来なかった“穢れた血の粛清”を行うに、日記のリドルは役立つとヴォルデモートは考えた。ホグワーツ内で事を起こすということは勿論寄生する相手――実行犯は学生である必要がある。子供は相手が己と同じ姿をしているという、それだけで無条件の信頼を寄せるものだ。成人した姿でも相手を己に惹き付けるのは容易いが、学生の姿である利点は人を惑わしやすいということのほかに、具現化して校内を歩いていても然程違和感がないことなどがあった。
 勿論魂を移したからといって日記の内にある記憶体が消えるわけではない。尤も記憶を保つため常に魔力を要するので魂を抜けば機能しなくなるという理由はあったものの、その場合は期限付きとなってしまうが、別の方法で代えることが出来た。

 そう考えると彼が不信を抱きつつも“十六歳の自分”へその魂を埋め込んだままにしたのは、僅かな感情の故なのかもしれない。少なくとも、管理者としての記憶体を作る作業と、己の欠片を失ったリドルの日記を稼働させるための方法を探すことの手間は同じだ。
 結局ヴォルデモートが拘ったのは“十六歳の自分がホグワーツから穢れた血を追い出す”ことだった。

 思い入れが強ければ強いほど、そして拘れば拘るほど――何よりも一番初めに作った分霊箱だからこそ、魂の多くを割いてしまった。ヴォルデモートが一つ失っても他があると日記に対して抱く不信を見過ごせなかったのは、その故である。
 勿論なまじっかのことでは壊れはしないものの、日記が秘密の部屋を開く役割を担っている以上、他の分霊箱と比べて壊れやすい場所にあるのは明らかだった。他の分霊箱と違って人の手に渡ることになる上、分霊箱を壊すことが出来るバジリスクと近しい。
 まさかバジリスクの毒が分霊箱に有用であると知る者がホグワーツ内にいるとは思えないし、そもそも日記が分霊箱だと気付く者がいるとさえ思えないが、ホグワーツにはダンブルドアがいる。何よりも“万一”ということがある。
 十九歳になって“日記で秘密の部屋を開く”ことの危険性に気付いたヴォルデモートは日記の管理者として新たな記憶体を作り、それは己から切り離さずに存在させておくことにした。十九歳のヴォルデモートが誰の魔力に頼ることもなく魔法を使うことが出来、常時アニメーガスとして存在していられたのは、現在のヴォルデモート――本体と繋がっているからだ。しかし前年度末以降ハリーのおかげで本体がすっかり弱ってしまったため、アニメーガスとして存在するだけの魔力にも欠くようになった。レディが夏季休暇中ダリルから離れていたのは、彼女の眼前で姿を現してしまわないようにと用心した結果だ。それでルシウスから数カ月程度はアニメーガス魔法を継続出来る程度の魔力を貰って、ダリルと共にホグワーツに戻ってきたのである。本体が回復しだしたのは十一月も半ば頃であるから、ダリルの申告が真実であれば、その事は知れていないわけだとヴォルデモートは考えた。

 十九歳のヴォルデモートと本体は繋がっているが、その絆は一方的なものである。魔力の供給と同じに本体から情報を与えられるだけで、十九歳のヴォルデモートの情報が本体に伝わることはまずない。
 ヴォルデモートは自分の向かいで不服そうにしている少女へと意識を向けた。

 ダリルの言う通り、ヴォルデモートがダリルの前に姿を現したのは、“日記”にもしものことがあった場合、“日記”から引き出した魂を彼女へ埋め込み直すというのが一番の理由だった。その他にもジニーの持っている“日記”から意識を逸らすためなど細々とした理由はあったものの、当初の目的はそれであり、こうしてダリルを夢に引きずり込んだ時は完全にその計画を実行するためだった。
 ジニーが魂を注ぎ続けたおかげで、“日記”はヴォルデモートの魂を抜きとっても十全に稼働し続ける状態であり、何よりも本来の目的を見失って己の好奇心のままハリーに近づくという愚行を犯した“日記”をこのまま保存しておくのはヴォルデモートの癪に障る。

