七年語りLULL BEFORE THE STORM
26 老魔術師の肖像

 

 別に恨んでいたわけでも、相応の害意や嫌悪を持っていたわけではなかった。
 ただ自分が自分であるためにあの人を消し去ってしまわなければならないと、そんな風に思っていた。

 皮膚にじっとりと張りつくように粘性の高い空気はアブラクサスのよく知る温度だ。地中の熱が岩壁に籠るのか、枝葉を乾かす季節にも蝕むような不快感がある。腐臭染みた湿度を保つ室には鼠の死骸が良く似合う。しかしアブラクサスは自分以外の“肉”を見かけたことは愚か連想することさえなかった。無骨に張り出す岩壁と雑然と並べられた棚、そこに並ぶ不気味な品々――そして奥にある、奇妙な潔癖さで整理された広い書室。アブラクサスはこの、厳重に秘している割に健全な風を装う部屋が苦手だった。
 苦手だった……過去形だ。平らに整えられた石畳みに落ちる黒い染みを見つめ、アブラクサスは自身の気持ちを落ち着かせようとした。もうここに留まるのを避けることはないだろうと思考に浮かべて、乾いた唇を舐める。この部屋を訪れる人を不安にさせる、アンバランスに欠けたピースが眼下に倒れ伏す父で埋められたように思った。この部屋が広いのは事を為し易くするため、床と壁とが共に整地されているのは不自然な痕をつけぬためなのだろう。尤も今となっては無意味な配慮だった。古代のごく単純な魔法ならいざ知らず、近代の複雑化した魔法であれば殺意を覆い隠すことも容易い。アブラクサスの目の前に佇む青年も、魔法は運命を覆すことさえ可能だと主張して止まない。
 非現実的だと鼻で笑った台詞は、思い起こす度に真実味を増すようだった。それとも現実から目を背けているだけなのかもしれない。
 これで良かったのだろうか? そう自問したのへ被せるように、「ねえ、アブラクサス」と親しげな声が響いた。アブラクサスは顔を上げ、父の死体を挟んで対岸に澱む赤を探った。トム・マールヴォロ・リドル――アブラクサスより数歳年若い彼の容貌は殆ど学生時代と変わりなかったが、薄ら浮かべられた笑みにこもる残忍さは見慣れぬものだった。少しこけた頬が彼の嗜虐性を一層際立たせる。
「アブラクラス、これで契約は正しく成立されたと受け取って良いのかな」
 くるり危うげな仕草で父の杖を弄ぶリドルが確かめるように問うた。勿論アブラクサスは否定出来ると思っていなかったし、彼の矜持に懸けて翻す気もなかった。アブラクサスは応じるでも否定するでもなくただ口を噤んでいた。リドルは返事を強いることはなかった。くるり、くると子供のように杖を回している。今にも落ちそうなほどにたどたどしい手つきだったが、杖の方から彼に縋りついているようだった。「……まあ良いか」誰に言うでもなく呟くと、リドルは杖を持ちなおした。持ち手部分に這う銀細工の蛇を撫でた。黒い瞳が細められる。
「契約――」薄い唇が緩く弧を描き、甚振るように悪趣味な声で小さく笑った。「君のプライドの高さなら、約束と言った方が良いのかな」
 そのからかいにも応えず、アブラクサスはやはり黙っていた。蝋燭が十分でない朧闇のなかでもその顔色の悪さが伺える。ややあってから、アブラクサスは物言いたげに口を開いたが、一言も放つことなく結び直された。色のない唇が冷気に震えていた。
 リドルは詰まらないと言いたげにため息を零し、杖を投げてよこした。咄嗟の事に受け取り損ね、指先を掠めて行った杖が父の背に落ちる。黒檀で出来た杖は父の黒いローブへ吸い込まれていくようだった。アブラクサスもぬかるみに足を取られる気がした。足先に力を込めると、上体が僅かに仰け反った。アブラクサスの動揺をリドルがせせら笑う。腕を組んで、くっと顎を上げた。アブラクサスを見つめる目が爛々と輝いていた。話を持ちかけた時の気乗りしない態度が嘘のようだ。「取って食いやしない――拾いなよ」アブラクサスは眉を寄せると、リドルに言われた通り膝を屈めた。寒さに強張った指を伸ばして、父の杖を手に取る。
 杖芯が何かは覚えていないが、黒檀に銀細工で飾られた杖はアブラクサスの美意識の形成過程に多大な影響を及ぼした。栞、釦や飾り箱に至るまで、父の杖にあるような、線細工を基盤としたデザインに単色の装飾を好んで使っていた。
 薄ら記憶の底に残っていた父の杖。物心ついてからまじまじと見たことなぞなかったが、変わらず美しかった。

「分からないな」杖を手に考え込むアブラクサスへリドルが小首を傾げた。「遠からず逝く老いぼれ一人殺せない君じゃあないだろう」
 不可解だと零すリドルに、アブラクサスは泣きそうに笑って見せた。胸にとぐろを巻く感情が鎌首をもたげ、喉を絞める。
 共犯者に対する仲間意識や、世間一般的な価値観の枠に収まることの出来ない不遇への同情ではない。しかし昨日まで嫌い嘲っていた男へ己の弱みを見せて構わない。そんな程度には気持ちの変化があった。それが何の故かは分からないし、分かりたくもない。
「貴方には永遠に分からない」胸中を占める感情へ嫌悪さえ覚えているのに、声へ独占欲が滲む。アブラクサスは父の杖をきつく握りしめた。私にも分からないと言うのを遮って、呻く。「貴方には――」分からない。何も見たくない。苦しい。息が出来ない。浅い息を繰り返す。喘ぐ喉を、杖を持つ手で押さえる。ひやりと涼しい銀に自身の熱を自覚した。「そう」と、間近に聞こえた。
「なるほど、僕には分からないかもしれないね」
 眼前に迫る闇に、アブラクサスは一歩後退した。すいと伸ばされた指から逃れ続けた体が石壁にぶつかる。背にじわりと冷たいものが広がった。「今の内に好きなだけ僕を呪うと良い」リドルは石壁にとんと手をつき、反対の手でアブラクサスの頬へ触れた。
 視界が赤いものに遮られる。獰猛な色を浮かべる瞳へ驚きはしなかった。どの道自分も、世界の何も映らない瞳だ。
 呆然とリドルの瞳を見つめるアブラクサスを痛みが引き戻した。リドルがくっと指を曲げ、皮膚に食い込ませる。「じき君は僕のものになるんだから」チリと焦げるような痛みにアブラクサスが唇を噛んだ。プツリ皮膚を破った爪が弾力のある肉を漁り、離れていく。
 約束通り、君もこの血脈も全て僕のものだ。念押しで囁くリドルが指を濡らす鮮血を舐めとった。
 アブラクサスは頬から垂れる血を拭うことなく、ぼうと立ち尽くしていた。悪魔と契約してしまったような絶望と、目の前に佇む青年の内に巣食う闇の深さへ魅了されていく高揚、全身の血が抜けていくような喪失感とが押し寄せてくる。

