七年語り – LULL BEFORE THE STORM
05 仮面の下の素顔
無縁のものへ面影を求めることは、喪失を知る大人の処世術だ。
もう手に入らないと知って、それでも諦めきれない己の願いを妥協と嘘で宥める。その願いは理性とは別のところから来るものに由来していて、人へ到底賢いとは言い難い振る舞いを多くさせる。割り切ることが出来れば楽で、仕方ないと諦めてしまえば辛くないのに、何故手に入らないと分かっているものを望み続けるのだろう。ひょっとすると手に入ったかもしれないという思いが、何処かに残っているからか。それはつまり、希望故の執着なのかもしれない。ほんのわずかな希望を見出すことに、そこに幸福は存在するのだろうか。
ダリルは「する」と思う。学期末のスネイプの台詞へ、ダリルは戸惑わなかった。例えその希望が安寧へと繋げるには頼りなく、諦めるには多すぎるものだったとして、希望故に安らかな日々を送れずとも、見ているだけでも構わない。ダリルは暗闇を知っている。己の手で自分の存在の全てを否定され、卑下し、何の価値もなくただ物のようにじっと動かず暗い場所へいることを知っていた。
『相手の為に、他人のために身を引き――関わらず、裏で小細工をするだけで、何も報われない』
二年前のダリルには、そんな“相手”すらいなかった。
遥か彼方のことすぎてスネイプが忘れていることを、ダリルはまだ覚えていた。孤独の過去はまだ近い。忘れるには早すぎるだろう。安寧と孤独は似ているが、そこには大きな差異がある。安寧には誰かがいて、孤独には誰もいない。
孤独には自分を傷つけるような誰かがいない代わりに、傷つくことはなく、安らかに暮らすことが出来た。でもそれは無価値なものだ。だからダリルはあの頃に戻りたくない。例え安らかに暮らせずとも、傷ついても、孤独よりはずっと良かった。
誰もいない部屋でルシウスの訪れだけを待ち、無限の時間を持て余す。そんな生活はもう嫌だった。確かに今はもうドラコとも仲直りしていて、自分はスクイブではなく、例え邸に閉じ込められたとしてもあの孤独とまるきり同じではないに違いない。それでも、あの頃の孤独が消えるわけではない。ダリルにとってこの邸は我が家ではあったものの、同時に牢獄と等しかった。外界と遮断され、己は守られる代わりに無知でいることを強いられる。それは無知故にクィレルを失ったのだと思い込んでいるダリルにとって、恐怖でしかなかった。
もしもダリルが初めて直面する死がああいったものでなければ、此処まで喪失を恐れることにはならなかったのかもしれない。手を下したハリーを責めることは出来ず、周囲はクィレルを責め、時勢の故に表だって反論することも出来なかった。諸悪の根源たるヴォルデモートはダリルの傍におらず、そして彼女は実際にヴォルデモートがクィレルを操っていたのだという確証を得ていなかった。ヴォルデモートがクィレルに取りついていたというのは、ダンブルドアから聞かされたことだ。ダリルが己の目や耳で確かめたわけではない。誰も責められないが故に、ダリルは自分を責める。怒りと悲しみと後悔のやり場に自分を選んだ。私が悪い。私が愚かだった。私が無知だった。ヴォルデモートはその自責の念に付け込んだのである。卑屈なダリルは、結局己よりもヴォルデモートが悪いと思えなかった。
私が無知で愚かだったから大事な人を失ってしまった。私は大事な人が助けを求めている時に、いつも手を差し伸べられない。いつも全てを解決するのはハリー達で、私はその邪魔しか出来ない。無知だから、愚かだから、闇のなかに生まれたから、助けられない。
自分が知らない内に大事な人が傷つくことが恐怖だった。何も出来なかったと己の無力を突きつけられるのが嫌だった。だからダリルは誰にでも手を伸ばす。そうすることで自分の心の均衡を保つことが出来るから、クィレルが死んだのも、ジニーのことに気付けなかったのも、レディを失ったことも、全て己のせいではなかったと慰めることが出来るから己を顧みない。
セドリックの言葉から、ダリルはこの傲慢さを自覚し始めていた。自覚し始めていたが、出口の見えない問い故にきちんと向き合うことは出来ないでいる。恐らく、先のことをセドリックが知れば酷く怒るだろうとダリルはぼんやり考えた。
『僕をちょっとでも大事に思うなら、もっと自分を大事にすると約束してくれ』
大事にするということは如何いう事なのだろう。よくわからないが、ルシウスが魔力の塊に対して磔の呪文を撃ったことへ錯乱して首にナイフを突き立てることは、自分を粗末に扱う行動なのに違いないと思った。ヴォルデモートの掛けた呪いのおかげで、痛みに対するハードルがどんどん下がってきている。首の傷よりも、呪いが発動したことに対する虚脱感のほうが酷かった。
ダリルは腕の中で大人しい黒蛇を指先で撫ぜ、薔薇の垣根の向こうを見つめる。高い塀に青空が切り取られていた。そういえばクィレルの死を知った時も、レディの消えた日も、空は青く澄みきっていた。日差しは穏やかで、景色は喪失と無縁に明るかった。
