七年語り – LULL BEFORE THE STORM
21 狼の節制
フェンリール・グレイバックは人狼だ。
一応杖を持ってはいるが、彼をきちんとした魔法使いとして扱う者は殆ど誰もいない。ただ一人の例外を挙げるとすれば、それはヴォルデモートだっただろう。誰よりも人狼を嫌う人々の上に君臨しながら、“そうでないもの”を重用することへ躊躇わない男だった。辛うじて杖を持つことを許される人狼のみならず巨人や吸魂鬼をも己が陣営へ加えたのは、恐らく今までに例のないことだ。そしてこれからも、それらを従えることの出来た男は彼だけだろうとフェンリールは思っていた。変人であると同時に稀な才能を有した男だった。あんたは変わったお人だと肩を竦めるフェンリールへ、ヴォルデモートは「適材適所という言葉がある――尤も、お前は知らぬらしいが」と低く笑った。尤も掛けられる言葉の端々に蔑視は伴っていたが、フェンリールは別段気にしはしなかった。彼は人権家ではなかったし、それどころが偽善というものを酷く嫌悪していた。憎むまでの関心を持っていないとはいえ、彼にとっては確実に侮蔑の対象たりえた。
まだ若かった頃(幾ら悪名高きフェンリールだって子供の頃がなかったわけではない)フェンリールへ同情してくれた魔法使いは少なくなかったが、そうした優しい人々は彼が思う通りにならないと見るや足早に去って行った。彼らは一時の善意に酔いたいだけなのだと、フェンリールはごく幼い頃から理解していた。さっと手を差し伸べただけでフェンリールが感謝すると、そんな馬鹿げたことを考えている。勿論フェンリールは差し出された指へ思い切り噛みついてやった。“お優しい”人々から跪いて助けを乞うよう強いられるのには反吐が出る。偽善に囲まれるぐらいだったら、まだヴォルデモートや純血思想の魔法使い達から見下されたほうがずっとマシだ。
それにフェンリールは“人狼でなかった自分”や、“一介の魔法使いを取り巻く環境”というものを覚えていない。気が付けば獣同然に扱われる世界があり、善悪以前に「こんなものなのだ」と感じていた。美しく白い皮膚の下に赤黒い細胞があるのと同じで、この世界だって薄い膜に誤魔化されているだけだ。フェンリールはその膜をビリと破いてやる度に如何しようもない快楽を感じるのだった。
膜を破る方法は、年を追うごとに変わって行った。最初は自分を見下していた、気に食わない奴をちょっと噛んでやる程度だった。痛みと動揺から曝け出される本性に幼いフェンリールはにやにや笑ったものだ。彼の残酷さを指して「獣」だとか「知恵おくれ」だのと非難を受け、実際フェンリールも己を獣のように感じていたが、彼がもっと愚かであったなら今よりずっと穏やかな気性であったはずだ。
フェンリールは単に気に食わない奴を噛むより、その大切な何か――例えば可愛らしい恋人やあどけない子供を台無しにしてやったほうが面白いと考えるようになった。大体そいつらの肌のほうがずっとやわらかいし、血の味も上等だ。
完璧な世界に産まれ、幸福に暮らしていくはずの運命が、自分のひと噛みで台無しになる。こんなに素晴らしいことが他にあるだろうか? こんなお楽しみが人生に一度もないなんて、魔法使い共は可哀想だとさえ思った。フェンリールだったら狂ってしまうだろう。
人狼だからって差別するのは酷いことだわ。ええ、そうでしょうとも、可愛らしいお嬢さん。にこりと微笑む少女に手を伸ばして、おもむろにガブリ。先まで美しく笑っていた顔が悲鳴に歪む。満月の夜以外に噛まれても人狼になることはないと知っていても、痛みに取り乱さない生き物はいない。何より満月の夜だろうが朝だろうが、人肉の味はいつだって同じだ。同情を零していた唇が口汚く己を罵るのを聞きながらフェンリールは愉悦を味わうのだった。こんなに楽しい“ご趣味”が一体どこにあるのか? いつしかフェンリールは理性を保っていられる間にも人を襲うようになり、それと比例して狼となった己をコントロールする力を身につけた。
