花骸のこどもたち
花々の青い骨
八歳の夏、母親が死んだ。
夏は腐乱が早い。カンヌキは母親の体が湿った外気に溶けていく様を静かに見守っていた。
母親は艶やかな長い黒髪と雪のような白い肌が自慢の美しいひとだった。
見るからに外つ国生まれの母親は、無論くノ一ではない。他人の庇護を必要とする凡庸な人間。
見た目だけが取り柄のつまらない母親と、由緒正しい忍一族の末裔で自らも名の知れた忍者である父親。如何考えても不釣り合いな二人が育んだ“家庭”が健在の頃、母親は自分たちの出会いを繰り返し語ったものだ。瞼の裏に窶れた頬を朱に染めた母の姿が蘇る。いつまでも、永遠に。
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未だ乱世明けぬ頃、若かりし父親は諜報活動のために田の国へと訪れた。
当時の田の国は雲隠れの勢力圏内であり、如何な父親が腕利きの忍とはいえ中々困難な任務だったに違いない。目的達成と引き替えに深手を負った父親は傷が治るまで北方山脈の麓へ身を潜めることにした。追っ手を撒く心づもりもあったのだろう。急いで戻ったところでどの道養生する必要があるのだから、それならばいっそ養生がてら田の国の見識を深めよう。カンヌキの知る父親はある種の無精にも似た合理的判断を好むひとだった。カンヌキには、当時の父親の気持ちが手に取るように分かった。ともすれば、若かりし父親と共に旅をしているような気持ちにさえ。
まあ、兄が手を打って喜ぶ土産話でも拵えられたなら上出来だろう──そんな胡乱な理由から田の国をうろついていた父親は、とある寒村を根城に選ぶ。そこに母親がいた。
母親の故郷は正しい意味での“隠れ里”だったらしい。
何か特定の理由があって籠もったわけではなく、土着の宗教に基づいて暮らすうち自然と外部との繋がりが途切れた。母親が物心ついた頃にはもう“信仰”さえ乏しく、部外者中の部外者である父親が紛れ込めた事からも彼の村の寂れた家並みが浮かぶようだった。母親にとっての“故郷”は運命の相手である父親と出会うための舞台装置に過ぎず、カンヌキもまたそれ以上を問うことはなかった。母親以外の人物で唯一彼の村を知る父親は多忙だったし、父親の腹心であるセンテイも任務に無縁なことは聞かされていない。それでも百編強請って、ようやく「そういやあ、こん里を設立する時に奥様に色々聞いてましたなあ」と一言。大陸の中央に位置し、あらゆる情報が集約される木ノ葉隠れの里を持ってしてもそれっぽちの情報しかないのだから、大した隠れ里だ。
俗世を忍ぶように存続していた母親の故郷は、カンヌキが物心ついた頃にはもう亡んでいた。
母親は極めて無関心に、故郷について語る。
何か血腥いことがあったわけではないの。……血が流れなかったからこそ亡んだのかもしれないわね。あすこに住む人たちな皆んな臆病だったから。そう零す横顔はぞっとするほど冷たい。
まれびと信仰が盛んな山深い隠れ里は、母親が物心ついた頃にはもう少子高齢化と人口減少に悩まされていた。人口流出と近親交配の果てに幾人も奇形児が産まれては死に、母親のような“四肢の揃った子ども”は珍しかったらしい。それでも、母親には年の近い幼なじみが幾らかいた。
ほんの一握りの子どもたちは何れも女。母親の知る限り、村内の男で一番若い者は四十路を迎えようとしていた。それ故に、父親を目にした母親は「この人が教えにある“神の御使い”に違いない」と考えた。母親が「手足のある若い男は初めてだったから」と付け足したのは、男児に奇形が多かったからなのだろう。尤も、その誤解には父親の見目の良さも十分関係しているだろうが。
マトモな男が産まれなくなり、時折迷い込む旅人と老いた男の種だけで繋いできた村が亡ぶのは当然の帰結だ。母親の口ぶりから察するに、楽しいことなど殆どなかったのだろう。
ほんの一握りの子どもたちは打算の出来る年に──少女から“女”になると、皆んな母親のツテを頼って、“ここ”へやってきた。それが、母親の故郷の“おわり”だったのだという。
父親のほんの気まぐれがなければ、母親は自分よりずっと年上の男と結ばれただろう。
人間というのは喩え終わりが見えていても一分一秒先へ行く舟へ乗りこもうとする生き物だ。
その舟がやがて寄る辺もなくただ水面を漂うだけと知りつつ岸辺へ戻る者はいない。
母親は時折父親のことを「わたしの舟」と呼んだ。
朽ちかけた隠れ里にとって、若く逞しい体を持った父親は“上等な舟”だった。
長逗留の間、父親の下へは毎夜のように女が通った。寝物語らしからぬ艶話を食む母親が「でもね」とはにかむ。少女のように頬染め、華奢な手で口元を覆い隠す母親は幼心にうつくしかった。
でもね、お父様が褥を共にしたのは私だけなのよ。
他の女が訪ねた時は、一晩中村の伝承や昔話を聞いて過ごしたのですって。そんなの私が幾らでも話して差し上げますのに、私といるときはほんの一言でも惜しいって言うのよ。
若く情熱的な二人が所帯を夢見るまでに、そう長くはかからなかった。
当時の父親は千手一族当主の弟。甥姪に囲まれた父親に継嗣の義務はなく、父親は躊躇うことなく無能の妻を連れて帰ってきた。寛容な伯父の許しを得て二人は所帯を持ち、今に至る。
自らの過去に対して「めでたしめでたし」と言い添える母親は、年ごとにやせ細っていった。
北方山脈の麓は、夏でもカラリとした風が吹く涼しい場所だ。一方この国……火の国の夏は、昼夜を問わずじっとりと湿った熱気が肌にまとわりついて離れない。喜び勇んで嫁いできたにも関わらず、母の体はこの国に慣れなかった。婚家の四季はゆっくりと彼女の心身を蝕んでいった。
健康な女であれば、物心つかぬ我が子に夜毎同じ話を語ることはない。他人であれば気づいたろう予兆に、一家の誰も気づかなかった。子どもらは無知のゆえに──その一方で里一番の知恵者と名高い父親は、その生涯においてただの一度も妻の病に触れることがなかった。妻の愛のゆえに。
多忙を極めた父親が帰ってくると、母親は弱った体に鞭打って家事をこなす。
始めは女主人を案じていた使用人たちも、繰り返される愚行に呆れ顔で散っていく。そんな付け焼き刃でミト様に敵うはずもない。すれ違いざまの誹謗こそが、母親を愚行へと走らせた。
出来の良い兄嫁は寡婦となってもなお内政の要であった。
無愛想な父親にとって外交的な兄嫁は必要不可欠だったし、社会経験のない母親に“ファーストレディー”として振る舞うことは出来ない。単なる政治パートナーだったとしても、妙齢の男女が顔を付き合わせていれば「あれだけ親しいのだから、お二人は私生活でも男女の仲なのだろう」と下卑た噂を流す者もいる。増して物事の表層しか見ない第三者が「二代目様とミト様はやっぱりお似合いだわなあ」と囃し立てるのはごく自然なことだ。屋敷の塀はそう高くない。悪意のない噂話は自然と母親の知るところとなった。もしくは「二代目様に不釣り合いな悪妻に身の程を教えねばならない」という善意から、誰もが母親の前で兄嫁を誉め称えた──父親の居ぬ間に。
母親は良い為政者ではなかったが、少なくとも悪い妻ではなかったと思う。
その生涯を通して“良い妻”であらんとした母親はどれだけの無礼を浴びようと、憤ったり、声を荒げることもなく、母親は少女のような笑みで兄嫁への賛辞を漏らす。
お義姉さまは本当に素晴らしいお方です。一族へ嫁いできたばかりの不安な頃、お義姉さまは多忙な身を押して毎日のように訪ねてくださいました。私も外から来たからと話し、忍一族のしきたりを事細かに教えてくださり……本当に、お義姉さまと姉妹でいられることは私の幸いの一つ。
母親の言葉に嘘はなかった。しかして人は真実だけを語るようにも出来てはいない。あらゆる言葉に蝕まれ、やがて母親は笑うことしか出来なくなった。兄たちの居ぬ間に、父親の知らぬ間に、末子のカンヌキだけが母の心が砕かれる様を目にしていた。それが何を意味するかも知らず。
記憶にある限り、さいごの“寝物語”は七歳の夏だった。
痩せさらばえた母親に抱かれたカンヌキは、途切れ途切れに語られる話を静かに聞いていた。
夜遅く任務から帰ってきた兄二人が、寝室をのぞきこんで笑う。母さんのその話、聞いてやるのはもうカンヌキぐらいだよなあ。俺はもうタコが出来ちゃって。兄たちは互いに耳を塞ぐ真似をしてから、はしゃいだ声で離れへ向かう。桃華先生が今度の勉強会担当でさあ。わかるよ、厳しいからな。でも父上も寝ないで頑張ってる。兄たちの声が遠のくと、あとには静寂だけが残った。
置き去りにされた──そう感じているのは自分一人ではないと、カンヌキには分かっていた。
執拗に昔を語る母親にとって、この現実は“めでたしめでたし”なんかではなかったのだ。誰にも助けを求められない彼女が語る結句は救難信号。末子のカンヌキだけがそれを知っていた。
如何足掻いても自分を助けられない幼児に助けを請う母親。
それは「自分と一緒に地獄に落ちてくれ」という懇願ではなかったのかと、時折思う。
木の葉隠れの里が設立されたのは、カンヌキが産まれた年のことだ。
