七年語り – EXTRA STORY
まだここにいるから、

 

 ナルシッサは家事をしない。

 良家の末娘ということで蝶よ花よと育てられたナルシッサは元から家事をするように躾けられていないし、ホグワーツ在学中に料理やらへ関心を持つこともなかった。一度姉であるアンドロメダにケーキ作りを手伝わされたことがあるが、生クリームを泡立ててる内に利き腕の筋を違えた。本を読むことや詩を書くのが趣味のナルシッサにとって利き腕が使えないというのは酷く不便だ。二日もの間本を読むことも創作活動をすることも出来ないのにナルシッサはウンザリしたが、それでも完成したお菓子が美味しければまた何か違ったのかもしれない。あんなに苦労して作ったお菓子は素人の手作り感満載の芋クサイ味だった。ナルシッサはすっかり料理に苦手意識を持った。大体“手料理”と言えば聞こえは良いが、自分で不味いものを作るより、屋敷僕妖精に美味しいものを作らせた方がずっと良いに決まっている。母親だってそう考えて調理の全てを屋敷僕妖精に任せていたではないか。ナルシッサは己の家庭でも従来のやり方へおもねることにした。つまり調理と掃除等の雑事は屋敷僕妖精へ任せ、洗濯は通いのお手伝いさんに任せるということだ。
 主婦業の一切を放棄しているナルシッサは、空いた時間の全てを読書や骨とう品の手入れといった趣味へ費やしていた。

 食事の時間こそ必ず家族で過ごすようにしているが、勉学や手習いの時間以外は個々で過ごすことのほうが多いマルフォイ家。
 勉学の時間とて、八歳になった頃にはナルシッサが同席することもなく、基本は自学自習となった。ナルシッサが一日に子供と過ごす時間は実質数時間と言ったところだろう。そんな彼女が母親らしいかと問えば、十人中八人は否定するに違いなかった。ドラコとダリルもナルシッサのことを母親というより、貴婦人だとか女家庭教師か何かのように感じていた。
 勿論母親への愛情はある。しかしそれよりも敬意のほうが遥かに強く、共にいて緊張することのほうが多かった。

 まるで母親らしくないナルシッサだが、一年に一日だけ大嫌いな料理へ取り組むことがある。
 それはルシウスの誕生日でもなく、自分の誕生日でもなく、クリスマスでも、パーティに招かれた時でもない。己が腹を痛めて産んだ双子の誕生日にだけナルシッサは厨房へ赴くのだった。そうしてスポンジケーキを焼いて、ヴィクトリア・ケーキを作る。
 アンドロメダのおかげで、ナルシッサは未だにデコレーションケーキを恨んでいた。ヴィクトリア・ケーキには生クリームは使わない。スポンジさえ無事焼きあがれば、あとはバターとラズベリージャムを挟むだけだ。

 料理上手として知られるウィーズリー夫人だが、ナルシッサと同じ良家生まれである。彼女はナルシッサと同じに、全く家事というものを習うことなく長じたはずだ。しかしウィーズリー夫人はヴィクトリア・ケーキを昼食の支度をする片手間でささっと作ってしまう。
 ヴィクトリア・ケーキはフレッドとジョージを押さえつけながらでも作ることが出来るほどに単純かつ簡単なケーキである。ナルシッサはヴィクトリア・ケーキを作るに一切の家事・趣味の時間を投げ打った上で、少なくとも二十時間は費やさねばならなかった。余談ではあるがナルシッサの小姉様であるアンドロメダは、ウィーズリー夫人には及ばぬもののそれなりに料理上手だ。ホイップよりもウィップのほうが似合うと称される大姉様ベラトリックスとて、レシピに記載されたとおりのものを作ることができる。
 血筋や家柄は料理の腕に関係ない。どうもナルシッサ個人の性格やら性質が料理と上手くかみ合わないようだ。律儀なナルシッサは己の料理下手の言い訳に窮した。その娘であるダリルが「材料が私に抗うんだもの」と開き直っているのを顧みるに、彼女は優秀な両親の悪いとこどりをしたらしい。料理の腕は母親似、開き直りは父親似だった。器用さは父親似、律義さは母親似のドラコが重用されるのは自然な流れである。もしもウィーズリー家に生まれたならダリルは酷く肩身の狭い思いをしたに違いなかった。そう考えると料理下手なダリルが料理下手で料理嫌いなナルシッサの下へ産まれたのは必然と言える、かもしれない。

 料理嫌いなナルシッサが人生二度目の料理にして初めてのヴィクトリア・ケーキへ挑戦したのは、ダリルが四歳の誕生日だった。

 ルシウスからそれとなく要求されようとサンドイッチの一つさえ拵えぬナルシッサだ。たかがスポンジケーキを焼くだけじゃないと、奇跡的に邸内へ存在していたレシピ集を手に強気で調理を開始した。それからどれほどが経ったのか――窓の外では星が瞬きだした。
 四歳になったばかりの二人は仄かな眠気を感じつつも、父へじゃれついていた。誕生日が過ぎてしまうことが惜しかったのだ。お父様、どっちがダリルか分かる? と、小さな手で目を擦るダリルがはしゃぐ。馬鹿、口調も変えないとバレバレだろと、そう指摘するはドラコだ。可愛らしい子供に挟まれて、ルシウスはご満悦だった。その前日に浮気をした・してないでナルシッサと押し問答をしたとは思えない穏やかさで微笑む。お前達、そろそろ寝たほうが良いんじゃないか? お父様、来年はダリルもお父様とベッドの上でパーティしたい。
 と、その時、平和な時間の流れるリビングへ扉の傾ぐ音と共に冷気が這いよってきた。