そうしたフェンリールの残酷さがヴォルデモートの気に入りでもあったし、同時に蔑視の理由でもあった。ヴォルデモートはフェンリールのご趣味について耳にする度「醜いケダモノめ」と――そう落とす口元だって薄ら歪んでいるのだけれど――見下ろすように威圧的な視線をくれる。自分のほうがよっぽど醜いなりをしていやがる癖にとは、流石に口に出していったことはなかった。開心術を得意とするヴォルデモートにとってフェンリールの愚痴など分かりきったものなのだろう。ヴォルデモートから特別罰せられたこともない。所詮獣と見限られている面があったし、フェンリールもヴォルデモートへ心から忠誠を誓ってはいなかった。形ばかりのそれが無意味であることを、ヴォルデモートもフェンリールも理解していた。何の印も刻まれていない前腕は、そうした二人の関係をよくよく表している。
闇の印を“頂けない”ことについてはベラトリックス・狂人・レストレンジから散々馬鹿にされたが、死喰い人達と慣れ合わなかったおかげで魔法省の追っ手を撒くのは容易だった。それに魔法省だってフェンリールの罪がご趣味の一部なのか、ヴォルデモートからの指示なのか判別出来なかったのだ。あの当時の魔法省は何をおいてもまず闇の陣営を解体しなければならなかった。
その熱心さは魔法使い達の暮らしを向上させるためではない。疑惑と混乱から失われつつあった権威を回復するため、人狼になどかまけている暇はなかったのである。結果魔法省はこの危険人物を殆ど野放しにしていた――とはいえ、捕まえる気が全くないわけでもない。ただフェンリールの賢しさと人狼と言う立場の不安定さから捕らえることが出来ないだけだ。
己を追う闇祓いや私怨から探す魔法使い達から逃れるため、フェンリールはこの十数年山野に身を潜めている。元々町並みの喧騒を好いていなかったので、不便はない。ただフェンリールは正規の手段で習得していないので、“姿あらわし”すると魔法省に己の居場所を知られてしまう可能性があった。魔法省がどのような方法で魔法使い達を管理しているかは分からないが、少なくともどこで“姿あらわし”たか探知されているのは確かだ。フェンリールは過去の経験から、どのように振舞えば魔法省の追っ手をやり過ごせるかよくよく知っていた。それで「魔法省にとっつかまるのはごめんだ」と言い聞かせながら、徒歩でホッグズヘッドを目指すのだった。
フェンリールが山を下りねばならないのは勿論“獲物”たるヒトが町に暮らしているからだが、それだけが理由ではない。まず食糧を調達する必要があったし、そのためのお金を稼ぐ必要があった。人肉食は食欲によるものというより、性癖に由来するものだ。血渋きはぽっかり空いた頭を満たしてくれるとはいえ、胃袋まではくちいてくれない。悲鳴が尽きてしまえば死肉という生ごみだけが残った。
一時は獣を狩って食べたりもしたものの、早々に飽きてしまった。味覚は一般と同じだ。バタービールが飲みたい。
寄生虫に悩まされているのではと思わせるほど気難しい顔をしたバーテンからバタービールを受け取ると、フェンリールは手助けを必要としている人間を探す。ホッグズヘッドは違法を好いている奴、まっとうなところで暮らしていけない奴の掃き溜めみたいな場所だ。いつだって依頼人は簡単に見つかる――そりゃ勿論平和が積もるうち、選択の余地はなくなった。しかし食い扶持にあぶれることはない――深く被ったフードがフェンリールの凶悪な人相を覆っていようと、臭いまでは隠しきれない。チビチビやっていると、バタービールのジョッキがトンとフェンリールの横に置かれる。やあ、久しぶりじゃないか。挨拶もそこそこに耳打ち、仕事をテイクアウトという寸法だ。
不思議な事にフェンリールを頼ってくるのはかつて彼を嘲り笑った連中が殆どだった。彼らの媚びるような視線にフェンリールは己の選択の正しさを実感する。非合法の暴力に拠ってきた自分にとって、為政はやはり偽善でしかないのだ。