あらゆる制度が実験的に採用されるなか、兄たちは“下忍”の第一世代として多忙な日々を過ごしていた。まだ任務の振り分けも格付けも手探り状態で、任務の度に三日の勉強会が設けられ、終わった後も分厚い報告書の提出と身体検査が義務づけられていた。全ては年若い忍を犬死にさせないためだったのだろう。しかしその手厚い保証も、第一次忍界大戦の勃発とともに幕切れを迎える。
八歳の春。“千手扉間の息子”という下馬評もあり、兄たちは中忍になった。
祝宴のため久々に帰ってきた父親の目元には濃いクマがあり、明らかに草臥れていたが、普段は険しいだけの顔が僅かにゆるんでいたように思う。どこかしら嬉しげに見えたと言って良い。
父親さえもそんな調子なのだから、母親と兄たちの様子については語る必要もない。開戦してから──いや、カンヌキにとっては“生まれて初めて”の浮ついた空気が立ちこめる良い夜だった。
身に覚えのない団らんを遠巻きに眺めていると、困った顔の父親と目が合う。母や兄たちから「顔が似ている」と言われ続けたからなのか、カンヌキは父の顔を見る度に尻の座りが悪くなる。末弟が父親を苦手としているのは周知の事実で、勘の良い次兄がカンヌキの肩を抱いて輪に入れてくれた。父上は小さい自分を見るみたいで気恥ずかしいんだよ。カンヌキは見た目は父さんそっくりだけど、中身は母さんと同じで繊細なんだよな。母上、こないだカンヌキが恋文を貰った話してよ。父親が長兄を小突いて笑う。お前たちだって、丸っきり女気がないわけではないだろう。おれの息子だ。初めて父の軽口を聞いたとき、胸がざわめいたのを覚えている。普段“わし”と話す父親がこんなに幼い顔で、幼い声音でひとを愛するのだとはついぞ知らなかった。
いつになく賑やかな食卓を見渡して、母親が微笑んだ。全てに満ち足りた笑みで。
お義兄さんに大きいおうちを建てて貰ってよかったわ。あなたたち皆がお嫁さんを連れてきても十分なぐらい部屋があるのだもの。父親の逞しい腕に抱かれた母親がその胸に身を委ねる。あなたと結婚して良かったわ。ずっと、こんな風に暮らしたかった。見慣れた居間の古ぼけた明かりがチカチカと光を増して降り注ぐ。目に映る光の全てが母親を照らしている。私の愛するひと。その人との子ども。子どもたちの愛するひと……その子供たち。親を知らず、夢も持たずに生きてきた母親は、父親のために産まれてきたのだと公言して止まなかった。
実際、母親の言うことは正しかったのだと思う。いつも母親が欲するのは父親だけだった。
なんて幸せなの。なんてしあわせなの。なんていとおしいの。
幸福の絶頂で、母親が目を眇めて微笑う。全ての生気を振り絞って愛情を胸に灯す。
「あなたたちにも、私とお父様のような恋をしてほしいのよ」
それが正気の母親を見た最後だった。
団らんの三日後、兄たちは死んだ。
奇しくも両親が出会った田の国で、雲隠れの忍と交戦になったらしい。
長兄の死体は頭だけ、次兄の死体は腕しか戻ってこなかった。それ以外の部位は他国に利用されないよう、根雪の残る渓谷に落とされた。何しろ向こうは上忍のみで編成された正規部隊、一方のこちらは上官以外は皆中忍で編成された兵站部隊。兄たちが属していたのは補給を目的に行動している部隊で、今回の任務では特に交戦の可能性は低いとされていた。少しでも多く荷物を運ぶために武器の携帯は最低限に抑えていたらしい。何より皆、乱戦の経験がなかった。様々な不運が重なった結果、とてもじゃあないが死体の一部しか持って帰ることは出来なかったのだと言う。
兄たちの隊を率いていた男が、骨と皮ばかりになった母親の前で頭を下げる。
あのあたりは、夏が来ると青い花が咲いて綺麗なのよ。焦点の定まらない母親が、長い沈黙のあとで呟いた。せんせい、あたまをあげてください。あのこたちも、ぜんぶわかっていたのでしょうから。どうぞ、ごりっぱでしたとひとこと。それで終わりにいたしましょう。おわりに。
砕けた正気を精一杯の見栄で繋いだ母親が微笑む。男は母親の慈悲を受けて僅かに顔を上げたけれど、すぐ俯いた。ワナワナと体がふるえる。良い上官だったのだろうと、その態度から分かる。そして同様に、兄たちも“良い部下”だったのだ。折り目正しい“善良さ”は時として地獄を産む。
父君の名に恥じぬ、ご立派な最期でした。
男は謝罪を絞り出したあと、わざとらしいほどにおぼつかない足取りで去っていった。
一人残された母親は、カンヌキを抱いたままいつまでも玄関口に座り込む。ひとり。
使用人たちが声をかけても、母親はニコニコ笑っているだけで動かない。日が暮れると、ようやっと母親が口を開けた。うふふ。少女のような声で笑う。立派だったのですって。カンヌキを抱く腕に力が入る。うふふ。うふ。ふふふ。これっぽっち帰ってきても。兄二人の遺体は風呂敷に包まれたまま、母親の前に置き去りになっていた。母親が誰にも触れることを許さなかったのだ。
花が咲くのよ。誰ともなく、母親は語り続ける。お父様と二人で行ったわ。沢を下ってね。とても深いのよ。あの世への入り口みたい。綺麗な花が咲くの。初恋のひとに贈った花なのですって。愛するひとには戦場に出てほしくないって、いつか所帯を持つならふつうの女にすると決めていたって言うの。わたくしがくノ一じゃなくてもかまわないって、いったの。いったのよ。
悲鳴のような独白が続く。母親の脆い腕に抱かれ、誰も彼女の裡に触れられない絶望を識った。
もう二度と。にどと。みんな。そうやくそくしたのに。
あとは、言葉にならない慟哭。声が嗄れるまで、ずっと。細い嗚咽が地を這う。蛇のように。
夜の帳が落ちきると、“庭仕事”を終えたセンテイが這うようにしてやってきた。
震える指で、兄たちの亡骸を掴む。やめて。母親が叫んだ。やめて。わたしの子どもよ。どこへ持って行くの。それっぽっちしか残らなかった。それだけしか。やめて。やめて。やめて。やめて、あなた、あなた止めて、やめさせて、はやく。なぜ。どうして。金切り声をあげる母親が、センテイを殴る。子どもは忍者にしないって約束したのよ。約束したのに。やくそくしたでしょう。うしなうのはたえきれない。おとうとも、はつこいのあいても、みんな、みんな。みんな。あなただって、なにもかんじないの。なにも。なんで。おまえも、しっていたはずなのに。
センテイは兄たちの遺体を腹に抱いて、母親に殴られるまま黙っていた。やがて母親が床に突っ伏し童女のように泣き始めると、センテイは顔を上げた。女中たちを呼ぶ。坊ちゃんをお連れしなさい。カンヌキはそう言われて初めて、自分が母親の腕から放り出されたことに気づいた。
ぼう……と、母親の背を眺めていると、おずおず近寄ってきた女中がカンヌキを立たせ、震える手で居間へと促す。遠く、センテイの声が聞こえる。奥様、しっかりしなせえ。子ども二人を一遍に亡くして辛いお気持ちは痛いほど……でも、八つの子どもの前でそんなに取り乱しちゃあいけねえ。さあ立って、坊ちゃんのために飯を食わねえと。あんたにゃあまだ“子ども”がおりましょう。
忍一族に産まれたセンテイには、そうではない母親の気持ちが分からない。
誰も悪くはないのだと、幼いながら分かっていた。寝物語の先を夢見る母親には、現実を受け入れることが出来ない。腕のなかに八つの子どもがいることも、その子のために生きなければならないことも、母親にとっては“辛い現実”の一つだった。正論を説くセンテイや、腫れ物を放置した女中たちが悪いのではない。精一杯の誠意で詫びた上忍も──きっと、兄たちを殺した者さえ。
あの夜、母親を救うことが出来るのは父親だけだった。
父親にしか母親の正気を繋ぐことは出来なかったのに、父親は帰ってこなかった。二日経っても、一週間経っても、一月過ぎても。父親の長い不在は、母親の狂気を決定的なものにした。
兄たちの訃報が届いてから一週間経つと、カンヌキは女中の制止を振り切って母親を訪ねた。
真っ白い布団に埋もれるようにして眠っていた母親は、カンヌキの顔を見ると上半身を起こして微笑った。カサカサに乾いてしわだらけの唇が歌う。とびらまさま。あなた。ああ、やっと帰ってきてくれた。今度の戦ばかりは戻って来られないかもしれないと思いました。瞳孔の開き切った目がカンヌキを見つめ、不揃いに伸びた爪を目元に伸ばす。ミチミチと音を立てて自分の皮膚が拓かれるのを感じ、カンヌキはわらった。乳飲み子二人を抱えて未亡人になったらどうしようと、そればかり考えていたの。よかった。わたくしをひとりにしないで。
喉がくしゃりと潰れて、弧を描いていた口元が奇妙に歪んだ。
『愛するひとには戦場に出てほしくないって、』
『子どもは忍者にしないって約束したのよ』
『やくそくしたでしょう』
目元の新しい傷に塩水が触れて痛む。
幸せの絶頂で壊れてしまった母親の腕に抱かれ、カンヌキは声を殺して泣いた。
母親は北方山脈の麓にある、小さな隠れ里で育った。
年を重ねるごとに廃れていく村には名前さえなく、まれびと信仰を始めとする古い呪いと伝承が融けて交わり新たな言い伝えを産む。その言い伝えの一つに“だしんさま”というものがある。
蛇の神と書いて“だしん”と読むのだそうよ。蛇は多産だから、信仰の対象になったのでしょうね。不意の気まぐれに母親が囁いた。うちの村は何しろ子どもを欲しがったから。
