七年語り – PHILOSOPHER’S STONE
07 肋骨の持ち主
『スリザリンに相応しく思慮深い淑女となりなさい』
黒檀製の大きな書斎机から漂う芳香は快く、幼い頃はよく入り浸った。母からは「お父様の仕事を邪魔するのじゃありません」と注意されたものの、当の父はこの書斎机を気に入るとは目が高い子だとダリルが書斎に来るのを咎めたりはしなかった。
なのに、入りづらいと感じ始めたのはいつからだったろうか。父の居ぬ間に地下牢へ行ったことがバレて、叱られた時からかもしれない。ルシウスはダリルを叱るときにその場で叱ったりはしなかった。几帳面な父は叱る要点を羊皮紙に纏めてからここへ呼びつけるのが常だった。普段はナルシッサがダリルの粗相を叱ってもルシウスが仲裁したり、甘い顔をするのだが、真剣に叱ることが無いわけでもない。そうやって叱られる頻度が増えるにつれダリルは自然と書斎を避けるようになってしまった。とはいえそこに呼ばれる頻度はドラコに遠く及ばない。父の書斎へ近づかない、近づくことを拒む。今となってはそれがドラコとダリルの数少ない共通点だった。
故に先日、父から書斎へ来るよう久々に言付けられた理由もそう碌なものではないとは分かっていたのだが――父親がそうと自覚していない分いつもよりずっと性質が悪いとダリルは思っていた。書斎を出たところで運悪くドラコと鉢合わせてしまったのも憂鬱だった。何とかやり過ごそうとしても、あのパーティの日以来何でもないことを装うとしても冷静に振舞うことが出来なかった。それでドラコの機嫌を損ねてしまうのは分かりきっていたので、ダリルは自分の間の悪さを恨んだ。滅多に父の書斎付近へ寄り付かないドラコが、何故こんな時に限っているのだろう。ダリルは既に如何すればドラコの不機嫌が解けるのか全く分からなくなっていた。
スクイブでないとさえ証明出来ればドラコもきっと自分を許してくれる。血を裏切るものでないとさえ分かってくれれば元に戻れる――事は簡単であると愚かに信じ切っていたひと月前の自分に現状を教えてやりたかった。そして何もかも諦めてしまえと言ってしまいたかった。
下手に期待するから、少し歩み寄ってみるから余計に諦めがたくなる。ここまで来て今更と、先を願ってしまう。それすら辛かった。
今まで心のよりどころにしていた父親が急に自分へ求めていたものを変えたのもダリルの負担となって心に重く伸し掛かる。上手く立ち回るわと決意はしてみても、戸惑いにまで目を瞑ることは出来ない。何もかもが不安だった。
父親もそれを理解――しているのだろうか? 出来れば悟っていて欲しくないと思ったが、寂しいときはこれを心の慰みにしなさいとペットを与えてくれたことをかんがみれば、多分にそこそこは理解しているに違いない。ホグワーツに進学するにあたり今までのように甘えたな態度を父が許すはずはないと思っていたが、だからといって父の愛情が変わるわけではないだろう。戸惑いの理由は、父の態度の変化とは無関係だった。問題はダリルがその、父が与えてくれたペットを心の慰めに出来る気がしないという一点だ。
そしてあの聡い父がそのことに気づかぬはずはなかろうという、それがダリルを戸惑わせた。
スリザリンに相応しく、マルフォイ家に相応しく、この蛇の良い飼い主として、何もかもがダリルの意志を無視した押し付けだった。
勿論父がそう望むのなら、それを満たせるよう努力したい――したい、と。
でも私、やっぱり、この蛇のことなんて愛せないわ。
父親が贈ってくれた黒蛇をダリルは如何しても愛しいとか、可愛らしいとは思えなかった。寧ろおぞましいとすら思っていた。光沢のある黒い鱗が蠢く様はグロテスクだったし、硬い表層と無防備な腹の感触はアンバランスで気味が悪い。こちらを見つめる赤い瞳には親しげな光が灯りそうもない。その蛇は赤い瞳でダリルをじっと見つめるだけで、感情の起伏はまるきり見受けられなかった。
蛇が自分に懐く可能性は万に一つもなさそうであるが、しかし蛇はダリルの体にピタリと巻き付いていたがった。腕で大人しくしていてくれればまだ許せるものを、もぞもぞと自分の体を這いずる感触は許しがたいほどの嫌悪感を植え付けた。
お父様からの贈り物でさえなければ、こんなもの窓から投げ捨ててしまうのに。頑なな表情で、それでも献身的に蛇の世話を焼くダリルをルシウスは満足げに見ていた。それは娘が自分の贈り物を大事にすることを喜ぶ父の表情というより、獣が自分に従順であるか如何かを見極める調教師のものと言ったほうが相応しい。
ダリルは当然父が純血主義であることも、マグルを嫌っていることも知っている。それでいてダリルは父の意見を積極的に肯定出来ないのだ。元々ネガティブな話題は苦手なものであったが、自分が父母の嫌う人々より劣っているかもしれないと気づいてからはそれが一層顕著になった。そしてホグワーツからの手紙が届いてひと月、ダリルも薄々は予感している。
自分は――もし今からちゃんとした魔法使いになったとして、マグル出身の魔法使いを穢れた血だと言い切れるのだろうか?
