七年語り – PHILOSOPHER’S STONE
09 光射す
ドラコを探すことは諦めた。
ダリルはコンパートメントの隅で縮こまりながらため息をついた。どうせホグワーツに着けば会えるだろうと楽観視してはみたけれど、列車の乗客数を考えるとそれも困難かもしれないと不安になってくる。
ホグワーツはダリルの予想以上に大きな学校であるらしかった。
コンパートメント一つとは言わないが、ダリルがこの十一年に会ったことのある人を集めても車両一つ埋められないに違いない。
とはいえそれは魔法使いの子女子息に限って言えば、別に特別なことではないだろう。魔法使いの家に生まれた子供たちは普通魔力の質が安定するまで――その一つの目安とされている十一歳になるまでは学校へ通わない。
無論マグル生まれの子供達であれば学校へも通うから(そして魔力が安定しないが故に度々問題を起こすのだけれど)、そういった子らは別段人の多さに驚かないのだ。しかしながらダリルはマグルのことなど全く知らないため、『私と同じ新入生の皆だってこんなに多くの人がいるところへきたことはないでしょうに、どうして私のように落ち着かないそぶりを見せる子がいないのかしら』と心底疑問に思っていた。
そりゃ二年目ともなればホグワーツの人の多さにも慣れるだろうが、新入生で自分のように人の多さに驚いている子が見当たらないのは可笑しくなかろうか。ダリルは疲弊した思考でそうぼやく。彼女は無知で、愚かな子供なのだ。
ルシウスがそれを望んだから――それとも彼女自身が傷つくのを恐れたからなのか、何故と言うばかりの、現実に向き合おうとはしない夢想家に育った。その優しさがもたらすのは好意だけではない。
甘やかされ、大事大事に育てられたダリルは、誰もが自分と同じであると考えてしまう悪癖があった。その上彼女がそれを何となく自覚しているのも悪癖の一因と言えた。大事に育てられた彼女は悪意で人を傷つけない。
彼女が人を傷つけるのは偏にその純白の善意からであった。ドラコはそれを理由に、彼女を傲慢だと言うのである。
ダリルは言葉ではマグル生まれの人々に深く同情しているようで、単にマグルというものを知らないだけなのだ。彼女はマグル生まれを悪く言えば深く同情するし、マグルもきっと面白いところがあるわとにっこり笑う。しかしそう言ってみたところでマグルのために何もしない。マグルなどこの世に存在しないかのように振舞う姿は、時として面と向かって言われる侮辱よりも人を傷つけるものだ。
そういう意味ではダリルは誰よりも純血一族らしく育てられたかもしれない。
もしもこのままずっとマグル生まれと関わらないでいられたらば、ずっとマルフォイ家のなかに閉じ込めておけたなら、そして彼女が普通の魔女らしく魔法が使えたら、きっと彼女は誰よりも純血一族に相応しい少女になった。家族はそれを望んだろうが、現実は儚い。一昔前ならまだしも近代化したこの時勢に例え血縁の娘であろうと一人の人間を家に幽閉し続けることは無理だった。体面のためにも、財力の関係でも、対人上の関係でも、現実的に考えればダリルを幽閉することなぞ初めから出来なかったのだ。生まれたときからずっと隠匿していたなら兎も角彼女の存在は魔法省に出生登録も済ませているし、幾ら数年公の場に出てこなかったとはいえマルフォイ氏の知人で彼女のことを知らぬものはいない。十一歳にもなって家に閉じ込めておけば、誰もが彼女の欠陥にうすらと気づいただろう。マルフォイ家の娘はホグワーツへ入学することすら出来ない出来そこないなのだと、恥になるだけだ。
