七年語り – PHILOSOPHER’S STONE
19 開かない
夢の中でダリルは真暗い室に一人でいる。扉が近くにあるのは見えずとも分かっていたが、その扉に鍵が掛かっているのも理解していた。またこの夢だ。扉を開ける必要はないとダリルは思った。どうせ開くはずはないし、開けようと躍起になる必要もない。例の血を裏切る者達がやってきて自分を罵ったあと首を絞められれば目が覚める。そろそろ慣れたって良い頃に決まっていた。だからダリルは焦らず思考を連ねていて、なのに扉の取っ手を掴んでいた。固くて回らないノブをダリルは回そうとしている。ここに居てはいけないと思った。何がいけないのかダリルには分からない。どうせ夢だ。そのうち覚める。そりゃ確かに見ていて楽しくはない――それでも、こんなに焦る必要など何処にもない。落ち着いてダリル、すぐに目が覚めるわ。そんなに焦ることはないのよ。ダリルは遂に扉をドンドン叩きだした。「開けて!!」叫ぶ。「開けて!!」「助けて!」細い喉は痛み、舌が鉄の味を覚える。ダリルは取り乱していた。扉の隙間から赤いものが見える。気味が悪いと思うよりも恐ろしかった。扉が開けばそれと対峙せねばならないにも関わらず、しかしここに一人でいたくなかった。
ここから出して。助けて。出して、この扉を開けて……開けて!
もう一度強く思った時、ダリルは眩しいものを感じた。朝、否それにしては柔らかすぎる光だった。
体がだるく、思考が鈍い。自分を包みこんでいるシーツはパリッと固くて、ダリルは今自分がどこにいるかを悟った。医務室だった。
ダリルは夢のなかの恐怖とは別の理由で泣きだした。自分が如何してここに居るかよりももっと大事なことがダリルの胸を締め付ける。今日はハリーの出る試合がある日だった。ハリーの初試合――手紙に何て書こうか、あんなに楽しみにしていたのに!
季節の変わり目には決まって熱を出すダリルだったが、ここ最近の健康を思うに大丈夫だと高を括っていたのである。
実際二カ月近くも寝込まずにいられたのはダリルにとって初の快挙だった。
しかし知らず知らず体に無理を押していたのか、尤も無理をしていることは自覚していたがハリーの試合を見るためにはあと一日我慢すればいいと頑張っていたのだ。なのにダリルは変身術の授業中に体中がかっと熱くなって、そこから記憶がない。
「……踏んだり蹴ったりだわ」
熱い吐息を絡ませながらダリルは嘆いた。
ハロウィーンの夜から寂しいという気持ちは増すばかりで、ダリルはクィレルの居室からも遠ざかっていた。ハリーからの返信もあれっきりない。少し世界から距離を置けばそれだけで元通りの孤独がダリルを待っていた。
医務室はガランとしていて、ベッド脇の机にクィディッチの試合で怪我人が出るでしょうから席を開けますという旨のメモがあった。
ダリルの他に寝込んでいる生徒はいない。そりゃ勿論そうだろう。誰がこんな素晴らしい日に寝込んだりして、時間を浪費するだろうか。
レディすら傍らにいなかった。まあマダム・ポンフリーが消毒していないものを患者の傍に置くはずもないだろう。
病身のせいなのか、はたまたハリーの初試合を見逃した虚しさからなのか、堪らなく寂しかった。
前に寝込んだ時はルシウスが傍についていてくれた。そう思うとダリルの目から涙が溢れた。例え今家にいたとして、グリフィンドール寮に入った私をお父様は抱きしめてくれるのかしら。きっと抱きしめてくれないだろう。
枕に顔を押しつけてダリルはしくしくと泣き出した。うっかり怪我をした誰かが医務室に来たり、忘れ物をしたマダム・ポンフリーが戻ってきたらと思うと大きな声で泣くことは出来なかった。間もなくダリルはその選択が正しかったのだと実感する。
医務室の中を誰かが歩く靴音が聞こえた。シャッとダリルのベッドの周囲に巡らされているカーテンが開く、泣いているのも忘れてダリルはぎょっと顔をあげ、カーテンを開けた人のほうを見やった。
「お、お父様……?」
