七年語りLULL BEFORE THE STORM
34 絶え間なく鈍く輝く嫌み

 

 果てしなく……具体的に表現すると、十年近い時が流れた気がする。
 勿論“そんな気がする”だけだ。まだ夜は明けてないし、ハリーとダリルはまだこのマグノリア・クレセント通りで途方に暮れている。ハリーと違って口下手なダリルの身の上話は十分もしないうちに終わってしまったし、ハリーが手を叩いて(比喩表現だ)喜んでいたのも触りだけだった。ダリルが相も変わらず家族の言いなりになっているのを察するや──もしくはダリルとスネイプの“特別な関係”が気に食わなかったのかも──ハリーはみるみるトーンダウンし、相槌さえ打たなくなった。ハリーの感想は「つまり君は、ホグワーツとスネイプとの縁談の板挟みになってたワケだ」と、素っ気ない台詞だった。ハリーの無関心を受け、ダリルは取り澄ました顔で「うちのセブルスが貴方を虐めるのって、もしかして嫉妬かもしれないわね」とおちょくる他なかった。
 深い絶望に惚けているハリーだったが、ウエーと吐く真似をするのは忘れなかった。

「君と結婚してないってだけで嫉妬されたら堪ンないよ」

「それじゃ、誰からも嫉妬されないよう貴方と結婚してあげるわ」
 ダリルは自分の心を極限まで殺しながら、フラットにユーモアを吐くよう腐心した。
 ジョージは「君とハリーは破滅だ」と言うけれど、ダリルには段々ハリーと上手く付き合うコツってヤツが分かってきた。他の人はどうか分からないが……少なくともダリルがハリーと上手く付き合うには、ハリーが何を言おうと大人な態度で受け流すのが肝要らしかった。
 幸いにして、伯母に詰られ、両親を侮辱され、退学の憂き目に合っているハリーを前に大人な態度を取れないほど狭量ではない。ダリルは「ハリーは伯母様に詰られ、ご両親を侮辱されて、しかも退学になるかもと不安なのよ」と繰り返し言い聞かせながら、再び地図を開いた。

「ダリル、それはロンドンじゃなくてノルウェーだ」
 ハリーは伯母様に詰られ、ご両親を侮辱されて、しかも退学になるかもと不安なのよ。
 魔法の言葉を繰り返しながら、ダリルは客観的に自らの状況を振り返った。何にせよ、とりあえず自分たちはこのマグルの町から移動して、魔法界にたどり着かなければならない。ハリーの呆れ切った声を聞くまでもなく、勿論ダリルには事の重大さがよく分かっていた。
 それはロンドンじゃなくってノルウェーだ。全く、いずれベストセラーになるだろう“ハリー・ポッター名言集”の帯を飾るに相応しいセリフが、この台詞をおいて他にあるだろうか?

「そうね、ノルウェーじゃあなかったかもしれないわ」
 ダリルは些か……いや、殆ど苛立ち紛れに吐き捨てた。

 ハリーのおかげで、ダリルにも事の重大さとやら──ロンドンとノルウェーを間違えるのは、“レヴィオサー”と“レヴィオーサ”を言い間違えるよりずっと大変なんだってこと──が、わかってきた。しかし悲しいかなダリルの脳容量には限りがあって、ロンドンとノルウェーの位置関係という、この極めて政治的に重要な情報を覚えるためには、ハリーの気の毒な身の上を忘れる必要があった。ダリルは今度こそ大仰にため息をついて、声を尖らせた。
「全く、あなたって人はなんて説明上手なの……おかげさまで、ノルウェーの地形をバッチリ覚えられそうよ。それに、この紙束のどっかにロンドンがあるってこともわかってきたわ」
 つまり結局のところハリーの言いたいことは何も分かっていないのだが……そんなのはちっぽけなことだ。ハリーは心底ウンザリした様子で「光栄だね」とぼやいて、両手で顔を覆った。
 疲労の色を隠そうともしないハリーを見て、ダリルは再び膝上の地図へと視線を落とした。

