七年語りPHILOSOPHER’S STONE
02 眠るマリオネット

 

 ましろい布の海原へポトンと落とされた絵の具のように小さく、果敢無げな少女へ手を伸ばした。伸ばした手で、その頬をなぜる。
 骨ばった掌にまどろみを邪魔されたダリルは銀の睫毛で縁取られた瞼を重そうに開き、眉根を寄せた。唇は何か言いたげにかすか動いたが、ルシウス・マルフォイの耳に届くことはなかった。熱い吐息だけが唇に添えられた彼の指を包む。

 どこで病気なぞ拾ってくるのかは甚だ不思議であったが、ルシウスはもう娘がどうして寝込んでいるのかなど考えない。娘が寝込むのはいつものことだった。それに、そう幾度も繰り返せば自ずと原因も分かるだろうに、全く改善されないということはつまり“そういうこと”だった。故にルシウスは何を考えるでもなく、これからしなければならないことだけを脳内で反芻した。

「上半身を起こしなさい」
 ルシウスはダリルの頬を撫ぜていた手をパッと離し、ナイトテーブルの上に置いておいたメジャーを手に取る。
「……はい」
 返された相槌は憂鬱そうな、殆どため息といっていい重苦しさに満ちていた。

 ダリルの不機嫌そうな態度は風邪を引いているからなのだろうとルシウスは考えたが、それは体の不調のせいだけではなかった。
 まだホグワーツへの入学までは日があるのに、なにも自分が寝込んでいる時にダイアゴン横丁へ学用品を買いに行かなくてもいいのではないか。ダリルの反抗的な――といっても精々が全ての所作をのろくする程度だ――態度はそれが原因だった。
 ルシウスも、まさか娘がそれを不満に思っていないはずがなかろうと分かってはいる。しかし如何せんダリルの反抗がささやかすぎたのか、ルシウスは彼女の反抗へ何か感想を漏らすどころか、反抗しているのだと気づいた様子すらなかった。

 ダリルが言いつけ通り体を起こすと、ルシウスは娘の汗ばむ肌に張り付く寝間着を枇杷の皮でも剥ぐように丁寧に脱がし、ローブのための寸法を測り始める。もたもたとした手つきに、こんなことドビーにでも任せればよろしいのにとダリルは考えた。
 元々ルシウスは娘の世話を屋敷僕妖精に任せるのを嫌っていたのだが、年を追う毎に彼自らがダリルの世話を焼く機会は減っていった。今では当たり前の顔をした屋敷僕妖精がダリルに纏わる何もかもを整えてくれる。
 父が何を考えているか常に悟れるわけではなかったが、屋敷僕妖精任せにせず父自らが赴く時は自分の機嫌を取りたい――何か後ろ暗いところがあるということなのだと彼女は知っていた。
 それを、分かっている癖にと父を責めることもできた。しかしダリルは仏頂面を崩して、ルシウスに微笑みかけた。
 父が自分に申し訳ないと思っているのだと理解したなら、父を責める理由はないし、父が自覚していて尚責めるというのは単なる八つ当たりのように思えた。思えた、などではなく真実八つ当たりなのだろう。

 自分がドラコのようにちゃんと魔法を使えさえすればホグワーツへの入学を渋らせることもなかった。風邪をひいているからなどと言い訳をして、本当はまだ皆に自分がスクイブとばれる覚悟がないから、だから自分を置いてダイアゴンへ行くのだという疑念を胸に抱くこともなかった。突き詰めてしまえば自分の不機嫌はその疑念に起因するのだ。誰が悪いわけでもない。父を責めることで、自分の疑念や不安が晴れるわけがない。そうと知っている。そうと分かっていながら一瞬の安寧のために自分をごまかし、父を責めるのは愚かしい行為だ。

「本を読んでいるだけでも熱を出すのだから、外に出したらどれほど寝込むか。考えただけで恐ろしいな」
 すっかり寸法を測り終え、メモを取るルシウスが呟いた。もう片方の手に握られた杖を一振りすると、汗に濡れた寝間着の替えがドレッサーから飛び出した。ふよふよと宙を横切ってきたそれがダリルの膝の上に落ちる。
 ダリルは既に肌蹴ていた寝間着を脱いで、替えの寝間着を頭から被った。
「案外、外で跳ねまわっているほうが体が丈夫になって、寝込まないですむかもしれません」
 火照った頬が襟ぐりから顔を出した。もたもたとおぼつかない手つきでレースのなかへ埋もれるボタンを探る。
「ここ数年は外に出ませんから、余計に不健康になったのに違いないわ」
 父に似た不器用さでボタンを留めながら、ダリルがおどけた台詞を口にした。