白い指が宙で円を描く。だしんさまは自らの尾をくわえていて、全てを呑み尽くしたあとに再び生まれ変わると言われているの。より多くの血を取り込むことで不老長寿に近づくという考えがあったの。実際、私の母親はお義兄さんみたいに傷の治りが早かったし、私の幼なじみにも一人……今や上忍として活躍してるから、そのうち会うかもしれないわね。お父様もその伝承を切っ掛けにうちの村のことを知ったみたい。村ではね、ひとが死ぬと新しい服を着せて土に埋めるのよ。わたしたちの……この地上に生きる人々全ての血が混じった“さいごのひとり”が生き返らせてくれると信じているのね。だから、遭難やなんかで死体が戻ってこないと大騒ぎだったわ。え? いいえ。うふふ。母親が可笑しそうに笑う。全部迷信よ。あの村は疾うにないのだもの。死んだひとが生き返るなんて、そんなことありはしない。時々お義兄さんみたいにチャクラ量が多い人間が産まれるだけの、どこにでもある寒村の一つ。それだけのこと。さあ、寝みましょう。
……せめて兄たちの遺体が全部戻ってきたのなら、違った未来があったのかもしれない。
どの道、母親が長らえることは出来なかったのだとしても。
兄たちが死ぬと、父親は一層家に寄りつかなくなった。
仕方がない。センテイは繰り返し、頭を垂れる。今が正念場なんです。今前線を離れたら、息子二人の死が無駄になる。蔑ろにしているわけではないんです。センテイが言うのなら、そうなのだろう。分かってる。庭のことは気にするな。父さんの役に立ってくれ。物わかりの良い言葉を口にして笑うと、センテイはホッとした顔で踵を返す。センテイはカンヌキが産まれる前からずっと父親の私兵として働いてきた。この戦時下で、女子供に関わる暇はない。
遠ざかっていくセンテイに、女中たちが未練がましい視線を注ぐ。彼女らにニコッと笑いかけてから、母親の寝室へ向かう。末息子の顔も名前も忘れ、“男”としての役割を求める母親の下へ。
もう随分長いことアカデミーを欠席していた。どうせ行ったところで子供だましの体術を教わるだけ。うちは一族の子なんて、もう誰も来ていない。戦況が悪化して本土決戦に持ち込まれたら、年なぞ関係なく皆戦う羽目になる。歴史が古い忍一族であればあるだけ出席率は低い。大人の忍者数人に囲まれた時、手裏剣術が何の役にも立たないことを知っているからだ。
僅かに開いた襖からは青々とした空が見える。
骨ばって頼りない手が、未成熟な体を撫でまわしていた。落ちくぼんだ目が爛々と光を放ち、乾いた唇が嬌声の合間に父親を呼ぶ。やがて、物見高い女中の一人が顔を顰めて離れていった。
この人は壊れてしまった。分かっている。誰が悪いのでもない。父親は火影だ。この戦時下に妻子を構う暇はない。みんな家族を亡くしている。兄たちだけが死んだのではない。指一本帰ってこないことだってザラにある。何故分からないんだと、頭のどこかで叫ぶ声がする。みんな、しんでるんだよ。兄さんたちだけが死んだんじゃない。その怒りが、母親の愛撫に萎える。
『父君の名に恥じぬ、ご立派な最期でした』
父親が武勲をあげればあげるほど、為政者として頭角を表すほど、母親の無能は際だった。
ミト様のような立派な方と子を成せば良かったのに、あんな女が母親では不出来揃いも仕方がない。よそに女を囲わせればいい。あの女に文句を言う義理はない。全く扉間様もどうしてあんな女と結婚してしまったのか。人の口に戸を建てることは出来ない。多忙な父親は勿論、兄たちも──自らの忍才不足は察していたにしろ──母親がどんな中傷に晒されているかは知らなかった。
自分のこと、時として我が子のことを謗られつつ、母親は明るかった。どれだけ父親が帰って来なかろうと、その不貞を疑うことはなかった。時として忍才の無さに落ち込む兄たちを励まし、いつも前向きな言葉と共に二人を送り出した。兄たちが死ぬまで、母親はただの一度も兄たちが忍者を志すことに難色を示すことはなく、いつも父親が如何に努力家であろうか言い聞かせてきた。
『お父様はああ見えて人一倍努力家なのよ。才能なんて言葉で片づけちゃ何も出来ないわ』
頑張ればいつか結果が出る。その“結果発表”が死後だったことに、母親の心は壊れてしまった。
あれだけ研鑽し続けた息子たちが、死んで初めて「立派だった」と認められる。どれだけ惨めなことをしてでも生きて帰ってほしいという思いを土足で踏みにじられる。他ならぬ愛する夫自身がその願いを踏みにじる。我が子を死地へ送らなければ、誰も火影の言葉を信じはしない。
それ故、誰もが暗黙のうちに知っていた──兄二人が支持率の生贄として捧げられたことを。
戦が長引くごとに内部分裂の可能性も増す。これほどの犠牲を出しているのに、火影は内地で指示を飛ばすのみで何の犠牲も払おうとしない。これは正しいことなのか? 誰もが思う。頭を欠くことは出来ないと分かっているはずなのに、“頭”に対する猜疑は増しつづける。
兄たちの死は一番手っ取り早い“解決”だった。兄たちが死んだことで、皆がホッとしている。みんな、くるしんでいるのだ……と。多くの人々が兄の死を喜ぶ。兄たちがどんな人間で、どれだけ優しくて、親思いで、仲間思いで、周りの人間に好かれていたかも知らないくせに。
兄よりも優しくなくて、親不孝で、薄情者の自分が生き残ったのは何の皮肉だろう?
自分に忍としての才能がないから、それっぽっちのことで生死が左右される。
この世界には忍一族に産まれない者のほうが多いのに、愚かなことだ。
忍一族に産まれなければ、それはそれで“弱者”として脅かされる。
忍一族に産まれれば、組織の駒として使い潰される。
こんな世界に何故産んだのかという疑問が湧く。
母親の長い髪が視界を黒く塗りつぶす。
痩せさらばえた頬に手を伸ばした。
肋の奥で、心が砕ける音がする。
みんな壊れてしまえ。
何もかも、皆。
早く死ね。
死ね。
……カンヌキの全てを打ち砕いた人間は今日ものうのうと生きている。これからも、ずっと。
カンヌキにしろ、多分罰したいとは思っていない。懲罰に意味は無いからだ。
それでは、果たして望んだものは何だったのか。
母親が壊れていく様を、兄たちの死が踏みにじられる様を、その全てを見ていた。
眼前で行われる陵辱に憤ることも抗うこともなく、カンヌキはただ“良い息子”でいようとした。
ほんの数ヶ月前の光が眼窩を満たす。笑い合う兄たち、砕けた表情を見せる父親、目映いばかりの笑みを浮かべる母親、カンヌキの希望、祈り、短い人生の全てを埋めるもの。何もかも。
雨だれに目を覚ます。畳の上に崩れ落ちている母親が父親の名を食んでいる。僅かな理性の全てで父親の不在を悟る母親はカンヌキの存在に気づかない。窓から漏れる街明かりを二人眺める。
これまでも、このさきもずっと、カンヌキが望んだものはみんな砕け散ってしまった。あの日みた光の全てが自分のいない街に降り注いでいる。きれいだねと言うと、母親は「あー」と言った。
既に肌色を成していない四肢を引きずって、母親が街灯に照らされた曇天を見上げる。
あー。もう一度呻いた母親の腰当たりからアンモニア臭が立ちこめ、カンヌキは重い腰をあげて洗面室へと向かった。希望とか望みとか馬鹿げた夢想より病人の清潔を保たねばならない。
梅雨が明けると母親は殆ど昏睡状態に陥ったが、それでも目を覚ますとカンヌキの姿を探した。
カンヌキの手を握って、もういない兄たちの話をする。もう二度と叶わない未来の話をする。
兄たちの子どもに囲まれ、幸せに老いていく未来を夢に見る。カンヌキの名前を呼ぶことはない。もう一人子どもを産んだことなぞ、すっかり忘れてしまったのだ。母親が幸せだったのは、カンヌキが産まれるまでのこと。こんな里さえ無ければ、母親は無能であることに苦しまなかった。
もう睦言さえ語れぬ母親が、視線だけでカンヌキを呼ぶ。いつからか女中たちは母親の寝室に寄りつかなくなっていた。骨と皮だけになった母親に粥を啜らせ、湿した布で体を拭う。
八月、遂に重湯さえ啜れなくなった。この頃になると、根気の良い主治医も頭を匙を投げた。
この夏を越えることは出来ないでしょう。確かに父親にもその言葉を伝えて貰ったはずなのに、父親が帰ってくる気配はない。きっとまたゼンセンとやらが大変なのだろう。罪のない女中に「父さんはどこへいるの」と問い続けるのも飽きて、母親と二人で父親の帰りを待つことにした。いや、もしかしたら四人かもしれない。長兄と次兄が死んでから、半年も経っていなかった。兄たちの葬儀が執り行われた時も、父は戦場にいた。今前線を離れると士気が落ちると言って、父は息子二人の死に顔も、遺骨も見ないまま。仕方が無い。何故仕方が無いのかは忘れてしまったけれど。
カンヌキは母親が眠る布団に顔を埋めて思案した。何日もずっとここにいる。
女中たちは、離れをちゃんと掃除してくれているのだろうか? 少し前に次兄の机を処分しようとする女がいたけれど、使用人の分際で如何いうつもりなのだろう。キツく叱りつけておいたものの、自分が母親の寝室に篭りっきりなことを思えばクビにするべきだったかもしれない。
父親が不在がちな分、兄たちがいない分、自分がしっかりしなければ。
喘ぐように息を吸うと、鼻孔から血が垂れてきた。手の甲で拭って、布団から身を起こす。原因は分からなかった。鼻血はすぐ止まったけれど、頭がぐらぐらする。空腹? でも、まだ大丈夫。死ぬことに比べれば何事もどうってことはない。──もしかすると、死ぬことさえ。
