七年語り – PHILOSOPHER’S STONE
01 手紙の主
やわらな頬は深く熱を孕んでいた。
夜の帳がカーテンの隙間から顔を覗かせるだけで仄暗い室に、少年と少女が二人きりで佇んでいる。
少女は赤く色づいた皮膚に華奢な手を添え、向かい合う少年はその鈍い衝撃の残る掌を握りしめていた。糊の利いたシャツに覆われた薄い胸が、少年の浅い呼吸に合わせて上下している。きゅっと唇を結ぶ彼の瞳には、己と同じ色を宿す少女が映っていた。
二人はまだ――年齢的に考えればもう何らかの兆しはあっただろうが――第二次性徴はさほど発達していないらしく、髪の長ささえ抜きにすれば、あたかも鏡写しのように酷似している。少女の体はすとんとした直線でスケッチできそうな雰囲気を醸していたし、少年のおもざしはあどけない丸みを残していた。二卵性ではあったが、二人を前にしたなら誰もが彼らが双子の兄妹であることに気付くだろう。
性別こそ違ったけれど、同じ日に産まれて、同じ家に暮らしてきた二人。
鏡面に触れる指から沈んでいきそうなほど似通っていたからこそ、僅かな差異へ敏感になってしまうのかもしれない。そして、それを削ろうと躍起になってしまうのだろうか。幼かった彼らの自我は自分の胸のなかでなく、鏡像のなかに仕舞ってあった。
兄の姿を真似て親を困らせたこともあったし、兄もそれを咎めはせず、それどころか寧ろ面白がって、無邪気に笑っていた。互いに幼かったあの頃、瞳に映る世界に何の不足もないようだった。いつまでも同一であると信じていたし、そうでないはずがないと考えていた。
少なくとも私はそうだったわと、ダリルが心中で呟く。最早どこを探しても自分以外の存在しない胸中にはいつからか、片割れの輝く髪色の代わりと言わんばかり薄暗いものが溜まるようになった。幸福の残骸が薄い胸のなかで鬱屈と不満に変わる。
髪は少年のように短く、詰まらない人々の下らぬ話へ付き合わされることに辟易することもあったけれど、あの頃が一番幸せだった。
きらりきらり華やかな室に灯るランプはあたたかな色を照らしている。部屋の主であるダリルのために美しく整えられた部屋を訪ねれば誰であろうと皆「この部屋の主は王女のように育てられ、不自由という言葉さえ知らないのだろう」と思ったに違いない。実際彼女は不幸も苦労も知らぬように、真綿で包まれるようにして育てられたし、屋敷僕妖精たちは王女を遇するような丁寧さで応対してくれる。
誰の目から見ても、どこをつついてみても、彼女は恵まれて幸福な王女様だった――この双子の兄、ドラコ・マルフォイの前以外でなら。
ドラコの足にぎゅっと踏みにじられたままの手紙を、ダリルはじっと眺めていた。ドラコの顔はかろうじて視界の隅に唇だけが見えるか見えないか、殆ど景色と言ってもいいような印象の薄さでしか映っていない。しかし彼女は改めて表情を確認するまでもないと思っていた。
最後に二人で笑い合ったのはいつだろう。ここ数年視界に入れることさえ躊躇っていた兄の顔を思い出すと、それは侮蔑と嫌悪に歪んでいた。きっと今も、ダリルの視界の外でそういう顔をしているのだろう。見飽きている上に見たくもないものを見る必要はない。
ダリルは疾うに痛みの失せた頬をまだ押さえていた。おまえが。青灰の瞳に薄汚れた手紙を映すダリルの耳に、ドラコの声が滑り込んだ。
「お前に」掠れた響きが、空に浮きそうなほど儚い。「お前に手紙なんて、」
私に手紙なんか、何だろう。届くはずがないんだ――それとも“宛名を間違えたとは思わないのか”だろうか?