 ここで二人が(偶然にも)落ち合ってから、大した時間が過ぎている。
 はじめは追っ手がくるのではないかと気を張っていたハリーも、ダリルの身の上話が終わる頃には緊張の糸が緩んだらしかった。もしくは自分より酷い状況にある人間を見て安心したのかもしれないが……何にせよ、ダーズリー家のひとや魔法省の魔法使いたちがハリーを探しに来ないのは(多分)良かった。本当は「誰か、話の通じる魔法使いが自分達を見つけてくれないかな」なんて思わなくもないけど……でもハリーはきっと今初めて会う人は誰であれ信頼出来ないだろう。
 すっかり草臥れきってるハリーを尻目に、ダリルは再び奮起した。私がなんとか、ハリーをダイアゴン横丁まで連れていかなくっちゃあ……! そう思ってはみても、ダリルの地理能力は前述のとおりである。膝上の地図を持ち上げて、恐らく欧州が載っていそうな見開きページを縦にしたり垂直にしたり。ややあってから、ダリルは極めて優美な仕草で嘆息した。
 この世全ての懊悩を煮詰めても尚深い苦悩が刻まれた横顔は、勿論ハリーの視線をも奪っていった。しかしダリルの美貌に慣れた今となっては好感を抱くことも、共感することもない。
 ダリルはその華奢な指を食むように唇へ添えると、たっぷりの懊悩と共に呟いた。

「……どうしてマグルは薄い紙っぺらの上に何もかもを記そうとするの?」
 如何にも“純血魔法族”らしい愚問に、ハリーは今夜何度目かの絶望を覚える。

 ダリル・マルフォイは、はっきり言って“正真正銘のお嬢様”である。
 この場合の“正真正銘のお嬢様”というのは、純血主義者であれば誰もが“本来魔女(魔法使い)とはこうあるべき”と定める理想の体現者と言うべきだろう。昨今の魔法使いたちのように低俗なマグル文化に一切触れることなく……要するに、ヴィクトリア朝より先の文明は何一つ知らない物知らずのまま、ずっといつまでも、死ぬまで“純血の魔女”らしく振る舞えるよう育てられた。
 そんな“正真正銘のお嬢様”は地図を読み取る力がない己を恥じることはない。
 ダリルにとっては、そもそもこんな一枚の紙にせせこましく等高線だの標高数値だの書きこむことが愚かしいのだ。そりゃ、マグルが作るのだから魔法は使えないにしろ……他に何らかの手段はあるはずだと思ってしまう。ハーマイオニーあたりが同席していたら、その有り余る知識でもってダリルを圧倒し、納得させたに違いない。もしくはロンなら、同じ純血魔法族同士さっさと見切りをつけられたのたかも。生粋の魔法族であるダリルには、何か特別の知識があるのかも……なんて。こんな、疲労を言い訳にダリルへの期待を捨てられないのはハリーだけだろう。

「ねえハリー、どうして枠の中と外で色が違うの?」
 きょとんと小首を傾げるダリルに、ハリーは「そこは海だ」と低く呻いた。
「頼むよ。僕に“どうして”って言ったって」恐々といった調子で、ハリーはアイルランド海を指で示す。「この枠はイギリスの国土を現していて──その外は海だ。塩水だから青い」
 ダリルはなるほどね、と深く頷いた。「私、てっきりアストラル光なんだと思ったわ。アストラル光がどういったものかは諸説あって、今もまだ神秘部で研究してるとかしてないとかいうけど、結局“万物の骨格になりうるもの”って見方が一般的で、それこそが魔力の根源なのかも」

「ダリル」

 ハリーは“勘弁してくれ”と言わんばかりに頭を振った。
「問題はこの青いのがアストラル光かアイルランド海かってことじゃないんだ。君ってば、自分が今歩いてる土地がどこの国かも分かってない……こんなの、僕のほうが“どうして”だよ」
 そりゃあ、だって魔法族ですもの。
 そう言いかけたのを咄嗟に堪えたのは、ダリルにしては良い判断だった。

 随分と長い間、魔法界の秩序は探究心と血によってのみ守られてきた。
 愛国心より各々の思想や愛校心のほうがずっと身近な世界で、ダリルだって自分のことを“イギリス人だ”と感じたことはない。魔法界にはまるきり人種差別がない……というわけでもないのだけれど、少なくとも純血主義者たちは自分たちの憎むものが何か明確に理解している。純粋な英国人のマグルとアジアの魔法使いとでは、前者は畜生も同然だが、後者は曲りなりにも同族だ。
 結局のところ“マグル”という括りに関心のないダリルには、何故“純血主義者たち”がそんなにも几帳面なまでの憎悪を抱き、それを子々孫々へ綿々と繋いでいけるのかは分からない。

