七年語り – LULL BEFORE THE STORM
22 赤頭巾の計略
ダリルは魔法生物に然して詳しくない。魔法生物学が必修科目でなく、またルシウスに軽視されているからだ。
スネイプからの逆贔屓や、数か月以上授業へ出席出来なかったことを差し引いても、ダリルの成績は一年時より低くなっていた。
例年通り期末試験が行われていたなら、ダリルはルシウスにこっ酷く叱られる羽目になっただろう。ダリルは学力の低迷の全責任をスネイプに押し付けることで難――ルシウスによる学力低下に関する厳しい追求と説教――を逃れていた。来年度のことは、考えない。
ハーマイオニーと違い、ダリルにとって“知識”や“学習”は道具でしかなかった。己の目的に必要であれば取り組むものの、そうでなければ見向きもしない。元々勉強するのが嫌いなのである。勉強の目的がルシウスの面子を保つことにある以上は、ルシウスに軽んじられている科目を学ぶ必要などないと、そう考えていた。故に「ダリルは魔法生物に然して詳しくない」。
ルシウスとナルシッサにとって魔法生物学は“野蛮の学問”であった。“杖の要らぬ授業”と露骨な蔑視を口にすることもある。
ホグワーツに入学するまで、ダリルの世界は両親から与えられるもののみで形成されていた。中でもルシウスからの影響は強い。己がスクイブだったがために蔑視までは刷り込まれなかったが、それでも関心を持ったり、ルシウスの意見へ反論しようとは思わなかった。
尤も魔法生物に強い関心を持っていたクィレルや、全方向に関心のあるハーマイオニーとの触れ合いから、今のダリルにはかつてのように魔法生物学を軽んじる気持ちはない。ダリルの世界はもう父だけのものではなかった。ホグワーツで過ごした二年はダリルの考えを大きく変えてくれた。変わっていないのは家族に対する愛情と、魔法生物についての無知だけだ。
確かに魔法生物学を軽んじる気持ちはなくなっていたが、だからといって俄然関心を持ったわけでもない。クィレルが魔法生物に興味を持った理由は魔法論に由来するし、ハーマイオニーとて一番が何かと問われれば変身術や魔法薬だと答えるだろう。学問に対する興味・関心の根源をクィレルに、情報の取捨をハーマイオニーに影響されるダリルの知識は偏りを見せていた。
魔法論に最大の関心を寄せ、日々ハーマイオニーから魔法薬やら変身術の話を聞かされるダリルが魔法生物に詳しくなるはずがない。ドラゴンの血の十二の使用法は覚えているが、今現在何種類の陸棲ドラゴンが確認されているのかは全く知らない。誰かに聞かれでもしたら適当に「百程度かしら?」なんて無知を晒すに違いなかった。たったの十種しかいないのに、一体どんな種名で、どういう特徴があるのかダリルは微塵も知らない。想像すら出来なかった。もしハグリッドがダリルの無知を知ったなら目を丸くしたに違いない。
ダリルは未だにハグリッドと話したことがなかったし、「年上で、森番をしている、ハリー達の友人」という認識以上のものを抱いていないため、彼が魔法生物に対してちょっとしたものだとはまるで知らなかった。
余談ではあるが、ハグリッドもダリルのことを「年下で、腐れマルフォイの娘だがまともで、ハリー達の友人」と認識しているので、二人は間接的な知人ということになる。些細な切っ掛けからきちんとした知人になれそうなものではあるが、二人が間接的な知人に過ぎないことを覚えている者は当人たち以外にいなかった。皆が「誰かが紹介しただろう」と考えるせいで、間接的な知人歴は一年を超えつつある。
ダリルの一番の話し相手はジョージやフレッドであり、その次がリー、アンジェリーナ、アリシアの三人だ。最近ではハーマイオニーやジニーとも良く話す。彼らのいずれも魔法生物に強い関心を持っているわけではないが、それでもダリルよりは多くを知っていた。前述の通りハーマイオニーは万能の好奇心を有している。魔法生物のことを語らないのは何も己が知らないからではなく、魔法生物のことをダリルに話して聞かせたいと思わないからだ。ハーマイオニーを除けばあとは皆混血なり純血なり、家族に一人は成人の魔法使いがいる。
子供は普通、就学時期までにある程度危険に対する免疫がつくよう育てられる。
両親共働きの家庭も少なくはないし、専業主婦ならば家事をこなさねばならない。屋敷僕妖精が家事を手伝ってくれたとしても、しなければならない事・したい事は山とある。当然、子供が物心つけば「ママはすることがあるから、お部屋かお庭で良い子に遊んでいてね」と僅かな放任を試みたくもなるだろう。初めは五分毎に様子を伺い、徐々に手綱を緩めていく。子供は親に口出しされぬ自由を楽しみ、親は子供の成長と己の自由時間を喜ぶ。いわば子離れ親離れの第一段階である。その過程で、親の目がないところで子供が危険に冒されることのないよう、危険への対処法を教え、時には実地を交えて学ばせていくのは極々自然なことだ。
知っている人でも親への断りなしについて行ってはならないこと、増してや知らない人とは話してもいけないとか、話しかけられたらすぐにママのところにくるのよとか、何を食べてはいけない、こういう生き物を触ってはいけない――こうしたことを口やかましく言われる上で、何が危険なのか、どの程度の危険なら自分の手に負えるのかを記憶し、学習する。
ダリルの友人達は勿論そうやって育ってきた。ただハリーは一風変わった学び方を強いられたものの、しかし自分の能力値については人一倍敏感に察知する。自分の能力を過信して危険に近づくことがないではないが、それでも引き際は弁えている。
彼女の周囲のなかで、過信以前に己の引き際さえ弁えていない馬鹿は当の本人、ダリルだけだった。
