七年語り – LULL BEFORE THE STORM
20 めんどうごと
魔法使いにとって杖は尤も身近なものであり、象徴と捉えられることさえある。
杖と魔法使いとは密な関係であるが――否“だから”と言うべきなのかもしれない。近しいからこそ見失いがちで、深く語ることが出来ないのだろうか。多分にレイブンクロー寮生達に「杖とは何か」と問うたところでホグワーツの通路に並ぶ銅像や甲冑の類を一つ増やすことにしかならないだろう。彼らが口ごもるということはつまり「解なし」であり、「哲学的カットウ」に他ならぬ重さを持ち、尚且つ「最近ちょっと不眠気味なんだ」「あーら、それって夜遅くまでゴブストーンを突っついてるからじゃあないの?」「眠れない? レイブンクロー寮の奴らと軽くお喋りでもしてこいよ」なのである。要するに話題にするだけ無駄と言うものだと、世の中の大多数を占める愚者でも賢者でもない中間層はそう考えている。やや愚者に近いとはいえ、ダリルだって“杖のフカシギ”なんて如何でも良いのだ。しかし不運にもダリルの大好きな学年主席さんは“杖のフカシギ”に興味がある。ハリーとロンがどの層の人間かは分からないので置いておくとしても、二人がグレンジャー先生の調べ学習を嫌っているのは明らかだった。生贄の定員は一人、グレンジャー先生が好きなのも一人。グリフィンドール寮の談話室は平和だ。ソファに座ったまま舟を漕いでいた男子生徒の鼻が肥大化する等のユーモラスな事件は連日発生するものの、争いはどこにも起きない。ダリルは喜んで課外授業に参加した。わけのわからんことを聞かされながら、ダリルは一生懸命に喜んでいるふりをした。ついでに「ハーマイオニーは何故杖なんかに興味を持つんだろう」と、少し運命を呪ったりもした。この疑問はいささか解の容易なものであった。
「何でもかんでもタブーだ何だって言うのは文明の発展を妨げると思うわ」
ダリルのフォローをハーマイオニーは「日和見論だわ」(貴女っていっつも後回しにしようとか、歯車をつっついたら動かなくなってしまうとか言うばっかりで、論理的じゃないのよね)と言うけれど、“極論”と“断定”だけは避けてくれるようになった。
ロンとハリーが寝坊したことから如何紆余曲折して文明の発展に至ったのだろう。この広い大広間に、グレンジャー先生の講習会を取っている生徒はダリル一人だった。和気あいあいとトーストやフレークを楽しむ人々のなかで、二人は辛気臭い顔を突きつけあっている。「ユニコーンの血に触るべからずなんて古臭い言い伝えのせいで、魔法薬の発展は数十年遅れたんじゃないかしら。勿論ユニコーンを害することは罪深いわ。でも――これを見て」現代・魔法使いジャーナルという分厚い冊子が朝日を遮った。表紙を飾るハンサムな魔法使いがダリルにウインクする。その脇に並ぶ文字列の一つをハーマイオニーの指がトンと叩いた。「魔法薬、ついにタブーを破る……! 英国高等魔法薬研究局が発表したところによると、ああ、駄目、兎に角これを読んでみて……素晴らしかったわ」ダリルの視界の隅でジニーがシリアルを噴き出した。彼女の逃げ足の速さはきっとウィーズリー家で一番なのに違いない。
「ええ、その……とっても楽しみ」手渡された冊子の重さにダリルの笑みは引きつった。「でも私、」ちょっと理解出来ないかもしれない。
「そうじゃないの」ハーマイオニーはダリルの台詞を聞きもしないうちから反論した。
右から左へちくわを通らせたダリルの視界の隅では、ジニーがジェスチャーを続けている。頭の周りで手をふわふわさせ、そうしてから真面目くさった顔を作る。突き立てた人差し指を振って見せた。喉から変な音が漏れる。ダリルはさっと現代・魔法使いジャーナルを開き、水着の広告を熱心に眺めた。「まあ……本当に、素晴らしいわ。すっごく大胆」ダリルは最新スタイルの海水パンツを褒めた。ハーマイオニーが満足そうに頷いて、口を開く。古くからの言い伝えというのは殆ど形骸化してしまっていて、そんなのはジャガイモの皮だけを食べているのと同じようだし、幽霊を怖がる子供みたいに幼稚なことだ。首なしニックは「ジャガイモの皮にも栄養はあるらしいですな……」と呟いて、ハーマイオニーの背後を通り抜けて行った。ダリルは海水パンツの写真に顔を埋め、震える声を紡いだ。「ほんとうに、その……ゴホッ、っく、す、素晴らしい研究だわ――フッフフッ、この雑誌って本当に素敵なのね」