腕の中で黒蛇がゆっくりと溶けていく。ダリルは空虚になっていく指先に視線を落とし、涙を一粒零した。
また失ってしまった。
たかが魔力の塊、そう分かっているはずなのに胸が痛む。馬鹿げているとは自分でも思っていた。悲しいのは、この蛇が消えたからではない。クィレルやレディの喪失が思い出されるからで、この蛇を失わなければ彼らが戻ってくるというわけではなかった。もう何をしても失ったものは戻ってこない。そうと分かっているのなら、冷静に振る舞うことで発展性のあることを行えば良いのに、過去の未練に振り回されて、ダリルは愚かしいことをしている。過去の自分が今の自分を見たならさぞかし軽蔑したことだろう。
感情的に無意味な行動をとることを誰より嫌っていたはずだ。
自分が間違っていることも、傲慢だということも、言葉に出来なくとも、反省出来なくとも、行動に示せなくとも、きちんと分かっているつもりだ。本当はヴォルデモートのことなぞ忘れてしまって、この呪印のことも全てダンブルドアに打ち明けて、普通に暮らしてしまえば良い。約束を果たす理由はない。自分が闇に行く理由はない。己がしたいことが分かっているなら、そうすれば良いだけのことだ。ハリーのようになりたいなら、一層ヴォルデモートになど情けを掛けてはならない。セドリックが好きなら家のこともヴォルデモートのことも全て諦めてしまえば良い。ダリルは何もしてないじゃないか。グリフィンドール寮に組み分けられたのだから、シリウス・ブラックやアンドロメダ・ブラックのように家を出て行ってしまえば良い。第一まだヴォルデモートが蘇るとハッキリ決まったわけではない。
心配してくれる人がいる。自分のことを好きだと言ってくれる人がいる。友達だと笑ってくれる人がいる。それを全て見限って、自分は何をしたいのだ。そこまで偽善を貫いて、己を聖女とでも思い込みたいのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
分かっているなら、今すぐダンブルドアへ手紙を書きなさいよ。全部言ってしまえば良い。
そう思ってもダリルは薔薇園の入口に佇んだままでいた。どこでどう歪んでしまったのか分かっても、元には戻せないものがある。
レディでも、ヴォルデモートでも、セドリックでも、誰でも良い。誰か共にいて欲しい――そこまで考えてダリルは苦笑を浮かべた。共にいるものなど、既にあるじゃないか。ダリルの傍にはヴォルデモートがいて、選んだものは彼のはずだ。
そうしたら、ダリルはセドリックやハリー達と縁を切らなければならないのだろう。ヴォルデモートから逃れることではなく、彼らから離れることを考えて、過ごしていくべきなのだ。彼らと離れれば、闇の陣営に属してしまえば楽になるだろうか。
意地や偽善はもう取り返しのつかないところまできている。馬鹿馬鹿しくても、それらを貫き通すほかなかった。今更苦しいなどと言うことは出来ない。ヴォルデモートがそれを許さないだろう。例え自分へ何の感情を抱いていなくとも、ダリルは彼の命綱だ。ダリルを害することが出来るのも、自由に触れることが出来るのも、もう彼しかいない。彼はダリルを己の所有物と思っている。
結局同じ場所へ戻ってきてしまったのだろうかとダリルはふと思った。
己で全て選ぶと考えて、そして抗って、結局感情的になったがために望まざる未来を選び取ってしまったのだろうか。
否、――思考の続きは背後の足音に遮られた。振り向けば、難しい顔をしたルシウスが佇んでいる。
「……傷はどうなった」
ヴォルデモートの呪いのおかげで、然程深くはない。首を掻き切ったほうがマシと思える程度の痛みと引き換えのものではあったが、兎に角物理的な傷は軽かった。「平気です」と見たままを言っても、ルシウスの顔は険しいままだった。その理由は明らかだろう。
ルシウスはダリルの目を見据えて、声を絞り出した。言いたくはなさそうな――自分でもまだ認めたくないと言いたげな声。
「先の苦しみようは磔の呪いを受けた時と似ているな」
ダリルはポケットから出したハンカチを患部に当てて、飄々とした表情を浮かべる。
「さあ、そうでしょうか。私は物事を客観的に見れませんから分かりませんわ」
そうしてから、ぷいとそっぽを向いた。例え相手が無機物であったとしても、己の前で磔の呪いを使ったルシウスのことはまだ許せない。試すのは勿論多少なり己の存在を要されているからであるとは分かっているが、愛情の有無を疑われて良い気はしないものだ。何が疑念を呼んだかは知らないが、少しは態度で示す前に口で説明しようとは思わないのだろうか。ダリルが意地悪い口調で「お父様がそう思うのなら、そうなのではなくて?」と口にすると、ルシウスの眉間に深いしわが刻まれた。
「お前を失ったら、私が不幸だとは思わないか」
