花骸のこどもたち
かみさまだったひと

 

 ひとつの夢をみた。

 肉付きの悪い太腿に頬杖をついて、無心に時の流れるのを待つ。そういう退屈な夢。
 深い眠りのなかで、サスケはぼんやりと兄の帰りを待っている。もしくは、父親から思うような反応を貰えず不貞腐れた自分を持て余していた。なんとなく、色んな事が上手くゆかない。ひとりで、自分の気持ちを落ち着けたい。見慣れた景色のなか、サスケはひとりだった。
 縁側から臨める庭には木々が青く茂り、飛び石沿いに植えられた花は鮮やかに色づいている。
 視界の端では、縁石囲われた池が水面を揺らしていた。黒々として透度の高い水中を、二匹の鯉が連れ添うように泳いでいる。物珍しい飾りがあるわけでも、貴重な樹木が植わっているわけでもないけれど、そこはうつくしい庭だった。多分、サスケはとても庭が好きだったのだと思う。
 毎朝母親が丁寧に拭き清める縁側に腰を落ち着けて、サスケは色んなことを考えた。水も木も花も、魚さえ、庭を構築するものたちは皆、人間のことなぞお構いなしに、風や季節に身を預けて在るがままに存在する。何とはなしに庭を眺めていると、気持ちが落ち着いた。
 しかしサスケにとって縁側が“特別”なのは、緑豊かな庭に面しているからではない。

 サスケが縁側にいるときは、大抵一人で何か考え事をしたい時だった。
 その静寂に母親が割って入ると、サスケは露骨に拗ねた態度で思索を切り上げる。突然の乱入者が父親であっても、結果は変わらない。寧ろ父親の気配を感じると、サスケの胸は幼い畏敬心で一杯になって、自分が何を考えていたかもきれいさっぱり忘れてしまうほどだった。どの道両親が構ってくれるのであれば、サスケはその僥倖を差し置いてまで一人でいようとは思わない。
 何やかや生意気な口を利いてもサスケは母親が大好きだったし、例えあまり構って貰えなかったとしても厳しい父親のことを心から愛していた。サスケの悩み事の大半は殆どが彼らに纏わることだったので、二人の愛情を感じた途端に“如何でも良い”と投げ出してしまうのも必然と言える。
 サスケはそのぐらい両親を愛していたが、彼にはただ一人、両親以上に愛するものがあった。五歳年上の兄である。サスケの兄は、眉目秀麗頭脳明晰品行方正清廉潔白……数多の美辞麗句を尽くしても尚その人となりを説明するには不十分であろうと思わせるほど完璧なひとだった。

 サスケは本当に何よりも兄のことが好きだった。
 大好きな兄の前では、無理をすることも、緊張することもなく、何の衒いもなく振る舞うことが出来た。しかし、だからといって兄の隣で思索に耽ることが出来たかと言えば話は別だ。
 サスケにとって、兄より優先順位の高いものは何一つない。兄と共にいる時には、この世界に自分と兄の二人きりではないかとさえ感じた。その才能故に多忙な兄が隣にいて、如何して一人になりたいなどと思うだろう。兄を前に、自分の考えごとなど些末なことだった。
 兄と共に居られるのなら、そこが自宅の縁側だろうと、アカデミーの門の脇だろうと、そこらへんの公園でも、なんなら無人島でも、人っ子一人こない山奥だろうと構わない。
 サスケが縁側に腰を落ち着ける時、それは大抵頭の中がモヤモヤとして胸がきゅうっと苦しい時だった。そういう時に何で縁側に逃げ込むのかと言えば、サスケがそこにいることを、兄が知っていたからだ。サスケの思索は、いつも兄の帰宅によって打ち切られた。

 兄と共にいる時は、兄の言葉がサスケの全てだった。兄の意志がサスケの意志だった。
 はっきり言ってしまえば――兄に呆れられるのが嫌で明言したことはなかったけれど――兄以外のものは如何でも良かった。賢く物わかりの善い兄はよく「アカデミーで誰か友達は出来たか」とか「中心街の訓練場に行ってみたらどうだ」とか、サスケに“家族と共有できない自分だけの世界”を持つよう促してくれたけど、サスケはついぞ他人に興味を持ったことがない。
 他人と関わる上で兄を介したことも数度あったものの、好き嫌い以前に“何となく面白くないな”と感じさせるだけだった。彼らは兄のなかにある“家族と共有できない兄だけの世界”の片鱗であり、彼らに興味を持ったところで兄との繋がりが強固になるわけではないからだ。

 幼さ故の無知で、サスケは自分にとっての兄が如何いう存在なのか理解出来なかった。
 兄に抱く感情は、凡そ人間が抱くことのできる好意の全てであるように思ったし、実際そうだったのだろう。サスケが唯一自分のテリトリーを荒すことを許した“他人”は、それを知っていた。
 彼女はたった一人、サスケにとって“特別な他人”だった。いや、精確のところサスケは彼女のことを他人だと思ったことはただの一度としてない。自分が凡そ人間が抱くことのできる好意の全てを兄へ向けているのと同様、彼女も全身全霊で自分を好いてくれているのだと感じていた。
 彼女はサスケから最も遠い家族で、誰より近い他人だった。その微妙な距離感が、サスケにとっては心地よかった。他人だからいつでも切り捨てることが出来る。他人だけど血縁のように自分を愛してくれる。本来有償であるはずの好意だから、余計に価値あるもののように感じた。

