七年語りPHILOSOPHER’S STONE
11 宿るのは勇気の欠片

 

 最悪だわ。ダリルは人の波に流されながら、ただただ心中でそう繰り返していた。

 プラットホームまで辿りつけば、後はそう難儀なことはなかった。新入生を集めて城まで連れて行く係りの男は背も声も大きくて目立ったし、上級生らは親切に新入生が係りの男の下へ集うのを手伝ってさえくれた。
 上級生たちががやがやと一足早く城へ向かってしまえば、ダリルと同学年の生徒は彼女が思ったより多くはなかった。精々が六十人と言ったところだろう。それだって十分に多いが、芋を洗うように混雑した通路を見た後ではそうでなく見えた。
 案外少ないのだと安心すると同時に彼女の瞳はハーマイオニーとドラコを探しだしたが、残念ながら彼女は梟ではない。目を細めたりこすったりしている内に出発の号令がかかった。
 秋の夜風に遊ばれながら新入生らは徒歩でホグワーツ城へ向かう。それが昔からの慣わしらしかった。

 話す相手もいないダリルにとっては、上級生らのように馬車に乗ってしまうより、歩きで向かうほうがずっと良かった。右も左も分からぬ夜の森で、ずっと先の明かりひとつ追うのは楽ではない。城を目指す行列はしめやかだった。
 無論ダリルだってスタスタ歩けはしなかった。始めは「すぐ着くわね」と高を括っていたダリルだったが、湖にたどり着くまでに二度ほど足を滑らせた。腕に巻き付いていたレディが地面に手をつく衝撃にウンザリしたのか、ダリルの体の上を這い、首に寄り添う。気持ち悪いと思ったが、衆目の前で――例え帳で顔が見えなかろうと――そういう態度をとるのは賢明ではない。集団のなかで目立つのはごめんだ。

 そうやって黙々と歩き続け、枝葉が途切れた頃湖畔についた。岸部にはボートが着けられている。新入生たちが友達と一緒に乗りたいという希望を口にするより早く、男は事務的な仕分けでボートに生徒を詰めていった。ダリルのボートにいたのは女の子が三人。顔は見えなかったが、クスクスと鼻にかかるような笑みを浮かべて話しているのを聞いた限りでは仲良くできそうもないとダリルは思った。もう一人の子もそう思ったのか、単に友達が同席していなかったからかむっつりと黙り込んでいた。この船旅が世界一周旅行のそれより短いのは幸いだろう。目的地は眼前に広がっており、この気の重い時間もほんの数分で終わることが予想できた。
 磨かれたジェットのように平らな水面の果て、夜空に同化したホグワーツ城の輪郭が月明かりに晒されている。クスクス笑いが止まった。同乗者達のみならず、皆がこれから七年の時を過ごすことになる学び舎を見上げていた。
 間近で見たホグワーツ城にダリルは何とも言えぬ感想を抱いた。美しいとも、荘厳だとも――ヒソヒソと耳を掠める数多の賞賛に同意せざるをえない佇まいであったが、ダリルはこの城で暮らす自分の姿が見えないと思った。
 話にだけ聞いて、自分には関係のない話のように思ったりもして、ダリルがホグワーツに憧れを抱く時間はそうなかった。だからそびえる偉大な城に素っ気ない感想を思う。大きな、他人事のような取り澄ました顔をしている城だ。どんなに偉大でも美しくでも、他人だ。
 他人かそうでないか。それがダリルの価値基準だった。その価値基準は物事の本質を見ない。元々は見ていたのだろうけど、物事の本質を見続けるのは難しいからと、絡まるものを見ただけで満足してしまう人々の群れ。ダリルの住む世界はそんなものだ。
 そんな世界に住んでいて、一歩後ろに下がってしまったことがダリルの不幸だった。