 自分と、これから生まれてくる己の血族全ての隷属――それがこの代行殺人の対価として求められた。アブラクサスは了承した。

 アブラクサスの父はリドルが「そこまでするほどの男じゃないだろう」と笑うほど平凡な男だった。どのような分野にかけても可もなく不可もなくといった調子で、唯一の例外として闇の魔術を苦手としていた。学生時代から既に闇の魔術に耽っていたアブラクサスが父を殺すに手古摺るはずもない。また疾うに幾人か殺めた身で、何故今更になって“たかが”父親を殺すだけで怖気づくのか。
 リドルの反論や疑問は何もかもが最もだった。最もだと、アブラクサスも思った。

 こうして殺意を抱くからには無論アブラクサスとその父との関係は良好とは言い難かった。
 父はその体の弱さから――もしくは妻子と関わることを拒んで、専らワイト島の別邸に籠り、ウィルトシャーの本邸へ顔を出すことは滅多になかった。たまにしか会わぬ人へ懐くはずもなく、ごく幼い頃は自分に馴れ馴れしい親類程度にしか認識していなかった。少し大きくなると「自分の父親だ」と理解するようになったが、その実感は伴わず、奇妙な存在としてひたすらに敬遠し続けた。やがて母が魔法薬の事故で亡くなると本邸へ戻ってきたが、間もなくアブラクサスのほうがホグワーツで学ぶため家を出た。
 共に過ごした時間はホグワーツで出会った友に劣り、又人並み外れて賢かったアブラクサスはまるで優れたところのない父を軽蔑していた。リドルの言う通り自分の手で殺したって良かったのだ。如何でも良い人を殺すのを躊躇うほどにお優しいわけでもない。アブラクサスはこの出自の知れない後輩が嫌いだったし、純血でない癖に魔法の才があることや人心を集める術に長けているところが気に食わなかった。碌な就職先に恵まれなかったことを聞いて、仲間内で散々馬鹿にもした。
『そんな相手に縋ってまで、何故己の手で父を殺すのを避ける?』
 ボージン・アンド・バークスのカウンターに肘をつくリドルが低く笑った。

 格下と思っていた相手に恭順して、己ばかりか子孫まで巻き込んで、果たして君の父親の首にそれだけの価値があるのかい。

 父ははっきりと無価値な人間だった。野心や向上心というものから見放されたように詰まらない人で、唯一の長所と言えば人に取り入るのが巧みというそれだけだろう。馬鹿みたいにヘラヘラして、多数で集まると常に輪の中心にいた。アブラクサスに対してもそんな風に笑いかけた。十一年ずっと放って置きっぱなしだった癖に何事もなかったかのように話しかけてくる、無責任で馬鹿な男。嫌いだった。さっさと死ねばいいと思った。そう思っていたのに、杖を向けられなかった。笑い掛けられるたびに唇が強張った。死の呪文どころか罵り一つ零せなかった。あの人の前に立つと、途端に自分が小さな子供であるように感じて、自分の考えや悩みの全てが些細な事であるように感じて、何もかもが覆されてしまうようで、早く事を済ませてしまわなければと急いた。早く、早くこの人を殺してしまわなければ――。
 アブラクサスの逡巡を見透かしたリドルが無感情な声で嘲る。「僕には分からないと言ったけれど、」静かに前置きしてから、日ごろの饒舌さを失わない滑らかな台詞。「それが君の冷静さを欠いた判断・非合理的な排除に結びついたのだとすれば、分かりたくもないね」
 昨日まで己を苛立たせた雄弁さが不思議と安らぐ。アブラクサスはリドルへ微笑いかけた。「……忘れてくれ」杖を握る指を緩めた。「ほんの、冗談だ」この世界の何もかもほんの少し力を込めたらパキリと壊れてしまいそうで、重量の何一つ感じることが出来ない。
 何故父へ杖先を向けることが出来なかったのか、否この杖のように縋るには柔すぎる命綱で、首を括るに満足な長さであったというだけだ。胸に滲む何もかもを否定して、逃れるように闇へ身を任せた。あの人が憎かったのだと結論付ける。