 三人が動揺と共に顔をあげれば、披露しきった様子のナルシッサが暗い廊下を背景に佇んでいた。
 何故か炭を手に持つナルシッサの瞳は死んだ魚に似ていた。
 普段全く隙など見せない、ついでにあんまり可愛げもない妻の変貌へルシウスは「炭なぞどこから見つけてきた」と、真顔で問うた。途端に鬼の形相になった母へ、幼い二人は「この人を怒らせてはならない」と畏怖の片りんを抱いたものだ。十時間の努力を「炭」の一言で片づけられかけたナルシッサは舌鋒鋭く「あなたって本当に無神経だわ」と詰り、「どうしてこんな無礼な人と結婚してしまったのかしら」と嘆き、「あなたは配慮の“は”の字さえ知っていないのではないかと時々思いますわ」と指摘し続けた。父へ怒りをぶつけ続ける母を静めるため、ドラコとダリルは炭を食さねばならなかった。二人の食べ残しを口に押し込まれたルシウスは、それから三日寝室へこもり続けた。

 家族の冷淡な反応へ「もう二度と作りませんからね」と宣言したナルシッサだったが、翌年のバースデーに二人から強請られると再び厨房へ降り立った。二回目のヴィクトリア・ケーキは生焼けだ。自分たちが言いだしっぺということで、二人は昨年より旺盛な食欲を見せるよう努力した。本音を言えば不味かったし、ナルシッサの手作りでさえなければ触れようとさえしなかっただろう。
 その年もヴィクトリア・生焼け・ケーキの八割を片付ける羽目になったルシウスは、三日寝込むこととなった。

 回復したルシウスから「お前達は父様を殺す気か」なんて、割と本気の声音で批難されたりもした。しかし二人で泣き真似しながらナルシッサへ告げ口したらたちまち大人しくなった。それから二年ぐらいは夫婦喧嘩が始まる度に「世の中には妻の手料理を食べて死ぬと騒ぐ人もいますわね」と口にするナルシッサの姿が見られた。否恨みは根深いらしく、今でもたまに言う。
 ダリルに「私とナルシッサの諍いのタネは殆どお前達に育てられている」とぼやくルシウスの顔は真剣だ。でも自分が浮気を追求された挙句「たまには子供に手料理でも振舞ったら如何だ」なんて挑発したんだから――しかも妻が厨房に籠っていることも知っていて、如何いう神経をしていたら「それは炭か」なんて口にできるのだろう。ドラコも概ねダリルと同じ同じ意見だ。「でもレシピを見ながら十時間もかけて、すっかり成人しきった魔女が炭を作り出すとは普通思わないんじゃないか」とも呟いていた。その台詞を「ドラコへ何か仕返ししたい時に告げ口してやろう」と心のメモに書きとめてからもう七年ほどが経つ。勿体ないと使いどころを悩んでる内、時効を迎えてしまった。

 一年に一度とはいえ人間は繰り返すことで学習する生き物である。ダリルが八歳の誕生日には普通のヴィクトリア・ケーキが出てきた。
 今年の六月五日にドラコとダリルは揃って十三歳になったわけだが、九作目のヴィクトリア・ケーキは並のパティスリーのものよりずっと美味しかった。それでも嬉しさはヴィクトリア・炭・ケーキを食べたときと然程変わりない。

 五歳のバースデーの数日前、熱心にヴィクトリア・ケーキを強請ったのはダリルだった。
 記憶力の良いドラコは昨年の惨劇をしっかり覚えていて、チラチラとダリルにアイコンタクトを飛ばしてきた。片割れが気乗りしていない風なのも無視して、ダリルは「お母様、去年と同じのを作ってくださらない?」としつこく強請ったのである。二人きりになった途端ドラコからは「お前みたいなのをみかくおんちって言うんだぞ」などと愚弄された。散々責められたものの、実際に失敗作を前にしたドラコは然程嫌そうではなかった。ただ一人ルシウスだけが遠い目をして、ヴィクトリア・生焼け・ケーキから意識を逸らそうとしていた。
 ドラコとダリルだけが嬉しかったのは多分、二人の欲しかったものがケーキでなかったからなのだろう。二人が望んでいたのは美味しいケーキではなく、共に暮らしている美しい貴婦人が己の母親である証拠、己が彼女から愛されているという確信だった。

 手作りのヴィクトリア・ケーキを傍らのテーブルに置くと、ナルシッサは身を屈めてダリルの額へキスしてくれる。happy birthday my dear little lady――己にだけ聞こえるようにか細い声で囁く母へ、ダリルははにかんだ。ドラコとダリルにとってナルシッサはいつ如何なる時でも完全には気を許せない完璧な淑女だ。ケーキを拵えて貰う度、ナルシッサがきちんと自分の母親であるという安堵が胸を満たす。

