七年語りLULL BEFORE THE STORM
29 マグノリア・クレセント通りの星

 

 何が悪かったと言うのだろう。ダリルは今日一日で幾百回繰り返したとも知れぬ疑問を浮かべた。

 こんなに懸命に問いかけているのに、結論は出ない。浮上しようと足掻く思考を、鉛のように重い四肢が溺れさせていた。精神的にも肉体的にも疲れていた。ふくらはぎは気怠く、足首から先は痺れたように痛い。もう駄目。これもまた、今日何度繰り返したかも分からない弱音だ。しかし、今度こそはっきりと「これが最後の弱音」だとダリルはそう確信した。どこか知らない家の門扉に指を絡ませたまま、ダリルはずるずるとしゃがみこむ。ヒールのある靴などはいてくるからだと、ダリルは思った。ダリルはヒールを触ってみた。もげるものならもいでしまいたかったが、頑丈にくっついている。靴を脱いで歩こうとも考えたが、分厚い靴下でも履いているなら兎も角、タイツしか履いていない足でアスファルトの上を歩くのは痛そうだ。それにただでさえ惨めな気持ちでいるのに、一層悲しくなってしまいそうだった。

 大きな鏡を取り出さなくても、今の自分がジプシー女より酷い恰好をしているのが分かる。ダリルは鼻をグスグス言わせた。排水溝に足を取られてこけた時にタイツは破けてしまったし、捻った足はパンプスのなかでパンパンに腫れていた。ストラップが足に食い込んで、痛い。一体全体、何故マグルは道に溝なぞ作るのだろう。否マグルの道路事情を恨んでも、如何にもなりはしない。自分がヒールのない靴を履いてくれば良かったのだ。ダリルは自分のうかつさを呪った。幾らダリルがマグルの町に疎くても、少し考えれば大分歩くことになるだろうことは悟れたはずだった。そうでなくとも、あまり――ヒールを履いたまま動き回れば足を傷めると分かっていたのだから、なるたけ動かないようにしておけば良かったのに、本当に自分は考えなしだ。ああ、今日一日で百年分は自分を呪ったのに、あと千年分は呪える気がする。なんて自分は馬鹿なのだろう。今思えばハリーから手紙が返ってこない時点で、ハリーの家を訪ねるのは諦めておけば良かったのだ。マグルの地図があるからって、ロンから伝え聞いた曖昧な情報だけで何とかなるなんて、何故そんな愚かを抱いたのだろう。ダリルは車のライトが近づいてくるのを認めると、生まれたての小鹿のよりずっと危うい動きで立ち上がった。本音を言えばいつまでもここでしゃがみこんでいたかったが、マグルの警察に見咎められるのは、マグルの子供達と遊ぶよりずっと楽しくない。

