七年語りLULL BEFORE THE STORM
04 あいして、

 

 ヴォルデモートの記憶というのは、ダリルに従順ではない。

 彼の魂はあたかも胎児じみて彼女の内に根付いていたが、通常の母子とは違い、主導権を握るのは“向こう”だった。彼の記憶は些細なことからダリルの意識を感情の奔流に絡めとり、その腹を蹴る代わりに己の邪悪で彼女の思考を蹂躙した。
 尤も全ての記憶がダリルに抗うわけではない。彼女の意志で容易に記憶の底から引き出すことが出来るものもあった。十五歳までの記憶――まだ彼がヴォルデモートという名を持たず、単なるトム・マールヴォロ・リドルとして存在していた頃の記憶はダリルを苦しめようとはしなかったし、ダリルが知ることを望めば様々なエピソードを脳裏に蘇らせてくれた。勿論十五歳の時には既に闇の魔術へ精通していたから、ダリルの思考へ全く邪悪を振りまかないというわけではない。それでもダリルが恐怖を抱くと、それ以上記憶を蘇らせはしなかった。何故なのかは分からないが、兎も角この現象はダリルへ「トム・マールヴォロ・リドルへの愛情」と「ヴォルデモートへの畏怖」を与えてくれた。同じ一つの人間であるはずなのに、如何してこうも別個の人間に思えるのかダリルには不思議だった。しかし“別”でなければいけないとも思っていた。トム・リドルがそのままヴォルデモートに直結するより、同じ人間と思えないほうが良いとダリルが思ったのは、そうしたら彼が生まれながらの悪であるという証明になってしまう気がしたからだ。
 六十六歳のトム・マールヴォロ・リドルがヴォルデモートの仮面を纏う人間か、それともヴォルデモートという生き物なのかはダリルには分からない。ヴォルデモートとしての記憶はダリルに従順でなく、ダリルの望むもの――人間らしい感情の揺らぎ――を見せたことは未だなかった。だから彼が揺らがないのか、もしくはダリルの内にいるヴォルデモートがそれを見せることを拒んでいるのか、ダリルには判断のしようがない。ただ彼女は己へ従順なトム・リドルの記憶を脳内に遊ばせては、彼が幼い内にその手を取ってやりたかったと繰り返し思うだけだ。そして己が手を伸ばした先にまだトム・リドルがいるようにと望むことしか出来ない。

 ただ、こんなことが続けばその気力も潰えてしまうかもしれないとダリルは思った。

 隠し書棚を見ての“荒ぶり”が静まるまで、たっぷり一時間は掛かった。ルシウスが一緒にいたので孤独感こそ和らいだものの、心配するルシウスが手を伸ばすのを制したり、誤魔化したり、何でもないふりをするというのは大変なことだった。異国の文字が邪法の手引きらしきものを己の意識へ綴るのを感じながらダリルは空元気でルシウスと共に奥の部屋へ行き、元気であるとルシウスへ強調するために手に取った本からまたヴォルデモートの記憶が蘇ったり、大変な一時間であった。これなら一人でいたほうがずっとマシだ。
 椅子に腰かけて、ページに書かれた文章を言葉として理解せぬようぼーっと焦点を外して眺める。
 勿論ダリルが空元気であるということも、本を読もうとしていないことも、それどころか今すぐにでも自分とこの部屋から遠ざかりたいと思っていることも、全てルシウスには分かっていた。ただ二つ、ダリルがヴォルデモートの分霊箱のひとつとなったことと、彼の記憶の殆ど全てを得たことだけが、その重大な二つの情報を知りたいのに影すら掴めない。ダリルの隠し事が上手いということではなく、あまりにも突飛なことすぎるから想像することさえ出来ず、そして万一想像出来たとしても、ヴォルデモートがダリルへ掛けた保護呪文によって、その憶測が確証になることはない。皮膚の下には同じ血が流れている。ルシウスにとってダリルと過ごした時間が短ろうが、ダリルにとってはそうでないはずだった。なのに今、かつて地続きだった場所に岸辺が二つ出来ている。手を伸ばすことも出来ない。