 幼い頃から厳しく躾けられ、広い邸内で母子の触れ合いも最小限。手を伸ばしてもすぐには温もりへ触れることは出来ない。
 そんな環境で育った二人には、両親に対する疑念が存在していた。言う事を聞かなければ愛してもらえないのだろうか。自分が両親の求めるものを満たせないから傍にいてくれないのだろうか。両親は本当に自分を愛しているだろうか。別にルシウスやナルシッサが特別子供へ冷たいわけでも、他の親と比べて子を愛していないわけではなかった。彼らもそういう風に育てられたから、だからそれ以外の育て方が分からない。子供が両親に愛されるため良い子でいるから、余計に。

 ナルシッサもドラコもダリルも、何も分からないままだ。
 それでも年々美味しくなっていくケーキを食べながら、二人は「この人から愛されている」と心中の疑念を振り払うのだった。ナルシッサと折り合いの悪いダリルは特にそれが顕著で、だからこそケーキを作ってくれと強請った。一般に母娘というのは仲が良いと言われるが、ナルシッサとダリルは然程仲良くなかった。かといって特筆するほど仲が悪いと言うわけではない。

 普通の家では娘は母から家事を習ったりするものだ。しかしマルフォイ家で娘が母に習う事と言えば行儀作法の類しかない。歩き方が汚いだのお辞儀が浅いだの、訳の分からないことで怒られるのは当然楽しいことではなかった。特に幼い頃のダリルは今よりずっと落ち着きがなく、行儀作法とやらの枠へまるで嵌ることが出来ずにいた。当然ドラコより断然叱られることとなる。それで幼いダリルはなるたけナルシッサと遭遇したくないと思っていた。長じてほんの少し大人しくなったものの、根本的なところは変わらない。第一ずっと室内にいて何の不自由も感じないナルシッサと、すぐにどこかへ抜け出したがるダリルとでは反りが合わないというものだ。
 行儀作法へ苦手意識を持つダリルは口うるさい母親を避けがちになってしまうし、娘に苦手がられているのを察知したナルシッサは己と真逆の性質を持つ娘へどう振舞ったら良いものか悩み、何となく避けられるがままだった。
 ぎこちない母娘関係だ。当人たちも自分達のたどたどしさは理解している。それでも手作りのケーキや自分の将来を気遣う些細な会話から愛されているとは理解していた。ナルシッサも多分娘から求められていることは分かっていると思う。

 ナルシッサはダリルへ向けてよく「貴女が嫁いだら」と口にする。
 ダリルもナルシッサへ甘える時は「私が嫁ぐとき」と枕詞をつけることが多い。

 あれは九歳の頃だったろうか、年がら年中暇人であるダリルはその日ナルシッサのウォークインクローゼットの整理要員に駆り出された。思い出話などポツポツ聞きながら処分する服を箱へ詰めていると、ナルシッサがウェディングドレスをひっぱり出してきた。珍しくも少女のようにはしゃぐ母へ、ダリルは見合い結婚も良いかもしれないと思ったものだ。
 恋を知らずに嫁いでも、母のように夫を敬愛出来るのなら幸福だろうとダリルは思った。
 真っ白いドレスに縫い付けられた白薔薇にそっと触れ、ダリルは「私が嫁ぐとき、このウェディングドレスを着させてくださる?」と呟いた。ナルシッサは微かに微笑むと、「こういうものに流行り廃りはないもの」と応えてくれた。
「大事にしておけば、貴女の娘や孫でも着ることが出来るでしょうね」
 ウェディングドレスと同じように譲ってくれると、嫁入り道具に持たせてくれると約束してくれたものが幾つあるだろう。鏡台、装飾品、食器類、アルバム――あのヴィクトリア・ケーキのレシピが載っている本。古びた本で、そのページにだけナルシッサの書き込みが多い。今年のバースデー、ナルシッサは「貴女が嫁いだらもう作ることもないでしょうし、持っていきなさい」と約束してくれた。決して己が受け取ることの出来ないものだとは分かっていたが、その台詞はその年贈られた何よりも嬉しかった。
 母がブラック家から送り出されてきたように、家族に祝福される結婚がしたいと思った。

 ウェディングドレスも鏡台もレシピ集も、ダリルのものになることはない。
 ヴォルデモートがいつ蘇るかによっては普通にホグワーツも卒業するだろうし、就職もするだろう。しかし遺して逝くと分かっていて結婚するつもりはなかった。だからダリルはおとぎ話でも読んでいる風に、夢見る笑みで、ナルシッサと多くの約束を交わすのだ。叶う事のない約束ばかりで、それでも一つだけは確実にナルシッサから受け継がれるものがあった。