 ダリルは何故自分がこんな目に合っているのか考えながら、マグノリア・クレセント通りの果てを目指して歩きはじめた。

 ダリルの災難、否一日はつつがなく始まった。ダリルの一日は居心地のよいベッドで目を覚まし、起こしにきたキィーリレルを叱りつけ、一緒になって騒ぐフローを杖で脅すことから始まる。今日もそうだった。身嗜みを整え終わるなりドラコの部屋へ押し入って、まだ半分眠っているドラコに「キィーリレルとフローのおかげで、野蛮が身についちゃうわ」なんて愚痴る。「安心しろ。お前は産まれたときから野蛮だ」と欠伸をするドラコの後をついてまわっている内に食堂につく。いつも通りの朝。ただ一つ、朝食を終えて食堂を出た四人の向かう先が各々の自室ではなく、玄関先の馬車回しだったことだけが普段と違った。
 今日は八月の六日である。ヴォルデモートの刻んだ呪いを如何にかしてもらうため、スネイプの家を訪ねると約束した日だ。幸いにして――今にして思えばちっとも幸いなんかではなかったが――先日のダイアゴン横丁行きがバレることもなく、お出かけを取り上げられることも、付き添いが増えることもなかった。ルシウスからあれやこれや注意され、ナルシッサからは焼き立てのアップルパイを持たされ、ダリルは一人で馬車に乗りこんだ。扉を閉める直前までブチブチ言っていたのはドラコだけだった。ドラコは子供っぽい不平不満を並べたてていたが、ルシウスに叱られたので口をつぐんだ。不貞腐れるドラコの額にダリルがキスして、スネイプへよろしく言っておくことを――勿論ダリルがスネイプと宜しく出来たならの話だが――約束すると、ようやっと機嫌を直してくれた。ダリルはルシウスが口を開いたと同時に扉を閉め、天馬へ飛び立つよう指示した。帰ったら――ダリル、書斎に来る――ように! ダリルは知らんふりを決め込むことにした。
 ルシウスの説教は家へ帰ってから聞けば良い。その頃には呪いも解けていて、ベタベタと引っ付くことで怒りを誤魔化すことが出来るだろう。それにしても、何故スネイプ如きがドラコに好かれているのかダリルには分からない。ドラコは“あんな”だけど、意外にも繊細で、特に他人の好き嫌いが激しい。ナルシッサとルシウスの教育で改善されつつあるが、人見知りの気もある。クラッブとゴイルに対しても大した思い入れを持たないドラコが、何故ルシウスの友人兼寮監に過ぎないスネイプなんかを慕っているのだろう。甚だ不思議であるし不愉快だ。まあドラコとスネイプの仲を引き裂くのは兎も角として、――リトル・ウィジングの公園へ着陸するまでは滞りなく進んでいた。何の問題もなかったはずだ。そう、ハリーからの返信が来ないと言う重大な一点を除いては、何の問題もなかった。

 もう、本当に、何故それで「何の問題もない」などと思えたのだろう。ドラコがスネイプを慕う理由なんかよりもずっと不思議だ。

 本当に馬鹿だと、ダリルは改めて思った。
 手紙が返ってこない時点で諦めておけばいいのに、「それでも初めてマグルと会うわけではないし、魔法界のことをあれこれ言いふらさなければ厄介は起こさないはず。問題さえ起こさなければ、きっとハリーも迷惑がったりはしないわ」等と、ロンから伝え聞いた情報だけで押しかけることを決めてしまった。「サレー州のリトルウィジング……何とか通りってったかな」ダリルがハリーの住所について持ち合わせている情報は、そんな程度のものである。今になって、それがどれだけ曖昧で、広範囲を示すものであったか分かる。ああ、ロンがハリーの住所を安易に教えるから……! ダリルはロンへ責任転嫁したい気持ちになったが、流石に自分が聞きだしておいて八つ当たるのは躊躇われた。そもそも、その時はフレッドとジョージがついてきてくれる予定だったからロンも教えてくれたのだ。ダリル一人で押しかけるなどと知っていたら「スウェーデンあたりだったな……ブルガリアの国境に近い感じもする」とか何とか誤魔化したに違いない。

 ハリーの住んでいる通りの名も知らないのに、それで何故ハリーの家を見つけられるなんて過信を抱いてしまったのだろう。今となっては何を後悔しても始まらない。愚かなダリルは状況の客観視を放り出し、大いなる楽観視に身を埋めてしまった。だって、何のためにハリーの誕生日当日にカードとプレゼントを贈らなかったのか分からなくなってしまうわ。そりゃミス・レターからのものは贈ったし、ハリーはきっと“ダリル”から貰おうと貰わなかろうと如何でも良いのでしょうけど、でもハリーの家を訪ねるために、あんなに苦労して、大嫌いな絵画達に耐えてまでダイアゴン横丁へ行ったのよ。会わなければ損と言うものだわ。そう思ってしまったのがいけないのだと、ダリルは自覚した。ハリーの気持ちを汲めるだけの理性があれば、こんなことにはならなかった。
 ――そう悟り、自らを反省出来るなら最初からこんなところにはいない。

