花骸のこどもたち
D.C.(頭から)
イタチと出会った日の夜、トバリは久方ぶりに夢を見た。
見知らぬ男が馬乗りになって、トバリの首を絞める。男の手から解放されると、ただでさえ悪い視界が暗転し、誰かのすすり泣く声が闇の奥から聞こえてくる。そういう夢だった。
トバリは、生後数か月から今に至るまでの記憶を全て保持している。いつどこで何があったのか思い出せないことは何一つなかったし、読んだ書物の一言一句たりとも間違えたことはない。
そのトバリが、父親に首を絞められたことを覚えていない。馬乗りになった父親が何と言って自分を罵ったのか、そして割って入った人間が誰なのか何も覚えていなかった。
そもそもトバリは確実に父親と言葉を交わしたことがあるはずなのだ。それにも関わらず、トバリは「己の目で父の顔を見たことがない」と思っていた。トバリの記憶には欠落がある。
「皮張りの空洞」
病的に白い腕、加齢に従って弛んだ手。父親が自分の体を布団から引きずり出して、剥き出しの畳の上に投げ出す。どすんと腹に乗った膝と、首に掛けられた手が生々しい閉塞感を与える。記憶の錯乱と、胸中で抑圧された感情の現れ。あれは、トバリの果てのない寂寞と不安、孤独が産んだ幻だった。女の体温を背に感じながら、平らな腹を労わられながら、トバリは脱力した。
全部ウソだった。自分を見下ろす瞳。自分を縊る男。爛々と光る赤い瞳。自分の上に乗る男が興奮状態にあることを示す瞳孔。畳の上に散らばる私の四肢。嗅ぎ慣れた血の匂い。
追想のなかで、ぎゅうと、父親の手が首を絞める。今となっては儚い幻。ただ夢のなかで、夢と気付くことが出来なかったから酸素を求めた。肺が収縮を繰り返す。おまえがどうして。
無抵抗のトバリに、カンヌキが呪詛を吐く。おまえが死ぬはずだったのに、何故のうのうとトバリと同じ顔で、トバリのいるべき場所で生きているんだ。それも、げんじつではない。
ミシと骨が軋む。ポタポタと、カンヌキの涙が降ってくる。温い雨。頬に落ちた涙滴は見る間に熱を喪って、トバリの輪郭をなぞった。何度も、何度も繰り返し。冷たく乾いた皮膚が、涙の痕で引きつる。もし彫像に五感があればこんな風に感じるのだろうかと、頭の片隅で考えた。
表皮に違和感を覚えても、自分で拭うことは出来ない。拭ってくれる人もいない。それが当然で、塗りが剥げても何ら気に留めることもない。無論、それは嘘だ。夢の中でそういう風に思ったというだけの錯覚。トバリは父親の顔を知らない。父親は無責任な人で、育児には不向きだった。それ以上でもそれ以下でもない。トバリはずっと、そう聞いて育ってきた。
父親が死んだときも哀しいとは思わなかった。父親がトバリを顧みなかったように、トバリにとっても父親の存在は軽いものだった。センテイの痴呆が始まった時のほうが、ずっとショックだった。それだって、別に、トバリは誰も、誰にも何か、ただいつも――全部、気のせいだ。
「デッドエンド」
やめてください。ひびわれて硬い手がトバリを庇う。
この子に何の罪があります。“お嬢様”が死んだのは、もうずっと昔のこと。喩え人間でないにしろ、この子に何の罪があります。坊ちゃん、やめてください……やめてください。
すすりなく声が部屋に木霊する。カンヌキは荒く息を吐きながら、振り上げた拳を下した。眼窩の奥の、赤々とした闇がトバリを見つめている。憎しみと哀しみが綯い交ぜになった瞳だった。
トバリの視線を疎んでか、カンヌキは両手で顔を覆い、すぐ脇の壁に寄り掛かった。何の罪がある? チャクラで保護しようともせず、無防備に壁を殴る。それを聞いたのは僕だ。
カンヌキが握った拳を壁にこすりつけると、緋が散った。
これは僕の馬鹿げた逃避と独りよがりから産まれたものだ。如何して何の罪がないと思う。
柔らかい皮下組織を、ざらざらした壁で削り続ける。暫くの間そうやって、カンヌキは壁に血色の絵を描いていた。桃と緋の隙間から黄ばんだ脂肪が覗く。硬い音を立てて、また、壁が鳴った。
きっと些細なことで逆上しそうになる自分を、痛みで紛らわそうとしたのだろう。