 小麦粉から炭を作る能力だ。

 ダリルは呆然とオーブンのなかの小宇宙に見入る。その集中力と言ったら、背後で騒ぐ屋敷僕妖精のキイキイ声さえ聞こえないほどだった。だってスポンジケーキを、それも図書室でメモしたレシピ通りに配合してオーブンへ入れたはずなのだ。それが如何して炭へ進化してしまうのかダリルには分からない。仁王立ちでオーブンを覗くダリルの脇から、肩車で等身を高くした屋敷僕妖精が被害状況を確認する。
 屋敷僕妖精はただでさえ大きな目を見開かせると床へ降りた。下にいた二匹の屋敷僕妖精と肩を寄せ合い何やら相談し始める。真ん中で支えていた屋敷僕妖精がゴショゴショと喋り、一番下にいた屋敷僕妖精が力強く頷いた。マルフォイ邸には屋敷僕妖精が大勢暮らしている――我に返ったダリルは彼らの行動パターンを思い出し、大慌てで振り向いた。「私は炭が作りたかったのよ。お節介をする暇があるのならさっさと自分達の仕事へ戻りなさいな」毅然とした態度で言い切ると、スポンジケーキを抱えてこちらへ向かっていた屋敷僕妖精が半ばで立ち止まる。伺うような視線に射抜かれた。ダリルが頭を振ると、屋敷僕妖精は残念そうに耳を寝かせ、元の場所へ戻って行く。ダリルは自分でケーキを焼きたかったのであって、屋敷僕たちに同情されたかったわけではない。
 ダリルは屋敷僕妖精のお節介をブツブツ罵りながら作業を続け、その日だけで五個の炭を作り上げた。真っ黒だ。

 ナルシッサが初めて作ったときだってここまで焦がしはしなかった。
 炭を前に、ダリルは考え込んだ。腕を組んで深く、深く考える。ダリルは杖を振って、薪を一束くべた。また考える。ひょっとすると焼き時間が悪いのかもしれないと思い至った。ダリルはレシピに逆らって早めにとりだすことにした。生焼けだった。

 炭が五つと、生焼けが三つと、炭手前の大きいクッキーが一つ。
 ダリルは我が子を前に散々悩んだが、無理やりヴィクトリア・ケーキを作ることにした。のこぎりを使ってクッキーを切り、間にバターとジャムを挟む。無事に完成した失敗作をドギーバッグへ仕舞うと、ダリルは厨房を出た。
 ヴィクトリア・クッキーの被害者はいつもの三人だ。

 被害者Fは「ダリル、俺が思うに“誰か”……凶悪なシリアルキラーが小麦粉の瓶にセメントを詰めた可能性がある」と言った。
 被害者Gは頷く。
「フレッドの言う通りだ。これは人間の食べるものじゃない」
 被害者Fがヴィクトリア・セメント・クッキーで壁から飛び出ている釘を叩きだした。釘が壁へ沈んでいく。「俺達のクリスマスプレゼントは決まりだな」被害者Gがレダクトを唱えたものの、ヴィクトリア・セメント・クッキーは頼もしかった。「サンタさん、どうぞ俺達の目の前に立っている誰かさんがシリアルキラーでないという証拠を下さい」被害者Lは二人よりずっとジェントルマンだった。「間に挟まってるジャム美味いじゃん。どこのメーカー?」それから一週間、三人はありとあらゆる失敗作を食べさせられることになった。
 乱暴なようで女子に優しい三人は大人しく被害にあっていたが、罰ゲームが八日目に突入しかけたのへ被害者F、フレッドが「俺達は残飯処理係じゃないぞ!」と訴えた。尊敬する兄の悲鳴に動いたのはジニーだ。「女の子が作ったものを残飯って何なのよ!!」ジニーは中立の立場からダリルの側へ移動した。尊敬する兄達にはいつでもジェントルメンでいてほしいという気持ち故だ。泣けるではないか。アンジェリーナもジニーの肩を持った。「どんなに不味くっても完食して、にっこり『美味しかったよ』って笑うのが男の務めだ」とアンジェリーナ。「でも流石にこれは酷いよ」と冷静なアリシア。女子は男子の冷静な意見は受け入れないが、女子の冷静な意見は真摯に受け止める。
 ダリルは六人の見守る中でケーキを作ることになった。失敗した。

 一番最初に駄目だしを口にしたのはジニーである。
 ジニーはとっても優しい声音で「ダリル、もっと火は弱くていいのよ」と、微笑した。幼女へでも語るように辛抱強い響きであった。

 使う前にオーブンを温めておいて、ケーキ型を入れる時には弱火にする。火との距離にも注意してねと丁寧に指導され、とりあえず人類の食べられるものが出来上がった。全く膨らんでいないスポンジケーキを、フレッドが「カーペットみたいだな」と評した。料理下手な生き物を見たことがないジョージは「母さんは料理上手だったんだなー」とさり気ない一言でダリルの胸を抉る。
 ダリルは止めたが、アンジェリーナとジニーはカーペット・スポンジケーキをジョージの口へ押し込んだ。自分の料理が罰ゲームに最適であることを理解して、ダリルは深く傷ついた。難を逃れたフレッドが「スネイプに渡そうぜ!!」と活き活きした顔で提案し、リーが「その場で食わせないと、絶対捨てるぞ。どうやって食わせる」なんて真剣に返す。深く傷ついた。
 唯一の救いは、ジョージが「まあ、セメント・クッキーよりは良かったよ」と儚げに微笑んでくれたことだろう。じわじわと泣きそうになっているダリルの頭を撫でながら、ジョージは自分の胃のあたりも撫でる。翌日、ジョージは医務室に運ばれた。