 他人の気持ちなどなんぼのもんじゃいという考えが根底にあるからこそ、ナルシッサが卒倒する可能性も顧みずグリフィンドールを選んだのだ。ダリルは「やっぱ今のなし」と否定した。自分を叱るのは止めておこう。ダリルは悪くない。だってまだ騒ぎを起こしたわけではないし、誰に迷惑をかけているわけでもない。迷惑をひっかぶっているのはマグルの街を彷徨う自分自身に他ならないのだから、ちょっと八つ当たりするぐらいなんだと言うのだ。ダリルは悪くない。ダリルがステップから降りた瞬間に飛び去った天馬が悪い。お父様の躾が悪いんだわと、ダリルは思った。「私の躾も出来ないお父様が犬を躾けられると思うの?」とドラコに言ってやったことは忘れ、ダリルはたった今父親の躾下手に気付いたかのような心持でルシウスを詰った。自分が今困窮しているのも皆天馬とそれを躾損ねたお父様のせい。と、ダリルはそう思う事に決めた。ダリルがハリーの気持ちも顧みず彼を訪ねたいと思ったのは悪くない。美しい友情だ。

 勿論ダリルだって何もハリーの家が荒野に一軒ぽつんと建っているなどと思った訳ではない。ハーマイオニーの家を訪ねた際、マグルの住宅街という場所には、あたかも禁じられた森に繁る草木のように家々が密集しているのだと学んでいた。大変に不本意ながらスネイプとの約束もあるし、小一時間探してみて、見つからなければ諦めようと考えるほどの分別はある。一方、馬車を引いていた天馬にはまるで分別がない。ダリルは一応人間である自分と魔法生物に過ぎない天馬を比べて、鼻息荒く憤った。ダリルの平等さと言ったら、非差別主義者が涙ながらに悔い改めるレベルだ。そりゃ、まあ、待っていてとは指示しなかった。それでも待っていなければ、あの愚かな天馬達は、ダリルがスネイプの家から帰る時如何すると思ったのだ。ダリルは割と本気で一介の魔法生物に過ぎない天馬を恨んでいた。

 本音を言えば、ルシウスの言い付け通り真っ直ぐスネイプの家へ向かい、そこで天馬が飛び去ったならそう困ることもないと分かっていた。スネイプは腐っても――腐りかけみたいな顔色をしていることには目を瞑り、仮定としよう――教師だ。どんなにダリルが嫌いでも、生徒が家へ帰る手伝いぐらいしてくれる。もしかすると「従順な天馬さえ御せぬか」と小馬鹿にしてくるかもしれないが、それでもマグルの街へ一人残されるよりはずっとマシに違いなかった。なにせ天馬から置き去りを喰らったダリルの顔と来たら……フレッドかジョージが居たら「素ン晴らしい被写体だ……」「カメラを持ってこなかったのは失策だな」「ああ。ダリル、今の君、何かのミューズみたいに、いや違うな。なんてったら良いんだ」「麗しき人外のよう」「それだ相棒。今の君、化け物染みてる」とステレオで褒めてくれただろう。今ならフレッド達にどんな無礼を言われようと許せるし、パンジーにせせら笑われても心からの笑みを浮かべられるのに。
 そうやって途方に暮れている内にハリーを探す予定の一時間が過ぎた。一人寂しくブランコを漕ぐダリルは、やがて一つの結論に行きつく。ここでブランコを漕いでいても目の前にスネイプの家が生えてくるわけではない、如何にか魔法界へ戻らなくてはならない。
 何がいけなかったのか。如何してこうなったのか。約束破り、それもスネイプの嫌いなハリーのために破ったことで、どれだけ叱られるだろう。ダリルがハリーに会いたがったことを知ったら、ルシウスはホグワーツの退学届を出してしまうかもしれない。後悔、反省、恐怖、不安、それら全てを纏めても尚“マグルの街に一人ぼっち”という状況以上のものにはなりえなかった。泣きながらブランコを漕いでいれば誰か迎えに来てくれると言うなら、どれだけスネイプに馬鹿にされても良いし、ドラコやルシウスから叱られようと、ホグワーツを退学になっても良い。マグルの街へ遊びに行きたいなどと思った自分が馬鹿だったのだ。ジョージの言う通り、地下牢でじっとしていれば良かった。若干の後悔を引きずりながら、ダリルは打開策を求めて立ち上がった。とりあえずここらにハリーが住んでいることは確実なのだ。ハリーを見つけて、ヘドウィグを借りるなり漏れ鍋への行き方を教えてもらうなりしよう。

