七年語りLULL BEFORE THE STORM
14 あなたのせいじゃない

 

 夢の中に己の意識があるということは何だか久しい。
 呼ばずとも、伸ばさずとも、乞うるのが無駄だと分かる感覚がこの夢の主人を教えてくれた。一人だ。

 あばら骨を抜けていく風の冷たさに孤独を綴りかけたが、細い光に紛らわされる。目の前の黒へ線状の明かりが引かれていた。手を伸ばせば、指先に溝を感じる。線はぴいと伸びていき、カクンと直角に曲がった。もう一度、二、三度繰り返して戻ってくる。灯りの線で切り取られた黒い長方形。その端に冷たいノブがあった。目視すると同時に触れ、ぎゅっと掴む。鍵が掛かっていないことは分かっていた。これは私の夢だから、鍵は降りていない。そう分かっているから、ちょっとの躊躇いもなくノブを回して、手前に引いた。光が広くなる。眩しくて、世界を伺うには隙間が狭すぎて、何も見えない。光に埋め尽くされ、白くなった意識へ思考を連ねる。同じ夢を前も見た。幾たびも見た。最近は見ていなかった。でも昨日のことのように思える。全てが数分前のことに思える。この世界には時間がないからと、そう教えたのは誰だったろうか。舌に触れることさえない問いへ応える声があった。「すまないと思っているよ」背後から伸びる手がぐっと光を広げる。振り向かなくても誰の声か分かった。どもっていない。「こちらに来てはいけなかったのに、私が手引きをしてしまったようなものだね」教授、如何してどもっていないんですか。背後にいる人物の笑みが頭に零れる。「……前に会った時も同じことを聞いたね」だって、私が会った時にはもうどもっていて、それで。「何も生まれたときからどもっていたわけではないよ」それは、そうですけど。光の白さが収まるよう数度目を瞬かせる。「君が知りたいのは、私が嘘か真かということだろう」それでもまだ光の先が見えなかった。「それは君が決めれば良い」夢には経験したことしか、知っていることしか出てこないって言います。だから、「そうだね。だから君が決めるべきだ」如何いうことか分からない。抽象的なのは夢だからだろうか、それとも元からこういう話し方を好んだろうか。胸がざわめく。あの、怒ってますか? 「いいや」背後にいる人物が頭を振る。眉を寄せると、ようやっと光の内に輪郭を見つけた。「“私”は君と別れられなかったことを残念に思う」薄れていく光に埋もれて、ハーマイオニーとメアリが抱き合っている。きつく抱き合い、名残なく解けていく腕。きちんとしたお別れ。クィレルに縁のなかったもの。クィレルとダリルの関係に縁のなかったもの。そしてこれからもダリルに縁のないだろうもの。「すまないと思う」何故謝るのか、分かりたくない。「私と出会わなければ、」止めて。「決めつけないで」びいんと音が喉を震わせる。「私が可哀想だって、決めつけないで」嘘でも真でも何の意味のない夢でも構いはしない。「クィレル教授の声で、私の幸せを決めつけないで」頬を伝う涙が冷えていく。扉を押さえている手が落ち、骨ばった指が目元へ触れる。それでもダリルは語り続けていた。出会わなければ良かったなんて言わないで。私を誰かに被せて、やる前から駄目だと諦めないで。駄目だったと言わないで。私の幸せを私以外の価値観で測らないで。それが例え優しさからのものだったとしても、貴方が嘘でも真でも、私の作った幻に過ぎなかったとしても、