肉体の痛みが心の痛みを凌駕することを祈って、カンヌキは血を流し続ける。ありったけの誠実さを示そうと、カンヌキは、自分のなかの激情に抗っていた。トバリが自分の意志で木ノ葉隠れの里へやってきたわけではない。カンヌキにも責任がある。トバリは加害者ではないが、被害者でもない。カンヌキの示そうとした“誠実さ”は彼の痛みなくして成立しえなかった。
随分長い間、カンヌキは努力していた――彼の尊厳に懸けて。でも、とうとう痛みに耐えることは出来なかった。当然だ。トバリだって、同じように、いや彼よりずっと愚かな逃避を繰り返してきた。カンヌキが私憤を捨てきれなかったといって、非難出来るはずがない。
幾らかの平静を得ると、カンヌキは危うげな足取りで踵を返した。無言の背中が去っていく。
カンヌキが消えるまで……消えてからも、センテイはずっとトバリを抱えて泣いていた。
トバリは老いさらばえた体躯で必死に自分を守ろうとする老爺に、頬を寄せた。それは、トバリにとって慰めのつもりだった。鬱屈のまにまに、愚かな子猫が膝に上がりこむ。にゃあんと媚びた声で、トバリの腹に頭をこすりつけてくれた。毛が付くと思いつつ、晴れやかな気持ちになったものだ。それなのに、センテイの胸中は曇天のままらしい。嗚咽がより激しくなる。
トバリはどうにかセンテイの腕の中から抜け出すと、その顔に手を伸ばした。
涙の道が敷かれた頬に触れると、日に灼けて乾いた肌はパサパサしていた。華奢な指先に、しわの凹凸が伝わってくる。しわに埋もれた目元からは、まだ滝のような涙が流れていた。
子猫の死骸を目にした時も、いや、それよりずっと酷い泣き顔だった。
なんと言っていいのか考えあぐねて、トバリはセンテイの涙を拭った。涙を拭われながら、センテイがトバリに手を伸ばす。その指先が怯えた風に震えていた。気味が悪いのだろうか。センテイは傷一つないトバリの胸に――ついさっき、確かにクナイで切り裂かれたはずの胸に触れて、ひびのいった唇を噛んだ。ぐっと、喉が低く鳴る。かわいそうなセンテイ。温い雨のなかで、トバリは思った。傷がある間は勿論負傷者の体調に関心を寄せるのが一般的だが、治ってまで気に病むのは無駄なことだ。それが当然だと思うのに、センテイは“痛み”や“傷”にいつまでも囚われてしまう。
わたしは何のもんだいもない。いつものことだ。何も、お前が泣くことはない。
「ものがたりの出で来はじめ」
あなたの望みに応えれば、わたしがトバリになれると思った。
トバリ。わたしの名前。わたしの意志。わたしの未来。わたしの感情。わたしという人格。
でも、あなたが泣いて、苦しむのなら、もうわたしも、“わたし”は要らない。
「D.C.(頭から)」
……センテイはトバリを恨んだだろうか。
この子さえふつうだったなら、全てをやり直すことが出来たと思ったのだろうか。
多分そう思ったんだろう。そうでなければ、いま、自分が縊られている理由がわからない。
ひびわれて硬い手が脊髄を砕く。鼻から流れ出た鮮血が唇を赤く濡らして、顎を伝う。生臭い血の匂いが頭蓋のうちに立ち込めていた。だらりと出た舌から粘性のものが溢れる。それが涎か血か判別することは出来なかった。天から降り注ぐ生ぬるい雨に視界を奪われる。それが涙だということに気付いたとき、視界が暗くなった。強烈な痛みに脳が委縮したらしい。だからセンテイの顔は見えなくて、何のための涙かも推測できなかった。ガクンと、支柱を失った頭が背に垂れる。
もう、自分で考えられることは乏しくて、五感のどれ一つとしてまともに機能していない。意識を手離した先にあるのが痛みだけだから、こうして考えている。乏しい思考をこね回して、精神を飛翔させる。思考は明滅して、気を抜けば肉体の苦しみに呑まれそうになる。いや、とっくに呑まれているのかもしれない。下半身は弛緩して、辺りには硫黄臭が漂っている。血の気の引いた唇からは先ほどからずっと低い呻き声が漏れているし、最早自分の意思では指の一本も動かせない。
鼻の毛細血管が壊れて、後から後から血が溢れてくる。未熟な肩甲骨と後頭部がぶつかる度に鼻孔から零れた血が皮膚を濡らす。緋色の体液が頬を撫でて、眼孔に至る。視力が失せても、血液が眼球に張り付く感覚の薄気味悪さは分かる。なにも見えない。生命活動もじきに停止するだろう。
何故こんな無意味なことをしたのだと、限りある自意識が問う。
