七年語りPHILOSOPHER’S STONE
10 満ちる杯を呷る

 

 いつの間にか寝ていたらしい。体は緩慢な熱を孕み、喉に気だるい乾きが張り付いていた。

 眠りによって温められた思考は判断力が低下している。ぼうと視界にうつるものを物体と認識出来ぬまま、ブルーグレイの瞳はガラス玉のように眼前の景色を反射させていた。うつろに揺れる陰影の大きさが定まってくる。
 ピントが合った。
「やっと起きたのか」

「……ドラコ?」
 ダリルは目を細めて、向かいの席に座っている片割れをじっと見た。ぱっと視線をずらせばそこには暗い鏡がある。夜だった。一体どれだけ眠っていたのかと一瞬驚いたが、ホグワーツまでの距離から鑑みればさほど寝たわけでもないのだろう。体のだるさが中途半端な眠りであったと不満を唱えていることからも、それが伺える。
 ぼうやりと黒い窓辺を覗き込んでいる妹へドラコは呆れた声音を出した。
「もう駅に着くぞ。さっさと制服に着替えろ」
 そう言うドラコは疾うに着替えたらしく、真新しい制服をきちんと着こなしている。その首元にレディが寄り添っていた。ドラコはレディを嫌っていない。単なる暇つぶしからそれと遊んでいたのだろうが、ダリルはほっとした。
 まるきり新品というわけでも、くたびれているわけでもない制服をきちんと着こなす彼は新入生らしからぬ落ち着きに満ちていた。本来ならダリルもこうあらねばならないのだろう。なのに一人寝こけて、涎なんて垂れてないわよねと焦って拳で口元をぬぐった。

「いつの間に……その、」
「お前が寝ている間に着替えた」
 そうじゃなくてと細い声でつぶやく。その疑問の趣旨が時間を問うたものではなく、どうして自分のところへきたのか、探してくれたのかを問うためのものだと気づくや否やドラコが眉を顰めた。
「何かしでかせば、父上に叱られるのは僕だからな」すでに“しでかして”しまったかもしれないとは、親切に伝えることもないだろう。
 予想出来た返事ではあったが、ダリルは少しがっかりした。常々から期待しすぎないほうが幸せに生きていけると思っていたけれども、実際は期待しなければしないでいるほど些細な事柄に又期待を寄せては失望するだけなのだ。
 ドラコが探しに来てくれるはずがないなんて、ルシウスがドラコに自分の世話を頼んだと分かっていたはずなのに。
「そうね」
 夜の奥に何か見えないかと一度目をこらしてから、窓の下に寄り添うトランクに手をやった。視界の外でドラコが立ち上がる気配がした。
「着替え終わったら僕を呼べ。通路で待ってる」相づちを聞いたか聞かないか、ドラコはレディを連れて通路に出て行った。

 立たせたままのトランクを軽く開き、わずかな隙間に手を突っ込んだ。手触りだけでホグワーツの制服を探し当てる。私服と違って堅い生地で出来たローブを見つけるのは容易だった。そろそろと肩の部分からハンガーの持ち手まで指を這わせる。ぐいとそれを引きずり出した。するり出てくるそれはドラコの着ていたものと同じ意匠ではあったものの、当然彼とは違って女学生用に襟ぐりや袖口の模様がやや華奢なものになっている。そしてローブのなかに吊されているのはズボンではなくプリーツスカートだ。
 ローブにエンブレムはついていないし、裏地も表と同じ漆黒だった。しかしローブのなかに着るセーターはスリザリンカラーに合うよう、標準よりやや淡い色に染まっていた。セーターの袖口にはグリーンの模様が編み込まれている。ドラコの着ているものも、ダリルのものと似たようなデザインになっていた。両親は二人がスリザリン以外になるとは夢にも思っていないのだ。

 ハンガーを手に、ガラス鏡の前で体に当ててみる。
 不思議な感じがした。この制服を着るのは初めてというわけではなかったが、到底ドラコのように着こなすことは出来ないだろう。

『そんな蛇を侍らせて、冗長な嫌味を言うのがお得意そうだったから、てっきりスリザリンの純血主義さんかと思ったわ』
 その通りだ。ダリルはスリザリン生になるし、いずれ純血主義になる――いや彼女にとってはダリルなど既に純血主義に等しいに違いない。自分は純血主義でないように思っていたけれど、家族の話を否定せず聞いていた自分とて、彼女にとっては同罪なのだ。

 光の明暗がガラスにダリルの姿を描いている。その輪郭を視線でなぞり、映る影をハーマイオニーのものへ書き換えた。彼女にはダリルの制服が似合わない。同じ意匠であるはずなのに、皆同じにこの制服をきて、これからその群れに埋もれて暮らしていくはずなのに。
(そうね……同じ種の生き物でも、必ずしも同じ群れに集うわけじゃないものね)
 きりと爪をたててなぞった輪郭はもうダリルのものになっていた。