屋敷僕妖精だらけのマルフォイ家に於いてはナルシッサが行うべき家事は存在しておらず、趣味に費やす時間を確保しても十二分な暇が余る。またルシウスの仕事は殆ど在宅での作業となるため、子供に掛ける時間は幾らでも捻出できた。だからといって二人が四六時中子供に張り付いている性質でないのは言うまでもないのだけど、些細な危険さえ入り込むことのない邸で如何して子供を守らなければならないだろう。ドラコもダリルも邸内で暮らすのを当然のように思っていて、危険の存在する外へ出たいと望むことさえなかった。温室育ちという言葉があるが、実際二人は安全なケージのなかですくすくと育てられたのである。長じてからは両親の供で外に出ることの多くなったドラコはまだしも、ホグワーツに行くまで一度も邸内から出たことのなかったダリルが危険について学べるはずもない。
ダリルは知らない人と話してはいけないだなんて教えられなかった。血を裏切る者や、それに準ずる人と口を聞いてはいけないとは教えられた。何を食べるとお腹を壊すのかは教えられなかった。どんな風に食べると上品に見えるのかは教えられた。大抵の生き物は汚らしいから、触ってはいけないと、そういう風に躾けられた。ナルシッサが口やかましいのは身嗜みやマナーに関することだけだ。それもそのはずで、ナルシッサ自身良家出身であるし、ルシウスに守られることへ慣れきっている。夫の目が子供から離れることはないと無意識の内に過信してしまっているのだろう。それにダリルに関しては、自慢の息子でありしっかり者(だとナルシッサは思っている)であるドラコもついている。幼い内は父親であるルシウスが、ホグワーツに行ってからは双子の兄であるドラコが、やがて卒業した時にはダリルの結婚相手が彼女の暮らす温室を受け継いでくれるのに、危険への対処法など教えるだけ無駄に決まっていた。
ナルシッサにもルシウスにも悪意はない。ただ娘がグリフィンドール寮へ組み分けられるなどとは予想だにしなかっただけなのだ。
そういう背景の故に、ダリルは魔法族の子供であれば確実に知っているだろう人狼の危険性を知らない。
マグル生まれの魔法使いのことも「汚らわしい」と言ってのける父の言葉をどの程度信頼して良いのかも分からないし、ノクターン横丁にいるのを理由に善人でないだろうことは予測出来たものの、父だって好き放題出入りしている。ダリルの周囲には危険が渦巻き過ぎていて、最早善人と悪人の区別さえ付け難かった。体格の良さから推測出来る腕っぷしの強さ以外にこの男を恐れる理由が思いつかない。どんな呪文で己が傷むかは知らないけれど、危険に対して無知なダリルでも殴られたら痛いのは知っている。ヴォルデモートの呪いがダリルの苦痛と引き換えに殆どのマジカルを跳ね返すことは分かるが、フィジカルは如何なるのだろう。
ヴォルデモートの刻んだ嫌がらせもとい保護呪文の発動条件は不明なままだ。
刻みたい放題刻んで無責任な男だと、ダリルはヴォルデモートを心中で詰る。尤もあの男にとっては発動条件を懇切丁寧に教えるぐらいなら、掛けないのと同じだろう。ヴォルデモートは己以外を信頼していない。魔法陣の詳細が知れれば呪いを弄るも解くも、対策を講じるも容易であるが故に、呪いの発動条件は細かく設定される。成人の魔法使いのなかでも賢い部類に入るだろうスネイプが解読に時間を要するほど面倒な呪いだ。ダリルは半ば諦念染みた考えを持っている。ヴォルデモートと関わりを持った時点で馬鹿なのだ。今ここでこの男に甚振られようと大した問題ではない。危険への対処法を学ぼうという気概がどんどん薄れていく。
まあ、死にはしないだろう。ダリルは日和見を抱く。
たかが知人の子供に、殺したいほどの憎悪を誰が抱くと言うのだ。パンジーに対するような対応で問題はないに違いない。十分な殺傷能力を秘めた大男と口やかましいだけの女子を十把一絡げに、ダリルはため息を吐いた。
「……お仕事がひと段落したなら、貴方の名前を伺いたいのですが」粗大ごみを前に考え込んでいるフェンリールの背を睨みつける。
ダリルの嫌味へ反応したのはフェンリールに寄り添う犬だけだった。犬はダリルを馬鹿にするような流し目をくれて、再び主人の視線を追う。フェンリールに害されるどころかまるきり相手にされぬ状況にもだが、それにも増して嫌に賢そうな犬の視線が腹立たしい。
階段脇でぽかんと突っ立ったままフェンリールの指示を待つにも飽きた。ダリルはずんずんと、フェンリールに近づく。「聞こえていらっしゃるなら、イエスかノーの一声ぐらい返して然るべきじゃあありません?」距離が一メートルに縮まったところで、犬が低く唸り始めた。
子虎ほどもある犬から露骨に威嚇され、ダリルが怯む。後退しかけたが、何も彼らを害したわけではない。警戒するにしたって、地下室へ下りてくるまでは無反応だったのに、何故今になって威嚇されねばならないのだ。ダリルは頭で考えるより先に、本能的に己がこの犬に見くびられていることを察知していた。フェンリールの指示なしに動いたことを責められているのだと悟って、ダリルも犬を睨みつける。
ぴんと張りつめられた不和を無骨な手が遮った。
「下がれ、フロー」相変わらずダリルを見ようともしないフェンリールがひらと手を泳がせる。フローと呼ばれた犬は素直に壁際へ退いた。
自分の台詞よりも先に犬の唸り声に応えたのは苛立たしいが、庇ってくれたのかもしれない。ダリルはフェンリールの反応を前向きに受け取ることにした。自分の存在を認識しなければフローに好き放題唸らせておいただろうと、そう考える。