恨みたくなる気持ちも、厭う気持ちも分かる。お前たちの幸福を踏みにじったものを恨むも厭うも自由だし、踏みにじられた者のためにもそうするべきだと思っている。そうだ。この老爺はもっと早く、あれのためにも、詰まらない偽善などに惑わされずに、これが幼体だからと惑わされず、もっと早くこうするべきだった。どうせ、半日も経てば元通りに蘇る。痛覚があるのは馬鹿馬鹿しいことだ。不死の化け物が痛みを感じたところで、それは煩わしいだけなのに、それとも、痛みに呻く様に溜飲が下がるのだろうか。どうせ死ぬこともない痛みに喘いだところで、それはあれらの苦しみには程遠かろうに、それでも何か満たされるなら……いやにシンとしているな。
ついに死んだのかもしれない。まあ、このようなことをツラツラ考えているということは生きているのだろう。これまで何度か致命傷を負ったことはあるけれど、体の感覚もないのに考え事に出来るのは変な感じがする。センテイはどこへ行った。もっと、もっと苦しめたいのではなかろうか。不死の化け物相手に手加減することもなかろう。もっと痛めつけてやればいい。それとも、いい加減、関わること自体愚かだと気付いたのかもしれない。どこかへ行ってしまったのだろうか。
……家政婦が来る前に、カンヌキは私の死体に気付くだろうか。センテイが私を関わることを止めるのも、私を縊るのも、それは全て正しいことだ。しかしカンヌキのためにも、この家の体面のためにも、死体は如何にかして貰わねばな。とはいえセンテイに下の始末をさせるのも申し訳ないし、体が動けば自分で片づけるのだが……いや痛みで逃避しているだけで、動かそうと思えば動かせるのかもしれない。私にはそういう性根の甘いところがある。このような体にいつまでも痛覚が備わっているのも、性根の甘さ故なのだろう。そうだ、きちんとしなくてはね。ちゃんとするぞ。ううん。うまく動かない。もう少ししたら動くかな。今日は新月だからな、具合が悪い。まあ新月で良かった。普段より長く苦しむし、そっちのほうが幾らか溜飲も下がるだろう。それに、母様が知ったらまた馬鹿にされる。……センテイは家へ帰ったのだろうか。センテイ。センテイ。
センテイ、いないのか? センテイ。もっと殴っても良いのだぞ。わたしを恨んだのだろう。センテイ、お前の欲した平穏を蝕んだものを憎んだだろう。何故わたしを置いていく。お前の怒り、苦しみはあんなものではなかろう。心優しいお前が私の首に手をかけたのだ。そこには強烈な憎悪があったのであろう。もっと私を殴り、骨を砕き、肉を抉らなければ、気が済まないはずだ。センテイ。どこへ行った。あの赤い時計も返そう。他には何の財も持っていないけれど、わたしに出来ることなら何でもしよう。どこへ行った。詫びをな、償いをしよう。何をしてほしい。
センテイ。センテイ。センテイ。どこ。センテイ。わたしを置いていかないで。
わたしだけ生きていてごめんなさい。何度でも謝るから、ひとりにしないでほしい。
ほら、センテイ。花綺麗だったね。ふつうの子どもじゃなくてごめんなさい。はなきれいだった。春すごかったね。花。すいかずら。つつじに、あせび? すいせんも、かぶと?も、ちくとーもあった。おほしさまみたいにキラキラして、お星さまだった。センテイ。キラキラしてるの。クルクルしてる。ふりそそぐ。すごいの。わかるかな。白くて、キラキラして、クルクルしてる。
花がたくさん咲いてる。こんなにたくさん咲いてて、苦しくなくて、ひとりでもないのはじめて。花咲いてる。咲いてるよ。きれいだね。綺麗っていった。星みたいだったから。
すいかずら甘いね。花びらなのに、何のためにあまいのかな。いろんなこと教わった。星みたいに、天からふりそそいでるの。すごい。星しか見ない。明るいとひとに会う。なぐられたり、こうやって、動けなくなってしまうから。明るいの見たことない。なぐられるからね。うごけない。なぐってもいいんだけど、そういうのは悪くないんだけど、ひとりでうごけないとだめだから。それでも遠くにはいけないんだけど。草とかあって、あんまり見えないの。だから綺麗だった。きれい。わるいことしたなって思った。生きてるって良いなっていっぱい思って、わたしも母さまが生きてれば産まれてきたのになって、たくさん思って、でも、そしたら花わからなかった。