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ノクターン横丁には闇の魔術がひしめきあっているとはいえ、腐っても魔法省の管轄内だ。日に二度は魔法警察パトロールが通りを練り歩くし、事によっては特殊部隊の奴らだって“姿あらわし”するだろう。アラスター・ムーディはもう退職しただろうか? 証拠もないのに(実際その思い込みは正しかったわけだが)フェンリールを死喰い人だと主張し、フェンリールの目撃情報が入るやすっ飛んできたものだ。そのフットワークの軽さから、領域侵犯を理由に魔法警察特殊部隊(他多くの闇の魔法使い達)といがみあっていた老魔法使いは疾うに退職している。しかしフェンリールは「あいつなら棺桶のなかからでもすっ飛んで来るだろうな」と思っていた。
様々な理由によって避け続けていた場所にいる理由は当然御機嫌なものではない。仕事の都合で、長々説き伏せられた故だった。
尤もそうでなければ誰がこんな場所にいたがるだろう? 山野は砂と木端に事欠かないとはいえ、澄んだ風が全てを洗い流していく。しかしこの淀んだ部屋の窓枠はすっかり錆びついていて、紀元前から開け放したことがないのではないかと見る人に思わせた。
フェンリールは舞う埃から逃れるように身を捩った。耳に突っ込んだ指をもっと深くする。足元では子供ほどの大きさの白犬が低く唸っていた。騒音がトリオになったものの、フェンリールは犬を責めようとは思わなかった。犬は耳を塞ぐことが出来ない。
黒く鋭い視線の先では二人の魔法使いが揉み合っている。やたらめったら杖を振り回す老魔法使いを、もう一人の魔法使いが取り押さえようと腕を振り回していた。ぎゃあぎゃあ騒ぐ二人にフェンリールは「床が抜けるのと俺の耳が駄目になるのとどっちが早いだろう」と顔を歪めた。五感が人並み外れて良い彼にとってこの騒音は殺意すら抱かせる。殺してしまえばまた新しい依頼人を見つけなくてはならないと繰り返すことで何とか理性を保っていたが、そろそろ限界だ。犬がさっと飛びのき、フェンリールは“盾の呪文”を張った。ばちっと赤の閃光が弾けて消える。守りが消えるや続けて“足縛りの呪い”、“全身金縛り術”を打った。途端に騒音が薄れた。
「最初からこうすりゃ良いだろうが? ええ?」
乱暴に問い掛けながら頭を掻きむしる。男が顔を顰めたのは何もあたりに飛び散ったフケのせいではなかった。
「勝手な事をするな……」何とか威圧的な響きを絞り出すと、杖を振るった。ギッギッと床がたわむ。「俺は家事手伝いを雇った覚えはない。お節介は止めてくれ」最後のほうはやや窘めるような響きになった。それは否の在り処をしっているからなのに他ならない。
「お忘れかもしれませんがね」フェンリールは皮肉っぽく笑った。「俺の仕事はデカブツを運ぶとこで終わりのはずだったんだぜ」
返事はため息だけだった。一つ二つと零し、やりきれないと言いたげに頭を振る。「ああ、そうだな」男は老魔法使いを跨いだ。
「健忘にでもなれば、いっそ楽なのかもしれない」大股で窓辺に歩み寄ると、固く閉ざされた窓に向けて防音呪文を掛けなおす。
そうして途切れることなくため息をつきながら、脇の、もう枠しか残っていない戸棚へ手をやった。かつてガラスの嵌っていたのだろう穴から手を入れ、真新しい瓶を取り出す。蛍光色のラベルには白抜き文字で「ドクター・サーディンのみるみる快眠薬」と記されていた。目がちかちかする。フェンリールの視線に気づくと、男はさっとラベルを隠した。
「年を取るとちょっとしたことで息切れして、駄目だ。
歳はとるものじゃない。獣であれば毛皮に覆われてしわも見えないのだろうが、ヒトは駄目だ」
男の視線がこちらを捉えたが、犬とフェンリールのどちらを見ているかまでは分からなかった。誤魔化すようにベラベラ喋りながら戻ってくると、男は老魔法使いの傍らに膝をついた。手の中にある杖をもぎ取って、遠くに投げる。
「……歳はとるもんじゃあない」
ゴクリと男の喉が鳴った。
「ギボン、お前が知り合いでなけりゃ俺はこんな馬鹿げた仕事請け負わなかっただろう」
父子の壮絶なやり取りを観察していたフェンリールはあっけらかんと呟いた。ギボンと呼ばれた男は、また頭を振る。「今更だろう」
