花骸のこどもたち
25 ___

 

 とりとめもなく、まどろんでいた。
 真綿で縊られるような息苦しさのなか、とろとろ……嘘とも真とも判別し難い景色に揺蕩う。
 頭蓋には靄にも似た熱が立ち込め、自然と思考が肉の体から剥がれおちる。
 
 ──きっと、随分長いこと眠っていたのだろう。先ず、そう思った。
 視界に色がにじむと、全身に纏わりつく睡魔が単なる重力であると察する。思考が鈍化しているのではない。単に体が弱っているのだろう。漠然と「ああ、おれはもうだめだ」と感じた。
 深呼吸しようと試みた途端、喉のなかにチューブが通っていることに気付いた。ごろんと、弾性のあるビニル樹脂が粘膜に張り付く。嘔吐きはじめたのと、パタパタと遠方から駆け寄る気配を覚えたのは殆ど同時だった。かすかに、白いカーテンの向こうから労りの言葉が寄越される。
 
 いま、かんごにんじゃをよんだからよ……むりしなさんな。
 そう告げる声も覇気がない。
 
 激しい咳と、やけに大きくて鈍い呼吸音。
 タイルを蹴って走る靴音が、絶え間なく、四方から聞こえてくる。少しずつ五感を取り戻した体に、ツンときつい消毒液の匂いが染みる。このまま一人でいても、少しずつ“ここ”がどこか分かってきそうだったが、シャーッと、思い切りカーテンが開いた音で思考が断たれる。
 光の洪水に耐えかねてキツく瞑った目をひらくと、数人の男女が飛び込んできた。
 だいじょうぶかな~? 恰幅の良い医療忍者の背後から、まだ若い看護忍者達が治療器具の乗った手押し車を運び入れる。いまぬきますからー、おちついてくださいね。子どもでも宥めるような甘い声で、看護忍者に保定される。病院にいるのだと理解すると、ふっと脳裏に小さな人影が過った。いふぁは、いつえすか。問いとして機能していない問いを耳にした医療忍者が苦笑と共に、薄手のゴム手袋を付けた手で舌を押さえる。すぐにおわるからねえ、だいじょうぶだよ。
 
 ほんの──もしくは、随分とつけるべきか──昔、センテイは一人前の忍者だった。
 骨折をものともせず山を駆けたことも、風穴のあいた体で敵の包囲を抜けたこともあったのに、たかが挿管チューブを抜くのに半刻も掛かった。しかし、向こう様にとっては日常茶飯事らしい。センテイを囲む人々は誰一人として顔色一つ変えず、それぞれの仕事に取り組んでいる。
 医療忍者はカルテを眺め、看護忍者の一人は器具の準備、もう一人はやはり小さな子ども相手にでも話すような口調でセンテイの具合を確かめる。実際、意識を失っている間は赤子のように世話されていたに違いなかった。下半身は石のように冷たくなっていたが、股間部分を覆うゴワゴワとしたものが何か分からないほど感覚がないわけではない。医療行為の一環だとは百も承知だ。もっと恥ずかしい、尊厳を傷つけられるような経験も山とある。見ず知らずの人々に排泄を管理されていることも、幼児言葉で話しかけられていることさえ、有り難いことだと思った。
 ただ……まだ夢うつつの半ばなのか、自分が老いて衰弱していることが可笑しかった。
 若かりし頃から自分の命に頓着せず生きてきたので、まさか自分がこんなに生き汚いとは思わなかった。別に早死にしたかったわけもあるまいが、あれだけ様々に恨みを買っておきながら、よくもまあ──その感嘆がどこから生ずるものかと思考を巡らせると、再び意識が傾ぐ。
 
 はたして、なぜ、じぶんは、ながく生きないと思っていたのだっけ?
 
 
 ごじぶんのおなまえ、わかりますか。わかりますか。もしもし、せんていさん。
 だめだな。はこばれてきてから、かくせいとこんすいのかんかくがどんどんひらいていく。
 けいらくけいのほうかいがとまらないのが、こまりものだ。ふつう、としをとるぐらいでこんなことにはならないはずなんだよ。ちゃくらがちゃんとにじゅんかんできずに、かいばにたまってしまっている。こういうしょうれいはあんまりないから、ほんとうならこうとういんからのうげのけんいでもよべれば……かんぬきせんせいでもいきていれば、わたりがついたろうになあ。
 だいりにんに、れんらくいれますか? いりょうにんじゅつではげんかいがあります。そとのいりょうしせつにはんそうしたほうが、しゅうれいちりょうのじっせきがあるぶん……。
 しかくさんもいそがしいからなあ……それに、ほんにんがここにほねをうずめたいそうだ。
 ごねんぱいのかたは、みんなそうおっしゃいますね。
 
 ここでうまれたわけでもないのに、このさとができたころにはもうものごころついて、ふるさとはべつにあっただろうに……それでも、さいごまで“ここ”にいたいんですね。
 
 
 そうだ。そうだと、沈み往く意識のなかたぐり寄せる。光。そうだ。
 最期までここにいたいって、最後までここにいさせてやりてえって、そればかり考えている。
 この里はセンテイの故郷。終の住処。皆が希望に満ちて渡ってきた土地。
 全ての因習から解き放たれて、ここで生きていこうって。あなたとおれ、あなたの子どもたち、あなたの夢見たもの、愛したもの、守ろうとしたもの。あなたの守れなかったもの、あなたが守ろうとしなかったものまで抱えて、随分長い時が過ぎてしまった。年を重ねる度、若いままのあなたを思い出して胸が締め付けられる。あなたなら──絶えず、そんな虚妄に縛られて。
 
 もしあなたがここにいたら、何と言うであろう?
 センテイは焦点のぼけた世界に、探し人の姿を思い浮かべた。男盛りの逞しい体躯を屈めるでもなく不遜に見下ろす瞳を細め、いついかなる時も不服そうに口をへの字に曲げる自分の主君。
 センテイの人生を賭して仕えた相手、あらん限りの敬意と情を向けて尽くした主君を見上げる己もまたいつかと同じ若い姿でいる。重力からも痛みからも解き放たれた体は滑らかに動いて、心地が良い。足が不自由ながらも器用に動く体は、尊敬する主君を前にその胸を弾ませている。
 「あなたの子を殺した」と伝えるには、あまりにちぐはぐの体だ。油断すると言い訳が口をついて出そうになる。本当はこんなつもりではなかった。あんなこと、したくなかった……と。
 ぐっと口を真一文字に引き結ぶ。センテイはこの、何を考えているのか一見して分からないひとが好きだった。このひとの考えていることが知りたくって、このひとに恥じない人間になりたくって……若い頃からずっと我武者羅に働いてきた。愚かにも、今なおそう望んでいる。

 あなたがおれを救ってくれたように、おれもあなたを救いてえって。
 
 



 
 
 奈良センテイは戦国時代末期、奈良一族が治める“鎮守の森”の隅で産声を上げた。
 
 センテイの父親は不遇の薬師──今で言う“医療忍者”の走りのような存在であった。
 現在木の葉隠れの里で普及した医療忍術の殆どは千手綱手が完成させたものであるからして、それ以前にはそもそも一般的に“医療忍術”と呼ばれる忍術はない。治癒の術に秀でた忍者は古くから枚挙に暇はないものの、その殆どは我流で道を究めた者だ。今日(こんにち)のように、はじめから“他人を治癒する術”の会得を目的として精進する者は少ない。それ故、父親もまた“医療忍者”ではないが、純粋な薬学知識においては今なお父親の右に出る者はいないように思う。
 
 その昔、センテイの父親は奈良一族の内外を問わず名の知れた薬師だった。
 センテイの生前……他人様曰くの“不遇”が始まる以前には、父親の家にお公家の牛車が列を為したとも伝え聞いている。戦時には無論忍者として荒事に従事したが、平時は数多ある分家の一つに囲われ、薬を調合したり、簡単な治療をしたり、医師の真似事をしていたらしい。
 その分家の主が娶っていた女こそ、父親の“不遇”そのものとされるセンテイの母親だった。
 俗な表現をするなら「センテイの父親は雇用主の妻を寝取った」のである。
 寝取った……とは言っても、センテイは両親の行いを恥じたことはただの一度もない。
 
 
 センテイの母親と前夫との間には、当時三つになる女児がいた。
 当時の母親は娘を一人産んだきり、その後もいっかな妊娠する兆候がないため、前夫からもその姑からも石女と言って蔑まれていた。元々前夫に見初められる形で嫁いだ母親は姑に疎まれており、寵を失った途端に凄絶な嫁いびりが始まった。睡眠時間を削って家事労働に励むのは勿論、食事代わりに残飯を寄越され、夫の情人の小間使いとして駆け回り、最後は殆ど安女郎のような扱いで、前夫から求められる時以外は碌々風呂にも入れて貰えぬ始末だった。いつまでも母を恋しがって泣く娘もその意固地さから皆に厭われ、やがて母親と同じ座敷牢へと仕舞われた。
 前夫には多くの情人がおり、その何れも母親を嬲るのを楽しんでいた。とりわけ前夫の後妻に収まった女は、母親が地下に繋がれる前から正妻面で屋敷を闊歩していたらしい。
 下劣な奴らばかりで、幼心に不愉快だった。そう恬淡と語るのは異父姉だ。
 ……異父姉とはいえセンテイは父親が異なることを意識した覚えはなかったし、センテイの父親も彼女を実子として扱ったので、常は“姉”と呼んでいたひとである。
 
 五つ年上の姉は大人びたひとで、両親に内緒で色々なことを教えてくれた。
 それが困難な境遇に生まれた弟に対する慈悲だったのか、もしくは吐き出すことでしか自分の気持ちを整理することが出来なかったのからなのか、もはやセンテイには分からない。
 姉は、己の実父にも、後に生まれた腹違いの弟たちにも、一片の愛着も抱いていなかった。
 姉の話を伺えばその理由は明白だ。もしセンテイの父親が手を差し伸べなければ、姉は“神の子”として天に召されていただろう。父親の介入によって姉の命は救われたが、母親の視力は座敷牢のなかで絶えてしまった。過度の栄養失調から来る失明と衰弱で、母親はくノ一として生きることは愚か人並みの生活さえ不自由するようになっていた。だから母親はセンテイの顔を見たことがないし、センテイは自分の足でしっかり歩く母親の姿を見たことがない。
 