 逃げられているような、故意に避けられているような気がする。嫌われているのは知っていたが、憎まれてさえいるかもしれない。

 若い声がヒュペリオンと呼んだ。冬のくすんだ陽光のなかに、プラチナの髪を緩く縛った壮年の男が見える。年甲斐もなく口を尖らせていた。ヒュペリオン、でも聞く限りでは貴方は息子さんによくしていると思いますよ。そうかな? 椅子へ後ろ向きに掛けるヒュペリオンが、ズルズルとオリバンダーのほうへ近づく。擦れた床板は後で直せば良いと考えながら節ばった指で木目を探った。そうですよ。日和見を口にしたものの、思考には六年前会ったきりの少年の冷たい目が浮かんでいた。目の前の好人物と血が繋がっているとは到底思えない、頑なな表情をする子だった。杖も“相応に”しなり難いものだったと思い返す。そんな風に、客あしらいに長けた自分でも話しかけるのを躊躇ってしまうように子供らしさの薄い少年だったが、ヒュペリオンは愛しさを感じているらしかった。尤も実の父子なのだから、それも当然と言えば当然か。しかしながら男親と子の結びつきが女親のそれに劣ることを考えると、やはりヒュペリオンは愛情深いように感じた。
 オリバンターは磨き粉を呼び寄せると、もう一度日和見を口にした。いずれ打ち解けられますよ。
 勝手に帳簿を捲っていたヒュペリオンがふと顔を上げた。そうだねと、弾んだ声を出す。そうそう、息子が杖を褒めてくれてね。恐らく一言二言適当に零しただけなのだろうに、ヒュペリオンはにこにこと上機嫌だった。久しぶりに十分も話し込んだよ。ホグワーツを卒業した記念に君に細工してもらったんだと言ったら興味を持ってね。彼が望むなら来年あたり、卒業祝いに君へ細工仕事を頼むかもしれない。
 親子関係の改善の兆しを感じたオリバンダーは柔和に微笑った。ああ、来年卒業ですか。磨き粉に白く染まった皮膚が木目と同化していく。くすんだ肌色が波打って、しわが寄った。張りのある声が――時の過ぎるのは――さざ波のように遠のいていく――早いもので――何も、聞こえない。差しこむ陽は埃っぽくて、先まで磨いていた杖が離れた場所で差しだされている。持ち手に絡む蛇は経年劣化でひびが入っている。繊細な銀線細工も所々欠けていた。老いた蛇は鏡のように過ぎる歳月を映し出していた。
「ちと記憶がごっちゃになって……」オリバンダーは不思議そうに小首を傾げるダリルへそう取り繕う。
 かさついた唇から落ちる声も時の流れにしゃがれていた。それもそのはずで、あの白昼夢から悠に半世紀は経つ。ヒュペリオンは死んだし、その息子たるアブラクサスとてもう亡い。自分らしくもない旧懐の念に駆られたと頬を掻けば、爪がしわにひっかかった。さざ波のように寄せてはかえす記憶から目を逸らし、懐かしい杖を受け取る。若い頃苦労させられた細工部分に顔を寄せた。
「――黒檀にバジリスクの鱗、長さは三十センチ。振り応えがあり、闇の魔術に対する防衛術に最適」
 脳裏に過ぎったヒュペリオンの台詞を繰り返す。勿論自分の見立てた物や作った物でなくとも材質・特徴は分かるが、彼の台詞が蘇るほうが早かった。細工仕事ぐらい見せてくれと工房に押し入った彼が傍らで囀るものだから、作業に集中し難かったのを今も覚えている。
 オリバンダーは物心ついた時からずっとこの店の奥にある工房で杖作りについて学ばされた。同世代の子供と触れ合う機会の少なかった自分にとって、ヒュペリオンは初めて出来た友のような、兄のような人だった。杖作りに興味・関心を持っていると言うだけあって手先が器用で、美的感覚にも優れていた。自分らしくもなく感傷的になって、オリバンダーは杖の詳細を確かめるでもなく突っ返した。
 返された杖を矯めつ眇めつするダリルから視線を逸らす。「あなたのひいおじいさんの杖じゃな」慣れた景色が掠れるのに頭を振った。
「この杖を売った時のことはよーく覚えておる」
 到底スリザリンらしくない優しげな少年で、幼い自分へ笑いかけてくれた。父母や祖父母と同じにこの店で杖を買うのを楽しみにしていた。君もじき立派な杖職人になるんだろうな。当時改築したばかりの店内は今より明るく、黒檀の杖を手にする少年も朗らかだった。彼の未来は枝葉のそれのように繁っていると思ったし、そうでなくともそれから二十年と少しで逝ってしまう等とは思っていなかった。
「この杖自体はわしの父の作品じゃが、この細工仕事はわしがした」オリバンダーはダリルの手の中にある杖を指で示した。「図案が細かくて、父に叱られながら幾度練習したかのう。その甲斐もあって気に入られたのか、しょっちゅう杖を見せに来ましたな」
 親しかった――杖の手入れなど口実で、自分たちは長いこと色々な話をした――そんなことを目の前の少女へ告げて何になるのか。
 ヒュペリオンが死んだのは、この少女が産まれる何十年前のことだ。オリバンダーはルシウスの口から、アブラクサスが彼の肖像画を破棄してしまったことを聞き及んでいた。ふうん、貴方と親しかったなんて初めて知った。父上から祖父の話を聞いたことはないな。肖像画も燃してしまったし……きっと折り合いが悪かったのだろう。軽く流されたことからヒュペリオンに対する害意を感じた。