 絡まる蔦を自分の一部と思えなくなって、蔦に埋もれて自分が見えなくなった。シリウス・ブラックのように蔦を切ってしまえば良い。アンドロメダ・トンクスのように燃やしてしまえばいい。でも、その蔦はダリルにとって大事なものだった。愛しいものだった。だから気づいたことから目をそらす。自分に嘘をつく。この蔦が自身なのだと言い聞かせる。やがて剥げるメッキだと薄々理解していても、剥がれたときどれ程のツケを負うか恐れても、私はここにいると、私は私のことが分かっていると、そう思っていた。

 しかし絡む蔦に、自身からの拒絶ではなく、意志などなく“そこ”にあり続けるものが当然と思っていたものに見放されたとしたら如何なるだろう。心の準備もなく、糸くず一つ纏わない無防備な己の本質を晒すこととなったら、如何なってしまうのか。

 ドラコは自身に絡む蔦を己自身と思っている。ダリルは――ダリルにとって絡む蔦は鎧だった。
 露わになればそれは醜いかもしれない、汚いかもしれない、真っ黒に染まっているかもしれない、小さいかもしれない、萎れているかもしれない。段々とダリルは自分を知りたくなくなった。知ることへの恐怖に、蔦を失うかもしれない恐怖が増す。
 愛しているなら困らせてはならない。強請ってはならない。自分の身を引いてでも相手の幸せを望まなければならない。そのために自分が彼らを手離すことになっても、望めることが愛情だとダリルは思っている。
 なのに今ダリルは相手の感情を考慮せず、己の恐怖がために彼らを要している。
『赤子でもなし、一人でも行けるだろう』
 そして、要した結果、それは手厳しい拒絶として帰ってきた。

 手を伸ばせば必ず掴んでくれると、傲慢なことを信じていた自分が恥ずかしかった。
 この蔦がいつまでも自分を守ってくれると勘違いしていた思い上がりが恥ずかしかった。

 もう誰も守ってくれない。誰も自分の醜さを覆い隠してはくれない。そうして欲しいと強請ることは、彼らの迷惑なのだ。そうして強請ることが相手を困らせるのだ。愛しているから困らせたくない。例え彼らが自分を愛してなくても、困らせたくはない。
 ちゃんと一人で頑張らなければいけない。ハーマイオニーと二人きりでいたときの、嫌な私が本当の私なのだ。パンジーやハーマイオニーへ息が詰まりそうなほど嫉妬を抱くのが、今まで蔦に守られて露わにされなかった私の本質。それを受け止めて、一人で頑張らなくてはならない。きっと頑張れば、本質が備わればそれに相応しい蔦が絡み付いてくれる。ドラコとまた仲良く出来る。そうしたらこの城も美しく見えるだろう。ホグワーツに来て良かったと心から思うことが出来るだろう。ダリルは縋るように段々と視界に収まらなくなる壮大な城を見つめていた。自身の瞳に映る城が美しく見えるまで見つめていたかったが、城は崖に遮られて消えた。
 虚ろに考え込むダリルはボートを降りる新入生らの喧騒に埋もれる。消えはしなかったが、考え込みながら歩く彼女の姿誰の意識にも残らなかった。また彼女もただ群れについていくだけで、周囲で交わされた言葉の何も意識に留めようとはしなかった。

 何がいけなかったのか考えては、その結論が醜い嫉妬へと成り下がってしまう。パンジーのように人の気持ちに敏感であれば、ハーマイオニーのように人の言葉の裏にあるものへいち早く気づければ、そうしたらドラコは自分を嫌いはしなかっただろう。しなかった。
 仮定は段々と断定染みて、ダリルを落ち込ませた。組み分けの儀式に関する話や、ゴースト達の乱入には無論意識が向いたが、緊張も驚きもなく、落ち込んだ気持ちが打ち消されることとはなかった。

「組み分け儀式が間もなく始まります」
 一列になってという言葉にダリルは列の最後尾についた。前に並んでいるのはヒキガエルを探していたあの少年だったが、声を掛ける気にはならなかった。ダリルは「しい」と囁くと、抵抗するレディをローブの内ポケットのなかにしまった。ネビルが後ろを向いたとき、蛇が目に飛び込んで来たらさぞ驚くだろう。レディが彼のヒキガエルを食べたかもしれないという疑惑は晴れたが、今後もそうである保障はない。

