七年語り – LULL BEFORE THE STORM
31 虫かごのなかの燃える翅
十数年ぶりに訪れるマルフォイ邸は、その主人に似つかわしくない明るさが印象的だった。
それは光源の増加といった視覚的要因ではなく、玄関ホールを賑わせていた肖像画たちが一掃されたのが理由だろう。ただでさえ青い焔で不気味に照らし出された邸内は気が滅入るのに、両脇から口さがないお喋りが聞こえてきたのでは、マルフォイ邸を訪れた足で聖マンゴ病院の精神疾患棟へ向かう者がチラホラいるという噂も丸きりの嘘ではなさそうだ。スネイプにしてもあれやこれやと五月蝿い肖像画たちを燃やしてやりたいと思ったのは一度や二度ではない。暖炉を出てすぐ脇の壁にぶら下がっていた、カイゼル髭の見事な老魔法使い(ルシウスの大伯父だか、もしくは大々々伯父だったか……兎に角見るからに根性曲がりな顔をしていた)は、スネイプの顔を見る度「乞食の犬でも、こうはみすぼらしくないぞ!」とがなり立てて下さるのだった。その隣で鷹揚に微笑する老魔女にしたって、「野良犬でも捨て犬でも、大事なのは血統ですよ」などという台詞でフォローを入れたつもりでいるのだから如何しようもない。スネイプは殆ど腐敗した純血主義者たちを前に、不快感を露わに押し黙った。後輩の血統がどんなものか知っているルシウスは、何でもない風に肩を竦める。それで「道化を飼っているようなものだ。気に留めれば寧ろ自分の程度の低さが知れるぞ」と煽って下さるのだから、流石は肖像画共の血を引いているだけはある。 しんと静まり返った玄関ホールはスネイプを幾らか驚かせたが、そう不思議だとは思わなかった。流石のルシウスも、愛娘が侮辱され続けては自分の程度を落とす他なかったのだろう。平面で固定された彼らにダリルを受け入れられるだけの度量があるはずもない。
スネイプはローブについた灰を払いながら辺りを見回した。魔法族の常で殆ど使われることのない形ばかりの正面玄関の前で寄り添う夫妻が視界の端に映る。スネイプは足に絡むローブをたくし上げると、扉の前から動かない二人に大股で近づいて行った。
数歩の距離を残して軽く会釈するとルシウスは返してくれたが、ナルシッサは上の空で黙っていた。ただでさえ血色の悪い頬が、夜の昏さに染まって青ざめているようでさえあった。娘の身の上を案じているのだろう。如何いう経緯で行方知れずになったのか、何故ドラコなしで放り出したのか――大体馬車に乗っていて、如何して迷子になることが出来るのか。問いただしたいことは山とあったが、その疑問の全てが無意味なものだろうとも、スネイプには分かっていた。スネイプは眉間のしわを深くして、浅いため息を漏らした。
「この度は真に……」真にご愁傷様でと、そう続けたいのは山々だったが、スネイプは大人だ。「……実に大変な事になりましたな」
「まあ、正直愉快極まりない出来事でないのは確かだ」
ルシウスは妻の背をあやすように撫でた。ふーっとわざとらしいため息と共に、スネイプへ流し目をくれる。「尤も悪運だけは強いあれのこと……案外平気でほっつき歩いているかもしれん」冷淡ささえ感じられる台詞に、ナルシッサがキッと顔を上げた。
「貴方と来たら――だから私はドラコを一緒に行かせるべきだと言ったじゃありませんか。セブルスも迎えにぐらい、」
潤んだ薄灰の視線が自分へ向けられたのを感じ、スネイプはさっと殊勝な顔を作ってみせた。「それは失礼」
自分の台詞を遮って口にされた謝罪に、ナルシッサは唇を噛んだ。「我輩としても勿論彼女の安全を考えたつもりではいましたが、しかし……いやはや……まさか彼女の帰巣本能が梟のそれに劣るなどとは予想だに出来ず、申し訳ないことをした」
勿論スネイプに反省の意がないことなど分かっていたが、ナルシッサは何も言わなかった。
年齢や身分――純血思想の人々で構成されたコミュニティのみで通じる権勢からも、凡そスネイプがナルシッサに強気に出られる根拠は存在しない。当人もそれは弁えているのか面と向かって無礼を働かれたことはないものの、こうした白々しい態度でからかわれるのは珍しくなかった。ナルシッサは拗ねたように顔を背けて俯いた。学生時代から何かと気に食わない男だが、夫の気に入りに相応しくその能力は高い。息子は懐いているし、娘とは反りが合わないとはいえ(寧ろナルシッサはスネイプと親しくして欲しくなかった)“問題”も、解決してくれた……そして今も娘のことで駆け付けてくれたではないか。ナルシッサは「少し、気持ちが高ぶりましたの」と小さくこぼした。