その後の事さえ考えなければ、彼女にホグワーツの入学許可証が届いたことはマルフォイ家に良いことだったのである。しかしそれにより彼女はマグル生まれと出会うだろう。自分がマグル生まれのことなど如何でもよいと、純血主義に染まっていることに気づくだろう。自分が夢想家だと気づくだろう。抱く善意が人を傷つけることもあると気づくだろう。やがてダリルは自分の意志で考え、歩くようになる。その時に彼女が何をするかでマルフォイの家名は上がりもするし、下がりもする。
ルシウス氏は彼女がマルフォイの家名を上げてくれるとはとても思っていなかった。
彼女の父が娘に願うのは、このまま何も考えない人形で――無知で愚かな子供から、そのまま、無知で愚かな娘に体だけ成長することだ。だからこそドラコに妹の面倒を見るよう厳しく言っておいたのだが、彼女が無知で愚かな人形であるのを重々承知しているルシウス氏であろうと、今彼女がぼうと一人でいるのを懸念したりはしなかったろう。理由の一端にはルシウス氏の子供染みた意地があるとはいえ、まさか互いに相手を探そうとする意識が斯様に低いとは予想しきれなかったに違いない。
ダリルに限って言えば、彼女は「自分はドラコがいないとまともに人とのコミュニケーションをこなせない」と分かっているので、ホグワーツ特急が動き出してから一時間ほどは彼女なりに片割れを探していた。別にそこまで引っ込み思案というわけではないが、産まれてから十一年、マルフォイ邸の外に出たことがないダリルだ。ホグワーツ特急に乗っただけで大分精神的に疲弊している。今の状況で、先日のパーティのような歓談が出来る自信はなかったし、したいとも思わなかった。だからドラコに、そりゃ彼の不興を買うのは目に見えていたけれど、それでも今はドラコというケーブルを通さなければ上手に人付き合いが出来ないだろうと思っていたのだ。
彼女の誤算は自分が思っている以上に――否“そうだ”と思ってしまったから、余計にそうなっているのかもしれないが、今の彼女には片割れを探すのに要するほどの精神力も残っていなかった。だからして、ダリルは兄を探そうとする意識が低いわけではない。ドラコが妹を探さない理由は知れないが、ここ最近忘れていただけで元より仲の良いわけではない。そういうわけで、ダリルはドラコが自分のことを探していないだろうと決めつけていた。そして冒頭の「ホグワーツにつけば会えるかしら?」という疑念にたどり着くのである。
ダリルの名誉のために弁解しておくと、彼女が「兄を探しているの、プラチナブロンドで高慢ちきそうな男の子を見なかった?」「んー数人見かけたなあ。他に何か、特徴はない?」「将来必ず禿げそうな髪型にしているわ」「ああ、もうちょっと先の車両ですれ違ったと思うよ」「ありがとう」「君は禿げないように気を付けてね(笑)」というささやかなやり取りが出来ないほど、コミュニケーション能力に窮しているわけではない。幾らダリルとて、そのぐらいは出来る。そのぐらいで済めば、の話だ。
彼女はそこそこ見目が良かったし、年若く、あどけない少女であった。十二、十四五の少年少女といえば丁度大人ぶりたい年頃である。可愛らしい年下の少女が困っていれば何とか手助けして先輩として恩に着せたい、そして憧れの満ちた瞳で「先輩ってとっても頼りになるんですね」とでも言ってもらいたいと思うのは、仕方のないものだろう。
『新入生? お兄さんはいくつ?』
『君はどこの寮に入りたい? 僕はハッフルパフなんだけど、寮監の先生もとても優しくて、ステキだよ』
『僕の妹も今年からホグワーツなんだ。きっと君と仲良くなれるんじゃないかな?』
『お兄さんが見つかるまで一緒に探しましょうか。今はさほどでもないけど、結構揺れるのよ。転んだりしたら危ないわ』
