七年語り – PHILOSOPHER’S STONE
03 女王の条件
私は美しいのかしら――華奢な指で水鏡に触れるとたちまちの内にそれは醜く歪んだ。
嬌声を遥か遠く感じながら、ダリルは池の淵石に腰掛けていた。
人任せに仕立てて貰った制服は彼女にピッタリ馴染んでいたが、膝丈より数インチ短いスカートも、ふらふらと風に掠われるローブも、何もかも随分と御しにくいように思えた。ローブの裾は既に水を含んで重たげに足へ絡んでいる。
ナルシッサからは淑女らしく振る舞いなさいと言われていたものの、こんなに丈の短いスカートでどう振る舞えば母の気にめすのかダリルには全くの謎だった。「歩き方がまるでトロールのよう」だの、「コウモリでさえもっと優雅にローブを翻しますよ」だの、制服を身に纏った姿での立ち居振る舞いとやらをこの数日で散々叩きこまれたというのに、今もまだ自分がトロールより優雅だとは到底思えなかった。
数年ぶりに母から期待され、あれやこれやと口だしされるのは勿論嬉しかった。しかしそれも最初だけの話、ドラコってこんなにガミガミ言われて、よくお上品にしていられるわね――そう逃避しても堪え難いほど母の小言は鬱陶しく付きまとう。
今この中庭へ一人でいるのも、殺気だった母の視線から逃れようと思ってだった。
自分のために父が開いてくれたパーティだとは理解していても、やはりこうした場は気詰まりだった。とはいえダリルのためだなんて口に出しもせず、同年代の子供を持つ一家を招いただけの極々私的なものであったから、他と比較すればまだ随分と気軽なものだ。
次のカウントダウンパーティはうちでやろうかなどと笑う父は、ホグワーツにさえ行けばダリルも社交上手になって帰ってくるとでも考えてるのかもしれない。ルシウスがホグワーツ入学に乗り気になればなるほど九月からの新学期が憂鬱になってきた。ホグワーツに行くから社交上手になるのではなく、元から社交上手だからホグワーツで上手くやっていけるのだと言う事を父は分かっていないのではなかろうか。
美しく華やかな母にも、名家の嫡子として相応しく育てられた父とドラコにも、自分の劣等感は分かるまい。
知っていると思った顔が自分を見つけるや否や初対面の仮面を被るのもダリルの憂鬱に拍車をかけた。
数年前までドラコ達男子に混じって遊ぶダリルを「がさつだわ」「男の子みたい」と散々馬鹿にしていた少女達は、父母に挟まれて黙っているダリルを見つけると薄い笑みを口元に貼付けて「素敵だわ」「お姫様みたい」と口々に誉めそやすのだ。
その――それが表面上のものだったとしても――少女達の態度から、父や母が心配するほど家名が軽んじられているようではないようにダリルは感じた。それとも、単に自分を利用するための嘘なのだろうか? そんなようなものだとは理解していたはずだし、母からもあれこれ注意を受けていたのに、表面上だけの賛辞を快く思えないどころか、寂しいとすら思う自分の幼稚さが恥ずかしかった。昔馴染みのはずの彼女らと、変わってしまった自分のどちらに失望しているのか、ダリルにはわからなかった。
両親は幼い声がダリルを称えるのを聞いてホッとした面持ちでいたが、ダリルはその安堵の表情を見ても憂鬱が晴れなかった。晴れるどころかズシンと頭の上から押さえつけられるような息苦しさを覚えた。
幼馴染達に再会することも、父母に自慢されるのも、和やかなパーティの席に腰かけていることも、全ては自分が望んでいたことではないか。多くを望まない、欲深い人間ではないと思っていたのに、胸の奥で蠢く感情は自分が貪欲な人間であることを赤裸々に語る。何が不安なのか、何を望んでいるのかが不明瞭なのも、あたかも飢えたフェンリル狼のようではしたないと思った。
理想の自分と今の自分のギャップがダリルには耐えがたかった。震える吐息をゆるゆる吐きだして、水鏡を揺らがした。
こんなものだったのかしら。ダリルは揺れる影に呟く。
ホグワーツも、行ってみればこんな風に落胆するような場所なのかしら。お父様の息が掛かっていて、今ここにいる人達とずっと七年間一緒で、ドラコの友人の誰かと恋をして、普通より少し下の成績で卒業して、卒業と同時にお父様の選んだ人と結婚する――ホグワーツも、そんな人生の途中経過に過ぎないのかしら。多分そうなのだろう。平和で幸せな人生だ。誰もがダリルを羨むだろう。
それの何が不満なの? ただの無いものねだりなの? 慣れないことに戸惑っているだけなの?