 野生の生き物とて暮らす場所が違えば、それぞれ異なる表皮を纏うではないか。人から見て、どんなに同じ生き物に見えようと彼らは敏感に群れの仲間とそうでないものを見分ける。言ってしまえばそれと同じだ。大人達や教員らにはダリルもハーマイオニーも同じホグワーツに通う女学生と認識されよう。しかしその内にはもっと細かな派閥、群れが存在している。スリザリンの純血主義の名家に生まれたダリル。それだけで三つの枝に分かれている。例え同じ純血主義でも名家でなければ線を引くよう言われているし、純血主義でなければ口も聞くなと育てられた。ハーマイオニーは多分に名家の生まれではない。純血主義でもない。スリザリン生にもならないだろう。
 同じホグワーツ生であろうと果てなく遠い存在だ。彼女と同じものは何一つない。

 ほしいのに、そんな音が脳裏で低く響いた。

 もう一度彼女の姿を描けないかと夜をじっと見つめるダリルの耳に、えへんという作り物めいた咳払いが聞こえてくる。ドラコを待たせていたことを、すっかり忘れていた。「ごめんなさい――あ、タイツが見つからなくて!」ため息交じりの返事が届いた。「最初から履いているだろう」ダリルは耳を赤く染めながら、慌てて制服に着替える。
 脱ぎやすいワンピースを着てきて本当に良かったと、今日の服を選んでくれた賢い母親に心から感謝した。靴も最初からローファーを履いてきている。脱ぐことに時間をかけないですんだため、五分ほどで着替え終わった。
「終わったわ」
 今更手遅れだと分かっているが、急いだ響きでドラコを呼ぶ。
 コンパートメントの入口から顔を覗かせるドラコは憔悴しきった表情を浮かべていた。
「これだから、女の支度を待つのは嫌なんだ」
 ダリルの眉がぴくりと動く。

「お父様みたいなことを言うのね。ドラコに女性の支度を待つような機会なんてあったかしら」
 ナルシッサのことでぶちぶち言う兄ではない。ダリルがふいとそっぽを向いた。
「お前と違って、僕は交友関係が広いんだ」イラついた声音だったので、ダリルはそれ以上詮索しようとはしなかった。多分にパンジーか、誰か、こないだの集まりに来ていた誰かと、自分が留守を任されていた時のことを振り返っただけだろう。
 こうやって怒るということは、まだ深い仲になっている相手はいないに違いない。
 ドラコを待たせた“女”に対する関心が失せると、ダリルは自分の言葉の真意を悟られなかったことに安堵した。気づくはずもないだろう。少年は少女より精神的に幼いはずだし、クィディッチクィディッチと騒がしい兄が異性のことに興味があるはずがないのだ。

 向かいの席にどっかと腰を下ろすドラコはダリルの見知らぬ思い出への愚痴を零す。やれ無駄な化粧をするだの、服の色なんて如何でも良いだの、装飾品は一つで十分だだの、着る服は前日に決めておけだの、僕に意見を求めるなだの――ダリルの唇が緩んだ。
「何を笑っているんだ?」むっとした響きだ。
「いいえ。それより、ビンセントとグレゴリーのところへは戻らなくて――」いいの?
 言葉尻がアナウンスと重なった。『あと五分でホグワーツに到着します。荷物は別に学校へ届けますので、車内に残していって下さい』
「トランク、彼らのところにあるのでしょう。戻ったほうがいいのでなくて」
 そう続けると、ドラコがふうと息をついた。
「お前は今なんてアナウンスされたかも分からないのか?」
 返事は、しなかった。そりゃ分かるが、何か手荷物で持っていきたいものぐらいあると思ったのだ。尤も自分が如何しても連れて行かねばならぬのはレディだけだし、ペットのいないドラコなら手ぶらで良いに決まっている。
 居た堪れない気持ちで俯けば、ドラコの視線が「そんなことも気づけないのか」と言っているように突き刺さった。

 ふとももに肘をついて、ドラコが外の暗い景色を見やる。何も見えない。
「それに、お前はあの二人と一緒のコンパートメントでぎゅうぎゅう詰めになりたいのか?」ぽつんと落とされた。
「今までそうしていたのじゃなくて」
 確かにビンセントとグレゴリーの体は大きいが、それでも四人掛けのコンパートメントに三人でいて息をつくことも出来ないというではないだろう。きょとんとするダリルの瞳に、苦々しげに歪んだ端正な横顔が映った。
「お前がいなかったからな」
 沈黙。その表情がダリルの鈍さを非難しているのは明らかであろう。
 ダリルは口元に指を添えたまま、言葉を探しているように口を噤んでいる。
「一緒に、いてくれる、の?」恐々口を開いた。
「お前みたいな奴でも妹だ」
 顔を背けたままでドラコが続ける。その視界に彼女は入っていない。
 ゆっくり失速していく黒い景色を見つめたまま、仕方がないと小さくぼやく。コンパートメント内にドラコ一人しかいないかのように、この四角い空間だけが静まり返っていた。薄い壁の向こうからはあどけない歓声が流れてくる。