『ホグワーツにつくまでここで過ごせばいい。ついたら、きっとお兄さんのほうから探しにくるよ』
どれも親切な申し出だったが、何もできない子供扱いされるのは気づまりだった。無論実際に何もできない子供なのだから、表だって反論するのは相手に失礼だ。ダリルは困ったように微笑んで、何とか全ての申し出を断った。同じようなやり取りがいくつもいくつも続き、最後に訪れたコンパートメントに座っていた男子学生がスリザリンをこき下ろすのを聞いたダリルは、結局ドラコを探すのを諦めたのだ。
彼らがスリザリンを嫌う理由はダリルにとっても尤もだと思えた。だけど、ダリルには彼らしかいなくて、今までもこれからもそうなのだ。だから次に彼らに会うとき、罵られるのは自分なのだろう。そうでなくてはいけないと思い、それがとても嫌で、胸が痛んだ。
ダリルには彼らを罵ることは出来ない。彼らと共に罵ることも出来ない。ただ口を噤み、求められる相槌代わりに曖昧な微笑みを浮かべるしか――そう思う代わりに、ダリルはこう考え始めた。そんな甘えた態度はいつまで許されるのだろう、と。
青く茂った景色、茶に染まる畑、ガラスに反射する空。ふと気づけば水面に映すより淡い輪郭が寄り添っていた。昨日より、一昨日より、比べることは出来ぬほどにいつも通りの鏡像。その昨日も一昨日も今日もいずれ遥かな記憶の泉に沈む。その泉の主人はきっとこの鏡像より遥かに大人びて、今の自分をあどけないと微笑むのだろう。
その大人びた私は辛辣な言葉を笑いながら吐けるようになっているのかしら。
家族に愛される自分でいたければ、そうするほかない。子供で、口を噤んで、曖昧な態度で誤魔化せるのもこれきりだ。
これからはちゃんとスリザリンらしく振舞わなくてはならない。レディを愛しいと心から思えるように、純血らしく、マグルというただそれだけで人を見下せるように――お父様とお母様、ドラコを愛しているのだったら、出来るはずよ。
スリザリンの人々が心優しいことをダリルは知っている。彼らはただ臆病なだけなのだ。無形のものを手離しに信じきれないだけで、失う恐れを知っていて、失うのを恐れるからこそそれを奪う者へ残酷なだけなのだと、そう理解していた。痛いほどに分かるからこそ願う。彼らにとっての“奪う者”にはなりたくないと、強く、恐怖すら伴いつつも願っていた。
次第にそう望むことすら、何を恐れているかも分からなくなるほど“恐怖”はダリルに近しいものとして在った。
ダリルの胸に集う恐怖は安寧だけがある冷たい牢獄にも似ていた。暖かさを求めないものなら、それは酷く居心地のいい塒なのに違いない。ダリルの知る誰もがそこを幸福な場所だと言っていた。だからダリルもそうなのだと思い込もうとしていた。恐怖を伴侶として死んでいくのだと、ダリルは諦めていた。それ以外に道はなく、牢獄のなかに明かりはなく、暗闇のなかでは扉があるのかさえ分からない。
自分で何とかするの。誰にも馬鹿にされたくない。ドラコに嫌われないよう、昔みたく仲良く出来るよう、許して貰えるように頑張るの。
何の益にもならない強迫観念でガチガチになって、普段出来ることさえ出来なくなってしまう。そうなると気持ちが落ち着くまでが困難で、他人の忠告を聞きいれられるようになるまでもかなり掛かって、ぐるぐると丸まる負のスパイラルに呑まれていくのが常だった。
『僕も自分で運べるだなんて楽観視してる内に二回も足に落とした――見てよ、僕の足二倍の大きさに腫れ上がってる』
――でも、あの言葉は、怖くなかった。
ダリルはトランクを持ってくれた少年の朗らかな声を思い出して目を伏せた。胸の内に、陽光が射したような温かさが灯るのを感じる。彼の声も、言葉も、瞳も、仕草も、その全てがダリルには眩しかった。名前を聞けば良かったと、この短い時間でダリルは幾度も思った。