ナルシッサの謝罪を受けて、スネイプはしたり顔で頷く。「心中お察しいたします」ふっと、鼻で笑った。
あんまりに薄っぺらい労わりの台詞にナルシッサは目元を険しくした。貴方が迎えに来て下されば、そもそも独身男性の一人暮らしに若い女生徒を招くなんてあんまりに無責任じゃありませんか――物言いたげに眉を吊り上げた妻を制して、ルシウスが一歩前に出た。
ひたりと薄青い瞳に射竦められたスネイプは本来の目的を思い出した。そうだ、弱い者いじめで憂さを晴らしている場合ではなかった。
「何はともあれ、久方ぶりの再会だ。積もる話もある……客間へ移ろうじゃないか」
帰巣本能のないダリルだが、恐らくその口も鳥の羽根より軽いのだろう。そうでなければルシウスがこうも怖い微笑で肩を掴んでくるはずもない。「ええ、まあ」スネイプは観念したように頷いた。「それは……まあ、大変な事態ですからな」
さり気なく自分の手を払いのけるスネイプに、ルシウスは口角を持ち上げた。ルシウスは行き場を失くした手で襟元を正してから、迎賓棟へと足を踏み出した。スネイプもルシウスの後を追って、長いローブを翻して歩き出した。
「貴方はもう少し――自分の娘を銀細工のように遇していると聞いていましたがね」
客間の隅に設えられたライブラリースペースへ腰を落ち着けるなり、スネイプは嫌味っぽい声を出した。
「無論我が子だ。心配していないわけではないさ」トライポッドテーブルを挟んで向かいに座るルシウスは、些かも動じる様子もなく口を開いた。「しかしセブルス、お前は私の冷静さについてよくよく理解しているものだと思っていたが?」
アイスブルーの瞳がソファの上に積もる人影を映して細められる。スネイプはルシウスから視線を逸らして、僅かに俯いた。
冷静さ――年が離れていることもあり友人と言うほど親しい間柄ではなかったが、確かに同級の誰より気が合うとは互いに感じてきた。実力主義者のルシウスはこの多才な後輩を気に入っていたし、スネイプにしてもスリザリン寮生らしく狡猾な先輩へ相応の敬意を抱いている。ジェームズ・ポッター共の狼藉にこそ気づかなかったものの、半純血かつ十分なコミュニケーション能力も持たないスネイプがスリザリン寮内で大過なく暮らせたのはルシウスの庇護によるところが多かった。卒業してからも何くれとなく気に掛けてくれたし、己の殻にこもりがちなスネイプを、純血主義者のコミュニティへ引き留めもしてくれた。ヴォルデモート卿との縁を繋いでくれたのも、ルシウスだった。
ルシウスに対する個人的感情はないに等しかったが、それでも「好意を感じておくべきなのだろう」とは自覚している。ルシウスからの関心と好意があるからこそ二人の付き合いは随分長かったし、それ相応に相手を理解していた。ルシウスの言う通り、何も娘が行方知れずだからと、その妻のように取り乱すなどと思っていたわけではない。ただ、あまりに落ち着き払っているのが不自然だった。
ルシウスはむっつり黙り込んだままのスネイプから視線を滑らせ、扉の様子を見やった。「じきナルシッサが紅茶を運んでくる」
俯いた瞳が、胸元から取り出した懐中時計を覗き込んだ。パチンと、蓋を閉じる音が石壁に大きく反響する。
「喉が湿れば、少しはお前の舌も上手く回るようになるだろう」
スネイプは自嘲気味に嗤った。「お宅では真実薬を紅茶だと言って供するんでしたかな」
「ああ、それが許されているならどんなにか楽か――魔法省のうるさ方の手前、そしてお前達への信頼のためにも」
己の顔を見つめる薄青い視線に無関心を気取ったまま、スネイプは皮製の肘かけを撫でた。
実際のところダリルとスネイプの二人に対してルシウスがどれ程の信頼を寄せているかは計り知れない。しかし二十年にも渡る付き合いから、スネイプが己へ向けられた好意にそう強く出られないと知られているのは確かだ。とりあえずは信頼しないほうが良いだろう。
スネイプがチェスターフィールド・ソファの魅力を味わっていると、ルシウスの肩越しにギイと蝶番がとよんだ。