 血と記憶はどちらがより濃いのだろうか。

 ダリルは抱くことを考えず、ルシウスは抱くことさえ出来ない問いへ、やはり答える者はいない。この世界に産み落とされることすらない問いは、二人の間にある隙間へ落ちて行った。すれ違うことで出来た隙間のなかに消えていく。その隙間は不幸なものではないはずだが、あまりにも早く出来過ぎた。やがて育てば崩壊星へと至るだろう。その憶測すら隙間へ呑み込まれていく。
 ダリルがヴォルデモートの仮面の下にトム・リドルがいることを望むように、ルシウスもそうすることしか出来ない。血は何よりも濃く人と人を結びつけるのだとルシウスは思った。だから、誰もルシウスの下からダリルを連れ去ることは出来ないだろう。ルシウスが父で、彼女が娘だから、この皮膚の下に同じ血が流れているから、闇も光も二人の間に河を作ることは出来ない。
 ぼうとページを眺めるダリルに掻き立てられた己の不安をそう静めると、ルシウスは口を開いた。
「魔法の腕はどうだ」

 唐突な問いかけにダリルがぱっと顔をあげると、少し離れた椅子に掛けるルシウスへ視線を滑らせた。先まで無機質な顔で俯いていたのが嘘のように、そこにはルシウスのよく知る娘が微笑んでいる。誇らしいとも、嬉しいとも、恥ずかしいとも、何とも言うことの出来ない――しかし暗いものではない表情で、ダリルが小首を傾げた。「時々、失敗してしまうんです」そう言ってから、念を押すように続ける。「でも殆ど自学自習だったと考えれば、大したものですわね?」ブルーグレイの瞳がキラキラと輝いた。
 学期末にマダム・ポンフリーから習ったものを除けば、他は全てダリルが自分で本や教科書を読んで身に付けたものだ。何しろ魔力が戻るまで他者の口にする呪文はノイズ混じりにしか聞くことが出来ず、例え読めても口に出すことは出来ないのだから、発音の正否を人に問うことも出来ない。それを踏まえれば二度三度の失敗があったとて大した魔法の腕だとダリルは思っていた。
 ダリルの台詞の真意こそ分からなかったものの、ひたすらに誇らしげな瞳の色へルシウスは微笑を浮かべる。既に先ほどの不安は鳴りを潜めていた。ルシウスは膝の上に広げた本を閉じて、立ち上がる。そのまま、開いたページを一瞥もすることなく閉じた本を己が座っていた椅子に置いた。ダリルもルシウスに倣って立ち上がり、読みもしなかった本を同じに椅子の上へ置いた。
「どれ、少し揉んでやろう」にやりと悪戯っぽく笑って、壁に立てかけてあった杖を取る。
 その長い杖の中に、何が仕込まれているかは当然知っている。というかここに来る途中でも見たし、物心つく前から知っている。「杖を二本持つのはいささか不格好だろう」などと言うルシウスは、支配者階級であることを示す長い杖のなかに魔法の杖を仕込んでいた。
 まさか決闘など――実際にしたところで酷い怪我を負わされることはないだろうが、万に一つの勝ち目もなさそうなものは、例え模擬試合でも練習でも、なるたけやりたくはないものだ。ダリルが一歩後退するのを見て、ルシウスが笑みを深くする。
「そ、そういえば、お父様は読書をしに来たのではなくて?」
「構わん。お前が魔法の練習をするのに付き合うのが夢だった」
 そうとまで言われれば、断れない。

