七年語り – PHILOSOPHER’S STONE
06 王族の証は胸に飼う蛇
井戸を塞ぐ板の隙間からゴポリと零れる。その中を満たすものが自分の抱く不安に結びついているのだと理解すると、ダリルはもう戸惑わなかった。この中で上手くやっていくことが両親を安堵させ、ドラコとやり直すための切っ掛けを与えてくれるに違いない。
ドラコと一緒にいるためなら本当は林檎も庭も空もいらなかった。
屈辱も隷属も、利用されるでも構わない。嘘もつこう。同じことをドラコも体験してきたのだろうから。
ダリルは未だにドラコと同一であることが自分の救いになるのだと信じていた。否、そう信じることで――何かを得るために屈服しているのだと思う事でしか微笑むことが出来なかったのだ。ドラコだって嘘をつくことに慣れたわ、どうせ皆嘘をついているのよ。私がそれに心を痛める必要なんてどこにあるのかしら? そう開き直ってしまえば後は難しいことではない。既にパンジーへ対抗しようという気はなかったし、ダリルはただ今の地位を保てさえすればそれ以上は望まない。余程のポカさえしなければ、家柄が下の彼女らがダリルに刃向かうわけがなかった。そんな風に家柄を笠に着る自分へも、平然と嘘をつく自分へも反吐が出そうだったが、ドラコだって自分と同じなのだという意識が、ドラコをも否定するのかという疑問がダリルの背筋をしゃんとさせてくれた。
ドラコと同じところへ立つの。ホグワーツへ行くの。やり直すのよ。そのためなら何もかも利用しなければならない。
そう思ってすぐ変えられるなら結構なことだ。
喉が渇いたでしょうから魔女かぼちゃジュースでも貰ってくるわと強引に失礼してきたダリルは厨房近くの廊下を歩いていた。
勿論「屋敷僕に持ってこさせればいいわ」とか「貴女にそんなことさせられないわ」と騒がれたが、「私もお母様のように貴女たちを持て成したいのよ、駄目かしら? それに大事な客人を持て成すときは自分が給仕をするものよ」と言えばもう誰も文句は言わなかった。とはいえ言うや否やその場から走り去ってしまったため、文句を言っても聞こえなかったというほうが正しいかもしれない。
走るのも久しぶりだった。昔は随分と走るのが得意で、箒へ乗るドラコにも遅れず付いていけたものだ。なのに今はほんの十数メートルを駆けただけで息があがってしまう。深く吸えない空気でようよう肺を満たすとダリルはため息をついた。それが子女として相応しい姿かはさておき、逃げてきたとはいえ結局魔女かぼちゃジュースを持って戻らなければならない。
寧ろこうして一度逃げてしまえば、戻った時一層気が重いのではないか? 頭では分かっていても中々賢い振る舞いの出来ない自分が恨めしい――なんて思っている癖に、戻るのが遅れた言い訳を頭の中で考えている自分がいた。
いい加減諦めて屋敷僕妖精達に魔女かぼちゃジュースを貰おう。そして彼らにでも運ばせれば、そう格好の悪いことにはならないはずだ。――と覚悟を決めた瞬間、向こうから何処か見慣れた人影が二つ近づいてきた。
談笑していてダリルに気付かないのか、彼らがダリルの存在を視認したのは最後の曲がり角を素通りした直後だった。ぎょっと目を見開いた二人が慌てて視線を逸らすが、ユーターンして逃げるのも可笑しいと観念したのだろう、逃げはしなかった。
多分素知らぬふりをして厨房に入ってしまえば、ガチャリと取っ手を鳴らせば二人はほっと安堵して何事もなかったように厨房の前を通りすがるのだろう。例え彼らも厨房に来る予定だったとしても、通りすがるだろう。
ダリルはそっと取っ手から手を離した。そして一歩、二歩、ゆっくり彼らに歩み寄る。
ピタリ二人の前に立ってみれば三年の長さを思い知らざるを得ない。それでも二人には自分のことを覚えていて欲しいと思った。