杖先が枷を解き放った瞬間、老魔法使いが駄々っ子のようにじたばた動き出した。ギボンは老魔法使いに馬乗りになり、その口に指を突っ込んだ。指と口唇の隙間から薬を流し込む。老魔法使いが咽る度に口端から液体が溢れたが、やがて抵抗が弱くなっていった。不意にギボンの横顔がくしゃっと歪む。果たして、唾液に濡れた手には歯型が残っていた。一矢報いてやったとばかりに老魔法使いがにやっと笑い、床に倒れ込む。薬が効いたのだろう。老魔法使いの上で、ギボンは放心したようにぼうとどこかを見ている。「今更だよ、フェンリール」
焦点のぼやけた視線が父親の輪郭を薄ら捉えていた。
ギボンの父親はベラトリックス・レストレンジに劣らぬヴォルデモートの狂信者だった。ヴォルデモートも物作りに長けた父を重用してくれていたと思う。如何いう経緯で二人が知り合ったのかは知らないが、ギボンが産まれた頃にはもう父はヴォルデモートしか見ていなかったし、そのせいで彼には母親がいなかった。あまりの傾倒ぶりに出て行ってしまったのだ。幼いギボンにとって父に愛されることはヴォルデモートへ忠実であることだった。順当にスリザリン寮へ入り、流されるようにして死喰い人になった。――しかし彼はヴォルデモートの気に入りにはなれなかった。同世代には優秀で度胸のある(ギボンに言わせれば、イカレ頭の)バーティミウス・クラウチ・ジュニアがいた。
募る不満はやがて猜疑心になり、ヴォルデモートが倒れるヴィジョンを鮮明に描いていたギボンはアズカバン行きを免れた。それどころか父が原罪されるようにすら働きかけた。クラウチJrがその父に見捨てられたことが話題になったおかげで、実行犯として動くことのなかった父を庇いだてるのは容易だった。当時はクラウチJrに感謝したものだが、今思えば父はアズカバンに行くべきだったのかもしれないとギボンは思う。ヴォルデモートを裏切ったと自責の念に駆られた父は年々精神を病んでいった。もう死んでしまったヴォルデモートを探すのだとか、お力添えをするといって奇妙なものを作り、ギボンが邪魔をすると酷く騒いだ。代わりに作業をさせている限りは大人しくしているのだった。それでギボンは父から差し出されるメモを頼りにお高い精神安定剤を処方する。
フェンリールに頼ったのは、彼が魔法生物の取り扱いに――長けているというより、探すのが上手いと言うべきだろう。フェンリールはマジカルだけでなくフィジカルにも自信がある。それで捕獲の手伝いにと雇ったのだ。
何とか丸く収まったと思ったのに、まさか“うっかり”でケースを壊すことになろうとは……。
ギボンは唾液にまみれた手をズボンで拭いてから杖を振るった。今にも崩れ落ちそうなベッドの上に父を横たわらせ、自身もそれに腰掛ける。深々と息を吐き出して、頭を振った。疲れ切っていたが、まだベッドにもぐるわけにはいかない。
「寛いでるとこ申し訳ねえが、早いとこ女を連れて来て下さいますかね」フェンリールが扉の向こうを覗き込んだ。
キイキイと甲高い鳴き声が屋内の空気を震わす。ギボンは返事変わりに防音呪文を振るった。「ああ、女なら何でも良いんだろう……」そう口にするギボンの瞳には珍しく意地悪げな色が宿っている。常ならぬ様子にフェンリールは眉を寄せて訝しんだ。
「女ならな」急かすような視線に答える。「旨そうな女なら尚良い――尤もここいらにいるのは木の皮みてえなババアだけだがな」
「お前の要望に応えるには少し手間がかかりそうだ。ナプキンでも折って待ってると良い」
よっこらせと低く呻くと、ギボンは廊下に出た。ぎいぎい、床板の軋む音が遠ざかって行き、ガタンと戸が閉まった。
汚らしい部屋に二人残される。
「馬鹿馬鹿しい奴らだ」
フェンリールが鼻を鳴らすと犬がクーンと鳴いた。一匹でトロールにも立ち向かうこいつのほうが、ギボンの父親より余程賢い。退屈しのぎに犬でも構ってやるかと思ったものの、これ以上懐かれても困る。ふいと視線を逸らせば刷毛のような尻尾が垂れ下がった。
薬瓶の並んだ棚の下段から本を呼び寄せると、フェンリールは床に座り込んだ。パラと捲る。分からない。フェンリールは学校というところに通ったことがない。文字は書けるし、魔法も使える。それは本で学んだことではなく、人間社会で過ごすうちに盗み取ったものだ。挿絵ひとつない黒いページに頭痛がする。段々と模様に見えてきたので、本を放り出した。