 ダリルはぎゅっと手袋の裾を引っ張ると、ローブのポケットに入っている杖を取り出した。「あんまり……あんまり殺傷性の高い呪文は使わないで下さいね」意を決したように険しい顔で懇願すると、ルシウスが吹きだした。壁に手をついて、肩を震わせる。
「お前は――お前は、私と決闘でもするつもりだったのか?」
 ダリルは薄暗い室のなかでもそうと分かるほど真っ赤になった。「だって、揉んでやろうなんて」酷く小さな声でぼやいたが、笑っているルシウスの耳にその苦言が届くことはなかった。「お父様のばか、私、本当に緊張したのに」辛うじてその台詞は届いたらしい。
「私はお前をとても可愛いと思っているのに、酷い言いぐさじゃあないかね」また肩が小刻みに震える。「私と決闘をやらかそうなんて思う、そのお転婆さが可愛くて堪らない」ダリルがルシウスを睨みつけたが、笑みは止まるどころか長引く始末だ。
「お父様、私の魔法の練習に付き合って下さるの? それとも私の冗談の練習に付き合って下さるのかしら?」
「練習など必要あるまい?」
 ダリルはぷっと頬を膨らまして、そっぽを向いた。「ほーんと、お父様のおかげで捗るったらありゃしないわ」そうやって暫くツンと澄ました顔をしていたが、やがてダリルもクスクスと笑い出した。長い髪と細められた瞳を輝かせて、嬉しそうに笑う。その幸福そうな笑みを浮かべるのに、己が笑っているというそれだけの理由しか要さないダリル。やはり不安を抱く必要などないと、ルシウスは満足そうに幾度か頷き、ダリルが笑みの残滓を口元へ残したままに首を傾げる。何でもないとルシウスは頭を振って見せた。
「二三呪文を唱えてみると良い。ひょっとすると杖が良くないのかもしれぬからな」
「私の魔法の腕ではなく?」ダリルがちょっとからかうように問いかける。
「杖を変えても駄目だったら、その時はそうなる」
 ルシウスがそうキッパリ言い放つと、ダリルがきゅっと唇を噛んで、真剣な面持ちになった。父の期待に応えられないことばかりだからこそ、努力や心構えで何とかなるものは如何にかしたい。恐らく一番成功しやすく、かつルシウスに誉めて貰えそうな呪文を探しているのだろう。ルシウスはブツブツと呪文を口遊んむダリルをじっと待っていたが、不意に口を開いた。
「サーペンソーティアは如何だ」
「確か、蛇を出す呪文でしたわね」
 あまり乗り気ではない声。それもそのはずで、ダリルはその呪文を唱えたことが無かった。ドラコが得意としているらしいのは知っているし、幾度か使っているところを見たこともある。だから杖の動かし方はおぼろげながら覚えていた。
 ダリルはちょっと考え込んでから、結局肯定の代わりの問いを紡ぐ。「サーペンソーティア、ですよね」ルシウスが頷いた。

「サーペンソーティアー、蛇出でよ」
 しかし杖の動かし方に気を取られたあまり、確認空しく発音を間違えた。煙ひとつ出ない。ダリルは穴があったら入りたいと思った。
「ソーティアーじゃない。サーペンソーティアだ。伸ばすな」ルシウスは然して気にした風もなく、淡々と注意を連ねていく。
 手に持った杖の取っ手を引き抜くと、先に魔法の杖が出てきた。楡の木にドラゴンの心臓の琴線、闇の魔術の防衛術に――ひいては闇の魔術に最適。ルシウスの骨ばった手が杖をゆったりと動かした。トーン記号を描くのに似ている。
「それに杖の振り方が大仰すぎる。手首の先だけで動かすんだ」
 ダリルはルシウスの手の動きを眼に焼きつけて、こっくりと頷いた。ふーっと大きく息を吸って、ゆるゆる吐きだす。腕よりも舌へ意識を向けて、ハッキリと発音した。「サーペンソーティア、蛇出でよ!」杖の先がパンと弾けて、光が引いた。