ナルシッサが歩く度に、銀製のトレイに乗った茶器が固い音を立ててこすれ合う。妻の姿を振り返り見たルシウスは「真実薬を探すのに手間取ったと見える」と低く喉を鳴らしたが、スネイプは詰まらぬ冗談に笑ってやる気分ではなかった。
ルシウスは自分の冗談が霧散したことへ不服そうに口を尖らせたものの、見るからに沈んだ様子の妻の手前スネイプを詰ったりはしなかった。震える指でティーカップをテーブルに下ろす押し殺した音が静寂を際立たせる。スネイプは少し身を起こして、トレイの上で今にも倒れそうなティーポットを手に取った。思いがけず軽くなったトレイにナルシッサが顔を上げる。
スネイプは気まり悪そうにルシウスのティーカップに紅茶を注いだ。
「……随分と気分が優れないようですな」ルシウスの表情を伺い見ながら言葉を続ける。「如何にも、この紅茶は貴女が飲むほうが良さそうだ」自分の側に置かれたティーカップを紅茶で満たすと、スネイプはそれをティーソーサーごとナルシッサへ手渡した。ルシウスは楽しげに細めた瞳で二人のやりとりを眺めているだけだった。ナルシッサは空いている右手で目じりを拭った。
「ああ、セブルス……」か細げに震える声を紡ぐと、ナルシッサは膝上に置かれたスネイプの手を取った。「あの……あの世間知らずのあの子が……さっきは私、すみませんでも、馬車だけ戻ってくるなんて……一体……まさかマグルの町にでも落とされていたら――」
脆い力で拘束される気味悪さにスネイプは顔を顰めたが、辛うじて残る理性から振り払ったりはしなかった。
「そう取り乱すな」夫の咎めるような声音にナルシッサははっと顔を上げた。「あれは魔女なんだ、セブルスのおかげでな」
ルシウスは杖の一振りでもう一組の茶器を出すと、スネイプのために紅茶を注いでやった。
「大したことはしていませんがね」
スネイプは消え入りそうな声で否定したが、ナルシッサには聞こえなかったらしい。ナルシッサは感極まったように、うわ言めいた台詞を口にした。「ええ、本当に……本当にセブルス、貴方のおかげですわ。あの子がちゃんとした魔女として暮らすことが出来るのは……本当に、」ナルシッサは頭を振った。「そりゃグリフィンドール寮に組み分けられはしましたけど……それでも、こんな……」
ナルシッサが脱力した隙をついて、スネイプはさっと手を引っ込めた。その、如何にも女慣れしていない潔癖さを目にしたルシウスは緩く微笑した。スネイプはルシウスを睨みつけると、背もたれに寄りかかるふりをしてナルシッサから遠ざかった。
ルシウスは思慮浅い青年のようにクスクス笑ってから、トレイを抱え込んだままでポーっとしている妻に向き直る。
「少し休むと良い。明日の朝にはダリルを叱りつける大仕事が待っているだろうに、お前が倒れては元も子もなかろう」ナルシッサは少しばかり救われたような面持ちで夫の瞳を見つめると、頼りなさ気に頷いた。妻の手を取ったルシウスが立ち上がる。
「さあ、入口まで送ろう」
スネイプはルシウスが席に戻ってくるまでにカップを空けてしまった。
「勿論ダリルが行方知れずになったのは不運な事故なわけだが、可愛い後輩との席が設けられたのは僥倖というものだ」
肘掛け椅子に浅く座りなおしたルシウスはスネイプのティーカップに紅茶を注いだ。スネイプは湯気をあげる、赤い水面を見やる。スネイプの味来は乱れた生活習慣のおかげで随分鈍っており、茶葉のことは何一つ分からない。しかし魔法薬が混ざっているか如何かは分かる。今回供された紅茶には、幸運にも魔法薬の類は入っていないようだった。スネイプはちょっと紅茶に口をつけてから、テーブルに戻した。
「そこまで好かれていたというのは初耳ですな」
「ああ。巣篭りの得意な後輩を持つと、如何しても会いたい――例えばレポートを書くのに、アビシニア無花果の原生種についてどの本を読むのが良いか知りたい時なんかに苦労する」ルシウスは勿体をつけて言うと、天を仰いだ「実にね」
「貴方らしくもなく馬鹿馬鹿しい例えだ。一体誰が貴方にレポート課題を出してくると? まあ細君としては、貴方が今まで遊んだ女の名前を提出して欲しがるかもしれませんがね」スネイプが薄い唇を歪めてからかうと、ルシウスは小首を傾げた。
「まさか。あれは気にするような女ではない」
「……左様ですか」
ケロリと言い放たれた台詞に、スネイプは気のない相槌を返した。碌でもない男に食えない女だと、心中で苦々しく呟く。