 ヒュペリオンと折り合いの悪かったアブラクサス。彼がマルフォイ家の当主になってから、彼の邸で連日のように妖しげな集会が開かれているらしいという噂が誰ともなしに流れた。単なる噂に過ぎなかったが故にやがて忘れ去られてしまったものの、ヴォルデモートという名が人々の間で囁かれ始めると、かつてマルフォイ邸で行われていた集会について思い出す者もいた。
 アブラクサスは自分の養育を放棄した人を送る責任もないと葬儀の執り行いを拒み、早々に埋葬してしまった。ヒュペリオンの死が伝えられがのは彼が死んでからひと月後のことだった。どこへ埋めたかも教えては貰えず、彼の墓前に花を供えることさえ出来なかった。
 ヒュペリオンは息子のことを相応に愛していた。家格が上の妻と上手くやっていけなかった結果としてワイト島に籠ったが、アブラクサスのことは常に気に掛けていた。確かに当人にしてみれば無責任な父親に映ったかもしれないが、それでも彼の愛情は伝わっていたはずだ。
『ヴォルデモートを擁立することへ批判的だったヒュペリオンを、二人で殺したのではないか……』
 オリバンダーはダリルの手の中に収まる杖を見つめた。ダリルには新しい杖を買うよう促したが、実際“杖の持ち主”の血族であれば日常生活上で使うには問題ない。しかしヒュペリオンの直系の子孫であるダリルはこの杖を使いにくいとオリバンダーの下へ訪れた。ヒュペリオンの杖のまま終えたなら彼女が違和感を覚えるわけがない。アブラクサスに奪われたのでもそれは同じだろう。ダリルがヒュペリオンの孫でないという可能性もあるが――その双子の兄たるドラコ・マルフォイにはヒュペリオンの名残がある。ダリルはヒュペリオンの孫だ。
 ヴォルデモートに杖を奪われ、緑線に胸を貫かれるヒュペリオンの姿がまざまざと浮かんだ。動揺はなかった。病死でないだろうことは疾うに予感していた。オリバンダーはふーと息を長く紡ぐ。「この杖は君に合わんじゃろう」
 ぼうやり思索にふけっていたダリルがはっと我に返り、不満に口を尖らせる。「でも、オリバンダーさん。まだ振ってもいませんわ」
「振らずとも分かる。この杖は君へ従順にならぬよ」人を殺めた杖を前途ある若者が持っていてはならないと思った。オリバンダーはどこかヒュペリオンを思い出させる表情から逃れるように浅く俯いた。銀の蛇が視界を這う。ヒュペリオンの自慢だった杖、そして終にはその主人の命を奪ったのだろう杖を見つめる。「この杖は君の杖ではない。……そして疾うにあれのものでもない」
「二年もよくこんな杖を使えたものじゃ」オリバンダーはため息と共に吐き捨てた。
「それは……その、」ダリルはまだ納得出来ないらしく、言葉を濁した。
 彼の子孫に冷静な者が多いなかダリルの性質はヒュペリオンに似ている。叶うなら彼女に使って欲しかったし、気に入ってもらえたのは嬉しい。しかしいい加減ヒュペリオンの友ではなく、杖作りとしての自分へ戻るべきだろう。
「君は新しく、君を選んでくれる杖を買うべきじゃよ」
「……はい」ダリルは頷くとショルダーバッグの蓋を開け、杖を仕舞った。
 オリバンダー君、僕はね、この杖が好きだよ。妻と上手くいっていないのを抜きにしても伴侶のように思っている。ヒュペリオンの思い出が耳朶に囁いた。夏日に目を細める。懐かしい杖、もう思い出でしかない杖。その杖の持ち主だろうヴォルデモートが滅んだ今となってはもう二度と誰に使われることもない。目の前の少女はやや浅慮なところがあるが、優しげだった。きっとヒュペリオンの愛した杖を安らかに眠らせてくれるだろう。オリバンダーはほっと息をついた。「そう、自分に合う杖を使うのが一番良い」にこっと歯を見せて笑う。
「良い杖を選んで差し上げますでな」オリバンダーは帳簿台のほうへと踵を返した。
 何もかも過去のことだ。今ここにいるのは杖を求める幼い客と老いた店主でしかない。彼女のために良い杖を選ぼう――いつものように。そう気持ちを切り替えたのに、「この杖が誰を選んだのか、知っておられるんでしょうか?」という問いにガツンと喰らわされた。
 存外にしつこい娘だと渋い顔をする。好奇心が強いらしい。厄介事に首を突っ込まなければ良いけれどと、老人じみたお節介が顔を覗かせた。「憶測に過ぎんが名を言う事も出来ん」顔だけで振り向くと、オリバンダーはぶっきら棒にそう零した。これ以上物思いに耽るつもりはない。ダリルはまだ腑に落ちないと言いたげな顔をしていたものの、「さあ、こちらに」と促せばそれ以上は聞いてこなかった。

 黙していると母親の幼い頃によく似ていると思ったが、杖選びに手間取るのも母親譲りらしい。
 ヒュペリオンの杖選びは酷くあっという間だったし、アブラクサスも三本目かそこらで符合した。ルシウスも同様だ。ナルシッサは中々決まらないで、年嵩の姉にせっつかれていたように記憶している。「実に選び甲斐がありますな? え?」
 オリバンダーの楽しげな声にダリルが額を押さえた。待たせる者もいないのだから杖選びに掛かる時間をもどかしく思う必要などないだろうに、中々杖が決まらないのを恥じる子供は少なくない。杖は人生を共にするパートナーだ。それと出会うのが早かろうと遅かろうと何ら恥じることはない。血族の杖を継ぐ慣習と言い、世間はあまりにも無知だと思った。尤も杖作りの術を秘しているこちらにも非はあるのだろう。取り留めもなく考えていると、床に転がる箱を棚へ戻そうと振った杖先が横にずれた。ほんの僅かではあるが、無言呪文の正否は杖の振り方に依るところが大きい。失敗していないと良いのだが――オリバンダーが眉を寄せたのと同時、背後で床板が軋んだ。振り向けば頭を抱えたダリルが蹲っていた。「どうなされました」と問うてみたものの、状況は明らかだった。影の落ちる床に古びた空き箱とヒュペリオンの杖が転がっている。空箱が落ちてきただけではそう痛くもないはずだ。それにしてはダリルの痛がりようが過剰なように思えて、その他にも何か胸に疼くものがあったのだが、ダリルが頭を振るので疑問が紛れてしまった。
「なんでも、ないです」ダリルは杖を拾うと立ち上がった。ヒュペリオンの杖をポケットに仕舞う。留め具が甘くなっているのか、蹲った拍子に蓋が開いたのに違いない。オリバンダーはそう結論付け、杖を振った。空き箱は殆ど天井近くまで浮かび、蜘蛛の巣さえ貼られている棚へ収まった。使い物にならない不良在庫を並べていたところだ。残しているからには廃棄する他ないという品ではなかろうが、処分するにしろ残し続けるにしろ整理し直すなりするべきだろう。オリバンダーはもう一度杖を振ると棚に掛かる蜘蛛の巣を消した。