 何も出てこない。

「発音はそれでいい」
 酷く悲しそうに俯いた娘を励ますように、ルシウスは優しい口調で呟いた。ダリルの手の中にある杖を見やる。黒檀にバジリスクの鱗、変身術に秀でている。ルシウスの祖父のものだった杖で、無論純血主義者ではあったが穏やかな人物であった。故にダリルの魔力の質と上手く符合すると思ったのだが――ダリルは単に純血主義者ではないというだけで、穏やかというほど落ち着いているではない。
 父のもの、祖母のもの、母のもの、大事に保管されている多くの杖の質と持ち主の性格とを脳裏に過ぎらせたが、結局ダリルと似た性質の者はいないように思えた。元よりダリルの異質さはこの二年で嫌というほど思い知らされているのだから、端から期待はしていない。ルシウスはじっと祖父の杖を見つめながら、独り言じみた言葉を零した。
「ふむ、杖を変えたほうが良さそうだな……」
「愛着はあるのですけれど」
 ダリルが苦笑を浮かべて、杖を撫ぜる。
 レディ、ヴォルデモートの記憶体は易々と使いこなしていたのだし、自分とて連続で失敗するということはない。殆ど使った事がないとは言え二年も共に過ごしてきた杖は何となく離れがたいように感じた。ダリルの執着を見てもルシウスは躊躇わない。
「合わないものを使っていても負担になるだけだ」
 ルシウスの言葉へ応えず、ダリルはもう一度呪文を口にした。「サーペンソーティア、蛇出でよ!」パンと白が炸裂し、杖先に影が躍った。ずるりと、杖先から這い出た細長い影が石畳の上に落ちる。湿った床から柔らな衝撃音が響いた。
 黒蛇は不愉快そうに鎌首を擡げると、迷うことなくダリルのほうへと向き直る。聞き慣れない音――恐らく威嚇音だろう低い響きを漏らしている蛇は今にもダリルへ飛びかからんと全身に力を込めていた。ダリルは一歩後ろに下がる。
「お父様、」ジリと蛇がダリルへ近寄った。「――この蛇は如何したら?」
「攻撃呪文もいくつか知っているだろう。昨年は武装解除術を習ったと聞いている」ルシウスは動じることもなく、さらりと返す。
「私、行かなかったんです」
「ドラコの話を聞く限りでは正解だな。全くダンブルドアも馬鹿げた男を雇ったものだ……」
「面白い方でしたわ」
 ダリルはちょっと眉をひそめると、反論めいたことを口にした。しかしロックハートの弁護をしている場合でないのは明らかだ。生き物の形態を取っているものへ杖を向けるのは躊躇われたが、所詮己の魔力が蛇としての形を取っているだけに過ぎない。
 杖の先端を蛇に向ける。帰りのホグワーツ特急のなかでフレッドとジョージから教わった呪文を記憶のなかからひっぱり出した。
「ええと、エ……」ハリーが笑いながら軽やかに杖を振ったのが脳裏に過ぎるが、綴りが浮かばない。杖を吹き飛ばされたジョージが酷くつまらなそうに何だってオレの呪文は不発なんだ? とぼやいて、ハーマイオニーが発音ミスを指摘する。エグ(限りなくクに近い濁音を見事に再現してみせた)スペリアームじゃないの――エクスペリアーム、「エクスペリアームズ、武器よ去れ!」

 不発である。

 向けられた杖にちょっと怯んだ蛇だったが、ダリルが詠唱に失敗したと見るや再び距離を詰めてきた。たかが魔力の塊だろうが、噛まれれば痛いし、ドラコもルシウスも噛まれたことなどないので分からないが、毒もあるかもしれない。
「“ス”だ」見かねたルシウスがダリルの間違いを指摘する。
「え、エクズペリアームズ?」
 オロオロと、ダリルが泣きそうな顔で問いかければ、ルシウスは再び壁に寄りかかり始めてしまった。
「お父様、笑いごとじゃありません!」
「私に構っていて良いのかね?」
 本当に、本当に、ダリルが困っていれば困っているほどにルシウスは楽しそうである。ダリルはルシウスへの怒りを詠唱する口ぶりにこめた。「エクスペリアームス!」ひゅっと赤い閃光が蛇めがけて駆けて行ったが、それは蛇を僅かによろめかす程度の威力しか持っていなかった。中途半端な攻撃を受けた蛇はいよいよ――感情などないはずなのに――怒り狂い、ダリルとの間合いを詰めていく。
 ダリルの背がひやりと堅いものへ触れた。蛇との距離はもう一メートルほどもないのに、ダリルの頭からは呪文が抜け落ちている。
「ステューピファイ、麻痺せよ」びゅっと伸びてきた赤い光が蛇を貫いた。
 麻痺呪文を受けた蛇がずるりと床の上へ倒れる。ダリルはほっと胸を撫で下ろしたが、一方で感情などない魔力の塊であると分かっているにも関わらず、無抵抗のものへ一方的な敵意を向けてしまったことを後ろめたく感じていた。蛇を貫いたのが己の呪文でなく良かったという気持ちが一層ダリルの顔へ陰りを落とす。自分さえ手を下さなければ良いという考えが、己の傲慢さを顕著に表していた。
「お父様、消して下さいます?」ダリルが蛇とルシウスから視線を逸らして、懇願に近い響きを紡ぐ。紡いでから、もう手遅れと分かっているだろうに、冗談めいた声音を作ろうとした。「飼うおつもりでしたら構いませんけど、私は消す方法を知りませんので」
 ルシウスはダリルを一瞥してから、もう一度杖を振った。
「エネルベート、活きよ」
 ダリルはルシウスのほうを見やる。消すだけなら、麻痺呪文を解く必要はない。ルシウスの瞳を、じっと凝視した。「お父様?」訝しげな声がそう呼ぶよりも、目を覚ました蛇がルシウスへ向き直るよりも、