人付き合いのないなりに色々な夫婦を見知っているが、スネイプはこの夫婦ほど上手くいっている例を知らない。他人の一挙一動に至るまで束縛したがる男と、思考能力を放棄した女の組み合わせだ。この二人が上手くやっていけないのなら、人類はとっくに滅びている。
ことあるごとに「お前は両親に似ていない」とダリルを煽るものの、彼らの悪点だけは見事に受け継がれている。特にナルシッサはダリルにそっくりだ。学生時代、あの美しい年上の少女が、汚物塗れの自分を見て忌まわしそうに顔を歪めたのをスネイプははっきり覚えていた。ルシウスの妻、そして彼が懇意にしている後輩として再会した時も、ナルシッサは到底好意的とは言い難かった。しかし頭のない彼女のこと、次第に夫へ同調してスネイプへ親しげに接するようになった。落としたハンカチをスネイプが拾って渡すと、そのまま屋敷僕妖精に受け取らせたことなど忘れてしまったのだろう。スネイプに対する嫌悪は長らく残っているようだったけれど、かつて自分がスネイプを如何扱ったかちっとも覚えていないらしかった。いつでもお取り巻きに囲まれて、良家の娘らしく高圧的な態度で男をけん制していた彼女は、自分が好意を示せば勿論のことスネイプもそれを喜んで受け入れると思っているのだ――飢えた野良犬の如く、尻尾を振ると。
それは「いずれ傲慢の報いを受けるだろう」とは思うものの、別にナルシッサが嫌いなわけではない。自分の生活を邪魔するわけではないし、勝手に自分を嫌って近づいてこない人間は寧ろスネイプにとって有り難かった。加えてナルシッサは十全に利用価値がある。向こうも同様だろう。互いに好意の発生していない関係は気楽だ。スネイプにとって悪意のあるなしは如何でも良い。自分の目的・生活を邪魔するか否かが一等大事な問題だった。要するにナルシッサのことは心から如何でも良いと思っていた。
その一方で見過ごせないのはダリルの存在である。スネイプのことが嫌いなら放っておいてくれれば良いのに、酔狂な事にウィーズリーの双子と一緒になってちょっかいを出しに来る。ダリル単体でちょっかいを出しに来ることも珍しくはない。最近は糞爆弾以外にタフィーや百味ビーンズなんかを設置していくが、スネイプはもう三十代も半ばのオッサンだ。菓子を貰って嬉しい年頃は疾うに過ぎている。悪戯にごみ箱が肥えるだけで、スネイプは己の暮らしが脅かされる苛立ちにゆっくり食事も摂れない。
あの、配慮のはの字も知らないような子供のどこが可愛いのだろう。スネイプがダリルの親だったら、あの馬鹿が行方知らずになったと聞いてシャンパンの一つは開けるだろう。ダリルが家に入って来れないよう、扉という扉に板を打ちつけるのも忘れてはならない。
そんな、屋根裏お化けとの差異を見つけるのが困難な娘が何をしようと放っておけばいいのに――いや……まあ、ルシウスなら屋根裏お化けの経歴から血統まで丸裸にしたがるだろう。「何故、数ある屋根裏から我が家の屋根裏を選んだのかね?」ぐらい問いただしそうだ。凡そ“秘密”というものが許せない男なのだ。自分の所有物についてはAからZまで、微に入り細に入り知りたがるのだから如何しようもない。
スネイプは不意にこの部屋の壁にも一枚の肖像画さえ掛かっていないのに気付いた。生来の“知りたがり癖”を除いても、ルシウスは屋根裏お化けそっくりの娘が可愛いのだろう。そうでなくては、この静寂は有り得ない。そこまで考えて、スネイプは目を伏せた。
あの子供のどこが可愛いのだろう? スネイプはもう三十三歳だ。自分を“子供”側に置いていい年齢ではない。増して、同列かのように妬んだり、卑下してみるのは愚かしいことだ。スネイプは時々、自分と同年代の人々が“親”として機能しているのを見ると不思議になる。
スネイプは父性や母性といった幻想を信じない。ひょっとすると自分を除く世間一般はそれを知っているのかもしれないとは思っていたが、少なくともスピナーズ・エンドの突き当りにある、あの陰気な家では、それらは神話よりずっと浮世離れした“何か”だった。