ダリルは一歩踏み出して先までフローの居た場所、フェンリールの隣に立った。「名前を教えて頂けますか」老人にでも話しかけるようハッキリ発音すると、フェンリールの眉間にしわが寄る。スネイプ並に不機嫌そうな視線がダリルを射抜いた。
「なんとお呼びしたら良いのか、私困ります」ダリルは勝気にフェンリールを睨み返す。
フェンリールはふんと鼻を鳴らした。ぼりぼりと乱暴に頭を掻く。「どうせ、これっきりなんだ。名前なんざ如何だって良いだろう」そう吐き捨てると、フェンリールは再び粗大ごみを脇にどかし始めた。ダリルの眉尻がピクと吊り上った。
ふーと浅く、細く、息を吐く。ダリルはにっこりと、笑みを作る。「それでは、フローの飼い主さんとお呼びしますわ」
無骨な手に支えられていたチェストがドシンと床に落ちる。
もうもうと立ち上る埃にダリルは口元を押さえて咳を繰り返した。小さな体を揺すりながらたかが粉塵に涙をにじませる子供が何故自分のような無頼漢を前に物怖じしないのか、フェンリールは不思議に思う。
「……フェンリール」フェンリールはため息を吐いた。「フェンリール・グレイバック」
別に何と呼ばれようと知ったこっちゃないが、いつまでも隣で騒がれては堪らない。第一、口にする事がないとはいえルシウスはフェンリールの名を知っているのだから、その娘に名乗るのを惜しむ理由などどこにもありはしない。
フェンリールの名前を聞きだすのに成功したダリルは、勝ち誇った笑みを浮かべた。「フェンリールさんですわね」多分にダリルは己がどれほど人々から恐れられているか知らないのだろう。フェンリールは無邪気に己の名を呼ぶダリルから顔を背けて、乾いた唇を舐めた。
ルシウスの娘らしくこまっしゃくれたガキだと思えば、こんな風に父親と似ても似つかぬ無垢さを覗かせる。手折りたくなる無防備さで、冒したくなる幼さだ。手を出せば面倒事になるのは必須なのだから、この食人衝動だけは堪えなければならない。しかしそう言い聞かせるほどにダリルが完璧な獲物のように思えてくるのだから困る。ルシウスはどのぐらい娘を愛しているだろう? この少女に友人は何人いるだろう? どんな未来を夢見ているのだろう? 全ての希望が潰える様を見てみたい。
危険に疎いダリルはフェンリールが再び自分を無視しだしたのだと頬を膨らませた。「また、ダンマリですの?」
「私、自分の知らないところで長ったらしい呼び名を付けられるのは嫌ですわ」
こまっしゃくれた響きにフェンリールが振り向く。「今更名刺を貰わなくたって、お前の名前ぐらい知ってる」やれやれと頭を振った。
「ピーチクパーチク五月蠅いガキだ」
「あら、ごめんなさい」ダリルは足元の木端――チェストか書棚の足が外れたんだろう――を蹴り飛ばした。「でも、私がスクイブなのは知っていても、その後のことはご存知でないようでしたから、他人を貶める話にしか関心がないのかもしれないと思いましたの」
渾身の嫌味だったが、今度は無反応だった。フェンリールは斜めに傾いた書棚やら横倒しになった机なんかを黙々と退かしている。恐らくこの粗大ごみの向こうに扉があり、その奥にダリルの手を借りて如何にかしたい魔法生物がいるのに違いなかった。
フェンリールがこれをすっかり退かし終えるまで黙っていたほうが良いとは思ったものの、
「……私は、何を手伝えは良いんですか」
焦りから問うてしまった。もし扉の向こうにいるのがユニコーンだったらという気持ちがダリルを揺らがせる。それに、例えユニコーンでなくとも、ノクターン横丁に連れてこられた魔法生物に穏やかな暮らしがあるとは思えなかった。
フェンリールはダリルの問いへ答えない。ダリルはきゅっと強く拳を握ると、語気を強めた。「向こうには、何がいるんです」
他人を値踏みするかのように細められた瞳がダリルを掠めていく。「見りゃ分かる」言うが早いか、羽織っているローブを強く引っ張られた。乱暴な誘導にダリルの足がもつれて、肩がチェストか何かに叩きつけられる。じわと広がる鈍痛に鼓膜が痛んだ。否、頭に響くのは体が軋む音ではない。ダリルはぱちと瞬いてから、フェンリールを見上げた。フェンリールがにやっと口端を歪める。その笑みに不穏なものを感じたダリルは、背後のチェストに寄りかかっていた体を起こした。「……何の、」そういえば、店先に足を踏み入れた時に今聞いたのと同じ音を耳にした気がする。ルシウスの不機嫌ゲージが上がって行くのに意識が向いていて、気に留める間もなく止んでしまった。
ダリルは魔法生物学について造詣の深いわけではないが、それでもこの声がどういう種類のものかは分かる。威嚇音だ。それも、先のフローのものとは違って疲弊しているような、掠れた響き。ダリルの胸が強く脈打ち始めた。脳裏にチカチカと白いものが過ぎる。
まただと、ダリルは思った。騙された。無知故に騙した。誰が悪いのか、声高に責めることの出来ない閉塞感が喉を絞める。
フェンリールはダリルの変化に訝しげな顔をしたが、焦れたようにマントのフードを引いた。「隙間から覗いてみろ」
ダリルは扉に叩きつけられる前にフェンリールの手を振り払う。「自分で歩けます」ブルーグレイの瞳はフェンリールを僅かに映しただけで、すぐ伏せられてしまった。恐れるような暗い表情を浮かべるダリルに、フェンリールは唇を舐める。
ダリルは縋るような健気さでフェンリールの表情を伺ったが、彼は顎で扉のほうを示すだけだった。「覗けば分かる」覗きたくはないのだと言いたかったが、伝えたところで今更帰してはくれないだろう。木製の板に銅で出来た飾りのついた扉は如何にも重たげだったが、ダリルの手の動きに逆らうことはなかった。傾ぐ音もなく押し開けた扉の隙間に顔を近づけて、息を殺す。重たげな視線を室内に巡らせれば――果たして青緑色の鱗を水に煌めかせる、五つ首のドラゴンがいた。マグルのうちでも著名な魔法生物の一つだ。ドラゴン目水属の……ダリルには種名までは分からなかったが、兎も角ドラゴン目に属する魔法生物は生体取引が禁止されている。