 果たしてハリーに迷惑を掛けないでいることを放棄したのか、はたまたそれが迷惑行為であることを知らないのか――公園を出たダリルは通りすがりのマグルを掴まえて「生き残った男の子がどこに住んでいるか知りませんか」と聞きこみを始めた。ハーマイオニーがその場に居合わせたなら卒倒していたかもしれない。ダリルは、ハリーがマグル界でどこにでもいる男の子の一人に過ぎないことを知らなかった。それ故ダリルは、「知らないねえ」と口にした初老の女性に対して、「まあ。いい大人なのに、あまり歴史に関心がない方なのかしら」と無礼な印象を抱いた。ハーマイオニーがいたら本のぎっしり詰まった鞄で殴打してくれただろう。尤も存在していないので、更なる悲劇が起こってしまう。ダリルは相手が戸惑っているのも無視して、ハリーがどれほど面白くて素晴らしいのかを説明した。恐らくハリーが居合わせたなら二度と表を歩かなくなるだろうし、ダーズリー夫妻のどちらかが居合わせたり、ダリルの“異業”を小耳に挟んだなら、地球上のありとあらゆるハリーという名前の少年を消し去ったに違いない。しかし幸いにしてダリルに話しかけられたマグルは夫妻と面識がなく、またダリルの語る“ハリー”と、この町のどこかに住んでいる、ちっぽけな黒髪の少年とを結びつけはしなかった。
 今流行りのアイドルの追っかけか何かなのかな? と考えたマグルは「この町にアイドルが住んでるとは知らなかったねえ」で片づけ、五体満足のまま日常へ戻っていった。マグルに置いて行かれたダリルは「マグルの世界ではアイドルのようなものなのかしら?」と、世にも愚かしい命題で、そのちっぽけな頭を傷めつけていた。ハーマイオニーが「マグル学を受講しなさい」と言い聞かすのも無理はない。ルシウスの考えている通り、ダリルをホグワーツ以外の場所で離し飼いにしてはいけないのである。

 リードも首輪もつけず、一応世間一般に“可愛らしい”と評される子犬は往々にして誰かが拾っていくものだ。
 ダリルは子犬ではなく人間であったが、まあ知能指数は子犬と大差ない。ドラコあたりなら「倫理観もフローのほうがまだある」と付け足すだろう。知能指数と倫理観に乏しいダリルがマグル界におけるハリーの著名度を考えていると、その隣に車が寄せられた。上っ面にしか興味のない馬鹿と、常識の欠けた馬鹿の会話については記す価値もないので省くとしよう。車内の青年たちはハリーとは友達だから――勿論ハリーは十三歳になったばかりで、車を乗り回すような友人はいない――車に乗ると良いとダリルを誘った。しかし特筆すべきことにダリルは青年たちの誘いを断った。恐らく今日一日のなかで、この瞬間が最も常識人らしく見えただろう。ダリルは「有難うございます。でも、皆さんどこか行楽地にでも遊びに行く途中なのでは? お邪魔するのも申し訳ないですし、この近くとは聞いてますので大丈夫です」とにっこり笑って、心中全く大丈夫ではなかったが当てもなく進み始めた。ちなみに彼らの申し出を退けた理由は「知らない人の車に乗ってはいけない」ではなく、「車は故障しやすく、また故障した際は森に突っ込むまで止まれない」という勘違いにある。彼らが実際にハリーを知っているかいないかも分からない現状、森に突っ込む危険は冒せないとダリルは考えた。ハリーはミス・レターに物事を誇張し過ぎることを反省するべきなのか、はたまたダリルが外に出たくなくなるほど徹底して誇張するべきなのか。どの道厄介な目に合わないで済んだのはハリーのおかげなので、ダリルはハリーに会おうなどと考えず、大人しく地下牢で干からびているべきだった。