「クルーシオ」
 柔らかに、己の名を口遊むときと同じ響きで呪いを口にした。閃光が視界に広がったが、ダリルはその光の先にあるものを見れなかった。トンと肩が壁に触れて、膝が笑う。石畳の上を転げまわるものを見なくとも、何が起こっているか、何を味わっているか、全て明らかなのにダリルは愚かな疑問を口にした。「なにを」なさったのですか。それ以上の言葉が浮かんでこない。頭の中に先の光が満ちているように、何も考えられなかった。実際満ちていたのかもしれない。ヴォルデモートの記憶がダリルの肺からせり上がってくる。口を押えることすら出来ず、ダリルはずるずると床に崩れ落ちた。壁脇に貯まった水がローブを濡らした。杖が指から落ちて、水たまりに漂う。
 蛇はまだ暴れ、悶えていた。ルシウスはいつも通り、ダリルの知る父親としての顔を崩さないで、穏やかな声音で言葉を続ける。
「この呪文は杖の振り方はそう困難ではない。勿論上手く使えるとは思っていないが、」
「つかえば、」ダリルがルシウスの台詞を遮った。「つか、使えば、アズカバン送りになります……」ルシウスの台詞の意図を理解したダリルは壁にぴったり背を寄せて、嫌々と首を振る。理解に感情が追いつかない。涙はまだ零れていなかったが、蛇がその動きを止めたのに、わあっと溢れる。頬を大粒の涙が伝った。「やはり私ではこの程度が限度か」その呟きがダリルには理解できない。
 薄青色の視線がダリルに絡み付く。細い喉が引きつって、声が出なかった。ただ首を振る。ルシウスがダリルへ歩みを進めた。
「ここは存在しない場所だ。そこで何をしようと、魔法省の感知できるものではない。呪文も、短いから覚えやすいだろう」
 ダリルを見ていた瞳が、蛇のほうへ滑らされる。何をしろと言われているかは理解したくないほどに理解出来た。ただ一つ、その理由だけが分からない。何故唐突に磔の呪文なぞ覚えさせようとするのか、ダリルは恐怖と嫌悪に身じろぎした。濡れた髪がローブに絡む。
「クルーシオ、杖の動きは基本の型だ」
 目の前まで来たルシウスがしゃがみ込み、視線を合わせた。促すように蛇のほうをちらりと見る。
「や、いや、嫌です」
 拒絶以外を口にしないダリルへ、ルシウスが瞳を細めた。
「ダリル、何を怯えることがある? 昨年の夏にきちんと教えただろう」
 何のことだ。何を教わったと言うのだろう。ダリルは潤んだ瞳でルシウスを見つめる。視界は涙で滲んでいた。

「私が如何いう事をしてきたか、分かっているはずだ」
 ルシウスは氷のように冷たい瞳で娘を見つめ返す。
 ダリルの頬が強張ったのも、体が揺らいだのも、恐怖からではなかった。
「だ、それは……過去と、今は、ちが、います」声が震えた。言いたかったことではなく、またルシウスの問いかけからも外れた言葉が石に響く。沈黙を紛らわす以外の役をせず、その台詞は闇に溶けて行った。
「つまり実際に目にするのが初めてだったからということかね」
 応えはなかった。ダリルは何を言う事も出来ず、口を噤んでいる。ルシウスから視線を逸らして俯いた。濡れたローブが目に入る。