 しかし役目を終えれば、己がダリルの前から消えることとなるとヴォルデモートは知っていた。

 ヴォルデモートがダリルを器に選んだのは、ダリル本人とは無関係な理由だ。今まで作ってきた分霊箱は全て物体であり、条件さえ整えば――勿論その条件を整えるのが困難なのだが、誰も壊す事を躊躇わないだろう。今の時点で最もヴォルデモートを脅かす存在であるのはダンブルドアと、次いでハリーだ。二人が簡単に壊すことが出来ないような、そんな分霊箱をヴォルデモートは欲していた。そして彼が至ったのはダリルである。ダンブルドアから気遣われ、かつハリーを慕うこの娘を分霊箱にしたなら、例え条件が整ったとして、二人とも何の躊躇いもなく彼女という分霊箱を壊すことは出来ぬだろうとヴォルデモートは踏んだのである。
「おいで」ヴォルデモートはダリルに手を差し出した。
 席を立ったダリルが恐る恐る重ねてきた手を掴んで、引き寄せる。その小さな体を腕のなかに閉じ込めた。ダリルが己と釣り合う歳になるまで、あと幾年要するだろう。そして本体である己と釣り合う歳になることは、永久にない。
 ダリルが首を傾げて、ヴォルデモートを見上げていた。「分かっているとは思うけど、分霊箱になれば君は君の慕う馬鹿共から狙われることになる」ヴォルデモートはブルーグレイの瞳を見下ろして、静かに口にした。
 今までずっとハリーを慕って来たダリルにとって彼の敵として排除される立場になることは辛いことのはずだった。そして彼女が望み続けてきたヴォルデモートの存在しない平和な未来には、彼女も存在出来ぬこととなる。
 二人は穏やかに見つめ合った。ダリルの瞳に戸惑いや動揺は浮かばない。華奢な手がヴォルデモートの頬に触れる。
「貴方のために死んであげる」
 答えは先と同じだった。その台詞は勿論ヴォルデモートのために紡がれたものではあるが、裏にあるダリルの気持ちに気付けないほど純粋なわけではない。ヴォルデモートは力なく笑い、「ダリル、目を閉じて」と彼女の耳元へ囁いた。その要請を受けて、ダリルの顔はちょっと強張ったが、結局文句ひとつ言わず素直に目を閉じた。
 ヴォルデモートは、ダリルの瞼へ口づけを落とす。恐らくダリルはその口づけの意味を知らないだろうし、ヴォルデモートも真意を知ってほしいとは思わなかった。六年前乱暴に闇を照らして行き、そして今も尚そのことを覚えていないにも関わらず己を照らす光になりたいと望む少女。記憶体としてではなく、肉体を持ち歳を重ねて行く人間だった頃に出会えていたら何か変わったのだろうか。

 このまま記憶体として存在し続けていてもダリルの心は手に入らない。

 ダリルを好く男の存在を思い返し、ヴォルデモートは決意を固めた。
「現実で会おう」
 そう言うと同時にヴォルデモートはダリルの精神を解放した。ダリルの姿が薄れて行き、彼女の肉体が目覚めの準備を整え出したと悟る。毎朝繰り返してきた別れだったが、ヴォルデモートの意識は沼に沈まなかった。