 ダリルのいる場所からは先頭を行くマクゴナガル教授の帽子が辛うじて見える程度だ。彼女が特別小さいというわけではないが、何人か彼女と同じぐらいの背丈をした生徒がいたのである。だからといって然したる問題はない。行先が見えずとも列についていけばマクゴナガル教授の辿る道筋がダリルにも分かった。玄関ホールを通り抜け、大広間へ。新入生の行進を見ようと首だけで振り向いたり、立ったりしている上級生の視線のなか、上座にある教員用の長テーブルの前で立ち止まった。各寮の長テーブルが並ぶほうへ向く。
 マクゴナガル教授が率いた新入生の列はグリフィンドール寮のテーブルがある左側を先頭としていたため、最後尾についたダリルの向かいにはスリザリン寮のテーブルがある。先日のパーティで会ったのだろう生徒が手を振ってきたが、ダリルはそれに気づかないふりをした。皆の視線を追って目をそらす。緊張など微塵も抱いてはいなかったけれど、後々のためビクリを身を震わせた。ダリルが彼らと親しくなりたくなくても、きっと両親は、そして両親の体面を気にする自分は彼らに笑いかけるから。

 ダリルの、新入生たちの視線の先には立派なスツールが置かれていた。何のためのものか、皆がそれを見ていると、冠でも運ぶかのように厳かな面持ちでマクゴナガル教授がその上に帽子を乗せた。帽子というよりゴミに近しい風貌をしていたが、帽子の形状は残されている。
 そのほつれ具合やしわ、色褪せの様子からはどれ程年季の入ったものか分かった。これが父の言っていた組み分け帽子だろう。

 昔話の好きな父から組み分け帽子についてはよく聞かされてはいたものの、それが歌うなどとはまるで知らなかった。
 口元に手をあてて、ダリルは帽子の歌に聞き入る。そうしてから、自分は帽子の歌うどの寮にも当てはまらないと思った。ダリルは勇気があるわけではないし、忠実なわけでも、賢くも、狡猾でもない。一体どの寮になら入ることが出来るのかと、いや、スリザリンへ組み分けてもらえさえすればそれで良いのだ。スリザリンで、それだけで良い。両親とドラコ、それ以外の何が欲しいのだろう。
 ダリルは名前を呼ばれてはスツールに腰掛ける同級生たちの背を見つめる。
 アボット、ハンナ。ハッフルパフ。ボーンズ、スーザン。ハッフルパフ。ブート、テリー。レイブンクロー。ブロックルハースト、マンディ。レイブンクロー。ブラウン、ラベンダー。――ボートで一緒になった、クスクス笑いの女の子だ――グリフィンドール。
 次々に名前を呼ばれ、各寮に振り分けられていく。スリザリン、ハッフルパフ、ハッフルパフ、グリフィンドール、グリフィンドール。帽子を脱げば上気した横顔が見える。前途への希望に満ち溢れた、あどけない瞳。遠いものでも見るようにダリルは彼らを見送る。口を噤んだままぼうやりと首を傾げ気味に立っているダリルは、組み分けへの緊張で立ちすくんでいる新入生らのなかで特に目立ちはしなかった。
 視界の隅で広がる栗毛に、隔たれたところで思索にふけっていたダリルの意識がぐいと広間に連れ戻された。
「グレンジャー、ハーマイオニー!」
 その名前へ、名前の主へ、抱いている気持ちを何というべきだろうか。