 友人の弟。年下の幼馴染。言葉にしてしまえば稀薄極まりない関係だ。
 産まれてからずっと、サスケは何故彼女が無償の愛情を注いでくれるのか考えたことがない。
 ただ彼女は自分の手の届く場所にいて、サスケの孤独にも好意にも介入しない。縁側での思索を邪魔しないのは彼女だけだった。それでいて、サスケの意志は彼女の意志ではなかった。
 彼女はいつも確固たる己をもって、サスケの一挙手一投足に至るまでを愛してくれた。サスケの言葉をいつまでも待ってくれた。サスケの選択を決して批判しなかった。サスケの戸惑いも、苛立ちも、それらが収まるまでそっとしておいてくれた。サスケが辛い時は、いつもそばにいてくれた。自分の意志で上書きすることも、サスケの価値観を否定することもなく、そばにいた。
 なんで、オレに良くしてくれるの。そう聞く機会は何度でもあった。しかしサスケは聞かなかった。聞くまでもないことだと思っていたからだ。彼女の存在はサスケにとって極めて如何でも良いものであり、その意志を知ろうと知らなかろうと、彼女が自分を大切に思っている事実に変わりはない。彼女が自分に向ける好意や愛情は空気と同じで、そこにあって当然のものだった。“ある日突然空気中の酸素が失われたら”なんて、誰も考えない。それと同じ理屈で、サスケは疑問に思うことはあっても詳しく知ろうとは思わなかった。傲慢だったのだと思う。

 兄と共に居られるのなら、そこが自宅の縁側だろうと、アカデミーの門の脇だろうと、そこらへんの公園でも、なんなら無人島でも、人っ子一人こない山奥だろうと構わなかった。そうやって、ある日突然、自分が兄と一緒に世界の果てに消えてしまっても、悲しむことも怒ることもないひとだと思っていた。サスケが今何を感じているか、サスケよりもよく分かっているひとだった。
 もしある日永遠の別れが訪れても、サスケが幸せなら、彼女は自分との別れを渋ったりしない。
 どうしてそんな残酷な信頼を寄せていたのか、時々不思議になる。

 夢のなか、見慣れた景色。無意味な思索に厭いて顔をあげると、懐かしい後姿を見つけた。
 兄でも、母でも、父でもなく、それは四年前に別れたきりの“他人”だった。うつくしい庭の中央で、彼女が花に水を遣っていた。彼女が移動する度に、さぷさぷと如雨露が水音を立てる。
 サスケは人形みたいに強張った口元を動かして、彼女を呼んだ。トバリ。それが音として彼女の耳朶に触れるまで、彼女が気付いてくれるまで、その名前を繰り返し呼んで縋る。
 トバリがその視線をサスケに向けた途端、風が吹く。顔に張り付いた髪を鬱陶しそうに払いのけながら、トバリが振り向く。手の影が落ちているせいで、その表情はよく分からない。
 如何しようもない焦燥感から、サスケは手を伸ばした。と、歩いた実感もないのに、いつのまにかトバリの目の前に移動していた。夢だからだ。そうと自覚していたけれど、きょとんと間の抜けた顔で自分を見返すトバリの像は生々しく、その手に持った如雨露の装飾も細部までもがはっきり認識出来る。本当はここが現実で、午睡してしまった自分は悪夢に魘されていただけではなかろうか。夢だと分かっていたのに、サスケはそんなことを思った。きっと、そうだと願った。

 トバリ。願いをこめて、名前を呼ぶ。トバリは乱れた髪を耳にかけて、しずかに微笑った。

 トバリの瞳のなかで、サスケの像が結ばれる。
 記憶のなかにある通り、トバリの視線は真っ直ぐサスケを捉える。しかし、僅かに違和感があった。どことなく据わりが悪い気持ちを落ち着けるため、サスケは乱れてもいない髪をクシャリと書き上げた。その指がいやにしっかり頭皮を引っかくことで、“幼児の手ではない”と気付く。
 眼前に両手を広げてみると、そこには十一歳の手があった。度重なる修行で皮膚は硬化して、まだ短い指のそこここにタコが目立つ。努力の証だと褒められることが多かったけれど、兄やトバリのスラリとした手を知っているサスケにとってはあまりにも不格好な手だった。その不格好さに己の才能の無さがそのまま表れているようで、サスケは自分の手があまり好きではなかった。
 如雨露の持ち手を見やると、そこに添えられたトバリの指は傷一つない。サスケよりずっと華奢で、小さい手だった。息苦しさと共に、サスケは顔をあげた。十一歳のサスケを前にして、十二歳のトバリは見上げることも、見下ろすこともなく、しずかにサスケを見つめていた。無音のなか、サスケは自分がトバリと同じ背丈であることに気付いた。いや、当時のトバリは兄に合わせて厚底のサンダルを愛用していたはずだ。垂直に目が合うということは、サスケのほうが背が高い。
 サスケの表情の変化が面白かったのか、小首を傾げたトバリが笑みを深める。懐かしい仕草。
 子どもの頃はその仕草を見ると、何となくトバリに小馬鹿にされているようで腹立たしかった。それなのに、今は全く苛立たない。小鳥が小首を傾げるのと同じ、あどけない仕草だった。