 アンジェリーナやジニーは「食べ過ぎただけ」とか「材料が悪かったのかも」なんて必死で慰めてくれたし、被害者であるジョージまで「いや、ほんと不味くはなかったって、焼き上がるまで飲んでたアップル・サイダーが合わなかったんじゃないか」と否定してくれた。しかしダリルは自分は他人へ手作りのものを贈る資格がないのではと酷く悲しくなった。思えばセドリックも、ダリルの手作りと聞いた瞬間顔を引き攣らせる。「いや、もう僕が作るから!」と言われた。実際に作ってくれた。美味しかった。
 ダリルはセドリックと別れるべきかと、一週間ほど真剣に悩んだ。女としてのアイデンティティが揺るがされているという不安のなかで、ダリルは作っては味見して捨て、作っては味見して捨てを五十は繰り返した。そうこうする内にクリスマスが過ぎ、セドリックから「まずは僕とホットケーキからチャレンジしよう?」と慰められたのに無事破局の危機を乗り越え、年の瀬が迫ってきた。
 あと数日で新年という頃になって、ようやっと無難な味で、尚且つきちんと膨らんでいるスポンジケーキが焼けるようになった。

 ダリルはスポンジケーキを抱えたままグリフィンドール寮の談話室へ飛び込んだ。
 クリスマスとハロウィンが一片に来たかのようにはしゃぐダリルへ、ジニーは今更な質問をする。
「そういえばダリル、なんで急にケーキなんて焼く気になったの?」いつだかハーマイオニーも交えて三人で喋っていた時、ダリルは料理上手な二人から色々聞きだされ、散々注意された。最初こそ粛々としていたが、最終的にぷいっとそっぽを向いて「わ、私は家事なんてしないもの……お母様だってしてないし」なんて屁理屈をごねて逃亡したのをジニーはバッチリ覚えている。
「好きなひとが出来たの?」色恋の予感へはしゃぐジニーへダリルは苦笑を零した。「あー、そうね、フレッドとかジョージとか」お茶を濁し、「なんだなんだ、今度は如何いう兵器を作り上げた」と首を長くしている二人のほうへ逃げる。

 被害者Fと被害者Gはダリルが近づいてくるのに顔色を失くし、「毒物は勘弁してくれ」とダリルを拝み倒しまくった。
 ダリルは散々シリアルキラー扱いされたが、きちんと味見したこと、正規の材料しか入っていない事などを一時間ほど説得したところ二人は「わかった、原材料には毒は含まれてない」と理解してくれた。それでも口にする直前まで家へ帰った被害者Lの幸運を嫉み、平和に過ごしているだろう友人を呪った。「折角の成功作を良いのか? 俺たちゃてっきり、誰かにやるんだとばっかり思ってたけど」と悪あがきを続けていたが、結局は食べてくれた。フレッドとジョージは死ななかった。彼らは「神を信じることにしたよ」と重々しく十字を切る。
 健康に害を与えることはないとは言え、勿論美味しくもない。不味くもないし美味しくもないという感じだ。作成者でさえそう思うのだから、フレッドとジョージにとっては不味かっただろう。しかし二人は散々出鱈目な祝詞を唱えた後で、「美味しかったよ」と言ってくれた。
 ダリルはフレッドとジョージや、ジニー達へ感謝した。皆がいなければ、多分いつまでも炭を作り続けていただろうから。

 とりあえず可もなく不可もなくなヴィクトリア・ケーキを作成できたことへ、ダリルは胸を撫で下ろした。これで大丈夫、安らかに眠ることが出来る。そう思った途端に眠気が湧いてきて、ダリルは早々に宴会から離脱した。
 人気がない代わりに深まる冷気へ震えながら螺旋階段を上り、部屋へ戻った。部屋を温めることさえせずに寝支度を整える。ネグリジェに着替え、ここのところずっときっちり閉めていたボタンをいくつか止めぬままベッドへ潜り込んだ。緩い首回りが心地よい。これで大丈夫だと言う安心と、首を締める襟ぐりがないのにダリルはあっという間に眠りへ落ちた。

 これで大丈夫。喜ばれはしないだろうが、嫌がられることもないはずだ。

 なのに、なのに――ダリルはきゅっと唇を噛んだ。
 リドルは訝しげな顔で、ダリルの手の中にある口の開いたドギーバックを見つめている。
「なに、それ」ダリルはリドルの追求から逃れるように俯いた。「け、ケーキ」
 ドギーバックのなかには、何度目かに作った失敗作が入っていた。焦げ目から鑑みるに、多分ジョージを医務室送りにしたシリアルキラー・ケーキの次の次ぐらいに焼いたものだ。砂糖の量を間違えたものだとも思う。
 ダリルが言葉少なであるのを良いことに、リドルはからかいを口にした。「ケーキというものはもう少し黄色に近い色をしているはずだけど?」リドルは赤い瞳を細めてダリルをせせら笑った。自分のつま先を見つめているダリルにはその表情こそ見えなかったものの、声の調子から悟ってしまう。ドギーバックを握る手に力がはいった。
「まさかそれを僕に食べさせようとか思ってないよね?」
 いつもならキャンキャン噛みついてくるダリルが大人しい。それを不思議に思いながら、リドルが念を押した。ダリルがこの一月ほど“凶悪な物体”を作り上げては他人に食べさせたり捨てたりしていたのをリドルは知っている。まさか夢の中に持ち込むまで強い思い入れを持っているとは思わなかったが、まあ幾度も同じケーキを作っては失敗しているのだから出てきても仕方ないというものか。

