七年語り – SPIN OFF
多分、僕と君は恋に落ちる
私は混血の魔法使いだった。
両親はカーナビー・ストリートの喫茶店で働いていた若いマグルと魔法ゲーム・スポーツ部に勤める壮年の魔法使い。
年も境遇もかけ離れていた二人が駆け落ち同然に結ばれたということは、私がごく小さい頃から知らされていた。父は時代遅れでカビの生えた(自分の気に食わない思想を叩きのめす際、彼はこうした表現好んで使った)純血主義に刃向かう形となった婚姻を誇りに思っていて、ちっちゃな男の子が両親の馴れ初め話にウンザリしているとは夢にも思わなかったに違いない。
私は些か陽気にすぎる父を苦手に思っていた。
ウェイトレスを勤めていたとは思えないほど静かな母と、そんな母によく似た私を前に、父だけが毎夜明るかった。
私たちのためだけに設えたようにちっぽけな居間で寛ぎながら、父は私を退屈させることに一生懸命だった。先週の試合でホリヘッド・ハーピーズの選手が見事なトランシルバニア・タックルを決めたとか、職場の誰それがマグルの公衆トイレをコレクションしている――万年逆主席だったオコンネルがついに嫁さんと別居した――魔法省の上層部を純血主義者共が取り仕切ってる――エトセトラ、エトセトラ。
父の口は油を差した歯車のように滑らかで、私のように言葉に詰まって黙り込むとか、吃音とは無縁だった。かといって話上手ということもなく、父のお喋りは聞き手を選ぶ類のものであることが多かった。外界に関心を持たない私にとって、父の話は詰まらなかった。
ケアフィリー・カタパルツのビーターの箒捌きについて熱く語る父の向かいで、私は分厚い百科事典に夢中だった。
実に面白いことがあったと言いたげな父の声音を聞き流して、膝上の重みに意識を沈みこませる。人懐こい父が私の肩を揺する度に「聞いてるよ、パパ」と誤魔化したが、無論私はチャドリー・キャノンズの戦績より時計のメカニズムに強い関心を持っていた。
子供時代の私は母の買い物についていくことさえ稀だった。付き合うべき親戚もない両親の間に生まれた私は、父がドアを使わないこと、料理が趣味の母が大鍋を棚から下ろして使わないことを不思議に思ったりしなかった。母がマグルだとは知っていたが、その呼称が何を括っているか理解したのはホグワーツに入学してからのことだ。私は、魔法族が機械やら電気に関心を持たないものだとは知らなかった。
父は息子がクィディッチに関心を持たないことを酷く残念がったが、その一方で私が“私らしく”在ることを快く思っていた節がある。
一人息子ということも関係したかもしれないが、私が何かマグルの道具を強請ると父はすぐに財布の紐を緩めた。母は「欲しがったものをぽんぽん買い与えるのは教育に悪い」と渋い顔をしたものの、父が「良いじゃあないか」とにっこり笑えばそれっきりだった。
父がマグルの街へ繰り出したのはひとえに“反抗”のためだけであり、彼自身の関心は生涯魔法から外れなかった。サッカーのワールド・カップでイギリスが優勝した時も、父はチャドリー・キャノンズは今季の成績も崖っぷちだと呻いていた。
私の生家の、狭い居間にはテレビが置いてあったし、その天井に吊られているのもランプではなく電球だった。
兎に角魔法族らしさが極端に少ない家で、母が家電製品を増やすと、父はその日中ニコニコとそれらを眺めていた。今思えば、あのひとには自分の意思を縛り続けた祖父母への反抗心と、如何しても魔法界から離れては生きていけない敗北感があったのだと思う。
鉱石ラジオを作る私の向かいで、父は「末はマグルの大学で教授かな」と上機嫌だった。母は、私の短い指がハンダゴテを弄るのを危なっかそうに眺めていた。確か、七歳の夏だったと思う。いっぱいに開け放した窓からは、若さを持て余して彷徨う青年たちのざわめきが微かに流れてくる。イヤホンを片耳にはめると、ニュースキャスターが流星群が一番綺麗に見える時間帯を教えてくれた。
七歳の私は、自分が魔法使いだと自覚してはいなかった。