ルシウスがダリルを睨む。
「ドラコや、ナルシッサ――それにお前の碌でもない知り合い共が不幸になるとは思わないのか?」
そう畳みかけるとダリルがたじろいだ。しかし、ダリルは素直に己の感情を吐露しようとはしない。ここ最近はもう、ダリルがルシウスに語る言葉のなかに真実があるほうが珍しくなっていた。だから今も誤魔化しに似た響きが宙に零される。
「時が、」ダリルが俯いた。「それとも誰かが埋めてくれますわ」
恐らくダリルとてそれが正しいとは思っていないだろう。それどころかまだ向き合うことすら出来ていないに違いない。ルシウスにとってダリルが己の傲慢さを理解しかけているのは驚きだったが、それでも現実を突きつける必要がないとは思わなかった。
「その考えは傲慢そのものだな」
冷ややかな音がダリルの鼓膜を凍らせる。ルシウスの声へ軽蔑にも似た怒りが満ちているのに気づけば、ダリルはすぐにでも許しを乞いたいと思った。思っても、折れることは出来なかった。ダリルは罪悪感を堪えて、口を噤む。その視線は今も土の上に落ちていた。
互いに愛し合っているのは確実なことだ。
ルシウスはダリルを愛しく思っているし、ダリルもルシウスを愛している。十幾年を共に過ごしてきた家族が愛し合っていないはずがない。なのに、何故、こうして穏やかな時間を過ごすことが出来ないのだろうか。
愛しているから危ないことをしないで欲しい。愛しているから守りたい。自分だけを見てほしい。それを何故――他者が自分に対してそう思うことを許せないのか。他者が自分に向ける愛情を軽んじ、疑い、身を預けようとしない。
自由にさせてくれと望むなら、それ相応の責任と信頼を負う義務がある。
それを分からない年齢ではないだろうにと、ルシウスは酷く腹立たしかった。きちんと教育してきたはずだし、実際ドラコは弁えているのに、何故ダリルだけがこうなのか不思議で堪らない。如何言えばダリルが分かってくれるのか、ルシウスはそう考えながら口を開いた。
「お前は先ほど、大事な人が何かを傷つけたら不幸だと言ったが、私の“大事な娘”が己の手で首にナイフを突き立てることは、それに当てはまらないのかね?」皮肉めいた口調で言えば、ダリルの肩がびくりと揺らいだ。
ルシウスはダリルの動揺をせせら笑うような顔を作る。
「私が不幸になるのは構わないと、そういうことか」
「わたしは」ダリルはぱっと視線をあげて、ルシウスのほうを見た。「私は、」言葉の続きが浮かばない。オロオロとただ何か言いたいのだということだけを示して、結局何も言う事は出来なかった。ルシウスの言うとおりだった。ダリルはルシウスが不幸になっても構わないと言ったも同然のことだ。自分さえ誰かを失わないですむなら、人が失っても構わない。そう思った時点でルシウスのことを責められるはずもない。善人ぶっている分、ルシウスよりもずっと酷いだろう。ダリルは口ごもり、反論を止めた。
「……その、通りです」
強張った響き。
「お父様の言う通り、私はそう思っています」
薔薇の香で装った風がダリルの言葉を絡めて遠くへ運んでいった。常春の庭から夏の空が見え、二人の間には濃い影が落ちている。それを魔法によるものなのだと気づくことは永らくなかった。ダリルにとって薔薇は四季に左右されず咲き続けるものだったし、どんな花でも、果実でも、望めば常に傍らで咲き続けている。そういう世界でダリルは育った。
七歳になるまで、ダリルは“楽園”に暮らしていた。“知恵の実”は己がスクイブかもしれないという疑念で、ダリルはその実を齧るまで魔法を意識することもなく、マグルの存在すら知らなかった。落とした刹那に霧散する言葉と同じく、疾うに楽園は遠いが、その一瞬で胸に根強く刻まれたものがある。楽園を去って六年が経とうと、千年が過ぎようと、幼い頃に身に付けた傲慢は抜けきることがない。
「他人が私を失うことは如何でも良いと思っています。私が他人を失いさえしなければ、きっと誰が死んでも構わないのだと思います」
知らない人が見えないところで死ぬことまでは構っていられないと、ダリルはそう自覚した。それで、ハッキリと己の偽善を理解する。何もかも自分の心の均衡を保つために行う身勝手であり、今まではたまたまその身勝手が世間一般の善行の枠に留まっていただけなのだろう。己の身を挺して人を庇う心優しい少女など何処にも居はしなかった。ここに、この薔薇園でルシウスの目の前に立っているのは、己の欲望のために他者を踏みにじることを躊躇しない醜い生き物だった。ダリルはあまりに醜悪な己の本性へ眉を寄せる。
しかしダリルとは違い、ルシウスはその台詞を単なる醜悪だとは感じなかった。寧ろ安堵さえ覚えていた。人間というのは少なからず醜いものだ。美しいだけで、その本心が見えないということほど悍ましいことはない。
ダリルがルシウスを理解しがたいと感じているのと同じに、ルシウスもダリルに対してそう感じている。
