七年語り – CHAMBER OF SECRETS
09 夜でしか生きれないもの
ダイアゴン横丁から帰ってきてから一週間が経った。
その頃にはルシウスとナルシッサの夫婦喧嘩もひと段落しており、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店での騒動の記事も笑って読めるようになっていた。見出しには「ギルデロイ・ロックハートを巡る三角?関係」と記されており、アーサーとルシウスはロックハートの本を巡って取っ組み合いの喧嘩をしたことになっていた。この記事のせいでナルシッサに事件がバレた時は記者を憎んだものだが、落ち着いてみれば中々面白いものだ。ジョージとフレッドがこの記事を見て如何思ったか聞きたいと思った。
あの日以来二人からの手紙は届かず、又ダリルも手紙を出しにくく感じていた。しかし宿題の残りを消化するのや、ルシウスの口答式テストが再開したので日々は慌ただしく、別れの気まずさを思い返す暇がなかった。
ダリルはドラコと一緒にレポートを書き、まるでホグワーツに通った一年がなかったかのような一週間を過ごしていた。ダリルはふとハリーもこんな気持ちでいたのかななんてチラリと思ったが、すぐに記憶の底へ落ちて行ってしまった。
皆と手紙をやり取りすることがなくなったためにドビーとは疎遠になっていたが、代わりにキィーリレルがダリルへ再び付きまとうようになった。やっぱり馴れ馴れしいなと思わないではないものの、それでも懸命に己を改めようとするキィーリレルを責める気にはならなかった。それに最初の頃よりはずっと良い。魔法が下手でも、ちょっと距離を置くことを覚えたキィーリレルは鬱陶しくなくなった。
キィーリレルだけに強いるのではなく、なるべく自分も彼女に歩み寄ろうと思ったダリルは、徐々に彼女と打ち解けはじめた。
興奮すると“とんでもなく”馴れ馴れしくなることがあるのには未だに辟易するが、ドラコに「お前だって馴れ馴れしいぞ」と言われ、キィーリレルへきつい言葉を掛けるのは止めようとダリルは決意した。馴れ馴れしいもの同士で、案外良いコンビなのかもしれない。
キィーリレルのなかで一番良かったのは、彼女が前のお嬢様について詳しく話さないことだった。あまり打ち解けていない間柄では、そういう隠し事のあったほうが良い。だからダリルは自分たちの関係が順調に進んで行っているのを時折自覚してはホッとした。
色々と小さな出来事が連なるなかで、一番大きな驚きを与えたのはレディがダリルの部屋に戻ってきていたことだった。
レディは一人で戻ってきたわけではなかった。一ヵ月弱ぶりに黒い小部屋の夢を見たダリルが目覚めると、首元に巻き付いたレディがその赤い瞳でダリルのほうを見ていた。
一度失った物が戻ってくるというのは然程悪い気分ではなかった。相変わらず不気味だなとは思ったものの、なんだか前より親しみを覚えた気がする。「……おかえりなさい」ダリルはレディの頭に指を寄り添わせると、やんわり彼女の帰宅を許した。
それに黒い部屋の夢を見る度心を揺さぶられるダリルは、例え蛇でも己の傍に命ある生き物がいるのは良いことだと思った。例えレディのせいで、そんな夢を見ているのだとしても――段々黒い部屋に行くことを望む自分がいるのをダリルは理解していた。
黒い部屋の夢はレディと共にダリルの下へ戻ってきたが、そこにはもうクィレルはいなかった。
ダリルを脅かすものもなく、扉が何処かにあるとだけ認識するだけで扉を探そうとはせずに一人そこに佇むのが最近の常となっていた。
クィレルのいない部屋でダリルが考えるのは死についてだった。クィレルと自分の狭間で遮る絶対的な壁。
クィレルの台詞を思い返しながら、ダリルは夢か現か分からぬ思索に耽る。ベッドの上で瞼を閉じては黒い部屋を訪ね、そこで眠りに落ちては自室に戻ってくる。最早どちらが夢か分からなくなるほどのリアリティがそこにはあった。
『甘やかに人を誘うが、開けることは出来ず、越えることも出来ない。人は気がついたらこちらからそちらを見ていて、そちら側にいる君はこちらに進もうとしている。悪とは、――とは、そういうものなのかもしれない』
「悪とは」の後に続くのは死なのだろうかと、今のダリルは考えている。
ひょっとすると違うのかもしれないが、ダリルにとってはそれが一番しっくりくる気がしたのだ。