私は今日に、ホグワーツに何を期待していたの?
わからなかった。
ダリルが今日という日に望んだのは父母の面子を保つこと、ホグワーツに望んだことは家族との軋轢を取り去ることだけだ。望みは叶った。叶うだろう。だというのにこの不安は何なのかしら。水面には憂鬱な表情で顔を曇らせる自分が映っていた。
なんて醜い顔。ダリルは苦笑を洩らした。嘘ばっかり、お姫様のようでも、素敵でもないじゃない。温かな安堵が胸の内に満ちた。
そうよ、何もかも単なるお世辞。誰も私のことなんて見ていない。こんな私を素敵だなんて言うぐらいなのよ、よっぽど私のことが如何でも良いんだわ。だから私がフェンリル狼よりずっと醜くても、誰も気にしないに違いない。これから変えて行けば良い。今は誰も見ていなくていい、これからきちんと私を見た人が、まるでフェンリル狼のように醜いのねと優しく笑ってくれるだろう。
これから、これからなのよ。何も不安に思わないで良いわ。
大丈夫、少なくとも面影が残るほどには、別に誰も何も変わっていなかったじゃない。不安そうに自分を覗き込む自分へ言い聞かせる。
「私、上手くやっていけるわね?」
――勿論よ、ダリル。
遥か彼方のものであったはずの嬌声が大きくなったのにぱしゃと波紋を広げて自分の影を掻き消した。
ああ、やっと見つけたわダリルという呼びかけに振り向く。玄関の側にある回廊の入口から少女の群れが近づいてきていた。その中にキラキラ光る髪色を見つける。片割れはもうとっくに見慣れてしまった不服そうな容貌を崩さず、パンジーに引きずられながらこちらへ向かっていた。その不機嫌の理由は、間違いなく自分の下へ行かねばならないということだろう。そうと分かっていて、彼を快く迎えてやらねばならないのが苦痛だった。今日という日に幾つ嘘をついただろうか、彼の前でまた空々しい笑みを浮かべねばならないのかと思うとこの場で池に身投げしてしまいたかった。尤も池の深さは一メートルもなく、身投げしたところで無意味な騒ぎになるだけだろう。
皆を迎えるためにダリルはすくと重い腰を持ち上げた。
「ごめんなさい、あまりに良い天気だったものだから」やんわり微笑む。
「それなら私達も誘ってくれなきゃ!」
パンジー・パーキンソンの言葉に「そうよ」とダリルをからかうような相槌がいくつもあがった。既にダリルは少女たちのコミュニティの一員として組み込まれているらしく、彼女たちは善意からか、はたまた悪意からかダリルに団体行動を強制したがった。特にパンジーはダリルをいたくお気に召したのか、実の妹へするようにダリルの世話を焼きたがったし、自分の所有物だと念押しするようにダリルの容姿を褒めた。昔から皆の中心にいることが多い勝ち気な少女だったが、今では名実共にコミュニティの女王として君臨しているようだった。昨日、パンジーには特別親切になさいと釘を刺した母の言葉の意味がよくわかる。パンジーを味方につければもう社交下手だからと困ったことになりはしなさそうだった。パンジーはその場の機転が利いたし、話題に限りがなく、皆の感情に聡かった。美しいものが好きで、少し早熟で、敵と判断した者へは冷たいが仲間と見なした者へは優しい――スリザリン女学生の典型らしい性格をしている。
「お母様と楽しげに洋服の話をしていたでしょう。パンジーったらまるでお母様の実の娘みたいだったわ」
おっとり返すと、パンジーはダリルの言葉に満足したらしかった。そんなことないわという謙遜、ダリルとナルシッサが如何に綺麗か、如何に似ているかという賛美の言葉が降り注ぐ。パンジーは確かにコミュニティの女王で、この場においての支配者にもなりえたが、何故か――きちんと譲れているかは別として、あたかも供物のように場の支配権をダリルに譲りたがった。