血の繋がりがあって、これほどまでに意思の疎通がままならぬことというのもないだろう。あったとして、疎遠になったり、互いに嫌悪し合うのが普通なのに違いない。例えばシリウス・ブラックとその家族のように、またナルシッサとその姉であるアンドロメダのように、不仲になるのが自然な流れだ。なのにダリルは家族の誰とも疎遠になっていない。そして嫌悪というほどに不仲なわけでもない。ドラコもナルシッサもルシウスも、ダリルを心から嫌っているわけではなかった。勿論ダリルは十三になるまで魔力を示すことがなかったし、純血思想に染まることもなかったから、多少なり疎ましく思うことはあっただろう。それでもダリルが彼らの手を取ることを躊躇わなかった。
そして何よりは「傾きすぎる」ということがない。頷くことはなかったが、首を振ることもなかった。純血主義には染まらなかったが、それを批判する台詞を口にすることがないのだ。だからダリルは家族と疎遠になることも、不仲になることもなかった。
しかしこういった曖昧な関係は時として酷く人を疲労させる。“人”は決断や結論を好むからだ。それも賢ければ賢いほどに、その曖昧さを半端なものと見なす傾向があり、ルシウスもダリルの曖昧さを「間でバランスを取っている」というよりは「優柔不断」なのだと感じていた。当然「優柔不断」を好ましいとは思わない故に「決断」を迫る。決断をのらりくらりと拒むなら見捨ててしまえば良いのだが、突けば己が手に落ちてきそうだから、引くに引けない。そういう絶妙なアンバランスさで、ダリルはルシウスの気を惹く。
殆どの物事を計算づくで上手くやり過ごしてきたルシウスにとって、ダリルとのやり取りはある種酷く心躍る“遊び”であった。
ルシウスがダリルを丸め込み、己の思惑通り育てることに成功するか、ダリルがルシウスの手を読んで己の望みを貫き通せるか。こんなことを考える時点で、ルシウスは既にダリルを見捨てられなくなっているのだろう。
理解できないのに手離したくない。悍ましいのに嫌うことが出来ない。だからこそ二人はぶつかり合って、ほんの少しの気休めじみた“理解”でも酷く慰められるが、同時に相手を理解しあうことは出来なかった。
騙し騙し時間を重ねていくのは無論疲れるが、それでもその疲労を補って余りあるほど愛していた。
ルシウスは己の本心に戸惑うダリルへ口を開く。
「体面を保つことは容易い。お前が何をしようと、私が当主を務める限りブラック家のように凋落させはせん」
突然何を言いだすのかと、ダリルが動揺を忘れた。ブルーグレイの瞳がきょとんとルシウスを見つめる。
それにその台詞は、家名を重んじるルシウスらしくなかった。確かにルシウスの手腕をもってすれば体面を保つのは容易いだろうが、だからと言って素直にそんなことを言うような人ではない。ダリルの心中に湧いた疑問へ答えるように、言葉が紡がれる。
「私も一応は人の親だ。
お前やドラコが幸福なら――無論一番には思えぬかもしれないが、二番三番ぐらいには考えられるつもりでいる」
ダリルの顔から感情が抜け落ちた。
先ほど自分はルシウスの前で何をしようとしただろうか。何と言っただろうか。
感情を押さえなければ、ルシウスの前に立っていることは出来なかったに違いない。ダリルはそれだけのことを仕出かした。そしてルシウスがこうまで言わなければ事の重大さにも気づかないほど傲慢で、身勝手で、甘えた性格をしている。
「お前の顔が醜くても、にこにこしていなくても、相槌を打たなくても構わない」
この場から消えてしまいたいとダリルは思った。耳まで赤くなる。せめて最後まで顔をあげていようと思ったが、俯いてしまった。
「――己の命を軽んじるような真似だけは許さん。私に“信頼しろ”と言うのなら、まずは自分の行いを正すべきだ」
『結局――結局、お父様は私が何かを考えて、お父様の見ていないところで私が勝手に動くのが気に入らないのでしょう』
家名を落とす心配がなければ、または己の命を軽んじるような性質をしていなければ、ルシウスはもっとダリルを自由にさせただろう。それはドラコを見ても明らかだ。ルシウスがダリルへ過保護にするのは、何もドラコよりダリルが可愛いからというわけではない。単にドラコのほうがダリルよりも信頼できるという、そういう理由なのだ。何があってもドラコなら何とかやるだろうし、危ういことへ関わってもルシウスに黙っているということはない。親に頼るのが甘えているというには、二人ともまだ幼かった。寧ろ今はまだ親に頼っていなければならない時期なのだ。“転ぶ練習”は親の目があるところでやるべきなのである。なのにダリルは親の目がないところでそれをしようとするから、ルシウスはダリルが外へ出ることを禁じてしまう。己の目が届かないところで危ないことをされるより、永遠に己に依ってしか生きられないでいるほうがずっとマシだからだ。マシと言うからには、それを一番に望んでいるわけではない。