 ミイラのようにやせ細った母親が、寒々とした座敷牢の隅で一人娘の具合に気を揉んでいる。
 幼い頃、姉の話を聞きながら繰り返し思い浮かべた図だ。センテイの知る母親は、到底くノ一は務まらない脆いひとだった。でも、きっと、若い頃はそうではなかったのだろう。
 当時のセンテイは茫洋とそう思うだけで、“その事実”が実際にどれだけ重く母親の人生にのし掛かるか考えたことはなかった。幼い頃は一事が万事その調子だった。物心ついた頃には既に“村八分”の身だったセンテイにとっては家族だけが人生の全てで、その家族を愛し、また愛されて育ったセンテイは“尊厳”という言葉は知っていても、それが人生にどんな影響を与えるもので、どんな風に胸を揺さぶるのか……そんな問いさえ思いつかないほど幸せな時代だった。
 そんな恵まれた幼少期に唯一分かりやすく、生々しく鎮座する“不幸”が母親の過去であった。
 
 
 座敷牢で暮らす母親の懐には、前夫に嫁ぐに当たって実母から手渡された短刀があった。
 それは「生きて恥を晒すなら、これで胸を突いて死ね」という、如何にも前時代的な思想の故である。無論、その時の母親は死ぬに十分な恥にまみれていたし、最早頼る相手もなく、死んだ方が楽だという気持ちもあったに違いなかった。しかし一人娘はまだ三つの童女で、過酷な監禁生活のなか肺病を得ている。高熱に浮かされて苦しむ我が子を助けられる者は、母親を除いて他にいない。姉曰く「残飯を持ってくるのは下級女中で、あの人達は母様と“する”時か、折檻する時しかこなかった」とのことだから、一人娘の助命を懇願しても無駄だとは、まさに骨身に染みて実感していたはずだ。そもそも人権意識が萌す遙か昔、人命が紙より軽い時代のことである。
 
 件の短刀は切れ味もさることながら、金銭的価値もそれなりにあった。
 母親は残飯を持ってくる女中の一人に短刀を譲り、その代わりに医師か薬師に渡りをつけてくれろと頼む。短刀のおかげか、その女中が“当たり”だったのか、無事約束は果たされた。
 主人への背信行為に怯える女中が連れてきた薬師こそ、センテイの父親だった。
 父親は雇用主の女癖の悪さは承知していたが、よもや“奥座敷で養生している奥方”が奴隷同然に扱われているとは夢にも思っていなかったのだろう。後にも先にも、あんなに驚いた顔は見たことがない──と姉は笑っていた。これが“お迎え”かもしれないから、よく覚えているとも。
 倫理がない時代とはいえあんまりに無法な状況を前に呆けていた父親は我に返ると、母親の話を聞こうともせず格子ごしに姉を診た。当時の姉の体は、幸いにして呼吸機能は侵されていなかった。しかし、それでも当然医師の診察と薬は必要だったし、それ以上に栄養と休息が必要だったので、父親もまた、女中に幾らかの金を握らせて座敷牢へ足繁く通うこととなる。
 はじめこそ職業倫理で通っていた父親だったが、目的が変わるまで時間は掛からなかった。
 身銭を切って娘を診てくれる立派な男と、苦境のなかで我が子を案ずる慈愛に満ちた女。自然と二人は格子ごしに恋に落ち、これまたやはり自然な流れで二人の“道ならぬ恋”は密告された。
 
 母親の嫁いだ家は、奈良の分家のなかでも“分家筆頭”と目されていた。
 戦国時代末期、秘伝忍術や薬学知識に長ける者が多いことから奈良一族は猪鹿蝶同盟のなかで軍師の役を負わされることが多くなっていた。とりわけ宗家の人間は山中・秋道・猿飛の三つの忍一族間を転々として、領地にいる時のほうが稀とされていた。そうしたなか、一族内における秩序の管理と裁定については分家筆頭に一任されてきた。その分家の当主が、前夫である。
 宗家の当主──族長が留守の間は、母親の前夫が一族の法であった。
 殆ど一族全員を敵に回した両親に、身の潔白を証明することは不可能だった。それでも前夫はセンテイの父親の能力を買っていたし、格子ごしに不貞を働けないとも承知していた。
 すでに妻に情を持っていなかった前夫にとって真に大事だったのは飼い犬に手を噛まれた恥を濯ぐことで、その生け贄は二人も要らなかったのだろう。男児を産まない役立たずに“淫売”のレッテルを張って追放すれば、何の気兼ねもなく新しい妻を迎えられるし、センテイの父親に貸しを作ることが出来る。何なら他の女を紹介しても良い。父親には、二つの選択肢があった。
 
 雇用主の寛容を受け入れれば、これからも一族内で安穏と暮らしていくことが出来る。
 密通を認めれば、あの哀れな母子共々村八分にされる。
 どちらを選んだかは問うまでもない。センテイの存在そのものが、父親の答えであった。
 
 父親は地面に頭をこすりつけ、夫のいる女を拐かした不貞と不実を詫びた。
 自分を引き込んだ女中は勿論、姉や母親を引き合いに出すことも、前夫の所行を詰ることもなかった。ただただあることないこと並べ立て、全ての責を負った父親は破滅した。
 飼い犬に手を噛まれた前夫の怒りは凄まじく、父親は百叩きの上に利き腕の腱を切られ、当然のように全ての私財を没収された。未だ衰弱したままの母親を負ぶさって、幼い姉の手を引いて、一族の森の片隅に流れ着いた。そこがセンテイの産まれた土地で、終の住処であった。
 一族内では代々流刑地として扱われてきた場所だったが、皮肉なことに千手柱間の提唱する“隠れ里システム”に基づいて作成された都市計画においてはその“流刑地”が奈良一族の居住区画として割り当てられた。奈良一族が森から離れるのを拒んだことと、里の中心部と一族の集落が真逆に位置することが理由だろう。都市計画を作り上げた千手扉間は合理的な人間だ。
 何にせよ、センテイの両親が村八分にあった頃は未だ戦乱の世で、千手柱間その人も未だ戦場さえ知らぬ童子であった。センテイが物心ついてからは……随分長い間、彼の生家は掘っ建て小屋で、あたりには果てしなく深い森が広がるだけだった。深く、蒼く……どこまでも……。
 
 
 片腕が使えない父親と、目の見えない病弱な母親、幼い姉弟。
 一家の暮らしむきは平穏だったものの酷く貧しく、幼いセンテイは常に腹を空かしていた。
 父親は夜が明ける前から一族外の農家へ働きに行き、農閑期には人夫を勤めた。過酷な労働から帰宅すると、息をつく間もなく一家の畑を耕し、妻の(尤も両親が正式に夫婦となったのはずっと後のことだ)体の具合を診る。父親は働き者だった。センテイは、父親が寝床にいる姿を見たことがない。そのぐらい精力的に働いた。それでいて、一家で一番の粗食も父親だった。
 稀に農作業の対価として貰う報酬に卵が含まれていると、父親は決まって母親に食べさせようとする。早く良くなって、子どもたちを構っておやり。その言葉には無論子どもたちを蔑ろにしている印象はなかったし、大体にして母親が夫がくれたゆで卵を独り占めすることは一度としてなかった。母親はちびた短刀で端っこからほんのちょっぴり白身をそぎ落とすと、残りは半分に割って子どもらに与えてしまう。私は幸せで胸がいっぱいだから、そんなには要らないの。
 母親の台詞はいつも同じで、姉は腹を空かした弟と病弱な母親の間で板挟みになってしまう。
 まだ小さくていつも空腹を抱えている弟の手前、自分一人我慢するわけにはいかないし、母親には栄養が必要だ。それで、最後には皿に取り分けた黄身を三人でチビチビ食べることとなる。
 母親は座敷牢から出た後もやせ細って、いつも生死の狭間で揺れ動いていたが、こよなく幸福そうに見えた。母親は父親を愛していたし、信頼し、尊敬していた。そしてセンテイと姉は、そんな母親の宝物だった。父親にしても、姉とセンテイの扱いには何ら差を付けなかった。
 根が温厚な父親と気性の激しい姉は中々にウマが合う組み合わせだった。
 
 親しい隣人も頼れる親戚もいなかったが、家族仲は良く、幸せな幼少期だった。
 文字から算術、忍術や薬学知識、植物学に至るまで、生きるうえで必要なことは両親が全部教えてくれた。両親には学があって、その教えを十二分に吸収した姉は聡明だった。
 物わかりの悪い弟の予習復習に嫌な顔一つ見せずにつきあってくれる姉は、センテイにとって両親と同じか、もしくはそれ以上に敬愛する人物だった。世の中のことを広く知ってからも、姉はくノ一として希有な才能を持っていたと思われた。それは老年になった今も変わらない。
 
 本来であれば、姉は分家筆頭の総領娘。
 姉の実父は、若い頃には優秀な忍者だったと聞いた──やはり血で受け継がれるものがあったのだろう──忍才に溢れた姉は、年頃になると“くノ一として奉仕せよ”との達しが届いた。
 両親は難色を示していたが、姉は「手柄を立てて村八分を解いてもらう」と意欲的だった。
 当時のセンテイも、姉同様に「父ちゃんたちは過保護だ」と思っていた。しかし、村八分にされている者が忍者として扱って貰えるはずもなく、まともな任務が回されるはずもなく、報償があるわけでも、保障があるわけでも……ただ自分より遙かに才のない者に道具のように使われるだけだ。そうと知っていても、あの頃の両親には勇み足を踏む娘を止められなかった。
 断ればどうなるか分からないし、何よりも姉の実父は族長に次ぐ地位がある。きっと、くノ一として召し出そうとするのも、娘への関心が残っているからだ。……悪いようにはするまい。
 両親や姉の様々な思いとは裏腹に、愚かなセンテイは自慢の姉がくノーとして求められたのが誇らしく、初任務の朝に木製の簪を送った。上等な柘植の木を削って作った簪。
 結い上げた髪に簪を差した姉は、水瓶に自分の姿を写して「梅って好き」と笑った。
 歪な花が先端に咲く簪を殊の外気に入った姉は、任務の度にそれを差して出かけていった。
 凜とした立ち姿で去って行く姉がどんな目に遭っているか、どんな風に扱われているのかなど考えたこともなかった。この人並み外れて賢く、気高く、美しく、優しい姉のことを、この世の誰もが愛するだろうと漠と信じていた。今もまだ、どこかで、思っている。一度あなたを目にしたものであれば、あなたを愛さないものはいない。あなたは、うつくしいひとだった。
 センテイは自分の姉ほど、光り輝くうつくしいひとを知らない。
 