「――その声で、出会わなければ良かっただなんて、言わないで」
 こんな未来になってしまうならと手離されることを私がいつ望んだと言うのか。

 頬を凍らせるほどに冷たい涙を拭ってくれたのは温かな指ではなかった。硬い布目が皮膚を擦る。よく糊付けされたハンカチだと咄嗟に考えた。ダリルはパリッと乾いたハンカチよりも、しっとりと柔らかなものが好きだ。他人を優しく拭えるから、こんな時に痛くない。このハンカチの持ち主は、他人を慰めるのに慣れていないのだろう。ダリルは手荒に擦られる痛みから顔を背け、手で覆った。指の隙間から光が零れる。その明るさと、何故急に光が入ってきたのかと考える思考とがダリルの瞼をこじ開けた。窓がある。窓があって、涙を拭ってくれて、それから――夢現の落差へ戸惑うダリルに優しい声が聞こえた。硬いハンカチを好む人、誰かの涙を拭うことなど考えない人、だけどダリルの涙は拭ってくれる人の声が彼女の耳朶を震わせる。ダリル。テノールが鼓膜に響いた。ダリル、起きたのか? 繰り返される呼び声に、ゆるゆると視線を合わせる。まだ視界は微睡にぼやけていたが、目を凝らさずとも、己を覗き込むのが誰かは分かった。ルシウスだ。人の涙を拭うに相応しくない、世にも不機嫌そうな顔をしている。父親のそういう顔には慣れているはずだったが、如何反応するべきか考えあぐねてしまった。未だ睡魔が絡んでいるらしく、ダリルの思考回路は鈍っている。
「ダリル、起きたのか」断定的口調だ。「お前はもう少し目覚めが良いと記憶していたが、昨晩はいつ寝たのかね」
 ダリルがぽかんと口を半開きにしたままで見つめていると、ルシウスがゴホンと咳払いをした。「ええと、」口元へ滑らせた指をカリと噛む。「お……お父様、おはようございます」親指を吸いかけたのに気付いて、ぱっと手を下す。羞恥で俯いた拍子に、目じりへ留まっていたのだろう粒が布団に染みを作った。ついさっき下ろした手をまたあげて、目じりを拭う。忙しい挙動へ、ルシウスが瞳を細めた。
「恐ろしい夢でも見たのか?」そう問いながら、ダリルとの間で宙ぶらりんになっていたハンカチをさっと仕舞う。涙を拭うのは下手でも、差し出した手を引っ込めるのは得意なのだ。ルシウスの台詞にダリルは頭を振った。頭に掛かる靄はまだ晴れず、ルシウスの感情の機微を伺える状態にない。それにルシウスとの駆け引きや、スネイプとの密約も、昨日“仕出かした”ことも、殆どの記憶はまだ眠っていた。ダリルは緩慢な仕草で身を起こし、ルシウスへ素直な言葉を紡ぐ。「ん……いいえ、恐ろしい夢などでは」
 文章の途中で区切ると、ミルク飲み人形のような幼さで頭を振った。まだ完全に目が覚めていないのだと、その声音に悟る。
「恐ろしくはありませんでした」
 嘘はついていないようだ。率直な否定へひとまず安堵する。ホグワーツへ入学して以来感情が昂ぶりやすくなった娘は父として心配だった。ホグワーツになど行くからと思ったものだが、元々を考えればもっと幼い頃は気性の激しい少女だった。スクイブと引け目を感じることで抑圧していた感情のタガが、ホグワーツへ行くことで外れたに過ぎないのだろう。そうなれば当人の言う通り、傍からは不幸そうに見えても、ホグワーツへ行く前のほうが安らかに暮らしていたのではと思っても、今の方が幸福なのかもしれない。
 ただでさえ理解の及ばぬ精神構造をしている上、最近では隠し事を多く持つ。娘の本心を知るに夢にさえ頼りたくなるというものだ。
「なら良い」ルシウスはダリルに気付かれぬようため息を零すと、指で眉間のしわをほぐす。「疾うにナルシッサもドラコも出かけたぞ」
 ヨーグルトよりも軽い皮肉だったが、ダリルは強い反応を示した。眠たげに茫洋としていた表情が強張る。
「お、お母様が……?」筋張った疑問を零す唇から薄らと血の気が引き、青ざめていた。「お母様が、朝食に? もう?」
 ナルシッサは出かけた。この一言はコーヒー百杯分のカフェインよりも効果がある。ダリルの脳内に記憶の濁流が押し寄せた。昨日マグルの街へ繰り出したこと。帰宅してからも興奮冷めやらずに、ひっつかまえたドラコ相手にマグルの話を延々続けたこと。それで普段より四時間も遅くにベッドに入ったこと。一週間前寝坊して朝食の席につけなかった時、ナルシッサに散々叱られたこと。次に寝坊したら自室を地下牢に移すと脅されていること。ルシウスが起こしにくるのが久々だとか、一体何時間眠っていたのだろうとか、多くを考え、推測してはダリルの顔色が抜け落ちていった。切羽詰まった声音で「如何しよう」と繰り返す娘へ、ルシウスは呆れた風に肩を竦めた。
「ナルシッサが出かけたは朝食前だ。パーキンソンの家へ出かけた」
 聞いていたはずだったな? 殆どため息で構成された台詞に、ダリルはピクと口端を動かし、ズルズルと布団の上に崩れ落ちた。