「人を持て成すならゴシップ誌の一つや二つ用意しとけってんだ」
フェンリールの放り出した本を犬の鼻先がつつく。ふんふんと臭いを嗅いでから、前足と鼻先だけで器用に本を開いた。まさか読むんじゃないだろうなと戦々恐々たる心持になったフェンリールだが、そんなことはなかった。
犬は開いたページに顎を乗せると目を瞑った。寝るらしい。
馬鹿馬鹿しい。フェンリールはもう一度心中に零した。何に対しての罵倒かは分からないが、この室内には奇妙な平穏が流れ始めている。
いつしかフェンリールも舟を漕ぎ始めた。
――水面に乗り出してからどのくらい経っただろうか。フェンリールは床板がしなる音に目を覚ました。
慌てて掛け時計を確認すると、どうも一時間も転寝してしまったらしい。欠伸を咬み殺しながら立ち上がる。傍らで眠りについていたはずの犬は廊下に半身だけ乗りだし、階下を伺っていた。ピンと立った耳をぼんやり見ながらフェンリールも耳を澄ます。
フェンリールは細かな喧騒に首を捻った。女を連れてこいと言ったはずなのに男の、それも何処かで聞いた覚えのある声がする。
まさか魔法省にでもとっ捕まったんじゃねえだろうな。フェンリールはいつでも反撃が出来るよう、ポケットに杖腕を突っ込んだ。犬が廊下に出て、手すりの隙間から階下を伺う。フェンリールを振り向くと、小さくオンと鳴いた。どうやら魔法省ではないらしい。フェンリールも部屋を出た。床板を鳴らしながら、苛立ちと安堵との両方を噛み締める。
魔法省でないのは良かったが、一体何を連れ帰ってきやがった? 俺は口の固い女を一人連れてこいと言っただけだぞ……。媚びるように話すギボンの声、時折低く返すだけで、決して御機嫌とは言い難い――フェンリールは踊り場まで降りてくると、手すりに寄りかかった。高い本棚の影に隠れて見えなかった髪色が目に飛び込んでくる――ルシウス・マルフォイ!
フェンリールは何とも言えない気持ちになった。便利な時はとことん便利な男だが、そうでない時にはただ鬱陶しいだけだ。今は後者だった。フェンリールが必要としているのは女であって、男の、それも口やかましい差別主義者ではない。にこにことあからさまな作り笑いを浮かべるギボンを一喝してやろうかとも思ったが、ルシウスの背後から覗く人影に思考を遮られた。悪趣味な(ゴテゴテした飾りをとれば一回りは小さく見えるだろうとフェンリールは思った)ローブの影からそおっと顔を覗かせたのは、年の頃は十二三歳だろう少女だった。
ブルーグレイの瞳が伺うようにフェンリールを見上げる。それは如何して、フェンリールの食人衝動を素晴らしくそそる完璧さだった。完璧な世界に産まれて、やがて幸福な運命を全うするのだろう少女だ。フェンリールの喉が鳴ったのと、ルシウスが二人の視線のやり取りに気付いたのは同時だった。娘をさっと背中に隠し、冷ややかな視線でフェンリールを射抜く。
「私は――私はバイヤーが“これ”などとは聞いておらんぞ……」
そうそうと、フェンリールは昔を懐かしむ。フェンリールを視界にいれていようと、決してルシウスは彼とお喋りしようとはしなかった。
深呼吸を繰り返してもルシウスの感情は落ち着かなかった。今にも踵を返しそうなルシウスにギボンが扉の方へ後退する。
「言い忘れたんだ」わざとらしく肩を竦めた。「何、大したことはない。旧知の仲じゃあないか……どうして彼が君の娘に手を出す」
ギボンの厭らしい言い様に、こみ上げてくる嫌悪に、杖を握るルシウスの手が震える。騙られたのだ。
そもそもルシウスは彼の父とは懇意にしていたが、ギボン当人とは寧ろ不仲なほうだった。
ルシウスはギボンの中途半端な狡猾さが嫌いだったし、自分で何も考えようともしないその姿勢によく苛立ち、皮肉ったものだ。そんな相手にノコノコついてきた自分の油断が腹立たしかった。かように暗愚な男が己をはめることなど到底出来はしないと、「父君とは仲が良かったじゃあないか」などというサイラスの言葉に絆された自分が許せない。