「ビンセントにグレゴリーね?」
断定的な響きで問うた。
「あー……うん」
もごもごと応えたクラッブがゴイルを見遣るが、ゴイルも困ったように肩を竦めるだけだった。
それでも応えてくれたことが嬉しくて、ダリルは無邪気に笑って見せる。
「やっぱり! 貴方達ったら全然変わっていないのね、すぐに分かったわ」
「ウン……」
ゴイルのぼやけた語尾にダリルの容貌が凍った。
「私よ、ダリル。まさか忘れてたわけはないわね?」
やや厳しい声音で念押しじみた台詞をたたき付けると二人が怯む。
「あぁ、うん、久しぶり」
「そうだね。君も変わって……ア――ない」
まるで肉食獣に目をつけられた草食獣だ。二人してバチバチとアイコンタクトを取り合うが、この場をどう切り抜けるべきか一向に浮かばないらしい。二人はただうめき声に似たうわごとを繰り返すのみだった。
「私たち、よく一緒に遊んだわ――木のぼりも、かくれんぼも、鬼ごっこも」
ダリルの言葉もうわごとじみて抜け殻のように力無い。
何もかもよと失望しきった声で呟く。
「……あなた達には負けなかった」
かつて一緒に遊んだ相手に冷たくあしらわれている事も、彼らにこんな態度を取らせる理由が自分の双子の兄だということも、何もかもが切ない。自分の決意なぞ無駄なものなのだと、所詮何も変わりはしないと突きつけられた気持ちになった。
泣いたらもっと惨めになる。泣いてはいけない、どうせ慰めてくれる人なぞいやしない。でもそう窘めて涙が止まるぐらいなら最初からこんな泣くような事態に陥っていないだろう。
涙がこぼれてしまうと思った。目頭がじんと熱くなった、
「照れているんだろ。幼馴染だったって、久しぶりに会った相手がこんなに綺麗になってちゃ仕方ない」
その瞬間、肩に置かれた手へ吃驚したことで、頭に籠っていた熱が冷めた。ダリルは潤んだブルーグレイの瞳を見開く。相対している二人の様子を伺うと、その視線が自分の頭二つ分――いや三つだろうか、遥かなる高みへ向けられている割に声は然程低くもない。
誰だろうかと訝しみながら振り向くとスリザリンカラーのネクタイが見えた。
今日招かれた者の多くは自分達と同年代で、自分達より上の学年のものというと数人程度しかいなかったはずだが、ダリルはその数人すら覚えていなかった。故に顎をぐいと持ち上げると、率直な言葉をこぼした。
「何方ですか」
同じスリザリンとはいえ自分とは無関係な人間だ。これが女子の先輩だったならもう少し謙った言葉を選んだだろうが、男子の先輩ならダリルとの縁はそうないだろう。気が立っていたダリルは今日のうっ憤を込めるように冷たい声音を絞り出した。
そもそもいつから自分達の話を聞いていたのかと思えば純粋に不快だった。如何に相手がそれを望んでいなかろうとダリルにとっては数年ぶりの再会だったのだ。
「俺はマーカス、マーカス・フリント」
フリントは露骨に不機嫌を隠さないダリルへひょいと肩を竦めてから名乗った。
名乗られてもやはり誰かは分からなかったので「初めまして」と形式上の挨拶だけ済ます。多分にルシウスの友人の息子か何かなのだろうが、フリント何某へ振りまいていられるほど、愛想に余裕があるわけではない。
「何か私に用ですか」さっさとどこかへ行ってしまえという響きを込めて性急に問うた。
「ああ、うん」
フリントはダリルの不機嫌を分かっているはずなのに、全く気にしていないようだった。なんて図太い人かしらとダリルは思う。
二人の前で泣かないで済んだのは助かったが、話に割って入られたのは気に食わないし、とっとと一人になって泣きたかった。今日一日で蓄積された苛立ちが唇から溢れそうになる。そんなことはしてはいけないという理性が、この人がさっさと何処かへ行ってくれないからという苛立ちに揺るがされる。ともすれば駄々っ子のようにフリントへ八つ当たりさえしてしまいかねなかった。
