七年語り – CHAMBER OF SECRETS
38 鏡写しの堂々巡り
ダリルはそれからもぼんやりしていたが、スネイプが耳塞ぎの呪文を掛けなおす頃やっともぞもぞと動き出した。
ベッドに括られた手を外そうと、縄に指をひっかけようとしているが、勿論届くはずがない。スネイプはわずかに身を屈めて、ダリルを覗き込んだ。ダリルは己に落ちる影の主を見上げて、思わず「マッドサイエンティストと被験体のよう」などと考えた。そんなことを考えられる余裕は出てきたが、縄で擦れた手首からは血が出ているし、肩にはガラスが刺さったままだ。しかし疲弊しすぎたからか、痛覚も鈍っている。押しては引く波のように緩やかな鈍痛が体を包み込んでいた。
「外せるかね」スネイプがダリルの手首を見ながら、外せるだろうとは全く思っていなさそうな声で呟いた。
「片手……うご、けば」ダリルは右手を動かす。ギチと縄が手首に食い込んだ。
スネイプは眉間のしわを増やすと、己の右手に向けて杖を一振りした。左手にも同じように冷却魔法を掛けて、ダリルの両手首をベッドに括りつけている縄を解く。ダリルは片手だけ解いてくれれば良いと言ったものの、結局スネイプが全て解いた。
「人間の体そのものは大した魔力を持っておらん。人の温度に反応するのだろう」
エバネスコで縄を消し去り、両手に掛かっていた冷却魔法を終わらせるとスネイプはダリルの疑問へ答えてくれた。
「そうですか」
ダリルはスネイプの言葉に頷いて、そしてまた黙り込む。眠いというわけではないが、元気いっぱいに喋りまくるという気分でないのは確かだ。それに一緒にいるのがスネイプである。確かに色々と世話になっているとは思うし、今だって丁寧に教えてくれたけれど、元が禁じられた森以下の存在だ。ダリルの好きなものランキングのなかで浮き沈みを繰り返すスネイプの現在の順位は櫛と同列だった。櫛と一緒にいても楽しくないと思うのは、仕方のないことだろう。しかしスネイプはダリルのことを櫛と同列に感じていないのか、それとも櫛で髪を梳ることがないのか、何にせよ虚ろな表情で宙を見上げるダリルとお喋りを楽しむ気になったらしい。
スネイプ教授の髪の毛がベタベタしているのは何故だろうと、本人に知られたら冷却呪文なしで皮膚に触られそうなことを考えるダリルへ、スネイプは少し眉間のしわを緩めた。今時ポマードなんて使っているのだろうかとまで考えたダリルが、表情の変化に気付く。
「これは我輩の独り言だ」
椅子に掛けないところを見ると、手短に済みそうだ。尤もスネイプが己のベッド脇の椅子に腰かけて話し出したりすれば、服従の呪いを疑うところだ。ダリルとスネイプはそういう仲であるべきだった。ダリルはこの陰険男が大嫌いだし、スネイプはスネイプで何の因果かダリルを目の仇にしている。そりが合わないと言うのだろうか。何というか、顔を突き合わせただけで苛立つのである。恐らくそう思うのはスネイプも同じだろう。スリザリン生と魔法薬学に関して話している時は比較的穏やかな顔をしているスネイプが、ダリルがちょっとその横を通ったというだけで険しい顔になる。第一、親しい仲のように見舞う関係なら、出来そこないなどと連呼されないはずだ。ダリルはぼーっとスネイプへの罵倒を心中で繰り返す。そうしていると今日一日ずっと己を取り巻いていた非日常が終わるような気がした。
しかしダリルの求めに反して、非日常はまだ続く。
「ダンブルドアはお前が闇の帝王の記憶体と何らかの取引をして、日記から多量の魔力を引き抜いたと思っている」
スネイプの台詞にダリルはちょっと顔を引き攣らせた。平時であれば思い切り顰め面をしているところだろう。やっとダンブルドアの尋問が終わったと思えば、今度はスネイプからだなんてアンラッキーデーにもほどがある。