最初はスリザリン生でない子に会ったのが初めてだから、それが物珍しいのだと思っていたが、ホグワーツ特急で出会った全ての人も彼のような人はいなかった。何となく、彼は奇特な人なのだったのだろう。そう気づけば、殊更に名前を聞き損ねた自分が疎ましかった。
出会ってから三時間と経たない相手に、如何してここまで執着するのか彼女自身わからない。
彼と一緒に居たら、扉が見える気がしたのだろうか。こうなるほかないと思っている自分以外になれるのだろうか。夢見てしまった。しかし、その夢は疾うに萎れていた。彼がどこの寮に属することになるかは分からないが、両親やドラコが彼を気に入るとは思えない。
ダリルは瞼を閉じ、軽く頭を振った。大事な人達の反感を買ってまで望む夢ではない――たった一度きり、二言三言ぽっちだ。
レディがシューシューと食事を強請ったのもあってダリルの関心はあの少年から離れた。
「蛇ってチョコレート食べていいのかしら」
犬はダメだって知ってるけど、如何なのかしらね。ダリルは自分の手ずから与えられた蛙チョコを丸呑みするレディにそう呟いた。
すると、蚊の鳴くような大きさで、おどおどとした台詞が鼓膜をゆすった。誰か来たのだろうとダリルは声のしたほうを見る。果たしてそこには、恐らくは自分と同じ年の頃だろう少年がいた。
「急にごめん、ええと」
「な、何でしょう」
こうまで萎縮されるとダリルまでもどかしい気持ちになってしてしまう。しかし不思議と不快感はなかった。
人をイラつかせるようではなく、何と言うか、庇護しなければならない子犬のようで、ふと先ほど自分に親切にしてくれた人たちも自分に対してこんな風に思ったのだろうかと考えた。なるべく力になってやりたいと思わせる風なところが、この少年にはあった。
協力するわという意思を露わに微笑んだダリルに、少年が安堵の表情を浮かべる。“あの”と前置きをひとつ。
「僕のヒキガエ、」そこまで言うと、レディを見てぎょっと目を見開いてしまった。
ぴくぴくとレディの口からはみ出た肢が蠢く。彼がそれをチョコだと理解するまでに時間を要したらしかった。蝋のように白くなった頬が赤く染まる。恥じているらしかった。ダリルも少し恥ずかしくなって、その肌をぽっと赤くした。
「あの……」ダリルがそわそわと落ち着かないように、窓枠を人差し指で叩く。
なんと言えば彼を安心させられるのか――ペットを見失った彼が不憫だと思ったし、こんなに一生懸命探すほど大事にしているペットが、レディに食べられたかもしれないと思ったとき彼はどれほどショックを受けただろう。
先ほど成るべく力になってやりたいと思ったにもかかわらず、レディについてのフォローを入れ忘れた自分に腹だった。彼を安心させるためにも、自分の汚名返上のためにも、何か上手い言葉を紡げればいいのにとダリルは思った。そんな主人の心中などお構いなしで、レディが蛙チョコを強請る。その細く赤い舌をダリルの指に絡んだ。ぞっと肌が粟立ったが、払いのけはしなかった。
「あの、ええと、そう、私の知る限りではヒキガエルを見かけることはなかったと思うわ。それと、この子は私とずっと一緒だったから、」
ダリルがチョコを与えてくれぬようだと見るや、レディは蛙チョコの箱をギリギリと締め付けはじめた。少年はじっとそれを凝視している。ぐしゃりと潰された箱の隙間から、チョコレートで出来た蛙の足がこぼれていた。ダリルの視線は少年とレディの狭間で彷徨っていた。
もう、この場から消え去ってしまいたいほど恥ずかしかった。
「――レディ、この蛇ね。レディには、ヒキガエルを食べる暇はなかったはずよ」結局、こう付け加えずにはいられなかった。「多分ね」