 青年たちにも宣言した通りハリーがこの辺りに住んでいるのは確かだ。しかし、あまりにも家が多すぎた。通りの果てまで行くのに一週間は掛かりそうだ。ダリルは三十分ほどウロウロしたものの、結局最初馬車をつけた公園へ戻ることにした。収穫は自分の今いる場所が“マグノリア・クレセント通り”であると判明したことだけだったが、ちょっと脇へ入ったらまるきり同じ通りが出てきたのに全ての気力を失ってしまった。ひょっとすると公園に天馬が戻ってきているかもしれないとも思ったし、そうでなくともどこか座るためのベンチが必要だった。沢山歩いたから疲れた。お昼を食べてないから、お腹も減った。持ち物のなかに、ヒールのない靴と食糧だけがない。
 魔法界とマグル界の通貨が違うことは、ダリルでも知っている。最悪魔法を使えば、魔法省の誰かが来てくれるだろうとも分かっていた。行く当てもない未成年が一人でいたら、マグルの警察だって保護してくれるだろう。飢え死ぬことはないし、一生魔法界へ戻れぬはずもない。でも、そこまでやらかしたら流石に学校側から退学を言い渡されてしまう。せめて魔法界とマグル界の通貨が同じなら良かったのに、これではバスにさえ乗れない。否どのバスに乗れば良いのかは分からないが、例えばの話である。ああ! もしも魔法界とマグル界の通貨が同じで、マグルの町のバス路線に精通していたら! そうしたら、そもそもこんなところで泣いてない。もしも話は空しい。

 すきっ腹を抱えてシクシク泣きはじめたダリルに差しのべられた救いの手は、意外な人物のものだった。
『この人だよー! この人、なんもないとこから落ちて来たんだよお』
 甲高い声が降ってきたのに驚いて顔を上げると、いつの間にやらダリルはマグルの子供達に取り囲まれていた。歳の頃は七八才と言ったところか、男女取り混ぜて五人ほどが「きっと魔法使いか妖精だよ~」「嘘だぁ、人間じゃん」「お姉ちゃんと同い年ぐらいだもん。まほーなんて使えるわけないよ」「見たんだってばあ!」とダリルを無視して騒いでいる。どうも話の内容を聞くに、馬車から降りてくるところを目撃されたらしかった。馬車にはマグル避けが掛けられているが、勿論ダリル自身には掛けられていない。また一つ、多くの人からお叱りを受ける理由が増えたわけだが、懐かしい単語にダリルは少しばかりの安心感を覚えた。「そうよ。お姉さんは魔女なのよ」ダリルはへらへら泣き笑いしながら、国際機密保持法なんのそのとばかりに己の正体を暴露した。魔女と言うだけで投獄されるなら、アズカバンは五軒ぐらい建てられているはずだ。それに、相手は所詮子供だ。既に魔法使いの存在を知っている相手に、魔法使いと名乗ることで何の問題が出ると言うのか。ダリルが自分の正体を告白した途端に、ダリルが馬車から降りてきたところを目撃した少女が薄い胸を張る。嘘だ嘘だと騒ぐ四人も、ダリルが鞄から取り出したローブを羽織って見せると、魔女として認めてくれた。子供は無邪気である。ダリルとの精神年齢も、そう違わない。ダリルが路頭に迷っていることを切々と訴えると、マグルのお菓子をくれた。優しい。
『ねえ~杖ってあるの? 可愛い?』
『やっぱり箒で空を飛んでる途中に落ちちゃったの?』
『お姉ちゃんと同じぐらいに見えるけど、本当は五百歳とかなの? ナポレオンとかと会ったことある?』
 流石に魔法界事情そのままを話すのは危ない気がしたので、大昔の習慣などを尤もらしく話している内に仲良くなり、ブランコを漕ぎ合ったり、追いかけっこをしたりと、ダリルは楽しい時間を過ごした。「待って、私、ヒールのある靴を履いているのよ! 手加減してくれなくっちゃあ酷いわ!」そうはしゃぐダリルは、もうハリーを祝いに来たことも、自分が困窮していることも忘れ去っていた。