自分は死に向かっているのだろうか。それを悪と言ったクィレルの考えはなんなのだろう。死に向かうことが悪なのだろうか。それではヴォルデモートのように死へ抗うのが善なのかしら? ダリルは夢の中で様々な事を考えた。
叶わないと知っていても人は扉を開けたいと望むし、越えて大事な人をこちらへ連れ戻したいと思うだろう。死者が彼岸にいると理解するまでの時間をこちらにいる者は悲しみ続け、取り戻すために向こうへ進み続けるのだ。それでは自分はクィレルを連れ戻したいのだろうか? いいや安らかに眠るクィレルを、無理にこちらへ戻したくはない。
死について思い馳せると一日が過ぎるのが酷く早く感じる。尤もそれがどちらでの一日かはもう分からないのだけれども。
『私達一緒に生れたけど、きっと一緒に死ぬことは出来ないわ――それに私、ドラコには私が死んだあとも生きていて欲しいもの』
『一緒に生まれても、一緒に死ぬことは出来ないわ――結局人は一人で死ぬし、誰かを置いて逝くのよ』
ダリルは死ぬのが怖いのだろうか。だから、こんなに死について深く考えるのだろうか。死ぬときはどんな気持ちなのだろう。クィレルは、ハリーの母親は、どんな気持ちで逝ったのだろう。一人で逝くのは寂しいのだろうか。眠る時と同じに安らかなのだろうか。
そういう風にとりとめのないことを幾つも繰り返しては見たが、結論らしきものや、そこへ続く手がかりは全く見えなかった。
クィレル教授の話を聞きたい。
死についての思考がウロボロスの輪へ似ていくことを思いながら、ダリルが望むのはそれだった。自分の作りだした虚像でも構わないから自分に何か示して欲しかった。クィレルはダリルにとって常に道しるべだった。手を引いてくれた。好奇心を与えてくれた。そして人生を掛けても結論さえ出せぬだろう問いを残して逝った……。ハリーが、否ヴォルデモートが彼を殺した。
フレッドとジョージは確かにダリルを慰めてくれた。彼らがいたから笑う事が出来る。はしゃぐことが出来る。しかし彼らはクィレルではない。ダリルの話を聞いてくれない。それを詰るわけではない。誰にもクィレル教授の代わりは出来ない。もう、ダリルの道しるべはない。その虚無感は時と共に増すようだった。否、黒い部屋へいる時間に比例して益々ダリルは落ち込むようで、しかしダリルは死について考えるのが嫌いではなかった。いずれ向かう先で、クィレルが最期に自分へ与えてくれた問いだ。
ダリルが考えるべきことは黒い部屋の外にも有った。ダイアゴン横丁でルシウスに黙って何をしていたか、ダリルはすっかりルシウスに話してしまった。誤魔化しが利かなかったということもあるが、一番は話を聞こうとするルシウスが然程激昂していないのが理由として大きかった。そしてルシウスは実際にダリルが三人と何をしたか話しても、途中で声を荒げたりはしなかった。ただ黙って聞き、そうして幾度かダリルを書斎に呼び出した。呼び出される度に何か罰を思いついたのかと怯えたものだが、訪ねてもルシウスはただ雑談を振ってくるだけだった。その日も――八月三十一日、ホグワーツへ戻る前日の夜の呼び出しも始まりはそんな些細な雑談から始まった。
書斎机の前に立つダリルと、その向こう側で椅子に掛けるルシウス。傍から見れば気の置けない会話をしているようには思えないだろうが、それでも二人にとっては然程距離を感じるものではない。二人は普通の父子が話すような些細な世間話を交わしていた。
ルシウスの仕事仲間のちょっとした失敗、夏の間に行ったパーティの内で面白い趣向を凝らしたもの、ダリルの成績、得意科目と苦手科目、それに関するアドバイス等――話題がホグワーツのものに至った故に思い出したのか、それとも最初からその話題に持って行く予定だったのか、ルシウスはフレッドとジョージの名前を口にした。やはりホグワーツに戻るに当たり、釘は刺しておかねばと思ったのだろう。
それでもホグワーツへ退学届を出されるよりもずっとマシだった。だからダリルは“ちくわ耳”の準備を整える。
「一体どんな躾をしたら、あんな風に育つのか知りたいものだな」