喧嘩をするためだけの夫婦関係。息子に無関心な父親。息子の瞳に映る自分しか見ようとしない母親。スネイプの幼少時代、愛と言えるものがあるとすれば、それは母親の口にする――どこか懺悔にさえ似たマグル卑下だけだった。プライマリースクールには通わなかったものの、それでもスネイプは十一歳までマグルの社会に暮らしていた。マグルというそれだけで強い嫌悪を抱くことはなかったが、魔法族は非・魔法族より優れているのだという母親の呪詛は幼いスネイプの内にすっかり根付いてしまった。
母親の“愛”を受けて何か良いことがあったのか、はたまたそれこそが自分の人生を狂わせたのか……スネイプには分からない。
知りたくもない。
あの当時のスリザリン寮生には、大なり小なり、スネイプのように歪んだ家庭で育った者が少なくなかった。
家庭に夢を持てない子供たちは自然な流れで独身主義を気取り、ルシウスにしても「体面を取り繕うためだけに結婚する」と言って憚らなかった。それは全て、まだ見ぬ子供たちに己の歪みを継がせぬためだったのではなかろうか。それなのに子供を持った途端に、かつて自分を窒息させた鎖で子供の首を絞める。束縛を親の愛情だと平気で言ってのけ、そして実際スネイプの目にもそれは愛情として映るのだった。
視界に映る手は少年のものとは言い難く乾いていたし、指も枝のように節張っている。スネイプはもう三十代も半ばの成人の魔法使いだ。
「……貴方はいつだって“誰かがいなくて困る”ということがない人だった」
スネイプは感慨深げに呟いた。肘かけにもたれたルシウスが意図の見えない台詞を受けて訝しげに眉を寄せた。
「そうかね? 鉛で出来たお前に聞かせるのもあれだが――」
「放って置いて頂きたい」
スネイプは不愉快を隠そうともせず、非難するように刺々しい声を出した。
「我輩は、やれ結婚だ家庭だの、そんなものにはピクシー小妖精のつま先ほどの関心もありませんのでね」
七年ほど前、まだスネイプが青年と言って差し支えのない若さを有していた頃、だまし討ちのようにして見合いの席を整えられたことをスネイプはまだ覚えていた。ルシウスの友人の妹だか何だか忘れたが、平凡で退屈な女だった。有り触れた娘は当然見合い相手が冴えない薬学オタクであることに失望の色を覗かせた。スネイプには彼女を責める気は毛頭ない。悪いのは、二人の間で何か面白い見世物でも前にしたかのようにはしゃぐルシウスである。初対面の相手とデート……という苦行のただ中で、スネイプは全世界を呪った。
「なるほど。私もかつてはそう思っていた。しかし今は妻子を愛している」
過去に受けた傷を思い出したスネイプは死ねと思った。危うく口に出しかけたが、まあ、まだルシウスとの交友関係は続けて行かねばならない。スネイプは口端をひくつかせつつも、紅茶を嚥下することで平静を保った。三杯目の紅茶を自分で注ぐ。
「とりわけ娘は可愛い」ルシウスはあらぬ方向を見つめながら、夢見がちに漏らした。「無論ドラコも同様に愛してはいるが、あれは“男”だ。家督を継ぐ者として、過分に甘やかすわけにはいかない」
「もう片方にもそうすべきだと我輩は――貴方の旧友ではなく――彼女の授業を受け持つ一教員という立場から忠告させて頂こう」
スネイプは苦々しげに言い捨てた。湿り気を帯びた視線でじっとりとルシウスを睨みつける。
「貴方は娘を甘やかしすぎている。たった今、何故我輩が貴方の前にいるのか……忘れたわけでもありますまい」
待ちぼうけ喰わされた苛立ちが蘇ったのか、もしくは前年度末、ローブを愛らしいレースで飾られたことを思い出したのかもしれない。
それで殊勝に謝ればまだ可愛いものを、プイとそっぽを向いたダリルは「先日、私に忍耐と掃除の仕方を教えてくだすった教授への感謝の気持ちです」と拗ねた口を利いた。成人した魔法使いのローブにレースのリボンを括りつけることの何がお礼になるのか、スネイプにはダリルの思考回路がさっぱり理解出来ない。尤も“感謝の気持ち”など奴の逃げ口上に過ぎず、最初から最後まで徹頭徹尾スネイプを辱めるのが目的だったのだろう。当然の権利としてスネイプはフルターボで怒鳴ったが、その時職員室に留まっていた同僚の誰もダリルを咎めようとはしなかった。寧ろ瞳を潤ませたダリルに同情的な視線が向けられるばかりである。スプラウト教授に至っては「まあ素敵なレース!」とスネイプのローブを摘まんで、ダリルににっこり笑いかけた。ぱっと顔を明るくさせたダリルは我が意を得たりと立ち上がった。「ええ、ええ! とっても良いものなんです。