「親父達が君を連れてこいって煩くてさ」
今ここで気絶してしまいたい。ダリルは心からそう望んだ。
中庭から逃げた罰なのだろうか。広間へ行けばきっとまた“マリウス・ブラック”がダリルを待っているだろうし、不機嫌なドラコと何かとセット扱いされるだろう。それに、魔法の話題が出るたびに両親が狼狽する様を見るはめになる――悪夢だわ。
本当に頭がくらくらしてきたので、上手いこと気絶出来るかもしれないと甘い期待を抱く。しかし気絶なぞすればまた面倒くさいことになるのは見え透いていた。ダリルの為になる選択肢はフリントに連れられて広間に行く、その一択だけである。
でも、でもとささやかな抵抗が口をつく。
「私、パンジー達に魔女かぼちゃジュースを持ってくるわねと約束をしていて、中庭で待っているのよ」
この際彼女たちに交じって薄っぺらいお世辞の押収をしているほうがずっとマシだ。だがフリントは目を見開いた。
「何故? 君がそんなことする必要なんてないって――おい」
「アー……何?」
「ダリルの代わりに中庭に運んで、戻れなくなったって言っとけ」
立ち去るタイミングも計れずぼさっとつったっていた二人へフリントは高圧的に命じた。
なんて人なのかしらとダリルは思ったが、先まで自分がパンジー達へしていたことと何の違いがあるのかしらと思えば口を開けなかった。ダリルが笠に着たのは家柄という、ダリル自身が築いたものでなかったから自ら口にしようとしなかっただけで、そう考えればまだ年齢という、一応は自分で築いたものを笠に着ているだけのフリントのほうがずっとマシかもしれない。
「じゃ、行こう」
自然に差し出された手へ、ダリルは己の手のひらを重ねる。
父ともドラコとも違う、どこか生々しいまでに骨ばっていて、所々タコのある手のひらの感触が自分の肌へ沁みこむとぞっとした。
「制服を着て並んでると、本当によく出来たひと組の人形みたいだからな」
「有難うございます」
ダリルの戸惑いも素知らぬ風にフリントは笑っている。
それへ笑みを浮かべ返さねばと思うのに、頬は頑なまでにそれを拒否した。
「さっきまで、君の片割れにクィディッチの話をせがまれていた」
広間へ向かいながらの会話は弾まなかったが、人が好いのか、それとも単にダリルの返事なと求めていないだけなのか、フリントはペラペラとよく喋った。ダリルは虚ろは面持ちで相槌だけを返す。このままフリントと会話を続けているのと広間へつくのとどちらがマシか等と無駄なことを考えて、フリントの話す内容は右の耳から左の耳へ突き抜けていった。
時折、ドラコに纏わる事だけは鼓膜に引っかかったけれど、それを覚えていたからってなんになるだろう。
階段を上り、迎賓棟へ続く渡り廊下から差し込む光が目に眩い。外はこんなに明るいのに、何故自分だけがこんなに沈んだ気持ちでいるのか不思議になる。人工的な光に慣れた目が太陽の明るさにくらんだ。
「クィディッチは好きか? 俺はスリザリンのクィディッチチームのキャプテンをしているんだが、君がクィディッチに興味があるなら、」
話が途切れたと認識すると同時に、フリントの腕が己の腰に回されているのに気付いた。渡り廊下の入口にある段差に躓いたのだろう。ダリルが転びかけたのをフリントが支えてくれたらしかった。そうでなければ、出会って一日と経たない十一歳の少女を抱きすくめるに相応しい理由などどこにもないだろう。ぼーっとしているダリルへ、フリントは誇らしそうな笑みを浮かべた。
頭がクラクラする。嫌悪か、疲労か、驚きか、そのどれも正しいような気がした。