もう随分前から瞬きを忘れた瞳は、カンヌキのことだけをひたむきに見つめている。
外気に馴染んだ頬を撫でると、肉の柔さだけが手に収まった。苦しみのない瞳だと、カンヌキは思った。もう、この人の世界には何もない。兄嫁への嫉妬や結婚生活への失望、腹を痛めて産んだ子らが無碍に扱われる悲しみ、冷たい土の上で死んだことを「ご立派でした」と賞賛される空しさ──生きている限り生きていかなければならない苦しみ。母親はその全てから解放されたのだ。
嫉妬。失望。苦しみ。空しさ。悲しみ。それらが折り重なって、母の命を手折る。全ての終わりを察して、母親の細い腕が宙を彷徨った。その、今にもくずおれそうな脆い腕を受け止める。
ぽとん。白い布団に血が垂れた。鼻の下をぬくい、心地の悪いものが伝う。自分の手の中で母親の手が強ばったのが分かる。目を眇めてカンヌキから視線を外す。涸れた喉を震わせる。
とびらま、さま。
戸の向こうから使用人たちが呼んでいるのがわかる。
四日前まで母親だったものの手を握ったまま、カンヌキはいつまでも“それ”を見つめていた。
かつて黒々と美しかった髪には白髪が混じり、白くきめ細かかった肌は歪に膨らんでいる。
母は元々心の弱いひとだったけれど、兄たちが死ぬと同時に正気を失してしまった。防衛本能なのだろう──疾うに粉々になった心を守ることに何の得があるかはわからねど──末息子のことをきれいさっぱり忘れてしまった。自分が産んだのは息子二人だけ、木ノ葉隠れの里はまだ無く、戦国時代のただ中に生きている。そう思いこんだ母は、カンヌキのことを父の名で呼んだ。危うい笑顔で兄たちの無事を祈り、無邪気に兄嫁を慕う。あまりに激しい恋情で夫を請う母親を拒むのは、八つのカンヌキにとって難しいことだった。使用人たちは挙って二人を引き剥がそうと腐心したけれど、母が子どものような癇癪で夫を請い求めるのを聞くと会わずには居られなかった。
目先の“居たたまれなさ”を優先した罪だろうか? 最期の最期まで母親の正気は戻らなかった。
カンヌキは母親の腕を布団に下ろし、震える指でその目蓋を閉じた。
その時、初めて自分の手の小ささに気付いた。堰を切ったように涙が零れてくる。
もう自分は“八つの子ども”ではいられない。今後は“二代目の不出来な息子”として生きる他ないのだと、カンヌキは分かっていた。もしかすると、あの献身はそうした打算によるものなのかも。
『なんて幸せなの。なんてしあわせなの。なんていとおしいの』
正しいことをしたかったのだと、八歳の子どもが言葉にするのは難しい。
増して怒り狂った父親を相手に弁が立つ者など、大人にだっていないに決まっている。
母親が死んでから一体何日籠城したのか、カンヌキはもう覚えていない。激怒した父親が扉を蹴り壊した時には未だ母親は“女”の形をとどめていたと思う。立ちこめる腐臭に怯むこともなくカンヌキを張り飛ばすと、父親は布団ごと母親を抱いて出て行った。その後、すぐ妻を焼いた。
結局火葬場でも、通夜でも、葬儀を終えた後にも何故を問われることはなかった。その無関心からは、末息子の奇行へ対する拒絶が見て取れた。いっそ憎しみに近いものさえある気がした。
父親は、いつもそうだ。為政者として優れ、仁に厚い立派な忍者。
深い探究心と使命感から多忙を苦に感じない父親は、形ばかり自分に似た不出来な末息子を常に疎んでいた。つかの間一人の家庭人としてカンヌキを見つめる時、その瞳にはいつも失望の色があった。何故この出来損ないが実子なのであろう? そう言いたげな沈黙を感じ取り、カンヌキは父親が恐ろしかった。忍才もないくせに、父親に似ていることも厭わしかった。いや、父親自身がそれを厭わしがっているのではないかと思って、自分の取り柄はそこだけだと思って、誰もが自分のなかに父親の影を探し求め、そして「やはり二代目様はご立派だった」とため息交じりに去って行く。全てがその繰り返しだった。いつからか、父親に愛されたいとは思わなくなった。
その代わり、父親の愛弟子たちへの執着は年を追うごとに……それこそが“愛着”なのだろうか。もう、どうでも良い……父のことなど。もう何もかも──生き死にさえ、どうでも良い。
目に映る何もかもの輪郭が滲んだ朧な世界に、脆い笑みを浮かべる母親の姿が蘇った。
息苦しさに喘ぐたび、頭のなかでチカチカと瞬くものがある。
その光が何だったのか、思い出せない。もしくは、もう知りたくないのかも。現実から免れるため、自分が直面しているものより酷い何かを考える。それは幼い頃からの悪癖だった。
幸いなことに“目を覆いたくなるようなこと”はそこかしこに溢れていて、正気を失うのは簡単だった。自分より遙かに優れていた仲間達は若くして石碑の住人となり、仲間が死ねば死ぬだけ、カンヌキの仕事は増えた。結局のところ、幼い頃にあんなに拘った“忍才の欠如”は大した問題ではなかったらしい。そう悟る頃には、女子供も平気な顔で殺せるようになった。仲間殺しも、好んでやった。誰もやりたがらない汚れ仕事であればあるだけ良い。そうやって、発言権を強めていった。
父親に最も愛でられ期待された三代目が、信頼に満ちた目を向ける。彼に応じて笑みを作る度、侮蔑の色に満ちた父の瞳が思い起こされる。耳朶に「出来損ない」と囁く声がする。
ここは地獄だ、と思った。
夫の代わりに我が子を求める女も、忍才の有無で全てを図る男も、その男に使いつぶされるものも、自らより優れた他人に易々と命綱を託すものも、自らの理想のため人を殺すもの、他人の理想のため人を殺すもの、他方の正義を踏みにじるもの、生きることを放棄するもの、この世の全て。
どうせ同じ地獄なら、好きにしようと思った。父の愛弟子に付きまとって選別し、揺らがない者を利用し、揺らぎやすい者を更なる地獄へと拐かす。自分が見ているものを一人でも多くの人間と共有したかった。人が死んでも、人を殺しても何とも思わない。任務という名目さえあれば、どんな酷薄さも“大義”として扱われる。里を守る。その下らないお題目を唱え続けたのは保身のため。
そうした卑しい本心を義伯母だけが見抜いていた。夫たる初代火影、志を同じくする人々を亡くし、年老いて現役を退いてもなお若々しい義伯母。孫娘を、自らの後継者を……いつも自分の死後に残る若い世代について案じていた義伯母がカンヌキの手を取って、忍者を辞めるよう諭す。
義伯母の声を聞きながら、ボンヤリ「何故ここにいるのか」と思案した。
思考がそこに至るまで、自分が倒れたことさえ理解していなかった。何ヶ月ぶりに帰宅したのかも分からない。ダンゾウの屋敷を辞したあたりから記憶が定かではないものの、何とか自宅までは戻ってきたらしかった。そして離れの縁側に上がり込んだところで力尽きたのだろう。これが戦場なら……いや、正規任務なら休養も義務か。この人手不足の里でひとの限界ギリギリまで使い潰すのはダンゾウぐらいのものだ。気恥ずかしさからダンゾウに憤ってみても、最早仕方ない。
無様としか言いようのない姿を義伯母に目撃された居たたまれなさにため息を漏らす。正直言って、今や一族中の鼻つまみ者となった自分を訪ねるひとがいるとは思わなかった。勿論、人品優れた義伯母がその限りでないことは分かっていたつもりだけれど──義伯母は、本当に綺麗だ。
『あなたたちを救えなかった。許して……どうか、許してちょうだい』
うつくしいひとが、母の名と共に謝罪を食む。
どうしようもなさに目をつむると、目蓋の裏の浅い闇に母親の姿が蘇った。この縁側に義伯母と二人並んで、二人で庭を眺めていた。今となっては何かの幻のような記憶に、目元が熱くなる。
『私を許してくれるのなら、もう自分のことを道具のように使うのをやめて欲しいのよ』
このどうしようもない地獄において、たった一人綺麗なままの義伯母が泣く。
義伯母に握られた己の手は、とっくに子どもの手ではなくなっていた。
それもそのはずで、母親どころか忌々しい父親も死に、いつの間にか“ここ”には何もなくなっていた。ここ……木ノ葉隠れの里。父の後を継いで火影となった友が治める土地。最後の最後まで自分を無能扱いした父が、守ろうとしたもの。幼い日からずっと“地獄”と信じて疑わなかった場所。
義伯母の名を口にしようとして、自分が喋るだけの体力も有していないことを解する。
ボンヤリした頭で身じろぎすると、義伯母が大慌てでカンヌキの体を支えた。
忍才に恵まれているわけでもないカンヌキが任務に明け暮れていれば、体を持ち崩すのも当たり前だ。禄に病院へも行かず、切り傷も打撲も、病でさえ自己治癒能力に委ねていた。
カンヌキは熱に侵されてグッタリした体を起こし、義伯母の目尻に貯まった涙を拭う。
初めて会った時と比べると随分しわもシミも増えているけれど、カンヌキにとっては今も昔も変わらぬ“憧れのひと”だ。心ばえもうつくしい彼女のために母親が苦しんだのだとしても、こうしてカンヌキを案じてくれるのは親戚中で義伯母ぐらいのものだ。カンヌキは、折れることにした。
ここは地獄だ。でも、そう思っていない人間もいる。
義伯母は、カンヌキに一年の長期任務を課した。
どこか地獄でないところを探してきなさいと、それが義伯母からの命令。一先ず義伯母の縁者がいるという雨隠れの里へ身を寄せ、人を殺したり、貶める以外のことをするよう命じられた。