「お父様に移したら、元気になるかしら」
 先の傲慢さを詫びるように、誤魔化すように、ダリルは甘えた仕草でルシウスの腕をとり、抱きついてみせる。ルシウスの口元が綻んだ。自分を見上げてほほ笑む娘の額に張り付いた前髪をわきへ退けると、熱い額に冷たい口づけを落とす。
「お前に私の仕事がこなせるなら、喜んで移されよう」
「酷いわ、お父様」ルシウスは、クスクスと鼻にかかるような笑みを漏らす娘を軽く抱きしめた。乱れた布団をかけなおした。
「横になっていなさい」
 いやいやと頭を振る娘の、縋るようにローブの裾を握るその手を解く。
「愛する娘のため風邪ぐらいなら喜んで移されようって言って下さらないと眠れないわ 」
「私に風邪を移したとして、また何かで寝込むだけだ」
 ふんと冷たい響きを気取ろうとしてみせるが、何より大事な末娘の前では普段の冷酷さが蕩けきってしまう。それを知ってか知らずか――知らないだろうとルシウスは考えている。ドラコと違って家督を継ぐ必要のない彼女はルシウスの仕事について欠片ほども関わる理由はなかったし、関わらせた覚えもない。だからなのか、家族以外ともそう関わらない箱入り娘は、その双子の兄と違って父を恐れない。
 ルシウスの恐ろしさを知らないダリルは冷たい声音を父の冗談と思うのか、ルシウスが心から不機嫌でいるときも花のような笑みを瞳に湛えている。そうなると、まあお父様どうなさったのという言葉に怒鳴り返したり、嫌味を言うわけにはいかなかった。ため息とからかいの言葉を一つずつ、それだけでダリルがルシウスの不機嫌を熔かしてくれた。
 ダリルは確かにスクイブかも知れないという、明らかにドラコと比べて劣ったところがあったが、プライドの高さ故に中々自らをさらけ出せないルシウスにとって愛さずにはいられない魅力を持った少女だった。

「お父様、私が眠るまで傍にいて下さる?」
 ダリルがそろりとルシウスの手をとった。その、握っているよりはやんわり重ねているといった感覚でいるダリルの手を強く握る。
 ほっと安堵の色を浮かべる娘をルシウスはまじまじ見詰めた。
「どうしましたの」
「いや――九月になったら四カ月もお前に会えないのかと、思っていた」
「クリスマス休暇まですぐですわ」
「私ともナルシッサとも離れていて、こうして寝込んだ時如何する」
「お父様、そんなに心配なさらないで――」
 ほほ笑んでいたダリルが困ったように顔を曇らせた。
「そんな――そんなに心配されると、ダリルこそお父様やお母様に申し訳なくなって きます」

「そう思わなければならないのは私だ」
 ポツリとため息に絡んだ声音が落ちてきた。ルシウスは右手で額を抑える。
「折角ナルシッサが健康に産んでくれたというのに。その証拠にドラコは健康そのものだ。なのに、私がお前を……」
 言葉尻が掠れた。

 それはダリルがまだ生まれたばかりの話で、ルシウスがヴォルデモートの下で死喰い人として活動していた頃のことだ。
 珍しくもルシウスに出かける用がなく、ナルシッサだけがその姉に呼ばれ、出かけた日のこと。妻から好きでもない育児を託されたルシウスは自宅にある仕事場にて(といってもそれは表向きの仕事である、ウィルトシャーに点在する歴史的魔法建造物管理とは無関係な場所だった)、最初こそは渋々ながらも赤子の世話をしていた。してはいたものの、彼の我慢はほんの一時間で途切れてしまう。自分に育児など無理だろうと薄々感じていたルシウスは当初の予定通り、大事な子供の世話を、屋敷僕妖精に押し付けようとした。
 屋敷僕妖精を呼び出したまではよかった。しかしダリルを抱きとめた屋敷僕妖精が連日言いつけられる主人の無茶な命令で疲弊しきっていたこと、ルシウスの呼び出しに応えられた――丁度何の命令も言いつけられていなかった屋敷僕妖精が彼しかいなかったこと、更にそれに顧みることなくヘトヘトに疲れ切っていた屋敷僕妖精へ娘をポンと預けてしまったのが不運であった。
 疲弊しきっていた屋敷僕妖精は上手く移動魔法を操れず、結果として主人の娘を部屋の隅にあるガラス製の薬品棚へ放り投げてしまったのである。薬品、多分に政府からは民間に使用許可が下りぬような危険な薬品だらけの戸棚へつっこまれたダリルは半年ほど生死の境を彷徨った。無論当の屋敷僕妖精はナルシッサの怒りにより首切りの刑に処されて疾うに亡い。

