七年語り – PHILOSOPHER’S STONE
13 淵に沈む
今日もダリルはテーブルの一番すみでそそくさと朝食を済ませる。ウィーズリーの双子に絡まれたら面倒くさいことになるからだ。
元々朝は食欲もなく、こうして出てきたからと言って紅茶を飲むだけである。彼らを避けるために朝食の席に出るのをやめたって良かった。ホグワーツでは食卓につくのは各自の自由とされていたが、「余程のことがなければ食欲がなくても全員朝食の卓を囲む」というマルフォイ家の朝の習慣が抜けきらないがため、ダリルは毎朝毎朝きちんと朝食の席について、朝食ではなく朝飲を済ましていくのだった。
今朝も空のスープ皿をそのままに、ボンヤリした頭へ紅茶と言う名の油を差す。ミルクも砂糖もなしでカップを傾ければようやく周囲のざわめきが言葉として捉えられるようになった。無論、捉えられたからといって話す相手はいない。
少しだけ動くようになった思考で耳を澄ませば、今朝はまだ彼らは起きてきていないようで、何とか夕食の時間まで遭遇せずにすみそうだとダリルは平らな胸をほっと撫で下ろした。いつものことながら、まるで平らである。
ちらと、自分と同じように一人で――しかし毅然とした態度で朝食を取っているハーマイオニーを見やる。彼女の胸はそこそこ豊かだった。もう一度自分の胸を見る。鎖骨から下ろした掌はスカと腹部まで落ちる。ダリルはミルクポットに手を伸ばした。
梟便を受け取ったら……牛乳を二杯ほど飲んだら、いや、さ、一杯で構わないだろう。手紙を受け取ったら、さっさと次の授業が行われる教室に移らなければ。大広間の扉をくぐる賑やかな集団の戦闘に双子を見つけたダリルはすぐにでも出ていけるよう鞄を掴んだ。
目があった一瞬、出しっぱなしにしていた玩具を見つけたような笑みを彼らが浮かべたのに焦った気持ちになる。このままボヤボヤしていれば間違いなく遊ばれてしまう。隣が空席でないのはとても幸いだった。彼らの食事が終わるまでの猶予が与えられたわけだ。
朝食の席にきちんとくるもう一つの理由は、家から届く手紙を受け取るためだ。別に届けて下さらなくたっていいのに、ルシウスの自慢の種の一つ、マルフォイ邸のとても優秀な梟はホグワーツまでの長旅を苦にもしない。ダリルは褒めろと言わんばかりにホウと鳴く梟の口ばしを擽って、ベーコンを数枚取ってやった。ルシウスの梟は、そんなところまで飼い主に似なくて良いのに、パーシー・ウィーズリーの肩にとまるオイボレ梟へ見せつけるように羽根の手入れをし、腹を十分くちくさせてからやっと飛び去って行った。
ダリルは空のスープ皿に入った羽根を摘まんで皿から出した。ため息を垂れ流しながら、今日の頼りを確認する。ルシウスからのものが十通。ナルシッサからのものが一通。昨日が十通だったことを顧みれば、恐らく明日には十二通の手紙が届くことだろう。毎日毎日、仕事はきちんとしているのか不安になる文量である。まあ、ルシウスがせかせかと働くような人ではないのだけれど。
ダリルは手紙を束にして纏めると、席を立った。ウィーズリーの双子が腹を十分くちくさせる前に、足早に大広間を出る。
この手紙を如何しようと額を抑えつつも、ダリルは段々と明かりの乏しくなっていく廊下を進む。
魔法の使えないスクイブで、しかも友達もゼロと、新入生たちの平均より劣ったスタートを切るダリルではあったが、唯一慣れない学校生活で彼女が迷ったり、次の授業の開始時間に焦ることが殆どなかった。気ままに動く階段に「ごめんなさい、下らせてくださる」と囁けば、階段はダリルを困らせようとしなかった。ウィーズリーの双子なんかよりずっと親切だ。それでも時々は遊ばれることもある。
「あっ」
ダリルが一歩足を踏み降ろした途端最後の段が幻のように消え、体勢を崩してしまった。手に持っていた手紙が床に散らばる。寸でのところで手すりに掴まれたが、素直に落ちていれば足を挫いたかもしれない。掌にひんやりと冷たい木の中から、子供染みた笑い声が聞こえる気がした。ダリルは「もう……油断ならないんだから」と渋い顔をして、戻ってきた最後の段へそっと足を降ろした。
とんと階下に降り、湿っぽい石造りの床に落ち広がった手紙を集めるために屈んだ。
「……誰から?」