「温室育ちのお前がこんな粗末なところにいて、よくも二カ月も寝込まなかったものだ」ルシウスは呆れたようにぼやいた。
幻覚かと思ったが、幾ら幻覚でもルシウスの持っている杖の細工までは再現してくれないだろう。
ルシウスは後ろ手でカーテンを閉めるや否や娘のもとへ近寄り、頬の涙の跡が痛々しい娘を抱きしめた。「理事会でホグワーツへ来たら、お前が寝込んでいると言うから寄ってみれば――」ルシウスはダリルの涙を指で拭った。「まさか赤子のように泣いているとはな」
そう言いながら、ルシウスはベッドの端に腰かけた。「寝台が私の学生時代の時より粗末になった」文句も忘れない。
ダリルはなんと言って良いかわからなかった。何しろ熱で思考は鈍っていたし、まだ自分を抱きしめている父親が幻覚ではないという保証はないからだ。双子の悪戯かもしれない。しかし彼らはクィディッチの試合に出ているはずだ。
おそるおそるルシウスの頬に指を添える。
「お父様」二度三度言葉を探し、「ク、クリスマス休暇は、まだです」そんな訳のわからない台詞が飛び出た。
「お前は私が一人で泣いている娘を置いて帰ってしまうような父親だと思っているのか?」
ぼろぼろと涙が零れた。
「わ、わ、わたし」全くクィレル教授みたいな喋り方をしているわとダリルは思った。「わたし、スリザリンに入らなかったわ」
恐れていた通り、ルシウスは眉を顰めた。
「あのオンボロ帽子については今も文句をつけてきたところだ……そろそろ新しいのを見繕う必要がある」
ダリルは「入らなかったわ」と言ったつもりでいたが、ルシウスには「入れなかったわ」と聞こえたらしい。ダリルはルシウスの“決めつけ”に気づいてはいたが、今は父親に批難されたくなくて、黙ってその勘違いに気付かなかったふりをした。
そこから数分脱線、もといホグワーツの教育・伝統の腐敗具合を呪う話が続いたが、それが終わりさえすれば目の前に居るのは夏の頃と何一つ変わりのない父親の姿だった。ダリルはこれが幻覚ではないと確かめるようにルシウスに思い切り抱きついた。
「お父様、来て下さって有り難う」
「何、私も愛娘に会いたかっただけだ」
ルシウスは華奢なダリルの体を抱きしめて、痩せたなと思った。
本来今日は如何してもホグワーツに来なくてはならない理由はなかった。
元よりルシウスはダンブルドアとは反りが合わないし、例え理事会があったとしても余程大きな問題がある時しか来ない。そんなルシウスであるからして、ホグワーツに来たのは最初から娘を見舞うためであった。第一こんな日にダンブルドアが黙って校長室に収まっているはずもなく、ルシウスは職員室に残っている教員へダンブルドア宛ての手紙を渡してから真っ直ぐ医務室へとやってきた。
それで来てみれば声を押し殺して泣いている娘がいたのである。いじらしいとルシウスは思った。
「お父様、少し苦しいわ」
「まさか。お前が枝のように痩せてしまったから、そう感じるだけだろう」そうぼやきながらルシウスは娘を抱きしめる腕を緩めた。
「あら、じゃあお父様に前買って頂いたピンクのドレスローブも着れるでしょうね」
ダリルは笑って父親の心配を取りあわない。第一そんなものを着れるようでは困るとルシウスは思った。ダリルが九つの時に買ったドレスを着て自分の前に現れたとすれば、ルシウスは有無を言わせず彼女を退学させ、家へ……安全な温室に閉じ込めるだろう。
本当にもう少し痩せたら入ってしまいそうなのが、恐ろしい。
「今年のクリスマスパーティには、あんなドレスよりももっと綺麗なものを仕立てよう」
ダリルが眉尻を下げた。
「お父様、私が一体幾つ着たことのないドレスを持っていると思って?」
「我が家の姫君には世界一美しいドレスを着せなければな」
ルシウスがダリルの頬に口づけを落とした。
「お前の美しさに釣り合うものでなければ、ドレスが不憫というものだ」
ダリルが微笑んだ。
実際ダリルは誰かの寵愛を受けるに相応しく美しかった。十一歳の今でさえこうなのだから、あと五年後には一体如何なっているものか先が思いやられる。彼女がにっこり笑うだけで誰もが全てを差し出すだろう。全くマルフォイ家の娘に相応しい美しさだ。