女性に人気のレース専門店から取り寄せましたのよ。教授、今日一日、とっても女生徒からの視線を感じましたでしょう?」ダリルが一歩脇に退いて、小首を傾げた。「一週間もつけてれば、レースが欲しくって教授を見ているのか、教授を見ていて偶然レースが目に入ってしまってるのか分からなくなると思いますわ」スネイプがダリルを掴まえるための手段――マジックハンドを手に取るより、ダリルが走り去るほうが早かった。「きっと来年度は沢山チョコを貰えるはずです~」という無礼極まりないお節介がドップラー効果で廊下に棚引いていく。フリットウィック教授は書きもの机に突っ伏し、リサイクル目的でレースを外すスプラウト教授は軽やかに笑った。
学期末の宴が終わってからの数日、スネイプは恰好の標的だった。
ウィーズリーの双子が仕掛けてくるのはいつものことだからまあ良いとして、心が通じ合ったような、いや通じ合ってないにしろ自分に恩があるはずのダリルが率先して嫌がらせをしてくるのは何故だ。スネイプはグリフィンドール寮から五億点はマイナスしたい気持ちに駆られたが、彼の訴えを全うに聞いてくれる者は誰もいなかった。グリフィンドールの横暴だ、教職者にあるまじき不平等だと、スネイプはカンカンになった。何かコツを掴んだらしく、ダリルが地下牢の掃除をテキパキ終わらせるのも彼を苛立たせるのだった。
スネイプがダリルのことで憤慨する種はマルフォイ家の総資産を遥かに上回る。
「今はまだ子供だからある程度の“聞き分けの良さ”は見せるかもしれないが、あと数年経って余計な悪知恵を付けたら……」
上体を屈めたスネイプが、押し殺した声でルシウスに迫った。
「私はあれがいなくては困る」
如何いう意味なのかと、スネイプはぎゅっと眉を寄せた。
ルシウスは暑苦しいと言いたげに、パタパタと手扇で顔を仰いだ。胸元のボタンを二つばかり外しながら、席を立つ。「……私は、あれがいなくては困るのだ」そうぼやくルシウスの後ろ姿が、左手に見える窓辺に近づいていく。
たっぷりとしたカーテンを引くと、ルシウスは窓ガラスを持ち上げた。湿度の高い室内にすうーっと乾いた夜風が吹き込む。
ルシウスはスネイプを振り向いて、一歩脇へ退いた。開け放たれた窓からは薄暗い景色が見える。黒々とした植物の影に囲まれて涼しげな四阿が立っていた。窓の外を覗きこんだルシウスが、四阿の隣を指す。「四阿のあたりは、ここ数年ナルシッサが丹精した薔薇が植わっているのだが……あそこが見えるかね」垣根……と思しき影の一画が奇妙にえぐれているようだった。「ダリルの飼い犬が荒らした区画だ。その罰として、炎天下のなか五時間の庭仕事を命じられたのだが……可笑しいことに、あれが花を植える端から犬が掘り返していく」
ダリルの馬鹿さを改めて伝えることに、一体何の意味があるのだろう。スネイプは思った。
「お前があれと反りが合わんらしいことは私にも分かる」ふーと、ルシウスは長いため息を紡いだ。「ダリルは阿呆だ。この家にはあれを傷つけるものは何一つなく、また望めば何でも手に入る……それにも関わらず外へ行きたがる。愚かな子供だ」
同意を求めるような視線を向けられたのに、スネイプは顔を背けた。スネイプはティーカップを手に取って、冷めた紅茶を煽った。
開け放たれたままの窓から、数匹の蛾が温い風に乗って流れてくる。ルシウスは妖しく飛び交う翅を見上げると、窓際から戻ってきた。視界へ落ちる影に、スネイプは顔を上げた。傍らに佇むルシウスが光を遮っている。燭台の近くで飛び交う蛾の明るさが遠い世界のように、暗かった。ルシウスはソファの背もたれを掴んで、ひたりと怖い冷たさでスネイプの瞳を覗き込んだ。
「……私は何も銀細工のように完全な状態で娘を保存しておきたいわけではない。
最初から“出来損ない”と思っていた娘だ。最悪足の一本、腕の一本ぐらいは欠けたとて構わん。寧ろカナリヤの如く風切り羽を落とすか、蛾や蝶のそれのようにピンで繋いでおいたほうが幾らか気が休まるかもわからない。しかし、私の傍から絡め取っていくことだけは許さん」
ルシウスの指がスネイプの胸ぐらを絡めて引き寄せる。間近に迫るアイスブルーに、スネイプは眉を寄せた。
視界の端で、愚かな蛾が強い光に飛び込んでいった。
「私の目の届かない場所で愚かにも私を謀り、私の所有物たるダリルを厄介に巻き込んでいくことだけは断じて許さんぞ」