指先に触れた封筒には宛名がなかった。ダリルは怪訝な顔で拾うと、顔の前に持ってきた。傍らの燭台へかざすように見上げる。
そういえば過去に、半年ほど手紙のやり取りをした文通友達がこういう白紙の封筒で送ってくる人だった。ずぼらというではないが、面倒な事はとことん省略してしまう性質で、宛先不明だと処分されることがよくあった。実際文通が止まってしまったのは、何が理由なのかよくわかっていない。彼女が何かの気まぐれで、数年遅れの返事をくれたのだろうか?スリザリン生からの嫌がらせという可能性もあったが、狡猾な彼女らが形に残る嫌がらせを仕掛けてくる可能性は低いように思った。まあ万一そうだったとしても、死ぬことはあるまい。
ダリルは大胆にも手で封筒を破いた。その手つきには、彼女には珍しく年相応の期待が込められているようだった。
『今日中に返信がない場合、お前の組み分けについて校長へ直接話を伺いにいくこととする。
愛を込めて、ルシウス・マルフォイ』
金曜日は最悪の出だしとなった。
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地下牢はダリルの沈んだ気持ちを更に落ち込ませた。
石造りの室はひんやりと冷たく、薄暗い。明かりをどんなに置いても全てを照らし出せないだろうと感じさせるような密度の濃い闇が些細な影に潜んでいた。ここで学生生活を送っていた若かりし父の姿がそこかしこに見える。父が好みそうな暗さだった。
ルシウスの学生時代に得意としていたは魔法薬学だと聞く。その関係で、これから自分に魔法薬学を教えてくれる男性に関する話も何度か聞いたことがあった。何か困ったことがあったなら彼に相談するよう言われてもいたが、それは「寮監である」という言葉が枕詞であったように思う。そもそも、こんな気味の悪い教室に何時間も籠っていられるような感性をした人と相性が良いとも思えない。もし自分がスリザリン寮に組み分けられていたとしても、卒業するまでの七年まるでお近づきにならなかっただろう。
測らずも一番乗りで地下牢に来てしまったダリルは地下牢をぐるりと見渡した。
どこへでも自由に席を選べたとは言え、動物たちのアルコール漬けが壁一面を埋め尽くしていて、どこに座るにも居心地が悪い。疾うに死んでいるはずの彼らの目には三百六十度全ての景色が見えているようで、最初は彼らの死角を探っていたダリルも諦めて適当な席に――教室の一番後ろ、端の席に腰掛けた。背後に何匹の死骸があるか、そのことは気にしないことにした。
席に落ち着いたところで、机に頬杖をつき、入口をぼうと眺める。
入ってくる生徒達を観察していると、スリザリン生達は一様に前の席を選び、グリフィンドール生達は反対に後方の席を選んで座っていく傾向が強いようだった。ダリルが小耳に挟むだけあって、セブルス・スネイプがスリザリン贔屓であるということは皆に広まっているらしい。スリザリン生が雑談をしながら楽しげに入ってくるのに比べて、グリフィンドール生達は如何にも憂鬱そうな足取りである。そうして席につくと、めいめい友人達と魔法薬学について小声で話し合うのだった。スリザリン生達は時折ちらと振り向くと、そんなグリフィンドール生らの様子を見て、笑みを浮かべる。尤もスリザリンの女学生が振り向くの主たる目的はダリルを見ることだろう。
少女たちは自分の方をチラチラ見て、クスクスと可愛らしい笑みを漏らす。入学してからの一週間でそんなことには慣れたつもりでいたものの、その中にパンジーや、夏休み中のパーティで共に過ごした少女らが入っているのは随分とダリルの胸を冷たくした。
最初から仲良くなったとは思っていなかった――それでも、何故だか彼女らの嘲笑が堪えた。
居た堪れない気持ちでいたダリルにとって、スネイプが時間より少し早く地下牢に入ってきたのは有り難かった。
セブルス・スネイプというのは中々如何して、ダリルが想像していたよりもずっと平凡から外れた男だった。
スネイプが黒板の前に立つと、何を言ったでもないのに室内がシンと静まる。
マクゴナガルも同じような能力を持っていたが、またその本質は違う。マクゴナガル教諭の言葉は何故か魅力的で、耳を傾けたくなる。スネイプ教授の言葉というのは、どこか威圧的で、聞かなければならないと思わせる種類のものだった。それが例え些細な咳払いや、ちらと向けられた視線であっても、きちんと把握していなければならないという強迫観念を抱かせる。