ダリルの気持ちを悟ったのか、スネイプが「我輩の私的な独り言だ。それ以上でも以下でもない」と念を押すように呻いた。
「返事は要らん。黙って、いつも通り馬鹿げたことでも考えて口をぽかんと開けていろ」
いつスネイプの前でそんな無防備な顔をしたと言うのか。ダリルの眉が寄せられた。心中でスネイプを罵倒するのに忙しく、ダリルはスネイプに気遣われたとは全く気付いていなかった。
返事を要らないと言ったのは、先の痛みが真実薬という魔法特性を持つものを口にしたからか、それともヴォルデモートの話題に反応してのものか分からなかったからである。ダンブルドアあたりならわざとヴォルデモートの話題を振って確かめようとするのだろうが、スネイプはそこまでの危険は冒せないと思っていた。今日一日でダリルが疲弊しきっているのは明らかであり、スネイプはダンブルドアの言った台詞を当人よりも深く理解していた。つまり十二歳の子供が日に三度も強い痛みを受けて、精神的に衰弱しないはずがないのである。ダンブルドアと違って、クルーシオの効果を身をもって知るスネイプは、これ以上ダリルを弱らせることは出来ないと考えた。
本当ならこのまま休ませるのが一番良いのだろうとスネイプは分かっていたが、それでも言葉は止まらなかった。
「真偽は定かではないが、ポッターの持ってきた日記から多量の魔力が流出した痕があることと、貴様が今日一日で闇の帝王と何らかのやり取りをしただろうことは明らかだ」
「ハリー、です」ダリルが口を開いた。瞳は細められていて、表情はよくわからない。「ハリーの力です」
スネイプはダリルが何を言いたいのか理解した。「ポッター如きが闇の帝王を出しぬけたのは、その魔力が十分でなかったからだ」
ダリルは頭を振った。ダリルもスネイプもその場にいなかった以上事の真相を知ることはないが、恐らく二人の内でならダリルのほうが多くを知っているだろう。確かにヴォルデモートは日記から魂を抜き出してはいた。それでもちょっとの躊躇いだけでダリルに移すことを了承したのは、やはりハリーがバジリスクに勝てるはずがないと思ったからに違いない。
ハリーは十六歳の時のヴォルデモート卿に勝ったのだ。ダリルは彼の偉業を思って、ブルーグレイの瞳を輝かせる。
「――彼は英雄です」
先まで疲労しきっていた容貌に光が宿る。口元の笑みからはハリーを慕う強い意志が伺えた。スネイプはダリルの言葉を否定するのも忘れて、その微笑みを見つめた。奇妙な気持ちがスネイプの心に湧いてくる。ハリーは今頃ロンとハーマイオニーと三人で宴を楽しんでいるだろう……ダリルのことなぞ忘れて、友との久々の再会にうかれ、多くの生徒からの称賛を受けているに違いない。
「私は、愚かなことしか、していません」ダリルはスネイプのほうへ視線を滑らせて、微笑みを仕舞う。
「何をしたか、話せそうなら聞いてみたいものだな」
スネイプは胸の内を満たしつつある感情から目を逸らし、ダリルを嘲笑うような表情を作った。ダリルが幼子を見る母親のような顔で、苦笑いをにじませる。一体いつ、こんな顔をするようになったのだろうとスネイプはふと思った。
「愚かな生徒を見るのは、楽しいですか」
「我輩の悪趣味は十全に知っているだろう」
今日はつくづく非日常な一日だった。ハリーはまた向こう見ずな行動をとるし、死んだと思ったジニーが助かり、そしてスリザリンの継承者が誰か判明したと思ったら、ダリルがヴォルデモートと繋がりを持ったと判明し――スネイプが馬鹿にするようなことを言ってもダリルは憤らず、スネイプもダリルを言い負かす気分になれない。それでも明日になれば、またいつも通りなのだろうか。
多分そうなのだろう、表面上は。