 朝咲きの花を見に行くから早々に出かけるとは、昨晩ダリルも聞いたはずだった。パーキンソン家の奥方の学生時代の得意は薬草学。「彼女ほど鮮やかな緑指を持っている人はいない」そう言うのは、彼女の同級生であるナルシッサだ。「一度だって薬草学の成績で勝てたことはなかったわ」とため息をつく。そうしてダリルとドラコを前に言うのである。「パーキンソンの娘に薬草学で負けたら、貴方達を温室に住まわせますからね」幸いなことにパンジーは薬草学に大した関心を持っていないため、今夏も二人は室内に住んでいられる。ドラコ曰くパーキンソンの奥方も「マルフォイの双子に魔法薬学で負けたら三食魔法薬ですからね」と娘を脅しているらしい。ダリルはどちらかと言えばパンジーのことが嫌いだ。しかし自分の魔法薬学の成績が悪くて、パンジーの成績がドラコより良いのは平和なことだと思った。そんな風に、学生時代を振り返っては子供を煽る癖、当人たちは仲がいい。そう振舞っているだけかもしれないが、最近ではパーキンソンの奥方含むスリザリン寮OGと“お局会”などと称しては外で会っている。何にせよ、お目付け役がいないのは有り難い。

 ダリルの顔に生気が戻った。朝食前に出かけたということは、無論ダリルが寝坊したことなど知れるはずもない。今日は運が良い。

「お父様ったら……」ダリルはない胸を押さえて、ふーと長いため息を紡いだ。「寝起きに驚かさないでくださいな」
 あーあ驚いて損しちゃったわ。全く反省していない愚痴をポロポロ落として、ダリルはぐーっと伸びをした。
「お前は如何して、私が寝坊を叱らないと過信していられる?」
 疲労を顔に浮かべるルシウスへ、ダリルは嫣然と微笑んだ。ルシウスの脇に見える短針は左に傾いている。まだ午前だ。今日の三時に眠りについたにしては上々と言えるだろう。ドラコが何時に起きたかは知らないが、気にすることはない。元々兄は自分より出来が良いのだ。ドラコはどんなに眠かろうと約束の時間に間に合うよう起きられる。ダリルには到底出来ない芸当だった。尤もその分寝る時間を調整したりもするし、何より寝坊を目こぼししてくれる一人がいるので不便はなかった。
 目こぼししてくれる一人は頑なな表情をしているが、ダリルはそれに怯えたり縮こまったりはしない。慣れているし、過信しているのだ。
「お父様が硬いハンカチで私を慰めて下さるから」ダリルは青灰の瞳を細めて、クスクス笑った。「乱暴に涙を拭って下さるからです」
 優しい人の特別になることは勿論嬉しいことだが、気難しい父の特別であるというのは一等誇らしいことだ。ダリルははにかんだ笑みを浮かべる。「お父様、私以外の人の涙を拭う時は、もっと手触りの良いハンカチを使ってね」