スネイプ教授がどういう人かは分からないが、とりあえずまるで気が合わなそうだということはこの短い間によくわかった。
如何いった訳か、それは向こうも同じだったらしい。
「ダリル・マルフォイ」
何故か、スネイプの声が少し止まった。本当に些細なものだ。掌を口に当てているのを見ると、咳きこんだか何かしただけだろう。そうと思った刹那、視線が合う。睨みつけるような厳しい瞳がダリルを掠めて行った。ほんの一瞬、瞬きをするような短い時間だ。
何かの勘違いだろう。ダリルは誰もがそう思うように、そう結論付けた。
ああいった冷たい目でこちらを見るということは、スリザリン贔屓という噂は正しいに違いない。グリフィンドール生を嫌うスネイプは無論ダリルのこともよくは思っていないだろう。よく思われたところで髪にベッタリ塗りたくったポマードを分けて貰えるのが関の山でしょうけど――膝の上に手を下ろして真っ直ぐスネイプを見つめるダリルは、そんなことを思った。
その、ただでさえグリフィンドール寮生がお嫌いなスネイプ教授が特別熱を上げる生徒が一人いるようだった。
「ハリー・ポッター……」生徒の名が記されているらしき羊皮紙から視線をあげたスネイプが後方へ視線を向ける。
ハリーを呼ぶ声の後に沈黙を挟むと、「ああ、さよう」砂糖菓子みたいに甘ったるい、彼の外見にまるで釣り合わない気持ちの悪い声を出した。「ハリー・ポッター。われらが新しい――スターだね」あからさますぎる嫌味だった。
スリザリンの嫌なところを集めて煮たてたものを冷凍庫で固めたらこういう人間が出来るのではないかと、ダリルはそう思った。スリザリン生達がクスクスと抑えた笑みを零しているのにも腹が立つ。ハリーがいつ彼らに笑われるようなことをしたのだろうか。
マクゴナガル教授だったら、仮にも自分の教え子を捕まえてこんな失礼な振る舞いはしないはずだった。ダリルは顔を顰めた。
確かにスネイプがハリーへの嫌味を口にした時点でダリルは彼に対して半ば軽蔑に近いものを抱いていたが、それと彼の大演説を真剣に聞かなかったこととは然して関係がない。もしもマクゴナガルが同じ話で一席打ったとしても、ダリルはまともに聞かなかったろう。
まず他の教科を馬鹿にするような冒頭からして不愉快だった。無論こうした否定的な言葉でもって人のやる気を起こさせようとする方法があるのはダリルも知っている。しかしスネイプの口ぶりはまるきり傲慢そのものといった調子で、彼がこの教室にいる全員がウスノロであることを望んでいるようダリルの耳には聞こえた。流石にそれは主観すぎると自分でも分かっていたが、兎に角この演説から自分が学ぶべきものは何もないとダリルは判断した。ダリルが欲しいのは栄光でも名声でも永久の命でもない。劣等感を感じずに済む、穏やかな生活だ。
第一スネイプが言ったことは、生徒が自ら気づくべきことではなかろうか。一年二年と、時間を重ねていく毎には無論魔法薬学を得手とする者もいれば、不得手とする者もいるだろう。魔法薬学に心酔した人にとっては確かにこの授業はただ鍋をかき回していれば良いというものではない。しかし不得手な者にとっては進級するための義務に過ぎない。
スネイプの大演説に、ダリルは「まるで魔法薬学が苦手な生徒を煽って楽しんでいるみたい」と不満を感じた。
それでも、仮にも“教授”という目上の立場に属する人間へこうまで否定的に思う生徒などダリルぐらいらしく、殆どの生徒は先の演説の要点を羊皮紙に纏めていた。ちらと見渡せばハリーも羽ペンを動かしている。ダリルはばつの悪い気持ちになって、羽ペンを手に取った。走り書きに近い汚い字で「きちんと授業をうける」と、適当過ぎる纏めを羊皮紙に書き込んだ。
ダリルが羽根ペンを降ろしたのと、スネイプが何の脈絡もなくハリーを呼んだのとは殆ど同時だった。自分が呼ばれたわけでもないのに、思わず顔をあげてしまった。ハリーの様子を伺うと、ハリーの後頭部が左右を見渡したそうに揺らいだ。驚いているのだろう。
「ポッター、アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」