「良いわ、もう“どうして”は言わない。でも、あなたが言いたかったら言って良いわ。五回はね」
 ダリルはとりあえず地図のページを開き直すと、ハリーの膝上に押しつけた。

「君、“どうして”レポートはちゃんと書けるの?」
 ハリーは皮肉っぽい笑みと共に、ノルウェーの首都オスロを弾いた。
「ほんと、ここまで辿りつけただけ奇跡だよ。偉大なるアストラル光のお導きですかね」
 ダリルは自分の滑りやすい口を恨んだが、何もかもが遅かった。
 かつて切り裂きジャック等の恐ろしい噂話等をかくまって、重たく頭上に垂れこめていた霧にも負けず劣らずの悲劇的口ぶりを左の耳から右の耳へと受け流して、ダリルは英雄ハリー・ポッターの言語センスが如何に育まれたものか考えていた。ああ、この豊かな泉のように沸き出でる語彙と極彩色の言語感覚ときたら……要するに、ダリルはウンザリしていた。もっと言うと、他人からの指摘を素直に受け入れる心持ちでもなかった。足も痛いし、お腹も減った。日付だって、とっくに変わっている。ハリーの気が済むまで嫌味に耐えていたら、日が昇ってしまう。
 このマグワイア・プレゼント通りとかいう──違ったかもしれないけど──マグルの町で朝を迎えてしまえば、ダリルにとって確実に面白からぬこととなる。魔法省やルシウスに捕獲されるだけなら未だ良い。一番最悪で、一番確実に迫っている脅威は“無知なマグルからの職務質問”である。
 膝上に纏めてある布を「これは何か」と問われれば、ダリルには「ローブです。夏場には暑苦しく見えるかもしれませんけど、ヒッポカンポスの毛織物だから案外涼しくって素敵なんです」としか言えないだろう。尤もそれだけ言えればマルフォイ家の財力を示すのには十分だし、マグルから奇異の目を向けられるにもバッチリすぎた。そんな窮地に追い詰められれば、幾らトラブルに慣れっこなハリーと言えど「彼女、エアコンのない国から来たんです」と庇うのが関の山。
 ダリルの抱えているハロウィン用の仮装衣装を何とかこうとかトランクに押し込もうとしているハリーにしろ、“マグルの町にありふれた少年のうちの一人”には見えない。
 どデカイトランクに、ホームセンターでは手に入らなそうな旧式の掃除道具、空の鳥かご。
 ローブさえ仕舞ってしまえば何とかなるダリルより、ずっと悪いかもしれない。
 ハリーの付属品には、有無を言わせぬ存在感がある。それに齢十三歳の子供が、こんな夜遅くに大荷物を抱えているってのは誰がどう見ても“不審”だとは、ダリルにも察しがついた。
 もし誰かにトランクの中を検められでもしたら、悲劇以外の何物でもない。当のハリーだって、そのぐらいのことは分かっている。でも今は、自分より馬鹿な奴をみつけたショックで吹っ飛んでいる可能性もある。ロンドンとノルウェーの区別もつかないバカは魔法界にも早々いないので、ハリーが興奮のあまり自分たちの危機的状況を忘れてしまうのは致し方ないと言える。

 それに──彼の置かれた状況を鑑みるに多少なり逃避したくなってもそれは当然の心理だ。
 ダリルがホグワーツを退学になるかは一応親であるルシウス次第だが、ハリーの今後については魔法省とダンブルドア校長次第であり、情状酌量が期待できる可能性は限りなく低い。
 ……そうは言っても、ハリーは“英雄”の肩書きで親しまれているのだし、未成年の魔法使いが魔法を使った咎で杖を取り上げられるまでの重い処分を受けた例はなかったはず。増してハリーは魔法族に理解のないマグル家庭で養育されているのだから、彼自身の意思とは無関係に感情が暴走した結果と見る魔法使いが殆どだろう。例え一旦処罰されようと、訴訟を起こせば覆されるに決まっている。最悪の場合でも数カ月遅れでホグワーツに戻ることになる程度、というのがダリルの見解だった。ハリーは「頭を挿げ替えているのか?」と言うけれど、闇の魔術や、法に抵触しない程度の悪事について学ぶ上で、ロンドンとノルウェーの位置関係など必要ない。