ドラゴン使いであろうとドラゴンの生体の個人運搬は届け出が必要になるし、個人所有は問答無用で法律違反だ。アズカバンとまではいかないだろうが、確実に杖の剥奪対象になる。ダリルの思考を多くのことが過ぎった。ここがノクターン横丁であることとか、ある程度のことは覚悟してきたじゃないかという叱咤、それでも魔法生物の生殺与奪に纏わることと知っていたら、何としてでも避けたのにという泣き言、ヴォルデモートが蘇ったとき同陣営に属するだろう人々とルシウスの仲が悪いのでは困るという理性、ギボンがルシウスを脅すのであれば自分がギボンを脅せるようなネタを掴んでやろうという打算、ぐるぐると視界を埋め尽くす。五つの瞳がダリルを射貫いたのにも然して怯えはしなかった。鱗は所々剥げ、五つある頭のうち、両眼の残っているものは二つしかない。破れた硝子の突き刺さった腕からは体液が溢れ出ていた。漆喰塗りの壁を震わせる唸り声も、最早虚勢にしか聞こえなかった。ダリルはずっと、足を引きずるようにして後退すると、静かに扉を閉める。ゆるゆると息を絞り出した。言いようのない嫌悪感が込み上げてくる。ダリルは片手で口元を覆うと、俯いた。
ダリルがどんなにあの竜を哀れもうと、あの竜にとってはダリルもフェンリールも、皆変わりなく恐怖と憎悪の対象なのだ。
ユニコーン達もこうやって死んでいったのだろうかと、ダリルは考えた。
自分に騙されたと、否如何して騙されたのか、何故騙すのかさえ理解出来ずに死んでいっただろう。その憶測は今ここであの竜に恨まれるよりずっと罪深いことのように思った。褐色に光るドアノブに触れたままのダリルの指が震える。フェンリールはまた唇を舐めた。
一般に知られるハンガリー・ホーンテイルなど陸棲のドラゴンと違い、水棲のものは気性が穏やかであり、尚かつ人里離れた場所に居を構える。その性質と生態から、彼らの生息地がマグルに知れぬよう隠すのはそう難しくない。ドラゴン目のうちでは扱い易いものではあるが、ヒトそのものを嫌うが故に魔法生物の保護と頭数管理のために行われる魔法省の環境調査の際にも確認出来ないなど、陸棲のドラゴンとはまた違う厄介な点があった。尤も対応策がないわけではない。水が月の満ち欠けに強く影響されることもあり、一般に水棲の生き物もまたユニコーンと同じに男性よりかは女性に気を許し易い。なかんずく大した腕力も賢さも有していない幼い娘を好む。
フェンリールが彼らの生息地を見つけたのはほんの偶然ではあるが、彼らを生け捕りにするのに女を使った方が良いとアドバイスしたのはギボンだ。このドラゴン目水属のヒュドラ種の瞳には強力な魔法特性が備わっており、一説には全ての知を教えてくれるという。勿論誇張も混じっていようが、失せもの探しに役立つことはヒュドラの乱獲が禁止される十七世紀までの文献からも明らかだ。
幾度か失敗を繰り返した後捕獲に成功したは良かった。しかしヒュドラを前にした父親が騒ぎを起こした際に、ギボンがヒュドラを運ぶのに使った水槽を割ってしまったのが彼らの大誤算だった。濃い催眠薬を満たした水槽に入れることで大人しくさせていたのに、目が覚めるや二人には手が付けられなくなってしまった。何も始末するのに手こずるわけではない。ヒュドラの瞳は生きながら取り出さねば、水のように溶けてしまうのだ。フェンリールの見つけた群れの内、最後の一匹だ。失敗するわけにはいかない。
ヒュドラを生け捕りにするまでに掛かった手間と、ギボンから貰う賃金とを脳内で天秤に掛けていたフェンリールだが、ここに来て彼の理性に雑念が混じり始めた。いたいけな――フェンリールには化け物かボロ雑巾にしか見えない――水竜をいたぶることを恐れるように震えるダリルは、フェンリールの目には何とも心優しいように映った。子ウサギのようだ。華奢な喉をひねり潰したい。
脳髄に絡みつく願望を振り払って、フェンリールはフローの脇にあるカートを指した。上には睡眠薬入りの酒壷が五つ乗っている。
「奴の前に、この、酒壷を置いてくればいい。お前の手伝いはそれで終わりだ」
面倒を引き起こす前に、とっとと帰って貰った方が良い。何もフェンリールの獲物たり得るのはダリルにのみ限ったことではない。幸福そうにしている子供なら誰でも良い。数え切れないほどの夢を抱いていて、害されるなどとは疑いもしない、そんな生き物なら何だって良かった。フェンリールが今まで害してきた“獲物”に比べれば、時折その父親からの遺伝を覗かせるダリルは特別無垢というわけではない。ルシウスの不興を買ってまで喰らいたいと思うほどの少女ではないと、フェンリールはそう結論づけた。忙しい舌使いで唇を舐める。
勿論ギボンもフェンリールもダリルの手を汚させる気は毛頭なかった。
ダリルは素知らぬ顔でヒュドラの前までカートを押して行くだけでいい。ヒュドラは酒に目がないことも、研究結果として伝えられている。首尾よくヒュドラが眠ったところでその眼球を刳りぬいて、ギボンの父親に与える。
ヒュドラが息絶える頃にはもうダリルはノクターン横丁にいない。
何も知らないのだと、己の無罪を過信したら良いじゃないか。
手を下すわけではない、荷担“させられた”という言い逃れの、何が不満なのかフェンリールには分からなかった。
捕まるようなヘマをやるつもりもないが、万一このことが公になったとしてもダリルはそう責められるまい。勿論ダリルの保護監督責任があるルシウスは幾らか罰せられるだろう。しかし父親が如何なろうと、当人には無関係のはずだ。