 精神年齢が一桁なだけはあって子供達に馴染む馴染む――などと意地悪を言うのは止めておこう。彼らは幼く、いつまでもダリルと遊び耽ってはいられない。最初にダリルを見つけた少女は一番遅くまで残ってくれたが、結局は迎えに来た母親に連れられて行った。また明日も遊ぼうねと連呼していたのに、ダリルは複雑な心境になった。このまま公園で一泊ぐらいするのも良いかもしれない。いや良くない。家へ帰らなければと思ったが、魔法界へ戻ればきっと二度とあの子達と遊ぶことも、話すことも出来ないのだなと、ダリルはしんみりした。
 いっそホームレス生活も割と楽しいかもしれない。中世には奇術師として、マグルのなかに暮らした魔法使いもいた。ダリルも大道芸人にでもなれば、何とかマグルの世界で生きていけるのではなかろうか。その内漏れ鍋の場所さえ分かれば、セドリックやジョージ達とも連絡がつくはずだ。このまま魔法省に保護されれば、間違いなくホグワーツ退学後の監禁人生が待っている。そう思えばこそホームレス人生のが幸せかもしれないと思った。それにマグルのお菓子はあんまり奇抜でなく美味しい。ダリルはベンチに腰掛けながら、夕食代わりのチョコレートバーをもぐもぐした。大体にして魔法使い達はお菓子に無駄な技巧を凝らしすぎなのだ。このぐらい詰まらなくて丁度良い。
『お嬢ちゃん、おうちのひとと喧嘩でもしたのかな?』
 制服を着こんだマグルの男性に話しかけられたのは、そんな時だった。

 辺りは薄暗く、街路灯の明るさが沈む町並みに漂い始めている。黄昏の肩越しに夜が見える頃だ。この時間の公園には普通――いきがった青年たちが騒ぐには少しばかり早く、子供達が遊ぶには遅すぎて――誰もいない。不運なことにダリルの座っていたベンチの横には、彼女を照らし出すように煌々と輝く外灯が立っていた。少女が公園にひとりぼっちとくれば、警官はまず家出を疑う。本気でホームレスとして生きる決意があるわけではなかったが、自由な身の上とお別れする気持ちも固まっていなかった。ダリルは適当な言い訳で警官を誤魔化し、見事ベンチ一つない無慈悲な通りを彷徨う自由を手に入れた。ああ、大人しく保護されておけば、少なくとも足を捻ったりはしなかっただろうに。相変わらずハッキリとした原因は分からないが、どこで何を間違えたかだけは時間の経過に正比例して増えていく。

「もう駄目」ワンブロックも歩かないうちに、ダリルはまたしゃがみこんだ。「もう、歩けないわ」
 最早足の感覚はなくなっていて、道のど真ん中であろうと構わないから眠ってしまいたいほど疲れていた。すんすん鼻を鳴らす。歩道だから、車に轢かれることはないだろう。行き倒れてしまえば、誰かがマグルの警察を呼んできてくれるかもしれない。マグルの警察がどこまでしてくれるかは分からないものの、しかし歩道よりかはまともな寝床を与えてくれるに違いなかった。ダリルはペタペタとアルファルトで出来た地面を触ってみた。固い。ダリルは悲しげに眉を寄せた。蝶よ花よとまではいかないにしろ、ルシウスから「私の姫君」と呼ばれ、それはそれは大事に育てられたダリルである。ふかふかの敷布団を十三枚用意しろとまでは言わないが、どんな極限状態だろうとアスファルトの上で寝るのは、耐えられない。ヴォルデモートに首を絞められるより、フェンリールに弄ばれるより嫌だ。道路で寝るなどと惨めたらしい姿を他人に見られるなら――それもハリーが暮らしている町で――死んだ方が良い。ダリルはさめざめと涙を零し、悲しみに身を震わせていたが、いつまでも嘆き悲しんでいたら本当に路上で気を失ってしまうと気づいた。とりあえず、手前に見える薄暗い家の前まで行ってみましょう。ダリルはそう己に提案した。マグルにも夏休みがあるのだろう。彼の家の住人が明日までに戻ってくる可能性は勿論あるが、ハーマイオニー達のように旅へ出た可能性もある。一晩軒先を借りても騒ぎにならないかもしれない。石垣は低く、庭へ入れば芝生ぐらいあるはずだ。アスファルトの上で寝るよりかは、芝生のほうがずっと良い。とりあえず家の前まで行って、石垣に座って、残っているお菓子を食べよう。寝るのはその後でも出来る。マルフォイ家の息女ともあろう自分が安易に道端で寝ることを選んではいけない。頑張るのよダリル、この世で最も淑女らしいお母様の娘として産まれた矜持を手離してはいけないわ。僅かに残る理性に叱咤されたダリルは何とか二メートルの距離を堪えたが、石垣に手を掛けたところで全ての精力が失せた。そのまま崩れるようにして座り込む。
 死にたい。ダリルはマリアナ海溝よりも深いため息を絞り出した。