ふんとルシウスが鼻で笑う。ダリルは以下に続くだろう罵倒を予想して身構えたが、ルシウスは言葉を続けなかった。口を噤んで、ダリルを見つめる。何を考えているのか、十数秒の沈黙が部屋に満ちた。ダリルは父親の台詞を待つ。一体何なのだろう。ダイアゴンの一件も、前年に起こったことへの尋問も罰も全て終わったはずだ。それ以外でルシウスがダリルに重い話をすることなどあるはずもない。
やがてルシウスはダリルから視線をそらし、トントンと指で机を二度叩いてから口を開いた。
「ホグワーツで有った事は忌々しい……あのグリフィンドールの碌でもなし共と仲良くなったことだけなんだな」
ダリルはルシウスの台詞頷いた。「ええ、他には何も」嘘をついているつもりはまるでなかった。クィレルとの件はダンブルドア以外の誰にも話すつもりはなかったし、ルシウスがそれを気にしているとすら思っていないのである。
ルシウスが心から自分を気に掛けるのは家名に纏わる件でだけなのだとダリルは思っていた。
ダリルがルシウスに束縛されていると思うのはルシウスが嫌うものを望むからだ。もしもドラコのような良い子であれば父親は今の半分ほども自分を気に掛けなかっただろうとダリルは思う。それは愛情の有無に関係なく、結局ダリルが家督を継ぐわけではないからだ。
未だに純血名家のなかでは女の地位は低い。学校へ行ったりする分の自由はあるかもしれないが、男尊女卑的な考えは今も根付いていた。何も考えられない馬鹿な生き物。夫へ仕えることだけが仕事、子供を産むことだけが仕事、立派な後継ぎへと育てるのが仕事。
逆に家名を損ねず、きちんと勤めを果たしさえすれば他に何をしても構わないとダリルは思っていた。
だからダリルにとってあの返事は嘘ではないのだ。“ルシウスが気にするようなこと”は他には何もなかったのである。
愛情はあってもドラコとの関係ほど気安いものではないと、ダリルは両親へそう感じていた。
それがダリルにとっての親子関係だった。常にルシウスよりも自分のほうが身分が下であり、ルシウスが自分をどうこうすることが出来ても、その逆はないのだと思っていた。
今度は自分を如何したいのだろうとダリルは思った。何がルシウスの気に障ったのだろう。
思い当たることは何一つなく、ただ疑問だけを胸に首を傾げるダリル。ルシウスが椅子をちょっと引き、ダリルを手の動きで呼び寄せた。
書斎机をぐるりと回り、おずおずとルシウスの目の前まで歩み寄る。
「……お父様?」
ダリルはルシウスの顔を覗きこんだ。ルシウスのアイスブルーの瞳に自分の容貌が映る。ルシウスがダリルの腕を掴んだ。
「何か他にホグワーツであったなら、今、全て話せ」
ビクリとダリルの身が竦んだ。ルシウスが何を考えているのか分からず、分からないのに何故か酷く恐ろしかった。ルシウスの右の前腕のほうへ滑りそうになる視線を留めて、逃げ出したい気持ちを堪えて、ルシウスの瞳を見つめ続ける。
「マルフォイの娘として恥ずかしいことは他には何もしていません」ダリルはとうとう疑問を口にした。
「そういうことではない」しかしルシウスはダリルの疑問をキッパリ否定した。ダリルはその否定に驚く自分がいることへ気付いた。
純粋に父親として自分を思ってくれているのだろうか。マルフォイの家名とも純血思想とも無関係に自分を案じてくれているのだろうか。ダリルの胸に熱いものが込み上げてきた。親からの無償の愛というのを初めて感じた気がした。
『ダリルよ、ヴォルデモートが戻ってこないという確証はないのじゃ』
ダンブルドアの台詞が頭の中で木霊する。愛しい父親。ずっと自分の成長を見守り続けてくれた人。父親の意に反することをしても、まだ家に置いておいてくれる。それどころか笑みさえ見せてくれる。自分の愛情に応えてくれる。大好きな人。大好きな、人。
ルシウスは人を殺すために杖を振るった指でダリルに触れる。禁じられた呪文を紡いだ唇でダリルを呼ぶ。命乞いをする人々を嘲笑い続けた瞳でダリルを見る。黒いローブの下にある腕には――決してダリルに見せようとしない、その腕には、闇の印があるだろう。
この夏季休暇中、ダリルはずっとルシウスが行って来たことを考え続け、ルシウスのことを恐ろしいとすら思った。ルシウスが自分を利用とするのだろうかとか、自分の友達を殺すのだろうかとか、様々に考え続けた。父親としてのルシウスよりも死喰い人としてのルシウスを思い浮かべてきた。しかし今は如何だろう。自分を見つめるアイスブルーの瞳にダリルは自分を思う父親の姿を感じた。マルフォイの家名とは無関係に自分を想ってくれる父。それを如何して恐ろしいと遠ざけられるのか。過去の罪で拒絶出来るのか。