父親はダリルに無邪気な少女であることを求める。母親はダリルにマルフォイ家の娘として相応しい態度を求める。そのどちらも満たしてやりたいとダリルは思っている。パンジーは自分に何を求めているのだろう。そして自分はそれを満たしたいと思っているのか。
ダリルはパンジーの言動の意図を測りかねていた。というよりは考えるのを拒絶しているのに近いのだろう。劣等感や自責の念、罪悪感に幾度となく打ちのめされ、ダリルの思考回路は既にショートしていた。
ぼんやりと皆を眺めていると、ドラコが腹立たしげに何かを催促するように自分を見ているのに気付いた。それを考えることなく、ただドラコの機嫌を損ねたくない一心で虚ろに紡ぐ。
「日差しが強いわね、中に入って冷えたパンチでも飲みましょうか」
ハッと強い羞恥を感じたのはそれを口にした直後だった。他人に促されるまま、場を仕切るような台詞を口にしたことが何故かとても屈辱だった。胸の内で熱く滾る感情を、ぎゅっと強く手のひらを握ることで堪える。
堪らなく惨めだと思った。この場に置いて誰が一番の発言力を持っているかは明らかなのに、無理にドラコと番いにされるようにコミュニティの女王へ仕立て上げられて、誰が嬉しいだろう。パンジーの引き立て役にされているようにも感じた。こうして、上に立つことを強要されることで、自分がパンジーほどのリーダーシップがないことが露わになるように思った。
「気を使わないで、私たち貴女のお気に入りの場所を知りたいわ」
パンジーが勝ち誇った響きで笑った。ドラコの反応を伺う元気はダリルに残っていない。
「まあ」
もう如何でも良い。
からからに乾いた喉を唾液で潤す。
「嬉しいわ――私、女の子の友達が出来たの、あなたたちがはじめてなの」
如何でも良いわ。
「どうか仲良くしてくださいね」
どうでもいい。
中庭は別段気に入りの場所というわけではなかったが、ダリルは口から出まかせに自分が如何に中庭を好いているか語った。それを嘘だと知っているドラコもそれを正そうとはしなかった。池の横へ植わっている大樹の木陰へ輪になって座っての雑談はダリルの神経を休めるほどではないにしろ表向きは和やかに進んでいった。
「ダリルったら、日にあたると一層肌が白いのね」焼けないなんて羨ましいわとダフネ・グリーングラスがため息をついた。私ったらすぐ焼けてしまうのと悲しげに言う彼女の肌も透き通るほどに白く、それがお世辞であることは見え透いていた。
「滅多に外へ出ないだけだ」
ありがとうと無難な礼を返そうとしたのを、やっとパンジーから解放されて、輪の少し外れに座っていたドラコが吐き捨てるように呟いた。先の言葉を嘘と気付かせかねない台詞にぎょっとしたダリルがドラコを見やると、ふいと視線を外される。今度は如何して自分を見ていたのか――また何か失態をやらかしていたのかとダリルは冷や汗をかく。
幸いにして誰もドラコの発言を疑問に思わなかったようで、突っ込んで聞かれることはなかった。それとも、元から皆この場の空気さえ保てれば嘘だろうと何だろうと気にしないだけなのだろうか。恐らくは後者なのだろう。
「じゃあつまり、外を箒で飛び回っていればダリルの頬もあなたみたいに青白くなるのね?」
パンジーのおどけた言葉にどっと笑い声が弾けた。
今日一日見ただけでも彼女が話術に優れていることは明らかだった。話術というよりは、場の空気を察するアンテナが高性能だと言ったほうが正しいかもしれない。ダリルもそう空気を丸きり気にしないではないが、行き詰った場の空気を如何したものかと考えあぐねて黙り込んでしまうようでは到底話し上手とは言えない。それに比べれば、場の空気をあっという間に自分の思う方向へ運ぶことが出来るパンジーは流石だった。ドラコの不機嫌はパンジーに振られたクィディッチの話題に集中することで緩和したようだった。
七年語り – PHILOSOPHER’S STONE