 知りたいと望んだのはダリルだ。そしてルシウスはそれを許した。だからダリルはあの一年、酷く自由に振舞えたと思う。勿論ルシウスの許しがなくとも、知りたくなくとも、結局知ることになっただろうが、ルシウスはダリルが知ることを許した。その代価は何だったろう。知って、知るだけで終わるようなことだろうか。ダリルが多くを知ることに、何を望んだのか。
 ダリルの知るルシウスは何の見返りもなく何かを与えたり、許したりはしない。だからこそこの時勢でもマルフォイの家名は数ある純血一族の内でも尊敬を集めていられるのだ、ルシウスが多くの計算に基づいて動いているから。
『私が大事なのはお前たちだけだ』
『知らぬほうが幸福なこともある。騙され続けるほうが幸福なこともある。しかし一度知ったなら、お前が納得いくまで知ると良い』
『私はお前に“それ”を知ってほしくはなかった』
 嘘だった? 心からのものではなく、また何かダリルの察せられぬ思惑があった故のものだった?

 分からない。

 無償の愛を享けることを期待してしまう。そういう人ではないと分かっているのに、大切に思われているとも、大事にされているともきちんと分かっているのに、親だというそれだけで期待してしまう。己が愛するように愛してくれているのだと勘違いしてしまう。
 己の選択を、どんな過ちを犯しても許してくれる、愛してくれる。そう信じたいのに、幾度となく試される。

 ルシウスの本心がどこにあるのか、ダリルには掴めない。ただダリルはいつか普通の父娘のように穏やかな関係になれるのだと、それだけを信じていた。信じていたし、希望も抱ける程度には父娘らしいはずだった。しかし不意にルシウスが突き放す。これでもまだ己の手を望むかと、それとも単に我武者羅に手を伸ばすダリルを見たいだけなのか、度々残酷な事をして見せる。
 慣れたことだった。それに、相手は人ではなく魔力の塊で、そういう呪文があるとは疾うに知っていた。なのに――ダリルは感情的な言葉を口にする。思考回路は滅茶苦茶で、今ダリルの意識を荒らしているのはトム・リドルの記憶だった。
 愚かだと理由も分からぬまま思ったが、言葉は止まらない。
「何で? 如何して、何故この鍵を私に? 私が知ってはいけないことを知ったから? 入ってはいけない寮へ入ったから? お父様の不興を買うから? お父様は私が、お父様のことを怖いと思っても、構わない、の」
「私がお前にこの鍵を渡したのは、お前がやがて諦めるだろうと思ったからだ」
 硬い声がダリルに囁いた。
「いつになったらお前は弁えることを学ぶ? いつになればお前は全てを諦める? 何もかも自分の手には負えないと、理解する」
 顔を歪めたルシウスがダリルを睨むのを止めて、蛇のほうへ杖を向ける。ダリルはルシウスを突き飛ばして、蛇のほうへ寄った。鎌首をもたげようとしては石畳の上に頭を落とす。衰弱している蛇を抱き上げて、首を振った。
「やめて、ください」
 完全にパニック状態にあるダリルが蛇を腕で隠す。怯えきった瞳がルシウスを映した。そこにいるのはルシウスの知らない少女だった。深く広い河の向こう岸で、血よりも濃い何かを見つけてしまった少女がルシウスを阻もうとしていた。

「やめて、……ムに、止めて、何もしないで、やめて」
 トムに何もしないで、この子を傷つけないで、お願いだからこの子を苦しめないで、ダリルの耳朶をテノールが揺らす。
『僕を救ってくれ』