娘が感じていることを父であるルシウスが見過ごすわけはない。ルシウスはダリルの考えを全て塗りつぶす気なのだ。ダリルの考えを、思想を、何もかも制限する気でいる――自分の父に対する愛情を逆手にとって。そうと気づいたことがダリルを戸惑わせた。
今まで自分の前で優しかった父、死喰い人であることを知っても憎めなかった父、そんな父を愛するからには自分もスリザリンのなかに溶け込める。そう信じていた。信じてきた。しかしダリルは悟ってしまった。自分は父が死喰い人である事実を許容してきたのではない、それを現実として認めてこなかっただけなのだと。その証拠に今ルシウスは今ダリルの知らない表情で自分を試しているではないか。これこそが父親がスリザリンたる所以なのだ。そうと理解すればダリルは足元が消えていく浮遊感を味わった。
私がこの十一年間見てきたものはなんなのだろうか。何もかもが疑わしく、何もかもが覚束ない。それを誤魔化そう、忘れようと思えば一層父から贈られた蛇が疎ましかった。自分より小さく、たった三十数センチの蛇がとてつもなく巨大な化け物のように思えた。
父の前でだけ可愛がっているふりをして、あとはずっとケージに閉じ込める日々だった。
名前もすぐには付ける気にならなかった。何の親しみもない、いっそ捨ててしまいたいとすら思うものに如何して名前をつけられただろう。名前はどうしたのだという父の声に急かされたダリルはその黒蛇にレディ・ウィルトシャーという名前をつけた。父には自分の故郷の美しさに相応しい貴婦人のような蛇だから、などと言ったが、実際はとっつきにくくお高く止まった様子が由来だった。ウィルトシャーの貴婦人、生まれた場所だけが同じの、住んでいるところだけが同じなだけの他人。そうだったならどんなに良かったろう。
レディが雌か雄かはわからなかったのでルシウスはどちらにでもとれる名前にしたらと勧めた。だがダリルは名前を変えたりはしなかった。雄の蛇が自分の体の上を這いまわっているのだと思うと、父からの贈り物であろうと投げ捨ててしまいたくなるに違いない。
そんな主人の態度が不満なのか、日に日にレディの視線は冷たくなるようだった。
自分を嫌うなら嫌うで気ままに振舞えば良いものを、まるで命綱に縋るように自分の体を締めるレディが不気味だった。乱暴に扱うことはないものの、責めるような視線で自分を睨むレディに「あなただって――もっと優しい子がよかったでしょうけど、私だって本当は猫がほしかったのよ」と言い訳混じりの言葉をぶつけるのはしょっちゅうだ。私ではない、私ではないわ。レディの赤い目で見つめられると気が狂いそうなほどに気持ちが沈んだ。そしてそんな風に思う自分にすら苛立ち、失望していった。
如何してこんなことになってしまったのと考えれば考えるほど碌に眠ることもできず、食事をとる元気も出ず、体の不調がまた不安を呼ぶ。パーティの日から、レディを贈られてからそんな無限ループを繰り返していた。夢すらダリルを追い詰めた。
夢の中でダリルは真暗い室に一人でいる。扉が近くにあるのは見えずとも分かっていたが、その扉に鍵が掛かっているのも理解していた。如何すればいいのかと悩んでいる間に室のなかに人の気配が増えている。気づけばダリルは多くの人に囲まれており、彼ら――マグル生まれの魔法使い達を携えたマリウス・ブラックやアンドロメダ・ブラック、シリウス・ブラックがじいと彼女を見つめているのだ。
魔法ひとつ碌に使えない癖によくもあんな事を言えるものだ、恥を知るがいい愚か者、役立たず、血を裏切る者め。激しく責めなじりながら彼らはダリルの周りをグルグルと歩く。その速度が上がる度に彼らの口から溢れる罵りも早口になっていき、真っ黒い輪が出来る頃にはそれはもう言葉ではなく悲鳴やうめき声になってしまう。逃げたいと思っても、逃げることは出来なかった。