無関係のはずなのに、ダリルは悲しげに眉を寄せ、瞳を潤ませる。
「……殺すの?」
分かりきっているだろうことを認めたくなくて、嘘でも良いから救いが欲しくて、懇願する響き。フェンリールが善人でないことなど分かりきっているだろうに、小生意気な台詞を口遊んでいた時の余裕が、思考回路が掻き消えている。
フェンリールは汗ばむ手をズボンで拭った。さっさと言われたことをするようにと、そう急かすつもりの口が勝手に動いた。
「他に如何する? 観賞か? 男がちっと近づいただけでぎゃあぎゃあ喚きたてる、気味の悪いバケモンを誰が飼いたがる」
ダリルとの距離を一歩埋める。フェンリールはするりとダリルの斜め後ろに体を移し、彼女と上に通じる階段までの直線を遮った。ダリルはきゅっと唇を噛んで、俯いている。ダリルは退路を塞がれていることどころか、フェンリールからの関心にさえ気付いていなかった。
「ぎゃあぎゃあ喚きたてるだけなら良いが、気持ちが昂ぶると自分で自分の目を潰しちまう。それで三匹失敗した。こんな面倒な仕事がどこにある? この一匹で終わりに出来なきゃ、俺のほうが気が触れる」
動揺を煽るような台詞に、ダリルがくるりと振り向いた。上に続く薄暗い階段が見えるものとばかり思っていたのに、視界へ落ちる影にきょとんとする。ややあって、ダリルがつんと顔をあげた。「どいてください。私、帰ります」フェンリールを睨み付ける。
「父親が困ったことになるんじゃあないのか?」急にダリルが冷めた理由が分からないフェンリールは彼女の感情を逆撫でしようとした。
「帰ります」すっとフェンリールを避けようとしたダリルの足下に白いものが過ぎる。フローがダリルの前に立ち塞がっていた。
ダリルの思考がまるで理解出来ないフェンリールが苛立ち混じりにがなる。「何もお前に殺せって言ったわけじゃねえ、」
「当然です!」カートを押していくだけの何が不満なんだ――そう続けようとした台詞をダリルが遮って、ピシャリと断言した。
わななく唇から、ダリルがぽろぽろと言葉を落としていく。
「私を、私を貴方達の馬鹿げたことに巻き込まないで下さい。貴方達が法を犯すのも、何かを殺すのも貴方達の勝手だわ。でも、それに私を巻き込まないで。貴方達だけでやったら良いでしょう? 騙すように連れてきて、何故私にさせるのよ」怒りか、自責の念か、何故自分の気持ちがこうまで揺らぐのか、ダリルにも分からない。「いつも――いつも、何故私なの」ダリルはぎりと爪を手に食い込ませた。
「私が、なにをしたの」
ぽとと、埃塗れの床板に小さな点が落ちた。
『私と出会わなければ、』
クィレルとの時間は、ダリルにとってほんの僅かだった。同級生のなかでは一番慕っていたと思うが、クィレルの教師人生の内ではダリル以上に親しくした生徒がいただろう。それに、何がクィレルの本心だったのか未だに分からない。もういない人の気持ちを探ることほど馬鹿げた徒労はない。同じ事を繰り返さないよう努力する他ないのだと、頭では分かっている。それでも、現実を突きつけられる度に分からなくなる。何も知らない、知りたくないと目を瞑ってしまえば楽になれると、誰かがダリルの耳元へ甘言を囁く。
大切な人を失うのは嫌だ。それでも大切な人を失わないために、これからもこうして、誰かが何かを殺す手伝いをしなければならないのだろうか。ヴォルデモートの側にいようと決めた。自分の命を掛けて、彼が絶えるよう苦心するのだと、そうしたらもう誰もダリルの前からいなくならない。そう思った。思ったから、呪いも束縛も受け容れた。――だけど、誰がヴォルデモートを殺してくれるだろう?
ハリーか、それともダンブルドア? この呪いが、そしてルシウスやドラコと言った大事な人々がヴォルデモートの手中に収められている限りダリルにはヴォルデモートを殺すことは出来ない。誰かがヴォルデモートを殺してくれることを信じて待ち続ける他ない。きっと遠からぬ未来にハリーが倒してくれると、そう思っていた。今も思ってはいる。しかしハリーがヴォルデモートを倒せるようになるまでの時間を、自分は暗闇で過ごさなければならない。自分で考えたことだとは分かっている。ダリルはヴォルデモートに少なからず親愛を抱いていた。その気持ちがが例え残像に対するものであったとしても、過去だけは変わらない。大事なものがわからなくなっていた。
否大事なものを守るために己の望んできたものを諦めるということがどういうことなのか、分かり始めていた。
きっとハリー達は、大事なもののために他を切り捨てることの出来るダリルを軽蔑するだろう。
一気にどん底まで落ちていけたらいいのに、じわりじわりと指先からつま先から淀んでいく。ダリルには多分「私がなにをしたの」と、他を詰る資格がない。ダリルが望んだ。ダリルがクィレルを見限れなかった。ヴォルデモートの過去に手を伸ばしてしまった。例え人を殺していようと、ルシウスのことが好きだとはっきり抱いている。他者の痛みなど如何でも良い。ただ自分の世界さえ幸福なら、愛しい人が不幸になろうと構わなかった。その傲岸で傷つくものがいる。ダリルの愚かさがために死んでいく命がある。
『僕をちょっとでも大事に思うなら、もっと自分を大事にすると約束してくれ』
『お前を失ったら、私が不幸だとは思わないか』
『――僕を救ってくれ』
誰かを不幸にしてまで幸せになりたいんじゃない。だけど、それでも――ダリルの耳朶をヒュドラのうめき声が掠めていく。白い雪と、それよりももっと無垢な白馬と、幼い金色が脳裏を駆けていった――仕方ないと、そう諦念をこぼす自分がいる。