 
 姉の死体は、無残なものだった。
 
 村中を引き回された姉は最早姉ではなく、ひとつの肉塊になっていた。
 艶やかな黒髪は血と塵でほつれ、綿のように膨らんでいる。スラリと長くしなやかな四肢はなく、胴の半ばからは腸が露出していた。あたり一帯に立ち込める磯の臭いが雄弁に姉の末期を物語る。ありとあらゆる体液で汚された姉の苦しみは、センテイが想像するよりずっと長かっただろう。母親が卒倒し、父親がその介抱のために家のなかへと消えていく。そうした慌ただしいやり取りを聞き流しながら、センテイはじっと“姉だったもの”と対峙した。簪はなかった。
 
 思えば、随分前から、姉の姿を見ていなかった。
 朝も夜もなく働く父親同様に、姉もここ半年ほどセンテイが起きてる内に帰ってくることはなくなっていた。任務と任務の間のごく短い時間で「元気でやってるから心配しないように」とか「母さんたちをしっかり守って、体に気をつけるように」といった書き置きが残されるだけで、センテイはそれを「優秀なくノーである姉がその優秀さから重用されている」と信じていた。
 いや……実際のところ、今回たまたま死んでしまっただけで、これまでは“そう”だったのかもしれない。呆然と立ち尽くすセンテイの眼前に、あたたかな湯気が立ち上った。
 ここまで姉を連れてきた青年──姉の異母弟が、”姉だったもの”に小便をかけている。
 尿で血が洗い流された皮膚は青く黒ずんでいて、センテイはものを考えることをやめた。
 何故姉がここまで辱められねばならないのか、お前は仮にも姉の血縁ではないかとか、色々、そういうことを幾ら考えたとして、姉が蘇ることはない。目の前の“これ”が全ての答えだ。
 
 
 姉の異母弟とその取り巻きは尿をかけた後も何事か喚いていた。
 半刻ばかり喚いていただろうか。彼は最後に「淫売」と“姉だったもの”を蹴り上げると、もう姉の死なぞなかったかのように、峠の茶屋の看板娘が可愛いだの、忍具を新調する頃合いか、他愛もない話で笑いながら去っていった。その全てを、センテイはぼんやり眺めていた。
 家の奥からは、怒りと悲しみに喘ぐ父親の声が聞こえてくる。
 目を血走らせた父親が、這うようにして表に出てくる。その手には牛刀が握られていて、血が出るほど唇を噛む父親が「この世全ての人間を娘と同じ境遇に落とさなければならない」と思っているのがわかる。少なくとも、姉の異母弟を殺さずにはいられないはずだった。
 今にも駆け出しそうな姿で固まった父親が「どうして」と喘いだ。お姉ちゃんが教えた術を、どうして今、父さんに使う……? 影真似の術で縛られた父親が、ぐふっと短い嗚咽を漏らす。
 
 センテイも、姉に教わった印を組みながら泣いた。
 もしここにいるのが姉ならこうしたはずだという思いと、父親に詰られる悲しみとで胸がいっぱいになる。ここにいるのが姉だったら、きっと、もっと言葉巧みに父親を説得しただろう。
 でも、姉はもういない。目の前でグチャグチャになって、尿と精液と血で汚れている。
 
 センテイが影真似の術を解くと、父親は地面に崩れ落ちた。
 “姉だったもの”に取り縋った父親が、子供のように泣きじゃくる。まだ何とかなるはずだと、何かお前を助ける手段があるはずだと言って、必死で姉の体を着物で拭う。
 父さんがきっと助けてやるからな。そう言い募る父親を「母さんが目を覚ますまでに始末しなければならない」と説き伏せるのは一苦労だった。“姉だったもの”を簀巻きにして運ぶ時も、穴を掘る時も……埋める時でさえ、父親は納得しなかった。終いには「お前は薄情だ」「気が可笑しくなってる」とまで罵られ、土をかける端から掘り出す父親と、殆ど根比べのような形で埋葬した。父親が掘り返しに来ても追い返せるように、その夜は姉の墓で寝た。
 見上げた空は、姉とこっそり野宿した夜と同じ空だった。樹上に輝く星々を指差し語る姉の横顔が瞼の裏に浮かんで、涙が出た。目を開けたら隣に姉がいるのではないかと思って、怖くて目を開けられない。そんな夜が幾つかすぎると、父親は憑き物が落ちたように大人しくなった。
 父親は「父さんが全て間違っていた」と言って頭を下げ、母親は「センテイの言う通り、しっかりしないとね」と虚な顔で笑ったが、もう元の生活が戻らないのはわかっていた。
 いつか“元の生活”とやらが何だったか忘れ去ってしまうだろうことも。
 
 センテイたちは生きているので、生きている限りは生きていかなくてはならない。
 なんだか変な言葉だが──生きていくというのは、そういうことだ。
 朝昼晩と食事をするし、物を食えば排泄もする。食料を得るためには働く必要があるし、体が汚れれば水浴びもする。そうやって、時間をかけてセンテイの心は壊れていった。
 
 目を瞑ると、隣に姉がいるのがわかる。
 もうとっくに聞き飽きた話を繰り返し繰り返し……あたかも初めて話すように語る姉の横顔や声、表情を思い浮かべる。そのひと時だけがセンテイの“現実”だった。自分の人生のなかで、それがたった一つ“本当”のことで、そのひと時より大事なものはないのだと思いたかった。
 何もかも自分の妄想だとはわかっている。とっくに聞き飽きたと思っているのはセンテイだけで、実際に姉の口から聞いたのは一度だけ。そのたった一回を、幾夜も繰り返している。
 もう”これ”は姉ではないのかもと思いながら、自分の人生から姉がいなくなってしまうことが怖くて聞き飽きた話に没頭する。いるはずもない姉の気配を探って、意識を手放す。
 
 
 成人を迎えると、センテイもまた分家の下働きとして連れて行かれた。
 姉のときと同じだ。姉は忍才があったのでくノーとして使われていたが、センテイは雑用しか任せられないであろう。ある意味では、姉よりずっと安全な立場と言える。しかし、母親はそうは思わなかった。センテイの足に取り縋って「お願いします、連れて行かないでください」と泣く母親を、分家の人間が蹴飛ばす。もう、この子しかいないんです。私には、もうこの子しかいない。連れて行かないでください。お願いします。お願いします。お願いします。
 壊れたラジオのように「お願いします」と繰り返す母親が、地面に頭を擦り付ける。父親は、姉の死を最後に怒りの感情を失したらしかった。センテイたちから顔を背けて、泥で顔を汚す母親を庇う。分家の人間が「また作ればいいだろ、豚みたいに」と鼻で笑って、センテイを見た。
 センテイは静かに、自分の足に縋る母親の手を外した。皮と骨ばかりの手が地面に落ちる。
 怒りも、悲しみも、苦しみもなかった。ただセンテイは自分を取り巻く人々の姦しさへと辟易して、その“辟易”のなかに母親さえ含まれる自分の冷酷さが嫌になって、母親が可哀想で……。
 
 行かないで。行かないで。行かないで。
 狂ったように呻く母親に後ろ髪を引かれながら、奉公先へと引き摺られていく。
 両親が抱き合い、蹲っているのは、姉の死体があったのと同じ場所だ。
 これが最期になるかもなと思ったのを覚えている。同時に「これで楽になれるのかも」とも。
 
 分家での暮らしは凄絶だったけれど、センテイが期待するほどではなかった。
 尤も姉の死で心が壊れていなければ、自死を選んだに違いない。センテイは成人するまで殆ど奈良一族の人間と関わらずに暮らしてきたため、“村八分にされる”ということが何かわかっていなかった。主人──姉の父親はセンテイを嬲ることを自分の義務だと信じていたし、その他の人々もセンテイを汚物のように扱うのが常だった。淫売の子として侮辱され、暴力を振るわれ、四六時中こき使われる。姉は通いでの奉公だったが、センテイは住み込みで働かされたため、何年も何年も帰ることはできなかった。奉公が三年目になる頃には殆どの人がセンテイを嬲るのにも飽きて、使用人のなかに親しく話す相手も出来た。夜中、姉の気配を探すことも減った。
 一人で眠る夜は「このまま生きていくのだろうか」と自らに問う。
 このまま姉がいない人生に慣れて、人並みに生きていく……大した不安もなく、時として屈託なく笑ったりして……いつか誰かと所帯を持って、両親に孫の顔を見せられるかもしれない。
 両親のためにも、自分のためにもそうするべきだ。そうやって生きていかなければならない。
 そう思ったときに、ふっ……と「姉と一緒に死にたかったのだ」と気づいた。
 
 姉の苦しみや未練を思うよりも、この現実にたった一人残される身の上が不憫で涙が出た。
 姉よりも、両親よりも、誰よりも“自分が可愛い”ばかりの自分が惨めだった。
 
 
 四度目の春、何年かぶりに族長が戻ってきた──あまりに大きな手土産を携えて。
『今後奈良一族は千手とうちはの休戦協定に基づく同盟へ、猿飛・秋道・山中と共に加盟する』
 同盟は国内の忍一族全てが参加を義務付けられており、火の国から完全に独立した都市国家を作ることを目的としている。その都市国家は「木の葉隠れの里」という名が冠され、その代表として千手一族の族長・千手柱間が「火影」を名乗る。各忍一族は加盟にあたって、族長が占有していた統治権を火影に譲渡することとなる。よって、今後の沙汰は火影の伝令を待つように。
 
 この宣言により、一族内の全ての階級利権が無に帰した。まさに青天の霹靂である。
 
 族長が留守の間に自治を委ねられていた分家はその役目を失い、みるみる凋落した。
 最早下働きを雇う口実もなく、任を解かれたセンテイは三年半ぶりに帰省した。
 皮肉にも食い扶持が減って生活に余裕が出たということか、久しぶりに会う両親は少しふっくらしたようだった。センテイがそんな可愛げのないことを考えていると、母親に抱きしめられた。自分の無事な帰りを喜んでくれるものとばかり思っていたのに、母親は身も世もなく泣いていた。きっとそれは、抱きしめた息子の体が思った以上に痩せていたからなのだろう。
 それとも、姉が死んでからずっと思っていたことだったのかもしれない。
 私の身勝手で産んでごめんなさい。あなたが産まれたとき嬉しくて、あなたたちが大きくなるのが嬉しくて、ほんの少しでも永く生きてほしくて……全部私のワガママだったのに、私が死んでしまえばよかったのに、私だけ生きててごめんなさい。ごめんなさい。私を許さないで。
 抱き返した母親は三年前より少し肉がついていたが、改めて見つめると一回り縮んだような気がした。母親に遅れてやってきた父親も、随分疲れた顔をしている。
 それぞれの苦しみを思って、センテイは二人を抱きしめた。
 