ルシウスにとって何よりなのは、ダリルがきちんと自分を大事にすることだ。極端な事を言えば――ルシウスのプライドが口に出すことを拒む故に露骨な言葉で言う事は出来ないが――マグル生まれと付き合っても、血を裏切る者と結婚しても、ルシウスとナルシッサの言う事へ従順でなくても構わないから、危ないことをせずに自分の体を大事にして欲しいと思っていた。
子供の幸福を願うのは、親として当たり前だろう。
ルシウスはすっかり恥じ入っているダリルを見て、浅いため息をついた。もしかすると届かないのではないかと思ったが、まだそこまで悪化しているわけではないらしい。「少しは他人の気持ちを汲む努力をしろ」念を押すように呟くと、ダリルが僅かに頷いた。
説教を終えたルシウスは踵を返そうとしたが、そのローブの裾をダリルが掴んでいた。
ダリルから引き留められるのはこの夏期休暇が始まって以来初めてのことだ。
「同じこと、言われました」
声音と肩が震えている。悔やむように、恥じ入るように、ダリルは眉を寄せて、瞳を伏せた。
「ぼ、私を少しでも大事に思うなら、もっと自分を大事にしてって言われて、でも、私、答えられなかったんです」
薄青の瞳がちょっと見開かれたが、驚きはそう長く続かなかった。ホグワーツでダリルが如何過ごしているかというのを、ルシウスはそう詳しく知らない。勿論人づてに聞くことはあるが、ドラコをはじめとするスリザリン寮生達からは朧な話しか聞けず、ダリル本人は虚偽を含まない代わりに中身のないことしか話さない。そうやってダリルの本質を理解した上で案じてくれるような知人がいるのだとは、今の今まで思った事もなかった。しかし落ち着いて考えてみれば、驚くことは何もないだろう。
確かにダリルは身勝手で我儘で甘えた性格をしているが、心から人を慕うことが出来る。ルシウスが思うよりもずっと友は多く、彼らと深い付き合いをしているのに違いなかった。そこまで考えて、ふとルシウスは過去の自分を顧みて、すまない気持ちになった。
ダリルの言う事にも尤もなところがある。この二年間、一度としてダリルが好くものを肯定したことはなかった。寧ろ批判するばかりで、ダリルが口にしないのを良いことに深く知ろうともしなかった。それは親として、あんまりに冷酷な所業だった。
ルシウスは“ドラコとダリルの父親”として存在する前に“ルシウス”として数十年を過ごしている。
今更価値観を変えることはない。ダリルが嫌がっても、ヴォルデモートが蘇れば彼の配下としてはせ参じるだろう。家族を守りたいという気持ちよりも、幼い頃から刷り込まれた「魔法族が非魔法族の優位に立つべきである」という考えによる野望のほうが強いからだ。
世界で何よりも愛しい者たち、それだけを選べたならもう少し穏やかに生きることが出来るのかもしれない。
「友か」ルシウスはダリルをじっと見つめて、静かに呟いた。
「――大事な人です」ダリルは頷かず、言い直した。そこにどのような感情の揺れがあったのか、ルシウスには知ることが出来ない。
こうやって、段々にドラコもダリルもルシウスの手から離れていくのだ。過ごした時間は誰より長いはずなのに、知らないことが増えていく。ダリルは「お父様の見ていないところで私が動くのが嫌なのでしょう」と言ったが、それが嫌でない親がどこにいると言うのか。産まれた時から成長を見守り、言葉を話すようになったとか、固形物を食べてくれないとか、ナルシッサと共に一喜一憂しながら暮らしてきた。大事に育てた子供にはずっと一緒にいてほしいものだ。息子なら家督を継いで、嫁を取り、ルシウスの老後も共に暮らしてくれるだろう。しかし女であるダリルは遠からず嫁に行き、性も変わる。マルフォイの娘として産まれて、そして誰かの妻として死ぬのだ。どんなにルシウスがダリルを繋ぎ止めようとしても、結局繋ぎ止めることは叶わないのだから、願うぐらいは許してくれていいのではなかろうか。
ルシウスはローブを脱いで、ダリルに被せた。唐突に暗くなった視界へ、ダリルが身じろぐ。それを抱きしめた。
「私の知らぬ間に、ホグワーツで良い出会いがあったのだな」
涙が薄灰のローブに吸い込まれる。ダリルは優しい闇に瞳を閉じて、ルシウスの胸に寄り添った。
「はい」くぐもった声が、震えている。肯定の言葉が幾度も繰り返された。「とても、色々ありました」
本当は全て話してしまいたい。クィレル教授とのこと、ヴォルデモートとのこと、セドリックという好きな人が出来たこと、沢山の友達が出来たこと、グリフィンドールに入ってから自分がどんな日々を過ごしてきたのか、何もかも話してしまいたかった。
穢れた血かとか、純血かとか、聞かないでくれた。その台詞がルシウスにとってどれ程多くを堪えたものか、ダリルには分かる。本当はダリルが穢れた血と付き合うのが許せないのだ。それでもダリルを失うよりはマシだと思ってくれている。