「ああ、分かってくれて嬉しいわ」ハーマイオニーが瞳を輝かせる。「きっと貴女なら分かってくれると思ったの……」
嘘は嘘を呼び、こうしてダリルは万物に関心のある、この人並み外れて賢い友人に付き合わされるのであった。
知能指数が段違いな友人と話していると、相槌しか打てないものだ。しかし彼女の意見をずっと聞いている内、分かることもチラホラある。マグル生まれ故のズレというのも、その一つだった。ハーマイオニーの知的好奇心についていけないダリルは、彼女が変身術のメカニズムや新薬について語っている時間で、自分達の差について考える。何故ハーマイオニーは杖に関心があるのだろう。何故自分や、周囲の人々は杖に対して深く考えたりしないのだろう――深く考えると、何か心が不安になる。触れてはいけないと、そう感じた。
今は牙を仕舞っている猛獣を手にしているような緊張感。絶えず意識していては暮らしていけないから、忘れたふりをする。
自分が杖に深く関心を持たないのは、そんな理由なのじゃないかなと、ダリルは論理的でない考えを浮かべた。ダリルは己の考えの正否にも関心はないが、今いるオリバンダーの杖の店は眠れる龍の檻のようだと彼女は考えた。
ダリルは静謐さにキシキシと四肢を締め付けられる感覚に心細くなった。咄嗟に振り向いて、背後の人波にセオドールを探そうとする。冬でもないのに厚く埃を纏った硝子は所々ひび割れていて、遠くまで望めない。セオドールは歩くのが早かったとダリルは思い出した。ダリルのように、人垣へつかえて上手く進めないということもなさそうだ。
ふーっと深呼吸すると、ダリルは窓枠から数歩離れた。ぐるりと青灰の視線で店内を見渡す。小さい店だった。あと四歩進めば帳簿台の隣で、帳簿台の脇には薄暗い通路がある。扉を開けたとき、奥からベルの音が聞こえた。すぐに店主が現れるだろう。
ダリルは踵を返し、床板を踏みしめた。鍵盤のように浮いた床板を踏んだときも平らなところを歩いたときも平等に、ギッギッと、木が鈍く軋む。短い店内を殆ど横断したダリルは、入口近くの椅子へ腰掛けた。が、嫌な音がしたのにぱっと立ち上がる。腰を屈めて、椅子の下を覗き込んだ。
「前足にひびが入ってる……」
「いらっしゃいませ」脇から聞こえてきた声に、ダリルは体勢を崩した。
尻もちをつく前に、一瞬の判断で椅子へ抱き着くことが出来た。呆然と見上げるダリルを月が――否、月は一つだけだ――月光のように淡い銀の瞳が見詰めていた。「こ、」ダリルは鈍く痛む足を立たせながら、錆びた喉へオイルを差した。「その、こんにちは」
オリバンダー老人は帳簿台の脇にひっそりと立っていた。お年の割に足腰がしっかりしていそうだなどとダリルが考えていると、向こうも何か思うところがあったのに違いない。しわの刻まれた顎を人差し指の腹で撫ぜた。「ふうむ」
「杖を買うには大分遅いようじゃが……」そう独り言めいて呟いてから、場をとりなすように頭を振った。「いや、買わずに済ませるのだろうと思っていただけに嬉しい訪問ですじゃ」ダリルはドラコがオリバンダー老人のことを「不気味な変人」だと称していたのを思い出した。不気味とまでは思わないが、変わっているのは確かだ。他人に対する警戒心の高いドラコにとっては十分不気味に見えただろう。大体ダリルだって、知らない人に自分のことを色々知られているのは楽しくない。オリバンダーの店に予約を入れた覚えはなかった。
慣れているのか、オリバンダー老人はダリルの表情へ何の反応も返さない。ただ人の良い笑みを浮かべて、
「杖腕はどちらですかな?」