 トバリの姿はサスケの記憶のなかにあるとおり、ちょっとも年を取っていない。
 何もかも懐かしいのに、その全てが昔と違って見える。黒目黒髪、同い年で、アカデミー卒業年齢も一緒。黒い服ばかり着てるのも一緒。才能のある忍者だったのも一緒。
 兄と何ら違うところがないと思っていた年上の幼馴染は、今目にすると、ちゃんと“少女の骨格”をしている。その肩も、手も、腰も、今のサスケよりずっと華奢で、脆そうに見えた。
 一見しただけでは、誰もトバリが凄腕の上忍だとは思わないだろう。トバリ当人も、よく自分の年恰好を嫌がっていた。如何足掻こうと十二歳までは下忍になれないサスケにとって“ゼータクな話”にしか聞こえなかったが、当人にとっては大事なことだったに違いない。
 ツーマンセルの片割れを失ったトバリは特定の隊に属さず、ありとあらゆる隊の補佐に回された。初対面の人間とばかり組まされる状況で、年相応の外見という当たり前の現実は彼女にとって悩みの種だった。イタチみたいに威圧感があれば良いのだけどね。悩みといっても、そう軽口を叩ける程度だ。今思えば、本当の問題は“年相応の外見”なんかじゃなかったのだと思う。

 サスケより五歳年上のトバリは、今十六歳。
 あれだけ嫌っていた“年相応の外見”が中身に追いついて、一端の上忍としての風格が出てきた頃だろう。今のサスケより背が高いだろうし、体つきもしっかりしているはずだ。
 髪の長さも着るものも、その何もかもを親友二人に合うよう気を付けていた彼女は今どんな格好をしているだろう。少年らしく振る舞う理由を喪ったトバリは、少しはくノ一らしい恰好をしているのだろうか。尤も潔癖の嫌いがあるトバリは、短髪の理由を“長髪よりかはまだ風呂に入れなくともマシだから”とも言っていた。それを聞いた兄が“オレは里外任務はないからな”と零す。

 一秒二秒、三秒。対話の温度が少しずつ下がっていく。
 他愛のない雑談の最中、あの沈黙も何かの兆しだったのかもしれない。不自然に口を噤んだまま、兄とトバリは何事か考えている風だった。何を考えているか聞こうか、聞かないでいるほうが良いのか、悩んでいる内に、その沈黙はトバリの軽口で霧散した。トバリが何て言ったのかは覚えていない。記憶に残す価値もないような、詰まらない軽口だった。兎に角、トバリは笑ってサスケの肩を抱いた。兄も笑った。サスケも笑った。それで話は終わった。サスケに何か聞かれる前に、トバリが話を終わらせた。兄も、それに応じた。今思えば、それだけのこと。
 一人の人間の思考回路を読んだうえで思い通りに御す。例え相手が五つ下とはいえ、それは当時十一歳の子どもには些か難しい芸当のように思われた。しかし兄やトバリなら、相手の年齢に拘わらず難なく他人を御すことが出来ただろう。サスケにとって、兄とトバリはそういう人間だった。
 彼らはいつだって優位に立っていて、強くて、サスケをとても大事にしてくれる。二人の思い通り流されたり、動くことに、一切の不安を抱いたことはない。その真意が伺えなかろうと、二人なら決して悪いようにはしないと信頼していたからだ。それ故、サスケは気づこうとしなかった。
 記憶に残す価値もないような、詰まらない軽口。トバリが噴き出して笑う前から自分の肩に触れる指が震えていたのに、単に面白くて体を震わせているのだと、そう自分を納得させた。今も尚思い出せるぐらい、トバリの胸中に察しが気付いていたくせ、“そんなはずはない”と思った。いくつも、なんども、気付かないふりで、見なかったことにして――そうやって記憶に蓋をした。

 こんなに強いひとが、自分なんかに縋るはずがない。
 不貞腐れに似た卑屈から、“この人は決して自分の言葉では傷つかない”と思っていた。その卑屈が、いつからか“何があっても、この人は決して傷つかない”にすり替わっていった。
 それは多分、十二歳の少女にとって残酷すぎる信頼だった。