さっさと言ってしまえば良いのにと、ダリルはぼんやり考えた。そうでなければ、もう二三発頬を叩いてから、肩を怒らせて出て行ってしまえば良かった。罵倒の続きを待つダリルに対し、ドラコはもどかしげに首元に手をやって、外しもしないボタンを弄り始めた。
お前が。お前が。お前が。感情を口にしようとしているのかもしれない。決して寡黙でも口下手でもないドラコだが、自分の感情を語るのを不得手としている。どちらかと言えば要領の良い兄の、自分にだけ見せる不器用な一面をダリルは愛していた。
普段己を取り繕っていることさえ忘れてしまうドラコ。美しい母親でも、立派な父親でもなく、兄が躊躇いがちに落とす本心を聞くことが出来るのは共に産まれた自分だけだった。ダリルはドラコの手を握って、その薄暗さへ相槌を打っている瞬間が一番幸福だった。
いつまでも、いつまでも自分とドラコだけで生きていけるのだと盲信することが出来たひと時を愛していた。
きっともう永遠に二人の関係は修復されないままだ。兄の本質があの頃から然程変わっていないのを理解するから、ひたすらに彼に見放された事実ばかりが浮き彫りになる。最早その唇が語るのは自分への信頼を前提とした弱さではなく、単に自分への怒りで感情的になっているから、それで途切れ途切れになっているだけの非難か罵倒なのだ。聞き飽きている上に聞きたくないものを聞く必要はない。
ダリルは視線を落としたまま口を開いた。聴覚を鈍く、ドラコの台詞を音として捉えるようにする。
「手紙を返して」ダリルは頬を押さえていた手を彼へ差し出し、言葉を続けた。「あなたには、あなたの手紙が届いていたわ」
だから、その手紙は私のものよ。ダリルの要求にドラコは無言だった。ダリルは差し出した手を胸元へ突き付ける。
「ねえ、ドラ……ドラコ、」
思えばドラコの名を口にするのも久しく、彼を呼ぶ声が引きつった。それにドラコが身じろぎする。視線を上げればきっと目が合うのだろう。そうと分かっていて、それでも顎を上げる度胸はダリルになかった。視界の端でドラコのシャツのしわが動く。
「……駄々っ子のように私の手紙を取り上げる必要なんてどこにもないでしょう?」
ドラコはダリルの姿を視界の隅へやると、ぎゅうと唇を噛んだ。舌で口内炎の場所でも探っているかのように顔を顰めて口を開く。
「そんなに、泥で汚れた、こんな手紙が欲しいのか」
「欲しいわ」ダリルはすかさず縋った。
胸の前で両の指を組んで、更に深く俯く。自分の足と、ドラコの足、そして手紙が見える。
「その手紙が、欲しいわ――私の持ちうる何を引き換えにしてでも、その手紙が欲しい」
きつく絡めあった指が血の気が失せて白い。ドラコは小刻みに震えるダリルの手を見つめた。黙って、手紙を踏みにじる足に力をこめる。
破いても燃やしても、破いたなら破いただけ、燃やしたなら燃やしただけこの手紙は届くだろう。そんなことはダリルもドラコも知っている。ダリルはドラコに足蹴にされた手紙を欲しがらなくても良かったし、ドラコだってわざわざこの手紙一通を踏みにじったところで、この手紙を巡って口論するだけ体力の無駄遣いだと理解していた。無意味なことだ。本当に馬鹿馬鹿しい。
この手紙が無くなろうと自分達の間にそびえる問題が消えるわけではない。手紙など大した問題ではない。ただ、手紙を足に携えた梟が静かに凪いでいた水面を引っ掻き回して去っていったというだけで、この手紙を如何こうしたからといって何か変わるわけではない。
たかが入学許可証一通――それも両親が開けるはずもないケージのなかで暮らす妹にそれが届いたというだけで何を狼狽えているのか。
ドラコは靴底の泥を封筒に擦りつけた。
湖底に沈む手紙を落としていった梟は獅子と鷲と穴熊、蛇――ホグワーツのエンブレムが彫られた足環をつけていた。
ドラコの足の下にあるのは、ダリルがホグワーツへ入学することを許可する手紙だった。