 ゆるやかな光が瞼に差し込む。ダリルは身じろいで、顔の前に手をかざした。視界に僅か落ちる影が彼女を安らがせる。ダリルのブルーグレイの瞳が開かれた。瞳に映るのは見慣れた白いカーテン、耳朶を震わせるのは聞きなれた足音と、カチカチンと触れあうガラスの硬い音――ダリルは己が今医務室にいることを理解した。あの日からどれぐらい経っているのだろうと考えた途端に押し殺した声がダリルの耳に答える。(君がジニーの日記を処分しようとしてから、約三ヶ月経っている)
 実体化したヴォルデモートがダリルのベッドの傍らに膝をついていた。
(……そんなに経っているの?)どうりで声が出しづらいわけだとダリルは思った。眠り過ぎで、体が石のように重い。
(夢のなかでのことは覚えている?)
 そもそも答えなど期待していなかったが、ヴォルデモートはダリルの問いへ問いで答えた。
 ダリルはコクリと頷く。
(じゃあ、部屋まで戻ろう。急がないと、ジニーが秘密の部屋に行ってしまうからね)
 ヴォルデモートはベッド脇にあるテーブルに乗っていたダリルの杖を手にすると、何事か呟きながら一振りした。ダリルの体が透明になる。そしてもう一振りすると、ヴォルデモートの体も見えなくなった。
(音や質量までは消せないから、足音を立てたり、人とぶつかったりしないよう気を付けたほうがいい)
 頷いたが、ヴォルデモートには見えないだろう。そもそも自分の体さえ見えないのだ。ダリルは小さく肯定の返事をすると、モゾモゾとベッドから降りようと――して、(……もう、良い。僕が運ぶ)冷たい腕がダリルの下半身をベッドに押しとどめていた。己の体が見えないのでいつも以上に危険感知能力が低下しているらしい。枕の横についたはずの手が宙に投げ出されていた。
 ヴォルデモートの指がダリルの体をまさぐる。自分でもどこを触られているか分からず、ダリルは赤面した。まあ互いに見えないのだから仕方ない。それに自分のほてった顔にも気づかないなら、それだけで文句はない。暫くヴォルデモートは膝下と背を探してダリルの体をペタペタ触っていたが、やっと見つけたらしくダリルの視界が宙に浮いた。ダリルも己に触れているヴォルデモートの腕を辿って、その首にしがみつく。何と言うか、宙に浮いているようで怖かったのだ。ちゃんと誰かの手で支えられていると実感すると、ダリルは体の力を抜いた。相変わらずヴォルデモートの体は冷たく、己の体温を吸いとられているようにさえ感じたが、既に慣れた体温である。
(行くよ)
(わかったわ)
 ヴォルデモートはマダム・ポンフリーの足音が遠ざかるのを聞くや、カーテンをそっと開いて僅かな隙間から出た。後ろ手にカーテンを閉めて静かに歩く。ダリルはヴォルデモートにしがみ付きながら、その体が歩みを進める度規則的に揺れるのを感じていた。
(実体化出来るなら、まどろっこしいことしないで、貴方が秘密の部屋を開いてしまえば良かったのに)
 音を経てぬよう注意を払っているヴォルデモートと違い、彼に乗っているだけで退屈なダリルがぽつんと零す。
(視たなら分かっているだろ。そんな危険は冒せない)
 ダリルに自分の表情が見えないのを承知でヴォルデモートは薄く笑った。
(――こうやって、二人で外を歩くのって初めて)
 そう零すダリルの表情もヴォルデモートには伺えない。ダリルは目を閉じても消えることのない陽光の明るさに、少し悲しいものを感じていた。ヴォルデモートと出会ってから九カ月が過ぎたのだろうか。その内三ヶ月はなかったも同然なので、半年と言ったほうが正しいだろう。その過ごしてきた時間のうち、二人の間には常に疑心と嫌悪と不安が渦巻いていた。
(もう少し私に余裕があったら、一緒にお庭でも散歩出来たかもしれないわね)
 全てを知っても尚この娘はそんな日和見なことを口にし、ヴォルデモートが穏やかな光のなかで過ごせぬのを己のせいだと言い切る。ヴォルデモートはダリルの言葉に応えなかった。そして、それきりダリルも無駄口を聞く事はなくなって、二人無言でグリフィンドール寮を目指す。医務室のある階から玄関ホールに続く階段を降り、グリフィンドール塔に続く階段を上り、隠し扉を幾つか抜けて、長い階段を上り続ける。辿りついた先でヴォルデモートの目的が果たされるのは明らかだったが、彼は然程急いてはいなかった。
 太った淑女の前に立ち、ヴォルデモートが彼女に囁きかけるとぱっと額が上を向いた。どうやらこの三ヶ月で合言葉は変わったらしい。
 談話室のなかには誰も人はいなかった。授業中なのだろうと思ったが、ひょっとして継承者の事件故に学校が閉鎖されたのかなとも怖くなる。しかし、そうだとすれば日記が部屋に残っているはずがないし、何よりも暖炉脇にある、フレッドとジョージのものだろうカエル卵石鹸の箱がダリルをホッとさせた。ヴォルデモートは談話室を横切り、何の躊躇いもなく女子寮へと続く螺旋階段を上っていく。
 フレッドとジョージが上ろうとした時は上れなかったのに、やはり人ではないからだろうか。ダリルはのんびり、そんなことを考えていた。今から己が行うことを――許可を出したことの重大さを感じさせない思考で、ダリルは微笑む。

「ああ、間に合ったみたいだね」
 部屋の中に入るなりヴォルデモートはダリルをベッドに放り出し、魔法を解いた。
「ま、に……そんな行きあたりばったりに行動していたの?」ダリルは柱にぶつけた頭をさすりながら、口を尖らせる。
 ヴォルデモートはずかずかとジニーの机に歩み寄ると杖を幾度か振り、ダリルが日記を見つけた引き出しを開いた。尤もダリルがアロホモラで解錠した時と違って、多くの鍵が付け足されていた。恐らくアロホモラだけでは開けられないようにと工夫を凝らしたに違いない。勿論ヴォルデモートにとっては鍵としての役割を果たすに値しないものばかりだ。
 日記に杖を向けて持ち上げる。杖先に銀色の霞がたなびいていた。
「それが、貴方の魂?」
 もっとどす黒いものを想像していただけに、ダリルは拍子抜けした。もっとグロテスクに髑髏なんか絡んでいたりして、オオオオ……とか呻いているものとばかり思ったのに、ヴォルデモートの持つ杖先に絡むのはカーテンの隙間から洩れる月光のようだった。
「魂の形状に本人の性質は関与しない」ヴォルデモートが呆れきった声音で、ダリルの思考を見透かす。
「え、いいえ、その、私」ダリルはもごもごと口を動かして、俯いた。
 今から最も邪悪な魔術の一端を負う事になると言うのに、つくづく馬鹿な娘だとヴォルデモートはため息をつく。
 予想通り“日記”にはジニーの魂が満ちていて、ヴォルデモートの魂を抜かれた事に気付いていない。ヴォルデモートの魂を失った“日記”は弱るものの、ハリーが“日記”と対決することになったとして、どの道彼の相手をするのはバジリスクだ。