この人は少し変わっている。ダリルは改めてそう思考に浮かべると、警戒心を解いた。
「いえ、私、まだ杖を買うと決めたわけではないんです」先よりも柔和な声でオリバンダー老人の早合点を否定する。
ルシウスは買う事を前提としていたが、ダリルとしてはまだ迷っていた。二年連れ添った杖で、それなりに言う事を聞いてくれる。自分に合う杖を買った方が良いと分かっていても、この平和のただなかで、思い出は捨て難い。
ダリルの躊躇いへ、オリバンダー老人は拗ねた子供のように口を尖らせる。
「わしは、親族の杖を受け継ぐ風習は廃れて然るべきだと思っておる」
如何してオリバンダー老人が機嫌を損ねたのか、ダリルには分からなかった。杖のことなど詳しくない。それが風習なのか如何かさえ分からなかった。杖の事に関して相談に乗ってくれるだろうと思った相手から説教染みた台詞を聞かされ、ダリルは動揺する。
「杖をアンティークか何かのように思っているのなら、それはあまり褒められたことではなかろ。え?」
問いかけではあるものの、他人の意見を聞く気はないようだった。答えはもう出ているし、途中式への信頼も、己の知恵についての自負も十分なのだ。それで何故他人の意見を聞く必要があるだろう。寧ろ本気で聞かれたのなら、余計困る。
勿論魔法使いたる者として良い杖は持っていて良いものだ。それに年長者で、しかも自分より確実に賢い人の意見は聞くべきだとも思う。しかし道は一つではない。確かに二度三度の詠唱を必要とするけど、使えるには使えるのだ。ダリルは浅く俯いた。
なるたけ思い出を手離したくないと思うダリルは、まだ予言にも似た憶測を理解しきっていない。いつかヴォルデモートが蘇った時に備えて良い杖を持っておくべきなのだと、自然な思考でそう納得することが出来ないでいる。曇った硝子の向こうを往く人々は平和で、ダリルもついさっきまでセオドールと共に道を歩いていた。扉はノックなしには開かない。例えばダリルの内にあるリドルの記憶と同じように、彼女自身のものであるはずの自覚も、諦念も、絶望も、切っ掛けなしには溢れてこなかった。
「杖を軽んじたつもりはありませんが、私なりに思い入れのあるものです」
結局ダリルは問いではなく、己の希望を口にすることにした。ショルダーバッグの紐を両手でぎゅっと握りしめる。
「そりゃ、良い杖を持っているほうが良いとは思いますわ。それでも、ニワトコの杖を求めるほど貪欲じゃありません」
著名な童話をもじって皮肉った。ダリルは三人兄弟の物語をあまり好いてはいなかったが、それでも内容は覚えている。そういう話だった。好き嫌い問わず人の記憶へ直接刻まれるような、そういう有無を言わせぬストーリー展開が苦手なのかもしれない。兎に角ダリルは決めつけられることや束縛されることが嫌いだった。愛しい人のためなら堪えるが、残念ながら初対面の相手や見ず知らずの作家を愛せるほど大人ではなかった。ポツポツ呟くダリルを月が二つ見守っている。
「二年間一緒にいました。……私の杖です」そう言いながら、ダリルの心中は後悔が満ちていた。最近売り言葉に買い言葉が多い。ダリルは心中ため息を零す。思春期なのかもしれない。第二次性徴期が来たら胸も育つかな。
「ふうむ」
オリバンダー老人は考え深げに声を出したが、「しかし何か問題があったから来たのでは?」間もなく正論に気付いた。
「う、」ダリルは顔の筋肉へ力を入れると、顎を引いた。床板の傷を数えて気を紛らわそうとする。「その、まあ、ええと……」
「ちょっと使い難いなあと、合っているか見て貰おうと」
他人の店までやってきて喧嘩を売りに来たのかと言われた気がして、ダリルは深く恥じ入った。店に来ていながら「杖を買うかは迷ってます!」なんて、馬鹿にするにもほどがある。しかし、でも、オリバンダーの杖の店では修理点検も受け入れているはずだ。勝手に購入するのだと決めつけて掛かるから……ダリルは羞恥心を隠すために責任転嫁について考えこんでいたが、オリバンダー老人は実にマイペースだ。意外にもあげ足を取る気はないらしく、なるほど、なるほどと、繰り返している。大人だ。いや、そりゃ大人なんだけど。