ホグワーツ魔法魔術学校――イギリス・ヨーロッパ、いや世界中にあるどんな魔法学校のなかでも一等歴史が長く、その歴史の長さに釣り合う素晴らしい魔法教育を受けることが出来る名門だ。ヨーロッパ圏で初めて作られた魔法族専用の学校ということもあり、多くの魔法族にとって特別な存在である。その入学資格を得るのが容易なことでないとなれば、同校の入学許可証の希少価値は一際高くなる。
ホグワーツへの入学資格を手にすることが出来るのは才能に満ち溢れた――それも血筋や生まれつき与えられた知力だけではなく、可能性という広義の意味での――魔法使い・魔女だけだ。校長や教員が選ぶ間もなく、彼らの名前は入学名簿に刻まれる。
ホグワーツへの入学許可証が届いたということは魔法使い・魔女としての才能を世界に認められたも同然のことだった。
輝かしい将来――少なくとも素晴らしい教育と優秀な教員の下での七年を約束された子供と両親が、その手紙の価値を知っていながら喜ばないなんてことは有り得ない。ダリルに届いた手紙を前に眉を顰めたのはドラコのみならず、両親さえ口を噤んだ。
父親は「行く必要はない」と言い、母親もそれに同意した。
『今まで通り、ずっと家にいて、アー……年頃になったらどこかに嫁げばいい』
『ええ、それが良いわ。ダリルは勿論私とルシウスに似てとても綺麗だけど、もう少し礼儀作法を身に着けなくてはね』
両親が入学許可証を破り捨てなかったのは偏に自分を愛しているからなのだろう。もしくは、穏やかな朝を梟と手紙に塗れさせたくなかったか。ホグワーツの入学許可証は本人が中を検めるまで鼠算式で送られてくる。しかし成人した魔法使いが二人居て、ダリルに手紙を見せずにいることだって出来たはずだ。そして、そうしたほうが平和的に事が済むとも分かっていただろう。そうと理解はしていた。
両親の愛に応えるため、自分に許された台詞は「はい。お父様、お母様」だけなのだと知っていた。
生来ダリルは外の世界に強い関心を抱いたことはない。
ダリルはたった四人きりの家族に広すぎる箱庭の美しさを好いていたし、彼ら以外の愛を望んだこともなかった。片割れの愛を失ってからは両親のそれを求めることだけがダリルの人生で、それを損なうことが何よりも恐ろしかった。愛されることだけが自分の人生で、そのためには探究心も好奇心も要らないのだと分かっていた。その二つの欠如を善しとする子供が何故ホグワーツへ行くのか。
じっと見つめてくる父の瞳のなかで、そしてイエスの返事と信じて疑わない母の細いため息を聞きながら、ダリルはドラコの姿を探した。ダリルの従順に飽き飽きしている兄の関心は疾うに事の顛末から遠ざかっていて、視界の隅、火の気のない暖炉脇のソファへ掛けていた。夏日が薄らとしか差し込まぬ灰色の視界で、ドラコの読む紙片だけが雪のように白い。ドラコ宛の、ホグワーツの入学許可証。
ドラコがこの邸から出て行ってしまうことは明らかだった。万一ノーと言ったとて、ルシウスがそれを許さないだろう。尤もドラコ自身がルシウスと同じホグワーツへ入学し、伝統あるスリザリン寮へ入るのだと吹聴しているので、ノーなんて返事は有り得ない。
ノーと答える気がなく、またノー以外の返事を許されないドラコ。
イエス以外の返事を許されず、何を望んでいるのかさえ分からない自分。
イエスと答えなかったら如何なるか分からない。何となく怖いことが起こりそうだなと思う。イエスと答えれば、それは明白だ。
イエスの先にドラコはいない。九月にはドラコは心から、そして両親に望まれたノーの返事を携えてホグワーツへ行く。
九月まではあと一月と少し、ドラコと共に暮らしていられるのはそれだけ。これからドラコは秋冬春、一年の殆どを自分の知らない世界で暮らし、夏が終わればホグワーツへ帰っていく。そして七年という途方もない歳月を掛けて自分と全く違う生き物に育っていくのだ。
ドラコはもうこの邸に帰ってこない。
それは、自分でない誰かがドラコの弱音を聞くということだろうか? 自分が握っていた手を誰かが握るということだろうか?