「グリフィンドール!」

 彼女が帽子を被った瞬間、高らかな声が広間に響き渡った。彼女の入学を祝う歓声が鳴り響く。グリフィンドール寮のテーブルから、気さくな先輩達が彼女に手を振っていた。帽子を手に、ハーマイオニーはにっこりとほほ笑んでいる。一歩前に出て順番を待つ少年へ押し付けるように帽子を握らせると、彼女はまっすぐにグリフィンドール寮のテーブルへ歩いて行った。ダリルは胸より下の位置で、小さく二度ほど手を叩いた。音はない。もし誰かに見咎められても誤魔化せる程度の拍手だった。
 ホグワーツ特急のなかで会ってから、こうなると思ったのだ。彼女はきっとグリフィンドール生になると、思っていた。
『そうしなければならないかのようにしたくもない会話を続けるのか少し不思議に思っただけ』
『貴女、私が大嫌いだったひとにそっくりよ』
 もしも、また話す機会があったなら、あの時の無礼を謝ろう。ごめんなさい。貴方に非のないことで八つ当たりした挙句、下らないプライドから貴方に失礼な態度をとったわと、ちゃんと謝ろう。――いや、彼女への謝罪より先にしたいことがあったはずだ。謝罪ではなく、それよりも先に言いたいことが、あった。それは何だったろうと眉を顰めたダリルの耳に兄の名前が飛び込んでくる。

「マルフォイ、ドラコ!」
 ドラコが呼ばれたということは、次はダリルの番だ。帽子の宣言はダリルが一歩踏み出すより早かった。スリザリンという、予想通りの結果にダリルは目を瞬かせる。ドラコは被りかけていた帽子を膝に下ろして、自慢そうに口端を吊り上げた。ハーマイオニーの時よりは少ない喝さいが、スリザリン席から送られる。他寮生たち、レイブンクローとハッフルパフからは疎らな拍手が届いたが、グリフィンドール寮生は無関心層だった。スツールから立ち上がったドラコが近づいてくる。ダリルと視線を合わせようともしないのに、距離が縮まる。スリザリン寮のテーブルはダリルの目の前だし、組み分け帽子をダリルに手渡せばならぬのだから、当然だ。予想できたことなのに鼓動が早くなる。
 同じ色の瞳は重ならない。ドラコは既にスリザリンの席についているビンセントとグレゴリーに笑いかけたり、上級生の拍手に手を振り返すばかりで、そのまま素通りするのではないかと思った。ダリルがそう不安に思った瞬間、埃っぽい匂いが鼻をついた。
 ドラコが腕を伸ばして、組み分け帽子をダリルに差し出している。ほんの一歩踏み込めば一杯に腕を伸ばす必要などないのに、言葉すらなく、それはあまりに事務的だった。ダリルの容貌が悲しげに歪む。それでもドラコは歩み寄ろうとしなかった。ダリルが帽子を受け取るとドラコは彼女から視線を逸らして、友人たちの待っている席へと去って行った。ダリルの悲しげな顔を見ることなく、椅子へ掛ける。

「マルフォイ、ダリル!」
 マクゴナガル教授がダリルの名を読み上げた。
 スリザリン寮のテーブルが少しざわついたが、同様に騒ぎ出したグリフィンドール生の声に埋もれて人目を集めることはなかった。グリフィンドール生が騒ぎ出したのは、単にダリルの組み分けが終わるまでの時間を中休み替わりにしようとしたからである。マルフォイという姓を聞いただけで結果は決まったも同然と思っているのだ。スリザリン生が多少ざわめいたのは、ルシウス・マルフォイの愛娘として名高く、公に表れない少女を初めて見た感想を言い合っているが故だった。否定的な感想はない――尤も本音からの感想もないけれど。