 絶え間なく溢れる嫌味と頭上で鈍く煌く星に囲まれながら、ダリルは静かに息を吐いた。
 ハリーのトランクには、きっと魔法薬学で使う大鍋も収まっているだろう。もし自分たちの姿をマグルに見咎められたら、そのマグルの頭を大鍋で殴ればいい。

 それにしても、誰も彼もがダリルに説教したがるのは、一体如何いうわけだろう?
 家に帰れば、ナルシッサからやれ“姿勢が悪い”だ、“仕草に品がない”だの叱られる。それを適当にやり過ごして部屋に戻れば、両親絶対主義者のドラコから“母上の言う通りだぞ”と追い討ちをかけられる。極論者ばかりの実家から解放されたと思えば、ホグワーツではハーマイオニーやマクゴナガル教授のお小言を頂く。彼女たちの正論は清聴せざるを得ない。セドリックから窘められるのも、甘んじて受け止めよう。しかしフレッドたちから呆れた風に言い含められると、複雑な気持ちになる。いや、でも、彼らは年上だから……ダリルにとって、説教してくる相手が年上かどうかは大事なことだ。相手の背景を問わず、何とか大目に見ることが出来るのは“年上”だけ――誰もがイギリス魔法界一のホットスポットで説教したがるが、無条件で許せるのは“年上”に限る。不運なことにハリーはダリルより二ヶ月ほど“年下”だった。それに、ジニーやハーマイオニーみたく思慮深いわけでもない。ホグワーツ一のお騒がせポッターから説教されて、素直に頭を垂れられる人間が何人いるだろう? 少なくともダリルは我慢できない。如何にダリルが行き当たりばったりかネチネチ言われても、これまでのハリーの行動の数々が走馬灯のように浮かんでは消えていく。端的に言うと、“お前に言われたくない”という感情が湧いてくる。下品な表現ではあるが。

 勇敢と無鉄砲の中道スレスレを行く、ハリー。
 確かに、そうした危うさも彼の魅力の一つではある。ハリーのことは大好きだ。でもハリーにだけは、絶対に説教されたくない。ダリルがマグルの町をほっつき歩くことより、ヴォルデモートと対峙したり、バジリスクと追いかけっこすることのほうがずっと危険だろう。そのあたりは個人の価値観に委ねるが、ハリーだってダリルに説教できるほど計画的に生きてはいるまい。
 しかし「自分はコイツよりずっとマシだ」と思っているのはハリーも同じらしかった。さもなくば、喩えダリル相手とはいえ「君は考えなしすぎるよ」なんて説教など出来まい。

「ハリー……ハリー、もう十分に分かったわ」
「分かってない」
 キッパリと否定される。
 ダリルは深く息を吸って、吐いた。
「そうね、本当のとこ言うとあなたの嫌みにウンザリしているだけで何にも分かってないの」
 ハリーハリーハリーと繰り返し名前を読んで、立てた人差し指を左右に振りながらリズミカルに舌打ちしてやろうかとダリルは思った。ロックハートとの熱い逢瀬を思い出せば、少しはダリルを大事にするだろう。ダリルが無闇に白い歯を輝かせないだけで、心から感謝するはずだ。
「でも、それ以上私のことをフロバーワームの近縁だと主張するなら私にだって考えがあるわ」
「どうぞ、無知な僕に“どうして”か教えてくださる?」
 皮肉っぽい言い方と共に、ハリーはダリルを手で示した。
 ダリルは手袋をはめた指で、無遠慮に自分を指す手をぴんと弾く。「ありがとう、とっても紳士だわ」フンと鼻を鳴らして応じてから、すかさずハリーの鼻先に指を突き立てる。
「あなたの大好きなドリルの話をはじめるわよ。しかも、無尽蔵に動くヤツよ」