そう考えた瞬間目が潰れるようだった。何も見たくない。嫌だ。そんなことになるなら、死んだほうが良い。ドラコがいないなら、私の世界とドラコの世界が完全に断絶されてしまうなら生きていたくない。ダリルは震える指を伸ばして、ルシウスの手中にある手紙へ触れた。
『私、ホグワーツへ行きます』
「お父様とお母様は私に任せると言って下さいました」
ダリルは震える指で胸を抑えながら、くっと顔を上げて言い放った。
ドラコがはっとダリルの瞳を見つめ返した。
「まさか、」自分の片割れが己の知りうる誰より誠実であることを、ドラコは知っていた。「……まさか、有り得ない」
そう返すほか、何の台詞も口に出来ない。この誠実な妹が――何より見栄や負け惜しみですぐばれる嘘をつくほどに馬鹿ではない――ダリルが「許可が下りた」と言うなら、それは余程の理由がない限り真実なのだ。余程の理由が、思いつかない。
ダリルはドラコを見据えたまま、勝ち誇った笑みを口元に湛える。「本当よ。もう返事は送ったわ」
ドラコの、ただでさえ蒼白な頬からさっと血の気が引いていった。
「入学許可証確かに受け取りました。九月一日からの新学期を心待ちにしています。ダリル・マルフォイ拝」
悠然と口にしているつもりだろうダリルの容貌も真っ青で、笑みの浮かぶ唇は震えている。向かい合う青灰の瞳には、それがしっかりと映っていた。真っ青な皮膚の上で、ドラコが思いきり引っぱたき赤く腫れた部位がまだ目立つ。痛々しい笑みだった。
こんなに、こんな酷く叩くつもりはなかった。否そもそもは手をあげるつもりすら、なのに、両親とこもっていたリビングから、ホグワーツからの手紙を両手で大事そうに持ったダリルが出てくる。どうせ行けない癖に、例えホグワーツへ行ったとして、お前を構う奴がいるものか。ホグワーツに何がある? 今まで社交の場に出てこなかったお前が、パンジー達と上手くやっていけるのか? 僕とさえ上手くやっていけないのに、友達が出来るはずがない。それが分からないほど馬鹿じゃないだろう。
それでも無価値な手紙を手離せないほど、そんなにこの家から出て行きたいのか――僕から離れて。
ピクとドラコの指が動いたのにダリルは拳をきつく握り、目を瞑る。しかし、いつまで経っても頬を焼く衝撃はなかった。代わりに目の前でドラコがゆっくりと動く気配がした。恐る恐る視界を広げたのと、冷たい指がダリルの掌をとったのは同時だった。
皮膚の薄い指がドラコを忘れ切った皮膚を絡め、固い封筒を握らせる。スクイブの、
「スクイブの、癖に」
力なく紡がれた言葉、そそがれる視線。その目尻から一筋の涙が頬を伝っていた。
「それでも――行く資格があると――届いた、届いたのよ」
この手紙は私のだわ。掌に滑りこまされた汚れた手紙を握りしめ、ダリルはうわごとのように二度三度、口にした。
「私、ホグワーツに行く」
ドラコはグイと頬を拭って、踵を返した。大きな扉へその華奢な体を滑り込ませる。
「あなたと一緒に、ホグワーツへ行くわ!」
ギシと足音がひとつ。扉が閉められ、ダリルの悲痛な叫びは部屋のなかへ完全に閉じ込められてしまった。
ダリルはスンと鼻を啜ると、その場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆うと、ごわごわとした封筒が涙を吸って染みを作った。
あなたと一緒にホグワーツへ行くわ。貴方と一緒に、もう一度やり直すの。例えその決断でお父様達の愛を失っても、今は貴方に呆れられても良い。貴方の目に映る世界を知ることもなく生きて、そして死んでいくぐらいなら、何も怖くない。
純血名家たるマルフォイの家名を守るため、イエス以外の返事を許されない自分。しかしダリルは他人にスクイブであるとバレることも、それで家族が恥をかく事より、両親の大事な家名が汚れることより、自分がドラコを失わないことを選んだのだ。
外へ行く機会が減っていったのはいつのことだろう。