 はーと、ワザとらしいため息を吐く。ジョージが医務室送りになったのも、リドルは知っていた。別に美食家なわけでも、食べて体調を崩すわけでもないが、誰が好き好んで罰ゲーム級ケーキを食べたいだろう。「悪いことは言わないから、そのへんに捨てなよ」そのへんと、適当に遥かを指さす。放っておけばその内消えるはずだ。リドルの台詞へ、ダリルの体が微かに強張った。何だかんだでダリルと出会ってからもう一年ちょっと経つ。リドルは「あ、泣くな」と薄ら思った。しかしダリルは泣かなかった。俯いたままで頷く。「そうね」手の力を抜いたのか、ドギーバックが垂直に落ちていった。重力に引き寄せられ、ドギーバックは芝生の上で一度低くバウンドする。あたりにパウダーシュガーとジャムが零れた。段の一番上のスポンジがダリルの履いているローファーへ寄り添うように落ちる。
 ダリルがそっと足を動かすと、スポンジは緑のベッドへ寝そべった。そのままリドルに背を向けて歩き出す。

 ダリルがくるりと踵をかえす瞬間、涙の溜まっている瞳が見えた。

 リドルから三メートルほど離れたところで、ダリルは頬を掻くふりをして目をごしごしこすっている。下手な演技だ。リドルはダリルを追いかけるでもなく立ち尽くした。一体何がダリルの気分を害したのか、リドルには全く分からない。
 真剣にケーキを作っているダリルを、あんまりにからかいすぎたのだろうか? 否、フレッド達のほうが余程酷いことを言っていたじゃないか。それに自分がああいったことを口にするのは初めてのことではないし、今までだって料理の腕をネタにしてきた。そんなら積もり積もったということだろうか。いや怒ったということのなら、やはりキャンキャン鳴くはずだ。
 ダリルの常ならぬ雰囲気へリドルは悶々と考えこんだが、結論は出なかった。

 仕方がない、最初からあれを理解するなど到底無理な話なのである。リドルは浅いため息を落とすと、しゃがみこんだ。ダリルの落としたドギーバックを持ち上げてゆっくり歩きだす。湖畔に生える木の根元で、ダリルが抱え込んだ膝へ顔を埋めていた。

「何、泣いてるの?」ダリルがふるふると頭を振った。その体勢で否定するのは無意味じゃなかろうか。
 リドルはダリルの隣へ腰を下ろした。時折引きつるような音がするのに、泣いているのだと知れた。泣いているのがバレていることなど分かっているだろうに、ダリルは懸命に声を押し殺している。
 静かに泣いているダリルを尻目に、リドルは堅いスポンジの一部を千切って口に運んだ。

「不味い」
 唐突な批評にダリルが顔をあげる。少し赤くなった瞳が、ドギーバッグを手にしているリドルをぽかんと見つめた。しかし頬の涙の痕や、目じりがひりひりするのに気付いたダリルが慌てて俯く。もう一度膝に顔を埋めた。
「げ、現実では、成功したのに」
 くぐもった声が言い訳する。
 リドルはちょっと眉を寄せた。「現実ではね」言葉に出来ない苛立ちをため息として吐きだす。「まあ、また失敗するかもだけど」
 もう引きつるような呼吸音は聞こえてこなかった。リドルは大人げなかったなと不意に考える。そう考えたが、即座に打ち消した。大体“たかが”男にケーキをあげるために一月もの間ケーキを作るぐらいなら、“自分のするべきこと”をしたらどうなんだ。

 それに「これは酷いね」と見たままを言っただけで、何故こんなに気を遣わなければならないのか。リドルは不条理を感じた。
 苛立ち紛れにもう一口食べてみたが、やっぱり悲惨な味だった。
 ジャムの量が多すぎる。スポンジが甘すぎるし、それ以前に硬すぎる。パサパサで喉が渇く。
「……飲み物がないと、これ、きついよ」
 やっぱりクソ不味いねと言おうと思ったが、また泣かれるのも面倒なので寸でのところで言い留まった。ダリルの肩がびくりと動く。そっと顔をあげて、「……ごめん、なさい」と呟く。ローブの袖で顔を擦った。「ごめんなさい」声が震えてる。
 リドルはふいと視線を逸らした。「別に……僕は何食べても体調崩さないから、僕に試食させておけば良かったかもね」大人げないことは止めようと思ったが、隠しきれない不服が声音に滲んだ。セドリックのために一生懸命ケーキを作り続けるぐらいだ。どうせ成功作をセドリックへやって、褒められでもすれば自分にチクチク嫌味を言われたことも忘れてしまうだろう。
 そう思うと気分は軽くなったが、心中の暗さが増した。
 ダリルは急いで涙を拭うと、不機嫌の滲む横顔を見つめた。「おたんじょうび、おめでとう」