ダリルはルシウス達の思想へ肯定を返すことは出来ず、寧ろ知れば知るほどに嫌悪に近いものを抱くようになった。そしてグリフィンドール寮で知り合った人々の思想へと惹かれている。それを中途で歩みを留め、どちらにも寄ろうとしないのはダリルの性質だけに因るものではなかった。ルシウスやナルシッサやドラコが彼女を愛してくれて、そして最後には己のプライドよりもダリルを選んでくれるから、だからダリルも彼らを見捨てまいと思う。シリウス・ブラックの両親は彼を見捨てた。アンドロメダ・ブラックの両親も彼女を手離した。どちらも先に手離したのは彼らではない。名家としてのプライドのほうが大事だと、家族でいることを諦めたのは彼らではなかった。
彼らは理解出来ず、理解しあうことさえも諦めてしまったが、ダリルとルシウスはまだ完全に諦めきっていない。故に傷つけあうこともままあるが、まだ繋がっている。例えヴォルデモートの刻んだ呪印によって触れることが出来なかろうが、繋がっているものがあった。
ルシウスの温もりがローブを浸しきる前にダリルはルシウスの胸を軽く押し、父の胸の中から出た。
頭から掛けられたローブを肩に下して、ルシウスを見上げる。
「私、ホグワーツに通わせて頂けて本当に良かったです」
「そういう台詞はあと五年待て」ルシウスが腕を組んで、軽くそっぽを向いた。
「何も本気でお前を退学させようなどとは考えていない。させれば、また馬鹿げた噂を潰すのに暇を割かれると決まっているからな」
ぶすっと呟いたルシウスの耳朶をダリルの笑い声が擽る。クスクスと、鈴を転がしたように涼やかな響きを唇からこぼして、ブルーグレイの瞳は眩しそうに細められている。幸福そうに笑うダリルは、青空に咲き誇る薔薇がくすんで見えるほど美しく見えた。
「……私はお前の幸せを常に考えられないだろうが、お前は自分の幸せを常に考えるよう心がけろ」
王女を遇するように育ててきたという言葉に偽りはない。真実ルシウスにとってダリルは姫であり、王女だった。その美しさも、傲慢さも、優しさも、善意故の残酷さも、何もかも気高く見える。しかしダリルの幸福には、美しさも、傲慢さも、優しさも、残酷さも、気高さも、何もかも役立たないのだろう。普通の友情、普通の恋愛、普通の結婚、有り触れた暮らしに埋没するにはダリルは目立ち過ぎた。
ダリルが望んでも許さない者がいる。それだけの価値があるから、野に咲きたがるダリルを温室へ閉じ込めようとする者がいるだろう。ルシウスはまだ親だから、ダリルの意思を汲むことが出来た。父親だから、“娘”の自立を望むことが出来る。しかし父でも兄でもない男で、ダリルの価値を理解する者がいたなら――そしてその男がダリルの意思よりも、自分がダリルを所有することを優先したら、
「死も、痛みも、お前を幸福にはしない」
薄青の視線と青灰の視線が重なった。
我が強く高慢なダリルは己の望まぬ相手に所有されるぐらいなら死を選ぶだろう。自分の意志を無視されることがあり、そして打開策が尽きたらば、先のように躊躇いなく刃を突き立てるに決まっていた。待つことも妥協することも出来ない早計さ、死より不幸なことがないと気づかない愚かさを沈めて、如何かこの先に何があっても生き延びてほしいとルシウスは望んだ。
世界中の全てを見殺しにしてでも、何と引き換えにしてでも、どんなに謗られることがあろうと如何か生き延びてほしい。
それは親として誰もが抱く普通の願望で、そして殆どの場合は裏切られることのない幸福な願いだった。“殆ど”ということは、稀にそうならないケースも存在する。世界中の全てを見殺しに出来ず、何とも引き換えに出来ず、ただ一つの謗りでポキンと折れてしまう脆弱さ。
稀な不運は希少だからこそ悲惨で、他の多くよりも残酷であり、そして不意に落ちてくる。
ダリルはルシウスの台詞へ困ったように眉を寄せて、悲しそうな微笑みを口元に浮かべた。同情に満ちた瞳がルシウスを映す。
「誰かの傍にいるため、痛みや、死が必要になったら、如何すれば良いのでしょう」
セドリックの問いへ問いで返したと同じように、ダリルはまた残酷な問いを口にした。右手が胸元へ触れる。その指先に刻まれたものを思って、ダリルはルシウスを見つめた。虚を突かれて、その顔には動揺すら浮かんでいない。
先ほどの笑い声と同じ軽やかさでダリルが問いを続けた。
「私がヴォルデモートの傍にいることを選んだら、お父様は不幸?」
ルシウスの返事はない。彼の周囲だけ時が止まったかのように静かだった。さあと生暖かい風が二人の間を駆けていく。空の雲も薔薇の花弁も木々の緑も先と変わりなく穏やかに揺らいでいるから、ダリルも穏やかな声音を紡いだ。
「死喰い人としてではなく――マルフォイ家の当主としてでもなく、私のお父様は不幸なのかしら」
試すような目つきで自分の瞳を覗き込むダリルに、開心術を使って忠義を量ろうとするヴォルデモートが重なって見えた。
『“あれ”ほど退屈なものはないね。まあ、ホグワーツに行けたおかげで知った事もあるけど……あれが愚かしすぎて何もかも台無しだ』