アスフォデル。死の花と呼ばれることからその球根は毒性だと思われることが多々あるが、実際には物事を持続させる効能を持つ。
一方のニガヨモギも多少の毒は有しているものの、多量に摂取しても人を殺すことまでは出来ない。どちらかと言えば薬として用いること、香り付けのハーブとして使う事のほうが多い。もう一つ、麻薬として使う事も出来る――無論高濃度のものでなければならないが。この二つの共通点は互いに死の象徴とされているところだろう。魔法薬学では、共通点のあるものを組み合わせるとより高い効果が出る。
アスフォデルとニガヨモギを比べたとき、代用が出来ると思われるのは無論ニガヨモギだ。麻酔の効果を持つ薬草は少なくない。つまりアスフォデルとニガヨモギの組み合わせで考えた時、まず大事なのはアスフォデルの「持続させる」という効能であり、ニガヨモギを組み合わせるのはその効能を要しているわけではなく、持続時間の強化を目的としていると見るべきだろう。
そこまで考えてダリルは眉を寄せた。薬草を知っていても、薬の名前を知っていなければスネイプの問いには答えられない。
ダリルだって「薬草ときのこ千種」と「魔法薬調合法」には目を通してある。丸暗記しているわけではないとはいえ、一年で習うだろう部分はきちんと覚えてきた。“生徒がどのぐらい予習をしてきているか確かめるための簡単な問題”に答えられないはずがない。
最後まで全てきちんと目を通して丸暗記しているなら答えられたかもしれないが、そんな人なんて――“いた”。
あっけにとられるダリルの視線の先で、ハーマイオニーが堂々と手を挙げていた。まさか皆、この質問に答えられるって言うの?
「わかりません」ハリーの返答でその不安は打ち砕かれたわけだが、衝撃の余韻はまだ残っていた。
じわじわと、砕かれた不安の欠けらが胸に染みこみ、強迫観念としてダリルを急かす。
「チッチッチ、有名なだけでは如何にもならんらしい」
この人はハリーがどのぐらい円周率を記憶していられるかという競争で闇の帝王を負かしたとでも思っているんだろう。
「ポッター、ベゾアール石を見つけてこいと聞かれたらどこを探すかね」
貴方の部屋を漁るのが一番手っ取り早そうですね。ネチネチと続く、あまりにも大人げないハリー虐めへダリルは苛立つ。何よりは、この質問にもハーマイオニーが答えることが出来るという――彼女と比べて自分があんまりに無知だという現実にである。
ダリルだって、人並み以上には勉強をしてきたつもりだ。なかでも、杖を振れないからこそ、こうした杖を使わない授業に関しては幾度も教科書を読んだ。それでも努力が足りなかったと言うのだろうか。教科書に書かれていることを全て暗記しなければ、そうしなければ彼女らと対等になれないのだろうか。それとも、それをしたとしても、無意味なのだろうか。……だとしても、出来る限りのことをする他ない。
この悔しさは自分がベストを尽くさず、教科書を全部暗記しようとする努力をしなかったからのものだ。二度とこんな気持ちになりたくなければ、出来る限り努力しなければならない。自分は劣っているのだから、人の数倍努力するのが当たり前なのだ。
ダリルにとって魔法薬学は栄光を醸造する術でも、名声を瓶詰にする術でも、永久に生きるための術でもない。人並みの魔女として存在するための術の一つだ。それは何も魔法薬学に限ったことではない。ホグワーツで知る何もかもダリルの心を浮き立たせはしない。
学ぶことへの好奇心も希望も何も抱かない、劣等感から逃げるための義務でしかなかった。
ダリルはきりと唇を噛むと、変わらず手を挙げ続けてるハーマイオニーの後ろ姿を見つめた。
きっと、彼女は自分が抱くような醜い劣等感なんて知らずに生きてきたのだろう。条件付きの愛情などではなく、無償のものを注がれて育ったのだろう。魔法学校なんてものを知らないのに、娘がそこへ通う事を許してくれたことからも両親の愛情の深さが伺えた。もしもダリルがマグルの学校に行きたいなどと言ったら一生部屋から出してもらえないか、勘当されるかのどちらかに決まっている。
スネイプによるハリー虐めがひと段落してもダリルの心は晴れなかったが、「おできを治す薬を作る」という、授業らしい指示を出されたことで思考に留まり続けることは何とか回避できた。