「は?」
 リドルはばっとダリルへ振り向いた。ぽかんとダリルを見つめる。赤い視線の先で、ダリルは酷く不思議そうな顔をしていた。
「え……今日、トムの誕生日でしょう?」
 頭が真っ白で、ダリルの台詞の意図が分からない。
 さっきまで自分達は糞不味いケーキのことでピリピリしていたはずだ。それが如何して自分の誕生日に繋がる。

 いや、まずダリルの台詞の真偽について考えよう。リドルは自身を鎮めようとした。そもそもなんで、何なんだ。誕生日? 教えた覚えはない。ないが、そうだ、ダリルはリドルが十九歳になるまで培った記憶は自在に引き出せる。自分の生まれた日を知っていても不思議はない。それに自分は孤児院で生まれたのだから、幼い頃に職員から聞かされた情報が間違っている可能性も低い。そしてついさっきまでダリルが参加していた宴会は新年を待つためのもので、今日は十二月三十一日だ。ダリルの台詞に間違ったところはない。今日はリドルが産まれた日だ。それで、それで何だと言うのだろう。分からない。お手上げだ。
「……僕の誕生日?」
 ダリルはコクコク頷く。そうして視線を落とした。
「ケーキ、私、成功したの持ってこれると思って……ごめんなさい」
 酷く申し訳なさそうな顔をするダリルを前にしても、まだリドルの思考は纏まっていなかった。

「急にケーキを焼きだしたのは、」
「お、思い入れか関心が強いものしか夢の中に持ち込めないってトムが言っていたから……一杯作ってたら持ち込めるかなって、あと、その、普通に下手で……不味いから、練習で焼いてたの」
「一月もここに来なかったのは、」
「だって、ここに来たら分かっちゃうでしょ」

 ダリルは当然と言った口ぶりでリドルの問いに応えていく。リドルは黙り込んだ。
 誰にあげるために一月もの間ケーキを焼く練習をしていたのだなどと聞くことは出来なかった。聞いたらダリルに笑われるような気がするし、口に出した瞬間斜め上の答えが返ってくるかもしれないと思った。
 黙し続けているリドルへダリルは小首を傾げる。そうして脇に手をついて、膝で立った。
 たどたどしい指使いでリドルの前髪を片手で避け、額にくちづける。

「happy birthday my dear little gentleman」
 ああ、そうか、普通の子供は自分の誕生日をこうして祝われるものなのか。リドルは他人事じみた思考でそう思った。

 そういえば十二歳の誕生日、ドラコとダリルが同じように祝われていた。そこまで考えると、やはりリドルの思考は暗礁へ乗り上げてしまう。よく、分からない。勿論一般には誕生日を祝う習慣があるというのを知らないわけではない。これまでリドルの誕生日を祝いたがった女や同級生は多くいたし、実際にヴォルデモート卿を名乗りだすまでは多くの人から祝われていた。そのため全く無縁だったとは言い難いが、どんなふうに祝われようとリドルにとっては己の生まれた日など如何でも良い日でしかない。寧ろ疎ましい日だと言っても良いかもしれない。祝いの言葉へ笑みを浮かべるのは疲れるし、要らない贈り物へ礼を言うのも面倒くさい。ゴミを貰って何故礼を言わなければならないのだと、ひたすらに不愉快だった。ホグワーツを卒業して一番良かったのはバースデー云々祝われることがなくなったことと言って良いかもしれない。なのにホグワーツへ戻ってきたからか、またゴミみたいなものを渡されて、バースデー云々祝われている。
 リドルの冷えた思考がそう呻いた。

 ダリルだってこれまでリドルを祝いたがった馬鹿共と同じだ。
 ゴミみたいなケーキを贈ろうとして、結果一人で拗ねて、リドルが気を遣うことになる。本当に自分の誕生日を祝いたい、不快を感じずに過ごして欲しいと思うのならケーキなんて作ってないで毎日ここへ来て闇の魔術を勉強するべきだ。リドルがいつケーキなぞ欲しいと言っただろう。お前は馬鹿か。少し考えれば分かるだろう。リドルの十九年を知ってて、如何してこの子供はこういう愚かを繰り返すのだ。頭が痛い。知ってるだろう。そういう馬鹿が嫌いだと、自分が彼らを見下してきたと、ダリルは知っているはずなのだ。知っていなければならないのに、幾度も愚行を繰り返す。この子供の偽善と感傷にはつくづく吐き気がする。