 ハリーの瞳が僅かに狭められた。
 堪えきれない笑みに口端を歪めたハリーが、やがて完全ににやけきった顔で頭を振る。
「ごめん、僕が悪かったよ」
 ゆるみかけた口元を引き締めて、神妙な面持ちで項垂れた──かと思ったが、ちょっとしてから再びニヤッと悪戯っぽく笑った。「でも君、ドリルとマンドリルの区別はつくんだろうね?」
 ハーマイオニーと言い、ハリーと言い、マグルの知識で試してくるのが腹立たしくもあり、面白くもある。ダリルは気難しい顔を作って、ハリーに突きつけたままの指をクルクル回した。
「マンドリルは強い魔法因子を持つ個体が希少な動物だわ。ドリルは……」マンドリルのことは無論知っている。魔法生物に種別されない猿人類で……「ドリルってやつは、どことなくマンドリルと語感が似ているわ。マンドリルの近縁種かしら?」ダリルには、こう言うより他なかった。
 ハリーはしたり顔で頷くと、安請け合いと言って然るべき軽さでダリルを励ました。

「物識りだ」
 ダリルはぷっと膨れた。

 ハリーとハーマイオニー。二人を育んだ世界を、ダリルも知りたいと思った。
 二人はダリルがマグルの世界に惹かれるのを不安がるけれど、それは二人に原因があるのだから、そう咎めなくたって良いじゃあないか。
 マグルの世界は、物珍しいものばかりで面白かった。ウィーズリーおじさんのように、固執することは出来ないけれど、ルシウスと同じに魔法界しか認められないのは退屈に思う。
 ダリルはもっと、マグルの町を歩いてみたい。マグルと話してみたい。マグルの文明を知ってみたい。それは、そんなに危ういことなのだろうか。何故トム・マールヴォロ・リドルはマグルを憎むのか。純血主義者たちは何故マグルを見下すのか。本当に、魔法族とマグルに遺伝上の優劣はあるのか──如何して同じコミュニティで生きていくことが出来ないのか。

「スコップが何かは分かるよね?」
 本格的に魔法界の常識の程度を知りたがっているのか、ダリルをおちょくりたいだけなのか……響きからして前者である可能性は低いに違いないとダリルは思った。
 ダリルはマクゴナガル教授やナルシッサの厳かさを真似して、鼻先にクソ爆弾を吊り下げる。
 フンと鼻を鳴らすと、ダリルは生まれたての子牛よりかは頼りがいのある足で立ち上がろうとして……一旦止めた。ダリルの下半身はまだ椅子を恋しがっていたので。改めてフーッと長々とした息を吐く。「あなたがこの夏マグル学にご熱心だったことは──」
「何せ、来学期から教鞭を振るうことになってるからね。知らなかった?」
「やめて、私にも喋らせて」ダリルは、ハリーの揶揄を重く咎めた。苦虫を噛み潰した顔で続ける。「ポッター教授さえ宜しければ、私たちどこか移動するべきだと提言させて頂きますがね」
「わお……君、そうするとスネイプそっくりだ」
「ありがとう、ハリー。その褒め言葉で五年は寿命が縮んだわ」ダリルは皮肉っぽく笑ってみせた。「退学になりそうなのと、スネイプ教授のデートをすっぽかすのとどっちが最悪かしら?」
「どっちも。その両方を手に入れちゃう君より酷いことなんてあるの?」
「ご明察だわ」
 軽くあしらう声音を返しつつ、ダリルは思い切って石垣から腰をあげた。すっかり伸びた根を払い落とすようにスカートを叩く。ジーンと、おしりの感覚が狂ってるのが何となく恥ずかしい。
 相変わらず捻った足は鈍く痛むけれど、長々休んだおかげでまた歩き出せそうだ。