黒板に書かれたおできを直す薬を作るため、隣に座っている者かもしくは前後の席に座っている者と二人組を作るよう言われたダリルだったが、勿論隣に座るものなど居はしない。それで前の席に座る者へ組んでくれるよう頼もうとした。幸い前に座る生徒も同じ考えだったようで、ダリルが声を掛けると同時に振り向いた。その口元がやや引きつっている。
「ご……めんなさい」怯えた視線でこちらを見るネビルへ咄嗟に謝罪を口にしてしまった。
「う、ううん――今日は、その、飼い蛇は……」
ネビルはぶんぶんと首を振る。蛇が嫌いなだけで、別にダリルが嫌われているのではないらしい。
「――ごめんなさい」
しかし、こんなことが続けばやがて嫌われてしまう。
寮に置いてきた飼い蛙の安否を気遣うネビルへ、ダリルは残念だと言わんばかりに凶報を告げた。ネビルの表情が凍る。
「でも、女子寮と男子寮だから」
地続きである以上相互に行き来することは可能である。幾らネビルだって、そんな頼りない慰めで誤魔化されはしない。こうして、曖昧に相槌を打つネビルとの初めての実習は、気まずい空気のなかで行われるのだった。
初めての実習は、二人の間に殆ど会話がないことと、ヘビの牙の砕き方が粗雑だとスネイプに注意を受けた以外では初の魔法薬調合は順調と言ってよかった。きちんと鍋に張った水に色がつくまで干しイラクサを煎じたし、スネイプから御教授頂いた通り丁寧に砕いたヘビの牙を鍋に入れるタイミングも可笑しくなかったはずだ。角ナメクジもきちんと指定された時間通り熱湯に漬けて置いたし、あとはそれを鍋に入れて数分立った後鍋を火から下ろし、山嵐の針を入れるだけだ。ダリルは机の上に並んでいる材料と、羊皮紙に写した手順とを確認した。
指さし確認をしていたダリルが僅かに首を傾げる。山嵐の針がない。振り向くと、ネビルがクツクツ音を立てる鍋を覗いていた。
「あの、山嵐のは」りと言い終えぬうちに視界が緑色の靄に包まれる。同時に何かが溶ける、蛇の吐息のような音が鼓膜を貫いた。「ネ、ゲホッ」ネビル一体何を? そう言いかけたのを、グイと肩を後ろに引かれる感覚に遮られる。
漸く引き始めた靄の向こうで怒り心頭と言った調子のスネイプが自分の肩を掴んでいるのが見えた。「バカ者! 煙の原因に近づくとは、貴様は思考能力がないのか。これ以上面倒を増やさぬうちにさっさと椅子の上へのぼっていろ」
その厳しい語調に言い訳をする気も折れてしまい、こくと頷いただけでスネイプの言うとおり椅子の上へ避難する。スネイプが杖を振ると床の上をじくじくと流れていた液体が跡形もなく消えた。
「おおかた、大なべを火からおろさない内に山嵐の針を入れたんだろう」
どうやらあの薬を至近距離で浴びてしまったようで、ネビルはおできだらけだった。スネイプが忌々しげにネビルを問い詰めると、ネビルは泣きながらもコクリと頷いた。スネイプはチッと舌打ちすると、机の上に広がる、ダリルが板書した羊皮紙を見やった。
「我輩は“山嵐の針を入れるのは鍋を火から下した後”と書いたはずだな」
ダリルの羊皮紙には“鍋を火から下ろした後に山嵐の針を入れる”と書いてあった。
スネイプがギロリと、鋭い視線でダリルを射抜く。
「君のお父上は魔法薬学が得意だったと思ったが、それは我輩の思い違いかね?」
まだ鍋の残骸はくすぶる音が響いていたものの、シンと静まり返った地下牢で、きっとスネイプの嫌味は皆に聞こえていたに違いない。
ダリルは消えてしまいたいと思った。こちらを伺う瞳のなかにはドラコのものもあるはずだった。
「――父の成績は私とは無関係です」
プライドの残滓からキッと睨み返すと、スネイプの視線が一層厳しくなった。
「これだから……!」
不快そうに眉間を歪めたスネイプが絞り出すように、何事か漏らす。これだから、スネイプの唇が音を繋いだ。これだから、できそこないは。できそこない。一瞬何を言われたのか分からず、ダリルの瞳がきょとんと見開かれる。はっとスネイプが口元を押さえた。
そして呆然と自分を見上げているダリルにもうひと睨みくれてから、ふいと視線を逸らした。
「ロングボトムを医務室に連れて行け」
あと五時間は続けられそうな嫌味を早々に切り上げると、鍋の残骸や、瓶が割れて床に落ちている動物のアルコール漬けなどを片付け始めた。しかしスネイプの背を見つめるダリルは、彼の台詞に如何いう意図が込められたのか理解していた。