ホグワーツ魔法魔術学校は父の母校に過ぎず、あの頃両親のどちらも私の就学・進路について真剣に考えてはいなかっただろう。いや、正確には両親のどちらも考えたくなかったのだと思う。私がプライマリースクールに通うか否かで、両親は酷い喧嘩をした。もう何十年も昔のことで途切れとぎれにしか覚えていないが、父が「魔力のある子供をプライマリースクールなんかに通わせられるはずがない」と、妻の“無知”に呆れていたのは今も思い出せる。チクチクと針を動かして、私の靴下を繕いながら、母は潤んだ瞳を俯けた。
私の両親は決して不仲だったわけではない。明らかに父は母にベタ惚れで、一抱えもあるような花束を折々に持ち帰ったものだ。母もまた、父がいつ帰ってきても良いように、いつも暖炉の前のソファにかけていた。食器棚には、父のための沢山の花瓶があった。幼い私の目にも、両親は固く愛し合っているように見えた。そして実際のところ、私を産み育てるほどに愛し合っていたのだと思う。
それでも父は純血至上主義者に育てられたし、母はマグルのなかで暮らしてきた。偶然の確率から出会って愛し合うようになった二人だった。そうした奇跡の前で、何もかもを分かり合えるようになりたいと傲慢を口にできる者が何人いるだろう?
破綻とは僅かな謙虚さが招くものだと、私は思う。
父は自分がマグルの妻を嘲ったことに遅ればせながら気づいたし、母は父の反省を見抜いて責めなかった。
いつからなのか、二人は息子の進路について真剣に語り合うことがなくなった。マグルと魔法使いの間で、如何しても分かり合えないことがある。父は魔力を持って生まれた私がいつかホグワーツに通わなければならないと知っていながら、明確に語ろうとはしなかった。母は、私がマグル社会で暮らしていけないと薄々感づいていながらホグワーツがどういったところなのか知ろうとしなかった。
本質的な問題は父のなかにある、純血主義への反抗心や、決して両親の教えから逃れられない敗北感だっただろう。もしくは母のなかにある、魔法使いの存在をおとぎ話以上に捉えない友人たちへの劣等感だったのかもしれない。
母は自分の友人たちと上手くやれない父と、そんな父を不気味がる友人の間で孤独だった。母方の祖父母は、母が成人する前に亡くなっている。私という子供がいたからか、それとも“恋は盲目”という言葉に則った結果なのか、物心ついた時には母の拠り所は私と父の二人きりだけだった。生粋の魔法使いである父は、母が社会から隔絶されて惨めな気持ちを味わっていることに気づかなかった。
私が頑ななまでに外界を拒んだのは、母への同情もあったのだろう。四六時中母のそばにいる私だけが、母の苦しみを知っていた。
昼、父のいない家はひっそりと薄暗い。
窓以外の光源がない居間で、定位置のソファにすっぽり収まった母はヴォーグを捲る。その傍らで赴くままに暇を潰す私も無口で、私の鉱石ラジオだけが空気を震わせていた。不格好なスピーカーは、大抵父の話より退屈なニュースを流すばかりだったが、ごく稀にビートルズを筆頭に流行りのグループ・サウンズを歌うことがある。午後の気だるい明るさに不釣り合いな音色に、もしくはしっとりと感情豊かな詞に、顔をあげた母が歯も見せずに微笑する。ラジオを見つめる母の視線に憂いが含まれていたのを、今も思い出せる。
今よりもう少し若い頃は、可愛らしいエプロンを締めてデザイナーの卵や、ギターを不器用にかき鳴らすアーティストたちの間を縫うようにしてコーヒーを運んでたわ。うなじが涼しいボブ・スタイルに、大人たちから白い目を向けられるミニスカートを着こなして、ウエストも三インチは細かった。父から贈られたバレッタで長い髪を括った母が、ちらと暖炉に目を向ける。
「パパとママが死んで……ぽっかり空いた穴を埋めてくれたのは、新しいレコードでも、ショーウインドウのなかの洋服でもなかったわ」
幼心に母はどこか影のある女性として記憶されているが、しかし父の隣りでは魔法に掛けられたように幸福そうだった。
間違いなく二人は愛し合っていたし、子供である私のことも同様に愛していた。