ダリルはじっとスネイプの黒い瞳を見つめた。あたかもそこに全ての真実が映っているかのように長い間覗き込んでいたが、やがてふいと視線を逸らした。天井を見上げる表情は硬い。ダリルの指が胸元を押さえた。その指とパジャマの下には闇の印がある。
「未来と命を捧げると誓いました」
スネイプは耳を疑った。
ダリルの言葉が確かで、話の流れを正確に掴んでいると言うのなら、彼女はヴォルデモートに未来と命を捧げると誓ったことになる。
常識から言えばヴォルデモートが今日ホグワーツに入りこむことなど有りえないし、そもそもダリルとの接点さえ浮かばない。確かにダリルはヴォルデモートに忠実な死喰い人であるルシウスの娘だが、純血一族に生まれながらグリフィンドール寮へなぞ入った愚かさは寧ろ彼の人の怒りを買うはずだった。ヴォルデモートにとっての怒りが相手の死に直結していることは言うまでもない。それをダリルが回避したということは、スネイプには考え難かった。胸に死の印を刻まれ、込み入った呪いを掛けられた理由と言うと一層分からない。
憶測を抜きにしてスネイプに分かることは、ダリルに呪いをかけたものがダリルに酷く執着しているという一点だけだ。元々呪いというのは対象へ何らかの執着を持っていなければ上手く掛けられないものだが、体に刻む種類のものはよりそうした面が強く出る。
「それは脅されてかね……」スネイプはダリルの台詞と己の知識とを噛み合わせながら、唸った。
「いいえ、私の意志です」
ダリルは何でもない風に穏やかな声を出した。スネイプは怯えも恐怖も絡んでいない響きにその言葉が嘘ではないことを知る。
「見返りはなんだ?」
「何も」
スネイプが一縷の望みを託して問うたのに――というか、何とかダリルの台詞を理解しようと努力しているのに、ダリルはふんわり微笑んでスネイプの努力を粉塵と化させてしまった。
“あの”陰険スネイプ教授が唖然としているのは、そう見れるものではない。ダリルは悪戯を成功させた時のようにクスクス笑い出した。笑うたびに腹部がじんわり痛む。ベッドから転げ落ちたときに、何かで打ったのだろう。
ダリルはスネイプがぽかんと自分を見つめているのを見返して、口を開いた。
「教授の言うとおり、私は愚かで馬鹿な子供です。劣等感ばかりで、自分は出来そこないなのだってずっと思ってました」スネイプが眉を寄せたので、付け足す。「勿論教授は今でも思っているでしょうね」
今日一日で己が抱いた気持ちを何とか言葉にしようと、多くを振り返る。
夏季休暇中に見た夢、クィレルの言葉から全ては始まった。己は光のなかで生きれないのだろうかとか、きちんとした魔女じゃないから遠慮しなければいけないのだろうかとか、そんなことを考えながらホグワーツに戻ってきた。そして己がスクイブであると打ち明けて、そのあとのハリーの言葉で自分は永久にハリーの親友には出来ないのだろうと感じた。フレッドとジョージ、リー、アリシア、アンジェリーナの台詞に自分は役立たずじゃないのだと胸が一杯になって、ドラコはスクイブでも妹なのだとハッキリ口にしてくれた。セドリックと出会って、出会いは理解であり、出会うことなく別れるのは不運だと考えるようになって、停滞も選択の一つだと知った。何よりもヴォルデモートと出会って、彼に触れてしまった。そこまで脳裏に過ぎらせ、ダリルは笑った。
ダリルがヴォルデモートへ手を伸ばしたいと思うのは、救うとか、見捨てるとか、そんなことよりももっと単純なことなのかもしれない。
ダリルは胸の内に幼いトム・マールヴォロ・リドルの姿を浮かべながら、言葉を続ける。
「でもホグワーツにきて、一杯光がありました。皆、私のこと出来そこないなんかじゃないって言ってくれるんです……」