 二人の下に産まれてこなければ良かったなどとは、一度も思ったことはない。
 
 
 木の葉隠れの里は何もかもが平等で、最新鋭で、機能的な都市だった。
 並の忍才しかないセンテイでも忍者として登用されたし、生まれて初めて“人間”として扱われる心地よさや、雨風を通さない頑丈な家での暮らしは筆舌に尽くし難い。
 何よりも、ずっとセンテイは「自分には忍才がない」と思っていたけれど、蓋を開けてみれば下には下がいて、センテイはそこまで才能がないわけではなかった。唯一の比較対象だった姉が飛び抜けて才能があっただけで、実際に任務へ出てみれば然程苦労もなく中忍へと昇格した。
 同世代の友人も沢山出来て、なんとはなしに最近良い感じのくノーもいる。
 相変わらずの無表情も、多数に埋もれてしまえば何ということもなかった。真新しい共同墓地へと移した姉の墓は立派で、墓前に色とりどりの花を飾れる喜びに苦しみも擦れてきた。
 何もかもが好転したのだから、自分はこうやって、普通に生きていけば良い。
 相変わらず姉のいない現実を愛しく思えないが、自分がいなくなったあとの両親を思うと……いい加減地に足をつけて現実と妄想の区別を付けなければと自らに言い聞かせる。
 
 姉は死んで、もういない。
 でもセンテイは生きてて、これからも生きていく。
 生きていくからには、苦しくならないように生きていきたい。
 自分も、自分の大事なひとも、苦しくならないように。
 
 そう思っていた矢先、姉の異母弟と同じ班を組むことになった。
 久しぶりに会う異母弟は飄々とした顔で「昔のことは水に流して、協力してこう」と、握手さえ求めてきた。センテイは僅かに躊躇った後、ゆるく彼の手を取って握手に応じた。
 自分たちの因縁に無関係な仲間がいる以上、輪を乱すべきではない。
 きっと姉もこうするはず……心が乱れた時の呪文を胸に抱いて、センテイは任務へ臨んだ。
 しかし、やはりと言うべきか、センテイは握手を求められた時点で任務を降りるべきだった。
 任務中に崖から突き落とされたセンテイは下半身が潰れ、忍者生命を絶たれた。
 目が覚めた時には、もうセンテイの不注意で滑り落ちたということになっていた。他の班員も異母弟とグルだったに違いない。股関節に致命的なダメージを負ったセンテイの体は歩行障害が残り、落下時の衝撃で生殖機能も失っていた。火の国の高等医術院を出たばかりの若い医師は「命があっただけ運が良かったですね」と、白い歯を見せて笑った。センテイも笑った。
 ベッド脇に残されていた手紙には、不格好な文字で「命があって良かった。どうか、もう忍者なんて危ないことはせずに、普通の職についてください」と記されていた。生まれて初めて見る母親の文字だった。殆ど目の見えない母親にとって、これだけの文字を書くのがどんなにか大変だったろう。大きな紙の真ん中に、目一杯の行間を持たせて……そうまでして……。
 母親の愛だ。分かっている。センテイが母親の立場であっても、同じように請うただろう。
 そもそも姉が死んだのだってくノ一だったからなのに、何年も何年も床を拭いたり庭を掃いたりして生きてきたのに、何故今更忍者を志したのかさえ分からない。そうするべきだから?
 センテイの父親は忍者とはいっても、前線に出たことは殆どない。父親の父親も、そうだ。
 センテイの父方の血筋は代々薬師を生業としていて、母方も忍者の本流ではない。
 
 ……どの道、もう忍者としてやっていくことは出来ない。
 子供を持つことも出来ないと聞かされた時も出なかった涙が頬を伝い、紙面に落ちた。
 後から後から、熱いものが溢れ出した。自分は間違えたのだという敗北感。何も悪いことをしていないはずなのに、繰り返し繰り返し地獄に落とされるのは何故なのだという怒り。どれだけ足掻いても、何も出来ない子供のように扱われる悔しさ。姉という道しるべを失ってからは、「姉がもしもここにいたら」という言葉がセンテイにとっての正義だった。
 センテイはいつもセンテイなりに正しいことをしてきた。姉が死んだ時に発狂することもなく姉を埋葬した。正気を失くした父親を落ち着かせた。家族を養うために辛く長い奉公生活に耐えた。どれだけ家族を侮辱されても、暴力に頼らなかった。あまつさえ、姉を侮辱した人間と和解しようと努力した。それが間違いだったのだろうか? 何故こんな仕打ちが出来るのか知りたかった。一体センテイが何をした。……答えがないのはわかっていた。誰も答えられるまい。
 
 一人一人のなかに違う苦しみがある。
 センテイにわかるのは、自分のことだけだ。
 
 姉の異母弟が何故ここまでセンテイを目の敵にするのかは、彼にしかわからない。
 彼がセンテイを嬲るのは、彼の問題だ。センテイには関係がない。
 彼のせいでカタワになったからといって、センテイには彼のことはわからないし、わからない以上は裁くことも出来ない。いずれにせよセンテイは負けたのだ──何か大きなものに。
 一頻り泣くと、それまでの鬱屈した気持ちが嘘のように肩の力が抜けた。
 
 センテイの父親は今、この医療院で薬師として重用されている。稼ぎも良い。
 両親はセンテイが産まれてからずっと、長いこと夫婦として認められずに暮らしてきたが、先の春に正式な夫婦として認められた。木の葉隠れの里が出来てから、一家の暮らしは好転した。
 母親を良い医師に診せることも出来たし、今は全く目が見えないというわけでもないらしい。
 家のまわりが一気に都市化したのに戸惑いつつ、母親は「野山で摘んだり作ったりしなくっても、お金で買えるようになって嬉しい」とも話していた。吹けば飛ぶような荒ら屋だった生家もしっかりしたものに立て直して、両親が丹精した庭には姉の好きだった花が溢れている。
 もう大丈夫だ。両親は大丈夫……もう、センテイがここにいる必要はない。
 姉が死んでから、センテイはなんとか生きようと頑張ってきた。全うに、両親を悲しませないために、生きる理由を探した。生きようとした。でも、もう、終わっていいだろう。
 
 センテイはずっと死にたかった。
 自分が姉と一緒に死んで良い理由を探していた。
 姉が死んでから──ただの一度たりとも、センテイは生きていたくなかった。
 
 長く辛いリハビリの果てに飛び込んだ冬の川は何も考えられないぐらい冷たかった。
 産まれてきたわけも、生きるわけも、なにもかも。
 
 

 
 
 かわいいおんなだろうと、男が呟く。
 パチパチとはぜるたき火から視線だけを逸らして、男──うちはマダラの様子を伺った。
 自分の恋人が消えた先をじっと見つめる横顔は頑なで、他人との対話を拒む雰囲気があった。
 尤もセンテイにしろ、今は他人の惚気話に付き合うゆとりは一切なかった。懸命なリハビリの果てに病院を抜け出すことに成功したのに、死に損なったからだ。川に飛びこむまでは中々順調だったのだが、マダラ曰くの“かわいいおんな”が可哀想なセンテイをお助け下さったのである。
 彼女はマダラにとっては「哀れな男を捨て置けない善良な恋人」なのだろう。しかしセンテイにとっては邪魔者以外の何者でもなかった。強いて“可愛い点”を挙げるなら、そのオツムの弱さであろうか。見ず知らずの人間のために、真冬の川に飛び込む馬鹿は早々いない。
 センテイの気持ちが分からぬほど粗野な男でもあるまいに、マダラは話し相手の鬱屈なぞ意に介さず「かわいいおんなだろう」と念押しする風に呟いた。そう遠くない昔に“うちはの頭領は女嫌いの人間嫌い”と聞いた覚えがあるものの、恋を知って人生観が変わったのかもしれない。
 センテイは憔悴を露わに、二三頷いた。マダラはそれで満足したらしかった。
 
 本当にな、あれは可愛い女だ。
 若い恋人をどれほど愛しく思っているのか、マダラは三度も繰り返す。
 所詮は十六の小娘ということだな。未来を変えたいなどとは口先ばかりで、結局のところ自分の手のなかにあるものは何一つとして間引けない。あれもこれもと、欲の強いやつ。
 多少の侮蔑が混じっているにも関わらず、マダラの顔は“こよなく愛しい”と言いたげに甘い。
 センテイがほんの少し前に世をはかなんで身投げしたこと、今まさに凍死しかけていること、緩んだ包帯から覗く足の傷が何を意味するか、マダラはその全てに興味がないらしかった。
 何なら自分の前に座っているセンテイが疾うに息絶えていようと、気に留めなかっただろう。
 つかの間センテイは己の不幸を忘れ、“うちはの若き頭領”として火の国の内外に名を轟かせた男と同席している不可思議に嘆息した。果たして、この男は何を考えているのか。
 
 うちはの若き頭領は弟以外に決して気を許さない。
 右腕と目される部下にさえ一線引いて付き合い、遊女や芸妓といった一時の享楽をも寄せ付けない気難しい美丈夫……というのが、センテイの知る“うちはマダラ”という男であった。
 事実二言三言交わすだけで、その気難しさは十分理解できた。これだけ己に介入されることを拒み、他の人格を無視する人間には中々巡り合えない。噂通りの、いや、それ以上の難物だ。
 それ故、センテイは思うのである。恋人が助けた見ず知らずの下郎と同席することは、この男にとって幾らか価値のあることなのであろうか──と。マダラはまだ喋っている。
 