 ダリルは己が魔力の塊である物体を生物と勘違いし、あまつさえ、それをもう傍にいない己の飼い蛇に被せている。増してやトム・リドルがダリルに守られるほど弱い生き物でないにも関わらず、己が庇護しなければならないと強く感じて、腕に抱いていた。
 これほどに愚かなことがあるだろうか。しかしダリルにとってトム・リドルは幼い子供だった。暗闇のなかで独りぼっち、怒りの向ける場所さえ分からず、やがてその身を己の感情に蝕まれていく哀れな子供。手を伸ばして、守らなければならない存在。
 もしもダリルの感情を人が知れば笑わぬ者はいないだろう。さもなくば呆れて、嘲るだろう。そういう愚かな思い込みだった。
「そ――い、あっ」
 恐怖に震えるダリルの首筋に頭を寄せた蛇が、その白い皮膚に歯を突き立てる。ダリルの眉が痛みに寄せられ、杖を下ろしていたルシウスが口実を得て再び杖の先を蛇に向けた。杖先がこちらを向いていることにダリルが動揺する。
「それから手を離せ。お前に傷をつけた」
「お父様が危害を加えました」ダリルは己の首に食らいつく蛇から手を離さない。「やめて――どうか、やめてください」
「駄々をこねてばかりでは、相手に通じんぞ」
 ルシウスが吐き捨てるように言ったその台詞でダリルの理性が消し飛んだ。

「それじゃあお父様は私に、何を望むの」一旦は止まったはずの涙が再び溢れだし、頬を濡らす。
「私とナルシッサ、ドラコ以外の人間に肩入れせず、ホグワーツを退学して、家でじっとしていれば良い」
 ルシウスはルシウスで冷静な判断が利かなくなっていた。何故分からないのだと腹立たしげに極端なことを言う。極端だったが、本音だった。昔のようにマルフォイ邸から出ることなく暮らして、自分たち以外に興味を示さないことを望む。
 ダリルがスクイブと知るまで続いていた穏やかな日々、七歳になるまで繋がっていた普通の父娘関係をルシウスは求めていた。
「退学? まだそんなことを言ってらっしゃるの? そんなことをしたら、マルフォイの娘が中退をしたと笑われますわよ」
「体が弱いのだから、自宅療養が必要に決まっているだろう」
「弱くなんてありません!」
 もどかしそうに、ダリルは首を横に振った。涙が宙に零れる。ブルーグレイの瞳がルシウスを睨みつけた。

「結局――結局、お父様は私が何かを考えて、お父様の見ていないところで私が勝手に動くのが気に入らないのでしょう」

 家名を落とすから、心配だから、それよりも己の支配下にあったものが意志を持ち反論するのが気に喰わないのに違いない。ヴォルデモートも、パーティで会う人々も、フリントも、自分へ手紙を送ってくるスリザリン生達も、皆ダリルが何を考えているかなんて如何でも良いのだ。黙って言うとおり従順にしているだけで良いと言う反面、言う事を聞いていてもダリルが己の意志で動こうとすれば顔を顰め、動きを封じようとして、束縛しようとする。ダリルの関わる全てに干渉しようとする。何もかも押さえつけようとする。
「皆そう! 私は何も考えちゃ駄目なの? このお綺麗な顔に傷がつかないようじーっと大人しくしていて、にこにこ笑って相槌を打っていればいいわけ! それで時々足元へ跪いて寵を乞えば尚良しということ? 産まれた時から、私はこの家に、お父様とお母様の娘として産まれてきた瞬間から何もかも決められているって、そういうこと? そんなの屋敷僕妖精と変わらないじゃない! 単なる物よ!」
 ギリとダリルが唇を噛んだ。舌の上に錆びた鉄の味が広がる。ダリルは右手をポケットに突っ込んで、ナイフを取り出した。パチンと音を立てて、片手でナイフの刃を出す。ぐっと己の首へ突きつけた。スリザリン気質の男たちは皆変わらない。どんなに望んでも無駄だ。この人達の本心を推し量ることは永遠に出来ない。歩み寄りたいとか、傍にいたいとか、そう望んでも結局変わらない。
 ダリルは涙を零しながら笑った。
「それなら死んでたって一緒じゃありませんか」