二年前には考えられなかった幸福がダリルを包んでいる。失ったものもあるが、ホグワーツに来なければそもそも出会うことさえなかったものだ。己と出会いさえしなければと薄ら思う事もある。それでも人は利他的にはなりきれないものだ。
出会いたい。知りたい。関わりたい。触れたい。手を伸ばしたい。
人と人の繋がりの間に幸福があるのだと知ってしまったから、もう二年前の自分には戻れない。皆のいない日々は考えられない。
「それにハリーと仲良くなれました。ハリーは私のことを助けてくれました。ハリーを見ていると、真っ暗で何も見えない道に明かりが射すようにほっとするんです。どこへ進んだら私の欲しいものが手に入るのか分かるようになったんです」
「……死喰い人になればそれが手に入るとでも言うのかね」
スネイプはいつもの嫌味たらしい口調で言ったつもりだったのかもしれないが、その声は静かなものだった。
「真っ暗で、何も見えない夜道に立ってるのは酷く不安なことです」ダリルは祈るように瞳を閉じた。「だけど、不安で寂しいのは夜道も一緒ではないかと思ったんです。皆明かりのほうへ行ってしまって、自身はそちらへ行けませんから」
だからダリルは進まないことを決めた。その暗闇はダリルが四年を過ごした場所だった。何処へ行きたいかも定かではなく、何処かへ行かなければならないという焦燥感だけが胸を焼く孤独、動くこともままならず、頑なになっていたダリルへハリーが手を伸ばしてくれた。
「ハリーは私に手を差し伸べてくれました。だから私も誰かを手を差し出したいんです」
多分ダリルは何も変わっていない。今もハリーに焦がれているし、ハリーのようになりたいと思っている。ダリルの憧れで、彼の為した偉業に関わらず、あの日ダリルに手を差し出してくれたという、それだけでハリーはダリルにとって“英雄”だった。
今度は自分が誰かに手を差し伸べたいと、そう思って、たまたま目の前にいるのがヴォルデモートだったというそれだけだ。ダリルは特別思いやりがあるとか、勇気があるとかではない。ハリーのように度胸があるわけでもないし、ロンのように咄嗟の判断が出来るわけでも、ハーマイオニーのように多くの知識を得ているわけでもなかった。ダリルは常に必要に駆られて度胸を引出し、己の望みが危機的状況に追い込まれてやっと咄嗟の判断をして、少ない知識をやりくりしてその場を切り抜けようとする。愚かで馬鹿な小娘だ。そんな小娘が大したことを出来るはずがないし、どうせヴォルデモートだってダリルが気に食わなかったらぱっと殺してしまうだろう。
そう思ったら少し気が楽になった。
ほっとした表情のダリルと対照的にスネイプは憮然とした顔をしていた。
「それではポッターを助ければいい。奴ほどの間抜けなら、貴様程度の人間でも助けになるだろう」
「ハリーにはハーマイオニーやロンがいますもの」
ダリルは「本当にスネイプ教授はハリーが嫌いなんだなあ」と思いながら、軽い言葉を返した。それはダリルにとってたいした意味のない台詞ではあったものの、スネイプにとっては己の感情を溢れさせるに十分な重みを持っていた。
「それでお前は幸福なのか」スネイプがひたとダリルを見据えた。ダリルはきょとんと、暗い瞳を見上げる。
スネイプの脳裏にジェームズと笑いあうリリーの姿が浮かんだ。己を振り向くことはなく、ジェームズだけを映す緑の瞳。皆が似合いのカップルだと誉めそやすのを耳にする内で燻ぶる感情。十二年前からもう手を伸ばしても届かなくなってしまったものがスネイプの胸を満たす。
「相手の為に、他人のために身を引き――関わらず、裏で小細工をするだけで、何も報われない」
ダリルはスネイプの手へ手を伸ばしかけたが、己に掛けられた呪いを思い出して引っこめる。ダリルには己の何がスネイプの琴線に触れたのか分からない。ただ、この人もごく当たり前に人として動揺したり、何かを強く想ったりするのだと思った。