無論、表向きには長期の偵察任務に出ることになっていた。里長のヒルゼンさえ「根をつめすぎるなよ」と案じるあたり、老いても尚義伯母の政治基盤は盤石ということなのだろう。確かに「里長は里の象徴として座していれば良い」「初代様のような精神的支柱が必要」とダンゾウたちに吹き込んだのはカンヌキだが、義伯母の死後の里政を案じずにはいられない。それを知ってか知らずか、義伯母が苦笑する。あの子たちはいつまでも年下のあなたに甘えて、困ったこと……。
ヒルゼンを始め、自分を案じてくれる人々、そして「二度と帰ってこなければ良い」と悪態をつく親戚たち。あ・うんの門まで見送りにきた義伯母が「あなたの好きにしなさい」と再び涙ぐむ。
もう戻ってきてはなりません。風に紛れて聞き損ねたのは、そんな言葉だった気がした。
義伯母の故郷である渦の国は、先の大戦の余波で滅んでいる。
渦の国は水の国の同盟国であるにも関わらず、先の大戦では火の国に加担した。今や戦勝国として増長した渦の国は、同国内に住む我々の同胞を虐げ、差別している──というのが、進軍理由。
水の国の行動は素早く、抗戦らしい抗戦はなかった。あっという間に渦の国の軍事拠点である隠れ里を制圧した後、義伯母の弟の首を取った。義伯母がカンヌキを里から出したのは、そういう背景もあったのかもしれない。水の国の本当の目的はうずまき一族の血を取り込むことだったのだとも、第二次忍界大戦に備えて前線基地にするつもりなのだとか囁かれているが、何にせよ義伯母の苦悩は変わらない。尤も、年かさの忍者たちが血路を開いたおかげで、若い忍者は脱出に成功している。今は木ノ葉隠れの里の一角に居住区画を設けているものの、忍道を辞す者は少なくない。
カンヌキが身を寄せることになった一家も、やはり亡命と同時に忍道を辞したのだと言う。
温厚な笑みで「今はここで、医療忍者だった頃の知識を元に医者の真似事をしてます」と続ける夫婦はカンヌキより一回りほど年かさで、二人の娘を育てていた。おとなしいのと、うるさいの。
カンヌキは「年頃の娘が二人いる家に男をあげるなんてどうかしてる」と憤る少女を見て、心底ウンザリした。その頃には既に女性相手には役立たずだと──義伯母には伝えてなかったが、“それ”が理由で婚約破棄されたばかりだった──分かっていたので、率直に「お前たちでは勃つものも勃たん」と告げた。カンヌキは一応彼女を安心させるつもり……いや、色気もクソもないことを嘲る気持ちがあったので、思いっきり頬を打たれるのも致し方ない。この場合、一般人のくせにと言うべきなのか、もしくはカンヌキが“忍者のくせに”なのだろう。もの凄く重い平手打ちだった。
あらあらウフフな夫婦を尻目に痛みに打ち震えていたら、脇からぬれタオルを差し出された。
『フソウの平手打ちはとっても痛いのよ』
義伯母と同じ赤い髪を腰まで伸ばした華奢な少女。それがムツとの出会いだった。
この姉妹は極めて対照的な性格をしていた。フソウはなるほど喧嘩っ早く、すぐに手が出る。うずまき一族の血が濃く出ているらしく、隠れ里に産まれたのなら立派なくノ一になったであろう。ムツはその逆で、うずまき一族外から嫁いできた母の血が濃いらしかった。雨にも風にも負けてしまうような病弱さを有しており、夫妻は彼女のために火の国へ移ろうか考えていた。シスコンの気があるフソウも移住に賛成していたが、当のムツは雨隠れの里を気に入っているのだった。
嬉しそうなムツに「ミト様が、あなたを暫く住まわせてやってくれってお願いしたでしょう。あなたがいるうちは、引っ越さなくて良いってことだわ」と言われた途端、フソウに足を蹴られた。恐らく「さっさと出て行け」ということなのだろうなと思ったが、ムツがいなくなるなり「さっさと死ね」と言われた。ガキは訳が分からん。カンヌキは様々なことに嫌気が指していた。
人を殺すこと、人を貶めることはカンヌキのライフワークだ。
そのライフワークを禁じられた今、カンヌキの毎日は退屈だった。増して雨隠れは陰気な土地だ。何日も何日も部屋の窓から雨が降るのを眺め、不意に「あの子供は何故ここから離れたくないのだろう」と疑問になった。それが、何もかもを無くしたカンヌキにとって唯一の疑問だった。
ムツは、カンヌキの問いにすぐ答えてくれた。寝込んで、アカデミーを休んでいたからだ。
カンヌキは、ムツのキラキラした瞳を覗き込んだ。お父さんもお母さんも、もう、痛い思いをしたり、苦しい思いをしないで良いから。馬鹿馬鹿しい……と思ったが、口には出さなかった。
気まぐれから話しかけたのが悪かったのだろう。
体調が戻ると、ムツは暇さえあればカンヌキについて回るようになった。
ムツの言葉は、本当に稚拙で、下らなくて、知性のかけらもない、有り触れたものだった。
たまに晴れると嬉しいとか、空気がひんやり冷たくて気持ちいいとか、雨の音を聞いているのが好きだとか。カンヌキは疎ましいだけの雨音混じりに、ムツの下らない話を聞いていた。
晴れただ降っただ姦しい。でも、そういえば自分の母親も、こういう下らない話ばかりする女だった。カンヌキは母親の話が好きだった。きっと父親も、妻の唇から漏れる言葉を愛したと思う。
カンヌキは人を殺したり貶めること以外で時間を潰す術を持っていないし、雨隠れの里は陰気に過ぎた。切れ目なく降る雨のなか、一人で無聊を囲うよりは下らない話を聞いているほうがマシというものだ。素直にそう言うと、ムツは声をたてて笑った。ムツはよく分からない生き物だ。
正直言って、出会ったばかりの頃はムツの話なぞ殆ど聞いていなかった。でも、自分の隣でああだこうだ、一人で笑ったり怒ったりする彼女に絆されるまで時間は掛からなかった。
半年も経つと、自分から彼女を探すようになった。別れの時には再会の約束もした。
別れの日、ムツはずっとずっと、歩けなくなるまでカンヌキについてきた。
ムツのおかげで、カンヌキは彼女を抱えて今来た道を戻る羽目になった。その間も、ムツは多くの約束を交わしたがった。山に植えた苗木が花をつけるまでに会いにきてとか、川辺に成る桑の実を摘みに行こうとか、コケモモでジャムを作ろうとか、屋根を直さなければならないとか、沢山。
『私を忘れないで。必ず、私に会いにきてね』
それが何なのか分からないほど子どもでもなく、でも“分からないふり”をした。
一年ぶりに里へ帰ると、義伯母は酷く失望した様子だった。
多分、やはり義伯母は本気でカンヌキに忍者を辞めて欲しいと思っていたに違いない。それが善意からと分かっていても、知らんふりをしてしまう。お前如き凡才はこの里に要らないと言われた気がして。結局義伯母の思惑からは外れたものの、それでも時間を作ってはムツを訪ねた。
年を重ねる毎に“女”として成熟するムツに口づけ一つしないまま数年が経ち、やがて自分が不能であることも伝えて、「それでも良い」と──その言葉が結果的にはプロポーズになった。
誰一人傷つけたことのないムツが、人を殺すことでしか生きられない自分に縋って「一緒にいられるだけでいいの」と咽ぶ。これこそが母親を殺した“呪い”だと、カンヌキには分かっていた。分かっていたけれど。カンヌキの素性を知ったフソウが、めちゃくちゃにクッションを振り回してカンヌキを殴る。人殺し。人殺し。人殺し。姉さんを連れて行かないで。
私たち普通に生きていきたいだけなのに、あんたの地獄に私たちを巻き込まないで。
その慟哭が示すものが何か、カンヌキは知っている。
母親の幻がカンヌキに囁きかける。子どもは忍者にしないって約束したのよ。義伯母の憂い顔が脳裏に過る。あんな、未だ恋も知らない子どもに九尾を託すなんて惨い真似をしろと言うの。
女はみんな、暗い顔をする。
カンヌキは忍者だ。忍者の妻は不幸になる。度を越した男尊女卑社会の渦中に置かれることもそうだし、何人も何人も子を孕まなければならない。あまつさえ生まれた子は「里のために死ね」と聞いて育つ。十人近く産んだ子を皆戦争で亡くした女もいる。最後の一人が亡くなってさえ「ご立派な最期でした」と口々に言われるのだ。忍者に嫁ぐというのは、そういうことだ。
ムツに、それを強いるのか? この陰気な土地でさえ天国のように感じている彼女に、両親を忍者に戻さないため移住を拒み続けた彼女を、恋情を人質にとって地獄へ連れ去ろうとしている。
自分が見ている地獄を一人でも多くの人間と共有したかった。
たった一人を除いて──そう望んでしまうことが全ての答えだった。彼女が好きだった。
単純なもので、恋心を自覚するとすぐ下半身が使えるようになった。
体と体を繋げる愛しさを知ると、必然的に妻はカンヌキの子を身籠った。その頃にはもう忍者を続けたいという気持ちもなく、ただダンゾウや大蛇丸といった自分が唆した連中への義理から働いているようなものだった。何れ里を出ることを見越して、貿易会社も興した。妻子に裕福な暮らしをさせたいと思ったし、雨隠れの里の治安状況を思うと他国への移住も視野に入れる必要がある。
様々な思惑のなか生まれてきた娘は、カンヌキの不安を吹き飛ばすほどに愛しかった。ムツの腕に抱かれた赤子を見て、誇張なく「こんなに可愛い生き物は見たことがない」と思った。