やがてピタリと動きを止めた黒い輪から腕が生え、ダリルの首をきつく締める。瞬間黒い輪は姿を消し、目の前には自分と同じ顔をした少女が佇み、彼女がダリルの顔を覗き込んでいるのだ。ギリギリと憎しみの籠る手のひらで、ダリルの首を折らんばかりに握りしめながら、美しい微笑みを湛えてダリルを見つめている。そして「うそつき」と細い吐息の余韻を残して耳朶に囁くのだった。
そこで夢は終わる。これは夢なのだと分かっても、彼女の言葉を聞かぬ限り目覚めることは出来なかった。
汗びっしょりで飛び起きると、ダリルの首元にしがみついているのは彼女の手のひらではなくレディだった。こんな蛇がいるからあんな夢を見るのだと思っても、当然捨てることは叶わない。鍵つきのケージに入れて眠っても、目覚めれば何故か蛇は首元にいるのだった。
父が特別なものだと渡してくれるからには普通の蛇ではなかろうが、鍵の掛かったままでいるケージから如何出たのだろうと考えると、どこか気味が悪かった。悪夢を見るたびに増やした鍵はもう九個にも及んでいる。そのどれもが正常に機能していて、レディが脱走を図った形跡はどこにも残っていなかった。これがダリルとレディの関係を決定的なものにした。悪魔だわ、この蛇。
ダリルはもう蛇に対して、自分を取り繕おうとしなかった。この蛇が嫌いなのだとダリルははっきり確信した。
父に見つからないようどこかへ捨ててしまおうと決意してから数日が経っているが、如何しても捨てることは出来なかった。深夜にそっと自分の部屋を抜け出しては玄関ホールと自室を往復する日々。「こんな蛇、お父様からの贈り物だったって捨てて当然」「でも、そうしたらお父様は如何お思いになるかしら」「勝手にどこかへ行ってしまった。そう言えば気を悪くなんてしないわ」「お父様はスリザリンやマルフォイ家と同列にこの蛇を並べていたもの、捨てるなんて出来ない」「別の蛇をお願いすれば済むこと、気にする必要なんてないわ」「その蛇だってレディと大差ないわ、バカなことを考えるのはやめにして部屋にもどって眠るのよ」「またあの夢を見に? レディに首を絞められながら? ――それは、それは、随分と楽しそうだこと」「スリザリンに行くのよ、ホグワーツへ行くの、ドラコと仲直りするの、バカなことをやめて」グルグルと思考が回った。今もそうだ。明日はいよいよホグワーツへと行く日だというのに何も決まっていない。
腕に巻きつくレディはシューシューと舌を出し入れして、自分を見上げている。やはり捨てなければならない。赤い瞳とかちあったダリルがそう何度目かの決意をして玄関ホールへと降り立った時、踊り場から声が降ってきた。
「こんな時間に何をしているんだ?」
「ドラコ」
驚いた声音に抑揚がない。ダリルはのっぺらとした響きで声の主を呼んだ。
ドラコもダリルと同じくナイトローブを羽織り、いつ寝ても良いような姿でいる。だと言うのに何故こんな所にいるのか。恐らくは明日への興奮で眠れずにいたところを物音に部屋を出て、邸を彷徨っている自分をみつけたのだろう。
「興奮してしまって、眠れないのよ」
推測するや否や、ダリルは無難な言い訳を口に含んで見せた。パーティの日以来ダリルは嘘をつくのが上手くなった。いや元々嘘をつくのなんて、そんなことに上手いも下手もない。単にかつてのダリルには嘘を付くことへの躊躇いがあっただけなのだ。
「ドラコこそ、何を?」
そう微笑むダリルの目の下には濃いクマがある。
一日やそこらで出来たものではないと誰にでも分かっただろう。無論ドラコにそれが分からないはずがない。
「あ――眠れなくて、少し箒にでも乗ろうかと」