ベッドに横たわっていた体を捩じって傍らに手をつくと、手首の傷に顔が歪んだ。痛みを堪えながら上体に力を入れて、身を起こす。背後に枕を入れて、寄りかかった。スネイプの顔が先より良く見える。スネイプは片手で額を押さえて、苦しそうな顔をしていた。
「それで、幸福と言えるはずがないだろう……!」
「幸福です」
スネイプが吐きだした疑問へ、ダリルはキッパリと断言した。スネイプが鋭い視線でダリルを睨む。ダリルはぱぱっと手を適当に動かしながら、「いや、私の話です! 私の話ですよね!?」としどろもどろ言い訳をしてしまった。スネイプが深いため息を吐く。
「……大事な人が笑っていてくれるなら、それだけで私は報われています」
「相手が己を選んでくれなくとも、か」
スネイプはすっかり興ざめした様子だったが、それでもダリルの話に付き合ってくれた。
「自分を映さない瞳が笑っていても、それは幸せと言えるのか?」
「私の事を映してくれなくっても、その瞳が笑っていられるよう守ることが出来ます」ダリルはキラキラと瞳を輝かせて、その容貌に美しい笑みを浮かべた。
「ねえ、教授、それって――きっと素晴らしいことですわ」
先ほどまで痛みにのたうちまわっていた少女のものとは思えない台詞だった。手首の皮膚は破れているし、頬には切り傷があり、肩は血で赤く染まっている。それでもダリルは日常と変わりない笑みで、キッパリと美徳を口にするのだった。
「貴様はやはりグリフィンドール気質だ。愚かしい」
泣きたいような、安堵したような、悔しいような、何とも言い表しようのない感情から言葉がスネイプの口から漏れる。
何も変わらないということは、物事が停滞するのはスネイプにとって常に恐怖の対象だった。ダリルを見ると己が幼い頃から大して成長していないと自覚させられる。己が忘れたいと思い、そして願いどおり意識の底へ沈めたはずなのにダリルはその湖面に指を差し入れてパシャパシャと遊ぶ。揺らいだ水が濁る。忘れたい全てがスネイプの胸に蘇る。だからスネイプはこの娘が嫌いだった。
ダリルを目の前にすると、幾度やり直しても何も変わらないのだという絶望を思い出す。
例えシリウスがあの時コンパートメントに来て二人をからかわなくとも、自分をあざ笑うことも、嫌がらせをしてくることがなくとも、スネイプは彼が何をしなくても憎かったのだ。生まれた時から相容れることはなかっただろう。何故なら己が変わらないからだ。変わる方法を知らない。変わるタイミングを幾度となく逃して、それに見切りをつけたリリーは彼の手を振り払った。自分を顧みることのない瞳、その緑が遠くを映しているから、スネイプはリリーに出会ったことも忘れたいと望んでいるのだ。いつか失うことが分かっているから、失う痛みを知るぐらいなら永久に出会わないほうが良い。過去の自分を否定して、向き合うことも記憶として認めることも避けた。
ただ今はもう過去の約束と義理を果たすために生きていて、己が何のために約束をしたのかさえ揺らぎそうになるのを理性が留めている。生の意味を失った肉の抜け殻、過去の己を肯定するために生き続けているだけに過ぎない。
それをダリルは素晴らしいことだと言った。例え顧みられることがなくとも、知られることがなくとも、己が誰かのために何か出来るのであればそれは素晴らしいことで、幸福なことなのだとダリルは躊躇いのない声音で言い切る。
シリウスはダリルだったし、ダリルは過去の彼で、過去の彼はやがてリリーという忘れがたい光に出会う。
ハリーを思うダリルの瞳に満ちる輝きはかつてスネイプの瞳に宿っていたものだった。リリーからの愛情を疑わず、己もまたリリーへの愛情を疑っていなかった幼い頃の幸福がスネイプの胸に蘇る。スネイプにはダリルの言いたいことがよく分かる。