そうよ、幾らダンブルドア校長が賢くとも、予見者というわけではないわ。ダリルは思った。それに幾ら多くの支持者がいて、人の不和を巧みに煽ることが出来たとして、如何して蘇ることが出来るだろう。今は霞のような姿でいるとダンブルドアは言っていた。そんな姿で一体何が出来ると言うのか。そんな実態を持たない、浮遊霊のようなものへ何故ルシウスが加担すると思ったのか。
ダリルはルシウスの頬に手のひらを添わせ、穏やかに首を振った。「いいえ」ヴォルデモートは戻ってこない。「いいえ、何もありませんでしたわ」ルシウスはもう死喰い人ではない。何もかも過去の話、いつかお伽噺よりも遠くなる昔のこと。「お父様ったら、何を心配していらっしゃいますの?」ダリルはブルーグレイの瞳を細めて、クスクス笑い出した。
ダリルの笑みにルシウスの厳しい表情が解けていく。ルシウスはダリルの腕から手を離すと、ダリルを抱きしめた。ダリルはルシウスの膝の上に掛けて、その胸に頭を擦り付ける。自分は何を不安がっていたのだろうとダリルは思った。
自分はこんなに愛されている。ヴォルデモートがダリルから奪っていくのはクィレルが最初で最後だ。何も損なわれはしない。
「お父様。私、お父様が大好きよ」ダリルは甘い声音で紡いだ。「スクイブかもしれない私をずっと大事にして下さったし、私が何をしても、お父様は結局私がお父様を好きでいるのを許して下さるもの……」ダリルは目を閉じて、ルシウスの鼓動に耳を澄ませた。
全部、何も怖がることはない。ルシウスはダリルの父親で、ヴォルデモートはハリーに再び倒された。ルシウスはもう怒っていない。もう誰も殺さない。全て過去の話だ。だからもう大丈夫。きちんと物事を正し続ければずっと幸福なままでいられる。
悲しいことや、嫌なことがあっても、歩みを止めなければ、いつかそれが幸福に繋がるだろう。
ハリーに礼を言った自分。ほんの些細な切っ掛けでグリフィンドールを選んだ自分。スクイブでなかったらクィレルと出会う事もなかっただろう。ドラコとの溝も出来ず、彼らと一緒に「マグル生まれ」とハーマイオニーを馬鹿にしていたかもしれない。ハリーとも出会わずに、否そもそも出会っていたとしてもスリザリンを選んだに違いなかった。そうしたら今は如何していただろう。フレッドとジョージの件でルシウスに怒られるか悩むこともなかっただろうが、家名を損ねたら自分を愛してくれないだろういう不安を抱き続けていたに違いなかった。
どの選択肢を違えても今を幸せだと思う自分に繋がらない。
死なら諦めることが出来る。それでも生きている愛しい人を失うぐらいならば自分が死んだ方が良いと思った。他の人が詰っても、世間が罪を叫んでも、自分の気持ちを変えることは出来ない。誰かにとってルシウスが罪人であったとしても、誰かの大事な人を奪って来たのだとしても、ダリルはルシウスを疎めなかった。人を殺したことはダリルにとって些細なことだ。ダリルはルシウスが自分の信頼を裏切りさえしなければ構わないと思った。クィレルのことだってそうだ。ダリルが悲しいのはクィレルが死んだからではない、もう会うことが叶わないから、ヴォルデモートが彼の選択に干渉したから悲しくて悔しい。死んだからではなかった。死は単なる結果だ。
少なくともダリルに取って死は全てではなく、死は表面上の善悪しか与えない。重きを置くべきは死に至る過程であり、死ではなかった。
『こ、こ、こちらに来ても、いけないし、そちらに戻ってもいけない』
ダリルはふと夢の中でクィレルが言ったことを思い出した。死の向こう側へ行ってはいけないし、死に背を向けてもいけない。それが人というものだろう。生まれた瞬間から死へ向かって歩き続ける。死は一つの選択肢であり、誰もがいつか開ける扉だ。例外はない。
『それを飛び越えることは出来ない』
「死を飛翔することは、死を飛び越えていくことは叶わない……」
ルシウスの体がビクリと揺れた。ダリルは何事かと瞳を開け、ルシウスを見上げる。ルシウスが目を見開いてダリルを見つめていた。
「ダリル、もう一度聞きたい。――本当に何もなかったのだな?」ルシウスが掠れた声で問う。
まだそんなことを考えていたのか。ダリルは心配性な父が可笑しくなって、クスと微笑んだ。