第一“旧知の仲”などと言うが、フェンリールのことはギボン以上に毛嫌いしていたのだ。自分の娘だからと牙を仕舞うわけがない。今は満月だから人狼になることはないとはいえ、フェンリールが人肉食を好んでいるのは周知の事実だ。
久方ぶりにかっと頭の熱くなる感覚を味わったルシウスだったが、暫し思考を巡らせていると落ち着いてきた。この平和のうちで多勢に無勢なのは向こうだったからだ。万が一があれば“姿あらわし”で魔法省にでも逃げ込めばいい。それに獣と見下しているとはいえ、フェンリールは中々に小賢しい男だ。今ダリルを襲えば厄介なことになると分かっていないはずもないだろう。
ルシウスはふんと鼻を鳴らすと、杖で床を突いた。「獣の理性を当てにするほどの大間抜けと思われているとはな」先よりは幾分冷静な声音で唸ると、ダリルのほうを振り向いた。「ダリル、帰るぞ」
「お父様、でも」ダリルがたじろいだ。フェンリールはその喉を潰したい衝動と懸命に戦う。
ルシウスの考え通り、フェンリールだって見境なしに襲うほど愚かなわけではない。表でも裏でも何かと有名なルシウスだ。意外にも子煩悩であるというのはフェンリールとて聞き及んでいる。その愛娘を害せば、執念深くフェンリールを追うだろう。
手を出せば面倒になる……しかし、あの細い腕を千切ったらなんて命乞いをするだろう? 顔に手を上げたら、どんな声で泣くだろう? 自分が人狼になり、これから魔法使い達に迫害されていく運命だと知ったら――フェンリールはつくづく今日が満月でないのが惜しかった。否、拐っていって月夜の晩まで待てば良いのか? 駄目だ、駄目だ。ギボンの目配せについそんな気になってしまったが、他人の筋書き通り動かされるのは真っ平だった。大体ギボンの怨恨に付き合わされ、自分だけがリスクを負うというのも気に入らない。
フェンリールが悶々と考え込んでいる間にもギボンはルシウスを――正確にはダリルを――引き留めようと舌を躍らせる。
汚物でも見るような視線に怯まず、ギボンが微笑んだ。
「ルシウス、君だって困るんじゃないか?」潜めた声で続けた。「シーモア家に送った全身鏡、忘れたわけじゃあないだろう」
ギボンを見つめていたダリルは一歩踏み出して(ルシウスの腕へ縋りつくように振舞った)、ルシウスの表情を伺う。瞳には躊躇いの色があった。シーモア家に送った全身鏡……ダリルは五感を閉ざすようにして、自分の中の記憶を探った。シーモアと言えば、かつてはウィルトシャー地方を治めていた領主筋の家であり、マグルであるが故に深くは知らぬものの、ルシウスの仕事相手でもあったはずだ。尤も実際に顔を合わせることはなく、魔法省の役人を通しての付き合いしかないはずだが手紙のやりとりはよくしている。その延長線上で、折々には(なるたけ)マグル受けするような物を贈っているはずだ。いわば顧客であり――『顧客に呪いを送りつける恩知らずがどこにいる』ぱっとランプが灯されるように、ダリルの脳裏にルシウスの台詞が閃いた。『私は一日には抜けられない会議があるからね、君がマグルに変なものを与えたり、色んな大騒ぎを起こしてもすぐに駆けつけるというわけにはいかない。子供の前で馬鹿な真似をしないよう――精々、ちゃんとマグルに溶け込む努力をするんだな』ああ、そうだ! 二年前の、九月一日に届いた手紙! 何度も呼び出しを喰らったとか、ボージン・アンド・バークスを調べて尻尾が掴めない時点で認めるべきだとかブチブチ言っていたじゃないか。
ダリルはため息を呑み込んで俯いた。自分に“ちょっと”手伝わせ、その代価に自分があの全身鏡に関わった証拠を要求する気だったのだとダリルは思った。学期末には抜き打ち調査が入ったばかりだし、ホグワーツの理事から外された理由こそ公になっていない。しかし何かきな臭いことをやらかしたのだろうことは人々の噂になっている。現状に焦り、過分に警戒するべきだと思ったのに違いない。
――もう、マグルいじめなんか熱心にやってらっしゃるから! お父様のほうが私よりもずっと危なっかしいじゃあないの……!