いつか、犠牲を犠牲と思わなくなるだろう。目の前で人が死のうと、動揺すらしなくなるのかもしれない。ハリーのようになりたかった。光になりたかった。なのに、私はどんどん汚くなっていく。どんどん憧れた光から遠のいて行く。気持ち悪い。ダリルは胸を押さえた。爪を立てて、服の下にある闇の印を抉ろうとする。気持ち悪い。片手を口元に滑らせると、駄々でもこねるように頭を振った。
「……私、こんな――、たかったわけじゃ、ない」
ダリルは掠れた声で絶望を紡ぐ。悲しい。苦しい。寂しい。何のための残酷なのか、分からなくなるから、つなぎとめて。
私のことを嫌わないで、そして一人にしないで。
あなたを、あなたとの思い出を手放す以外の何にでも従うから、私を扉の向こうにおいて行かないで。
孤独に震える肩に触れる手があった。ダリルは咄嗟にセドリックの名を請おうとしたが、「さあな。お前が何を言ってるかは分からねえが、お前がキィキィ喚くのが面白いからだろ」そう低く笑うフェンリールが、己の指でダリルの舌を絡め取る。
フェンリールはダリルを背後の扉に押しつけると、その腕を捻りあげた。ダリルの呻き声が喉の奥で鈍く響いた。
ダリルは込み上げる吐き気に収まりかけていた涙を再び迸らせ、動揺を瞳に浮かべている。
警戒心の弱い、誰にでも暗部を零してしまう生き物。今ここで壊さなければ、きっと誰かに壊されてしまう。言葉にならない音を紡ごうとしたダリルが咽せる。苦しげに歪められた顔に、フェンリールが牙を――突きつけ、柔らかな皮膚がぷつと弾けた瞬間、時間が止まった。否、停止したのは世界ではなく、身体機能だった。肺や喉がビリビリと痛み、胸部が疼く。折れていると理解したのと、背後に硬い段のようなものがあるのを理解したのは同時だった。地べたに崩れ落ちたダリルは喉元を掻きむしりながら身悶えしている。呼吸さえままならぬほどの苦しみ様に、フェンリールは呆然とした。何が起こったのだろう。疑問がフェンリールの思考を侵していく。先まで己の立っていた場所から階段までは五メートルほども離れている。フェンリールの記憶が確かであれば、ダリルの顔に牙を突き立てたところまでは事実のはずだ。それから気が付いたらここにいた。弾き飛ばされた? 一体何故? ダリルを外敵から守るためのものだとすれば、何故彼女が苦しんでいる? ファンリールは魔法論にも、闇の魔術に対しても大した知識は有していない。しかしダリルの苦しむ姿を見て本能的に理解していた。この少女は自分の獲物ではないのだと、自分よりずっと先に彼女を壊すことを望んだ者がいる。
「……悪趣味なこって」
そうフェンリールが鼻で笑った。駆け寄ってきたフローがフェンリールの胸部を鼻先でちょんと押す。気遣わしげに己を見上げる視線に、フェンリールは如何しようもない空しさを覚えていた。誰の血肉でも埋めることの出来ない穴が隙間風に冷える。
ダリルはそれから十分ほど喘いでいたが、やがて扉を引っ掻いていた指が床に落ちた。身じろぎひとつしない。フェンリールがとんずらするか否かを考えていると、ダリルの胸が動いた。呼吸の仕方を確かめるように膨らんで、そーと萎んでいく。
何もかも如何でも良くなったフェンリールは残念そうな響きを装った。「なんだ、死ななかったのか」
繰り人形のように不安定な動きでダリルの腕が浮く。手の甲でグイと口元を拭うと、ダリルは上体を起こした。手を脇について、力の入らない体を無理に立たせる。勢いをつけることで立ち上がれたものの、結局扉伝いに床へ崩れ落ちた。余程消耗しているらしい。立つのを諦めたダリルは今にも途絶えそうな呼吸を繰り返していた。焦点のぼけたダリルの瞳がフェンリールを探して蠢く。
「おかげさまで」階段に腰掛けているフェンリールと、その隣で警戒を強めるフローに微笑みかけた。
ふーっと肺に満ちる空気を全て吐きだして、ダリルは今度こそ立ち上がる。
「――直前になって駄々をこねたことや、貴方の分からない八つ当たりをしたのにも謝ります。申し訳なかったわ」
ダリルはそう明瞭な響きで口にすると、己より低い位置にいるフェンリールを見下した。「でも、それを差し引いても貴方は最低な人です」
尤も私だって貴方と大差ない程に最低なのでしょうけれど、とは続けなかった。
彼らからプイと視線を逸らすと、ダリルはカートのほうへ歩み寄る。持ち手を握るダリルの背へ、フェンリールがため息を零した。「興が削がれた」ダリルが振り向いた。ひらと大きな手を振って、背後の階段を示す。「嫌なんだろ? 帰ったら良い。高飛車なガキは嫌いだ」
露骨に不服を零すフェンリールにダリルはクスと笑った。
「私がキィキィ喚くのを面白がる人ですものね。この騒音も貴方にとっては面白いのかしら?」体力の消耗から大人しくしていたヒュドラだが、今の騒動でまた鳴き声をあげはじめた。顔を歪めたフェンリールが耳を押さえる。ダリルへ帰るよう促す気は失せているに違いなかった。それで良い。それで良いと、ダリルはカートの持ち手の感触を確かめる。もう後には引けない。自分が選んだことだ。
「……誰か違う女の子を連れてくる?」上の空な響きにフェンリールはダリルの感情を伺った。視線に気づいたダリルは苦笑を口元へ引く。「その子は私より高飛車でも最低でもないでしょうけど、代わりに貴方とお喋りすることも出来ないと思うわ」
大人びた台詞を残し、カラカラとカートを押すダリルは扉の向こうに消えて行った。
手古摺っているのか何なのか、ダリルは中々出てこなかった。ひょっとしてヒュドラを悼んでいるのかもしれないとも思ったが、それはありえないように思った。あの少女は強かだ。フェンリールがそう抱いたのを裏付けるように、こちらに戻ってきたダリルは何でもない風な顔をしていた。自分の意思で生き物を殺すことに関わったのだとは微塵も思わせない、幼い顔をしている。