私の母親はマグルであり、また生まれついての魔法使いである私はマグル社会で暮らすことが出来ない。
その二つの事実は、私たち家族にとって大した問題ではなかったはずなのだ。私の進学が迫ると、流石の父も息子をホグワーツへ入学させなければならない理由を丁寧に説明した。母は一年の殆どを息子と離れて暮らさざるをえないことに不満を呈していたが、結局は私が魔法使いであることを受け入れてくれた。私が混血の魔法使いであることで生じる問題はどこにも存在しないはずだった。
ホグワーツへの入学を間近に控えた、明るい夜に、私は母にラジオの直し方を教えた。
本当はテレビをつけるか、そうでなくてもソニーのラジオを買ってきたほうが容易に楽しめると私は思ったのだけれど、母は私の作った鉱石ラジオに執着した。幾つ目かに作った鉱石ラジオを分解しながら、私は静電容量と耐電圧について説明した。洗濯機さえ碌々使いこなせない母にラジオの直し方なんて理解できるわけがないと思ったものの、意外にもコイルを巻くのが上手かった。
エナメル線の太さをメモに取る母を、私は「ママ、マグルの大学で教えられるんじゃない?」と茶化した。母は万年筆を休ませると、たっぷりとした哀しみに満ちた瞳を細めて微笑した。「今から大学に通ってたら、教授職に就く頃にはおばあちゃんになっちゃうわね」
母の指が目尻を拭う。ふと、この空っぽの居間で母が一人ヴォーグを捲る姿が見えた気がして黙り込む。私は“彼女”を置いていくのだ。
「……本当にクィリナスは教えるのが上手。とっても、わかりやすいわ」
涙を隠して俯いた母が、再び万年筆を走らせる。キンと、金気臭い頭痛に私も俯いた。後頭部を押さえる。
テーブルと前髪に挟まれた視界のなかで、鋭いペン先が突いたはずのノートは厚みを失っていた。滑らかな罫線も掻き消え、黄色みがかってざらついた紙面に変わる。ペン軸に添えられた指からはあかぎれが失せて、小さな手からは白々とした羽が伸びていた。
彼女のほっそりとした腕が書き終えたノートに肘をつく。ランプの少ない室内で、首元を絞めるネクタイがいやに鮮やかだった。
本当に、分かりやすく纏めてありますね。私、教授の授業好きです。
「……彼女、今なんて?」
傍らで憮然と突っ立っている友人に、私は問いかけた。
友人――バーテミウス・クラウチはフンと鼻を鳴らしてから、石壁に寄りかかった。「有難う、だってさ。うっとりする短さ」バーティがおどけた風に肩を竦めた。「君、お人好し過ぎるよ。幾ら彼女が飛びっきり可愛かったからって、自分で写させれば良かったんだ」
バーティは些か自分の感情に素直すぎる嫌いがあった。それに、一人っ子で溺愛されて育ったがゆえの傲慢さも有していて、付き合いが長くなるにつれ彼の態度が鼻につくようになっていた。引きつった苦笑いを浮かべる私の耳は微かに赤かった。
「写させるったって、返してもらえなきゃ結局僕が困るんじゃあないか。う、写してる間中、一緒にいるわけにもいかないし……」
「君と彼女のどっちかが陸上で生きていけない種類の生き物だったとは初耳だね」
私はこの時十五歳だったと思う。バーティの言うとおり、先ほど一晩掛けて複製したノートをかっ攫っていった女学生は私の初恋のひとだった。彼女は少しばかり頭の軽いところがあったものの、持ち前の美貌から……古臭い表現と笑わないで欲しいが、謂わば“レイブンクローのマドンナ”という奴だった。いつも人垣の中心にいる彼女から話しかけられたとき、私は酷く高揚したものだ。例え彼女が“私自身”ではなく“私のノート”にしか関心がなかったとしても、にっこり可憐な笑みで「お願いよ、クィリナス」と強請られて断れる男はいない。
私は誤魔化すことを諦めて、バーティを置き去りに歩き出した。一歩遅れて、彼もついてくる。
「ガリオン賭けてもいい。試験直前のレポートでは、きっとお前の意見が大勢の支持を受ける……彼女はそういう奴だ。馬鹿な女だよ」