『別に怒っていやしないさ。愚か者が愚か者と一緒にいるのは自然な流れだろう』
ダリルの愚かさは一度触れれば振り払えない種類のもので、麻薬のように人を惹きつけるからこそ賢く慎重な人間から厭われる。そう考えたのはルシウスで、記憶体とは言え、ヴォルデモートがダリルと関わらざるを得ない切っ掛けを作ったのはルシウスだ。
『まだダリルの前でこの姿に戻るわけには行かないからね』
『秘密の部屋を開くんだろう。そうしたら今年度も行くに決まっているじゃあないか。いや、ドラコじゃなくダリルで構わない』
『君なら兎も角、愚鈍なあれに何かさせると思うかい? 娘の身を案じているなら、不安に思う事はないよ』
『殺しはしないから』
赤い瞳がルシウスを小馬鹿にするように細められる。それがルシウスが彼に会った最後となった。ダリルは無事にルシウスの下へ戻ってきたが、殺すよりも酷い所業があるというのはよくよく知っている。なのに面と向かって刃向うのが恐ろしくて、それが現在のヴォルデモートに知れれば完全に裏切り者のレッテルを貼られてしまうと恐れて、ダリルとヴォルデモートを見送った。
何もしないはずがない。あの言いぐさで、ダリルがレディの正体に気付いていないままなはずがない。あの一年でヴォルデモートはダリルを使って何かしらの目的を果たし、あの記憶体は己が役目を終えたから消えたのだ。
『私はハリーを裏切りません』
『私がヴォルデモートを手伝ったから……だからあの人を死なせてしまった』
『ヴォルデモートなんて思想のない、単なる殺人者じゃない』
『私がヴォルデモートの傍にいることを選んだら、お父様は不幸?』
ヴォルデモートの傍にいるために苦痛を堪え、生を諦めると言う。その唇は一年前ヴォルデモートへの憎悪と光への憧憬を口にしていた。同じ唇が諦めを紡ぐ。闇に落ちることを約束する。その心変わりにヴォルデモートが関与していないはずがなかった。
望んできたことで、そうするよう多くを仕組んできたはずだったのに、面と向かって己の願望の成就を聞かされたルシウスは顔を青ざめさせたままだった。瞬きさえ忘れて、自分を見上げるダリルの顔を食い入るように見つめる。
ヴォルデモートに仕えている以上、彼が帝王としての素質を備えているのはルシウスも知っている。与える者には報いる男だった。
しかし今はヴォルデモートの地位が安定しておらず、一度分散された戦力が完全に戻るとは思えない。何よりも一度折れたものをやり直すには多くの苦労が強いられるものだ。ハリー・ポッターという子供に打ち砕かれたということもあり、支持者も昔ほど集まらないだろう。その状況でヴォルデモートが過去のような余裕を持っていられるとは思えない。少なからず無茶をするだろうし、作戦にも無理が出てくるだろう。そうなればヴォルデモートの下へ戻ってきた者のなかから、士気を削がれたと離反を望む声が上がるはずだ。
ルシウスはヴォルデモートの全盛期に彼の片腕として彼の作戦や配下とのやり取りの多くを調整してきた。だからこそヴォルデモートの子供染みた性格はよく知っている。恐らく未だにハリーに挫かれたことを忘れてはいないだろう。そしてハリーを己が手で殺すまで、蛇のようにしつこく執着するに決まっていた。与える者には報いる男だが、同時に機嫌を損ねられれば元を断つまで怒りを忘れない男だ。その、怒り狂っている間に“与えても”反応するような人間ではない。
確かにルシウスにはまだヴォルデモートへの忠誠心があるが、場合によっては――あまりにハリーを仕留めるまで時間が掛かるようなら、徐々に身を引いて行こうとは思っている。幾ら野望のためとは言え、ヴォルデモートと共に冥府まで行く気はなかった。
ルシウスは身の振り方が上手い。もしもヴォルデモートが凋落しても、何とかやり過ごすことが出来るだろう。そうやってギリギリのところでブレーキを掛けられると自負しているから闇の陣営に加わることへ抵抗がないのであって、ベラトリックスのようにヴォルデモートへ心酔しているわけではない。闇に身を沈めることさえルシウスにとっては手段の一つであった。
そのことへ、今更気づく。同時に自分がダリルへ強いてきたことがどれ程馬鹿げたことか理解した。ルシウスはダリルに死んでほしいわけではない。寧ろ死なないでくれるなら、家を裏切っても、闇の陣営に与しなくても構わないのだ。
『誰かの傍にいるため、痛みや、死が必要になったら、如何すれば良いのでしょう』
ダリルに出来るのは、ただ隣に座っていることだけだ。他人の感情へ深く共鳴し、己の身を顧みず隣に居続けることしか出来ない愚かな娘。ダリルがヴォルデモートへ肩入れし、もしも彼が失脚したとすれば良くてアズカバン送り、最悪――ヴォルデモートと共に消える。
『私が死ぬことでお父様が人を殺さなくなるなら私は躊躇いなく死にます』
それとも、まさか、最初から共に消えることが目的で選んだとすれば?