全てが完璧な幸せのなかで、カンヌキは我が子に幼い日の恩人の名を冠した。遥か昔、母親のお産を助けてくれたという娘の名前。この子には、他の命が生まれるのを手助けする人間になってほしいと祈った。この世の何もかもがこの子の生を祝福しますように。心の底から、そう祈った。
僕の可愛いトバリ、君がずっと……しわくちゃのおばあさんになっても笑っていますように。
僕の目に映る地獄が、君の目を通して浄化される。
兄の死も、母の狂気も、父への失望も、何もかも君と出会うために在った試練に過ぎなかったのだと感じた時、カンヌキは自分の生を呪うことを止めた。そして、ゆるされたいと思った。
今更虫が良い話だとは分かっていたけれど、自分が地獄へ導かんとした人々に許されたかった。良いひとになろうと思った。身勝手と分かっていても、そう願わずには居られなかった。
それは多分、やはり、この腕のなかの命に難が及ぶことを恐れたからだ。自分が生み出した地獄が娘へ手伸ばすことだけは何としても避けたい……そう思うこと自体が身勝手と知っていても。
『トバリちゃん、いつの間にか手紙なんて書けるようになったのね』
ダンゾウの留守を知って踵を返すカンヌキの背に、粘着質な声が触れた。
薄々予感していたことではあるが、大蛇丸はカンヌキより遥かに優れた忍者へと育った。
そんな大蛇丸をダンゾウが重用するのはごく自然なことで、いつからか二人の結びつきはカンヌキとのそれより強いものとなっていた。自分が門前払いを食らった屋敷から大蛇丸が出てくるのは何ら気にかからない。カンヌキの歩みを止めたのは、大蛇丸が口にした“手紙”という言葉だった。
大蛇丸のすらりとした指先に、見覚えのある粗末な封筒があった。その宛名が読めないほどの距離ではない。素人の手製であると一目で知れる歪な封筒には「うずまきトバリ」と記されていた。
『あら……でも、なんで四つの子がダンゾウ様みたいなおじいちゃんと文通してるのかしらァ』
口元を封筒で隠した大蛇丸の目が笑みを帯びて細められる。カンヌキは何も言わず──激昂するでも、絶望するでも、その手紙を奪い取るでもなく、じっとりと黙り込んだ。ただ、驚くほどストンと納得した。そして、目の前で自分を怒らせようと試みる男への哀れみのようなものさえ湧いてきた。自分のなかには「いつまでも自分を被害者の側に置く弱さ」があったのだと自覚する。
随分長い間、カンヌキのなかには「自分が苦しんだから他人を傷つけて良い」という傲岸極まりない気持ちがあった。そうした身勝手極まる感情を振り回し、不意に我に返っては「どうせこの世は地獄なのだ」という極論で己の身勝手さを肯定してきた。これは、そのツケなのだ。
カンヌキはダンゾウを孤立させ、彼の劣等感や欲望を良いように煽った。彼がどんな残酷なことでも何の躊躇いもなく出来るように、彼の耳元で「これが里のためなんだ」「父のやり残したことを出来るのはお前だけだ」と囁いてきた。今更、ダンゾウが手紙を隠していたことを詰ることは出来ない。その手紙を見つけた大蛇丸がカンヌキの眼前に突きつけることさえ……カンヌキは、それと同じことを彼らにした。彼らを自分と同じ地獄に引きずりこんだ報いは受けねばならない。
手紙を奪い取って、文面を明らかにしたいとは思わなかった。そこにはきっと、娘の字で助けを請う文章が綴られているだろう。もし自分の手に渡っていたなら、何を犠牲にしてでも娘の下へ駆けつけたに違いない。でもダンゾウは、その手紙をカンヌキに渡さなかった。それだけのこと。
『あなた、最近可笑しいわよ。ずっとよ。ずっと、ずっと可笑しい……!』
おぼつかない足取りで歩き出した自分の背に、大蛇丸が彼らしくもない罵倒をくれる。
彼の言う“可笑しい”がどういう意味かは、カンヌキには分からない。衆道を嗜まなくなったことかもしれないし、受ける任務を減らしたことなのか、訳の分からない実験に首ったけになっていること、もしくはもっと前から、だれかをあいするとか、だいじにするということかもしれない。
歪みの一因を作ったカンヌキが言うことでもないけれど、大蛇丸も誰かを愛するとか、大事にするということが出来ない人間だ。それ故に大蛇丸はカンヌキに執着していたし、カンヌキも、彼の中に幼い自分を見ることがあった。何より、たった一人残った母方の血族でもあったし、二人でよく母祖の地について話した。自分たちは寂しい者同士なのだと、そう思うことも。
はじめは、ほんの些細な寂寞感だった。
年の離れた兄たち。いつも心の真ん中に父がいる母親。里のことにしか興味のない父親。
小さな頃から、カンヌキは一人遊びの得意な子どもだった。誰もがカンヌキのことを「内気な子ども」と称して、カンヌキは一人遊びをしているのが好きなのだと決めつけた。事実、カンヌキは内気で消極的な子どもだったのだと思う。自分の望みを口にすることで、誰かの時間を潰してしまうのがイヤだった。兄たちに、母親に、父親にとって都合の良い子どもでありたいと願った。
ただの一度で良いから、「カンヌキは本当に良い子だね」と褒めて欲しかった。
あなたが産まれてきてくれてよかったと、そう言ってほしかった。
どうしようもない業の果てに、自分の業を背負う必要のないムツが全ての望みを叶えて微笑う。あなたがうまれてきてくれてよかった。自分よりずっと年下にも関わらず、カンヌキは彼女に溺れた。いつだって、彼女を抱くカンヌキのほうが強烈な安堵感に抱かれていた。みっともないという気持ちも、フソウの慟哭も頭の中には残っていて、だから、どこか遠くへ逃げてしまえと、いつもそう思っていた。カンヌキが居ぬ間に、どこか遠くへ行ってしまえ。僕より若く、善良で、おまえを世界で一番大事に出来る男と逃げてしまえ。永の暇を破って妻子の待つ家の戸を開けるとき、カンヌキはそう祈らずにいられなかった。これがひとを愛するということなら、どうしてみんな何でもない顔で他人を愛することができるのだろう。妻が死んだとき、カンヌキは少し嬉しかった。この世界の何もかも、もう二度と誰もムツを苛むことはできない──カンヌキでさえ。
しかし、娘の身に起こったことを許すことは出来なかった。
終わりを失い、無限の狂気に憑かれた娘を救うために、カンヌキはあらゆる手段を講じた。
まず痛覚を消すために脳を取り出し、心臓を切り取った。そして、いよいよ異物を孕んだ子宮を取り除こうとしたのだが……遂に傷一つつけることはできなかった。我が子可愛さに怯んだわけではない。腹部切開を試みても、メスで切る端から傷が塞がってしまうのだった。挙げ句の果てには、心臓と脳も再生する始末。何度も何度も試みたが、胎盤が完成するまで結果は変わらなかった。愛娘の体が異能を産む道具に作り替えられた事実は、繰り返しカンヌキの思考を焼く。
異物を取り出したあとは再生能力も低下し、腹部から離れた末端組織──本来、中枢組織であるはずの脳の一部は壊死したままとなっている。子宮を動かす道具と化した娘は、培養液のなかで眠り続ける。その穏やかな寝顔を見つめながら、カンヌキは様々なことを考えた。腹部の異物がいなくなった今、目を覚ましても大丈夫なのではないか。はじめはトラウマから怯えるかもしれないけれど、痛みもなく、腹も平らで、僕がいるのに気づけば元に戻るかもしれない。再生能力が高いのは、うずまき一族の血と誤魔化せるだろう。娘と里へ帰る夢を見た。同時に、自分が死んだ後のことも考えた。十二歳のまま時が止まった娘を、この世界に一人残していくことについて。
果たしてカンヌキが何を目的としているのかは、傍にいた大蛇丸にさえ分からなかっただろう。
それもそのはず。カンヌキにだって、自分の目的なぞ分からなかったのだ。
ただ一つ、自分が生きているうちにやらなければならないことがあった。
人智を超えた異能の苗床として不死を得た娘を殺す方法を見つけ出さなければならない。
この地獄に、君一人を残して行くまい……と。
カンヌキはぼんやりと居間の天井を見上げた。
初秋を匂わす乾いた風が唇を撫でる。じりじりとした苦味が喉に燻り、目元に残る幻をぬぐい去った。花も光も、何も存在しない。ふたりぼっちだ、と思う。カンヌキは、いつもそうだ。道連れなく生きられないのは、ひとりぼっちより性が悪い。自分のものではない涙が一粒、額に落ちた。
天に伸ばした手は、やはり八歳の子どものものではなかった。無駄な肉が削ぎ落とされ、育ちきった骨が僅かばかりの筋肉に覆われた大人の手。水気のない皮膚は年輪として、過ぎた日々を思わせる。その手に、カンヌキより年嵩の──弱々しい体躯の老爺が触れた。枯れ葉のような手だ。
この地獄のなかでは義伯母以外にたった一人、心からカンヌキを案じてくれたひと。
「……お、え……お前に、関わらせすぎた」
無理に絞り出した声で詰ると、センテイの細い目が涙で埋まった。
この男は希代の薬師だ。父親の片腕として多くの“虫”を駆除し、その望みを丹精してきた。
膝上で逆さになった湯のみにはまだ温もりがあったし、その中身の半分以上は着物に呑まれてしまっているものの、きっと、そういうことも皆織り込み済みなのだろう。一体何の、どんな毒なのだろう……まるで見当がつかないことに思いはせた時、自然と温室の景色が浮かんだ。