 勿論、マダラは“センテイ”と喋りたいのではない。
 誰彼構わず、自分の好いた女の話を触れ回りたいだけだ。惚気たいのだ。相手はセンテイでも便所コウロギでも小石でも焚き火でも何でもよい。自殺願望を持つ濡れ鼠と一緒に焚き火に当たったところで、この男が得られるものは何もないはずだ。しかし、センテイ“に”話している。
 要するに、この“気難しさにかけては火の国一”の異名を誇る美丈夫は、市街で小石を投げれば五秒で替えが見つかりそうなぐらい凡庸な恋人の言いつけを守っているらしかった。
 自分が戻ってくるまで、センテイが自殺を図らないよう、凍死しないよう見守って、決して、決して意地悪をせず、有事の際には助けるように。それが、あの善良な娘の頼み事であった。
 マダラはセンテイの人格を無視し、センテイの問いに答えず、センテイの気持ちを慮ろうともしないものの、時折センテイへ視線をやって、その意識が保たれているか確かめてくれる。
 自殺未遂者に惚気話をするのが人命救助に含まれるか否かは議論の余地があるにせよ、まあ、むっつりと黙り込まれるよりは余程マシだ。最近では“木ノ葉の歩く火薬庫”の異名も定着しつつあるマダラにとって、これは随分な“持て成し”であるらしかった。
 
 マダラは、まだ恋人の話をしている。かれこれ一時間ずっと喋っている。
 身体的に衰弱しているのもあって、いい加減聞いているだけで疲れそうなものだが、聞き流す必要もなかった。スピリチュアルな内容すぎて、何を言っているか分からなかったからだ。
 それにしても──仮にも命の恩人に対して無礼にすぎるが──齢十九のセンテイから見ても、彼女には色気がなかった。顔立ちも平凡で、ひとの記憶に残りにくい……という点ではくノ一としての素養が高いと言うべきか。先ほど「市街で小石を投げれば五秒で替えが見つかる」などと心中で馬鹿にしたけれど、この男がこれだけ惚れ抜いているということは、センテイには分からない魅力があるのかもしれない。確かに、うちはマダラほどの希少性は望めないにしろ、見ず知らずの相手のために泣ける人間にも中々巡り合えないものだ。運命を感じなくもない。
 センテイの疑問を感じ取ったのだろう、マダラが不適な笑みを浮かべた。
 あれは過去も未来も永遠にオレのもの。貴様には、オレ以外の人間には髪の毛一本明け渡すものか。でも、そうだな……貴様は特別“気に入り”らしいし、ほんの一時貸してやろう。
 お前の庭は大層うつくしかったらしい。手中の玉を一時納めるには、随分と手ごろな場所だ。
 
『奈良センテイ、顔と名は覚えたぞ。精々長生きすると良い』
 たった今死のうとした男に向かって、何という皮肉だろう。
 そう感じたのはセンテイだけではなかったようで、ようやっと戻った娘がマダラを叩いた。
 山のような大男が小娘に叱られているのは、見ていて面白い。どうして、そんな無神経なことを言うのですか。センテイは、たった今あんなことをして、まだ寒さに震えているのに。小娘がああだこうだとマダラを詰る様子を眺めていると、背後から無遠慮な笑い声が聞こえてきた。
 
『トバリ、ワシも忙しい。夫婦漫才は惜しいが、この男を貰っていくぞ』
 首根っこを掴む男を振り向くと、白髪の偉丈夫がいた。
 マダラほどではないが整った顔をしている。身ぎれいにしていれば、さぞかし女性に好かれるだろう。男はヨレヨレの服を着て、頬に墨をつけているばかりか、背に「鬼」としたためられた半紙をひっつけていた。子どもの文字である。忍者アカデミーとやらの教員かもしれない。
 忍者アカデミーの教員が何故センテイを連れて行くのかは、分からない。娘が「ひとを呼んでくる」と言うからには、病院の関係者か、木ノ葉警務部隊かがくるのだと思っていた。
 
 男──千手扉間が名乗ったのは、彼の屋敷についてからだった。
 センテイも、千手扉間が誰かは承知している。千手柱間の弟で、この里の実質的なNo2だが、そもそも忍一族の雑用に過ぎないセンテイでも知ってるぐらいの大物忍者だ。センテイのような下っ端忍者にとって何の接点もない、雲の上のひと。センテイは目を白黒させると、大慌てで「こんなことでお騒がせして申し訳ねえです」とか「おれァもう大丈夫です」と解放を求めた。
 これまでそうやって歩いてきたように──扉間はセンテイを引きずって歩く片手間にマダラの悪口を言っていた──センテイの懇願を無視して自宅の門をくぐった。その道々「ワシの用は何も終わってない」とか「病院は飯に割く予算がないのか」なんてがなりつつ、ノシノシ進む。
『貴様、本当に十九か? さては、親が飯をくれなかったか』
 不意に差し向けられた台詞に、センテイは曖昧に笑った。刹那、目の前に星が散る。
 様々な理不尽に晒されてきたセンテイをもってしても、拳骨で殴られたことを理解するまでは幾らか時間が必要だった。センテイがもっと面白い返事をするべきだったか悩んでいると、
 
『バカめ。おまえの尊厳を損なうやつにへつらうな』
 扉間はフンと鼻を鳴らして、センテイを放り出した。
 
 泥にまみれるとばかり思っていたのに、センテイが放り出されたのは板敷きの通路だった。
 だだっぴろい庭に面した縁側だ。あっけにとられるセンテイの目の前を男の子たちが駆け抜けて、初対面の客人に“あっかんべー”をしたり、かと思えば無邪気に手招きをくれる。自分の置かれた状況がまるで分からず、センテイは凍り付く。すると、一体どう反応したものか困り果てるセンテイの代わりに「お父様のお客様でしょう!」と叱り飛ばす声が飛んできた。声の主を探して振り向くと、昼の明るさに満ちた居間に女が座っている。その腕には赤子が抱かれていた。
 女は赤子をあやしながら、目を眇めて微笑った。センテイの肩越しに扉間を見上げて「お客様が困ってらっしゃるじゃあありませんか。突然縁側に放り出すだなんて……お前様は、そんなだから“鬼”と言われるのですよ」と肩を竦める。扉間は背の半紙を丸めると、庭に放った。
『ワシの知る限り、この家で鬼と呼ばれたことがあるのはおまえだけだ』縁側に放り出したまま呆けているセンテイを睨む。『あまり女房を見るな。ワシの女房は野郎に見られると減る』
 無茶苦茶なことを言う扉間がセンテイを引っ張って、無理に立たせる。
 
『ほら、こっちだ。いい加減、冗談を真に受けて固まるな』
 そのままどこかへ引っ張られていく。
 首根っこを掴んで先導する扉間について歩きながら、ぼーっと庭を眺める。
 男の子たちはにわか覚えの忍術や体術を交互に見せびらかしながら、鞠のように跳ねて、泥だらけになって、この世の汚いものは何も知らないような顔で笑っている。扉間の子どもなのだろうに、ふつうの、どこかの農村か商家の子のようで……まるで忍一族の子どもらしくなかった。
 扉間の妻もそうだ。のんびり赤子をあやす暇があるなら忍装束の手入れか、兵糧の下ごしらえでもしていれば良いのに……千手一族の嫁ともあろうものが、ふつうの女のようだ。
 
 センテイの育った家もそうだった。
 村八分を受け、父親も母親も忍者ではいられなかった。
 忍一族たるもの任務に出て一人前だとか、忍才がどうの、一族を危険に晒す前に死ねといった教えを受けることはなく──両親共に「そういう教えがある」とだけ語っていた。
 村八分にされて良かったのは、おまえたちを戦場へやらずにすむこと。里抜けになるから森を出ることは出来ないけど、このまま家族四人でひっそり暮らしていきたい。母親の言葉だ。
 勿論、母親の願いは叶わなかった。姉は戦力、センテイは労働力としてつれてかれたし、姉は一家の暮らしをもっと豊かにすることを望んでいたし、センテイもそう。幸せになりたかった。
 今自分たちの間にある“幸せ”が失われるなどとは夢にも思わず、強欲だった。
 入水した時よりも苦しく、死に損なった絶望感が湧き上がる。自分の邪魔をした小娘も、訳の分からん話をするうちはマダラも、身勝手に自分を振り回す千手扉間も、皆が憎かった。
 
 みっともないぐらいの憎しみを持て余しているうちに、目的地についた。
 
 扉間は自分の書斎にセンテイを転がすと、どこかへ行ってしまった。
 どろどろとした感情にも一区切りついて、室内を見渡す。四畳の細長い部屋だ。
 元は納戸だったのではあるまいか。左右に並ぶ書棚が壁を覆い尽くし、天井際まで本が積まれている。窓際の文机も様々な書類や巻物にまみれて、山のようになっていた。
 文机の前に置かれた座布団はツギだらけで、畳の上に放り出された硯もあちこち欠けている。
 恐らくこの屋敷が建ってから一度も拭かれていないだろう窓には「食事時には出てくること」と女の手で書かれている。流れるようなうつくしい文字だが、どこか有無を言わさぬ雰囲気だ。
 薄明かりのなかで赤子をあやしていた女について思い返していると、ドンと家が揺れた。
 すわ敵襲かと片膝を立てた途端、襖の前をドタドタと軽い足音が駆け抜ける。
 やや遅れて「あんたたちっ夕飯抜きにするからねっ!」という怒声。タタタと、女性の足音。
 ……センテイは、この手の“悪さ”はしない子どもだった。姉にしても道徳の本から抜け出したような良い子だった。下男として働いていた分家でこうした騒ぎが起こる時には、その“悪さ”の標的はセンテイだったし、何の痛みも苦しみもなく漫然と座ってるのはソワソワする。
 
 センテイははたと、先ほどの揺れで落ちてきたものへ目をやった。
 この居たたまれなさを誤魔化したいという気持ちで手を伸ばす。しかし私物に勝手に触られるのも不愉快かと逡巡して手を戻した時、到底この部屋に似つかわしくない物が落ちてきた。
 柘植を削って作られた簪。先端に不格好な梅の花を綻ばせた簪が、畳の上に横たわっている。
 幻がセンテイの耳朶に囁きかける──梅って好き。

 姉の簪だった。
 
『大分揺れたな……なんだ、もう作り手の下に戻ったのか。めざとい簪だ』
 まあ少し景気づけになるだろうと適当なことを言いながら、千手扉間が部屋に入ってきた。
 センテイがあんなに触るか悩んでいた書物を雑に足で蹴って道を作る。
『わしはお色気の術は良い勉強材料になると思うんだがな、あれは少し頭が硬すぎていかん』
 書物の隙間にどすんと腰を下ろした千手扉間が、センテイが持っている簪を見つめる。
『言っておくが、盗ったわけじゃない。くれたんだ。だから、返さないぞ』
 千手扉間はセンテイの疑問の全てを見透かすように、はっきり宣言した。
 