筋の通った言い訳とは到底思えなかったが、ダリルはあらそうと数拍の間を置いてから遠い目で頷いた。
沈黙が満ちる。それを気まずく思う余裕もないのだろう、ダリルは変わらぬ顔色で俯いていた。
パーティの日以来ダリルの様子は目に見えて可笑しかった。部屋から出ないことは勿論、食事を取らないことも、レディのケージに大量の鍵を取り付けていること、口数が一層減ったこと、異常は多かったが最たるものは毎夜繰り返される深夜徘徊だった。
邸が寝静まると、嫌っているはずのレディを連れて、部屋と玄関ホールを何往復もする様子は母の言うような「女の子に特融のちょっとしたナーバス」で片づけられるものではない。屋敷僕妖精からの報告にそう返す母へ、ドラコはそう思った。
マーカス・フリントやパンジー・パーキンソンから届く手紙への返信には「再会を楽しみにしています、愛を込めて」という決まり文句が綴られていたが、ナルシッサに部屋から引きずり出されたダリルが羽ペンを握っているときの表情は「楽しみ」という感情からかけ離れたものだったし、ぼんやりと俯いて文字だけを追う瞳には一かけらの愛情も籠っていないようだったとドラコは記憶している。
ここ一週間のダリルは万事が万事そんな調子だった。たまに感情らしきものが浮かぶとしたらそれはレディを見ているときだけで、それすら嫌悪という恐れや憎悪に似た、決して明るいものではなかった。
穏やかで誠実な愛らしい妹――その表情も感情も今までずっと自分だけのものだったはずだ。ドラコはそう心中に呟く。
笑っているだけで何もかも許されてきた、何もできない妹。ドラコはその甘えた態度が嫌いだった。愛されるのが当然で、大事にされるのが当然の傲慢な妹。彼女が穏やかな時間を過ごす間ドラコはどれだけ厳しく躾けられただろう。彼女がまっすぐな分、どれだけ嘘をつく羽目になっただろう。自分に与えるべき愛情まで全てダリルに注いで、ドラコがどれほどルシウスの笑顔を欲したことか。妬みも不安も重責も嘘も全てはドラコのものだった。だから、ホグワーツに行くことで、今まで自分だけにかけられてきた重圧が妹の上にも置かれるならば、いい気味だと思わなかったわけではない。寧ろ当然のようにそう思った。思い知ればいいとすら思った。
愚かなダリル、こうなることぐらい分からなかったのだろうか。ホグワーツへ行けば衆目に触れる機会が増える。そうしたら父母がダリル本人よりマルフォイの家名を気にすることぐらい、分からなかったのか。考えが及ばなかったのか。今まで大事にされてきたのは偏に家名を傷つける可能性が少ないからだと、そのことに気づかなかったのかと思う。気づかなかっただろう、この妹は傲慢だから。
自分の浅はかさが招いたことなのに、自分一人辛そうにしてみせる妹に苛立った。自分が選んだ癖にと罵りたくなる気持ちを静めたのは、決してダリルのせいでも、ドラコの心境に変化があったわけでもなかった。
ここ数日でやつれた頬は蝋のように白い。いつもならそんなダリルを過剰に心配し、保護してきたはずのルシウスですらダリルを突き放しているようだった。無論ホグワーツに行くのだから、もう何でもかんでもルシウスが守ってやるというわけにはいかない。しかしホグワーツへの入学が決まったことで何もかもが解決したかのように、急にダリル任せにしてしまう二人の態度はどこか不思議だった。
ドラコは既にマルフォイの家名を背負うことに慣れているが、最初からそうだったわけではない。ダリルが家に閉じこもっている間、父母からひとつひとつ教えられ、やっと身についた習慣だ。だというのに、この数年は家族以外の人とも触れないでいたダリルに自分と同じものを求めるのか。父母の態度の変化は分からないでもない。寧ろドラコには痛いほど理解できた。ダリルに自分の手を取らせたいのだ。