 七歳のサスケにとって“神さま”だった女の子は、何も言わずにサスケを見つめる。
 今の自分より一つ年上なだけの女の子。こうして目にすると、嫌になるぐらいそれが分かる。
 確かに強かった。忍術が得意だった。剣術も、体術も、彼女が勝てないのは兄だけだった。
 まるで双生児のように睦まじかった二人。幼い頃、サスケは本心からトバリを姉だと信じていた。そのぐらい兄と似ていて、兄と同じだったのに、年を重ねるごとに距離が開いていった。
 サスケが知る限り、兄は最後ひとりだった。“ひとり”になる前よく一緒にいたのは、トバリではなくシスイだった。トバリといつも一緒で、睦まじかったのは、もう随分昔のこと。
 トバリを除け者にして、シスイと二人きりで修行に耽る兄は滅多に笑わなくなっていた。その代わり、トバリは兄の前でよく笑っていた。サスケが父親の前で見せる、媚びに近い笑みだった。
 最後、兄とトバリのやり取りにサスケは必要不可欠な存在だった。サスケに会いに来たはずのトバリが、通りすがりの兄を引き留める。鬱陶しそうに口を噤む兄の前で、何の痛みも苦しみも見せず、トバリは笑った。サスケの手を握って、肩を抱いて、トバリはひたすら笑った。
 それが彼女にとって精一杯のSOSだったのではないかと思う。

 トバリは笑っている。あの日自分を助けてくれなかったサスケを詰ろうともせず、静かに笑う。
 夢の中で、トバリは十二歳のまま年を取らない。それもそのはずで、この四年というものサスケはただの一度もトバリに会っていなかった――あの日、兄の手によって全てが奪われた夜以来。
 ヒルゼンの話では“報告のために何度か戻ってきた”と言うけれど、火影屋敷からほど近い彼女の自宅には彼女が戻ってきた形跡はない。幾ら兄を追っているとはいえ、一度も帰ってこないのは可笑しいのではないか。そうは思っても、未だ下忍でさえないサスケにはトバリの居場所を突き止めるどころか里の外に出ることも叶わなかった。兄の追跡と並行して機密性の高い任務を幾つか担当していると言われてしまえば、それ以上突っ込んで問い詰めることも出来ない。
 最後にトバリと交わした会話がなんだったのか、よく覚えていない。突然のことばかりで頭が混乱していたし、父母の死体を目にした後で動転していた。だから……“だから忘れてしまった”といって誤魔化しても、トバリは帰ってこない。もう二度と自分の下へは帰ってこないだろう。
 あの夜、兄が全てを踏みにじったのとはまた違う理由で、トバリもサスケを見限ったのだ。

「トバリ、」
 トバリ。彼女の名前を呼ぶ。声がうまく出せなかった。熱いものが喉にこみあげる。
 空を切る手を必死に伸ばして、サスケはトバリの像を捉えようとした。その腕を掴んで、幾つも聞きたいことがあった。帰ってきてほしいと思った。何度もやり直したいと望んだ。自分の行動次第でせめてトバリだけは自分の傍に留まろうとしてくれたのではないかと悔いた。
 あの夜、たった数時間でサスケの全てが奪われた。そのその理不尽さに対する怒りで腸が煮えくり返ったことも、兄の裏切りに憎悪を募らせたことも度々あった。兄が許せなかった。でも、結局……本当は、兄の掌で踊らされていただけの自分が一番許せなかった。所詮演技に過ぎない兄の好意を信じていた自分が堪らなく恥ずかしかった。自分の愚かさのせいで全てを喪ったのだと思った。トバリが帰ってこないのも、あきれ果てたのだと思った。あの才能溢れて善良なひとは、易々と兄の嘘に騙されて、兄の味方をしていたサスケを愚劣極まりない凡夫と見抜いて、切り捨てたに違いなかった。そうでなければ、必ず自分のところに帰ってきてくれるはずだった。そうやって、未だに“トバリなら絶対に帰ってきてくれる”と信じていることさえ傲慢なように思った。

 トバリが自分に向ける好意や愛情は空気と同じで、そこにあって当然のものだった。
 “ある日突然空気中の酸素が失われたら”なんて、誰も考えない。ある日突然、自分を残して一族が滅亡したらなんて、それも、それが兄の手で行われるなどとは、サスケはただの一度も考えなかった。全てを喪うことがこんなに簡単で、呆気ないなんて――そんなの、七歳の子どもに分かるだろうか。起こるはずのない“もしも”は現実のものとしてサスケの日常を蝕んで、破綻した。
 何もかもを喪って、茫然と考える。トバリは、何故自分に良くしてくれたのだろう?
 

 ここは夢の中、目の前にあの頃のトバリがいる。
 自分を見限る前の、優しい年上の幼馴染。なんでオレに良くしてくれるの。そう聞いたなら、きっと笑みを崩さずに答えてくれるはずだった。サスケに手を伸ばして、頭を撫でるだろう。君は詰まらないことを気にする癖があるねと、目を細めて、幸せそうに微笑む。聞かなければならないと思った。例え夢の中でも、今聞かなければ、目が覚めた時に絶対に後悔する。

「……トバリ、なんで、」

 なんでここに帰ってこない。何が理由で帰ってこれない。帰ってきたくないのなら、それは何故だ。オレに怒っているのか。愛想が尽きたのか。オレより大事な何かが出来たのか。
 聞きたいことは山ほどあった。詰り文句も、次から次へと湧いてくる。それなのに喉が詰まって、何も言えない。体がうまく動かない。早くトバリを捕まえなければと、気持ちばかりが焦る。
 サスケの目の前で、トバリは微笑っていた。穏やかに、しずかに、サスケのことなど見えていない表情で微笑っている。数年前まで、その笑みはサスケのものだった。笑った顔だけじゃない。困った顔も、寂しそうな顔も全部、トバリはサスケのものだった。そう信じていた。