『その簪の持ち主は、俺の初恋の女だ』
 
 十年近く昔に戦場で出会って、命を救われた。
 その時は敵対関係だったから名も明かしてくれなかったが、お前にその気があれば……まあ、つまり、俺に気があればということだな。俺と結婚する気があったら、そのうち千手に来いと約束した。あいつは「うん」と言って、この簪を置いていった。弟が彫ってくれた、世界で一番大事な簪だから、私だと思って持っていてと。だから、お前の母親に会ったとき、わかった。
 センテイは震える手で簪を握りしめた。目を瞑らずとも、姉の美しい姿が蘇る。艶やかな黒髪、スラリと白くしなやかな四肢、キラキラと輝く瞳、いつも活き活きとしていて、センテイを叱る時も褒める時も全力だった。くるくると変わる表情が愛らしい自慢の姉。この世の誰もが、
 
『お前の姉は良い女だった。ああいう女は、他にいない』
 この世の誰もが、あなたを愛していた。
 
 
 センテイは書物を汚すのも気にせず畳を殴って、その勢いのまま畳に突っ伏した。
 子供のように泣きじゃくるセンテイの背中を、扉間が乱暴に撫でた。何時間も、何時間も泣いて、その間扉間の子どもが見に来たり、妻が食事を持ってきたりしたけれど、扉間はセンテイが泣き止むまでずっと背中を撫でていた。「男がびいたらびいたら泣くな」なんて毒づきながら。
 センテイの嗚咽が収まると、扉間は冷えた握り飯を囓りはじめた。センテイを睨む。
『センテイ、お前、俺のものになれ』指についた米粒を丁寧に啄んで『……良いな? お前の姉には逃げられたが、お前はちゃんと恩を返せよ。そしたら死んだあとで、簪を返してやる』
 扉間はセンテイの口に握り飯を突っ込んだあと、空いた手で何か指折り数える。
 まずは庭を綺麗にしてもらうとか、センテイの父親は良い薬師だが木の手入れも上手いとか、薬草園を作りたいとか、奈良一族秘伝の書をパクってこいとか、センテイの一生をかけても終わらないような仕事が無尽蔵に湧いてくる。いつの間にか扉間は「大陸一の規模になる薬草園」の見取り図を広げて、一つ一つの図を説明しはじめる。無防備な笑みを浮かべて、夜明けまで。
 
 どんだけムチャクチャ言うつもりだ……と思ったことは数知れず。
 まるでセンテイを自分の物みたいに振り回して、センテイがウンザリしたり嫌がるはずがないと自信満々で、みるみるうちに好きになってしまって、話してると笑ってばかりで、はじめは、任された仕事の区切りがつくまでって、その次は「あなた”の夢が果てるまで」と思って。
 いつからか「死ぬまでずっとあなたが愛した場所、ものを守って生きていきたい」なんて。
 
 ……間違いなくあなたは俺の“光”だった。
 
 

 
 
 坊ちゃんはカラリとした性格の楽しいひとでねえ、色んな意味で色好みだったねえ。
 その台詞を否定するでもなく、あなたはただ視線だけをこちらへ寄越す。
 長く家を留守にするのはようあることだったけど、「センテイ、見ろ、ぼくの子だ」なんて、おどれぇたよねえ。珍しい植物をおれにおしつける時と、全くおンなじ調子なんだもの。
 温室には花が咲き乱れ、春の日差しが満ちた温室内は鉱石のようにチカチカと煌めいている。
 愛しそうに、大切そうに、あなたは目をすがめてこちらをみつめる。
 センテイは少し困ったように眉を寄せて、自分を見つめる幼児へと笑顔を浮かべてみせた。
 
 ……いつからだろう? 生きる理由だった“あなた”は、千手扉間だけでなくなった。
 
 土で汚れた手を差し出すと、幼児はおずおずとセンテイの下へやってきた。
 扉間の設計した温室は昼の光に満ちて明るく、色とりどりの花が咲き誇っている。
 金と銀の花びらを広げ、甘い芳香を漂わせるスイカズラ。その傍らでスイカズラと殆ど同じ色・形の花をつけるのは猛毒の瓢箪木。ちぐはぐなサイズの実が二つ並んだ姿は瓢箪そっくりで愛らしいけれど、どれだけツヤツヤと赤く熟しても口にしてはならない。縮緬を思わす朱の花塊はレンゲツツジ。甘い蜜には強い痙攣毒が混じっている。白い花胞を鈴なりにつけるアセビには神経毒がある。スイセン、トリカブト、キョウチクトウ……いずれも有毒植物だ。
 センテイが扉間のために集め、その求めに応じて幾度となく人を殺めた花々。でも今は珍しい形の実をつけたり、うつくしい花びらを広げることで、この幼児の目を楽しませている。
 自分が父親から教わったことを語りかけ、時として「毒があるものを口にしてはいけない」と叱りながら、センテイは幸せだった──喩えこの“幸せ”が人理に悖るものであったとしても。
 
 トバリさま。もう誰のものでもない名で呼ぶと、“トバリ”がセンテイの腰にしがみつく。
 扉間の子──カンヌキは「それも魔性の証左だ」と語るが、センテイはそうは思わなかった。
 確かにこの子は“ふつうの子ども”ではない。食事を摂らなくても、眠らなくても、カンヌキにどれだけ殴打されても、致死量の失血があっても、心臓が幾度止まっても、決して死なない。
 口で話すことなく自分の思いを伝えることが出来る。本で読んでいないことを、誰も教えていないことを知っている。赤子の頃から大人のような口調で話す。でも、それだけだ。
 センテイはトバリを抱き上げ、スイカズラの花を取りやすくしてやった。ふくふくと幼い手がセンテイの丹精した花を摘んで、花骸に溜まった蜜を吸う。センテイは愛しさに目を眇めた。
 坊ちゃんがこの子を連れてきてからの四年弱がそうであったように、トバリさまと、この庭で生きていきたい……その倹しい望みは叶えられて然るべきだと漠然と思う。もとよりセンテイは無欲な性質だったが、老境になってなお富や権力、永遠が欲しいと望んだりはしない。
 ただ、自分の残り少ない時間をこの子と分かち合いたかった。たった、その程度の望み。
 そのためなら、少しぐらい“正しく”なくとも許されるだろう。
 
 センテイの人生は長く、波乱に満ちたものだった。
 幼少期の苦労は言うまでもない。青年期の殆どを奴隷同然に甚振られ、壮年期には千手扉間の下で汚れ仕事に従事し、主君の死後も彼の残した“仕事”に励んできた。とりわけ死の床でまで「頼む」と遺されたカンヌキのメンタルケアは、自分の使命と信じて熱心に努めてきた。
 
 センテイは自分の腕のなかでうっとりと花を見つめるトバリをぎゅっと抱きしめた。
 トバリは小さな声で「どうした」とぼやくばかりで、この抱擁の意図をくみ取れない。多分、十年経った後だって分からないのだ。自らを異形と称するトバリの感性や思考は、センテイには到底分かり得ない。きっと、多分……そんな言葉を幾重にも重ねることで、共生してきた。
 センテイにはこの子の言葉が本当のことか、カンヌキの言葉が本当のことか、分からない。
 センテイが分かるのは、目の前で実際に起こったことだけだ。トバリ様は赤子のうちから言葉を話す。大人びた調子でセンテイに話しかける。“ふつうの子ども”とは違う生態を有している。
 そんなトバリに、カンヌキが手を上げる。大人であっても耐えがたい罵詈雑言を浴びせかけ、トバリの心臓が止まるまで暴力を振るう。事実か妄想か区別のつかない台詞で詰る。
 
 カンヌキは──センテイが敬愛する千手扉間の宝物は壊れてしまった。
 
 どこで間違えたのだろう? どうすれば、カンヌキを幸せに出来たのか?
 カンヌキにとってたかが“父親の側近”に過ぎない自分が「間違えた」と思うのは、あんまりに傲慢なのかもしれない。いつだってカンヌキのことを一番に思って生きてきたかと問われれば、言葉に詰まる。そんな自分が、カンヌキの人生を左右出来るはずもなかったのだ。
 
『センテイ、むし』
 
 我に返ると、トバリのちいさなゆびの先に丸々とした芋虫が乗っている。
『むしがこわかったのであろ。そとへ出してやろうな』
 異形の台詞にしては、慈しみに満ちあふれすぎていた。トバリは「むしをみつけたら、わたしがそとへ出してやろう」と、一言一言囁きかける。トバリにとって、一度死んだら終わりのセンテイは“弱い生き物”だからだ。幼児の指先ほどの芋虫にさえ、安全を脅かされると思っている。
 センテイは昨夜の──カンヌキに殴打されていたトバリの、関節を無視した方向におり曲がった指や腕──を思い出して、背中にぶわっと冷たいものが広がるのを感じた。薄く微笑む。
 泣きたい気持ちを堪え、トバリの優しさを讃える。センテイを虫から守ろうとする優しさ、虫の命さえ奪わずに済まそうとする優しさを褒めても、トバリには伝わらない。センテイは最早、この幼児に自分の言葉が通じないところさえ愛おしかった。センテイが育てた子どもだ。
 この子が道行く人々を頭からバリバリ食べ始めても、センテイの気持ちは変わらないだろう。
 密かに弟のように思っていたカンヌキが、我が子のように可愛い子どもを甚振っていて、もうセンテイには何が正しいのか分からない。まさか晩年になって、自分の大事なものが悉く崩れていく喪失感と、抗いがたい倦怠感に侵されるなどとは思いもしなかった。……疲れてしまった。
 
 トバリと過ごす時間は、センテイにとって間違いなく宝物だ。
 春の日だまりのような多幸感のなか、時折十九の自分を思い出す。冬の川の冷たさを。
 センテイの人生はどん底だったり好転したり、かと思えばまた打ちのめされたり、千手扉間と出会ったことで“答え”を見つけたと思ったけれど、それもまやかしだったのかもしれない。
 人間は結局ただ産まれてきて、草や獣や魚のように産まれてきたから生きていくだけなのだ。
 自分の生に何かの使命があるとか、増して“答え”があるだなんてのはまやかしで、自分のなかの精一杯をやったあとは、あれやこれや、ゴチャゴチャ考えなくても良いのかも。
 