 死んでしまえば、もうダリルは何も考えない。顔を歪めればずっと笑ったままでいる。何を知っても怯えない。何も怖がらない。意に背くこともない。だから死体を大事にすればいい。ヴォルデモートだって、ダリルの中身は要らないのに違いない。どんなに望んでも、希望を見出しても、結局この人達はそれを打ち砕こうとしかしない。臆病で手を差し出すことの出来ない、賢い人々。
 ルシウスが口を開くより早く刃がダリルの皮膚を裂いた。銀に赤いものが伝い、深く突き刺そうとした瞬間別種の痛みが体を破裂させた。いや、そう感じた――ダリルはナイフから手を離し、床へ倒れ込んだ。全身の骨を打ち砕くように陰湿な痛みに包まれる。自分が何を言っているかは分からなかったが、何をしているかは辛うじて分かる。先ほどの蛇のように、石畳の上を転げまわっているのだ。皮膚の下を蛇が這いずりまわる。悍ましさに総毛立った。ギシギシと骨が軋む。久しぶりに訪れるものだったからこそ、一層ダリルは恐怖と苦痛を感じていた。死んでしまったほうがずっと楽だ。口の端から唾液を零し、痛みに身を掻きむしり、奇声を発するその姿は惨めなのに違いない。呪いによる痛みが落ち着くと、今度は首の傷が痛んだ。その痛みがダリルをより惨めな気持ちにした。
「ふ、ふふ……そう――そうね」
『逃げることも、僕以外の誰かを想うことも、僕以外の人間に触れることも許さない』
 ダリルは石畳に突っ伏して、肩を震わせた。声をあげて笑う。
「そうね。約束だもの、そうだったわ……」
 未来も命もあげると約束し、そして彼は逃げることを禁じている。自死を防ぐ何等かの手立てが講じられていると考えて然るべきだったのだ。そこまで考えて、ダリルははらはらと泣いた。試されるのも、揺さぶりをかけられるのも、少なからず要されているからだ。それで構わないと善良ぶって見せたのは自分だ。そう振舞ったにも関わらず、結局見返りを欲してしまう。与えたものを返してくれると当然のように思い、与えるだけで良いのだと言った途端に強欲で醜い性を露出させる自分がいた。それを惨めと言わず、なんというのか。

 愛されたい。そして己を愛してくれる人だけを愛したい。

 ダリルは黒蛇を探した。倒れた椅子の隅で大人しくしているそれに、手を伸ばす。ゆっくりと撫ぜた。
「私は、大事な人が何かを傷つけたら不幸です。大事な人を失ったら、不幸です。死ぬよりも、痛みよりも、ずっと不幸です」
 そんな人を大事と思わなければ良い。セドリックの言うとおり、仕方がないと切り捨ててしまえば良い。無駄で愚かなことだ。それでも、どんなに無駄なことでも、傲慢と謗られようと、己の心のままに行動したい。目の前にいるものへ手を伸ばしたかった。
 常にそう思えればいいのに、結局ダリルは相手の愛情を感じられなければ動かない。現在のヴォルデモートがそうでなかろうと、ダリルの知るヴォルデモート――トム・リドルはダリルを望んでいた。少なくとも死ぬことを許さない程度には、己を望んでいてくれた。
 ダリルは自分の歪みを理解する。愛してくれるなら、それがどのような形でも構わないのだ。胸に刻まれた呪印がもたらす苦痛さえ、要されている証拠になるなら不幸の理由にはならない。寧ろ安堵さえ、歓喜さえ覚える自分がいた。

「私が死ぬことでお父様が人を殺さなくなるなら私は躊躇いなく死にます」
 愛情は全て鏡写し。優しく愛してくれるなら己もそうするし、奥底で愛してくれるなら己も表には出さない。そして計略を絡めるなら、自分もそうしよう。ルシウスが自分の愛情を逆手に取ろうとするなら、同じことをするまでだ。
 ダリルは震える膝を立たすと、蛇に微笑みかける。「おいで、消えるまで一緒にいてあげる」蛇がわずかにダリルのほうへ這いよった。それを抱き上げて、ダリルは立ち上がる。そうしてルシウスのほうを見もせず、静かに部屋を後にした。
 

あいして、

 
 


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