当のレディがあんな調子では疑惑を晴らすも、彼の不安を取り除くも無意味である。
「あ、あー。……そう」
茫然と呟く少年にダリルはもう何も言えなかった。
そしてダリルが意気消沈している間に何事かもごもごとそうぼやくと、彼はコンパートメントを出て行ってしまった。
そういえば蛙をペットにする人も多いし、蛇の天敵は梟ではなかったか? そんなことも忘れ、考えなしにレディを連れてきた自分の浅慮さが憎らしかった。せめてケージにぐらい――そこまで考えて、ダリルは額に手をあてた。
閉じ込めたところで、勝手に出てきてしまうに決まっている。それを思うと嫌な気持ちになった。
確かにドラコの言う通り、この蛇はダリルを嫌っていないらしかった。その証拠にダリルが話しかけると、甘えたように頭を擦り付けてくる。しかしそれはペットの見せる、主人への忠誠心や信頼、愛情とはまた違う気がした。
レディは自分が主人の自尊心を傷つけたのだとは全く思っていないようで、先と変わらぬ様子で蛙チョコに執着している。つとダリルは自分の胸の中に言い知れない憎悪が湧きあがるのを感じた。微かに震える指先でぎゅっと握りこぶしを作る。
「レディ、ちゃんと、綺麗に開けるのよ」深呼吸を絡ませながら呟いた。
レディに潰された箱はチョコにまみれていた。肢をもたぬのだから当然といえば当然だが、蛇には蛙チョコの包みを解くのは難儀であったらしい。レディは赤い瞳をチカチカっと光らせると、まだ封を切っていない蛙チョコを咥えて、ダリルへと差し出した。
ここでそれを受け取らないのは飼い主として冷たいだろう。ペットが望んでいることを、今止める理由はない。受け取って、封を開けて、渡してやればいい。ダリルはじっとその赤い目を見返した。
「そうね、……そうするべきなのでしょうね」
ふいと視線を背けたのはダリルのほうだった。
ダリルは目を合わせぬままぱっと包みを受け取ると、そのままレディの顔も見ずに蛙チョコレートを渡してやった。
レディは黒い鱗に覆われた頭を、ダリルに擦り付けてくる。甘えているというより、自分の言うことを聞いたダリルを褒めているような――そんな恐ろしい錯覚に囚われた。ドラコが言い聞かせてくれたこと、気を取り直して考えたことを顧みても、やはりレディへの嫌悪感を払しょくすることは出来ない。レディに感じる不気味さを“気のせい”や“考え過ぎ”で片づけることは困難なように思った。
不意にこれからの学校生活が不安になる。
心の慰めになってくれるはずのペットは悍ましく、双子の兄とは不仲なまま、スリザリンの女生徒達には溶け込めない。帰る場所もない。ホグワーツでしっかりやっていく必要があった。甘ったれのダリル、そんな自分を如何にかしなければならなかった。そう思うとダリルは床が抜けて、足元から沈んでいくような恐怖を感じる。藁でも良いから何か掴んでしまいたかったが、掴めるものは何もなかった。
自分で何とかしなければならない。ドラコだってそうしているのだから、私に出来ないわけがない。
恐怖に囚われる。潮のようにいつかは引く、そんなたちの悪い発作のようなものだ。目を瞑りじっとしていれば忘れてしまう。今までならそうしてきた。しかし今のダリル瞼の裏にはきらきらと輝く緑の瞳が、太陽のようにちらついていた。
ほうとため息をついてから、ダリルは恐る恐る瞳をあけた。目の前の席には、誰もいない。ドラコも、あの少年も、誰も。
彼といたなら、恐怖は味わなくていいのかしらと、ダリルはそんなことを思った。何か私の知らないものが見えるのかしら。潮の引くのを孤独に待たなくていいのだろうか。良いのだろう。あんなふうに、いつも彼の温かな台詞に笑って――。