 ずっと昔から、トバリは一人だった。
 それは多分、忍社会にはよくある孤独だった。少なくとも、サスケにはそう見えた。そして、トバリはいつも平気そうだった。トバリが真剣に泣いたところなど、見たことがない。
 トバリはつよいひとだった。強くあろうと振る舞うひとだった。その強いひとが、たった七歳の子どもに縋る。その現実を認めることが出来なかった。親友から突き放され、頼れるひとは里の外。トバリには自分より多忙な養父を困らせることも出来なかったに違いない。
 サスケが物心ついた時には既にトバリは一人だった。“天涯孤独”という、忍社会においては有り触れて平凡な“孤独”が他人と違ったのは、トバリがそれを“孤独”と思っていなかったからだ。
 トバリはよく“仕方ない”と言った。“何の問題もない”とも言う。それが口癖になるぐらい、トバリは寛容だった。そして自分の行動の如何で他人に迷惑が掛かることを嫌った。
 トバリの孤独は卑屈でも不幸でも絶望でもなく、ひたすらに“異端”だった。自分以外の全員が作る輪の外で暮らす。そういう孤独だったと思う。それが嫌だった。サスケの考えに反して、トバリは自分の孤独を気に入ってるようだった。それも嫌だった。でも、同時に、優越感もあった。
 トバリが他人に深く関わろうとするのは、相手から求められた時だけだった。それ以外では、トバリは誰にも興味を持たなかった。たった一人、サスケだけがトバリの“特別”だった。
 昔見せて貰ったトバリのアルバムは、途中からサスケの成長記録と化していて、トバリ当人の写真は殆どない。辛うじて冒頭数ページに、生後数か月の頃から五歳までの彼女を映したものが十二枚残されている。トバリが「つまんないぞ」と言った通り、ただ無表情のトバリが映っているだけで、撮影場所どころか服さえ同じだった。幼いトバリを眺めながら、サスケは父母や兄の取り留めもない思い出話を思い返した。まだ産まれる前のサスケに繰り返し話しかけていたこと、サスケが大泣きするからと被り物をしてあやしていたこと、少しずつ明るくなって、本当にサスケのことを実の弟のように大切にしてくれたこと――サスケにはちゃんと分かっていた。大好きな兄よりも、両親より、この世界でたった一人、トバリだけがサスケを頼りに生きていた。
 そう知っていたから、彼女の愛に傲慢だった。彼女のやさしさに甘えていた。この人はじぶんのものだと思っていた。何をしても許してくれると思っていた。何があろうと、トバリだけは自分の傍から離れることは出来ない。そうと分かっていたなら、もっと大切にすれば良かったのに。

 なんで帰ってこないの。
 本当は、もうあんたはずっと前に、自分の知らないところで――頭が真っ白になる。
 トバリは自分を見限ったのだ。そうと言って欲しい。帰ってこれないんじゃない。トバリ自身の意志で、サスケのところに帰ってこないのだ。それなら、まだ何とかなる。
 生きてさえいればやり直せる。もう一度やり直せるのなら、今度はもっとあんたを大切にする。
 あと一年で下忍になる。すぐに中忍になって、あんたより強くなる。そして“自分が馬鹿だった”と認めるから、才能がない代わりにあんたの何十倍も努力する。だから、帰ってきてほしい。

 本当は、あんたが何故帰ってこないのかなんて如何でも良い。
 何も聞かないし、何でもする。どんな姿でもいいから、オレのところに帰ってきてよ。

『兄さんに、ひどいことしないで』
 それがトバリに対して口にした、最後の台詞だった。
 鬼気迫る勢いで兄を追おうとしたトバリの服の裾を、咄嗟に掴んで引き留めた。兄さんに、ひどいことしないで。はっと我に返って振り向いたトバリに、何故あんなことを口走ってしまったのだろう。兄のエゴが産み出した惨劇を背後に、兄の“真実”を耳にして、何故自分は兄を庇おうとしたのか――あれは、兄から自分を守ろうとしたひとに言ってはならないことだった。
 今ならそうと分かるのに、トバリの腕に縋った瞬間、サスケは二人以外の全部を忘れた。
 居住区画全体にひしめく死臭のことも、猫か犬のように往来に伏す死体のことも、母親と父親のことも……兄とトバリのこと以外、全部、記憶の彼方に消え去った。ただトバリが兄を傷つけるのが怖かった。二人の関係に決定的な亀裂が入るのを恐れた。大好きな兄が、大好きなトバリの手で殺されるのではないかと思った。兄の瞳術にかけられて朦朧とした意識のなか、厚顔にもサスケは兄を庇ったのだ。母を殺し、父を殺し、一族の皆を殺して、サスケを道具と言い切った兄。
 現実を現実と認められず、サスケは自分たちの全てを踏みにじった兄の身を案じた。悪い夢を見ているのだと強く思った。トバリにそれを分かってもらわなくてはと思った。