ローブのポケットが不自然に膨らんでいるのには勿論気づいたが、フェンリールは低く笑うだけで、見咎めはしなかった。
「見ていくか?」
フェンリールは自分を素通りしようとしたダリルに話しかけた。ダリルは頭を振る。「遠慮しておくわ。乱暴に関わるのは嫌いなの」
「そりゃ残念だ。好きそうだと――おっと間違い、好かれそうだと思ったのに」
ダリルの眉がピクと動いた。
「向こうは如何か知りませんけど、少なくとも私が嫌っているのは確かよ。それじゃあ」
薄暗い室に棚引くプラチナ・ブロンドをフェンリールが捕まえる。ダリルの顔に嫌悪が滲んだ。「触らないで」
「貴方みたいな人に触られたくないわ」
勝気に非難するダリルだが、その声には怯えが絡んでいる。フェンリールはあの現象の発生理由を大雑把に推測した。髪には触れるが、ダリルは緊張を抱いている。害意の有無ではなく、他人が触れるというそれだけでアウトなのかもしれない。
ダリルは口先でキイキイ喚くだけで、手を出してこない。無抵抗なのを良いことに、フェンリールは指先にダリルの髪を絡め取る。くっと引っ張ればダリルが痛みに目を瞑った。他人の――それも結構な魔法使いのお手付きだと分かっていても、被虐心がそそられる。
「……この毛を毟り、顔をぐちゃぐちゃにして、血の混じった悲鳴を聞いてみたいもんだ」
「悪趣味な人」髪が抜けないよう頭を押さえるダリルが涙目でフェンリールを睨みつけた。
「品の良い獣がどこにいる? なあ」話を振られたことがきちんと分かるようで、フローはオンと鳴く。
ダリルはふんと鼻を鳴らした。薄々分かっていたことだけれど、この人に話は通じないようだ。ダリルはポケットに手を滑らせた。
「私の知りうる限り獣は人語を解さないはずだわ。ああ、でも……」ドラコを真似て嘲笑う。「貴方が立法に関する責任をまるで担っていないのは確かね」
ダリルは取り出した杖でフェンリールの手を強く叩いた。「離して下さる?」
もう一度叩けば渋々といった感じで、指先に巻かれていた髪が解かれる。ダリルは杖を持ったまま身嗜みを整えると、今度こそ別れを告げようとした。「失礼させて頂くわね。もう二度と、」今度掴まれたのは羽織っているローブの裾だった。
「一体、なんです?」 幾度も引き留めてくるフェンリールにダリルは怒りを露わにする。
ダリルの問いを無視したフェンリールが足でフローを追いやった。ダリルのほうへ寄せられたフローはきょとんとフェンリールを見上げている。「こいつを連れてけ」フローの尻尾がピンと立った。視線はダリルとフェンリールの間を行き来している。
「なんでそんな呪いが掛かってっかは知らないが、厄介事や乱暴沙汰に好かれやすいと見える。これは賢い犬だ。犬といっても、狼の血が混じっているかもしれんが……連れていて不便はないだろう」締めにじゃあなと呟いたフェンリールにダリルが食って掛かった。
「貴方の犬でしょう」
「野山で暮らすにこいつは邪魔なんだ」フェンリールが頭を振る。「何度も捨てようとしたんだが、どこに捨てても結局着いてきちまう」
「お前が引き取ってくれねえんだったら、そうだな……殺すか」
フローはじっとフェンリールを見上げていた。一年弱共に暮らしていただけあって、フェンリールの中にはフローに対する信頼がある。簡単に始末出来るような犬であれば早々に駆除していただろうし、またフローも自分を殺したいと思うほどの関心をフェンリールが抱いていないだろうことを理解していた。彼らの予想通り、ダリルはフェンリールの頼みを突っぱねたりはしなかった。
「分かったわ」重たげな口調はフェンリールの意図を疑っているからだろう。ダリルはフローを見下ろした。「私に従うよう、命令して」
フェンリールはにやっと笑うと、口笛を鳴らす。「フロー、遊んでやれ」
「私に従わないものは要らないわ」
流石にこの件で誤魔化しきるのは無理かと、フェンリールは腹を括った。
「……従ってやれ」俺のいない時はなと濁して、フローから遠ざかるべく後退する。勿論フローは着いてこなかった。
「フロー?」顔を上げたフローに優しく微笑みかける。「こちらへ、今日から私が主人よ――尤も“仮の”が、着くようですけどね」
前半の柔和な響きは己の足元で従順なフローに、後半の刺々しい響きはフェンリールに向けて言い放った。
ダリルの嫌味を聞こえないふりでやり過ごしたフェンリールがしっしとダリルとフローを追いやる。ダリルとて、これ以上こんな野蛮な男と共に過ごす気はない。ダリルは舌を突きだすと、フローを伴って階段を上り始めた。
「俺に用があったらフローに案内させると良い。こいつは俺を見つけるのが得意なんだ」
フェンリールへの用なんて、死んだ後でも見つけ出すことは出来ないだろう。掻き傷を誤魔化すためにローブのボタンを留めながら、ダリルはフェンリールに悪態をつく。その足元ではフローがダリルの思考を見透かしたように冷ややかな瞳でいた。
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「その犬はなんだ」
想定の範囲内ではあるが、上へ戻るなりルシウスの追求が振ってきた。ダリルは肩を竦める。
「貰い受けましたの。どうせペットを何か見繕おうと思っていましたし、丁度良いでしょう」
誰とは言う必要もないだろうし、ルシウスも言ってほしいとは思わないはずだ。