どんな我儘も聞いてもらえる、この世界の誰よりも愛されている、そんな満ち足りた小さな王女でいられたのはいつまでだったか覚えていない。それと同じ頃から、そうでいられなくなった時から、いつまでも同一なのだと信じていた半身も骨から剥がれていってしまった。
いつか魔力の兆しが現れる。そう信じていられなくなってからも、もうかなりの時間が経つ。
幸福がいつまで続いたかなんて、思いだせないのも当然だ。何もかも遅すぎたのだとはダリルも分かっている。
今更ホグワーツから手紙が来て、ダリルにはホグワーツに入学する資格が――正当な魔女なのだと言われても、誰も信じてくれない。
ドラコ達三人はダリルがスクイブだと明るみになり、マルフォイ家からスクイブが出たと嘲笑われるのを恐れていた。ドラコを失いたくないという気持ちが一等最初に来たのは事実だが、両親の相手をする内ダリルの胸に湧いてきたのは怒りに近い感情だった。自分がこんなにもドラコや両親の愛を求めているのに、彼らが愛するのはダリルでなく家名だ。スクイブにホグワーツの手紙が届くはずがない。しかし事実ダリルに魔力の兆しはなかった。両親が自分を外へ出したくないと思うのも仕方がなく、これまでならそれで引き下がって殊勝にしていただろうが、ダリルにとって幾らホグワーツが無価値な空間であろうと、“ブランド”に対する信頼は存在する。
ホグワーツが間違えるはずがない。自分は両親と同じ魔女である可能性が見えてきたのに、ホグワーツという後ろ盾があってもまだ両親は自分の能力を疑っているのか。そんなにも家名が大事で、これまでスクイブ扱いされてきた自分の気持ちは考慮してくれないのか。
ダリルが抗論を続けた結果、ルシウスとナルシッサは戸惑いつつも、後悔するのは目に見えていたとはいえ、しかし一度はダリルの好きなようにしなさいと言ってくれた。ドラコは、ダリルの挑発的な台詞には手をあげなかった。手紙を渡してくれた。
例えそれが張りつめて今にも千切れそうな様を呈していたとしても、彼らからの愛が存在しないわけではない。
ダリルはドラコ達にとってマルフォイの家名がどれ程大事なものか痛いほど知っている。絵画の先祖達が自分を罵る言葉を聞いていれば、三人の扱いは、スクイブにしては破格のものだとも分かる。だからダリルも家族を苦しめたくない。
もうこの邸の外に出なくなってから五年ほども経つ。家族以外の人間に会わなくなってからは三年だ。
元々大人達にドラコと対のお人形として遊ばれるのは好きでなかったし、パーティで会う子供達とも気が会わなかった。だから最初のうちは自分一人留守を任されるのも気にはせず、寧ろそのほうが気楽でいいとすら考えていた。
しかし一つずつ年を取るにつれて、一人だけ留守を命じられる真意を理解すると不安だけが胸を占めるようになった。家族にとって、スクイブたるダリルは恥ずべき存在なのだ。だから誰にそれを知られることもないよう閉じ込めている。そう気づいてしまった。
尤も両親が完全に自分を幽閉しようとしているわけではなかった。中世ならいざ知らず、今は地下牢のある家さえ数えるほどしかない。殺しでもしない限り、如何に実子であろうとその存在を隠しきれるものではなかった。両親が世間へ取り繕う通りダリルは病弱な性質だったし、ダリルへ取り繕う通り、ダリルもパーティを始めとする社交の場を好いていなかった。まるきりの嘘はない。ほんの少しの事実に便乗させる形でダリルを置いていっているだけで、もしダリルが如何してもと望めば、折り合いをつけてくれただろう。
今日の様に、ダリルがルシウスを納得させるに足る保険を口にできたなら、きっと叶えてくれた。
両親にとってドラコは将来を期待する大事な一人息子だ。
特にナルシッサの溺愛ぶりは凄まじく、ホグワーツの入学許可証よりも先に届いたダームストラングからの入学許可証を破り捨ててしまったほどだ。この時ダリル宛ての入学許可証は届かなかった。それも、今日の騒ぎを大きくした一因だろう。