『センテイ、とびらま様のはなしをして』
 トバリが拙い舌を繰って請う。
 
『へえ、トバリ様ン聡明さは扉間様譲りでしょうなァ』
 センテイが快活な笑みを浮かべると、トバリは不思議そうに小首を傾げた。
 恐らく自分と扉間の関係が何なのか困惑して、それでも幾らかは血の繋がりがあると結論づけたらしい。ややあってから頷いたトバリは、少し無愛想なだけの“ふつうの子ども”に見える。
 自分以外の誰がトバリを化け物と罵っても、センテイにはどうでも良かった。
 センテイはあんまりに長く生きすぎた。疾うに自死を望んだりはしないし、十九の自分が抱えていた痛みさえ薄れてしまった。センテイの人生には色んなことがあって、その一つ一つセンテイなりに精一杯努めてきた。あと十年もせずに寿命は尽き、誰もに忘れ去られるだろう。
 
 やがて来る“終わり”まで、この子とこの庭で生きていきたい。
 
 

 
 
 父があなたを呼んでる。来て貰わねば一生後悔する。
 
 その“後悔”はセンテイのものではなかろうと思ったけれど、口に出せなかった。
 センテイに向けて「もう、あなただけなんです」とまくし立てる男は件の……姉の異母弟の息子である。様々に因縁のある相手の息子だ。しかしセンテイにとっては最早、父子共に如何でもいい。事実、この男が幼い頃には──他の子らと共に──薬の煎じ方を指南していた。
 一族の子どもたちに薬学について指南するための塾を開いたり、姉の異母弟と共に地域のゴミ拾いに参加したり……センテイは同世代の男性のなかではかなり地域奉仕に励んできた。
 尤も何か崇高な思想があってのことではない。“そういう時代”だったからだ。
 木ノ葉隠れの里の設立によって村八分などの慣習は消え去ったけれど、忍一族特有の“強固な結束力”は変わらない。奈良シカクの「めんどうくさい」の一言で様々な行事が廃止されるまで、一族間の交流は密だった。いや、確かに奈良シカクは族長として改革的……率直に言えば不精者だったが、三代目の政策に「同化政策」が盛り込まれていたのも遠因ではある。
 今となっては「センテイのじいさんは社交好きだから」の一言で済まされるものが、かつては「あんたは独り者なんだから、所帯持ち以上に一族に貢献してくれねえと」だった。
 センテイにとっては「独り者の自分は所帯持ち以上に一族に貢献しないといけないから」塾を開いていて、その塾は一族の者であれば誰にでも門戸は開かれていただけのこと。
 薄情と言われても、わざわざ“一生の後悔”とやらにつきあってやるような間柄ではない。
 
 大体にして、センテイの仕事場である二代目屋敷に飛び込んでくるのも気に食わない。
 カンヌキが心を病む前にはひっきりなしに来客のあった二代目屋敷は、ここ数年──つまり、トバリがやってきてからは人払いが徹底されている。カンヌキという脅威はあれど、この屋敷はトバリにとっては安全な場所だ。トバリの生活を荒らしかねない人間には、居て欲しくない。
 打算を巡らせた結果、男の望み通り庭を出ることにした。
 
 今更自分の身の上に何が起ころうと、どうせたがが知れている。
 姉の異母弟が年明けから病に伏せっていて、先が短いことは、風の噂で知っていた。
 
 もう何年も、彼とは口を利いていない。
 
 
 姉の異母弟は四重半ばからは後方支援に回って要職に就き、内政にも貢献してきた。
 私生活も中々に充実していたと記憶している。……何しろ随分と深く憎んでいたので、下手な友人よりも詳しい。二十代前半で親の決めた婚約者と結ばれ、三人の息子に恵まれたはずだ。
 三人の息子たちも皆所帯を持って、今は片手に余るほどの孫がいる。センテイが知ってるのはそこまでだ。往年より減った地域行事も簡略化が進み、孫世代ともなるとまるで馴染みがない。しかし二代目屋敷の帰りなど、沢山の家族に囲まれて幸せそうな姿を見かけた。
 庭仕事で泥だらけになったセンテイが一人歩いていても、彼は一瞥さえくれなかった。
 
 センテイは十九で扉間に拾われてからというもの、ずっと扉間の下で働いてきた。
 扉間の命を受けて毒薬を開発したり、密偵としてあちこちに潜入したり、時として暗殺に手を染めた。カンヌキはセンテイが単なる庭師でないと察していたものの、具体的な仕事内容までは知らない。センテイの主な仕事は身内殺しで、扉間だけがその仕事ぶりを知っていた。
 扉間のために働くことはセンテイの喜びだったので、汚い仕事を任されているとか、引け目に思ったりはしなかった。生殖能力について些か思うところはあったけれど、誰もが生殖のために恋をするわけではない。女性と交際したこともあったし、そのうちの一人とは同棲までした。
 
 子どもは要らないと言って、押しかけ女房同然に始まった同棲生活は幸せだった。
 自分の両親とも睦まじい彼女と寄り添って生きていくことを夢見たこともある。でも上手くいかなかった。誰かを愛する……その無防備な心持ちのまま、誰かと生きていくのが恐ろしくて。
 センテイの意気地なさに愛想を尽かした彼女は怒って、泣いて、詰って、離れてって、少し後で「諦められない」と戻ってきて、二人一緒にボロボロに傷つくばかりの“愛”だった。
 自分と一緒にいるより、自分ではない誰かとずっと幸せに生きていけるきみが見たいんだ。
 一生分の罵り文句で愛を語ったひとは、センテイの台詞を「欺瞞だ」と断じた。どうして一緒に地獄に落ちて欲しいと言えないのと言って、何年も駄々をこねていたけれど、やがて自分より勇敢で、彼女と一緒に地獄に落ちてくれる男と結ばれた。当時まだ物珍しかった異国風の結婚式では花束の作成を依頼されて、式の終わりにその花束で殴られたことも今はただなつかしい。
 泣きながらも「幸せになる」と怒っていた彼女は、何年か前に戦場で亡くなった。
 
 センテイの人生は、誰かを見送ってばかりだ。
 姉にはじまり、死に損なった自分を拾ってくれた扉間も、扉間の子どもたち、両親、友人。
 母親はただの一度も「孫を持ちたかった」と言うことなく天寿を全うして、最期は「あの日、お父さんに出会って良かった」と微笑んだ。その三回忌が終わったあと、父親も亡くなった。
 老いてからは「子どもの頃に一生分の苦労をかけた」が口癖だった父親は遺影用の写真も葬儀の段取りも皆自分で済ましてあった。自分もかくありたいものだと思って、涙が出た。
 思いがけず長生きしてしまったが、地域奉仕をするうちに奈良一族の者が気にかけてくれて、然程の孤独もない。少しずつ年を重ねるなかで、恨みの殆どは解けてなくなった。
 たぶん人様から見ると、センテイの人生は平凡で、退屈で、稚拙で、妻子もなく独りぼっちで可哀想なのだろう。自分でも、そう思う。でも、何もかもかけがえのないものだとも。
 
 もし今時間が巻き戻ったなら、少なくとも冬の川には飛び込まない。
 
 
 センテイの住まいからそう遠くない屋敷の一番奥、日当たりのよい部屋に彼がいた。
 姉の異母弟は、センテイの予想よりずっと衰弱している。仕立ての良い布団の真ん中にぽつんと横たわる彼の体は今にも崩れ落ちそうなほど痩せ細り、こけた頬は蝋のように白かった。
 息子の言うとおり「一生」の終わりが迫っているのだろう。無感情に観察していると、我が子の報告を受けた彼が飛び起きた。やにわに怯んだセンテイを置き去りに、息子は部屋を出る。
 まさかこの後に及んで何かするつもりなのか──取っ組み合いになれば負けるまいが、禁術かなにか使うのであれば体格差は勿論体力差も関係ない。センテイが困惑する内にも、姉の異母弟が迫ってくる。最早歩く力もなく、畳の上を這って……不気味さに耐えきれず、踵を返した。
 
『すま、あ……った』
 細い指がセンテイのズボンの裾を引く。
 
『あった……すまなかった。すまな、た……アッないえ……』
 荒い息。喉を縊る嗚咽。力なく畳に落ちる手。ガリと、畳の目をかく爪。
 恐る恐る振り向くと、姉の異母弟が自分の上体を浮かそうと畳の上で藻掻いていた。犬のように喘ぎながらようよう体をあげると、センテイと目が合った途端に畳に額を擦りつける。
 土下座だった。骨と皮ばかりに痩せ細った彼が、今にも死にそうな彼が最期の力を振り絞ってセンテイに土下座している。うわごとのように「すまなかった」と繰り返す。
 
 ここまでセンテイを引っ張ってきた息子は姿を消し、戻ってくる気配はない。
 父親の惨めな姿を見たくないということか……もしくは「二人きりにしてほしい」と頼まれたのかも知れない。センテイは一先ず彼を抱き起こすべく跪いて、その背に腕を伸ばしかけた。
 
 ──姉の死体は、無残なものだった。
 
 もう終わったことだ。姉が死んでから半世紀過ぎた。両親も死んだ。自分たちもじきに死ぬ。この男に村中を引き回された姉は最早姉ではなく、ひとつの肉塊になっていた。姉の自慢だった黒髪は血と塵でほつれ、綿のように膨らんでいた。この男と違って、姉の遺骸には腕も足もなかった。ありとあらゆる体液で汚された姉の苦しみには、この男の苦しみなどまるで及ばない。
 喉まで出かかった言葉が声帯に絡む。つま先に涙滴が落ちた。後から後から涙が出る。
 かつて姉の尊厳を踏みにじり、センテイの忍生命を絶った男が死の際に瀕している。
 青々とした畳にこすりつけられる頭に残った毛髪は僅かで、その両脇についた手は骨と皮ばかりになって血管の存在を主張していた。惨めたらしく土下座して、自らの罪を詫びる。
 それは、幼い頃のセンテイが何より見たいと思っていたものだった……そのはずであった。
 この男はセンテイの足を奪った。センテイの子どもを奪った。センテイの姉を侮辱した。この男の父親はセンテイの母親を嬲った。センテイの姉を見殺しにしようとした。センテイの父親の腕を奪った。おまえは生きていてはいけない。もっと早くに死ぬべき命だった。
 