 オリバンダーから返された杖を鞄に仕舞い、その後で落ちた杖をポケットに仕舞った。店を出てから鞄を開けたことはないと思う。

 カーペットの上に並ぶ双子の杖と、その前に座り込んだダリルはまんじりともしないまま一夜を終えた。ちょっとも眠くなかったわけではないが、胸中に湧く不安から一睡も出来なかったのである。チュンチュンピチュチュ……カーテンの隙間から夏陽の漏れる頃になってもダリルの気持ちは新月の夜より暗かった。薄ら微睡んだ結果として杖を蹴り、どちらが鞄に入っていたものか分からなくなったのはこの際如何でも良い。自分の杖が不明であることなど些細なことだとダリルは思った。二本の杖がまるきり同じであることさえ、今はダリルの好奇心を刺激しない。杖が“二本存在している”こと以上にダリルの関心を占めることはなかった。二本。ダリルの所有している杖は一本きりだ。尤も邸内を探れば杖の数十本は出てくるのだろうが、それはこの問題に関係ない。無関係だ。ダリルはこの二本の杖の一方の出自を探っているわけではない。寧ろそれが明らかになったからこそ落ち込んでいる。杖の出自など問題ではない。未精算であるということが問題なのだ。
 ダリルの双肩に「万引き」という三文字が重く伸し掛かった。杖を見つめたまま震える。ダリルの記憶が確かなら、あの時ダリルの頭に落ちてきた箱は空箱などではなく、この杖の一方が入っていたのだと思う。未精算だ。店主の前で堂々とポケットにいれた。未精算だ。未精算だ。お金を払っていない。会計を済ませず持ちだしてしまった。しかも一月ほども気づかず、未精算のまま幾度か使った。如何しよう。でも悪気があったわけではないし、万引きしてやろうと思った訳ではない。それで許されるのかと言えば、まあ、そんなはずもない。ナルシッサが知ったら烈火の如く怒るだろうし、ドラコやルシウスの呆れ顔が浮かぶ。でも、これだけ似ていれば間違えてしまうのも仕方のないことではなかろうか。仕方がない。謝罪して返品するなり清算を済ませるなりすれば事は済むはずだ。今後一切の出入りを禁じられるかもしれないが、一応は済む。どの道朝一番に行動を起こさないことにはダリルが居た堪れない。酷い顔で朝食の席に赴いたダリルは無論ルシウスへ事の次第を話し、最悪「お父様が急かすんですもの」とか責任転嫁することで自責の念を軽減させようと目論んだ。しかしトーストにバターを塗るドラコが「ダリルだけでスネイプ教授の家へ行かせるなんて、父上は後輩の家が吹っ飛ばされても平気なのですか」なんてふざけたことをほざくので我に返った。我に返ったというか、一等初めに思いついて然るべき最悪のケースが浮かんだ。
 ダリルは自分のティーカップに十個めの角砂糖を落としながら、ドラコとルシウスのやり取りへ耳を澄ませていた。ダリルが大人しいのをいいことに「如何にダリルが優秀なトラブルメーカーであるとしても、流石に寝室とバスルームぐらいは残るだろう。どうせ九月になればまたホグワーツへ戻ってしまうのだから、それだけ残れば暮らしていくに不便はない」「スネイプ教授は調合がお好きなんですから、地下牢がなければ死んでしまいますよ」「あれは吸血鬼でなく成人した魔法使いだぞ。一月虫干ししたところで死にはせん」などと好き放題。スネイプの家を吹っ飛ばせたなら、グリフィンドール寮の談話室にダリルの銅像が立つだろう。焼野原に立つスネイプの姿を想像すると、ダリルは少し気分が明るくなった――屋敷僕妖精にティーカップ入りの紅茶味の砂糖を押し付けて、新しい紅茶を貰おうと思えるぐらいには。

 お父様、オリバンダーの店で万引きをしてしまったみたいなの……。馬鹿正直にそんなことを打ち明けて、一週間後のお出かけを取り上げられないと誰が言い切れるだろうか? 取り上げられないにしろ、お目付け役としてドラコがついてくる可能性は否めない。ルシウスの口ぶりから察するにダリル一人で来させるよう書き添えてあったのだろうが、スネイプとてドラコぐらいなら許すに違いなかった。ドラコはダリルがグリフィンドールへ組み分けられても、マグルの町へ出ても、ジョージ達と仲良くしても許してくれる。しかし「ハリーの家へ遊びに行くの」などと言って笑ってくれるほど優しくない。まあハリーの家へ行けるかはまだ分からないのだけど、この間貰った手紙にも暇だ暇だと書いていたから、ダリルの訪問を歓迎してくれるに違いない。新聞とか、雑誌とかを持っていったら喜ぶかな。紅茶をちびちび舐めながら考えた結果、ダリルは一人でオリバンダーの店に赴くことにした。一度出来たことが出来ぬはずもない。
 片割れが犯罪者になるかならぬかという瀬戸際であるのも知らず、ダリルの先を歩くドラコはスネイプのことへかまけている。
「父上はああ言うけど、教授は物静かだからお前と二人きりっていうのは疲れるんじゃないかな」
「物静かというより根暗なのよ」
「根暗じゃない。物憂げに思案なさっていることが多いからそう言う風に見えるだけだ」
「物憂げに人の悪口を考えるならやっぱり根暗じゃない」
「お前は教授を誤解している」
「ドラコの目が節穴なだけでしょう」
 ドラコから今夏十二回目の絶交を申し渡されたダリルは旧広間へ行く覚悟を固めた。これ以上ドラコとスネイプを親しくさせてなるものか。スネイプなんかのことで自分がドラコに嫌われでもしたら一大事だ。何としても自分一人でスネイプの家へ行かねばならない。