「……巻き込まれているのは我輩のほうですがね」スネイプは静かに訂正した。「離して頂けますか」
起動を圧迫されて苦しげなスネイプに、ルシウスは殆ど突き飛ばすように手を離した。背もたれに倒れかかったスネイプは身を起こして、乱れた襟ぐりを直した。向かいの肘掛け椅子へどっかり座り込んだルシウスは、両手で顔を覆って俯いた。
「私を謀ろうとした時点で同罪だ」
苛立ちを含んだ声が余裕なくスネイプを責め詰る。
スネイプは呆然とルシウスを眺めた。
「我輩は……貴方との会話を楽しむつもりは毛頭ない。そのつもりで今宵訪れたのでは――」
今更な台詞を口にすると、両手を膝に下ろしたルシウスが睨みつけてきた。「お前と盛り上がるための話題は、二十年の歳月を掛けてもまだ見つからん。一体、お前は幾つの時にホグワーツへ入学したつもりでいる? 最初から、お前は黙っているだけで良いんだ」
ルシウスの短く切り揃えられた爪が、コツコツと木製の手すりを叩いた。
「ドラコにもキィーリレルにも問いただしたが、可笑しな物を所有している様子はなかった。媒体がなければ被術者の体に直接魔法式を記すのがセオリーだ。古びて骨董染みた趣味ではあるが、あの方のお好きなことだ……所有印を刻むのは」
ルシウスの右手が己の左腕を押さえた。しかしスネイプは自分に刻まれた所有印を連想することはなかった。
スネイプはこの数か月ですっかり網膜に焼き付いた呪印を脳裏に浮かべた。
ダリルの体に刻まれた状態ではたった一度見たきりだったが、それでも白い皮膚を破って隆起する赤黒い肉の魔法陣をありありと思い出す事が出来た。少女の体には到底不釣り合いな醜悪な文様、完璧な呪い。ほんの少しでも同情心というものを持ち得る人間であれば、その痛々しさに顔を背けただろう。スネイプも同情することにはしたものの、しかしダリルの胸に刻まれた“所有印”はスネイプにとって悍ましいだけではなかった。魔方陣の精密さはスネイプを僅かばかり魅了し、また一文字一文字に込められた執着心には妬みに近い感情をも抱いた。
ルシウスとて――あの男のアンバランスさにちょっとでも惹かれた人間なら、スネイプの興奮が分かるはずだ。
ヴォルデモートは魅力的な人間だ。スネイプはその本質が幼稚極まりないと知ってさえ、畏敬の念を拭い去り難く感じていた。孤高に佇み、決して誰のことも芯から信頼することのなかった男が――他人を“個”として認識することさえない男が、あの娘を欲している。あの男の人間らしい一面を垣間見た興奮の前には、目の前の少女がこの呪印に生活を制限されていること等如何でも良くなってしまう。
そして……興奮の後には、一人の人間を蔑ろにしたという罪悪感が残る。
「ダリルを呪ったのは……我が君なのか?」
あの馬鹿、やはり口を滑らせたか。一体ルシウスはどこまで掴んでいるのだろう。こうして自分に問うからにはダリルの呪印を目にしたわけではないのだろうが、まあ端から隠し通すには無理があった。それでもルシウスが知らぬふりを……自分の娘が己が足で動き回る幸福を享受しているのだと、それを認め、許してやれたなら――全て対岸の火事だと、スネイプはふとそんなことを思った。
ダリルは自分の名づけ子だ。しかし彼女を愛しいとか、傍にいたいと思った事は一度としてない。これから先もないだろう。ただスネイプは、彼女に己の姿を投影していただけで、自分が如何にか頑張れば何とかなる気がしていたのだ。違った。舞台の上に立っているのはダリルと彼女に好意を持って接する人間だけで、その劇中の人物だけが彼女の人生を左右することが出来る。
スネイプにはルシウスの気持ちが痛いほど理解出来た。スネイプだって、リリーさえ無事なら……ジェームズも、ハリーも死んでいて構わなかったのだ。ただ、生きて自分の傍にいてくれるなら……それさえ叶うなら、リリーの幸福など踏みにじって構わなかった。
愛しければ愛しいほど閉じ込めておきたい。自分だけを見ていて欲しい。永劫にも近い虚無のなかで、ずっと一緒にいたい。子供染みて愚かしい愛情だ。そんな独りよがりの愛情が通じる相手など、数万人に一人いるかいないかだろう。ルシウスとナルシッサは運が良かったのだ。しかしリリーは……己の命よりもハリーを愛していた。四肢の何一つ欠けることなく、彼女は最期まで自分の意志を通しきった。