「ええ、お父様。急にどうしたの?」ダリルは自分がついさっき何を口走ったのかすら意識していなかった。
あれは夢の中の会話だ。夢について思い馳せていて、ルシウスが気に掛けるような何かを口にするはずがないと思っていた。なのにルシウスは瞳の青を鋭くさせて、ダリルの思考を醒ます。
「死の飛翔――フランス語では“vol de mort”と言う」
ダリルは何を言われたのか理解できず、ルシウスの瞳に映る自分を見ていた。
vol de mort、ヴォルドゥモール――ヴォルデモート! ダリルは自分の顔が青ざめていくのを理解した。
夢に出てきたクィレル、自分が作り上げたクィレルの虚像が記憶からダリルに囁きかける。甘やかに人を誘うが――ダリルの聞いたことのない、堂々とした話し方だ。『甘やかに人を誘うが、開けることは出来ず、越えることも出来ない。人は気がついたらこちらからそちらを見ていて、そちら側にいる君はこちらに進もうとしている。悪とは、“かれ”とは、そういうものなのかもしれない』
死ではないの? ヴォルデモートが甘やかに人を誘い、開けることが叶わず、越えることも出来ないと言うのか。ハリーは彼を越えたではないか。ダンブルドアだって例のあの人に匹敵する力を持っている。私がヴォルデモートがいるほうへ進もうとしているの? あの扉が彼だと言うのか? 否、そもそもこの台詞は扉のことを指してはいないのか? ダリルは視線を宙に溶かし、思考を巡らせる。
呆然と自分を見上げるダリルからルシウスは視線を逸らした。そうしてダリルの腰に添えていた手で机の上にある杖を手に取り、短い呪文を唱える。空中に出現した金庫を開くと、中から小さな箱を取り出した。フィニートの台詞と共に金庫は霧散する。
ルシウスが手のひらに収まっている箱を開けると、中に黒い鍵が入っていた。
その鍵が何の鍵かはダリルも知っている。応接間の下にある――ドラコ曰く「秘密の部屋」へ続く通路を出現させる鍵だ。
闇の魔術に関する道具や書籍が多くしまってあるため、ダリルはそこへ行った事はない。しかしドラコは幼い頃からよくルシウスに連れられて行っていたし、ルシウスがそこへ降りていくのを見かけたことは幾度もある。
ルシウスが死喰い人であった過去を話さず、腕の闇の印を見せようとしないのと同様に自分は行くことを許されなかった。
ダリルがその鍵へ触れたくないと思っていることなど知らず、ルシウスがダリルの手に握らせようとする。
「持っておくと良い。役に立つだろう」
ダリルの指に鍵を絡ませようとするルシウス、しかしダリルは赤子のように緩く手を握りしめたまま、受け取ろうとはしなかった。
「その、お、お父様の大切なものなのでは?」声が震える。「つまり……スペアはありませんよね?」
私が持つには相応しくない。大事なものだ。ルシウスがずっと持っているべきで、やがてドラコが受け継げばいい。今までずっとそうやって来たはずだ。ダリルは思った。私は家督を継がない。いつか嫁に出され、マルフォイの名を捨てて行く娘だ。だから、だから――そう願うダリルの気持ちを見透かしたようにルシウスが呟いた。
「お前もこの家に生まれた魔女だ。知らずにはいられぬまいな……」
ダリルは指に込めていた力を抜いた。まさかスクイブでなかったことを悔いる日が来ようとは――ひやりとした硬さが指に絡む。
「お父様が例のあの人の配下だったことを、ですか」ダリルは鍵を受け取ると同時に呟いた。
「やはり知っていたか。いつ知ったのだ?」
ダリルがやっとのことで口にしたというのに、ルシウスはそう驚かなかった。何気ない口ぶりで言葉を返す。ダリルはルシウスの腕の中から逃げたいと強く思った。数分前にルシウスの頬へ手を寄せた自分が恨めしかった。
「いつとは、何となく――七つになる頃には知っていたと思います」
鉄のように重い舌をようよう動かして答えると、ダリルは耳を塞ぎたい衝動に駆られた。「闇の帝王は死んでいない。私にはそれが分かる」ルシウスの声が俄かに弾んだ。聞きたくないと思った。ヴォルデモートは戻ってこない。ダリルは心中でもう一度繰り返す。
「まだ、あのお方の戦いは終わっていない……あの小僧如きに打ち崩されるはずがない」
お父様がどんなにヴォルデモートの帰りを待ち望んでいたとしても、戻ってくることはない……!