「さ、ポッター教授。ダイアゴン横丁へ行って、誰か大人の魔法使いに、助けを乞いましょう」

「ああ、うん。でも、ちょっと待ってくれる」
 そう言うと、ハリーも続けざまに立ち上がった。
 自分の手前へと重たげに引きずってきたトランクを開けて、しゃがみこむ。
 何事かと数歩距離を縮めたダリルも一緒にしゃがみこんだ。トランクのなかをまさぐるハリーの腕に、ダリルの柔らかい髪が触れる。ハリーが咄嗟に顔を上げると、至近距離で目が合った。
 ダリルは一瞬きょとんとしてから、ハリーにはにかんで見せる。
「あ……ごめんなさい、男の子のトランクのなかって面白いわ。ねえ、何を探してるの?」
 ほんの数センチも離れていないハリーの目を真っ直ぐ覗き込んで、ダリルは屈託なく喋りかける。ハリーも、何でもない風に視線を落とした。こんなの──こんなの、何でもないことだ。そう自らに言い聞かせながら、たまたま指先にあっただけのインク壺を乱暴に払いのける。
「別に……面白いものなんてないけど、」ハリーはもごもごと、もどかしく言葉を続けた。「でも、スニーカーなら何足かあるから。君、足──なんでヒールなんて履いてきたのか分からないけど──靴擦れ起こして、血が出てる。きっとブカブカだと思うけど、履き替えたほうが良い」
 ダリルは鳩に豆鉄砲でも食らったような気持ちで、ハリーを見つめた。
「あ、アー、そうね」靴のストラップを外すと、立ち上がった。靴がすっぽぬけないよう、慎重に後ろへ下がる。「ありがとう、ハリー」しみじみ呟く。本当に、なんだか、不思議だった。
「わたし、本当にバカだわ。こんな浮かれた格好で……」
 よく分からない焦燥感で声が擦れて、最後までちゃんと言えなかった。乱れた髪を撫でつけるふりをしながら、ハリーから顔を背ける。なんだか凄く不思議で、凄く恥ずかしかった。

 まさかハリーから足のことを気遣われるとは思っていなかった。
 勿論ハリーのことを冷血人間だと思っているわけじゃあないけれど、足を引きずって歩く様子を見せたわけでもないのに、靴擦れしていることに気づくとは……なんだか不意に、本当に突然にハリーも男の子なのだということを思い出してしまった。ドキドキするより先に、お腹のなかがゴロゴロする。やはり、自分は──様々な意味で軽率なことをしてしまったのかもしれない。
 ダリルにとって一等の“男の子”はセドリックだ。セドリックが靴擦れに気づいてくれることも、足を気遣ってくれることもそう変なことではない。フレッドやジョージだって、特に観察眼の鋭いジョージは早々に靴擦れに気づいて、茶化しながらも何とかしてくれるだろう。しかしダリルは、今の今までハリーに大した期待をかけていなかったことに気づいた。そりゃ勿論マグルの町を歩く上では心強いことこの上ないのだけど、靴擦れに気づいてくれるとか、家に帰りたくて心細かったことなどを打ち明けたり、そういった“甘え”が自分たちの間では許されないような気がした。ハリーは同い年で、生まれついての家族でもなく、恋人でもないから期待していなかった。

 セドリックにチョウ・チャンと会っていたとか何とか言って、ハリーと会っている。
 これは、少し問題なんじゃなかろうか。

 悶々とするダリルの胸中などどこ吹く風で、ハリーが自分のスニーカーを地面に置く。
 それどころかダリルに奇異なものでも見る目を向けると「まさか足が腐るかもとか思ってるんじゃないよね?」などとほざいてくださる。確かにちょっと思った以上に……というところはあったけれど、幾らダリルでもそこまで無礼な思考回路はしていない。だがしかし思春期の常で勢いあまって「履くわよ!」と喧嘩腰の返事をしたのと同時に、闇のなかに何か見えた。
 ハッと目を凝らすと、視線の先で何か蠢いている。目蓋を何度か瞬かせて、目の錯覚でないか確かめている間に、ハリーが怪訝な顔でダリルを見上げた。視線を合わせ、深く息を吸う。