大抵の場合、バーティの予想は正しい。彼は厭世主義者と言っていい気難しさと神経質さを兼ね揃えていて、生けとし生きる女を嫌っていた。彼が貶したことのない女性は母親だけで、また母親に対する愛情の反動か、父親を憎んでいた。彼のなかにあるコンプレックスは、私にも身に覚えがある。私も父よりは母を愛していたし、父に対する反発心を抱いたことも一度や二度ではない。
私は時折彼を疎みながら、それでも五年の歳月を共に過ごした。
勿論新入生だった時、私たちの興味関心は同じ方向に向いていたし、最後の最後まで彼と論議するのは楽しかった。そうしたことを脇によせて考えると、私がバーティの隣りに甘んじているのは、彼の病巣が私のそれより遥かに根深い箇所で疼いているからなのだろう。
バーティは私を見下す様を隠そうとはしなかったが、私も心中において常に彼を下に見ていたように思う。
私は――私の家庭は、彼の家庭ほど病んでいるわけではない。愛情の前には、母がマグルであること、自分が混血の魔法使いであることは大した問題ではないのだ。バーティは両親ともに魔法族だったし、スリザリン生とも親しくしているところを見るに、彼の血筋は“それなりの”純度を保っているに違いなかった。同じ境遇に生まれてさえ上手くいかない夫婦・親子がある事実は、大分私の胸を安らがせた。
今朝の預言者新聞でクラウチ氏の記事が一面を飾ったことを思い出し、私はバーティに対してやや優しい気持ちになった。
バーティが肩を並べやすいよう歩く速さを落とすと、ほどなくして私たちは並びあった。「すまなかったよ、女の子のことなんかでからかってさ」臆することなく見つめてくる視線を鼻先のあたりに感じて、何故なのか私のほうが恥ずかしかった。
「別に構わない。僕は、もう物を動かすための魔法に飽きてるし……カンニングを疑われるのは彼女たちだけだ」
半分は嘘で、半分は本当だった。
彼女は私のレポートを、自分の取り巻きたちにも見せびらかすだろう。それに関する感情は特別湧いてこなかったが、多動性魔法のメカニズムから目を背けるのは些か躊躇われた。勿論フィリットウィック教授は私が誰かのレポートを写すような生徒だとは思わないに違いない。思春期の私にとって、尊敬する教師たちから“他人から利用されている”というレッテルを貼られるのは耐え難い屈辱だった。
バーティは「そうか」といやにひっそり頷いた。彼らしくもない殊勝な態度を返されるたび、ひやりとさせられる。
私はバーティのことを鈍感で、子供っぽい男だと思って、内心小馬鹿にしていた。その、私の胸奥にある残酷さは、バーティが剥き出しにする傲岸よりずっと“悪徳”に近しい。覗いていたはずの闇がこちらを見返している。そういった構図は、本能的に不気味なものだ。
彼の瞳が私の本心を覗き込んでいたのか、私は終に知ることがなかった。
学生時代から――いや物心ついて以来、私は常に「僕は自分に自信がないのだ」と強く感じていた。
その、自分に対する不信感がどこから来るものなのか考えたことがある。スポーツは勿論不得手だったけれど、容姿も特別醜いわけではなかったし、成績も学年首位か次席が定位置だった。下を見れば幾らでも優越感を抱くことの出来る高さだと、私は思っていた。如何しても上を見てしまう私は、どこか自信のない風を取り繕っておきながら、その実“私”という人間を酷く愛していたのだろう。
初恋のひとにしろ、バーティや他の友人にしろ私は心から愛したことがない。私という人間が傷つけられないか否かが、交友関係を結ぶ上の大前提だった。どんなに惹かれた相手であろうと、“見返り”がないとみるやスっと好意が冷めていった。
私たちはレイブンクロー塔への通路を進みながら、友人同士とは思えぬほど言葉少なかった。
それは何も、女生徒のことでからかわれたことで腹を立てているとか、そういう子供っぽい理由からではない。私は父が亡くなった時から、また学内における暗さが濃くなるに従い、この強烈なファザー・コンプレックスに侵された友人と別れる決意を固めていた。