 先の言葉の真意を、ドラコはそれなりに理解していた。ダリルが知らぬだけで、少女の相手をするには随分と慣れている。理解出来ないだけで、“女子の言葉”には精通しているつもりだ。そもそも、それはパンジーや他の少女達に教え込まれたものではない。ダリルがドラコに植え付けたものが彼女たちを接するうちに芽吹いただけで、思えば彼女の癇癪に対応するために覚えたものだ。
 ダリルはドラコが自分以外の少女に良くするのを快く思っていなかった。昔から、ドラコが彼女以外のためにちょっとしたレディーファーストをしてやると数日口を聞いてはくれなくなったものだ。不機嫌の理由を問いただせば「知らない!」と一閃、頬に赤い痕が残る。幼いドラコは妹の癇癪にほとほと手を焼いた。その頃が一番、兄妹が上手くいっていた頃だった。
 あの頃、ダリルの独占欲の裏には「ずっと一緒よ」と言うバカげた口約束がちらついて見えた。だからドラコはその独占欲を厭わなかったし、ダリルがそう言う限りは、事実彼女はドラコ以外の少年に見向きもしなかった。ドラコだけを見ていた。
『ドラコに女性の支度を待つような機会なんてあったかしら』
 懐かしい嫉妬を感じた気がした。
 ひょっとしたら、妹は自分を選んでくれるかもしれない。自分が、父が何を働きかけなくても、自らの意志で選んでくれるかもと思った。
 ダリルの繊細な容貌にはスリザリンカラーに合わせた淡いグレーのセーターがよく似合っている。

 黙り込んだままの妹へ、ドラコは振り向く。
「どうした」耳元で何か告げ口するように、レディがシャアと息をはいた。
「なんでもないの」
 視線を落としていたダリルが顎をあげて、微笑む。

「……私、ホグワーツで頑張るわ」
 微笑んで、告げた。その笑顔は穏やかなものだ。しかし、それはドラコの知っているダリルの表情ではない。
 さっと熱が冷めていく思いだった。

「用事が出来た」
 ドラコはレディを自分の隣の席に下すと、立ち上がった。車内のざわめきは先より増している。二人の居るコンパートメントの前を少年少女ががやがやと通り過ぎていった。だから、ダリルは何かの聞き間違いだろうと日和見な声で兄を呼び止める。
「ドラコ?」
 しかし、何も返ってこない。ドラコは手早く制服のしわを整えると、ダリルに背を向けた。
 ダリルが彼を追うように席を立って、腕をとる。「待って、一緒に行ってくれるって……」言ったじゃない。
 ホグワーツまで一緒に行ってくれると言った。ビンセントとグレゴリーより、パンジーより、私といることを選んでくれたじゃない。ドラコの心変わりを詰る台詞が喉につまった。何とかドラコの機嫌を収める台詞を紡がないとと唇を噛む。
 ぱんと、鋭い音と共に、彼の袖を掴んでいた掌が思い切り振りほどかれた。自分と同じ色の視線だけがダリルを捉えている。冷たいブルーグレイの瞳は、ダリルを映していない。「赤子でもなし、一人でも行けるだろう」冷たく言い捨てた。

 如何して? なんで? さっきまで、一緒にいてくれるって、いっしょに、ドラコ、なんで――

「何故……? 私、何かしてしまった?」
 遠ざかる背を追おうと思ったものの、どっと通路を埋め尽くす生徒達の群れに紛れて視界からいなくなってしまった。通路は一本道ではあったけれど、ドラコを探している内に降りそこなってしまうかもしれないと思えば、人波に逆らう気にはなれない。
 ダリルの背後ではレディーが物言いたげに舌をちろちろと蠢かせていた。

 これからドラコとスリザリンでちゃんとやっていけそうだと思ったのは気のせいなのだろうか?
 人を羨むのはやめて、ちゃんと自分の大事な人を見ようと思った。それだけの、何がドラコの気に障ったというのか。返事が遅いから? 愚図だから? パンジーやハーマイオニーのように、もっとハキハキとしていれば良かったのか。
 がやがやと姦しい通路を、ハーマイオニーが人ごみを潜って通り過ぎていく。急いでいるからか、単純にこちらを見たくないからか、彼女はまっすぐに前だけを見ていた。ローブの下に着こんだ、少し濃い色のセーターは、きっと赤い色がよく似合う。
 ダリルは誰一人してこちらを伺おうとしない人の群れから逃げるように、元いた席へ座り込む。
 とんと、肩を落として背もたれに寄りかかった。黒い鏡にはドラコと揃いで仕立てたセーターを着た自分が映る。ひとりぼっちだった。さっきまでドラコがいてくれたのに、なんで一人になってしまったのか、分からない。堪らなく苦しかった。
 ひっくひっくと、ダリルは小さく嗚咽を漏らしながら泣いた。

 一緒にいてくれるって言った。私のために、ビンセントたちのコンパートメントから出て、探しに来てくれた。なのに、
 

満ちる杯を呷る

 
 


七年語りPHILOSOPHER’S STONE