オリバンダー老人はダリルのほうへ数歩歩み寄った。
「まあ親族であれば杖が誤認を起こすこともあるし、それなりに働くのなら使い続けて問題はないじゃろう。どれ」手を差し出す。
ダリルは慌てて鞄のなかを漁った。「――どうぞ」やがて見つけ出した杖の持ち手を向けると、オリバンダー老人が奇妙な顔をした。感情の起伏が見て取れるが、それが如何いった種類のものなのか分からない。小首を傾げたダリルへ、オリバンダー老人は「ちと記憶がごっちゃになって……」と誤魔化した。ポリと短い爪で頬をかいてから杖を受け取った。杖――細工部分に顔を寄せる。
「――黒檀にバジリスクの鱗、長さは三十センチ。振り応えがあり、闇の魔術に対する防衛術に最適」
あんまりにスラスラ言うものだから、ダリルは細工部分に何か目印でも彫ってあるのかしらと思った。オリバンダー老人から返された杖を矯めつ眇めつしても、ダリルには何も分からない。「あなたのひいおじいさんの杖じゃな。この杖を売った時のことはよーく覚えておる」
そうぼやいたオリバンダー老人の焦点はダリルから外れていた。何か言いたげに顔を歪めて、ゆるゆると話しだす。「この杖自体はわしの父の作品じゃが、この細工仕事はわしがした」ダリルの手の中にある杖を、器用そうに細長い指で示す。「図案が細かくて、父に叱られながら幾度練習したかのう。その甲斐もあって気に入られたのか、しょっちゅう杖を見せに来ましたな」
ふーと、吐息が長い。ダリルにとっては顔も知らない、半ば記号めいた人物ではあるが、オリバンダー老人にとっては思い出なのだろう。ダリルは自分の曽祖父と目の前の老人の若い頃を想像しようとしたが、叶わなかった。
「この杖は君に合わんじゃろう」
「でも、オリバンダーさん。まだ振ってもいませんわ」思索から戻ってきたダリルが反論する。オリバンダー老人は頭を振った。
「振らずとも分かる。この杖は君へ従順にならぬよ」
月光染みた視線がダリルの手の中の杖に注がれた。「この杖は君の杖ではない。……そして疾うにあれのものでもない」感情の滲んだ声音に、ダリルはこの老人から曽祖父の話を聞いてみたいように思った。次の台詞がもうちょっと遅かったら実際聞いていただろう。
「二年もよくこんな杖を使えたものじゃ」オリバンダー老人はため息とともに吐き捨てた。
そりゃ使いにくい。使いにくいけど、でも、あんまりな言い様じゃなかろうか。ダリルはぽかんとした。「それは……その、」
ここで杖を買った人だって二度三度の失敗は付き物だ。ダリル自身の問題である可能性もあるのに、杖を見ただけでハッキリ相性の良しあしが分かるものだろうか。ダリルはちょっと悩んだが、結局杖のことは分からない。それに自分の希望は伝えたのだ。オリバンダー老人も理解を示してくれた。己より賢い人へやたらと――これ以上逆らうべきではない。
「君は新しく、君を選んでくれる杖を買うべきじゃよ」
「……はい」
ダリルはしっかり頷きながら留め具を外した。オリバンダー老人の視線の絡まる杖を仕舞う。視界から杖が消えるとオリバンダー老人はほっと息をついた。「そう、自分に合う杖を使うのが一番良い」にこっと歯を見せる。「良い杖を選んで差し上げますでな」
すっかり上機嫌で、オリバンダー老人は踵を返した。帳簿台のほうへ数歩進む。狭い店だ。十五歩もあれば端から端まで行ってしまうに違いない。オリバンダー老人がこちらへ振り向く前に、ダリルはそっと問いかけた。
「この杖が誰を選んだのか、知っておられるんでしょうか?」
「憶測に過ぎんが、名を言うことも出来ん」顔だけで振り向くと、オリバンダー老人はぶっきら棒にそう零した。話はそれでおしまいだった。如何いう事だろうとは思ったものの、「さあ、こちらに」と言われればそれ以上聞いてはいけないように思った。
ダリルは釈然としない気持ちのままオリバンダー老人に近寄り、杖選びを始めた。
「それではマルフォイさん。拝見しましょう」