 ヴォルデモートは日記を元あった場所に仕舞い、ダリルへと振り向いた。
「今から君へ魂を埋め込むための術式を始める」
 赤いカーペットの上を黒い靴が一歩進む。
 ダリルはこくんと頷いた。
 また一歩進む。「君は勘違いしているようだから先に言っておくが、君を分霊箱にするというよりは、僕の魂を君という“魔力の籠った物体”に保存するということだ。だから君は分霊箱と違って脆いし、強力な魔法特性を持った物でなくとも傷つけることが出来る」
 とん、とん、落ち着いた足取りでヴォルデモートはダリルの腰掛けるベッドへ近づく。すらりと伸びた指がダリルに届いた。
「ダリル、そのまま動かないで」指はダリルの頬を撫ぜただけで離れて行った。
 赤い瞳が穏やかに笑う。ダリルは今から行われる魔術の邪悪さも忘れて顔を明るくした。しかし安らいだ気持ちでいれたのは、そこまでだった。ヴォルデモートはダリルに杖を向けた瞬間からトム・マールヴォロ・リドルから、闇の帝王へと戻ってしまった。

「――――、――」
 テノールが異国の言葉を紡ぎだすと周囲を漂っていた穏やかな陽光はかき消え、曇天よりも尚淀んでいる空気がダリルの足元から湧いてきた。ダリルは胸の前で両手を組み、早く全てが終わってしまうように望んだ。初め穏やかだった詠唱は段々に厳しさを増し、それに比例してヴォルデモートの瞳も怖くなる。ヴォルデモートが銀を棚引かせる杖先をダリルに向けた。
 赤い闇がダリルを射抜く。「これで君は僕のものだ」反論しようと口を開いた途端に、その隙間から銀の霞が入り込む。ゴーストの体を通りぬけた時よりも冷たい、身を焼くほどの冷気が体を浸した。ダリルは顔を歪めて喉を押さえる。涙が溢れて頬を濡らすが、その感覚さえ分からない。五感が遮断されるような不安感が胸を占める。ヴォルデモートがダリルを押し倒した。手がダリルの頬に触れる。
「少し楽になっただろう」
 ダリルはヴォルデモートの手に己のものを重ねた。ヴォルデモートの言う通りだった。今までずっと冷たいと思って来た彼の皮膚が、不思議に温かく感じる。そして胸の疼きと、気分の悪さが消えていた。