「昨年度末から色々と厄介な立場だと聞いているよ。これ以上問題は増やしたくないというのが実際のところじゃあないのか?」
きゅっと唇を噛むダリルをギボンの視線が掠めていく。スクイブであることで親への引け目もあるだろうし、もうひと押しで父を庇いだてようと動くはずだと、ギボンは思った。ギボンが娘の表情を伺っているのに気付いたルシウスの冷静さが薄れる。「知ったことか」
「例え困った立場であろうと、貴様ほどではない。そもそも何故貴様の草臥れた父親のために私の娘を働かせねばならんのだ? 古い付き合いだからと来てやったが、人を謀るようなうす汚い下郎のために指一本動かしてやる気はない。
それに君のお父上は先月もマグルを襲ったらしいじゃあないか。心神喪失状態だとはいえ、“あのお方”の名前を喚き散らしながら通りを練り歩いては……いやはや、素晴らしい。“あのお方”が知ったなら、その忠誠心を褒め称えるだろうよ――」
ルシウスはにやにやと口端を歪めた。「さて、さて、君と父上と、一体どちらが先にアズカバンへ行くか……大層な見ものだね」
まさかルシウスと交友のあった父を侮辱されることはないだろうと思っていただけに、ギボンの顔がかっと赤らんだ。
「――ルシウス、」ギボンの声は少し掠れていた。恥辱に燃える瞳がルシウスを睨みつける。「君の傲慢さは、いずれ身を滅ぼすぞ」
「君が滅んだ数十年後ぐらいには成就するかもしれませんな?」
ギボンの罵倒をルシウスは一笑に付した。何かを守るのが不得手なだけで、自分の身一つでやっていくことにかけてはルシウスの右に出るものはいない。自分がどんなに馬鹿にされても愚者の戯言と取り合わないし、逆に言いくるめるのを楽しみさえする。
そうやって敵を増やしていった結果、今ダリルが怨恨に巻き込まれかけているのだが……。
どこか白けた気分のまま、ダリルはハリーからの罵倒を脳裏に蘇らせた。セドリックが自分から離れて行ってしまうかもと思った時の切ない気持ちを思い返すよう腐心した。うると、ブルーグレイの瞳が僅かに潤む。滴が零れても変だろうから、このぐらいで良い。
ダリルは顎をくっとあげて、険悪なムードのただなかに身を投じた。「あの、」僅かに困惑しているギボンへ苦笑気味に微笑みかけてから、苦虫を咀嚼しているルシウスのローブを引く。「お父様、私、やります」
いずれダリルが折れるだろうことをある程度予想していたのか、ギボンは然して驚いた風もなかった。一方のルシウスは眉を寄せて何かしら考え込んでいる。しかし数秒と経たぬ内、ダリルが如何いう体なのか思い出すに違いない。闇の魔法使いのただなかにあっても恐れぬほど強い防護魔法がかけられていると、そう気づくはずだ。これで予感は憶測へと変わってしまうだろうが、もう「スネイプ教授の夏眠のせいですわ」としか言いようがない。何もかもスネイプのせいだとダリルは思った。あとルシウスのせいでもある。
自分は悪くない。スネイプやルシウスに比べれば周囲のことを考え考え頑張ってる。と、思う。
お父様と一緒にいると、ほんとうに疲れる。ダリルの肺はため息で破裂しそうだった。
ちゃっちゃと済ませてちゃっちゃと帰り、そしてドラコに愚痴って――ノクターン横丁のことはぼかすけれど、ルシウスの理不尽に振り回されたとでも作り話しておけばよかろう。実際その通りなのだから――呆れきった顔のドラコに「どうせお前が先に何かやらかしたんだろう。お前は父上に対する敬意が足りない」とかバ可愛い嫌味でチクチクやられながら愛でて貰おう。
スネイプ教授の引きこもり癖とルシウスの知りたがり癖に挟まれた今となっては、ダリルの癒しは双子の兄だけであった。
「その、すぐ終わることなのでしょう」
悶々と考え込みながら、ダリルは健気を装った。ルシウスは胡散臭そうにしていたものの、すぐにムッツリを作ってくれる。
油断していたとはいえノクターン横丁へ連れて来て、己の取引を手伝わせるぐらいだ。ルシウスの内にはダリルの度胸に対する信頼が芽生え始めている――もしくはダリルの“副作用”への信頼が。まあダリルだって自分とヴォルデモートのどちらを頼るかと言えば、その邪悪さを差し引いても後者だろう。悪魔の様に老獪で歪み切っていて山羊の血とか絞って飲んでそうだけど、味方にしてこれほどまでに頼りがいのある生き物もいない。自分の現状が本当にヴォルデモートを味方に付けているのかどうかはさておき、ヴォルデモート以外の脅威で死ぬ可能性はゼロに近いのだから、これは素晴らしいことだ。チート行為に近かった。
ダリルの臓腑を啜ることが出来るのも、首を折ることが出来るのも、ヴォルデモートだけだ。それが今は心強い。結果論でしかないとしても、今世紀で最も優れた魔法使いである男の庇護を胸に勇気が振り絞れないのなら、最初からこんな場所にいない。