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出来そこないと――確かに、そう言われた。
「ご、めん」ぐるぐると考え込んでいるとネビルの謝罪が聞こえた。
「え、い、いいえ。ごめんなさい。大丈夫?」
大慌てで思考を打ち切り、相槌を返す。
それでもやはりスネイプが零した罵倒はダリルに強い衝撃を残していた。二人で医務室までの道のりを辿っていても、ダリルは心からネビルを案じる気持ちにはなれなかった。ただただあの台詞の意図を、理由を考えるだけで、それ以外は何も考えられなかった。
確かにきちんと黒板に書かれた通り写し取らず、山嵐の針を入れるタイミングの重要さが分からない書き方をしてしまったのはダリルが悪いかもしれない。でも実際に山嵐の針を鍋に入れて問題を起こしたのはネビルだ。如何して自分がここまで悪しざまに罵られなくてはならないのだろう。魔法薬学の授業時間内で、そんな出来そこないと罵られるに値する失態は犯していないはずだ。
そこでダリルは一つの仮定に行きあたった――ルシウスから、自分がスクイブであること前もって聞かされていたのだろうか?
『何か困ったことがあったならセブルスに相談すると良い。あれは私の後輩だからな、きっと良くしてくれるはずだ』
ざあと血の気が引いた。
それが一番尤もらしいとダリルは思った。さもなければ、幾らあんな人だからって、仮にも生徒に対して出来そこないなどとは言わないだろう。ふらふらとおぼつかない足取りでネビルの後を追って、開け放たれた白い扉をくぐる。
奥から出てきたマダム・ポンフリーがネビルを連れて行っても、ダリルはずっと入口に立ち尽くしていた。
「貴方は如何したの?」
青ざめた顔で俯いているダリルに、マダム・ポンフリーが訝しげに話しかけた。
ダリルはゆっくりと視線を上げると「大丈夫です」と紡ごうとした。そうして軽く微笑んで、部屋に帰ってから一人で泣けばいい。そうしなければならない。そうしなければきっと後悔する。きちんと、これから如何していくのか――そこでプツンと頭が真っ白になった。
『出来そこない』
もう、如何でも良い。
「私、スクイブなんです」
一度口に出せば、後から後から涙が溢れてきた。十一歳にもなって、何をしているのだろうという理性が最早遠い。ダリルはその華奢な肩を震わせ、この一週間の緊張で抑圧されていた本音を露わに嗚咽を漏らした。
「魔法なんて使えないんです。ホグワーツに、ほんとうは入れないんです。入ってはいけないんです」
唐突な告白にマダム・ポンフリーは目を見開き、おろおろと彼女の背をさするだけだった。その温もりに一層ダリルの涙腺が緩くなる。
自分なんかがという気持ち、頑張ったのに誰にも認めてもらえないという気持ち、そう思う自分が自分勝手で甘えていると思う気持ちがごちゃごちゃになっていて、もう何もかもが限界だった。教師にまで出来損ないと言われては、もう如何しようもない。今まで自分を愛してくれた父母は急に世間体を口にし始める。双子の兄は結局自分を拒絶する。寮のなかで友達も出来ず、顔を見合せば上級生にからかわれて、寮の外に出れば、教師にまで出来そこないと嘲笑される。もう、ホグワーツにこれ以上居たくなかった。ルシウスとナルシッサが恥だと言うなら、勘当されても構わない。魔力など無くても生きていくことが出来るマグル界で暮らす方がどんなにか気楽だろう。
そもそも自分が純血一族に生まれてしまったのが過ちなのだ。ハーマイオニーのような優秀な魔女が、自分の代わりにマルフォイ家に生まれるであるべきなのに、どうして自分はこんな風に生まれてきてしまったのだろう。
「もう、もう私、消えてしまいたい」
こんな生き恥を晒し続けるなら、いっそ死んでしまいたい。スクイブだと明るみになる前に、これ以上家の恥にならぬ内に、死んでしまいたい。ダリルはそのブルーグレイの瞳を真っ赤にして、震える嘆きを吐きだした。
好きで産まれ損なったんじゃない。私が意地悪してるわけじゃない。グリフィンドールにだって、純血の魔法使いはいる。もう、やだ。
七年語り – PHILOSOPHER’S STONE