ヴォルデモートと死ぬために、その手を取ったと――それほどに愚かだとは思いたくない。
凍りついた時間はダリルの笑い声に溶かされた。ダリルがルシウスの顔を見て、可笑しそうにクスクス笑っている。
「冗談ですわ。ちょっとお父様が難しいことを仰るから、意地悪してみただけ」
ルシウスは憮然とした顔でダリルを睨んだ。それでもダリルは笑みを静めないで、コロコロと楽しそうな声を宙に遊ばせていた。
「……あまりに性質の悪い冗談だとは気づかなかったわけだ」
お前はあの方にお仕えする必要はない。押し殺した声でそう続けた。本当はあの方はもう蘇らないと言いたかったのだけれど、ダリルもルシウスもそんなはずはないと知ってしまっている。ヴォルデモートは蘇る。子供じみた誤魔化しは通じなかった。
「ごめんなさい。でも、お父様が磔の呪文なんて使わせようとするからいけないのよ」
既に仕返しは終わったと思っていたことを掘り返されて、ルシウスは苦虫を噛み潰したような顔をする。スリザリン寮に組み分けられなかった癖に、何故こうも蛇の如く執念深いのだろうか。そういうところはナルシッサに似たのかもしれない。たった一度の火遊びが原因で、それから一年は同じベッドで休んでくれず、ダリルとドラコへ「お父様は別宅に恋人がいるんですって」とあることないこと吹き込まれたことを思い出して、一層顰め面になる。ダリルがくすっと悪戯っぽく笑ってから、ふと顔から笑みを拭い去った。
「愛されていることも、恵まれていることも、大事にされているとも、分かっているつもりです」ちょっと瞳が和んだ。「ふふ、甘やかされているぐらいなのでしょうね」
裕福な家庭で、スクイブでなく生まれて、己の望む寮に入り、友がいて、好きな人がいて、その人と恋人同士になれて、家族の言うことを聞かずとも見放されないで、深く愛されている。世界にこれほど幸福な少女が何人いるだろう。ダリルは瞳を細めて、遠くを見た。焦点がぼやける。その視線の先に幼いトム・リドルが見える気がした。青の似合わない陰気な子供、孤独な赤子。
「きっと、そんなことだからいけないんでしょうね。知らず知らず人を傷つけて、気づかないから、向き合わないまま時が過ぎる」
風に乱された髪をダリルが耳にかけた。遠くを見ていた瞳がルシウスへ戻される。
「なるたけお父様の気持ちを汲むよう頑張りますわ」ふっと優しい笑みを浮かべた。「もう自分を自分で傷つけるような愚かはしません」
私を傷つけられるのも、殺すことが出来るのもトムだけだから――その言葉は口腔内のみで響いた。
五年後のダリルは美しくなるだろう。それこそ世界の何よりも綺麗になるはずだった。豊かなプラチナ・ブロンドをなびかせて十七歳になったダリルがルシウスへ微笑むのだ。「お父様、ホグワーツに通わせて頂いて、本当に有難うございました。この七年間、私とっても幸せでした」幸福そうな笑みを浮かべるダリルの隣には、同じように笑うドラコの姿がある。二人の成長を手離しで喜ぶルシウスの隣でナルシッサがダリルをちょっとしたことで叱る。リボンが曲がっているわよとか、そんなような如何でも良いことで、淑女としては重大な問題を指摘されて、ダリルがくすりと苦笑するだろう。ドラコが呆れたような顔でナルシッサの説教を押しとどめて、それでダリルがドラコへ感謝してから、ルシウスへ紹介したい人がいると切り出すのだ。とっても好きな人で、結婚を考えているの。
立派な若者がダリルの隣、ドラコの反対に立って、ルシウスへ娘さんを下さいと懇願する。どこの王女を遇するよりも大事に扱います。何よりも愛します。そう言う男へ勿論ドラコもルシウスも良い顔はしないが、ダリルがこよなく幸福そうに男を見るし、ナルシッサがとりなすから、二人も男の懇願を許してやるのだ。ダリルが幸福なら、ダリルの好いた男なら、構わないと言うだろう。
幸福な少女、幸福な結婚、幸福な未来――ルシウスが守りたいと思った、世界で何よりも美しい風景。
『私がヴォルデモートの傍にいることを選んだら、お父様は不幸?』
不幸に決まっている。その場所には幸福というものがないと、ルシウスは身を以て実感してきたのだから――不幸に決まっていた。
仮面の下には親としての素顔がある。だからダリルには闇に落ちてほしくなかった。なかったのに、たった一度の浅慮で、気づくのに遅れたせいで、全てもう手遅れだった。望んだものが何だったか、あと一年早く気づけたなら、間に合ったのかもしれない。
ダリルの胸には闇の印が刻まれ、その身にはヴォルデモートの魂が埋め込まれている。遠からずルシウスはあの台詞がダリルの冗談などではなかったと気づくだろう。この娘はもう光のなかで生きることが出来ないのだと思い知らされるだろう。
かつて己が立っていた場所に次立つことになるが誰か知ることになる。
怒り狂う猛獣の隣に誰が立つか――アン・ハッピーエンドの千一夜物語のシェヘラザードと出会うことになるだろう。
絶望までのカウントダウンは疾うに始まっていた。
七年語り – LULL BEFORE THE STORM