オリバンダー老人先の事がなかったように微笑んで、ダリルの右腕へ巻尺を当てる。「杖腕は右ですな?」
「ええ」ダリルは形ばかりの相槌を返した。巻尺に測定を任せると、オリバンダー老人は空いた手でポケットの中に入っていた羽根ペンを取り出す。巻尺が算出する数値を棚に掛けられた大きなメモ帳に記録し始めた。どこかで見かけた名前の下にダリルの腕の長さや身長、スリーサイズが記されていく。帰りしな千切って行こうとダリルは思考の余白へメモを取った。
「もう良い」オリバンダー老人が合図を出すと巻尺は床に落ち、くしゃっと丸くなった。「ふむ、これなんか良いかも知らん」メモを覗きながら、慣れた手つきで小箱の山の一つを取り出す。「柊にドラゴンの心臓の琴線。十七センチ、良質でしなりやすい」
手渡されるままに振ってみた。何も起きない。もう一度振ろうとした瞬間もぎ取られた。「マホガニーに、セストラルのしっぽ毛。十五センチ。やや歪んでいる。さあ、お試しください」ぐいっと押し付けられる。オリバンダー老人の左手はさっき試した杖を仕舞い、帳簿台の上にぽんと置いた。器用だとダリルは感心する。杖はウンともスンとも言わない。「これをどうぞ」ぱっと杖を交換された。
「紫檀にフェニックスの尾羽。十九センチ。素直な振り心地」
そう説明しながら杖を取り上げる。
「柳に、ドラゴンのひげ。二十八センチ。柔軟性に欠ける」
「柊に、ヒッポグリフの羽。三十二センチ。しなやかだが、やや太め」
「ぶなの木にハーピーの舌。二十一センチ。力強い」
帳簿台の上に箱が積み重なる度、ダリルの不安も増していく。「あの……」私、ひょっとするとまだ魔法が使えないのかもしれません。なんて言うのは、まだ止めておこう。大体ホグワーツや秘密の部屋では使えていたじゃないか。急に使えなくなるわけがない。しかし不安は消えなかった。万が一ということもある。緊張と恐怖からダリルの胸が苦しくなった。「あ、あの……呪文を唱えても良いですか?」
「いかん」オリバンダー老人がきっぱりと却下する。
「心配なされますな。中々決まらないという方もよくいらっしゃる」オリバンダー老人はニコニコ笑いながら、ダリルに杖を突きつけた。「貴女にピッタリあうのを見繕ってさしあげますでな。楓にユニコーンのたてがみ、二十四センチ」
反応なし。オリバンダー老人は杖をさっと取り上げて、帳簿台に築かれた山を高くする。「ふうむ。ちと頑固な方のようじゃし、硬めのほうが良いかも知らんのう」キビキビとした動きで梯子を上るオリバンダー老人へ、ダリルはため息を吐いた。
クイックスペルの参考資料を取り寄せようか悩み始めてから十分、ようやっとダリルの魔力が働きだした。
ダリルが杖先で宙に弧を描いた途端に棚という棚から箱が吹っ飛び、ランプは割れ、椅子が爆発した。ああ、さぞかしフレッド達がこの杖を面白がるだろう。シェーマス・ビッグボム・フィネガンに弟子入りしたのかとか何とか言われるはずだ。ダリル・リトルボム・糞爆弾・マルフォイ――今時王族だってこんなシャレた名前は持っていない。容赦なく舞い踊る埃と未来予想図に目頭が痛む。ダリルは口元を抑えながらゴホゴホ咳をした。腹をくくって、くぐもった声を出す。「お幾らです?」返答は新たな杖だった。反射的に振る。反応はなし。
「実に選び甲斐がありますな? え?」仏頂面のダリルと逆に、オリバンダー老人は嬉しそうだった。この人と感性が合う事は生涯なさそうだと、ダリルは額を抑える。一方のオリバンダー老人は軽やかな足取りで、あたかも花の蜜を吸うハチドリのように杖を選んでいる。その片手間で散らかった店内を片しているのだから、大したものだ。亀の甲より年の功という言葉がダリルの脳裏に過ぎった。
オリバンダー老人の左手は杖選びに夢中だが、右手は家事魔法――清掃系の魔法は大抵家事魔法に分類されるためこの魔法もそうだろう。呪文が聞こえないといまいち判別しがたい――無言呪文を何でもない風に使いこなしている。