耳朶に蘇った少年の声に、頬がかっと熱くなった。僅かな逢瀬を脳裏に繰り返して、少女らしい夢を抱いてしまう。
そんな風にぼうっとしていたから、その気配に気づかなかったのかもしれない。
「あなた、ヒキガエルを見なかった? ネビルのがいなくなったの」
何の前触れもなく降ってきたハッキリした声音にぎょっとした。
驚いた表情でコンパートメントの入口を見やればそこにはふわふわとした栗毛の、物言いたげにちょっと空いた唇から覗く白い歯が賢そうな印象を与える――如何にも優等生然とした少女がいた。その堂々とした立ち居振る舞いがパンジーを想起させ、先のぼうっとだらしなく考え込んでいたところを見られたばつの悪さと相まって、ダリルは彼女を好ましく思わなかった。
彼女の台詞を脳内で噛み砕いていると、彼女の視線がさっとレディに移るのが分かった。
「あら、蛇?」
「え、ええ」
ネビル(彼女の台詞から、さっきの少年がネビルなのだろうと読み取るまでにやや時間が掛かった)との事もあり、この少女もレディをよく思わないだろう――そうと予想した通り、いや予想以上に彼女はキッパリとレディを飼うことへの否定的な意見を口にした。
「変わったペットね。ホグワーツには沢山の梟がいるし、それに蛙を飼ってる人だっているんだから、連れ歩くには適さないと思うわ」
ガツンと鈍器で頭を殴られたような、衝撃を伴った一言だった。
少女はダリルの頭に走った衝撃など素知らぬ顔で、ホグワーツでの蛇飼育について一席を打っている。まるで、ダリルが重度の白痴なのだと言いたげに事細かく説明して“下さる”彼女に、段々とダリルの頭が冷めてきた。彼女がダリルに語る全ては疾うに自分で理解していたことで、何よりも「自分が望んで連れ歩いているわけでもない」のに、「何も知らない癖に」という憤りだった。
「ちょっとしたマナーすら知らない人に、そんなことを説かれるとは思わなかったわ」
コンパートメント内の温度が下がった。
急に刺々しい台詞を発したダリルを、彼女はまじまじと見つめている。そこに恐怖はなく、その勝気さが余計ダリルの怒りに油を注いだ。
「初対面の人間へ挨拶もなしに用件だけ伝えて、それで善意に満ちた対応をしてもらえると思っているのなら、さぞかしご両親は貴女を大事に育てたのでしょうね」
なんて酷い台詞だと自分でも思ったが、嫌な感情はあとからあとから溢れてきた。それを吐きだすようにダリルは彼女を貶すような言葉を紡ぎ続けた。しかし彼女が自分を見失うことは、ダリルの言葉が尽きるまで、終になかった。
彼女はふーと、感心したように長い吐息をついてから、馬鹿馬鹿しいと頭をふった。
「スリザリンが性悪連中の集まりって、本当だったのね」
カッと頬が赤くなる。ここで止めるべきだと――よくもこんなに愚かしいことをしたものだと、自分でも分かっていた。それでも自分なんかよりよほど冷静な対応でいる少女を目の前に、自分らしくもない酷いことを言った罪を誰かに押し付けたいのとでダリルは引っ込みがつかなくなっていた。「私は貴女と同じ新入生よ」思い切り眉を顰めて、どうかこの挑発に乗ってくれるようにと願いながら絞り出す。
くすと彼女が嗤った。
「そんな蛇を侍らせて、冗長な嫌味を言うのがお得意そうだったから、てっきりスリザリンの純血主義さんかと思ったわ」
貴女だって大したものよ。そう思ったけれど、言葉には出来なかった。出来るのは唇をかみしめることだけで、喉を詰まらせるのは後悔の言葉だけだったが、最後のプライドがそれを口にすることを拒んでいた。
ダリルがもう反論できないと見てとるや彼女は踵を返す。
最早本来の目的も達成できそうになく、これ以上ここに居ても無駄と結論付けたらしかった。