愚かな子供だ。己の返事を待つルシウスに口を噤みながら、スネイプはダリルを詰った。
スネイプは預言者ではないが、それでもダリルの興味関心が自分と同じところにないことは分かる。ウィーズリーの双子と馬鹿を仕出かすのを楽しむような人間だ。あの娘は、闇の静寂に包まれて穏やかに暮らしたい者を悪戯に傷つけて何とも思わない。いつまでもポッター達と楽しくやっていきたいだろうに、何故ダンブルドアを信頼しなかった。如何して嫌っているはずの自分に打ち明けた。
どうしようもないと分かってさえ逡巡して黙り込むスネイプに、ルシウスが「セブルス」と彼の名前を呼ぶ。
「……私は、あれを失いたくないだけなんだ」
ルシウスらしくもない、縋るような瞳だった。そんなにあの娘が愛しいかと、スネイプは思った。
そんなに愛しいなら、いやルシウス一人を責めるまい。スネイプだって、当のリリー本人を失ってさえ彼女の意志を尊重できないのだから――ハリーさえいなければと、幾度も幾度も繰り返し恨んでしまうスネイプが、如何してルシウスを裁けるのだろう。
スネイプがどんなに抗い、己を投影しようと、ダリルは最初から光のなかに留まる気はなかったのだ。父親が引き留めるから、双子の兄を残していけないから、強烈な執着心から狂ったように悪趣味な所有印を刻む男がいるから……スネイプは開きかけた口を閉じた。己の醜態を見せつけられているように嫌な気持ちだった。一等不愉快なのは、その悍ましい愛情をダリルが受け入れているらしきことだった。成る程、無抵抗な少女のささやかな幸せを打ち砕いて服従させるのはとても楽しそうだ。とても満たされるだろう。
どんな皮肉を浮かべようと、スネイプはもう頷くほかなかった。
「……貴方が如何してあの方がホグワーツに入り込むことが出来るなどと考えているのかは分かりませんが、その通りです」
スネイプの肯定に、ルシウスは些細な動揺も見せなかった。草臥れた風ではあったが、絶望した……という感じでもなかった。それもそのはずで、死喰い人になれば必ず死ぬというわけではない。ダンブルドアもダリルには便宜を図ると言っていたし、ヴォルデモートも幾ら執着しているからといって、ルシウスやスネイプがいる以上は年若いダリルを酷使するはずがない。
ダンブルドアの言う通り、ダリルは……あの娘は全てが終わり次第、己の望んだ光のなかで生きていくだろう。
ひと夏を馬鹿げた隠匿で浪費した。スネイプは深いため息とともにソファに身を預けた。弛緩しきった鼓膜を、パチンと空間の弾ける音が揺らす。スネイプが億劫そうに上体を起こすと、ルシウスの隣に老いた屋敷僕妖精が佇んでいた。
「お嬢様がハリー・ポッターと遭遇しました。今日明日中にも漏れ鍋へ着くものと思われます」
「ああ。くれぐれも――あの体では起こりようもないだろうが、万が一ということもある――あのチビがダリルに変な気を起こすことのないよう、引き続き見張っておけ」ルシウスはしっしっと、野良犬でも追い払うように手を動かした。
パチンと音を立てて二人きりに戻る。想定内と言えば想定内ではあったが、スネイプは釈然としない気持ちで口を開いた。
「貴方はもう少し……自分の娘を大切にしていると聞いていましたがね」
ルシウスはふんと鼻を鳴らした。
「大事にしているとも。私以外の男の手に触れさせたくないだけだ」
嘲るような声音でそう口にしたルシウスは、ちょっと考え深げに視線を落とした。「私以外の誰にも、」低く、疲弊した表情で繰り返す。
「あれを……あれを、私以外の誰の手にも……」ルシウスは膝の上で組んだ両手に顔を埋めて俯いた。
ほんの数年前、ホグワーツへ入学するまではダリルはルシウスだけのものだったのだ。
永劫にも近い虚無のなかで、ずっと傍にいてくれると思っていた。風も吹かぬ、光も差さない暗闇でずっと暮らしていけると思っていた。その願いがどれほどあの娘を傷めるかなど考えたこともなかった。まして、あの娘を供物として差し出すことになろうとは、
「時が来るまでは……私は、あれを……私はあれを失いたくないのだ……」
震える唇が祈りを漏らす。スネイプはずしりとした憂鬱に俯いて、最早傍に留めるための相手もいない手のひらを見つめた。
七年語り – LULL BEFORE THE STORM