「……何かいるわ」

 ぱっと立ち上がったハリーが、ダリルを背に庇おうとした。「ダリル、下がって」
「結構よ、ハリー」ダリルは注意深い足使いで、ハリーの背後から抜け出た。
 左手でハリーを制して、ローブの内ポケットから杖を取り出す。
「こんなマグルの町に、」
 一体何かしら──と言いながら茂みへと向かおうとしたダリルのローブがピンと突っ張る。
 ダリルは極めて不快そうに頭だけで振り向いた。案の定、ハリーの手がローブを握っている。
「ハリー、観察しなくっちゃクマか犬か分からないわ」
 そうは言ったものの、もう喧嘩はしたくないという気持ちもある。
「まあ、見たとこ犬ね。クマじゃなくって残念だったわ」
 暢気な問いを口にするダリルに、ハリーはふーと長いため息をついた。
「マルフォイはやたら僕んちは大きいんだって吹聴してるけど、まさかクマも飼ってるの?」
「飼ってると思うの、ハリー・ポッター」ダリルは厭味ったらしくフルネームで呼んでやった。「リンゴをやると、ちいちゃなボールの上で芸をしてみせるとでも?」
「それじゃ、クマである可能性は濃厚だ。君んちにいないものが、マグルの住宅街を闊歩してると思うんならね」ハリーはもどかしそうに頭を振った。「ダリル、きみ……」
「そうね、ヴォルデモートがマグルのお友達のところへお茶に招かれていたかも」
 笑えないジョークに、ハリーは思い切り顔を顰める。
「これが犬だったから良いけど、もし“ただの”犬でなかったら君は僕の前に出るべきじゃない」

「出るべきじゃない?」
 ダリルがハリーの胸に杖の柄を突き立てた。

 ハリーは咄嗟に両手をあげたが、ダリルは怯まなかった。
「良い? 二度と、二度とよ……“するべきじゃない”なんて、お父様みたいなこと言わないで。私はあなたと同い年の魔女よ。何故あなたの前に出ただけで、そんなに怒られなきゃならないの? 勝手に出たのが悪いってなら、今度からちゃんとお伺いを立てるわよ。ハリー、前に出てよろしい? ハリー、背中を掻いてよろしい? ハリー、お手洗いに行ってきてもよろしい?」
 ダリルが変な魔法を掛けてこないのは、分かっている。杖先でなく柄を向けることからも、殺意がないのは明らかだ。しかしマグルで言えば、銃口を当てられているのと然して変わらない。
 こうした過激な行為を平気でやってのけるあたり、マルフォイ家の血が伺える。
 ハリーは前年度末の、ルシウス・マルフォイとのやり取りを思い出した。
「わかった、わかったよ!」ダリルの杖を払いのけると、ハリーは眉を釣り上げて反論した。「何も君をスクイブ扱いしようと思ったわけじゃない。確かに“何も出来ない女の子”扱いされるのが嫌いだってことは忘れてたかもしれませんがね。それは謝っておくよ、一応ね」
 衒いのない不満を口に出してスッキリしたのか、今更我に返ったダリルがたじろぐ。
「確かに君は僕と同い年の魔女だ。でも、僕は君と同い年の魔法使いだ。わかる? 僕らは二人共魔法が使える。イーブンだ。なのに、僕よりずっと華奢な女の子の背に隠れてボケッとしてろって言うわけ? 普段ちっとも運動なんてしないだろう女の子と、シーカーを務めて試合上怪我を負うことも珍しくない僕と、もし怪我するなら、どっちが怪我したほうがマシかぐらい分からない? ハーマイオニーがいたら、僕が言う通りだって頷いてくれるはずだ……絶対にね」
 女の子だから背中に庇ってやらないと……でも、ダリルはそういうのを嫌うのだった。
 如何にも他人の庇護なしで生きていけない世間知らずの癖、他人から庇われるのが嫌いなのである。何という理不尽。この後に及んで納得いかないのか、ダリルはそっぽを向いていた。

「ダリル、聞いてる?」

 ハリーが尖った声で呼ぶと、ダリルは下ろした杖を再び構えた。
 ダリルが低く「変よ」と囁いた。ハリーにしてみれば、変なのはあの犬だって君だって変わんないさ……という気持ちだったが、最早口論の気概もなく口を噤む他なかった。
「マグルの町では、あれだけ躾の良い大型犬が首輪もなしに放し飼いにされているものなの?」
 黒犬は依然として動かない──心なし、さっきより近い気がする。
「あの犬、さっきから私たちを凝視したまま、どこにも行こうとしないのよ。変よ」
「君のカバンのなかに骨付き肉でも入ってるんじゃない?」そうは言うものの、ハリーも杖を取り出した。捕まえたままのローブを、リード代わりに後ろに引く。「ダリル……兎に角、靴を」ハリーの声へ被せるように、ダリルが「ヒャッ」と「いやっ」の混じった悲鳴をあげた。