「そしたら私は失礼するわ。思索の邪魔をしてごめんなさい。これで、お気に召したかしら」
勝ち誇った口調で告げ、コンパートメントから出ていきかけた彼女の上着の裾を掴む。ここにきて初めて、彼女が感情を露わに驚いた表情でダリルを振り返っていた。
彼女が口を開くより先にダリルが急いた響きで言葉を紡いだ。
「私はダリル・マルフォイよ。貴女はなんて名前なの」
開きかけた口をぱくと閉じ、開け、閉じ、何度かそれを繰り返し、ゆるゆると名乗った。
「ハーマイオニー……ハーマイオニー・グレンジャー」
「グレンジャー、ミズ・グレンジャーね」
聞いておいて何のリアクションも返さないのは可笑しいだろうと、ダリルがぼやく。途端にハーマイオニーの視線が鋭くなった。
「何か文句でも?」
「え、い、いいえ。ファミリーネームで呼ばれるのはお嫌い?」
あんな態度をとったのだから、嫌われる理由なんて五万とありそうなものだ。しかし何故このタイミングでそんな嫌悪に満ちた視線で射られねばならぬのか理解できなくて、戸惑った。ダリルの困惑が露わになった声音に、彼女の視線がすとんと緩められる。
「いいえ、なんでもないわ」
ふいと視線をそらす、その仕草で気づく。ダリルはドラコほど純血一族の氏に詳しいわけではないが、グレンジャーという氏は未だかつて聞いた覚えがなかった。何よりも先から彼女はずっと純血主義を嫌うような態度を見せている。ハーマイオニーはダリルが彼女の氏からその素性を推し量ろうとしたのではないかと先走ったのだろう。なんだか、知ってはいけないことを知ってしまったような気がした。
「そう。ヒキガエルは見なかったし、この子から目を離しもしなかったわ」ダリルも気まずくなって、彼女が見ているほうとは逆に視線をずらした。向かいの座席にとぐろを巻いていたレディと目が合う。「一体全体如何してヒキガエルなんて探しているの? さっき来た男の子も探していたけれど、ヒキガエルっていうのはそんなに人気のあるペットなのかしら」
「少なくとも貴女のペットより人気があるでしょうね」
ハーマイオニーはそう返してから、「その子がネビルで、私は彼のペットを探す手伝いをしているだけよ」と言い添えた。
彼女は自分をよく知っているのだろうとダリルは思った。自分の頭の回転が速いことを理解していて、ほかの子供達がそうでないことを知っている癖、そのことを忘れがちな彼女は今やっとそれを思い出したに違いない。
どっと疲労が増した。
「そうだったの、お疲れ様……引き留めてごめんなさい。早く見つかると良いわね」
トンネルに入って真暗に染まったガラスを見ていたハーマイオニーがダリルを不思議そうに見つめた。
「貴女って変わった人ね」
は? と咄嗟にハーマイオニーへ戻した視線が重なる。じっとこちらを見つめる瞳にドキンとした。
「私は貴女とお喋りなんてしたくないし、貴女だってそのはずなのに、教科書みたいな会話を続けさせる意図は何なの?」
「きょうかしょ」オウム返しで繰り返す。
「杓子定規ってことよ。貴女はネビルのことも私のこともヒキガエルのことも如何でも良いと思ってるでしょう。なのに何で、そうしなければならないかのようにしたくもない会話を続けるのか少し不思議に思っただけ」
「貴女だって、変わっているわ」
視線はもう逸らされていた。先に外したのはダリルだった。
「私のことを嫌いだって言うなら、嫌味なんて言う必要ないじゃない」
「何故?」
ハーマイオニーはまだダリルをまっすぐ射すくめている。
「嫌いだから嫌いと言うわ。嫌いな相手に対する言葉が辛辣になるのは仕方のないことよ」
それはダリルには理解しがたい言葉の羅列だった。