ダリルがぱちとウインクすると、ルシウスは渋い顔をした。その表情へ自然に笑みが零れる。
「お父様、ここを出たらすぐ帰るって仰ってましたけど、それって長話をするためなのかしら? ダイアゴンに来てから、お父様ったらご自分の用事ばかりで詰まらないわ。すぐ終わらせて、そうしたら門限まで私に付き合って下さるでしょう」
三人のやり取りを眺めていたフェンリールはダリルの挙動へ「子供の割りに頭が回る」と感心した。しかし適度の“恐れ”を有していない奴は、すぐ駄目になるなとも思った。ルシウスが何故フェンリールと関わらせまいとしたのか、ちゃんと理解しているならああもニコニコしていられないはずだ。ダリルがルシウスへウインクしたのを見て、フェンリールはポリと頬をかいた。
犬もフェンリールの視線を追ってダリルを見つめていたが、ややあってから小首を傾げた。屈強なフェンリールがちっぽけな子供にすぎないダリルに注目する理由が分からないのだろう。獣の世界では力が全てだ。
「良い娘を持ったじゃないか、ルシウス」
ギボンはあからさまにホッとする。この際ルシウスに一泡吹かすことが出来ようと出来なかろうと如何でも良いと思うようになっていた。それにオロオロしているダリルを見ていると可哀想にもなった。彼女もきっと父親の望む己になることは出来ないと――ギボンと違って愛情こそ与えられているが――悩んだりもしただろう。ダリルがスクイブだということは知っていても、それが翻されたとは知らぬギボンはそう締めくくった。対するルシウスは急にギボンの表情が緩んだのに不信感を抱く。害するつもりはなくとも、拐うという可能性だってある。それにダリルに掛けられているのだろう防護魔法がどの程度の強度なのか不明である以上、やはり娘は心配だ。
「奴と二人きりにするぐらいなら私が下手人を務める」ルシウスがギボンに詰め寄った。
「……下手人?」ぱちくりと目を瞬かせる。そりゃここは不穏な場所であるけれど、まさか――魔法生物関連ではないだろうと思っていた。しかし女の子供が必要って、まさか、否そもそもどうやってここまで連れてくるのだ? 「まさか、ね」
「駄目だ」押し問答を続ける二人はダリルの呟きに気付かない。「魔法生物の扱いは苦手のはずだろう? 君には任せられない」
ルシウスは多くの妥協案を口にしたが、結局ギボンに押し切られてしまった。
またしても気分を害したルシウスがダリルに視線を落とす。まさか――また「もう帰る!」とかごねだすつもりでは。「まさか」の語尾が振って湧いてきた不安に取り換えられたが、ダリルもこのまま帰っても良いかもしれないと薄ら考え始めていた。
鼻息荒くしたルシウスが厳しい声音でダリルを責め立てる。「死の呪いは覚えているな?」
「おやおや」応えは上の方から落ちてきた。そういえば、この人を見て騒ぎ出したんだわとダリルが思い出す。
汚れきった風体に、如何にも乱暴そうな四肢。眼光鋭くこちらを伺う視線は獣のようだ。ルシウスに恐れられるとは余程邪悪な闇の魔法使いなのだろう。ルシウスの口ぶりからしてこの男と二人きりになるのは明らかなようだ。今更になって、少し怖い。
ダリルは僅かに頬を強張らせたが、その怯えは次の瞬間吹き飛んだ。
「スクイブにそんな高度な呪文が使えるとは……マルフォイの旦那、持って生まれた魔力は地位や財力ではどうにもならないといい加減理解して良い頃ですぞ」フェンリールの下卑た笑い声に、ダリルの顔がかっと赤くなった。
名前も知らない、初対面の人から如何して馬鹿にされなければならないのだろう? 引き留めるように袖を引くルシウスの手を払いのけ、ダリルはつかつかと階段下に歩み寄った。勝気な瞳でフェンリールを睨みつけて、胸に手を置く。
「私、スクイブじゃありません。貴方がきちんとした魔法使いなのと同じに、私もきちんとした魔女ですわ」
一文字一文字はっきり口にすると、てっきり馬鹿にすると思ったのに、フェンリールがぽかんとした。背後からルシウスの長いため息が聞こえてくる。何だこの空気はと動揺しきったダリルが振り向いた。
「ダリル、奴は人狼だ」
ルシウスが呆れきった声を出し、やれやれと頭を振る。
「マグルと同等の――汚らわしい生き物に過ぎん。自分と同じ生き物などとは欠片にも思うなよ」
そういう大事なことはもっと早く言うべきではなかろうか。
マジカルがフィジカルに対してどの程度持ちこたえるのだろうかと、ダリルはヴォルデモートの魔法に対する信頼を欠きはじめていた。
七年語り – LULL BEFORE THE STORM