 センテイは震える指で、彼の首に触れた。
 彼はふっと瞳に安堵の色を宿すと、そのまま静かに首を差し出す。
 
 
 もっと、はやく……
 
 
『おじーさまァ!』
 甘ったるい声が響き渡った。
 センテイは咄嗟に畳に手をおろすと、声の主を振り向いた。そこに姉が立っていた。
 一瞬、自分の身の上に起こった全てのことが夢だったのだろうか?と思った。本当に、本当に少年のままの自分でここにいるような──そのぐらい似ていた。センテイの記憶にある限り一番幼い姿をした姉が、姉と同じ口元ではにかんで、同じ目で自分たちを見つめている。
 童女はセンテイの存在に気づくとパッと襖の影に隠れてしまったが、すぐ再び顔を覗かせた。
 その仕草からは、この子がどれだけ一家に愛されているかが伝わってくる。どんな非礼も叱られずに育ったのだろう童女は茶目っ気たっぷりに微笑んでから、突然アッと叫んだ。
『おじいさま! かってにお布団から出ちゃダメよっ!!』
 身も世もないとばかりに駆け寄ってきた幼女が、自分の祖父に泣きすがる。姉と同じ顔で。
 呆然と姉の異母弟へ目をやると、彼はセンテイと目が合った途端に顔をクシャクシャにした。
『なかないで、おじいさま。いっしょにいてあげるから、いたくないから、なかないで』
 童女は「おじいさまの言うとおり忍者にならないし、お嫁にも行かないから、元気になって」と健気な慰めを繰り返して、祖父の苦痛を取り除こうとしている。彼はあまりにも優しい呪言に怯えて、子どものようにワンワン泣いていた。そこで、センテイは全ての経緯を悟った。
 
 彼は、この小さな孫娘を愛したのだ。
 かつての自分が踏みにじったものと同じ形をした命を愛してしまった。
 
 いつの間にか戻ってきた息子が彼を布団へ戻して、センテイを部屋の外へ連れ出した。
 息子は「父があなたがたに何をしてきたかは、聞いています」と前置きをして、此度の非礼を詫びた。彼は初めての女孫が生まれた頃から心を病んで、細君に手を上げたり、子ども達に暴言を浴びせたり……息子は「元々良い親ではありませんでしたけど、産まれたばかりのあの子を殺そうとするのは参りましたね」と苦笑した。でも結局、彼には“出来なかった”のだ。
 幼い彼女に笑いかけられた日から暴力は止み、代わりに自傷に近い不摂生が始まった。体力が落ちるとせん妄が、せん妄が進むと認知機能が衰えて……今はもう彼が“個”として認識するのは孫娘だけらしい。他は調子の良い日に一言二言話すぐらいで、センテイを連れてきたのは息子の判断だった。これだけひとを苦しめ、苦しんだ父親に、最期は楽になってほしい一心で。
 
『でも父は、一度もあの子の名前を呼んだことがないんですよ』
 襖の向こうから、姉の名前。その名の主を知らぬ息子は小首をかしげ、童女は「自分の名前ではない」と否定しながらも擽ったそうに笑っている。センテイの喉がぐっと奇妙に鳴った。
 
 センテイは自分の姉ほど、光り輝くうつくしいひとを知らない。
 村中を引き回された姉の黒髪は血と塵でほつれ、綿のように膨らんでいた。スラリと長くしなやかな四肢はなく、胴の半ばからは腸が露出していた。ありとあらゆる体液で汚された姉の苦しみは果てしなく長かっただろう。それこそ“世界が終わり”を迎えるまで苦しんだに違いない。
 それほどまでに苦しんだ姉が蘇ることはなかったけれど、“あれ”が全ての答えではなかった。
 あなたは、うつくしいひとだった。一度あなたを目にしたものはみんな、あなたを愛した。
 人並み外れて賢く、気高く、美しく、優しいあなたのことを、この世の誰もが愛した。
 もう良いと、偽善や諦念からではなく──心から、センテイは“もう良い”と思った。
 
 センテイは何か大きなものに勝ったのだ。
 
 
 二代目屋敷に戻ると、裏門の下にちょこんと小さい人影があった。
 それがトバリであると気づくまで時間は掛からなかったが、理由は分からなかった。
 大抵の場合、トバリは地下の書庫と縁側を往復するのみで、外界への興味を示した覚えはなかったからだ。いっそ裏門の存在さえ認識していない可能性もあった。しかしトバリは裏門の存在をしっかり認識していたし、そこから外界へ出ることが出来る旨も勿論理解していた。それにも関わらず、トバリは開け放たれた裏門の真下でうずくまったままピクリとも身動ぎしない。
 
『おまえはねがきよわだから、いじめられたのであろ』
 それがトバリの第一声だった。
 
 半ば連れさらわれる形で目の前から去ったので、幾らか心配してくれたらしい。
 裏門から数歩の距離で立ち止まる。トバリがすっくと立ち上がって、困ったように短い腕をこちらへ伸ばした。すかすかと、幼い腕が宙を掻く。いじめられたのであろ。拙い声音で囁く。
 おまえは、どうしてすぐに泣いてしまうのかな。いやなことは、目をつむって、耳をふさいで、しらんふりしてしまえばよいのに。その台詞を聞くまで、センテイは自分が泣いていることに気づかなかった。これではトバリのことを笑えない。苦笑と共に歩み寄って、すかすか忙しげな腕の射程に入る。センテイが屈むと、ようやっとトバリの指がしわだらけの目尻を撫でた。
『かわいそうに』深々とした慰めを込めて、ため息を漏らす。『むりに外へ……』
 目を眇めて、満足げにセンテイを労わっていたトバリの声が涸れる。
 トバリが言わんとすることは分かっていた。外へ行くことはない。センテイがトバリに度々言い聞かせてきた台詞だ。外には危ないことや嫌なことが沢山あって、無理に行くものではない。
 トバリが外界へ興味を示したことはなかったが、いずれの日にか示す可能性を摘むようにと、センテイはいつも優しい言葉で彼女の好奇心を削いできた。カンヌキの残酷な指示にただ従っているわけではないという欺瞞から、そして自分の目の届かない場所でこの子が虐げられることがないように……自分の目の届かない場所で非業の死を遂げた姉を、あの苦痛を二度と味わうことがないように。センテイはこの、息をすることにさえ躊躇いを見せる童女が愛しかった。
 一匹の虫にさえ情けをかけるトバリが傷つくところが見たくなかった。だから、外へは……。
 
 トバリの声が何故途絶えたのかは、センテイには分からなかった。
 
『外へ行くのはやめにして、ずっとトバリさまと一緒にいようか』
『だめだ』
 予想外に厳しい拒絶を受けて、センテイは面食らう。
『ここには、わたししかいないのだもの』
 トバリは労しげな視線でセンテイを見つめてから、決まり悪げに目を伏せた。
 
『わたし一人のために、おまえの全てをなげうつことはない』
 
 センテイの姉は、十八の若さで非業の死を遂げた。
 若く、可憐で、聡明な自慢の姉であった。世が世なら名のあるくノ一になっただろうと思われる姉の死に様は、到底理不尽だった。こんな早く、こんな死に方をするひとではなかった。
 姉の死と向き合う時、センテイの胸中には常に不満と怒りがあった。姉という人物の才能と聡明さ、善良さは広く世に知られるべきものだったと、センテイはずっとそう思っていた。
 センテイが救われたのは、姉が生きたのは自分たち家族のためだけではないと知ったからだ。
 姉はその終わりまで「生きよう」と足掻いた。どれだけ苦しむことになっても、どんな姿になっても生きようとした。幼い自分の胸にあった「どうせ生き延びても幸せにはなるまい」という諦念を打ち消したのは、扉間だった。柱間の理想によって形成された木ノ葉隠れの里であった。
 生きてさえいれば、姉には彼女が足掻くにたる未来があった。それがセンテイの救いだった。
 
 姉がこの世に生まれ出たのは、ただ他人から嘲れ、尊厳を踏みにじられるためではなかった。
 
 ……それにも関わらず、今、センテイはこの子を庭に縛り付けようとしている。
 この子を、自分以外の誰の目にも触れされたくないと思っている。自分の目の届かない場所へ往けば、この子は必ず脅かされ、迫害される。そういう恐れが、センテイのなかにはあった。
 姉の時と同じだ。センテイは姉の世界は自分たち家族のみの狭いものだと決めつけて、傲慢きわまることに姉を恨んだ。さっさと諦めてしまえば、苦しみは短かったのに。早く死ね、と。
 センテイだって、姉の異母弟と同じだ。どれだけ長く苦しむことになっても生きていたかった姉を踏みにじった。自分の「あなたの苦しみを目の当たりにしたくない」というエゴのために。
 
 トバリに対しても同じことをしている──ここから出なければ幾らかは安全なのに、と。
 その考えはまるきり間違っているわけではなかろう。この子は“ふつうの子ども”じゃない。
 センテイが常に見守って、うしろからこっそり耳打ちしてやらなければ、この子の異端はすぐさま里中に知れ渡ってしまう。得体の知れない存在に対して、寛容な人間は乏しい。
 増して、子を持つ人間であれば我が子の安全のために声高にこの子を遠ざけたがるだろう。
 一体誰がこの子と一緒にいてくれるのだろう? 自分以外には誰一人、この子を愛するものはいないのではなかろうか? 全てに蓋をして、自分の“終わり”を待とうとしていた。
 
 ただ、自分の残り少ない時間をこの子と分かち合いたい。たった、その程度の望み。
 そのためなら、少しぐらい“正しく”なくたって……うそだ。センテイは、この子が笑ってくれるのなら何もかもが間違っていても構わない。この子に自分の人生全てを賭けたい。
 センテイは、いそいそと裏門から離れるトバリの小さな背を呼び止めた。トバリが振り向く。
 
『おれァでっけえ博打を打つつもりです』
 
 トバリがきょとんと立ち尽くす。
 小さな指を口元にあてたトバリはちょっと考えてから、何度か頷いた。
『博打だなんておまえらしくもない道楽だけど、せっかく打つからには勝たなくてはね』
 そう言って目を眇める童女は姉のように光り輝いて、こよなくうつくしく見えた。
 
 一分一秒でも長く、あなたと一緒に生きていたい。
 あなたが、この庭の外でそう思える誰かと一緒に生きていけるといい。
 
 どんなすがたになって、どんたけ苦し ても、そのはて に
 
 ひかり、かがやく
 
 いとしい
 
 うつくしい
 
 
 おれ
 の
 

ひかり

 
 


花骸のこどもたち