「ごめんなさい」兎に角何か言わなければとダリルはぼんやり呟く。
「君は――するほうじゃないようだ」
ダリルを抱きかかえたままでフリントがにやりと笑った。
相手の意図することを悟るのに一拍の時間を要したが、先の発言を思い出すとカッと顔が赤くなった。
「上手く箒に乗れたなら……」
魔力があったなら。スクイブでさえなければ。ドラコと何もかもが一緒だったら。
唇が震える。思い切り頬を叩いてやりたかった。勝手に何もできない女なのだと決めつけられて、とても屈辱だった。それでも今彼を叩いて何がどうなると言うの。結局そんなことをして、馬鹿を見るのは私なのよ。
ゴクリと唾を嚥下させ、ダリルは強張った笑みを浮かべた。上手くやると決めたではないのと、ドラコの顔を思い出した。
「ドラコはとても上手なのに、私は全然駄目なんです。上手く箒に乗れたなら、絶対クィディッチの選手を目指したわ」
「そのほうが君らしい」
間髪いれず帰ってきた言葉はどういう意味だと、じっとフリントを見つめる。
「女の子なんだ、箒に上手く乗れないぐらい気にすることはないさ」
ああ、やはりそう決めつけられているのね。ダリルの落胆など全く気付かないようで、フリントは笑っている。
「今度、俺と一緒に箒に乗ろう。君は俺にしっかり掴まっているだけで良い」
その言葉にダリルはぼうとフリントを見上げた。
「俺なら君を背負って木のぼりするぐらいは朝飯前だしね」
――私を背負って?
ダリルはフリントの胸板を押すと、自分の足で立ち上がった。何の埃も付いていないローブを手で軽く払う。
「まあ、ありがとう」
にっこり微笑むとフリントも満更ではないらしかった。
今度は自分からフリントの手のひらをとり、握る。さあ行きましょうと促せばフリントも再び歩き出した。広間はもうすぐだ。
――私が出来なくても他人にさせれば良いのかしら?
「迷惑をかけると思いますが、如何かホグワーツではよろしくお願いしますね」ポツリと呟いた。
「俺が世話をするまでもなく、皆が君の世話をしたがるだろうな」
ほら呼んでるとフリントが開いた扉の向こうにはダリルを見て頬を緩める沢山の大人達の姿があった。
ダリルは美しかったし、何よりもマルフォイ家の当主であるルシウスに溺愛されているのは一目瞭然だった。純血主義の家の多くはマルフォイ家と縁戚関係を結ぶことを望んでいる。ダリルと釣り合う年頃の息子を持つ大人達は競うようにダリルを誉めちぎった。フリントの父親はダリルを連れて戻ってきた息子に満足そうな笑みを浮かべると、息子に手をひかれて自分の下へやってきたダリルへ話しかける。
ドラコとセットにして楽しみたいのだとダリルは考えていたが、今やドラコは遠く離れ、息子を持つ大人達がダリルを囲んでいた。
ダリルと同年代の男の子達こそ近寄ってこないものの、フリントのように数歳年上の男子生徒達は彼女をちやほやした。
無論一目惚れ――というのではないだろう。今はただ可愛い妹分、見目と家柄の良い年下の少女に懐かれることで自分の価値を上げたいのだという、それだけ。それでもこの人たちは私の気を惹きたいのだわとダリルは自覚した。そして、彼らを上手いこと利用すればパンジーが幾ら努力しようと自分に勝てはしないに違いないと考えた。所詮女の価値はどれ程価値のある男を捕まえられたかだ。
何もパンジーと競う必要はない。少女たちのコミュニティで女王になれなかったからといって、嘆くことはないではないか。
ダリルは何も映していない瞳を細めて微笑んだ。
私は知っている。マルフォイの家名が、お父様の影響がどれほど強いか――だから、私、上手くやるわ。
お父様とお母様に迷惑をかけないよう、きっと上手くやるわ。
でも、それが私の望み?
七年語り – PHILOSOPHER’S STONE