 由緒正しいか如何かは抜きにしても己の血筋の正当性を主張するだけあって、マルフォイ家には先祖の肖像画が多く飾られている。飾られてはいるが、ダリルが彼らと出くわすことは滅多にない。両親たるルシウスやナルシッサとも完全には打ち解けられないのだから、更に縁遠い人々と仲良くやっていけるはずがないだろう。避けられるものは避けるし、あまりに“酷い”ものは然るべき処置を施された後に旧広間へ仕舞われる手はずとなっていた。口やかましい肖像画を嫌っているのはダリルだけではない。ルシウスだってあれやこれや口出ししてくるお節介は嫌いなのだ。それに、余所の額縁へ顔を出して“機密”を漏らす可能性のあるものを放って置けるはずもない。ダリルがホグワーツへ入学する頃には、両親の部屋に掛かっているシグナス・ブラックの肖像画以外のものは全て旧広間行きの運命を辿っていた。尤もダリルを侮辱するのは先祖の肖像画に限らなかったが――ルシウスが害なしと判断したものだ。碌な知性もないものに嘲られたからと一々落ち込んでいたら、やっていけない。まあダリルもそこまでメンタルが強いわけでないので、スクイブであるのを幾度もからかってくる絵画はルシウスに頼んで破棄して貰ってきた。今も勿論そりの合わない絵画はあるが、ダリルを出来損ないと言うものはない。
 そうやって、今まで懸命に避け続けたものが集う部屋へ赴くのは大変に憂欝なことだった。迎賓棟の廊下を奥へ奥へと進むダリルの足は鉛のように重かった。地下へと続く階段を前にして、ローブの下に隠し持ってきたフェアリーランプで照らす。ふーと息を長く紡いでから、ダリルは一段下へ降りた。とん、足音すら吸い込まれていくように暗い。三十段ある階段を下り終えれば長い通路があり、旧広間はその突き当りにあった。以前は一階にあったというが、ナルシッサが嫁いできて間もなく入れ替えたらしい。ダリルも一度だけ入ったことがあるが、石製の食卓や、黒椿の絡むシャンデリア、そして暖炉の上に並ぶ屋敷僕妖精の首等が不気味だったと記憶している。ナルシッサが仕舞ってしまったのも分かるというものだ。そんな如何しようもない部屋にも暖炉はある。既に煙突飛行ネットワークから外されているかもしれないが、ナルシッサの目の前で煙突飛行を試す前に覗きに行く価値はあるとダリルは思った。しかし煙突飛行ネットワークから外されていなくとも煙突飛行粉がなければ確かめようがない。肖像画達の手前――倉庫に仕舞っていると勘付かれぬよう――いつでも使えるようにはしていると聞いた覚えがあるので、ないと断定することは出来ないだろう。ダリルは頭の中の天秤を突っつきながら扉に手を掛けた。

 深呼吸でもって十分に落ち着かせたはずだったが、あの十一年で仕舞いに仕舞った肖像画はやはり膨大な数だったようで、左右の壁を埋め尽くす肖像画達を前にダリルは数秒身動きが取れなかった。見なかった振りをして、このまま帰ろうか。杖のことなど気づかなかった振りをしてしまおうか。色々に考えたけれど、やはり万引き犯の汚名は早々に雪いでしまいたい。ダリルはきゅっと唇を噛むと、静かに扉を閉めた。分厚い扉に何もかもが封じ込められるようにと望んで、閂を下ろす。ダリルは扉に寄りかかり、深くため息をついた。
 出来損ない、スクイブ、家名を汚す者――全て聞き飽きたものだ。ダリルは羽虫が湧いているのだと思い込むことにした。絵の縁を黒線に囲まれ、外へ行くことのできない人々はダリルがホグワーツへ通っていることも、魔法が使えるようになったことも知らない。訂正したいとは思わなかった。どうせこの絵達は、ダリルが誰かが訪れない限り物を考えられないのだ。それにジョージ達と親しくなった今となっては絵画に何と思われようと如何でも良い。ダリルは真っ直ぐフェアリーランプを掲げると、大股で暖炉へ近づいた。
 マントルピースの上には、燭台に挟まれた銀皿がある。萌黄の光を受けて、煙突飛行粉がキラキラと輝いていた。ダリルはほーっと吐息を零す。これで煙突飛行ネットワークに組み込まれているか如何か試すことが出来る。ダリルは食卓に鞄を置き、中から薪をいくつかと新聞紙を数枚、着火用のマッチを取り出した。杖が使えれば容易いのだけれど、勿論使う事は出来ない。煙突飛行のための目だし帽等を装備しながら、フレッド・ジョージ宜しく夏季休暇前に配られたプリントをブツブツ呪っていると、罵声に混じって己を呼ぶ低い声が聞こえた。
 まさかルシウスでは……否まさか。ダリルは目だし帽を脱いだ。
 戦々恐々とした面持ちで辺りを見回せば、右脇に飾られた初老の魔法使いと目が合った。「ダリル、こちらへおいで」
 人差し指だけを動かして招く手振り。ルシウスと同じアイスブルーの瞳、己の髪色よりも淡いプラチナが闇のなかでも目立つ。どことなく懐かしいその声は、ダリルの父方の祖父、アブラクサス・マルフォイのものだった。