私はバーティの聡明さが好きだったし、今振り返ってみても彼ほど熱心に議論を交わせた相手はいないと思う。バーティは(マグル学を除いてと、注釈をつけるべきだろう)幅広い分野に造詣が深かった。異なる意見を擁していた時は、バーティは激しい反論で私の心を抉ったが、その一方で彼と意見が一致した時の喜びときたら……あの高揚は、言葉に出来るものではない。
私は彼のことが好きだった。
「ねえ君、このところ僕へやたらと冷たくないか」
一分ほどの沈黙の後、バーティはさり気なく切り出してきた。
「そんなことはないよ」
嘘だった。前述のとおり、私は既にバーティと疎ましく思っていたし、徐々に繋がりを薄くしていくつもりでいた。
幸いにして私たちは部屋も違えていて、共通の友人も少ない。極々自然な流れで離れていけると思っていたが、バーティは中々しつこかった。バーティが私を呼び止めたり、手を振ったりすると、私にはもう彼を無視出来なかった。私は彼を疎んでいただけで、嫌っていたわけではない。レギュラス・ブラックに対する敵視か、さもなくば闇の魔術への関心、そのどちらかだけでも我慢してくれたなら……そんなことは有り得ない。そうと分かっていたから、私は彼から距離を置いたのだ。もしもを語らうのは甚だ愚かしい。
「君は、少し神経質すぎるんだ。僕は元々一人の時間が好きなだけだし、君が女の子のことでからかってくるのが面倒なんだよ」
「わかった」バーティは真剣な面持ちで頷いた。「二度と、君の好きな女の子のことでからかわない。約束するよ」
私は決して友達が多いタイプではなかったし、自分のことを友達と信じて疑わないバーティと距離を置くことで良心が咎めなかったと言えば嘘になる。しかしマグルの母を持つ私が、“例のあの人”に傾倒していく彼と共に在ることは無理だった。
本当に、私は心から彼のことが好きだったのだ。私は彼の無罪を信じて疑わない。
クラウチ氏の判決が正しいものであると確信していてさえ、私は、私たちの過去の友情に懸けて疑いたくなかった。彼が好きだから。
純血主義を蛇蝎の如く嫌悪した父は、“例のあの人”と無縁の詰まらない病で亡くなった。
あの人の退屈な語り口も、「マグルの大学教授になれるぞ!」という無責任なジョークも、今となっては記憶の彼方に押しやられている。ホグワーツを卒業する段になって、私は自分の進路を相談するべき相手がいないことに気がついた。それは勿論教師や友人たちも親身になってくれたけれど、私が求めたのはもういない父の助言だった。もしくは、天秤の片側に乗せられた重しだったのかもしれない。
父を失った家庭で、マグルの母と魔法使いの僕は二人きりになってしまった。僕はマグルと魔法使いの間の子。母は純粋なマグル。カビ臭い純血主義のなかで育った父がいたからこそ保たれていた秩序はあっけなく破綻した。魔法族とマグルの間で宙ぶらりんな私は、重しにするには軽すぎたのだろう。父がいなくなってみれば、母は私のなかにある異端を受け入れられなかった。
七年生の夏期休暇、私は例年のごとく母と共に家路についた。父が逝ってから、母は九と四分の三番線に入らなくなりはしたものの、私はそれを気に留めることはなかった。鈍感さでは、私もバーティのことを馬鹿に出来ない。家の扉を後ろ手に閉めた母が「マグルの大学を受けてみる気はない?」と切り出すまで、私は母の感情の機微に気づかなかった。
ホグワーツに戻るまで、私たちは殆ど口を聞かなかった。正式な手続きを踏めば、ホグワーツを卒業することでマグルの大学受験資格を得ることを私は知っていた。幾度か父とマグルとの共生について話をしたことがあったので、母も知っていたのだろう。
私の母は確かにマグルだ。私も、マグルの学問に全くの関心がなかったわけではない。しかし私の父はれっきとした魔法使いだった。
選ばれたもの……とまでは行かないが、決して生中な才能でホグワーツに入学出来るわけではない。