フェンリールから犬を貰ったと知るや雨霰と非難が振ってくるものとばかり思っていたのに、ルシウスは「こんな汚らしい犬……ナルシッサが黙っておらんぞ」と一言ぼやいたきりだった。大量の文句の代わりに深いため息を一つ、杖で床をトンと一度。ルシウスはくるりとローブを翻すと、ギボンに断りも入れずに外へ出た。ダリルとフローもルシウスを追ってドアベルを鳴らす。
ノクターン横丁の空は細長く、町並みは薄暗い。しかし空の色は表と変わりない。夕暮れを差し色に僅か煌めくノクターン横丁からは人の営みが伺えた。不気味だったり、恐ろしいだけではない――勿論灯りは多くないものの、それでもここに暮らす人がいる。この町並みからは恐れよりも、個々の寂しさを強く感じる。ダリルは速足でルシウスの横に並んだ。凛と前を見据えるルシウスの横顔は頼もしくて、ダリルはへにゃりと笑う。人を殺していても、マグルいじめをやらかしていても、純血主義であっても、ダリルの父親は一人しかいない。しかしダリルが安堵したのもつかの間、ルシウスは人狼や堕落した死喰い人達のことを非難し始めた。
恐らくはダリルが下へ行ってからまたギボンと一悶着あったのに違いない。それでルシウスは一人で店先に居たのだ。
なんだかんだ、私の厄介癖ってお父様からの遺伝なんでしょうね。
ダリルはルシウスに悟られぬよう息を吐くと、ポケットを膨らませていた紙束をルシウスのローブのポケットに押し込んだ。訝しむルシウスにダリルが「あの方、お父様を脅そうとした割りに随分不用心ですのね」と、にこり笑う。
ギボンの家から十分遠ざかってから、ルシウスはさっと紙束を取り出した。紙面には一目でルシウスの文字だと分かる癖のある筆跡が刻まれている。手紙のやりとりをきちんと纏めておく几帳面な父親と違い、ギボンは“父親からの遺産”をずさんに管理しているらしかった。カートを運び終えたダリルがちょっと棚を漁っただけですぐに諸々の資料・手紙・設計図などが出てきたのだから、余程だ。
期待以上の働きをしてくれたダリルに、ルシウスは何とも言えない顔をする。
「……世話を掛けたな」
珍しくも詫びを入れる父親へダリルは悪戯っぽく瞳を輝かせた。父に誉められるのは、単純に嬉しい。
「そうね。お父様と一緒にいると、大人のゴタゴタに巻き込まれて、とっても疲れますわ」ふふっと笑ってから、ダリルが嫌味っぽい声を作る。いつもなら「親に対して、なんて口の利き方だ」とでも小言を落としてやるのに、流石に今日は出来ない。
本来はこのデート自体がダリルのご機嫌取りのはずなのに、結局ダリルに何も買ってやらなかった。それどころか自分の都合で厄介に巻き込み、ダリルはルシウスの処分したかった書簡を取ってきてくれた。ちょっとの小言ぐらいは噤んで然るべきだろう。
「ほんとに、お父様はいつも私のこと責めますけど、お父様のせいで迷惑に引っかかることだって少なくありませんでしょう?」
調子に乗っている。ルシウスは反論したい気持ちに駆られたが、ポケットの中の紙束へ意識を集中させることで沈黙を守り続けた。無理を続けるルシウスにダリルがクスクス容貌を綻ばせる。早足でルシウスの前に出ると、後ろ向きに歩きはじめた。
小首を傾げて、幸福そうに微笑む。その喉元の掻き傷に気付かぬわけではなかったが、何を言う事も出来なかった。
「お父様のせいで大変なんだから――だから、私が幸せなのも“お父様のせい”ですわ」
ダリルは細い夕日を背負って、今にも泣きそうな顔で精一杯笑う。
まだ成人には程遠い娘を抱きしめて、もう良いんだと言ってやりたい。そんな願望がルシウスの喉を詰まらせた。
来年度からはホグワーツの三年生。二年前はルシウスの作った籠のなかで囀るだけの幼く弱い少女だった。それが、たった二年でこんなにも変わってしまった。成績のことでは叱ったが、確実に二年前よりは賢くなっているように思う。あどけなかった容姿がナルシッサのように大人びて、美しくなった。少女の成長はあまりに早すぎると、ルシウスは苦々しく心中に呟く。
「ちょっとでも私に悪いと思うんでしたら、すぐ帰るなんて仰らずにホグワーツで着るための服を見立てて下さいな」
黙りこくるルシウスへ、ダリルが冗談めかして服を強請った。確かに厄介の終わった今となっては急いで帰る必要もない。ルシウスは懐から鎖つき時計を取り出した。あと一時間ぐらいなら、どこの店も開いているだろう。ルシウスは苦笑した。「これでホグワーツを卒業するまで服に困ることはないわけだ」ダリルも笑う。「お父様ったら、女性服の流行り廃りって早いんですのよ」
会話の応酬を楽しんでいたダリルがふと難しい顔をした。「あ、あと」人差し指を唇に当てて、はにかむ。
「ドラコには今日のこと、内緒にして下さいね」
「ドラコにか?」ルシウスは不思議そうな顔をした。「あれがノクターンに行くことも少なくはない。特別秘するようなことではないだろう」
ダリルはちっちっちと人差し指を動かした。「駄目ですわ」叱るような響きで詰ってから、茶目っ気たっぷりに微笑む。
「ドラコは私のことがとっても好きなんですもの。ただでさえ心配性なのに、これ以上脅かしたら可哀そうじゃありません?」
真剣に問えばルシウスもそれ以上は追求してこなかった。「ドラコがいつまで経ってもお前にベッタリでは、私はおちおち老いることも出来ん」ダリルは二度三度瞳を瞬かせる。「か」髪が抜けなくて良いじゃあありませんかと言い掛けるも、自主規制が入った。
「老いるだなんて寂しいこと仰らずに、いつまでも不肖の娘と息子に五月蠅くしていて下さいね」
「……ほう」ルシウスのアイスブルーがすっと細められた。「私の躾け方はそんなに五月蠅いかね?」
口を滑らせたと思うも、既に後の祭りであった。
七年語り – LULL BEFORE THE STORM