 娘の台詞は理解出来ないが、からかわれていることだけは分かる。ルシウスは面白からぬと顰め面をした。

「悪夢に泣くような可愛げが残っているかと思えば、すぐにませた口ぶりで親をからかう」
「幼子のように扱うはやめて下さい」ダリルはぷっと頬を膨らせる。
 娘の笑みが崩れたのをルシウスがせせら笑った。 「お前の夢は昔から分かりやすいものが多かったな」
 ルシウスが怪談話をすれば悪夢に魘され、童話を語れば美しい夢に浸る。ダリルが日常生活で感じる恐怖も喜びも真っ直ぐに夢へ反映された。殆ど夢を見ないルシウスにとって、娘が話す夢の景色も、たかが夢に感情を翻弄されるも覚えのないことだ。
 父のからかいにくっと顎をあげると、ダリルは澄ました声を出した。 「単細胞と言いたければ言って下さっても構いませんのよ」
「怖い夢を見てシクシク泣く娘をからかう悪趣味はない」クツクツ喉を鳴らすルシウスにダリルが恨めし気な視線を寄越す。
「うそ」口を尖らせて、眉間を浅く寄せた。「お父様は悪趣味の塊だって、お母様がよく言ってらっしゃるわ」
「何故お前達は私を貶める時だけ都合よく結託するんだ」
「あら、私とお母様はいつだって仲良しよ」そう宣言して、つんとそっぽを向く。
 ルシウスの内で、ナルシッサとの仲をとりなすようドラコに頼んでいたことは記憶に新しかった。しかしそれを持ちだすのは藪蛇というものだろう。何しろその諍いはルシウスがダリルの不興を買った事に起因するのだ。ダイアゴン横丁へ連れて行くと約束したことですっかり水に流させたものをわざわざ思い出させてやることはない。ルシウスは咳払いをして、懐から出した懐中時計を覗き込んだ。
 九時には家を出る予定だったのに、もう十一時を過ぎている。
「兎に角、早く支度を整えろ。デートの相手が私だったから良かったものの――」他の男とデートするときはこうは行かないぞという嫌味で脅すつもりだったが、別にダリルがデートに遅刻して振られようとルシウスには構わない。寧ろどんどん振られろ。嫁に行き遅れろ。娘可愛さに、台詞は急な方向転換を遂げる。「ナルシッサでさえ私を待たすは一時間が精々だった」娘は目に入れても痛くないほど可愛い。
 ダリルは「はいお父様」という世にも殊勝な台詞を投げやりに繰り返しながらシーツの海をかき分け、ルシウスの傍らに足を下ろした。
 ふあと欠伸を落とす。急ぐ様子は全くない。申し訳ないとも思っていなさそうだった。

 ルシウスにとって女に待たされることなど、色恋と関わるようになってから片手で足るほどしかない。勿論待ち合わせ時間を過ぎるような無粋はしなかったが、自分との逢瀬を心待ちにした少女達は時間より早くやってきたものだ。己の魅力故に女を待たせるのは殆ど有り触れたことだった。相手に待たされたのはただ一度、付き合い出した頃にナルシッサから待たされただけだ。それだって親の決めた婚約者とデートに行くのが嫌だと言う反抗心から成るもので、ルシウスに対しては待たせている間一分一秒申し訳ない気持ちでいたと語っている。妻の台詞が嘘か真かは分からないが、それが最初で最後のことだった。最後になるはずだったのに。なのに今朝になって「そういえば今日はお父様と出かけるんだったわね」と、息を吸うよりも自然に二時間待たされた。しかも“たかが”娘に。
 ドラコが相手なら時間厳守云々の説教でもしただろう。しかし“たかが”娘でも、妻似の容貌に己似の奔放さ、己の愛情に対して無防備な娘は可愛い。男女の双子が生まれたと聞いた時は「二人も同時に育てるのは面倒だから女児など要らなかったのに」と知人へ零したものだが、自分と妻似の異性だ。これほどまでに可愛い生き物もそうそういない。そして自分の愛情に対してここまで横柄に振舞う生き物も中々いない。やはりどこかで躾を間違えたのに違いない。ルシウスはぎゅっと眉間を寄せて、過去を振り返り始める。悶々と考え込む父へダリルが振り向いた。「お父様、そのローブで私と出かけますの?」白を背景に、プラプラと細い足が泳ぐ。
「藪から棒に如何した」娘可愛いよ娘等と考えていたとは他人に悟らせない、憮然とした顔でルシウスが応えた。悟られたら憤死する。
「私の服装に文句でもあるのかね?」