 ダリルがスクイブではないかという説が浮上するのが遅れた理由も此処にあった。
 幾ら命を取り留め、回復したとしても、ルシウスの薬品棚へは人体に有害なものばかりで――その上政府の許可なしに所持していた薬品もあったため、どこの病院でも良いというわけには行かず、ルシウスと懇意にしている医師へかけるまで相当の時間を要した。蛍光色になった娘を医師にかけれたのは事故が起こってから丸半日後だった。そんな娘に何の障害もないというのは出来すぎているというものだろう。ルシウスは自分の薬品棚がよくよく危険なものだと理解していたし、連れてきた医師とてモグリと言うだけはあるヤブ医者だ。医師としてきちんとした働きが出来るはずもない人間だった。半年意識がないという だけでは、代価が軽すぎるというものだ。

 聞き慣れた話だった。これまで幾度となく語られた話。もう語っても何の意味もない話で、父がダリルの世話を屋敷僕妖精に任せるのを嫌う理由。父がダリルを気に掛ける理由。父がダリルに闇のものを、危険なものを見せない理由。
 ダリルはその話を聞くのが好きではなかった。

 彼女はその理由を、卑屈な父を見るのが嫌なのだろうと捉えている。しかし項垂れるルシウスを見つめるダリルの瞳にはひと欠片の残酷さがあった。今更後悔を繰り返したところで何がどう変わるのだろう? ふとダリルは自身ですら怖くなるほど無垢な疑問を抱いた。
 如何してそんな無駄なことを繰り返すのかしら。それを私に語ったからって、私に何ができるのかしら。
 ダリルは勿論家族を愛している。そして愛されていると感じている。彼らのためなら死んでも構わないとすら思っている。
 しかし時々戸惑いにも似た疑問がダリルのなかに湧いてきた。
 ――どうして皆物事を改善しようとしないのかしら?
 自分ですら何故そんなことを考えてしまうのかはわからなかった。ただこの感情が家族の態度を批判するような、愚かしくも傲慢なものなのだとは自覚していた。自覚し、窘めようとはしているのに、それはダリルが忘れたころ再び心の中の井戸を満たす。
 それを汲んでしまったらいけない、と思った。パタンと蓋をして、何もかもに気づかなかったのだと言い聞かせる。

「お父様、そんなに気をお病みにならないで」
 小首を傾げて苦笑した。さらりと、ダリルの豊かなプラチナ・ブロンドが、金属がこすれあうように冷たい音をたてる。
 何もかも忘れてしまいたかった。
 父親の望む、何も知らない無邪気な自分でいたいと望んだ。

「確かに最近は外に出ませんから、些細なことで体調を崩すかもしれませんわ。でも、前まではドラコと同じようにやんちゃでしたもの」
「そう、思いこんでいただけだ」
 きっぱりと切り捨てられた。
「ドラコと同じ気になって無茶をして、目一杯はしゃいだ翌日に熱を出すのはいつもお前一人。そんなのは健康な状態とは言えん」
「そんなことありません。私たち、とてもそっくりでしたでしょう」
「寝込んだ方がダリル、寝込まないほうがドラコ。見分けるのなぞ易しいことだ」
 そんなに寝込んでいただろうか。単に自分がベッドのなかで茫洋としているのが好きで、寝ていたような気がする。
「お前を一人でホグワーツへやるのが心配でたまらない 」
 改ざんされているのは自分の記憶か、父の記憶か。どちらにせよ父の心配は解けないし、既にダリルもどちらだったか覚えていない。

「ドラコがいますわ」
「あの子がお前の面倒を見切れるとでも?」
 ちょっと眉を顰めて、ルシウスがダリルの顔を覗き込んだ。ダリルの瞳も表情も何一つ揺らがない。
「勿論です」ツンと澄ました響きで返された。
 ドラコとダリルの仲が良くないことに親であるルシウスが気づかないはずもない。だからこそルシウスはそれを踏まえてダリルに問うているのに、ダリルは刹那の躊躇いもなく父の意地悪げな質問に頷いて見せるのだ。
 ルシウスは娘に見せつけるように深いため息を漏らした。