 何故こんな目にあっているのだろう。否、小さな理由はぽつぽつどころか、みっしり思い浮かぶのだけれど、決定打が知りたかった。フフ、やっぱり私の愚かしさが決定打なのかしらね。ダリルは他人事っぽく思った。思考回路は滅茶苦茶だった。これから如何しようと悩むどころか、お菓子を食べなければいけないと考えるだけで精一杯である。もうマグルに偽装しなければとさえ考えられなかった。絶望のあまり開き直っているのではない。マグルはローブを身に着けないということを忘れていたのだ――もしくは自分がローブを羽織っていることを自覚出来ないほど疲れ切っていた。家の前まで来た。石垣に座った。後はもうお菓子を食べて、芝生の上で寝よう。鞄の中からお菓子を取り出すだけでも一苦労なのに、これからのことなど考えられない。ダリルはようやっと取り出したチョコレートバーの包装を震える手で破り、口にした。咀嚼するのもだるい。このチョコレートバー、硬いわ。お母様の焼いた、ふわふわのヴィクトリアケーキが食べたい。ダリルはチョコレートバーを頬張ったまま、ぽろぽろ涙を零した。チョコレートバーの硬さが無性に泣けてくる。

 未だかつてこんなに心細く思ったことがあっただろうか。確かに一年の時、友達が出来ず、またスクイブであるのが公にならないかと悩んでいる時も心細かった。しかし今となってはその当時の自分さえ羨ましい。友達がいなくとも、どうやって家へ帰れば良いか分かっているのに、何を心細く思うことがあったのだろう。過去へ戻れるものなら昨日の自分に、マグルの街へは行かないよう説教してやりたい。ああ、でも、ジョージやハーマイオニーから散々言われていたのに聞かないでいて、如何して自分の言葉など受け入れるのだ。どうせ聞きっこない。それに過去へなど戻れないのだから、悔やむ体力があったら、何とか現状を打破すべく考えるべきだ。
 ダリルは一口だけ齧ったチョコレートバーをビニル包装で包み直し、鞄に仕舞った。幸いにして一メートルも離れていない場所に街路灯が立っていて、読み物には苦労しない。ダリルはチョコレートバーの代わりにマグルの町の地図を取り出した。今年のバースデーにハーマイオニーから貰った品だ。贈った当人も、まさかダリルが“本場”でマグル学に勤しんでいるとは思うまい。ダリルは地図を広げて、膝の上に置いた。視線を落とすだけでくらくらしてくる。異常なほど入り組んだ図に、びっちりと記された、通りや広場、公園の名前。ダリルはまるきり地図が読めないわけではないが、マグルの地図は情報過多すぎて読み難い。それに、あちこちにある数字もわけが分からなかった。その地域に暮らす住民の数だろうか。同じ国に住み、同じ言語を持っていながら、如何してこうも違ってしまうのか。
 非魔法族と魔法族の間にそびえる壁を想うダリルの涙が、スコットランド北部を濡らした。