ルシウスは満足そうにダリルの頬を撫ぜる。
こんなに美しい娘が――自分の可愛がっている娘がグリフィンドール寮に組み分けられたというだけで馬鹿にされて良いはずもない。
ルシウスの脳裏を二通の手紙が過る。一通はマクゴナガル教授からのもので、もう一通はフリントからの物だった。
普段はマクゴナガル教授のことをダンブルドアの腰ぎんちゃくと毛嫌いするルシウスだったが、その手紙は差出人が気に食わないことを差し引いても素晴らしいものだった。マクゴナガル教授の手紙にはダリルがスクイブではない旨、ホグワーツの(グリフィンドール寮に属するという文字はすっかり読み飛ばした)生徒であることはれっきとした事実である旨、今までにダリルが何か病気か怪我を負ったことはないか問う旨が記されており、それまでダリルの事で思い悩んでいたルシウスだったがすっかり悩みは消えた。
ホグワーツの副校長がそう言っている以上誰もダリルをスクイブなどとは嗤えないだろう。それに――これが一番大事なことではあるが、ダリルはルシウスの愛娘であり、宝物のように大事にしてきたことは皆の知るところにある。
勿論可愛がってることとは無関係に醜聞とならぬよう閉じ込めていたのだが、それも今は良い方向に勘違いされている。
それを嗤う輩がいるというのは随分とルシウスの機嫌を損ねた。ホグワーツ校内でなら自分の目が届かないと思って――スリザリン寮生達は自分よりも息子の機嫌のほうを気にしているらしい。フリントからの手紙を思い出してルシウスは顔を歪めた。
「お父様?」
ダリルが不安そうに首を傾げた。
はっと我に返り、微笑んで、娘を安心させる。
「そろそろ眠ったほうが良いだろう。クリスマス休暇までには治しておいて欲しいものだ」
「明日には治ります」
「今までで一番長く寝込んだのは二年前の、二か月間だったな」
ルシウスが悪戯っぽく口にすると、ダリルは口を噤んだ。反論する材料が見つからないのか、ダリルは「もう、知らない!」と負け台詞を口走るだけだった。つんとそっぽを向いたダリルが、ルシウスの手を振り払って布団の中に潜り込む。
「それでは私は帰るとしよう」
そう立ちあがった瞬間、ダリルの手がルシウスのローブを掴んだ。
振り向けば、相変わらず繭のように丸くした布団の内に籠っているものの、腕だけがそこから伸びていた。
もぞもぞと布団が動く。お父様と、小さくダリルの声がくぐもった。
「お父様……もう少し、帰っては嫌」
もう少しだけ、ダリルの傍にいて下さい……。子猫のような甘えを口にする娘に、ルシウスは寝台に腰を落ち着けた。布団のなかに潜り込ませた手で、自分と同じ色の髪を梳く。頬を擽ると、華奢な笑い声が布目から漏れ聞こえる。
ナルシッサには散々どやされたが、この娘のためなら子供同士の喧嘩に割り込むのも恥ではないとルシウスは思った。
ルシウスが娘の見舞いにホグワーツを訪れたことはすぐに広まるだろう。
そうなればダリルを除け者にするのが如何に愚かしいか、スリザリン生達は気付くに違いない。ルシウスは娘がスリザリンに組み分けられなかったことを恥じてはいないし、現マルフォイ家当主はドラコではなくてルシウスなのだと思い出させる必要がある。
息子が当主になるまであと幾年かかるだろう。勿論お膳立てはするつもりだったし、マルフォイの名に恥じぬ魔法使いになってくれるよう手は尽くすつもりだったが、それとダリルのことは無関係だ。
ダリルはルシウスの地位を脅かさない分息子以上に可愛いのである。スクイブではないと知れれば一層可愛く思えるのだった。
グリフィンドール寮生とも慣れ合っていないようだし、そろそろ子猫を買ってやっても良いかなとルシウスは考えた。
その次の日からダリルの元にスリザリン寮生からの見舞いが多く届くようになった。
前日の空虚なベッドサイドはどこへ消えたのかと思うほどだったが、しかしダリルの胸の奥には寂しさが残っていた。
七年語り – PHILOSOPHER’S STONE