 娘に「並んで歩くと恥ずかしい」と思われるほど貧相なファッションセンスを有してはいないし、又体型や容貌もそうであるはずだ。「お父様の後でシャワー浴びるの嫌だわ」とか「お父様のローブと一緒に洗わないで、特にホグワーツの制服」と言われるのはまだ許すが、「並んで歩きたくない」と言われるのだけは許せない。第一ルシウスの友人たるグリーングラスなど「へえ、うちの娘はまだ僕と一緒に寝てるけどね」なんてトドメを刺して、否酷く不届きなことをほざいている。グリーングラスの娘はダリルと同い年だったはずだ。その二つ下に妹がいることなど忘れ去ったルシウスが娘の冷たさを嘆く。十三歳ともなれば父親と一定の距離をとるのが普通だろう。一般と比べれば、ダリルはまだファザコンな部類である。何しろ、冗談ででも父親へ「デートしましょう」などと言うのだから。
 第一ファザコンでなければ父親のローブへケチなどつけはしない。

「文句じゃあありませんわ」ダリルは父のローブの胸元にある宝石細工を視線でなぞる。ダリルには銀と緑のものしか贈らない癖、当人はここの所金細工に凝っている。「私が贈ったボタンで仕立てたローブ。このところ全く着てらっしゃらないようですけど?」
 ルシウスは同じ服を何年も何年も着たりはしない。どんなに気に入っていてもワンシーズン限りで、殆どのものは捨ててしまう。しかし娘はそんなことでは納得しないはずだ。それに着替えが面倒だからと「捨てた」なんて嘘を吐けば事は一層抉れるに違いなかった。
「お父様の身長も体型も一昨年から全く変わってないってお母様が言ってらっしゃったわ。着れなくなったわけじゃないんでしょう」
 ダリルがじとりとルシウスを睨んだ。手前味噌のようだが、一昨年のクリスマスにルシウスへ贈ったボタンというのは中々に洒落ていて、ルシウス好みのシックなデザインによく合う。自分の分も買っておけば良かったなと思うほどに素敵だった。尤も普段使いにするには大人びているので、パーティへ然程顔を出さないダリルが持ってても仕舞ったままになっただろう。何よりもそれなりの重厚感を持つデザインを纏うにダリルはまだ幼すぎるし、自分が纏うより他人が着ているのを見るほうが楽しい。
「着替えてらして」ダリルはルシウスの胸に指を突きつけ、全く悪びれたところのない声音で迫った。
 娘の要求にルシウスは襟元を整える。娘のセンスにおもねるほど親馬鹿ではないつもりだ。それに年長者としてのプライドがある。
「私の――」センスにケチをつけるのかね。憤然と口を開いたルシウスへ、ダリルが畳み掛けた。「デートだって約束しましたわ」
 父親は、その台詞に弱い。
「私、去年のクリスマスにお父様から贈って頂いたサマー・コートを今日おろそう、一昨昨年に頂いた髪飾りを付けようって昨晩すっごく考えたんですからね」確かに洋箪笥の前にある衝立には見覚えのある衣類が掛けられていた。どれもルシウスの贈ったものだ。
 十三年せっせと――ルシウスの割りに――積極的に子育てへ手を出しただけあって、ダリルは自分の扱いに長けている。一方ダリルの扱いは身につかないままだ。自分を掌の上で転がすような娘に育てた覚えはないが、結局甘やかしてしまう。

「……分かった。着替えてこよう」

 ルシウスは椅子の背もたれに寄りかかり、浅くため息をついた。
「女の支度の長さは身に染みて知っているつもりだが、お前はいつも私の考えを覆す」
「良かったじゃありませんか」ルシウスのからかいへ、ダリルは肩を竦めて悪戯っぽく微笑った。ギイとスプリングを軋ませながら立ち上がる。「これで、お父様とのデートが楽しみで寝坊してしまった淑女に対して一層紳士的に振舞えますわよ」
「馬鹿を言うものではないぞ。お前達以外の女と出歩くような愚かを仕出かしたら、私は地上に存在していられない」
 昨日のパーティでまた夫婦喧嘩の火だねを拾ってきたルシウスの言う事には重みがある。