 兄とトバリが屈託なく笑い合っているのが好きだった。それがサスケの現実だった。
 今はすれ違っている二人だけど、いつかはきっと元通り仲睦まじい二人に戻ると信じていた。その現実は、ほんの数時間前までちゃんと存在していた。一時間でも良い。ほんの少し時間を巻き戻すだけで、些細な事でも、何かが違えば――こんなの、ありえない。信じない。夢だ。全部嘘だ。
 優しくて朗らかな母親。厳しくも尊敬出来る父親。優しいのは母親譲り、その才能は父親譲り、時折妬ましく感じるものの、サスケにとって何より自慢だった兄。その自慢の兄と睦まじい年上の幼馴染。些細な事で口論したり、ムキになって不貞腐れたり。普段大人びた兄とトバリが、年相応の顔でじゃれ合うのが好きだった。自分たちの団欒を眩しそうに見るトバリが好きだった。
 サスケは普通の子どもだから、詰まらないことで、母親や父親に不満を持った。自分の日常に倦んだこともあった。それでも、自分を取り巻く何もかもが好きだった。産まれた時からちゃんと両親がいて、自分を愛してくれる。家の中にいつも母親がいて、サスケのやることなすこと全てに口出ししてくる。健康で、怪我をしたらすぐに気付いてくれるひとが沢山いる。何の面白味もない日常。それが掛け替えのないもので、何にも代えられないものなのだと、トバリが教えてくれた。
 トバリの五感を通して、サスケは自分の身の回りの些事がどれほど愛しいものかを知った。
 何もかもに恵まれて強烈な光を放つ兄の傍らで、兄への嫉妬より愛情のほうが遥かに優ったのは、トバリがサスケのなかに光を見出してくれたからだった。だから、誰より幸福だった。
 四年前のあの夜まで、サスケは自分の手の中にあるもの以外何も欲しくなかった。あまりにも幸福で、あまりにも愚かだったから、サスケは現実を受け入れなかった。これは夢だ。

 自分たちの日常が、平穏が、こんな終わり方であるはずがない。

 夢の中でさえ、トバリが兄を傷つける姿を見たくなかった。だからトバリに縋った。
 トバリに願えば、彼女が全部何とかしてくれると思った。母親も父親も、兄への好意も、兄と無邪気に笑い合うトバリも――サスケの愛した全てが砕け散った後だったのに、それでもまだ何とかなると思った。何もかもを忘れて、懇願した。時間を撒き戻して、自分の家族を返してくれ。まだ十二の彼女に、彼女に何の責任もない悪夢の責任を負うように迫った。“如何にかしよう”と一人足掻いていた彼女に、サスケは全てが駄目になってから縋ったのだ。

 兄さんにひどいことしないで。
 よりにもよって元凶である兄の身を案じる言葉でもって、トバリにトドメを刺した。

『……すぐ戻ってくる。大丈夫、すぐにイタチと一緒に戻ってくるからね』
 それでも、トバリは優しかった。
 サスケの耳朶を撫でるトバリの声音は、いつも通り僅かな笑みを孕んでいた。そうして“いつも通り”サスケの頭を撫でようとして、触れる前で手を下ろした。簡単な結界をサスケのまわりに張ると、急いた風に踵を返す。薄れゆく意識のなかで、サスケは兄とトバリのことを考えた。
 目が覚めればいつも通りの日常がある。起きたら、サスケは歯磨きも布団も着替えも後回しにして、居間に駆けこむだろう。食卓で新聞を読む父親が呆れた顔で「遅刻に焦る時間じゃないだろう」と叱り、味噌汁の味見をし終えた母親が「だから、目覚まし時計じゃなくてお母さんが起こしてあげるって言ってるでしょう」と笑う。騒ぎを聞きつけて顔を覗かせた兄が「母さんはサスケを甘やかしすぎる。サスケだって、自分でちゃんと起きたいんだよな」とサスケに微笑みかける。退屈な授業を終えてアカデミーを後にすれば、我が物顔で廊下を闊歩するトバリが「おかえり」と迎えてくれるだろう。夜が終われば、サスケの現実が戻ってくる。安心のなか、目を閉じた。

 すぐにイタチと一緒に戻ってくるからね。
 目が覚めてもサスケの現実は壊れたままで、兄は勿論トバリも戻ってはこなかった。

『あんたなんか、どうせ他人のくせに』
 事件の数日前、しつこく兄の様子を問いただすトバリを、サスケはそう言って追い払った。
 父からは兄とあまり関わって欲しくないように言われ、アカデミーの教員たちは兄と自分を比べ、ただ一人自分を特別扱いしてくれたはずのトバリも兄のことを聞きたがる。皆が皆勝手なように思えて、一番優しかったトバリに当たった。サスケにとってはそれだけのことだった。
 次会った時謝ろうとは思ったけれど、別に気にするほどのことではなかった。アカデミーに上がった頃から家庭内の空気が変になって、兄と父が不仲になった。兄は兄でシスイさんと二人で会っていたかと思えば急に疎遠になったり、家を空けているほうが多かった。何もかもがサスケにとってはストレスで、何も知らずに「大丈夫、すぐに如何にかなるよ」と笑うトバリに腹が立った。
 何も知らない癖に。そう思っていたなら、自分が知っている限りのことをトバリに打ち明けるべきだった。情報が乏しいなか、トバリは兄を如何にかするためにサスケを問いただしたのだ。
 大丈夫、すぐに如何にかなるよ。それはサスケを安心させるための嘘だった。トバリは何もかもが如何しようもなくなっていることに気付いていたから、笑うしかなかったのだろう。