カンヌキが物心つく前から庭隅に佇む、ちっぽけな建物。白んだガラスのなかで咲き誇る花々を、カンヌキはことのほか恐れていた。母が死んでからは、何の食べ物も喉を通らないほどに。
いつか、父親が毒を盛るよう命じるのではないか──母も兄も死んだ今、一等役立たずな末子なぞ邪魔なのではないか。そんな思いでいたカンヌキのために、センテイは毎日食事を運んできた。
カンヌキのために持ってきた食べ物を一口ずつ毒味したセンテイが「何にもへえってません」と涙を零す。毎日、毎日、飽きもせずに繰り返し、センテイはカンヌキの毒味を務めた。
義伯母の時と同じだ。結局、折れたのはカンヌキだった。父親の片腕であった彼が、決して毒を盛ることはないと思うほど愚かな子どもではなかった。父親の命があれば、やはりセンテイは毒を盛るだろう。ただ、もう──それがお前の毒で、お前の為すことであるなら致し方ない、と。
幼い日の諦観がまざまざと蘇り、カンヌキは口端を歪めた。
「どくを、もりました」
酷く抑揚のない声だった。
「暴れねえで下さい。回りが早くなります」
毒を盛られたのはカンヌキのほうなのに、センテイのほうがずっと青ざめている気がした。
「十二時間後に手足に痺れが出て、すこしっつ体が麻痺してきます。そのままほうっときゃあ明日には心の臓が止まる。だから……」センテイが引きつった声で繰り返す。「だから、どうか」
それっきり、ボロボロと涙をこぼすだけ。泣きたいのは、こっちのほうだ。
なんだかカンヌキは面白くなってきてしまった。全然動いてないのに暴れるなと言われるし、こんな、もう、そもそも余命幾ばくもないオッサンになって毒を盛られるし、しかも、ダンゾウにまで死ねと言われている。冗談でなく、本当に──大蛇丸の分の“やらかし”も背負って死ねと。
死ぬのは良いとしても大蛇丸の罪まで被らされるのかとイライラしながら帰ってくると、バケモノが人間を引き込んでいた。よりにもよって、カガミの孫を。何の因果かと、聞きたくなる。
カンヌキは、カガミが大嫌いだった。父親が一番愛した弟子。父親の写輪眼の研究に付き合い、それを知った一族に詰られ、見殺しにされた。バカな男だ。バカで、聡くて、忍才に溢れ、家族に愛され、カンヌキの父親からも愛されていた。カンヌキの欲しいものを全て持った男だった。
『はたけサクモ上忍は、立派な忍者で、オレの憧れの一人です』
カガミと同じ顔をした子どもがサクモの名前を出したとき、ふと思った。
キラキラした瞳。いつかの妻と同じ光が目の前にある。何の地獄も知らない子が、サクモの名を口にする。サクモがどうやって、どんな気持ちで括ったかなんて何も知らないくせに。
サクモは、聡くて、優しくて、カンヌキの自慢の教え子だった。
気配りの上手い彼は、会う度にカンヌキが受ける任務の数が多いことを詰ったものだ。ずっと一緒に忍者を続けていきましょう。そのために無理はしないことです。それがサクモの口癖だった。
ここが地獄とまだ気づいていない子どもが、輝かしいもののようにサクモの名を口にする。
『オレは、はたけサクモ上忍は全部間違ってたとは思いません』
そうだ。サクモは一人の人間としては何も間違ってはいなかった。
ただ“利益より人命を優先した”だけの彼を、よってたかって責め詰った。
第三次忍界大戦を目前に控え、金が必要な時期だった。中立国からの依頼を取り合うなかで、“木ノ葉隠れの里”のブランドイメージを損なうことは許されなかった。お前一人無事なら、有象無象はどうなっても良いのではないかと詰った。お前ほどの忍者が“替えの利く道具”に絆されてはならない。才能に欠け、汚れ仕事だけでのし上がったカンヌキにとって、サクモの気持ちはまるで分からなかった。そういう汚い世界で生きることに愛想がつきたのかもしれないとは、思っていた。
何故カンヌキには、かつて義伯母が掛けてくれた言葉を口にすることが出来なかったのだろう。
お前を非難する連中ばかりの世界からは逃げてしまえ。お前も、お前の子どもだって、忍者として生きることはない。忍者であることだけが人生ではないと、そう言ってやるべきだった。
……言ってやるべきだったけれど、カンヌキには言うことが出来なかった。
わすれてしまえと、自分のなかに巣くう弱さが囁く。
一つ苦しいことが起きると、更なる苦しみに身を投じることで自分の気持ちを塗り潰してきた。
両親の死も、兄たちの死も、同期生たちの死も、妻の死も、弟子たちの死も、何もかも……狂おしいほどの苦しみの果てには、結局彼らが生きていたときと変わらない日常がある。ひと一人の死では何も変わらない世界に絶望することも、とっくに忘れてしまった。生きていくのは、簡単だ。この先も永遠に続くと思っていた“日常”がプツンと切り取られて、新しいものに挿げ変わるだけのこと。両親がいなくても、兄たちがいなくても、同期生たちがいなくても、妻がいなくても、弟子たちがいなくても、カンヌキは死ななかった。両親がいなくても、兄たちがいなくても、同期生たちがいなくても、妻がいなくても、弟子たちがいなくても、死ぬわけではない。失った直後は苦しいし、悲しいし、涙の一つも零すけれど、時が経てば朝が来て、新しい日常に順応していく。
今生きていること以外は皆んな大したことでないと、そう思っていた。思うことで蓋をした。
幾つもの“日常”のなかで、自分が一番幸せで、ずっと続くと信じていたかったものが何だったのか、脳が考えることを拒む。目映いばかりの光が視界を焼く。毒と無縁の閉塞感に喉が絞まる。
あなたを愛していたのだと、幼い日の自分が訴える。
忍者であることだけが人生ではないと、そう思ったことはただの一度もなかった。
カンヌキはずっと、父親のような忍者になりたかった。
父親のことを愛していた。父親に、愛してもらいたかった。認めて貰いたい、とも望んだ。父親と同じ忍者として生きることだけがカンヌキの全てで、妻も子も、弟子たちに至るまで皆、そういうカンヌキの業に振り回されて死んでしまった。全てを失っても、忍道を捨てられなかった。
「だから、どうか……その続きは何なんだ?」
軽く咳き込むと、喉元に鉄の味が広がった。
「僕が死ぬのを待ってるんでなきゃ、さっさと言った方が良い」
「……以前、大蛇丸と記憶改ざんに纏わる忍術の話をされていらっしゃったでしょう」
そういえば、そんなこともあったと虚ろに思い出す。
砂隠れの天才傀儡師が里抜けしたと知って、大蛇丸がその技術力を欲したのが発端だ。
色々話したけれど、結局火の国の気候は傀儡作りに不向きという結論が出て、酒席の戯れのままお開きになったのを覚えている。戯れに過ぎなかったのは、彼を仲間に引き入れるメリットがないと判断したからだ。大蛇丸曰く“私以上の人格破綻者”とのことだし、経歴的にも旨みがない。増してカンヌキの父親と同じ技術畑の人間ときた。既存の忍術に飽いた……もしくは探究心の強い忍者は時として専門性の高い忍術を生み出すものだ。自分にしか使えない、自分のためだけの忍術。そうした経緯で生み出された忍術は半ば血継限界に似て、汎用性が低い。尤も、カンヌキの父親は並み居る変人のなかでは随分親切な性質だ。結果はどうあれ、自らの生んだ忍術を標準化して後世へ残そうとした。ただ一つの誤算は、残そうとした忍術の殆どが既存の死生観をひっくり返すものだったこと。若い頃は面白がって研究したこともあったけれど、結局コハルやホムラの強い反対を受けて禁術指定となった。ダンゾウとヒルゼンは「違う使い道がある」と最後まで言っていたけれど、禁術指定になっていなければ今頃大蛇丸あたりに悪用されていたことだろう。
その程度の倫理しか有していない大蛇丸は勿論、カンヌキも“砂遁による記憶操作”には強い興味を持った。「酒飲み二人で」と注釈はつくが──術の仕組みについても熱心に話し合った。
“潜脳操砂の術”はチャクラ量や質に左右されず、純粋な知識によって顕現する術だ。
目に見えないサイズの細かな砂で作り出した針を海馬に埋め込むことで、被術者の記憶をコントロールすることが出来る。ただ、大蛇丸は「脳は繊細な器官だから、出来ても精々既にある記憶の幾つかを思い出せなくする程度でしょう」と付け足す。カンヌキ自身も、それには同意している。
「改ざんというほど便利な術ではない」
そして、ここに砂遁の使い手がいない以上は“潜脳操砂の術”の行使は不可能だった。
「消すだけでも、構いません」祈るような声音で、センテイが縋る。「ほんの、ほんの少し……」
センテイはワナワナと小刻みに震える手で、自らの顔を覆った。
「たった一夜でも──たった数分、あの子を人間として生かしてくださるのであれば」
離れがある方角から、プンと強い血のにおいが漂う。自分が辞した時より、遙かに濃く。
カンヌキはゆっくりと目をつむって、心底追い詰められた気持ちで眉を寄せた。
『庭、すっげえキレー』
センテイが美しく整えた庭を、二人の子どもが駆ける。
自分の支配下にあるモノが言いつけを破るところを、カンヌキはずっと、はじめから見ていた。
カガミの孫に引きずられるように庭を駆けるところも、猫を探して床下に潜るところも。それを制止しなかったのは、もしかしたらそれが“どこかにあったはずの未来”のような気がしたからだ。自分が忍者であることに固執しなければ、この庭を駆けるのはあの子だったかもしれない。