 三人から聞いた話によると、どうもルシウスが会場に飾ってあった薔薇を摘んで、どこぞの娘の頭に飾ってやったらしい。それをナルシッサは「色目を使った」と責め、ルシウスは「頭飾りを落として落ち込んでいたから」だと反論した。第三者的立場にあるドラコ曰く「如何でも良い」とのことなので、ダリルもドラコの意見におもねる。ドラコがそう言うのだから、如何でも良いことなのに違いない。
 ルシウスから己が如何に妻から冷遇されているか零されるたび「お母様も、お父様にあれだけ愛されてるのだから、もう少し手綱を緩めたって良いのに」と思う。とはいえ、それは子供の意見だ。妻と言う立場から十五年寄り添い、浮気やら何やらを見守り続ければ意見も変わるかもしれない。ルシウス自身は「結婚してから浮気も何もしていない」と主張しているが、それにしてはナルシッサの態度が冷たすぎる。二人の意見や態度等を纏めるに、一度か二度はしているんじゃないかなというのがドラコとダリルの見解である。

 まあ、親の意思で結びつけられた割りにいつまでも愛し合い嫉妬しあうのは素晴らしいことだ。多分。昨晩の言い訳をぼやきつづけるルシウスに、ダリルはやれやれと頭を振った。ベッドから立ち上がり、衝立へと歩いていく。ネグリジェのボタンに手を掛けて一つ解いた。振り向く。ルシウスはベッド脇の椅子に腰かけたまま、ちょっとも動いていない。ダリルの眉間に軽くしわが寄った。
 ネグリジェの下には何も着ていない。ヴォルデモートの付けた印はかなり広域に及ぶため、そのままそこにいられると見える可能性がある。ダリルは胸元のボタンへ手をやったまま考え込んだ。ルシウスはまだ昨晩の言い訳を続けている。これだけ言い訳するってことは、ちょっとの下心はあったのね。いやそれは如何でも良い。そこらへんはナルシッサとルシウスと色目を使われた誰かに任せよう。今はどうやってルシウスを部屋から追い出すかだ。「着替えるから出て行って」と言えば、まあ出ていくだろう。しかし今のルシウスへ素直に「出てって」などと言えば面倒なことになりそうだ。洗濯やら色々なことを引き合いに出されて、最悪「何故急に私の前で着替えなくなった」などと問われかねない。昨年の夏、ルシウスに着替えを手伝ってもらった自分を絞殺したいとダリルは思った。そうやって数秒ほど思案した結果、ダリルはルシウスに聞こえるよう大きなため息をついた。己を捉える薄青の瞳へ、にっこり笑って見せる。
「お母様があんまりに締め付けるから、お父様は私を愛人のように扱うのね」
 これはこれでまた別の問題が発生しそうではあるが、自分が父の浮気性をからかうのはいつものことだ。
 ダリルは何気ない風を装ってボタンから手を離し、棚からブラシを取った。クルクルと柄を弄ぶ。
「ダリル」思った通りルシウスの眉間のしわが悲劇的な深さに達した。
 ルシウスが反論を口にするより早く、ダリルが手の中にあるブラシで指す。
「目の前で娘が着替えるというのに、どれパイプを蒸かすかとソファに深く腰掛け直すのが父親の振る舞いですか」
「まだ出してもいない」ルシウスは両手を開いて見せた。
「まだって如何いう事ですの」
 もっと良い言い訳があったんじゃなかろうか。ダリルのツッコミにルシウスはバツの悪そうな顔をする。そのまま僅かに逡巡していたが、結局腰を上げた。「分かった。出て行こう」ふんと鼻を鳴らすと、バサとローブを翻した。
「しかし言っておくが、目の前で娘が食事をするというのにパイプを蒸かすような私ではないぞ」
 ドアノブを乱暴に回しながら捨て台詞を吐く。「どこでそんな言葉を覚えてきたのか、後でゆっくり問いたださせてもらおう」
「お父様、私の支度が終わるまでにローブを着替えておいてくださいね」ダリルはルシウスの台詞を無視して、如何でも良い話題を口にする。「あと日刊預言者新聞から気になる記事を切り抜いて、開かずの長持ちを整理してから、ゴブストーンでも磨いててくださいな」
「ローブを着替え終わったら、私は一人でダイアゴン横丁へ行くぞ」
「酷いわお父様。私との約束は薔薇の君と逢引するための隠れ蓑だったのね?」
「馬鹿者、誰がそんなことをするか!」
 肩をいからせて去っていくルシウスへ、ダリルはクスクス笑った。その背を見送って、完全に姿が見えなくなってから後ろ手に扉を閉める。ふーと、長い息を漏らす。「まだ二か月もあるわ」長い夏休みが恨めしいのは去年も同じだったが、今年は倍だ。