最初から誰もダリルにホグワーツの入学許可証が届くなんて期待していなかった。ダリル自身も、スープ皿に落ちた手紙を見ても信じられなかった。宛名を指先でなぞってもまだ信じられなかった。それからは両親やドラコの相手をするのに必死で、返事を出してもまだ実感が湧かなくて、こんな、一人で床にうずくまって泣いている今になってヒシヒシと胸に迫るものがある。
私は誰からも、自分からさえ何の期待も抱かれていなかった。これまでドラコ達が諦めても、肖像画達が馬鹿にしても、ダリルはこの十一年自分がホグワーツに行けないはずはないと信じてきた。いつか魔法が使えるようになると思っていたし、魔法が使えなくても勉強することは出来ると、独学で魔法の勉強をし続けてきた。その気持ちが今日の出来事で完全に折れてしまった。いや、手紙が落ちて来た瞬間に分かってしまったのだ。「こんなものが落ちてこなければ、昨日までの明日を続ける口実が出来たのに」と、そう思った。ドラコと元通り、仲良くしたい。そのためにホグワーツへ行きたい。でも、ドラコが許してくれるかは分からない。それどころか、今日の反応を見る限り絶望的だ。スクイブと知れれば虐められもするだろう。両親からは恥さらしと嫌悪される。このまま家にいれば、少なくとも両親とは今まで通りだ。
誰からも祝われず、喜ばれず、ホグワーツで待っていてくれる人もいない。それが私の人生なのだと気づいてしまった。
家名のための保険は口にできても、自分のための保険は何一つ口にできない。何もない。誰もいない。ひとりぼっち。
自分はスクイブだ。出来損ないの産まれ損ないで、存在するだけで大切な家族の負担になってしまう。自慢の息子として多くの人に紹介される兄、誰にも知られることがないようにと一人で邸に残される自分。同じ日に生まれて、同じ家に暮らしてきて、性別以上の隔たりが生じてしまった。ドラコを妬んでいないと言えば、嘘になる。そもそも幼い頃から、自分はドラコが羨ましかったのだ。何故自分だけが“恥ずべき失敗作”になってしまったのか分からない。ドラコが羨ましいから、それに成り代わりたい気持ちから同一であることを望むのだろうか。ドラコとの間にある隔たりが、自分がどれほど劣っているか見せつけるから近づこうとするのだろうか。分からない。両親から愛されたい。ドラコから愛されたい。期待を掛けてほしい。家族から必要とされる人間になりたい。恥ずかしい存在でいたくない。望めば望むほど、その裏側にいる“自分”が露わになる。それが辛い。それが悲しい。それが悔しい。それが苦しい。それが切なく、惨めだった。
望むことさえやめてしまいたい。そうしたら、楽になる。既に自分からも見離されかけている世界に、何の未練があるだろう。苦しむだけなら、もう何も望まず、何も考えずぼんやり生きていけばいい。いよいよ家名を汚しそうになれば、毒でも呷って死ねばいいのだ。諦念の先には苦痛は何もない。イエスと一言諦めてしまえば、もう苦しまない。何の未来もない箱庭で死んで行ける。
ドラコのいない箱庭で、穏やかに生きながら朽ちていく。ドラコがいない。ホグワーツへ行ってしまうから、もう。
自分はどこまで往生際が悪く、独立した人格として生きていくことを恐れているのか。そこにドラコがいないというだけで、如何なる苦痛を思っても諦めることが出来ない。ほんの僅かでも希望があるなら、縋りたくなる。ドラコ、ドラコ。ドラコ。
深い波の狭間で浮き沈みしているかのように痛む肺を無理に膨らませて、ダリルは唇を震わせた。
「ホグワーツに……ホグワーツに、行くの」
九月になったら、ホグワーツへ行くのよ。泥と足跡と涙に塗れた手紙を握りしめて、ダリルは祈るように目を瞑った。
私、ホグワーツへ行く。ドラコ、貴方と一緒に、ホグワーツへ行くわ。必ず行くわ。そしてやり直すの。
七年語り – PHILOSOPHER’S STONE