 ニコニコと優しげに微笑む姿は往年と変わりない。
 ダリルはこの祖父が好きだった。子供あしらいの下手なルシウスと上手く行かなかった頃、父とよく似た祖父に可愛がられると気持ちが慰められた。少し大きくなるとルシウスに嫌われているわけでないと知れたものの、それでも優しげに笑っている祖父のほうが甘えやすかった。そう思っていたはずなのに、久方ぶりに祖父――絵画に過ぎないわけだが――を前にすると、近づくのが躊躇われた。
 ダリルの逡巡を知ってか知らずか、祖父が苦笑する。「取って食いやしない――近くへ来ると良い。お前の声が聞こえづらい」ひたりと胸に迫るものがあったが、ダリルは素直に近づいた。手の中にある目だし帽をぎゅっと掴む。
 アブラクサスは満足そうに数度頷いてから、チラと暖炉のほうへ視線を滑らせた。「何処かへ出掛けるのかね」
「あの、はい。オリバンダーの店へ」そう答えてから、言い訳でもするように急いた口調で付け足す。「私の杖を見て貰おうと」
 ダリルがそう言った途端、あんなに騒がしかった広間が静まり返る。絵画達がヒソヒソ話し出す。アブラクサスの肖像画の横に飾られている、ダリルの高祖母らしい魔女が「まさかホグワーツへ……?」と聞いてきたが、ダリルは応えなかった。下手に喋って寮を問われるは嫌だったし、かつて玄関ホールに掛かっていたこの肖像画がダリルの顔を見る度侮辱してくれたのを忘れてはいない。ダリルは訝しげに眉を寄せる祖父を見つめた。「ああ……なるほど、杖をね」アブラクサスはすいと目を細めると、再び口元へ笑みを作った。
「どのような杖を使っているのかね。見せてみなさい」
「はい、とってきます」そう言い終えるか否か、ダリルはそわそわと落ち着かない態度で暖炉のほうへ向かった。
 鞄のなかから二つある杖の一方を取り出り、遅々とした歩みでアブラクサスの下へ戻る。完全に歩みを止めてから杖を掲げた。
「お父様が自分の祖父の杖と譲って下さったんです」ダリルは僅かに微笑んで見せる。「お祖父様のお父様の杖でしょう」
 見覚えがあるでしょうと問うただけなのに、アブラクサスは奇妙な顔をした。「ああ」声のトーンが落ちる。
「ああ、ふん。そうだな」
 素っ気ない口ぶりに、ダリルはふと曽祖父の肖像画について聞いたことがないのに気づいた。破棄されてしまったのだろうか? ルシウスからアブラクサスの話を聞く事がないのと同じに、アブラクサスからも曽祖父について聞かされたことがない。ただルシウスが「温和な人だった」とだけ、杖をくれた時に零していた。ダリルの疑問を見透かすようにアブラクサスが皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「お前のお父様も、」まるで自分の近親ではないかのような口ぶりだった。「お前のお父様も私の肖像画を燃してしまうと思っていたがね」
 お祖父様は燃やしてしまったの。お父上のことがお嫌いだったのですか。そう聞いて欲しげな視線から顔を逸らして、腕時計を覗き込んだ。「あら、こんな時間」ダリルは顔をあげて、曖昧に微笑む。「ごめんなさいお祖父さま……少し急いでいるんです」
 わざとらしい話題転換だとは自覚していたが、所詮絵画だ。それでも最後まで会話を続けたのは、祖父の名残があるからだった。また遊びに来ますわねと愛想を振りまいて、ダリルはローブを翻した。暖炉へと歩み去って行く。

 ふわふわと頼りない光が遠のいていく。平面世界に距離がないことへ、その背を引き留めようと手を伸ばしてから気づいた。

 伸ばした指先に“背を引き留めようとした”という事実だけが触れる。幼い孫娘の背を引き留めて何をする気だったのか、薄っぺらな思考にダリルの細い首が残っていた。父の死体を足元に転がされた時の、言い様のない虚無感が広がる。
 この世界が目の前に繋がったならと、アブラクサスは――その名残は考える。この世界が縦横を得たならば、自分はダリルの首に触れたのだろう。緑の光で貫く代わりに、己が父をこの手で殺せなかった代わりに縊り殺したような気がする。
 この室は、あの日父を殺した秘密の部屋ではない。しかし澱む湿度や、どこか不安定な雰囲気は似通っているように思った。アブラクサスの気持ちを逆なでする不安定さだ。ピースを揃えるために彼女を殺さなくてはと思った。自分が自分であるためにこの少女を消し去ってしまわなければならない。今度こそ完全に、自分の手で、信頼の満ちた瞳が疑いを帯び、恐怖に濁っていくまで絞めなければならない。
『僕には分からないと言ったけれど、それが君の冷静さを欠いた判断・非合理的な排除に結びついたのだとすれば、分かりたくもないね』
「お前には分からない」アブラクサスは小さな声がぼやいた。再び騒がしくなった室内に、ダリルの関心はアブラクサスの下へ戻ってこなかった。聞いて欲しいようにも思わない。それは完全な独り言だった。「……お前には永遠に分からないさ、リドル」

 ダリルが視界から消えれば眠りとも死とも似つかわしくない夜がやってくる。先まで感じていた気持ちさえ虚偽に過ぎないという無感動な夜。人ではない自分が堂々巡りを続けるのも滑稽な事だ。本一冊分の厚みもない世界に感情だけが残されている。

 アブラクサスは、何の衒いもなく笑いかけてくれる父が好きだった。何と返せば父の気に入るのか分からなかった。十一年間ずっと家へ寄りつかないで、余所に作った女でもいるのかもしれない。その女との間に子供がいて、自分よりそちらのほうが可愛いのかもしれないと思った。そうでなくとも十一年間放って置かれて、自分だけが父を好いているのは馬鹿のようだと思った。詰まらない退屈な人で、自分が一方的に慕うに値しないとも思った。友人達と仲良くしていると、やはり自分が居なくとも良いのだなと思った。如何して良いのか分からなかった。恨めしかった。憎かった。罵りたかった。何故他の家の父親のように、自分の傍にいてくれなかったのだと問い詰めたかった。
 私は貴方を苛み続けたかった。私が貴方の気まぐれにどれだけ苛まれ苦しんだのか、それを知ってほしかった。

 縋るにはやわすぎる光。手に入らないのなら消えた方が心が休まると、そう思った。今もそう思っている。ダリルが暖炉のなかへ身を滑らせると、入り口に近い肖像画から順に眠りに落ちていく。じわり意識が抜け落ちていくのを感じながら、アブラクサスはこの夜を歓迎した。