花きれいだね。空もきれい。光のなかで生きてるものは、みんな、きれいにみえる。
きれいなの見てもらってうれしかった。きれいなの。センテイのめのなかできれいなもの、あの子どももきれいだって、だれだっけ、きれいだって言ってた。見るよりうれしかったの。
たくさん綺麗なもの知ってる。あなたが綺麗だって言ってたもの。あなたでない人にも綺麗だって分かるもの。ずっと、それを見てたい。目を瞑っても、綺麗なものが見える。
ずっと、ずっと、瞼の裏の幻に、あなたが綺麗だと言った花を、光を、空を夢見ていたい。
動かなくては。這ってでも、動かないと。もう、ここには居られない。ほんとは、もう、ずっと前から分かっていた。ここにいてはいけないって──ここは私の居場所ではない。センテイ。
ぐにゃりと伸びた首が濡れる。白く冷えた皮膚を伝う涙があとからあとから胸元へ滑り落ちていった。何も見えない。頭が割れそうな痛みに五感が鈍る。胃液が口蓋に溜まっていることに気付かされる。センテイ。ガンガンと全身の骨が叩かれているような衝撃で、音に集中できない。
ビクッビクッと痙攣する手を何かが動かした。センテイの手だ。粉々になった自意識が現実に浮上する。ブルブル震える指を無理やり動かして、手のなかの熱を握った。センテイ、もう良い。
耳を澄ました途端に全身が大きく痙攣する。オレ──守って……上げ……す、な。何か聞こえた気がしたけれど、それは本当にセンテイの声だったのか、自分の走馬灯なのか区別出来なかった。強烈な痛みに、再び意識が遠のいた。心臓が早鐘のようにうち、体中に血と酸素を巡らせようとする。しかし、もう、抹消神経の殆どは機能していない。ぐるんと、意識が暗転した。心臓が虚しく跳ねる。重度の酸素不足により脳が破壊され──トバリの肉体は生命活動を停止した。
弛緩しきった体が畳に崩れ落ちて、鈍い音を立てた。
上体の崩落に合わせて、強張った腕もセンテイの手から転げ落ちる。僅かに水音がしたのは、畳の上に尿が溜まっているからだ。外気で冷えた尿は下半身を濡らし、畳の上を滑って爪先にまで到達しようとしていた。不自然に歪曲した首は殆どU字で、その先に吊るさっていた頭蓋は今畳と背の間に挟まれている。胸を張るような形で迫り出した胸はビクッビクッと跳ねていたが、その痙攣も少しずつ弱まっていた。センテイは、それを、自分が殺したものをずっと眺めていた。
体は自らの尿で汚れ、首は折れ曲がっている。大した外傷はないものの、カンヌキに殴られた時に流れた血がまだ皮膚にも、あたりにも残っていた。じきに元に戻ると分かっていても、あんまりに惨い死に様だとセンテイは思った。ぐちゃぐちゃに丸めた粘吐のような死体だった。
死に顔を確かめる度胸もなしに、尿だまりのなかにある手に触れる。死後硬直で固まった手を無理やりに両手で握って、額をこすりつけるように体を倒す。濃いアンモニア臭が鼻を突いた。
オレんが……守って……す、な。ワナワナ震える唇を動かして、ぎこちなく発音する。
「かならず、まも、守って、さしあげますでな」
澄んだ空に色とりどりの花、青々と茂る木々。今年の春は美しかった。
桜の枝は花びらの名残もなく新緑に染まっている。菜の花はこぼれた陽を集めて咲かせ、水仙は静かに景色を彩る。淡い彩りが庭を、温室を埋め尽くすと、この子は眩しいものを見るように目を眇める。その黒々とした瞳を好奇心で輝かせて、飽きもせずに花を見る。樹幹を見上げる。あの春も、冬も、秋も……夏さえも、あれが“最後”と分かっていれば、もっとこの子と一緒にいたのに。
二人で過ごす最期の春と知っていれば、一分一秒を噛みしめるように過ごしただろう。
しわがれた嗚咽が漏れ、波紋となって広がっていく。両手で握って温めているにも拘わらず、物と化して強張った手は氷のように冷たかった。その指は幾度もセンテイの涙を拭ってくれた指だった。手のひらも、幾度も幾度も二人繋いで歩いた手のひらだった。でもそれも全部終わり。
この手に再び温もりが灯ったとしても、もう同じ春は来ない。自分があの春を殺めたのだ。
。いさだくてし力入を前名ののもたっかたり守がたなあ
。すま来出がとこす直りやらか頭度一うもばれけし宜 ?かすでいし宜でトバリに当本
ちたもどこの骸花