この少女も己と同じ、あの緑の光に焦がれただけに過ぎない。
ダリルはシリウスではなかったし、過去の彼とは無関係で、彼女が出会った光はリリーではなかった。無意識化で同族だと思っていた娘が、己の知らない未来を生きるのかと思うと、そこへたどり着くことが出来なかったことが悔しく、そして心が安らいだ。
違う生き方があったのかもしれないという可能性をダリルが指し示す。しかしそれを得た瞬間、スネイプはそれでも今と同じ未来を選んだだろうと悟った。どんな選択肢があったとしても、リリーのために二重スパイになっただろう。
そして彼女を失ったとしても、リリーの愛しいものを守りたいと望んだだろう。
ダリルの言葉を借りて言えば、そう思えることは、素晴らしいことで、幸福なのだ。それだけ愛しい相手に出会えたということだから。
スネイプは自分を見上げて、スネイプの台詞をじっと待っているダリルへ言葉を落とす。
「ディゴリーとか言う奴と親しくしているようだな」何の感情も見えない声音で言うと、場の空気が凍った。
「な、」
ダリルの顔色が真っ赤になる。何故その話題が出るのか、ダリルにはまるで分からない。
やはり子供だなとスネイプはダリルの狼狽ぶりを鼻で笑った。途端に先まで穏やかな顔をしていたダリルが、スネイプの知る子供に戻る。生意気で愚かで馬鹿で、少しませた十二歳の子供だった。
「大事なものを学生鞄に突っ込んでおくのは感心しない」
スネイプはベッドの下にある鞄を掴むと、ダリルの膝の上に置いた。ダリルが金具を解いて、中のものを取り出す。インク壺、羽根ペン、杖、羊皮紙の束、魔法史の教科書――それと、セドリックからのクリスマス・カードと、その返礼の手紙、ポロライド・カメラ。
「鞄のなかに入っていたものは全て調べられていると思って良いだろう」
単なる友達だと言い訳しようと思ったが、そもそもスネイプは恋人だとか何とか言っていない。“親しい”と言っているだけだ。ダリルはポロライド・カメラを手に持って、口を噤む。確かに男女関係である証拠はカードにも手紙にもなかったが、特定の異性からの手紙を四六時中持ち歩いていたとなれば大体の察しはつくものだ。部屋に置いておくとヴォルデモートに何をされるか分からないからと言い訳したくて堪らなかったが、流石のダリルもそこまで馬鹿ではない。スネイプは耳まで赤くして俯くダリルへ浅いため息を吐いた。
スネイプがカードを手に取って、文章をチラと読む。このカードの文章は、ダリルが少なくともクリスマス前から何かと“危ないこと”をしでかしていたという証拠だった。しかしスネイプは、そういう読み方をしなかった。
ダリルはスネイプにカードを読まれていることへ文句を口にしない。どうせ既に読まれているなら一度読まれても幾度読まれても、一緒なのだ。何よりもここで反応したら、完全に誤解されてしまう。スネイプに己の色恋沙汰など知られた日にはどんな嫌味を言われるか分かったものではない。自分だけなら兎も角セドリックのことも馬鹿にしそう。ダリルは必至で羞恥と戦っていた。
ダリルの予想とは違い、スネイプの台詞は飽く迄穏やかなものだった。
「自分を選んでくれる者がいるのなら手を離してはならない。お前は闇へ落ちるにはまだ若すぎる」
スネイプは文面から伝わってくる、セドリックからの労わりというのを感じ取っていた。子供の恋愛ごっこと馬鹿にすることも出来なくはないが、それでもこの穏やかさこそがスネイプがリリーとの間に望んだものだった。
己は手を振り払い、目の前のダリルはまだ振り払っていない。
「スネイプ教授?」
ダリルが恐々とスネイプの様子を伺うと、スネイプはその膝にカードを落とした。ダリルがぱっと手に取る。よほど大事らしい。
スネイプは口元へ薄く笑みを浮かべた。