 思考が抜け落ちる。

 煙突飛行粉を使うのは三回目だったが、それまで一度も失敗しなかったので油断していたのかもしれない。もしくは少し仮眠をとってから事を起こすべきだったのだろう。煙突飛行ネットワークに繋がっているのを確認し、ダイアゴン横丁と告げた途端に足元が抜け落ちた。否、抜け落ちるのは前回同様だったのだけれど、驚いた拍子によろけてしまった。そこからは何が如何なったのか良く分からない。提出目前の魔法薬学のレポートより真っ白な頭のなかに、ぽつんと染みが落ちる。いつものことだ。いつものことと言うほど繰り返していたら疾うに発狂しているだろうが、まあまあ見知った痛みだった。背中をびっしょり濡らした汗が冷えていく感覚にダリルは身を震わせた。口端を伝う唾液をごしごし拭る手を床に落とす。ふーっと浮かぶ埃を他人事っぽく眺めた。遠くのほうで誰かの声がする。それも一人でなく、大勢。特定の誰かにあてたものではないようだったから、ダリルがその音を“声”だと認識するまでには相当の時間が要された。
 だいじょうぶです……大丈夫、もんだいはありません……ダリルはボソボソと、埃の積もった板を見つめながら零した。大丈夫です。大丈夫? 本当に? 黒いものが木目を邪魔するのに、ダリルははっと身を起こした。漏れ鍋だった。パブにいる人全員がダリルを見ている。如何したものかと考えているらしいバーテンを何人かの客がせっついていた。「大丈夫です!」これ以上騒ぎになる前にと、大急ぎで叫ぶ。
「ごめんなさい――その、暖炉へ入る前に走ったものですから、発作が」よろよろと立ちあがるダリルは耳まで赤くなっていた。言い訳になるとも思えないが、何も言わないよりはマシだろう。「大丈夫です。ごめんなさい、いつものことなんです」客の多くは疑わしげな顔をしていたが、元来他人は事なかれ主義者を気取るものだ。熱心に自身の健康を主張し続けた結果、喧騒を取り戻すのに成功した。

 良かった良かった。今度からは、もっと気を付けよう。ダリルは肩の力を抜くと目だし帽を取り、暖炉脇へ移動しようとした。が、真っ黒い壁に阻まれる。ぱちぱちと瞬きすると、それが壁ではなくローブであることに気付くことが出来た。
 ダリルの前に立っている男は、精悍な体つきの魔法使いだった。スキンヘッドに片方だけのピアスと、見るからに変わっているというか、事前知識が何もない状態で関わり合いになるのは避けたいような風貌だ。しかし「本当に大丈夫なのかね」と問う声音は思慮深ささえ感じさせる響きだった。こうして見ず知らずの子供を気遣うことからもその優しさが伝わってくる。尤も今は単なる“お節介男”に過ぎない。
「とても大丈夫なようには見えない。家へ帰った方が良いように思うが……」
 ダリルはむっと口を尖らせ、間髪入れず否定した。「本当に、大丈夫です! いつものことなんです!!」それでもと食い下がる男にキャンキャン噛みついているのを老いた声が遮る。「その通り。大体いつもそんな感じで、場を騒がせていくのが得意な娘っこじゃよ」
「キングズリー、ほうっておけ」聞き覚えのある声だと横を向けば、顔見知りのナイトキャップがいた。「厄介に好かれとるんだ」
「それにマルフォイの娘だ。闇祓いのお前さんとは握手さえしたくないのじゃろ」
 ハーマイオニーと出かけた日に鞄をぶつけた老人が、口ひげをモフモフ言わせながら言い切った。
 どうもルシウスと漏れ鍋へ来たのをバッチリ目撃されていたらしい。「わしゃ、あいつは好かん」大人げなく主張してくだすったことから察するに、随分恨みがあるらしい。まあ好かれる人でないのは知っているけれど、改めて父親の人気の無さを自覚すると落ち込む。否それよりも、身元が割れたということは今日の外出がルシウスの耳に入る可能性が高くなったというわけで、それはつまりハリーの家を訪ねることは殆ど不可能になったということで、ダリルは目だし帽を力いっぱい握りしめた。言いたいことを言ったら満足したのか、以前同様寝間着にナイトキャップで巨大なケーキを突く老人を睨んだ。ケーキに埋もれて窒息してしまえば良いのに。
「――誰もがというわけではないが」不意に落ちてきた台詞に顔を上げると、キングズリーが困った顔をしているのが見えた。「君のご両親とは私も面識がある。だから言うけれど、誰もがというわけでないにしろ、君のご両親は“現状”が宜しくないことを知っている」
 来る。いつか来るとは、キングズリーに大丈夫か聞かれていた時から予感していた。「ご両親の許可は?」予感はしていたけれど、責めるでも強いるでもなく、ただ穏やかに問うてくるキングズリーを謀るのは難しいように思った。ダリルは俯いた。
 キングズリーがため息を零す。「ご両親の了承もなく抜け出してきたというのなら、ご両親に連絡しないとならないな」
 なんて運が悪いんだ。自分が何をした。まあ万引きしたけど。その結果ハリーの家へ行けないと言うのなら自業自得になるのだけれど。

「しかし一人歩きしたい子供の気持ちも分かる」
 泣きたいように惨めな気持ちで床の木目を見つめるダリルは、最初キングズリーが何を言っているのか分からなかった。
 寛容な台詞にダリルが顔をあげる。期待に満ち溢れた視線が注がれるのにキングズリーが苦笑した。「丁度今は暇なんだ。君の用が済むまで、私が保護者代わりに付き添おうじゃないか」キングズリーは胸元から取り出した懐中時計の文字盤を開いて、パチンと閉める。

 闇祓い達はシリウス・ブラックの捜索に忙しいのではと、ダリルは渋い顔をした。
 

老魔術師の肖像

 
 


七年語りLULL BEFORE THE STORM