 リドルの心中を満たす戸惑いや拒絶の気持ちなど知る由もない――ダリルはぎゅっとリドルに抱き着いて、肩に顔を埋めた。「誕生日に、変なもの食べさせて、ごめんなさい」消え入りそうな声で呟く。自分の本音を知っても、同じ台詞を口にできるだろうかとリドルはぼんやり思った。ダリルは平和な言葉を続ける。「成功したのを持ってこれると思って、でも失敗作ばかりだったものね」
 ダリルはリドルを置いてけぼりに反省会を始める。
「喜ばないかもって、思ったけど、押し付けかもって思ったけど」ダリルがきゅっと唇を噛んだ。「私、お母様に同じ風に祝って貰って、とても嬉しくて……だから」純血の母親と純血の父親に愛されて何不自由なく育ち、ダリルは残酷なまでの幸福を振りまく。
 そうは言っても自分と同じ風にリドルが少しでも喜ぶかもと期待しただろう。そうして一月もの間、フレッド達に茶化されても作り続けたのだろう。愛されて育った自分と、見捨てられたリドルの感性が何処かで符合するなどと、如何してそんな風に思えるのだろう。

 ダリルにだけは知っていて欲しいのに、自分が見下してきた奴らと違っていて欲しいのに、指先さえ触れられない。
 ダリルだけがリドルに触れる。

 リドルは頭を振った。「もう、良いよ」ダリルが束縛を緩めて、リドルへ物言いたげな顔を見せる。
「ダリル」咎めるようなブルーグレイの視線が和らいだ。「もう良いから、もう一度、キスして」ダリルの指がリドルに触れる。よく見れば指先には火傷の跡が多くあった。細い指が眉に掛かる髪をかきあげて、額を撫ぜる。ダリルは先と同じキスを繰り返した。
 じわりとダリルの体温に滲んで、離れていく。座っているリドルと、膝立ちしているダリル。目の前に顔がある。唇へ口付けしやすい位置で、しかしダリルは額にしか口付けてくれなかった。ダリルはリドルの悪意を理解しない無防備さで、己の言葉が喜ばれぬはずがないと過信しきっている傲慢な笑みを浮かべる。陽光を写すプラチナ・ブロンドが水面の様に瞬いた。
「トム、お誕生日おめでとう」
 己がナルシッサへ祝われた時と同じ表情ではにかむ。陽光が視界を抉った。色彩が、瞳に映る世界が熱い。

「……如何したの?」
 ダリルが困った風に眉を寄せて、リドルの目じりをなぞった。指先が滴を捉える。「目が、乾いた」
 リドルはダリルの指から逃れると手の甲で目を拭った。苦しいほどの静寂を喉に詰まらせて泣くリドルを、ダリルがぎゅっと抱きしめた。「じゃあ、目から痛みが引くまで一緒にいるわね」そう口にした瞬間、くんと膝に引きずり込まれた。
 リドルがダリルを抱きしめて、己の腕の中に閉じ込める。痛いほどに強い束縛へ、ダリルは文句の一つさえ零さず大人しくしていた。じわり混ざり合う体温が痛みを宥めてくれるよう、静かにしていた。

 リドルと出会ってから一年と少しが経った。
 己を乞うる腕の中で、己を捕食する籠のなかで、絡められた腕へ溶けていきながらダリルは歳月を思う。一年が過ぎる。一年が終わる。
 今目の前にいるがあの時共に過ごしたものと完全に同じかどうかは分からない。しかし少なくとも同じ十九年を知っている男から、伸ばした指を拒まれなくなった。温もりを乞われるようになった。こうしてゆるゆると時間が過ぎ、ダリルはますます彼から離れられなくなる。

 リドルの温もりへ触れる時間が増え、浅い朝を越え、明けることのない永い夜は確実にダリルの下へやってくる――音もなく。

『happy birthday my dear little lady』
 産まれてきてくれてありがとう、私のダリル。我儘でお転婆な貴女もいずれ淑女になるでしょう。
 ダリルが親である自分の手を離れた先に、自分がそうだったように幸福な未来があると信じて疑わないナルシッサ。幼い頃から常に肺を圧迫していた不安も疑いも、もうダリルを苦しめはしない。愛されていると思う。自分がどれだけ愛されているか、大事にされているか、幸福を望まれているか、ナルシッサの言葉から、ルシウスの仕草からヒシヒシと感じる。
 ダリルがその子へ繋げるものと信じて与えられる愛情を、ダリルは自分一人の身に留めたまま逝く。ナルシッサのウェディングドレスを着ることも、鏡台を貰い受けることもなく、あのレシピを教えてもらうこともなく――積もった空約束はやがて埃となるのだろう。これが死ぬということなのだ。これが自分の愚かさの結果だ。

 馬鹿馬鹿しい偽善から下らない死に方をしたと、誰もが言うだろう。それは正しい。

 ダリルはリドルの背を撫でた。これは精確には“人”ではない。
 人の定義を「他者と繋がっていること」としたなら、今ダリルを抱く温もりは幻聴や幻覚と言った“現象”でしかないのだ。そのために命を捨てて、親から注がれた愛情を伝えるのは真実「無駄」というに相応しい。ダリルがリドルに何をしようと世界は一ミリさえ動かなかった。
 それでも、例え偽善で自己満足に過ぎないのだとしても――疑うなとまでは望まない。例え一瞬でも、欠片に過ぎずとも、愛情を知ってほしかった。ナルシッサから享けた愛情を真似ることで、ほんの少しだけでもリドルの胸の内にある黒いものが紛れれば良いと望んだ。
 

まだここにいるから、

 
 


七年語り – EXTRA STORY