「例のあの人が蘇るとは限りませんわ」
出来る限り冗談じみて聞こえますようにとダリルは願ったが、その声は恐怖に震えていた。ルシウスは娘の怯えを見てとり、ぐずる赤子をあやすように優しい声音を出す。「もう子供じみた夢見事を言う歳ではないだろう?」ダリルの表情が凍る。
「本当に闇の帝王が戻ってこないのであれば、お前はあの一年をもっと有意義に過ごせたはずだ」
ルシウスはまるでダリルの学校生活全てを見ていたかのような台詞を言う。そんなはずはないと分かっていたが、ダリルには思い当たることがあった。ダリルのなかに死喰い人を見る生徒達。ダリルに奪われるのではないかと怯える視線。遠巻きにする人々。
「我々のような死喰い人でなくとも――あの方の配下をそう呼ぶのだ――皆、分かっているだろう。何も終わっていないことを」
「終わりました!」とうとうダリルは声を荒げてしまった。華奢な肩が震える。動揺がルシウスに知れるだろうことも顧みず、ダリルは叫んだ。「ヴォルデモートは戻ってきません! ハリーが彼を倒しました、もう彼は」本当に生きているわけではないから、殺すことも出来ん。ダリルはぎゅっと拳を握りしめた。「彼は死にました!!」死んでいない。「戻ってはきません……!」確証はない。
ルシウスは娘が無礼にも主君を呼び捨てたことにも、自分に逆らったことにも気分を害してはいなかった。恐怖に震え、俯いて自分を見ようとしないダリルの顎に指を掛けて無理に上を向かせる。ブルーグレイの瞳に貯まった涙がつうと頬を滑っていった。
「お前は私の娘だ。例えグリフィンドールに入ったとしても無論愛している。だから言うのだよ」
ずっと欲しいと思っていた肯定の言葉。無償の愛情。けれど、こんな形でもたらされるのなら要らなかった。
ルシウスはダリルを愛おしそうに見つめる。愚か者を見つめるように、優しい視線を注ぐ。闇のなかで育ちながら、己をとりまく全てを知らず、愚かにも光のなかで暮らせると思い込んだ娘。この一年でルシウスはダリルの素質を幾度も訝しんだが、しかし結局何も不安がる必要はないと思った。ダイアゴン横丁で、ダリルはルシウスを恐れなかった。罪を憎めなかった。
この世界には光の中で幸福になれない種類の生き物がいる。
ルシウスは顎を掴んでいた指でそっとダリルの涙を拭った。
「ポッターやウィーズリー共とはいずれ袂を分かつこととなる」
どんなにダリルが光を望もうと、あのなかで暮らすのは己を消耗するだけだ。それを望み続ければいつか必ず不幸になる。
「もしも例のあの人が戻ってきて、私が魔法を使えるようになっても、私は……私は、彼らを――かれらへ」ダリルは頭を振った。「私はあの人の下では動きません。あの人のために指一本動かしません」
「なら、そうすれば良い。ナルシッサとてお前と同じだ。ベラと違い、あの方へ直接的な奉公は行っておらん。だからお前も……」
「私は、お父様やドラコが人を殺すのを見たくないんです!」
ダリルはルシウスの台詞を遮った。「もう良いです! もう、何も話したくない」ルシウスの腕の中でダリルがもがく。しかしルシウスはダリルを離そうとはせず、その腰へ再び腕を回した。空いている手で左手首を掴む。「あまり暴れると、どこか痛めるだろう」呆れたような響きで、ため息交じりの台詞を落とした。「でしたらゆっくり下りますから、離して下さい!」ダリルの言葉に応えはない。それから暫くダリルは戒めを解こうとバタバタしていたが、数分も経てば体力が尽きてしまった。浅い息を繰り返すダリルを見て、ルシウスが押し殺した笑みを洩らす。ダリルは赤くなった。「ヴォルデモートなんて大嫌い!!」肩で息をしながら吐き捨てる。
ルシウスは何も言わなかった。ただ自分を見ようとしないダリルの横顔をじっと見ている。