 今更ダリルがホグワーツへ行くのを阻みたいわけではなかった。
 現校長と意見や教育・運営方針が合わないことは多いが、ホグワーツそのものには全幅の信頼を寄せている。まさかスクイブの子供を入学させるようなヘマはするまい。
 今のスリザリンの寮監とは知らぬ仲ではないし、自らも理事を勤める。ホグワーツには知り合いが多い分ダリルの行動如何で自分の問題にもなりえたが、下手にボーバトンなどへ行くよりは、ホグワーツに通うほうがずっと安心かもしれなかった。
 ただ一つ不安なのは――大人の口だしが出来ない、子供達のコミュニティでのダリルの立ち位置だ。
 純血主義の魔法使いの子女・子息達の多くがスリザリンに入り、そして大人になってからも変わらぬ面子で魔法界を回していく。スリザリンという寮において学生生活の失敗はそのまま人生の失敗となりえた。
スリザリン生の多くは元々ホグワーツに入学する前から、パーティや個人的な付き合いで対人関係というものを培っていることが多い。勿論家柄の差というものは燦然と君臨していて、それがそのままコミュニティにおけるピラミッドを形成し、通例では幾ら個人が頑張ってもそのピラミッドをひっくり返すことが叶わない――男子の場合では、だ。
 少女たちのコミュニティではそんな常識は通用しない。大事なのは話術の巧みさ、知恵、魔力、品格。家柄というのも勿論左右されるが、昔ほど確固たるものとして存在しているわけではなかった。寧ろ家柄が良ければよいほど、パイプラインとして利用されかねない。
 ダリルの選択肢は二つだけだった。神輿として飾り立てられ愚かにも利用されるか、コミュニティを支配するか。
 娘の容貌の美しさは、本人のおっとりとした性格には酷く不釣り合いなようにルシウスは思った。神輿として担ぎあげるのに、これほど適した少女もそうはいないだろう。幸いにしてダリルは一人娘ではなかったが、頼りの綱は彼女を嫌いときている。コミュニティを支配――とまでは期待しない。せめてコミュニティを支配する人間のお気に入りにぐらいはなって欲しかった。

「ホグワーツへ行く前に小さなパーティを開こう。ドラコは勿論多くの友人を持っているが、お前も顔見知りを作っておいたほうが良い」
「ただでさえ忙しい時期に、きっと迷惑ですわ」
 ダリルはちょっと小首を傾げると、眉じりを下げた。ダリルの言わんとすることは分かる。九月になれば、もう二度と実家で暮らすこともなかろう。ホグワーツに七年、卒業すればすぐに職業訓練校への入学や就職が待ち構えている。卒業したからといって再び実家で暮らすようになる者は少ないし、何よりホグワーツへの入学は子供時代の終わりの象徴だった。このひと月、子供との別れを惜しむ家庭は多い。それに水を差すようなことはよしてと言いたいのだろう。
 そんな押しの弱いことで如何すると思うが、強く注意することは出来なかった。
「まさか、そんなことがあるはずもない。皆が無事ホグワーツへ入学できた記念だと言えば、喜んで参加してくれるとも」
「お父様ったら」
 冗談めかした父親の言葉に、ダリルの唇が緩んだ。
 その表情を逃すまいとルシウスが言葉を続ける。
「それにクラッブ、ゴイルの息子とはダリルも仲が良かったはずだ」

 三年前まで二人はドラコだけではなく、ダリルとも親しかった。
 今でも時々ドラコに二人のことを聞いているから、こう言えばダリルが自分の取り決めに文句を言うまいとルシウスは確信していた。
 案の定ダリルは頬を上気させ、喜ばしさと戸惑いの狭間で返すべき言葉を探している。
 その表情を満足げに眺めるとルシウスは「至急手配しよう」と言うや否やパチンと指を鳴らした。その場に現れた屋敷僕妖精にパーティに招待する人間をリストアップしておくよう言いつける。悪戯を成功させたような笑みを浮かべる父に、ダリルはほほ笑んだ。
「有難うございます」
「さあ、眠ると良い――ちゃんと休んで、明日までに元気になったら褒美をとらそう」
 布団の上から胸のあたりをたたくと、ダリルはゆっくりと自分譲りの瞳を瞼で覆った。
 何も心配することはない。そう嘯く父の声にダリルは一抹の不安を抱きながら暗く深い眠りの底へと落ちて行った。

 父の言わんとすることも、望んでいることも分かる。そしてそうなることを自分も望んでいたはずだった。父の望む自分でいたい、ドラコと昔のように遊びたい、母の誇れる自分でいたい。今その夢がすべて叶いかけている。
 だというのに、この不安は何なのだろう。
 

眠るマリオネット

 
 


七年語りPHILOSOPHER’S STONE