 スリザリン寮生たちの前評判がどんなものであろうと、ダリル・マルフォイがスリザリン寮に来れば、一角の扱いを受けるに決まっている。少女達は美しいものが好きだ。幼いものが好きだ。真新しい制服に身を包み、手入れされたプラチナブロンドに、グラス・アイのように透き通ったブルーグレイの瞳のダリルは上級生の人形遊びにうってつけの容姿をしている。上級生がダリルを歓迎すれば、同級生たちだって露骨に彼女を粗末にすることは出来まい。上級生たちが何故ダリルを持て囃すか理解出来ない愚鈍はまずスリザリンに組み分けられない。
 高い家格と人並み外れて美しい容姿、その二つがダリルの最大の武器であり、魅力であり、彼女が誇ることを許された唯一のものだった。そしてダリルを“愛玩物”という地位に縛り付ける理由足りえた。ルシウスに限らず、ダリルの相手をする人々は“我儘な女の子の支配下に置かれている”ごっこ遊びが好きなのだ。家にこもっていた四年の間に何か変わったかと思ったが、より酷くなっただけだった。
 パーティの開かれた日、ダリルは自分のホグワーツでの生活が如何いうものになるかつくづく思い知った。ルシウスと上級生たちから与えられた王位に甘んじて、自分の所有権が右から左に移るのを指をくわえて眺めていることの出来る素晴らしい七年。
 ハーマイオニーやネビル、普通の家庭で育った子どもなら、帽子を被る時に未来へ期待したりするのだろうか? グリフィンドールへ組み分けられたら良いのにとか、自分に備わっている素質がホグワーツで開花するのを夢見るのに違いない。ダリルはそうじゃない。
 ダリルの七年はもう決められている。それに応えられねば、酷いことになる。帽子を被るのが胃がひっくり返りそうなほどに怖かった。
 ダリルは帽子を胸の前で掲げ持ち、恐る恐るスツールへと歩み寄る。永遠に歩いていたいような気持ちでさえいたが、マクゴナガル教授が眉を寄せたのに慌ててスツールに腰掛けた。帽子を目の高さまで持ち上げると、マクゴナガル教授が騒がしいテーブルへ注意しに遠ざかっていった。戻って来た時、ダリルがまだ帽子を被ってなかったらホグワーツを追い出されるかもしれない。
 仕方なく帽子を被ると、無関心にお喋りをするグリフィンドール寮生たち、こちらを見つめる他寮生、スリザリン寮の知り合いたち――それに床を見つめる新入生、瞼を閉じたかのように、ダリルの視界から何もかもが見えなくなった。この帽子、大きすぎる。

「決めかねる」
 囁くような声音が耳朶に直接届いた。
 ダリルも帽子にだけ聞こえるよう、独り言よりもっと潜めた声で紡ぐ。
「どういうことでしょう」
「何もない」
 かぁっと頬が熱くなった。予想はしていても、実際言われれば恥ずかしいものである。帽子の声が誰にも聞こえないことだけが救いだったが、このままどこの寮にも分けられず、ずっと帽子を被っていることになったらどうしようと言う不安が鎌首を擡げた。
 ダリルの心中など素知らぬふうに帽子は独り言めいた台詞を続ける。
「可能性が均等にあると言ったほうが正しい。均等にあり、均等にない。選ぶことを放棄し続けてきた……しかしまるきり勇気がないというわけでもない。身内を優先するのはスリザリン気質、しかし他を犠牲にしてまで望むでない。選ばない。望まない」
「わ、私は何も望んでないわけでは」
 思わず呟いた。ふむと帽子が相槌を返す。

「それでは、君はどの寮を選ぶ?」
 続けられた言葉はダリルを驚かせた。

 帽子が勝手に自分をどこかの寮へ分けてくれると思っていたのだ。なのに、何故自分は帽子に問われているのだろう。それも、候補のひとつもなく。これは、遠回しにホグワーツを去れということなのか。ダリルが面喰って黙り込んでいると、帽子が笑った。
「言葉通りの意味でしかないよ。何せ、私は嫌味を言うための心も脳もないからね」
 その割に感情豊かであるようだと思ったが、口にすることはなかった。最も黙っていても頭の中を覗かれているようだけれど。
 ダリルはちょっとの間を置いてから口を開きかけた。本当に、自分で行きたい寮が選べるのだとしたら結論は決まっている。スリザリン以外にダリルが望むものはない。そこでどんな生活を送るかはさて置き、そうすれば両親を安心させられるはずだった。
 スリザリンのスを紡ごうと唇が吐息を吹いた時、帽子がダリルの言葉を遮った。
「ただし、君自身の選択だ」
 ホグワーツに来たいと思った理由ではなく、君自身のものだ。帽子が念を押すように繰り返した。
「……お父様とお母様を安心させたいと思うのは、私の望みです」
「確かにそのようだ。しかし、それはスリザリンに入ることで得たいものではないと思うよ」
 スリザリンに入れば両親は安心してくれる。それは、スリザリンに入ることで得られるものではないだろうか。
「分かり、ません」
 途方に暮れてダリルが呟いた。帽子の言っていることも、自分が行きたい寮も分からなかった。ダリルにとって、帽子の話すことはハーマイオニーの台詞のように、言葉としてではなく音として耳に入る、そんなようなものに聞こえた。