魔法界には、ホグワーツに入学するだけの魔力を持たない者は山といる。生涯を通して“学校”というものに通わないものもいるし、この現代社会に暮らしていれば想像も出来ないだろうが、読み書きすら全うに出来ない者とて決して少なくはない。私は、そうした魔法界の中世的社会観が好きだった。マグルの通う学校に通ったことがないので、母の口にする“世間”を知らないせいもあるのだろう。私の世界はあの小さな生家とホグワーツだけだったし、私という魔法使いはたったそれだけで暮らしていける人種だった。
私は魔法使いだった。母は、私のなかの魔法を無心に愛することが出来なかった。母が愛した魔法は、父だけだった。
最後の新学期が始まる前夜、私の部屋を訪れた母が「友達に見せられる、貴方の写真がないのよ」と一言口にした。
母の雑談に、私は応えなかった。傍らの教科書類をトランクに詰めると、相槌の代わりに呪文を漏らした。杖を振ると、クローゼットにかかっていたローブが飛んでくる。母は泣きそうに顔を歪めたが、父の前でそうだったように、私の前でも涙を見せるのは止めたらしかった。
翌日、私は一人でキングズクロスへ向かった。自分でタクシーを止めたのと同じに、進路も自分一人で勝手に決めた。
元々魔法のメカニズムに関心のあった私は、卒業後は魔法生物に興味を持つようになっていた。
それで、兼ねてから尊敬していたスキャマンダー氏に師事することにした――と言えば聞こえはいいが、単に数年彼の話し相手を務めただけに過ぎない。私の選んだ身の振り方を進路と言うには、あまりにも無計画すぎるだろう。
卒業してからの数年、一体何をしていたのかと聞かれると言葉に詰まる。ホグワーツでマグル学教授の職を得るまでの長い間、本来なら学生時代で殺しておくべきだったモラトラリアムに浸り続けていたように思うからだ。
夢見るように長いモラトリアムのなかで、私はスキャマンダー氏に彼の出会った様々な魔法生物について聞いたり、魔法生物を探す秘訣を教わることを楽しんでいた。実物に会いたくなったら、赴くままフィールドワークに出かける。資金に困ると薬草や魔法生物の死骸の一部を売って小金を稼ぐ。まさに“その日暮らし”の典型に甘んじる息子のことを、無論母は良く思わなかった。
手紙は幾度もやり取りしていたが、結局私が最期に聞いた母の台詞は「友達に見せられる、貴方の写真がないのよ」だった。母が救急車を呼ぶために、手を上に伸ばす。彼女の手が受話器を取りこぼした時、私はノルウェーの雪原を彷徨っていた。
私は子供の頃、何故父は母に謝らないのだろうと思った。また、何故母は父を責めないのだろう、とも。
例えば「君のことを馬鹿にするようなことを言ってすまなかったね。しかし君が魔法使いについて知らないように、私もマグルについてまるで知らないんだ。魔力ってのは厄介なもので、自分自身の意思で制御出来るようにするのは大変なことなんだよ。マグルの子供達を驚かせたり、クィリナスが彼らにいじめられかねない状況を引き起こすかもしれない」と謝れば、私たちは大分違っていたと思う。さもなくば「私の友達は皆マグルなのよ。彼女たちに夫は魔法省に勤めていて、息子は魔法学校に通ってますなんて言えないわ。なんて誤魔化せばいいのか、一緒に考えて頂戴よ」と詰っていたら、私たちは、私は、私は何故母を突き放したのだろうか。
例えば「じゃあ、今すぐマグルのカメラを買ってきてよ。二人で写真を撮ろう」と、そう口にしていたなら。
母を失って以降のことは、朧にしか覚えていない。
完全な一人ぼっちになりはしなかったものの、バーティも父も母も失った私に心から愛せる存在は出来なかった。空虚でもないし、さりとて満ち足りているわけでもない。私より“可哀想”な人は幾らでもいる。下を見ればきりがないし、上を見ても録なことにならない。
若い頃とは逆に、年を追うごとに下しか見えなくなっていく自分に気づいた時、私は“どうにかしよう”と思った。
何を如何したかったのか、私には分からない。幸福だった頃に戻りたいという感情だけが、はっきりと輪郭を保っている。
果たして私の幸福とはなんだったのだろう。