「あの人が何を与えてくれるの?! 如何してマグルを嫌うのよ! 私達同じ人間だわ……! それに、ハリーは両親とも魔法族だって言うわ! ロンだって、フレッドだって、ジョージだってそう!! ハーマイオニーは、マグル生まれでも……私よりずっと賢いわ」
ダリルが吠えた。尤もルシウスにとっては小型犬がキャンキャンじれるのと何ら変わりないものではあった。
「ヴォルデモートなんて思想のない、単なる殺人者じゃない。そんなことをして――し続けていれば、やがて魔法族を滅ぼすわ」
「滅んでも私は一向に構わん」
ダリルはルシウスの言葉にぱっと振り向いた。見開かれた瞳が唖然とルシウスの飄々とした顔を見つめる。
「何故? 如何してそんなことが言えるの――お父様は魔法族の未来が大事ではないの?」
ルシウスの言う、皆が抱いている純血思想というのは魔法界の未来を思ってのものではないのだろうか。ダリルはルシウスの台詞が信じられなかった。「如何して……」儚い響きを零すと、ルシウスの容貌に一瞬憎しみが過ぎった。ダリルは見たことのない父の顔に黙り込む。
「私が大事なのはお前たちだけだ」
ダリルの怯えに気付いたルシウスが娘を安心させるようにそう呟いた。そして続ける――先ほどの憎しみを蘇らせる。
「滅びの未来がお前を如何やって害する? そんなことよりもマグルが魔法族を迫害することのほうが、あのお方がお前たちを殺すことのほうが早いのだ……!!」
「死んだって構わない!」
ルシウスの台詞に叫んだ瞬間、頬がかっと熱くなる。ルシウスがダリルの頬を叩き、冷たい視線をダリルに注いでいた。
「……痛い」
ダリルは頬を手で押さえた。じわりと、涙が視界へにじむ。ルシウスに暴力を振るわれたのは初めてだった。今までどんなに怒った時でもルシウスは決して手をあげることはなかった。
酷く怒らせてしまったとダリルは思っていたが、ルシウスは怒っていなかった。
「そうだろう。しかしあの方の拷問はこれよりずっと苦痛を伴うものだ。そして死はずっと恐ろしい」
ルシウスはひたすらに呆れたような声音で、無知な娘を諭す。
「私はまだ十二です。死とも、罪とも、闇とも無縁な年頃です」ダリルが頬を押さえながら呟いた。
怒りか、羞恥か、恐怖か――感情が混ざり合ってよく分からない。何も知りたくなかった。ルシウスの口から死喰い人なのだと、聞きたくもなかった現実を突き付けられたことがショックだった。今もまだ死喰い人なのだと告げられたのがショックだった。
叶うなら何もかも夢であって欲しかった。
「お願い、お父様。全部嘘だっておっしゃって。そうしたら私ホグワーツに戻らなくて構わない。お父様の望んだとおりに生きるわ」
「それを選んだのはお前だ」
ルシウスはダリルの懇願を切り捨てる。
「スリザリンに入っていれば、お前へこんなことを告げることもなかった。お前は余計なことを知り過ぎたのだ」
「余計なことって?」
ダリルの声が鋭くなった。潤んだブルーグレイがルシウスを睨みつける。「ヴォルデモートが人を殺すということ? どうやって人を殺すかということ? どれ程巧みに人と人の間の不和を煽るかということ? 大事な人を殺されれば胸が痛むと知るのが、そんなに無駄なことなの?」ダリルはルシウスの胸板に縋りついた。「あいつはクィレル教授を殺したのよ!」涙で視界が白くなる。
ぼろぼろと涙を零しながらダリルは悲鳴に近い訴えを続けた。
「クィレル教授の心をぐちゃぐちゃにして殺したわ! 彼の骨一つ残らなかった!! およそ人らしさとは無縁の死に方をしたのよ!! 彼を悼む人はいなかった! ヴォルデモートが死なないから! ヴォルデモートが彼を操ったから!!」
誰も掛けていない椅子。もう続きの書かれることがない論文。きちんと、丁寧に採点し終えられていた試験用紙。覗きこむ人のいない窓。閉じる人がいないカーテン。読む人のいない本。ダリルへ残された言葉。教職に対して誠実だった人。