自分たちに従順になるように、自分たちの顔色だけを伺うように、「ほら私たちがいないと、困るでしょう」とダリルに突き付けたいのだ。今までは邸がダリルの鳥かごだった。でも、もうそこに縛り付けることは出来ない。だから心を縛るしかない。
家を、血を、自分たちを裏切るなと教え込んでいる。裏切ったら今よりもっと辛くなるのだと教え込んで、従順を誓わせるのだろう。
ダリルが自分で考える必要はない。ただ自分たちの考えに鷹揚に頷いているだけで彼女は幸福を約束される。揺らぐことのない牢獄に繋がれる幸福な囚人になれる。そこに風は吹かぬし光も射さぬ、退屈な場所だ。しかしドラコ達が望む安息がそこにはある。
だからルシウスはダリルに甘くしない。今突き放さねば、優しさに胡坐をかいて永久に去ってしまう可能性があった。
手を取れば良いのにと、ドラコは思う。穢れた血を一言馬鹿にするだけで良い。純血は尊いのだと、嘘でも微笑みながら口にすれば良い。それでダリルが望んでいたものは全て手に入るはずだった。優しい父親、自分を誇る母親、仲の良い双子の兄。全てだ。
お前の欲しいもの全て手に入る。だから、手をとってくれと思った。
愚かなダリル、それでも自分たちが望んでいるものが分からないではないだろう。そうでなければこんなに思いつめているわけがない。思いつめる理由など、どこにもないのだ。何も難しいことを望んでいるわけではない、ただ一言でいい。穢れた血。その一言呟くだけでダリルは抱く不安から解放される。ルシウスはそんな蛇を取り上げ、愛らしい子猫を買い与えるだろう。ナルシッサはダリルに取りすがってちゃんとご飯を食べてとスプーンを口のなかへ突っ込むだろう。――ドラコは彼女に林檎を差し出すだろう。庭に変わらず成っていると、箒に乗って林檎の木から、彼女の望むだけもぐだろう。背中さえ合わせることのなかった歳月を、なかったことに出来る。
ただ一言、純血思想へ従う台詞を口にしてくれれば、四年前の続きをはじめられる。
ダリルは虚ろな瞳でどこかを見つめている。
両手はだらんと垂れ下がり、それが自分の手を取る様子は想像すら出来なかった。
植えられた木のごとく動かぬ主を心配してか、レディがスルリと肩口に近寄り、鎌首を擡げる。チロチロと蠢く赤い舌がダリルの首筋をかすめた。ダリルはレディを嫌っていたが、この蛇はこの美しい主人を然程嫌ってはいないとドラコは知っている。
ふうとため息をついた。兎に角、ダリルを私室まで連れて行き、ベッドに押し込む必要があった。明日はホグワーツだ。こんな顔をしていたのでは、周囲になんと言われるものか。そこまで考えて、自然に世間体を気にするようになった自分に複雑な気持ちを抱いた。
それでも少しでも寝させなければ本当にダリルの神経が参ってしまう。ドラコは口を開いた。
「ベッドに」いこう、そう言いかけたのをダリルの悲鳴が遮る。
喉に張り付いた声を破裂させると同時に、ダリルは肩に乗っていたレディを思い切り叩き落とした。パンと大きな衝撃音で平手打ちされ、宙に投げ出されたレディを床に落ちる直前で受け止める。床についた膝が大理石の冷たさ、硬さを事細かに伝えてくれた。
性根の優しい妹が――無論特別蛇が好きというわけではなかったが、幾ら嫌っているとはいえ、まさかこんな乱暴に扱うとは思えなかった。ドラコは目を見開いて、先よりももっと、死後硬直が始まるのではないかと思わせるほど顔色を白くし、微かに震える妹を凝視した。グラリと糸が切れた繰り人形のような自然な動きでペタンと床に崩れ落ちる。
「あ」
戸惑いに怯える視線とかちあった。ドラコの顔とその手の中のレディとを幾度も見比べる。ぱかっと開いた口を慌てて両手で塞いだ。指の間から、抑えきれない嗚咽が漏れる。悲鳴の混じった嗚咽を、普段なら決して自分に見せようとしない涙を溢れさせていた。