 四年前のあの夜、彼女はサスケに縋っても無駄だと理解したに違いない。
 そうでなければ、きっと帰ってきた。サスケにはもう自分がいないと理解して、何よりサスケの傍にいるほうが大事だと決意して、きっとすぐ戻ってきてくれた。トバリはそういうひとだった。
 サスケの知り得る限り、トバリは誰より優しくて、寂しいひとだった。
 そんなトバリだったから、血の繋がりもない弟分を何より大事にしてくれた。すぐ不貞腐れるし、我儘で鈍感。兄程の才能もなく、努力でしか結果を出すことが出来ない。そんなサスケを、トバリは大事にしてくれた。その愛にどういう見返りがあったのか、サスケには分からない。
 分からないから、愚かにも“対価を与えなくてもよい”と勘違いした。

 多分、最初から、トバリはサスケのものではなかった。
 兄と同様に、トバリにだって、サスケの踏み込めない世界があったのだ。兄とシスイは、その筆頭だった。ただトバリは優しかったし、性別故にいつまでも彼らと一緒にいることが出来ないと知っていたから、サスケに請われればあっさり身を引いた。もしトバリが男だったら、サスケのことなぞ見向きもしなかっただろう。本当に何の苦も無く兄と並んで駆けていけるようなひとだったら、兄の背に焦がれるほかないサスケの気持ちなんて理解してくれなかった。
 大丈夫。トバリが笑う。友の手で友を喪い、企みを暴けないまま最悪の形で友に裏切られ、自分が庇った相手からも突き放されて、あの人はどういう気持ちで笑ったのか。
 なんで、あんなことを口走ったのだろう。繰り返し考える。ひどいことを言った。あの夜が最後になると知っていれば、兄との日々が全部嘘だったと理解出来ていれば、死んでもトバリの手は離さなかった。最後の会話をやり直したいと、幾度も願った。時間を巻き戻して未来を変えたい。
 全部なかったことにしたい。いつから、どこからこの未来が定まってしまったのか考える。死が覆ることはない。サスケは兄を殺す以外の方法で、あの夜を忘れることは出来ない。

 兄を慕っていた幼い自分を否定するために、サスケは兄を殺す。
 父母を殺した仇だ。一族を滅ぼした。自分のことをずっと騙して、影で馬鹿にしていた男だ。サスケには兄を殺す必要がある。地べたに這いつくばるべきなのは、自分ではなく、兄のほうだ。醜く命乞いをする兄を足蹴にして、サスケは自分が喪った全てを償わせるだろう。本当に価値のない人間が誰かをはっきりさせ、一族の皆と父母を殺した罪を認めさせてから殺す。
 兄の死体を持ってトバリに会いに行こう。オレたちの現実を踏みにじった男は殺したから、里に帰ってきてほしいと言おう。そして、もう一度二人でやり直したいと願うのだ。
 トバリ、あんただってあの男を憎んでるだろう。騙されていた惨めさで狂いそうなんだろう。
 そうしたら、きっとサスケが兄を殺せば喜んでくれる。自分たちは何も間違っていなかった。騙されたのが悪いんじゃない。あの男を信頼した自分が愚かなのではない。何もかも悪夢のようなもので、その元凶さえ死ねば心安らかに暮らすことが出来る。きっとそうだ。

「……トバリ、そうだろ」
 ゆめのなか、トバリはわらっている。いつもと同じゆめ。
 サスケが何を言おうと、問い質そうと、トバリは笑ったまま何も口にしない。庭木や花に水を遣り、サスケの呼び声に応えて振り向く。それだけだ。そこから先は、ずっと微笑んでいる。
 手を伸ばしたところで無駄だと、サスケは理解した。兄を殺すまで、トバリは決してサスケを許してはくれない。あの夜、サスケはそういう愚かさでもってトバリを傷つけたのだ。

「あいつさえいなければ……オレたちは、」
 兄さえいなければ、オレたちはずっと幸せでいられたのに。

 トバリがぱちりと目を瞬かせてから、生気に満ちた瞳でサスケを見つめた。
 その口元から笑みを消し去って、サスケに手を伸ばす。憐れみの篭った視線がサスケの胸を貫いた。かわいそうに。トバリの唇が微かに動くのを、サスケは見咎めた。ごくりと喉が鳴る。
 トバリがゆらりと腕を持ち上げて、サスケに手を伸ばした。幼さを失った頬にトバリの指が触れる。ただの一度も血で汚れたことがなさそうな、綺麗な指。白い皮膚。やさしい触れ方。
 物心つく前から“自分のものだ”と信じて疑わなかった指がサスケの頬を撫で、顎をくすぐる。顔に触れていた指が首筋に落とされた。指の表皮で触れるだけのもどかしい感覚に、全身が粟立つ。
 手を伸ばして、トバリの手を繋ぎ止めたいと思った。トバリに触れたい。トバリの手に、指に自分のものを絡ませたい。幼かったあの日のように、屈託なく――そこで、目が覚めた。