 夜半過ぎに道路脇の石垣へ腰掛けて泣く少女というのはかなり異様なものだ。それもローブを羽織っている人間など、マグルの町ではまずお目に掛かれない。ハロウィーンにはまだ三ヵ月ほどもある。この辺りにはテレビ局も、ほんの小さな劇場さえなかった。ダーズリー夫妻が終の住みかになっても良いようにと選んだ町だ。ちっぽけな異端さえ許されない健全な町で、魔法界に関係する誰かに巡り合えるはずがない。少なくとも――この町で育った、極めて普通ではない男の子にとって凡そ初めての“偶然”だった。いや、しかし……。まさか……有りえない、よりにもよってマグルから最も遠い場所で産まれた彼女が、いるはずが――でも、ひょっとして「ダリル?」
 ハリーが恐る恐る声をかけると、少女はぱっと顔を上げた。ブルーグレイの瞳がハリーのグリーンの瞳を見つめる。「はり、は」手の甲で目じりを拭ってから、ずびーっと鼻を啜った。この生まれ持った何もかもを台無しにしそうな反応を取る少女は一人しかいない。ハリーは何とも言い難い、複雑な心境のままため息をついた。何という偶然なのだろう、顔見知りの魔法族――それもついこの間浮かべたばかりの少女が目の前に立っている。奇跡的な偶然だ。でも神よ、どうせならロンかハーマイオニーを寄越して下されば良かったのですが。流石のハリーも泣いている女の子相手に「お荷物が増えた」などと言えはしない。「……一体全体、ダリル、如何して君がここに?」
 愚痴や皮肉をぶつけたいのを堪え、一生懸命紳士を気取ったのに、ダリルは「ハリー!」と咽び泣くばかりで答えてくれなかった。
「あー」ハリーは飛びつこうとしたダリルを避ける。「うん、僕の名前は言えるみたいで……良かった。ダニーとか呼ばれなくて」肩を竦め、傍らでしくしくやっているダリルの頭のてっぺんからつま先まで観察した。タイツは破れ、顔には擦り傷、そしてぼろぼろと泣いているのから察するに、ダリルが精神的肉体的限界を迎えているのは明らかだ。ついさっきダーズリー家を飛び出してきたハリーだって一杯一杯でお先真っ暗なのだが、それでもスコットランドとイギリスの区別がつかないわけではない。要するに自分より困窮している人間を目にして、ハリーは冷静を取り戻しつつあった。ダリルはまるで頼りにならない生き物ではあるものの、“自分が何とかしなくては”と思いたいときには役立つ。尤も今のハリーは他人の世話を焼きたくはなかったし、寧ろ自分が泣きたいぐらいの気持ちだった。

「触っちゃ、ダメなんだよね? あと、座ろう。僕も……立ち話をする気力はないんだ」
 ダリルがコクコク頷いて、元座っていた場所に掛けた。ハリーも一人分開けて座る。箒をトランクの隣に立てかけ、ヘドウィグのいない空の鳥かごを足元へ下ろした。ヘドウィグとダリル、どちらのほうが頼りになるだろうか? そこまで考えて、ハリーは若干の気まずさを覚えた。何とか泣き止もうと努力しているらしきダリルが、「ハリー、如何したの? 何故、ヘドウィグがいないの……そ、それに、今は夜だわ」と、真っ先に自分を心配してきたからだ。ハリーは苦笑して、ズボンのポケットを漁った。「とりあえず、これで鼻かみなよ」
「あ、ありがとう、ハリー。なんだか――その、ごめんなさい」ダリルは受け取ったちり紙でチーンと鼻をかんだ。
 ハリーが頭を振る。「いいよ、まあ……」ちょっと考えてから、頬を掻いた。何を言いたいか分からない。「うん、とりあえずね」
 ダリルは何も言わないで鼻をかんだり、涙を拭ったりしている。その隣で雲一つない夜空を見上げていると、ハリーは少し安らいだ気持ちになった。恐らくダリルにとっても自分は一番会いたい――頼りになる人ではないのだろうが、まあとりあえず鼻をかむことが出来るし、ハリーもとりあえずひとりぼっちではない。ヘドウィグのいない今はそれだけでついさっきより恵まれているはずだった。

 ロンでもハーマイオニーでもなかったけれど、ひとりぼっちで憤りと不安と鬱積を抱えて夜道を彷徨い続けるよりは、ずっと良い。
 ハリーはそう結論付けると、二枚目のちり紙をポケットから取り出した。
「君、もうちょっと顔を大事にした方が良いよ」
 チーン、ブシュ! とダリルが返事をよこしたので、ハリーはつくづく「顔は良いのになあ」と憐れみながら、鈍く光る点を眺めた。
 

マグノリア・クレセント通りの星

 
 


七年語りLULL BEFORE THE STORM