嗚咽が途切れがちになっても、涙と震えは止まらない。ダリルは口を塞いでいた手を滑らせると自分の首を押さえた。
「おい」差し出すべきか悩むドラコの腕に暖かなものが絡まる。
「わ、わたし」
縋るようにドラコがドラコの腕を取っていた。自分と同じブルーグレイの瞳は潤み、大粒の涙が次から次へと溢れていた。はあ、と苦しげに幾度も喘ぐ。ガクガクと怯える彼女の動揺が伝わってきた。
「嘘を、ついているわ」
押し殺したものではあったが、その台詞は何よりドラコの心を抉った。
もし今、ダリルに「気にすることはない」とか「そんな下らないことで泣くな」とか、優しくすればダリルは泣き止むだろう。父ならばきっとそのまま言葉巧みにダリルに言わせることが出来る――「穢れた血のことでこんなに思い悩むなんて、本当に馬鹿らしいわ」と。
ドラコは唇を開いてみた。たった一言、優しい台詞をかけるだけでいい。そうすればダリルは泣き止むし、もう二度と自分たちの嫌いなマグル贔屓やマグルを庇ったり、話題を挿げ替えようともしない。こちら側の人間なのだと認めれば劣等感もきっと失せる。ダリルはスクイブではない。自分と一緒にホグワーツへ行く。元から劣等感など感じる必要もなかったのだ。純血の名家に生まれ、やがては美しい魔女へ成長するだろう彼女のどこが誰に劣っているというのか。如何してここまで思いつめるようになってしまったのだろう。
彼女は誰より幸せな少女だったはずだ。そして今も、表向きは何も変わらない。彼女を羨むものは少なくないとドラコは知っている。
スクイブだから、スクイブでさえなくなれば、きちんと魔力を示せたなら――否、ドラコは分かっていたはずだ。
生まれたときからずっと一緒に暮らしてきた片割れ。私たちずっと一緒と口にして止まなかった双子の妹。他の誰もが一人で生まれ死んでいくなか、私たちは二人で生まれて二人で死んでいくのよと断言したダリル。
いつまでも一緒よ、と、その言葉に応えてきたドラコが彼女のことで知らぬことがあるはずがない。嫌になるほど分かっていた。
彼女がスクイブだから悪いのではない。元から有った不安の芽に“スクイブかもしれない”という疑念が水をやってしまっただけなのだと、だから彼女がスクイブでなかろうと何の解決にもならないのだと、ドラコはちゃんと理解している。
この妹は光が好きなのだ。空が好きなのだ。風が好きで、自由を望んでいる。
それを何もかも忘れろと押し付けて、乾涸びていく姿を暗闇に閉じ込めろと言うのだろうか。何も考えるなと、自分たちが好きならそうしろと彼女の愛情を逆手にとって、ひたむきに自分たちを愛してくれる彼女に条件付きの愛情しか与えないのだろうか。
多分、そうだ。
ダリルはドラコの腕に縋りつきながら、ちゃんとした文章になっていない台詞を紡ぎ続けている。
「ホグワーツになんて――私、レディに――嘘を、あんなに良くしてくれる人に――騙してる」
騙してる、騙しているわとうわごとのように呟いていた。それに応えることも、罵ることも、慰めることも出来なかった。
何を言ってもきっと今の妹の重荷になる。口を開けば自分も父のようにダリルの意志を塗りつぶすだろう。
そう思うと相槌すら打てなかった。ただこの妹の傍にいるのが恐ろしかった。
妹は変わっていない。自分をこんなにも必要としている。自信家だった妹。傲慢な妹。愛されていると確証もない癖に信じていた。その隣にいつも居た。どんなに彼女が自分の神経を逆なでするようなことを言っても、彼女は自分が彼女に苛立っていることなんて夢にも見ず、笑ってよドラコと自分を愛することを求める。愛されるのが当然。大事にされるのが当然。父に愛されるために色んなことをしているのにと苛立つ自分に、そんな妹がどんなにか傲慢に見えただろう。でもにっこりと微笑みかけられれば、その傲慢も皮肉も許せた。