よっぽど店を荒らされなければ、こんなにヒョイヒョイ片すことは出来ないだろう。両腕一杯に箱を抱えるオリバンダー老人の背を見つめ、ダリルはぼんやり己を宥める。杖選びは大事なことだ。誰だって手間取るに違いない。よくあることなのだ。
悶々と考え込んでいると、コツンと頭に硬いものが当たった。擬音で言うと軽やかな風でさえあるが、物凄く痛かった。ダリルは頭を押さえて蹲る。「どうなされました」オリバンダー老人が振り向いた。「なんでも、ないです」ダリルは足元に落ちた己の杖を拾ってポケットに入れる。オリバンダー老人が杖を振ると、ダリルの目の前に投げ出された空箱が元あった場所へ戻って行った。
「腫れてますかな」
ダリルはさすさすと頭を撫でる。「いいえ、大丈夫」まだ疼痛は残っているものの、じき引くだろう。
「それは良かった」オリバンダー老人が微笑みと共に杖を差し出す。「さあ、どうぞ」
数十本目の杖を受取ろうとした瞬間、奥の方で高くベルが鳴った。オリバンダー老人がダリルの背後へ視線を滑らせる。ダリルも振り向いた。「いらっしゃいませ」
ルシウスは鷹揚に頷くと、杖で床を叩いた。とんと木を叩く音に、ぎいと傾ぐ床板。それから、ふうと、深いため息。
「あら、」ダリルが小首を傾げた。「もう少し遅くに――」くると、思っていましたのに。
「杖選びは後日だ」ルシウスは急いた響きでダリルの台詞を遮った。クイと、手招きがダリルを呼ぶ。「来なさい」
ダリルはオリバンダー老人とだけは生涯感性が合うことはないだろうと思ったが、二人がきょとんとしたのは殆ど同時だった。しかしそこは年の功で、オリバンダー老人はさっと、営業用の、全てに無関心そうな笑みを作る。
「またのお越しをお待ちしていますよ。心から」後半部分をダリルに向けて言うと、軽くお辞儀した。
ルシウスも会釈を返す。「失礼する。騒がせたな」また奥でベルが鳴った。
早足で歩き去る父の背を追って、ダリルも店を出た。くすんだ硝子の向こうからペコリと頭を下げる。オリバンダー老人が手を振ってくれたのに僅か頬が緩んだ――状況はひっ迫して行く一方だったけれど。通りを歩く人々の視線がチラとルシウスを掠めていく。ルシウスはピリピリと、淡い殺気をまき散らしながら大股で歩いていた。ダリルは黙々と足を動かすルシウスの背を見て、ため息を零す。
さて、如何したものか。
「お母様から離婚届でも届きましたの?」
ダリルがそう声を掛けると、ルシウスの歩く速度が緩んだ。急いで横に並ぶ。
「訳有りだ」冗談で和ませることが出来ないかなと思ったが、そんなことで如何か出来ることではないらしい。ダリルの顔も曇った。「……如何いたしましたの?」
「つくづくお前には“厄介ごと”のご加護が纏わりついているらしい。あながちお前の言い訳も嘘じゃあないようだ」
何と行って良いか分からなくて、黙り込む。不安そうな娘を見下ろすアイスブルーの瞳は優しかった。「……すまない、少し苛立っていた」ぽんと、ルシウスがダリルの頭を軽く叩く。そうしてからはーと、今日一番大きなため息を吐いた。
「馬鹿共の尻拭いだ。これが終わったらまっすぐ家へ戻る。欲しいものは後でリストに纏めて、私に渡しなさい。お前を連れてくるのではなかった」
愚痴と予定と連絡と悔いの混じった台詞に、やはりダリルは口を噤んだままでいた。何が何だか分からないのだ。八つ当たられているようにも感じるし、苛立っている父を見るのも辛いし、如何にかして父の機嫌を直したいとも思って、頭のなかがごちゃごちゃになる。
ルシウスが杖で道に転がっているビンを打った。遠くまで転がって行ったビンを、男の魔法使いが踏む。体勢を崩して、石畳へ背を強かに打ちつけた。痛そうだ。そう言う風にぼんやり視界へ映っていた景色が、ルシウスの台詞に薄れる。
「これからノクターン横丁へ向かう。女の子供が入用らしい――口の固い、な」
動揺や怯えよりも先にダリルの心中を満たしたのは、「やっぱり八つ当たりじゃないか」という理不尽な気持ちだった。
七年語り – LULL BEFORE THE STORM