 きょとんと自分を見上げるダリルへヴォルデモートは微笑む。ダリルの頬へ触れていない指で彼女の着ているパジャマの釦に触れた。ダリルが己の置かれている状態を理解して、顔を赤くする。ヴォルデモートに触れていた手で胸元を隠そうとした。
 ヴォルデモートはその様が面白くて、喉の奥で笑みをくぐもらせる。「生憎、子供を抱く趣味はない」ダリルがヴォルデモートを睨んだ。
「手を退かしてくれ」ヴォルデモートはダリルの脇に置いた杖を手にとって、布の隙間から見える素肌に杖先を当てる。「君はまだ十二だから、君が恐れているようなことはしない――少し魔法をかけるだけだ。さっき言っただろう? 君は脆いから、保護呪文を掛けなくてはならない」ダリルはヴォルデモートの台詞にちょっと考え込んでいたが、やがて両手を脇に下ろした。
 ヴォルデモートは残りの釦を器用に外し、パジャマを肌蹴させる。ダリルは両手で顔を押さえた。幾ら理由があるからと言って、男に自分の胸を見られるというのはこの場で消えてしまいたいほどに恥ずかしい。ヴォルデモートは羞恥に肌を染め、肩を震わせるダリルの鎖骨に口づけを落とした。ビクリと体が竦む。面白いと思ったし、もう少し遊びたいなとも思ったが、ダリルにぎゃあぎゃあ騒がれるのも面倒だと思ったヴォルデモートはダリルの胸部に杖先を付きつけて、描きなれた文様を白い肌に刻んでいく。闇の印を刻み終えると、ヴォルデモートは低く呪文を唱えながら、闇の印の周りに魔方陣を綴る。全てを書き終えると、ヴォルデモートは少し身を起して、ダリルを見た。美しいプラチナ・ブロンドを白いシーツの上に泳がせ、両手で赤い顔を隠して震えている。上半身を覆うものは何もなく、成長途中の薄い胸が外気に触れていた。その白い肌の上にはヴォルデモートの所有物たる証である闇の印が大きく刻まれていて、ヴォルデモートは満足そうに笑った。再び身を屈めて、ダリルの胸にある闇の印へ唇を寄せる。ダリルが嫌々と首を振った。
「お、終わった?」言葉尻も揺らいでいる。「その――もう、服を戻して、良い?」
 ヴォルデモートはその懇願に応えない。ダリルの首元へ顔を埋めて、囁いた。 
「僕はもうすぐ消えるし、現在の僕は君のところへは来れない。尤も僕の記憶は全て現在の僕に移行するから、心配することはない」
 現在のヴォルデモートはこの娘を如何扱うだろうか。それまでは十九歳のヴォルデモートには分からない。しかし殺すことはないだろう。そしてダリルが彼へ尽くすというのなら、本体もこの美しく無垢な娘を手荒に扱いはするまい。
 ヴォルデモートはダリルを抱きしめた。意識が薄れて行く。
「その保護呪文は強力なものだ。単なる呪文程度では君を損ねられないだろう。その代価として痛みがあるが、まあ、死にはしない。それと――」自分に触れる温もりが溶けて行くのに、ダリルが顔を覆っていた手をどかして、ヴォルデモートを見上げていた。
「それと、僕以外の人間に触れた場合磔の呪い相当の苦痛を味わうことになるけど、きちんと言いつけを守っていれば大丈夫だよ」
 それは大丈夫とは言わない。ダリルは羞恥も忘れて、顔色を青くさせた。消える前に何か文句のひとつも言ってやろうと口を動かしたが、罵倒は舌の上でくぐもってしまう。ヴォルデモートがダリルの唇へ己のものを重ねていた。
 ドンドンとヴォルデモートの胸を叩くと、口づけが終わる。絶対にロリコンとセクハラ大魔王ぐらいは言ってやらないと気が済まない。ダリルがそう息まいていると、ヴォルデモートが真摯な瞳でダリルの瞳を見つめていた。

「逃げることも、僕以外の誰かを想うことも、僕以外の人間に触れることも許さない」
 黒いローブが陽光に消えて、己を見つめる赤も日を透かしている。ダリルは思わずヴォルデモートへ手を伸ばした。
 触れることなく宙を掠めた指先は、唯一彼の言葉だけを捉えていた。

「――僕を救ってくれ」

 頬を涙が伝う。ダリルは彼を捕らえそこねた手で再び顔を覆って、嗚咽を漏らして泣きだした。最後の最後で何を言うのだという衝撃と、たかが十二の子供へ縋るほどの孤独の内に彼が消えて行った悲しみが彼女を揺らがせる。
 クィレルを殺した男で、ハリーの両親を殺し、多くを損ねてきた男だ。悪であり、闇である。己がとった行動は愚行であろうとはダリルも痛いほど分かっている。それでもダリルは構わないと思った。彼に与えられる罰を邪魔する気はない。彼が罪人であるのは事実だ。恐らくアズカバン送りなどと生ぬるい結果にはならないだろう。彼の未来にあるのは“死”という一文字だけなのだ。ダリルはそれを否定する気はない。改心などと言っていられる時期は疾うに過ぎている。彼は罰せられなければならない。
 ハリーがヴォルデモートを倒すことへ協力する気はない。己が手伝わずとも彼はやり遂げるだろうし、ヴォルデモートの信頼を得るためには彼へ協力してはならなかった。またヴォルデモートがハリーを殺すことへ協力する気もない。
 ダリルは進む事を放棄した。恐らく、人からすれば己は選択肢から逃げ出した弱者として映るのだろう。しかしダリルはもう誰に何を言われても、決意を揺るがす気はなかった。未来も命も失った己が進めず、また選ぶ事も出来ないのは仕方のないことだ。
 愚かでも、闇に属する人間と思われても、誰の理解も得られなくて構わない。ダリルは己の辿ってきたものを脳裏に過ぎらせた。

 私は闇と光の間で、そのどちらにも寄り過ぎないよう生きていこう。この命が尽きるまで、愚か者として生きていく。
 

閉じた目の上なら、

 
 


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