ちらと腕時計に視線を走らせたハーマイオニーが通路を振り返り見た。
「それじゃあ今度こそ失礼させて頂けますね」
嫌味たらしい響きは依然として残っていたが、随分と丸みを帯びた口調として耳に残った。
今度はもう彼女を引き留めることはなく、ダリルはコンパートメントを出て行こうとする彼女の背を見送る。
「もう少し言葉を慎むほうが、身のためだと思うわ」
負け台詞だった。しかしハーマイオニーよりも純血主義というものを知っているダリルからの有益な忠告といって良かった。
ハーマイオニーが純血一族を快く思わないのは彼女の自由だが、このあけすけな性格ではドラコか、さもなくば純血主義の誰かと要らぬ争いを起こすのが目に見える。それはダリルにとって善意からの台詞だった。
彼女は、誰もが、争うぐらいならば自分を殺すだろうと、そんな価値観をしていると――それ以外のものを知らないのだ。
どんなにダリルに罵られても悠然と余裕を保っていたハーマイオニーの顔が強張る。しかしそれは背後にいるダリルには見えなかった。
ぴたりと歩を止めたハーマイオニーがダリルがきょとんとする。
この時ダリルはハーマイオニーのトラウマを抉ったのだ。それを、彼女はそうとも知らず、ハーマイオニーには背後の彼女が残酷なほどあどけない容貌で小首を傾げているだろうことが分かった。
胸に満ちたものを全て押し殺して、くっとハーマイオニーが笑った。
「貴女、私が大嫌いだったひとにそっくりよ」
ダリルを傷つけたいと願って発したその言葉はちょっとの傷も彼女に負わせることはなく、ハーマイオニー自身もそんなことを言ったところで彼女が如何とも思わないのは分かっていた。そのまま、何か愚かしいことをしてしまう前に彼女はそのコンパートメントを去った。
そしてダリルは、またひとりになった。
「わからないわ」
ひたとダリルは呟いた。じっと見つめる先にはまだ彼女の影が残っているような気がした。
緑の目をした少年が陽光なら、ハーマイオニーは雷のようだと思った。触れた指先が溶けてしまいそうな、そんな衝撃が胸に残っている。
去り際に見せた、微かな動揺の理由がダリルには全く理解できなかった。彼女のような人間が、どうして私なんかに動揺したのだろう。
ああした罵り合いだったけれど、その会話の端々から彼女の賢さが痛いほど伝わってきた。凛として、堂々としていて、歯に衣着せないあの喋り方。一を聞いて十を知るような、あの聡さ。何もかもが羨ましいと思った。自分は劣っているとはっきり感じた。今まで父に愛され、少なからず恵まれた容貌をしていると、誰からも――とは言わないが、少なくともそれなりには価値のある人間だと思ってきた。
このひと月で、ホグワーツに行くと決めてから薄々分かってはいたけれどとダリルは心中でぼやく。
私は虎の威を借りているだけで、お父様やドラコがいなくなってしまえば何の価値もない人間になりさがるのでしょうね。だから私は二人の寵を得ていようとやっきになって、それを失うのが怖いと思っているのに違いない。
どろどろとした本音を明かせば、それは「羨ましい」なんて可愛いものではなく、「妬ましい」という言葉によく似たものだった。
ハーマイオニーのような人間がいるのだと、悲しくなった。羨ましい。妬ましい。自分もそれがほしい。彼女と同じものがほしい。醜い感情が溢れる。ぐっとこらえた言葉の代わりに涙がこぼれた。
自分はなんて価値のない人間なのだろうと、ホグワーツでやっていく自信がまるきりなくなってしまった。
既に緑の目の少年に感じた優しい光はかき消されていた。改めて気づかされた、自分の無価値さがショックだった。
七年語り – PHILOSOPHER’S STONE