 靴がヒールのままだ。
 しかも、さっきハリーが替えの靴をくれるというのでストラップを外してある。
 更に最悪なことには捻ったほうの足が軸足になっていて、軸足の機能を果たせていない。

 靴底から浮いた足は着地点を失い、ダリルの体はぐらりと傾いた。
 固い地面に叩きつけるのを予感したダリルが目を固く瞑ったのと同時、ハリーも目を丸くして「は?」と呻いていた。一歩後退させた右足がシンデレラの置き土産を踏みつけたのである。
 ハリーは咄嗟に地面に手を突くべく右腕を出したが、固く握られた手の中には杖が収まっている。このまま手をつけば、ナメクジ・パーティの再来だ。ハリーは大慌てで手を開き、杖を放り出した。碌な受け身も取れぬまま車道に転げ落ちたハリーは、白くかすむ視界に頭を抑えた。
 アスファルトに打ちつけた肘がじんじん痛む。「ハリーはやく!!」ダリルが何か言っているなと、白む視界でハリーは薄ら認識した。ぐいぐいとトレーナーを引っ張るダリルに引きずられるようにして動きながら、ハリーは割と本気で「良い奴だと思ったのも一瞬、本当に君って奴は足手まといだよ」と言いたくなった。全くもって、君ってヤツはいつもトラブルを運んでくる。

「ハリー、潰されちゃう!!」

 ぺったんこになったら箒に乗る代わりに洗濯バサミで干されるわよ!!
 プアーという騒音で紛れた台詞に、ハリーは己の視界が白い理由にやっと気づいた。揉めているうちに車道に降りていたんだった。男の矜持の手前、如何にか叫び声を喉に詰まらせたままで歩道に上がり込む。ぜえはあと荒い息を繰り返すハリーの隣でダリルもぽかんとしていた。
「な、なんなの……?」
「ダリル、良いかい」ハリーは咄嗟に指で、宙に車を描く。「マグルは車ってものに……」
「無論知ってるわ。今日だって乗らないかって誘われたばかりなのよ」
 憤然と言い張るダリルに、ハリーは今度こそ何も言えなくなってしまった。この馬鹿を、マグルの町に放流したのは誰だ。いや……誰もダリルを動かすことはできないであろう。
 焦りと怒りと混乱の渦で喘ぐハリーの頬を、ダリルが軽く叩く。
「ハリー、しっかりして!」
 誰のせいだ。返事の代わりに頷いて、気付けにしては強い平手打ちを繰り返すダリルを追い払う。ダリルはハリーの介抱に飽きるなりヨロヨロ危うげに立ち上がって、あたりを見渡した。

「ねえハリー、このバス、多分マグル避けが掛かってるわ」
 ダリルが視界の隅に見える外灯を指した。「あれが、勝手に避けたもの」ダリルの台詞が理解出来ないままに顔をあげると、欲張ったケーキのように縦長のバスが目前に止まっていた。
 車体の色が紫のバスなんて、聞いたことも見たこともない。フロントガラスの上、本来なら行先が記されていて然るべきプレートには金文字で「夜の騎士バス」と刻まれていた。
「頭を打ったらしい」ハリーは厳かに呟いた。頬をつねる。「幻覚が見える」
「奇遇ね。腕を打った私にも同じものが見えるわ」
 ダリルとハリーが顔を見合わせた途端、派手な服を着た男がバスから飛び降りてきた

「ナイト・バスがお迎えにきました。迷子の魔法使い、魔女たちの緊急お助けバスです。杖腕をさし出せば参じます。ご乗車ください。そうすればどこなりと、お望みの場所までお連れします。わたしはスタン・シャンパイク。車掌として、今夜──」
 スタンは口上も忘れて、目をぱちくりさせながらダリルとハリーを交互に見やった。

「そんなとこで、いってぇなにしてた?」
 それはハリーが今一番聞きたいことだと思ったが、不運にもまだ息が整っていなかった。
 

絶え間なく鈍く輝く嫌み

 
 


七年語りLULL BEFORE THE STORM