カンヌキでさえ夢見た景色を目の当たりにして、この老爺に「夢を見るな」というのは無理な話だ。きっと、自分の見たい夢をみただろう。その夢のために、自分の守りたいものを踏みにじってでさえ実現させたいと祈っただろう。最早その祈りが“呪い”と化しても、花実をつけよと。
「お前は、バカだ」
カンヌキは目映さを誤魔化すように、目元を腕で隠した。頬を涙が伝う。
「本当に、本当に……おまえはバカだ。あれが人間でないことなんて、よく知ってるくせに」
赤子の姿でありながら世の理に通じ、長じた後には全能となるだろう不死のバケモノ。
自分の娘の胎から産まれた、自分の娘と同じ顔をした何か。早く殺さなければならないと、そう思っていた。自分の愚かさが産んだ“それ”を、忍者としての本能全てが“消すべし”と訴えている。
カンヌキの憂慮が分からないセンテイでもあるまいに──カンヌキより遙かに里を愛し守ろうと腐心し続けたのに──そのセンテイが、バケモノ可愛さにカンヌキに毒を盛って脅している。
センテイは何も言わなかった。多分もう、他に、カンヌキに望むことがないのだ。
「潜脳操砂は使えない。でも、案はある。そして、それをやるのはお前だ」
月の無い深い夜、あのバケモノの再生速度はガクンと落ちる。
時間はまだある。あれの体の仕組みも、よく分かっている。伊達に何年も嬲っていたわけではない。世迷い言としか思えぬ話も山と聞いた。あれが死なないのは、トバリが死なないのと同じだ。
全ては仮定でしかないが、新月の晩、あのバケモノの体からは兎の女神の加護が薄れる。それは再生速度の低下からも明らかだ。しかし、どれだけ傷つけようと死ぬことはない。それは恐らく、この地上のどこかに新月の晩でもあのバケモノにチャクラを送る代替装置か何かがあることを指し示している。あまりに大がかりな延命措置の存在を感じ取ったとき、カンヌキは自然と「何かが、あれを必要としている」と思った。そして「何故、そうまでして」と、そう考えたとき、あのバケモノの体のなかで最も再生速度が高い箇所に思い至る。子宮を埋め尽くす異物について。
四肢よりも心臓よりも脳よりも一番最初に再生し、物理的に関与できないもの。あれを壊してしまえば、どうなるのか……とふと思ったことがある。壊すことが出来なくとも、あの異物が行っていることを妨害することで、あのバケモノを殺すことが出来るのではないかと思った。
海馬の再生優先度は、恐らくかなり低い。センテイがどの程度の損傷を与えているかは分からないが、乏しいチャクラで腹回りから再生するなか刻一刻と脳が壊れているはずだ。腹の異物にチャクラを流し込み、海馬の再生を阻害し続けることで、記憶障害に近い状態に持ち込める。
勿論、ほんのちょっとでもチャクラを惜しんではならない。術者のチャクラが絶えた瞬間、あのバケモノは全ての記憶を取り戻すだろう──唯一心を許していた相手に踏みにじられたことも。
「お前はバカだ。お前一人は味方だと、そう思っているほうがずっと幸せだろうに」
見なくても、センテイがどんな顔をしているかは分かった。
目をそらしたまま起き上がると、ぐらつく体を叱咤するため手の甲に爪を立てる。
毒には疎いが、自分の体の限界は分かる。センテイを手伝う時間を抜きにしても十時間ぐらいは保つに違いない。それだけ余命があれば、何とか雨隠れの基地までたどり着くはずだ。
「やることがあるから、お前の用を済ませたら僕はもう戻らない」
センテイのことだから解毒剤は準備してあるだろうが、どの道カンヌキにはもう先がない。
「……息子を頼むと、言われました」
思いがけない言葉に振り向くと、蹲ったままのセンテイが真っ直ぐな視線をくれる。
「母親もねえ、兄貴も死んで、手前ェも今から死んじまう。……だから、これからは暗部から抜けて、兄として父として、一人の人間として傍にいてくれと……あなたをひとりにするなと」
単に政権が変わったから、父親の犬だから、それで忍者を辞めたのだとずっと思っていた。
死の床についた父親が最後にセンテイを呼んだことを妬んだこともあった。何度も何度もセンテイは父親の遺言について話そうとしたが、その度に要らない、聞きたくないと拒み続けて、いつしかそんな話があったことさえ忘れていた。どうせ父親は自分のことなぞ要らないのだと拗ねて。
「二代目は、幼い頃から……戦場へ往くのがならいで……何人も弟君を亡くしてます。
だから初代様を前線へ出さないよう、指揮系統を組み直しました。でも、うちはマダラを討つには初代様が……初代様が亡くなった途端に抜け忍が増えて、ご存じの通りに戦が起きました」
息も絶え絶えに語ると、センテイは唇を噛んで俯いた。
「二代目が踏ん張らなきゃあ瓦解しちまってたんです、この里は」
ここは、父親と伯父が見た夢のなれの果て。
伯父たちは隠れ里システムに望みを託したが、或る意味では隠れ里が成立した時点で更なる戦火は確約されていたのかもしれない。隠れ里システムは忍界のみならず様々な方面に影響を与えた。
戦国時代が終わり、同国内の忍一族の連盟からなる隠れ里システムが普及すると、それまで暗黙の了解として主軸に据えられることがなかった人的資源が大々的に利用されるようになる。
例え資源に乏しい国であっても、優れた忍者を輩出することで外貨が稼げる。一人の力で国を豊かにすることも出来る。人々は同国内で奪い合うのを止め、他国から奪うことを覚えた。
隠れ里システムがあらゆる忍一族にとって希望だったのは無論カンヌキにも分かっている。しかし人的資源が一番役立つ事業が“戦争”である時点で、伯父の夢は絶望と表裏一体の“業”だった。
そんな業は壊れてしまえと、一体何度呪ったか分からない。
「お前は、親父たちが夢見た未来より……僕より、親父より……あの子が大事なのか?」
知らず知らず、声が震えた。詰る響きで、問いを続ける。
「それほどまでに大切なら、何故お前のいない世界に追い出す」
「安全で、穏やかで、俺しかいねえ世界に、いってえ何の意味があります」
センテイが引きつった声で応じた。何かをかみ殺すように、一音一音丁寧に言葉を紡ぐ。
「この庭の外がどんな地獄でも、俺はあの子を追い立てます」
握りしめた拳から血が滲んでいた。
本心では、センテイ自身が“あれ”と一緒にいたいのだということが痛いほどに分かる。
カンヌキも繰り返し、我が子との距離に苦しみ、葛藤した。いつまでも一緒にいたい。我が子を害する全てから守ってやりたい。ずっと赤子のままでいてほしいと、どんなにか祈っただろう。
「その独りよがりで、里も……親父さえ裏切って?」馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに頭を振る。「お前の選択を恨まない保証など、どこにもないのに……きっと、お前の祈りは災いを呼ぶ」
「そしたらあの子が、祈るでしょう」
カンヌキの皮肉に対して、センテイは間髪入れずに応じた。
「俺の祈りが地獄を生んでも、必ずあの子は祈ります。誰にも災いが及ばぬように、と」
あんまりにはっきり言うものだから、カンヌキは毒に犯された身の上も忘れて笑ってしまった。
センテイは脈絡もなく笑い出すカンヌキにギョッとしたものの、すかさず立ち上がる。「坊ちゃん、大丈夫ですか」その台詞も、随分なものだ。息も出来ないほど笑うカンヌキの体を、センテイは自然な仕草で支える。背を撫でるゴツゴツした手は、子供の頃から変わらない。
実の兄たちよりずっと年が離れていたけれど、一番年上の兄のように感じていた。
カンヌキの後始末や尻拭いが得意で、植物について詳しくて、父親の代わりに忍者とは何たるかを教え導き、余暇を過ごす友だちでもあり、カンヌキがどれほど愚かな人間でも側にいてくれた。
「僕も、お前の一世一代の賭けが成就するほうに賭けよう」
ぶるりと大きく震えた指先には死の気配が絡む。
すっかり小さくなった背に両手を回すと、センテイも毒の回りを察したらしかった。正確には「弟とも息子とも見守ってきた相手に毒を盛ったことへの実感が湧いてきた」と言うべきなのか。
ワナワナと震える指がカンヌキの背を撫でる。心細げな声音が解毒剤の存在を告げるが、カンヌキは何も聞こえなかったふりで、きっと、センテイが最も聞きたかっただろう言葉を紡ぐ。
「センテイ。あの子が庭の外に誰か見つけるまで、一緒にいてやってくれ」
全ての地獄は、はじめは小さな祈りだった。
この世界が産む資産も時間も、何もかもが有限で、人が群れ集まれば個々の才能に応じた格差が生じる。ただ祈れば何のリスクもなしにそれが叶うわけではない。神がいないなら、自らの力で切り進むしかない。そうした現実の前に、所詮“祈り”は自らの欲を満たすための方便にしかなりえなかった。祈りなど自己正当化の一種に過ぎない。それが例え純粋な善意によって生まれたものであれ、寧ろ、その祈りがうつくしければうつくしいほど苛烈な業を産む。
業と化した時点で罪なのか、それとも遅かれ早かれ絶望をまき散らすなら、祈った時点で罪なのか。一つの祈りが結実した暁に一つの地獄を産むのなら、その“願望”を如何するべきだろう。
きっと、たぶん……その幾重にも連なる地獄のなかで祈るから“命”なのだ。
花骸のこどもたち