「責任感も、お前への愛情も持っていない名付け親からの、最初で最後の忠告だ。心して聞くと良い」
ブルーグレイの瞳が真ん丸に見開かれて、スネイプを凝視している。スネイプ自身、己が彼女の名づけ親だとは生涯口にする気はなかっただけに、するりと言葉が落ちたことへ少しの驚きが胸に広がった。
「ダリル、自分の心には素直になることだ」
決して己のようにはなるな。スネイプは目の前の少女へ、そう口にした。
どんなに幸福と口にしようと、それは望んだ者が己を顧みてくれる穏やかさに代えられるものではない。
ダリルは震える言葉を紡いで、頭を振った。
「貴方だって……選んでくれる人がいるじゃありませんか」
スネイプの居室で見た手紙の主は、スネイプのことを心から案じて、想っていた。この人は一人ではない。しかしダリルよりもスネイプのほうが、物事をよく分かっていた。ダリルがどんなに否定したがろうとも、事実は変わらない。好いた人と連れ添えたなら、それ以上の幸福はないのだ。勿論ダリルの言葉が完全に無意味なわけではない。連れ添えずとも、不幸ではないのだと教えてくれた。
「望んだものは得られなかった」スネイプはダリルの反論を静めるために語り続ける。「手を振り払ったのは我輩だ。尤も振り払わなかったからと言って、得られるはずもなかったがな……」
何と言えばスネイプの言葉を否定できるのか分からず、ダリルは駄々をこねるように頭を振り続ける。その顔が泣きそうに歪んでいた。よくもまあ、他人のことで――しかも大嫌いだと常に明言している相手のことで、そんな辛そうな顔が出来るものだ。スネイプは呆れたような気持ちになった。そう言えば、ダリルを呼び出して解毒作業の説明をした時もそうだった。
やはりこの少女は光に属する生き物なのだ。闇の中で生まれた異端、それは人を惹きつけるものがあるのかもしれない。
スネイプはダリルを慰めるように落ち着いた響きを紡ぐ。
「望んだものが自分を選んでくれる幸運というのは人生にそう幾度もあるわけではない。一度もない者とている」
恐らくダリルは今その幸運を得ている。だからこその忠告だった。スネイプはダリルの手からカメラを取り上げ、目の前にかざす。
「この“幸運”を大事にしろ」
トンとサイドテーブルの上にカメラを置いて、スネイプはカーテンに手を掛けた。そのローブを掴まれる。
「待って下さい」
ダリルはスネイプが振り向くと、ローブから手を離した。
「貴方のことが大嫌いな名付け子からの、最初で最後の忠告です! 耳の穴かっぽじって聞いて下さい」
ブルーグレイの瞳が凛と強い意志を宿して、スネイプを射抜く。
「セブルス、貴方が――貴方が死んだら私が泣きます」
スネイプがダリルの台詞に笑った。
「なるほど」眉間にしわはなく、穏やかな表情でダリルを見返す。鋭い視線を和らげて、黒の瞳を細めた。「……心に留めておこう」
どうやら自分はまだ“現在”に生きているらしい。スネイプはそう思って、今度こそカーテンを開けた。戸口のほうでマダム・ポンフリーが誰かと押し問答しているのが見えて、スネイプはいつも通りの厳格な顔を作る。
「マダム・ポンフリー、ミス・マルフォイは問題ない。見舞客を入れてやったらどうかね」
ダリルは己を“問題ない”とは思えなかったが、スネイプの台詞を疎ましく思ったりはしなかった。膝の上に散らばったものを鞄に仕舞って、見舞い客は誰だろうと心を弾ませる。フレッドやジョージ、アンジェリーナ達だったら、まず驚かせてすまないと謝らなくては――そう思って、身を捩って鞄を床に下した途端声を掛けられた。穏やかで優しい響き、常に人を気遣うような慈愛に満ちた音。
「やあ、久しぶりだね」
カーテンの向こうにセドリックが立っていた。
七年語り – CHAMBER OF SECRETS