 スネイプが隠せ隠せと言うし、自分だってルシウスに知れれば面倒だとは思っているから頑張ってはいる。でも、家族へこうまで必死に隠さなければならないほどのことなのだろうかと疑問だった。愛されている。大事にされている。ダリルを害しはしないだろうし、話せば理解してくれるはずだ。ダリルは扉に寄りかかったまま、ネグリジェのボタンを全て外した。露わになった印へ指先で触れる。
 話せば理解してくれる。話せば――でも、話そうとさえしてくれない人が殆どだ。深ければ深いほどに語るを拒むが普通だろう。それに語ることで過去の己を否定せねばならぬ時、聡明なハーマイオニーでさえ口が重くなる。何よりも語って理解されないこともある。ダリルだって、理解されることはないだろうという言い訳から多くを黙してきた。ハーマイオニーや、ハリー、フレッド、ジョージ。そして語れば傷つけるだろうという考えから、セドリックやドラコ、ルシウス、ナルシッサに黙している。

『君の腕や足がなくなったら僕は不幸だ』
『私が不幸になるのは構わないと、そういうことか』
 ――語ることで傷つくのは誰だろう。

 私はトムと共に消えたい。後戻りが出来る出来ないの如何ではなく、あの人を見捨てられない。見てしまった。知ってしまった。私だけ残ってしまった。クィレル教授の時も、トムの時も、私だけ残ってしまった。私だけ、何も出来なかった。何もしなかった。だから今度失う時は私も消えたい。それはお父様の言う通り傲慢な考えだ。私を大事にしてくれる人の考えを全て踏みにじった望みだ。それで良いんじゃないかと思っている。離れれば、別れれば、やがて忘れることが出来る。開いた穴を誰かが埋めてくれる。私の代わりは幾らでもいる。

『私と出会わなければ、』
 黙したまま消えた私は、大切な誰かの夢のなかで同じことを口にするのだろうか。

 ダリルは扉伝いにズルズルと床へ座り込んだ。ルシウスの声が耳朶を擽っていく。恐ろしい夢でも見たのか? 私の幸せのためだからと、大事な誰かから突き放される夢をみた。そう打ち明けることさえ出来なかった。ひょっとすると己が見た夢をやがて父も見ることになるのかもしれないなどと思って、言葉に出来なかった。涙を数粒零すほどに寂しいなんて、そう思ったのを我儘だと感じた。
 きちんと別れるから、人は人を忘れられる。無言で、不器用に消えた人を忘れるのに幾年かかるだろう。
 あれから一年と少し経った。ダリルはまだクィレルの声を覚えている。影を探している。

 家族に、セドリックに、ダリルは同じ想いを強いるのだ。
 少なくとも一年と少しの間は、彼らもダリルを忘れはしないだろう。――喪失の痛みも、生々しく残るだろう。
 

あなたのせいじゃない

 
 


七年語りLULL BEFORE THE STORM