『最期に君という素晴らしい生徒に出会えたことを、教師として誇りに思う』
『あれは内気だったが、心から、学ぶことや、人に教えるということを愛していた』
「何も悪くなんてなかったのに私に謝ったわ……信頼を裏切ったと、自分を……自分を責めて、苦しんで……」
あの人が今も生きていたなら、ダリルなんかよりもずっと良い生徒に多くめぐり合えただろう。
かくんとダリルが俯いた。涙がルシウスの胸を濡らす。
「私がヴォルデモートを手伝ったから……だからあの人を死なせてしまったわ」
ルシウスはダリルを優しく抱きしめ、その背を撫でさすった。ダリルが嗚咽を漏らす。奪われる絶望。崩れかけていたものの背を不用意に押してしまった後悔。責める相手のいない虚しさ。無知だった自分への憎しみ。
慟哭するダリルにルシウスはそっと囁いた。
「私はお前に“それ”を知ってほしくはなかった」
マルフォイ邸という小さな世界のなかで家族としか関わらずに生きてきたダリル。やがてスリザリン寮のなかで限られた人とだけ付き合い、無知のまま育ってほしいとルシウスは望んできた。なにも彼女が自分を恐れないように思ってだけではなかった。ナルシッサが時折覗かせる怯えや恐怖を、この娘には永遠に知らぬままでいて欲しいと思っていたのだ。家督を継がないダリルは無知でいることが出来る。
なのにダリルが選んだのはグリフィンドールだった。ルシウスの目が届かない遠くを、広い世界を望んだ。無知を拒んだ。
「知らぬほうが幸福なこともある。騙され続けるほうが幸福なこともある。しかし一度知ったなら、お前が納得いくまで知ると良い」
ダリルはルシウスの胸から顔をあげた。そこにはいつも通り、ダリルの知る父親としてのルシウスがいた。
「さあ、明日から新学期だ。そろそろ休むと良い」
戒めが解かれた。ダリルはルシウスの膝から下り、覚束ない足取りで扉を目指す。扉の取っ手を掴もうと手を伸ばした瞬間、手の中の鍵が取っ手に触れた。キチと金属の擦れる音がする。ダリルは鍵を見た。この鍵で訪れる先には何があるのだろう。しかし何を知ってもダリルは光を望むだろう。届かないと知っても手を伸ばし続けるだろう。
「私は……」ダリルは掠れた声で紡いだ。緑の光。ホグワーツ特急で、孤独な自分を助けてくれた人。また会いたいと願い、礼を言いたいと望み続けた相手。グリフィンドールの英雄。手を伸ばした先。ダリルはハリーを思った。
「私はハリーを裏切りません」
ダリルにとってハリーは光だった。グリフィンドールの象徴だった。自分の焦がれる全てに愛されているようで、だから……
「奴はそうではあるまい」
ルシウスが低く吐き捨てる。ダリルは父の言葉に振り向いた。
「お前が戻ってくるのはこちら側だ」
美しい緑の光、ダリルが手を伸ばしたもの。ダリルがすっかり疲れきって部屋に戻ると、ベッドの上にレディが鎌首をもたげて、迎えてくれた。赤い瞳がダリルを見つめる。ダリルは後ろ手で自室の扉を閉めると、寝巻に着替えもせずベッドに倒れ込んだ。
「あなた、ちょっとはペットらしくなったのね」
レディがダリルの顔の横へやってきた。その頭を指で一度撫ぜる。ダリルは瞳の赤をじっと覗きこんだ。
「ヴォルデモートは戻ってこないわ……だから、だから私も戻らない」
そう呟くと、ダリルは眠りへ落ちて行った。
意識が沈む寸前に若い男の声が耳朶を掠めた気がした。――それじゃあ君は、僕が戻ってきたら、あのカーテンの向こうへ沈む黒よりも深い場所へ? 笑みに目を開けようとする。開かない。視界が闇に覆われる。赤い闇、誰かのわらいごえ、朝の差さない涸れた夜。
七年語り – CHAMBER OF SECRETS