彼女が自分からの愛情を疑わないのは彼女が自分を愛していることの確証なのだと知っていた。
それがどんなに眩く見えただろう。嘘や駆け引きを覚えていく自分の目にどんなにか妬ましく映っただろう。
いつまでも一緒だと約束したそれを、叶うはずはないのに、口にしたダリルよりもドラコのほうが強く信じていた。自分が嫌うものを好いている妹が浅はかにも、一緒に行こうと言う。いつまでも一緒よと現実を見ていない夢見がちな言葉を囁く。ドラコがどんなにそれを望んでいたか、信じていたかも知らずに裏切りめいた無邪気さで幾度となく叶わぬ口約束を交わす。
傷つくのはいつもドラコだった。
「ダリル、寝よう」
「首を絞めるの――嘘、レディになんてことを」
いや、だめ、眠れない。涙声で呟くダリルをドラコはぎゅっと抱きしめた。少しだけ自分より小さくなった背を撫ぜる。
愚かで傲慢で残酷で無知で甘ったれの妹、それでもドラコはダリルが好きだった。
「僕と一緒にホグワーツへ行くんだろう。そうしたかったら、寝るんだ」
黒々とそびえる大きな扉を睨みながら呟いた。ダリルの震えがゆっくりと解けていく。ぽすんと自分の胸に頭を預けると、やがて安らかな寝息が聞こえてきた。ドラコはぼんやりと、明日くぐって出ていかねばならない扉を眺める。
「……眠ろう」既に眠っているダリルに囁いた。
きっと、この愚かな妹はグリフィンドールに入る。
愚かで暗いものを嫌う妹はそこで自分と同じように光を好む友人を見つけるに違いなかった。
父も母もドラコも知らない人間と、自分たちが嫌う人間とずっと七年間一緒で、自分の知らない人間と恋をして、純血主義以外の考えやマグル生まれの魔法使いや魔女に触れ、やがて自分たちを裏切って家を出ていくだろう。自分の知らない男に愛を囁くだろう。
生まれたときからずっと一緒よと誓ったことも、へその緒を運命の赤い糸だと嘯いていたのを忘れ、光の中でキラキラと笑うだろう。
ドラコが決して行けない場所で笑うだろう。自分が愛さなくても、誰もが彼女を愛するだろう。
いつかそれを許せる時が来るだろうか。
時が流れればあんなこともあったわ、馬鹿馬鹿しかったわね私たちと、ダリルが自分に微笑むことがあるだろうか。
今はただ眠りたかった。明日になればこの扉の向こうに別離が待っているのかもしれない、それともこの妹が自分だけを選ぶかもしれない。そうしたら全てを水に流そう。暗いものが嫌いな妹のためにありったけのランプを灯そう。
自分を選んでくれたら、そんな自信があったら端から冷たく接することもなかっただろうに、愚かな妹に当てられて、愚かにも答えの見える賭けを選んでしまった。リスクは高い。もしも彼女が自分を選ばなければ父母は自分を責めるだろう。彼女が家名を汚した事実が永久に残るだろう。そして彼女は二度と自分の手をとらないだろう。何もかも捨てて去るだろう――シリウス・ブラックのように、アンドロメダ・ブラックのように、マリウス・ブラックなんかよりずっと酷い別れが待っているだろう。
それでもドラコはダリルに最後のチャンスを与えてしまった。泣きたいのはこちらだとドラコはつくづく思った。
自分が幾度裏切られてきたか、この妹にはわからないのだ。きっと裏切られることになると分かりながら、それでも幾度となくチャンスを与えてしまうその気持ちも、裏切りを忘れることもできず、許すこともできない気持ちの、何も。
何も、何一つ知らない愚かな妹――それなのに、愛しい。
ドラコはダリルがホグワーツへ行くことを、彼女の意志で選べば良いと認めてしまった。
七年語り – PHILOSOPHER’S STONE