「君の頭のなかには扉が多すぎる。鍵が多すぎる。君自身で開けてもらわなければ、私は君の本質が見えない。
 ――ホグワーツには君を縛る鎖はない。君を閉じ込める檻もない。押さえつける蓋もない。君は自由だ。君は何にでもなれる。
 君は何でもない、その代わり君が望めばなんにでもなれる。君は何になりたい?」

 困ったように帽子が口にした。ダリルはそれを噛み締めるように頭の中で反芻させる。なんにでも、なれる。じゆう。望むすべてが叶うとしたら、例えば自分がスクイブでなければ、純血主義の家に生まれなかったら、魔法族の家に生まれなかったら、何をしても許してくれる父母がいたら、仲の良い双子の兄がいたら――誰もが無条件にダリルがホグワーツへ入学するのを喜んでくれたら!
 喉が痛かった。言葉がダリルの肺に満ち、呼吸を阻む。
 勇気に満ちたグリフィンドール、忠実なハッフルパフ、賢いレイブンクロー、狡猾なスリザリン。そのどれへも関心は向かなかった。直接的な願望だけが頭の中を巡り、どの寮へ入ればそれらが実現するのか分からない。勇気のある人になれば叶うだろうか、誠実な人でいられたら、賢ければ、狡猾だったらば。どれか一つ、何か糸口があるはずだと寮の名を繰り返す。校章がグルグルと頭の中で回った。

 どこの寮へ入ったらなりたい私になれるだろう。どんな未来が欲しいだろう。何がしたいだろう。何が、

 そこまで考えたところで、ふとハーマイオニーの組み分けの時に思い出しかけた記憶が蘇った。ごめんねと言うより先に言いたい台詞。ありがとう。私のトランクを持ってくれて、困ってる時に助けてくれて、笑わせてくれてありがとう。緑の瞳の、優しげな男の子。そうだ。ハーマイオニーへの謝罪より先に、彼へお礼を言いたいと思ったのだ。たった一言、どれだけ貴方の台詞が私を救ってくれたか伝えたかった。
 こんな時に、何故そんな無意味なことを思い出すのか思ってみても脳裏に浮かんだ色が拭えない。もう一度話したい。もう一度会いたい。唇がピクリと動いた。彼はきっとスリザリンに入らない。ハーマイオニーがそうであったように、決して。
 ダリルはぎゅっと拳を握りしめた。グリフィンドール。音に出来なかった決断を、もう一度繰り返す。
「グリフィンドールに、行きたい」

 ――グリフィンドール!!

 組み分け帽子の叫びが広間に響き渡る。拍手も歓声も殆どなかった。ただ寮の名を告げた余韻だけを残して、広間はしいんと静まり返る。ダリルは震える手で帽子を脱ぐと、すっくと立ち上がった。無音の空間を横切って、次の生徒に帽子を押しつける。
 静寂を保ち続けるスリザリンテーブルを見るのが怖くて、でも同じぐらい静まり返っているグリフィンドールテーブルへ近づくのも怖かった。このままホグワーツを永久に去ってしまいたいと思ったけれど、校長席から遅れて聞こえてきた拍手にダリルは潤んだ目を瞬かせた。
 アタマのないものにかどわかされて馬鹿な選択をした。でも、それは紛れもなくダリルが自身で選んだものだ。

 顔を上げて歩けはしなかったけれど、両親に対する引け目や恐怖に紛れて、自分で選んだのだという実感も確かに胸に存在していた。
 

宿るのは勇気の欠片

 
 


七年語りPHILOSOPHER’S STONE