 漆喰の無機質な天井。家庭用のチャチな傘を被った電灯。
 一瞬、サスケは自分がどこにいるのか分からなかった。分からないなりに、耳元で五月蠅い目覚まし時計を連打で止める。自分の匂いが染み着いた寝具から身を起こして、サスケは項垂れた。
 不格好な両手で顔を覆って、思いつく限りの呪詛をまき散らす。サスケの殺気に気おされたのか、窓のところで戯れていたスズメが一斉に飛び立った。ざまあみろ。トバリと兄への呪詛をある程度吐き終えると、サスケは我に返った。何の罪もない小動物を怯えさせたことだし、ベッドから出てアカデミーへ行く支度を整えなければ。分かっているのに股間がしょうもないことになってて動きたくない。死ね。死ねばいいのに。誰に向けているのか分からない殺意を繰り返す。
 何もかもが嫌になって、サスケはベッドボードに身を委ねた。アカデミーをサボりたい。どうせ今日は座学ばっかりだし、サボったところで、サスケは誰にも叱られない。サボろう。
 決意を新たにサスケは目を瞑った。流石に一日に二度もトバリの夢をみることはないだろう……そうは思ったものの、やはり怖くなって一応起きることにした。虚しい気持ちでベッドを降りる。
 洗面所に向かう傍ら、サスケは口汚くトバリを罵った。

 サスケに何の恨みがあるのか、トバリはしつこくサスケの夢に出てくる。
 それは疾うに見飽きて、日中でもまざまざと思い返すことが出来る悪夢の一種だった。未練たらしくトバリのことを考えた夜に決まってみる。馬鹿馬鹿しい夢だ。何が馬鹿馬鹿しいって、両親や兄の夢ではなく、自分を甘やかしてくれていた年上の幼馴染の夢というところが死ぬほど馬鹿馬鹿しい。本当に死ねばいいのに。確かに親しいは親しかったけれど、今思えば所詮他人に過ぎないし、トバリには婚約者もいて、サスケの知らないところで何度か里に帰ってきているらしい。
 トバリが自分を特別扱いしているというのは何もかもサスケの勘違いで、トバリにとってサスケは友人の弟に過ぎなかったのだ。その友人が里抜けという大罪を起こして消えた以上、サスケに会いに来ないのは当然である。イタチと親しくしていたのが理由でエリートコースから外れたとか何とか、千手一族の連中から聞かされたこともあった。自分の出世街道を潰した裏切り者の弟に如何して会いたいだろう。全部全部サスケの独りよがりで、最初からサスケは一人だったのだ。
 自分以外、誰の気配もしない廊下の途中でサスケは立ち尽くした。

 兄も、トバリも、結局サスケのところへは帰ってこなかった。

 四年前から住んでいる部屋には勿論サスケの痕跡がそこここに残っているけれど、それはサスケの知っている“家”ではない。サスケが暮らした家は随分前に潰された。サスケの家だけならまだしも、一区画丸ごと事故物件とあっては、まあ更地にするしかなかったのだろう。サスケの育った家、うちは一族の居住区画はサスケの知らぬところで売買され、幾らかの纏まった金銭がサスケの口座に振り込まれた。父母の保険金もあるので、万一怪我か何かで忍生命を絶たれても一生遊んで暮らせるだけのお金がある。サスケにとっては如何でも良いことだ。金と引き換えに両親や実家を取り戻せるのなら、サスケは喜んで全て差し出しただろう。尤も全ては“もしも”の話でしかなく、死んだ人間も壊した物も元に戻ることはない。サスケの手元には、金以外何も残らなかった。
 トバリの夢を見た後で、サスケはふと思うことがあった。もしトバリが傍にいてくれたなら、サスケはあの夜を忘れることが出来たのだろうか。トバリが“もう良い、忘れよう”と言って、父母の代わりに自分の家族になってくれたなら、何か、少しは今と違ったのかもしれない。
 頭蓋のうちを焼く怒りも、胸奥で疼く憎しみも薄れて、兄の罪を――あの人があんな凶状に至った理由、思い出したくもないことを思い返して、冷静に考えることが出来ただろうか?
 無理だな。あっさり否定して、サスケは歩き出した。さっさと着替えたい。身だしなみを整えたら先週買ったばかりの指南書を読破して、その後は外縁部の森に修行に行こう。
 欠伸を噛み殺しながら、洗面所の扉を空ける。カーテンの掛かっていない小さい窓からは白々とした朝日が差し込んでいた。いつも通り、サスケの胸中とは無縁に清々しい朝だ。

 自分の愛したものが何一つ存在しない光のなかで、また一日が始まる。
 

かみさまだったひと

 
 


花骸のこどもたち