幼い頃から振り返ってみれば、ホグワーツ特急でバーティと出会ったこと、父親がマグルの時計屋で買ってきてくれた腕時計、昼暮れの居間で最新のファッションを眺める母の横顔……そんなものが疎らに浮かんでは消えていく。しかし結論は出なかった。
私は決してバーティや、両親のことを特別に愛していたわけではなかった。疎ましく思うこともあったし、五月蝿いと遠巻きにすることもあった。私たちの友情は、そして親子関係は、有り触れていて、そして少しばかり薄情なものだったと思う。彼らとの間にあって、その他にはないものとはなんだったのだろうか? バーティと両親、そして“もう一人”の間にだけあった、私の幸福。
どこで間違えてしまったのか探るのは容易なことだ。その一方で、正しい未来の先にある願望を認めるのは難しい。特に、私のような矜持の高い男には、何かの切っ掛けなしに“手に入ることがないものを望んでいる”と認めることは出来ない。
ソファに深く腰掛けた“彼女”が首を傾げる。膝上に置いた本を持ち上げて、私に笑いかける。彼女が、私の、四人目の奇跡だった。
ダリル、私の最期の生徒。
『もっと色んな話を聞かせてください。教授の話、とっても面白いです』
彼女の声を思い出すと、存在しないはずの心臓が痛んだ。
劣等感と愚かな行動力から“例のあの人”の傀儡となった私が、小さな少女の満足のいく反応を返せたことはそうなかった。
どんな話をしていたか、今となっては途切れとぎれにしか思い出せない。薄暗い室内、頭痛と罪悪感……強く酩酊していた私は“例のあの人”の言いなりだった。彼女との会話も、その殆どは作業じみて投げやりなものであり、私は話し相手として価値のある教師ではなかっただろう。もしも友人か、もしくは私とは別に心を許すことのできる教師がいたなら、きっと彼女は私の下を訪れなかった。
彼女は私に多くの打明話をしたが、私が彼女に何か一つでも打ち明けたことは一度としてなかった。
私の人生において、彼女との時間ほど薄情だったものはない。それにも関わらず、私は彼女との時間を心待ちにしていた。
野営の仕方を教えたり、外界で出会った突飛な出来事について語ると、あどけない容貌がくるくる変化するのが面白かった。陳腐な表現ではあるが、私は彼女のことを“温室育ちのお嬢様”だと思っていた。私のような――成績ばかりは恵まれていたものの、他に取り柄のない男とは違う。決して誰も信じないだろうが、私個人には彼女を害するつもりも、また利用するつもりもなかった。
私は彼女の好奇心が愛しかった。胸を締め付ける不安が可哀想だと思った。どんなにか恵まれた環境で育ったのだと思うにつけ、たった一つ……小さな傷さえ存在しなければ全てが上手くいったのだろうと、そうした哀れみを転がすと、私は後暗い安寧を得ることが出来た。
恐らく私が彼女と同じ学生だったなら、彼女は私を気にも留めなかったはずだ。年の差故に、彼女は私を“自分を助けてくれる大人”として受け入れてくれたのだと思う。結局のところ、私は彼女を欺き、最低の裏切り行為で傷つけてしまったのだが。
私は彼女の前で“大人”だった。
実際には自分の行き先さえ分からない、ただ年老いただけの子供だったとしても、彼女は私を“教授”と呼んだ。マクゴナガル教授をはじめ、今もホグワーツに籍を置く教師たちや、スキャマンダー氏等の私が知る“教授”は、私よりずっと賢く、優秀だった。それを裏付けするかのように、生徒たちは私の授業を軽んじた。教職についていながら、私には自分の好奇心を満たす以外の拠り所がなかったのだ。
両親とバーティは、私の拠り所だった。彼女も、ほんの数カ月という短さで私の心に入り込んできた。
私は微かな理性から彼女に――無論彼女が私の気持ちを知りたがるとは限らなかったが、私は、彼女に短い言葉を遺してきた。外の世界を知らないという彼女が、飛び切り喜んでいた本で、私がスキャマンダー氏から初めて貰った本のなかに、私は文字を刻んだ。
後悔と懺悔だけでかたち作られた遺書に、私は今、堪らなくあの文に二重線を引きたい衝動に駆られている。
私、教授とお話するの大好きです。思い出のなかの彼女が微笑う。私も君と言葉を交わすのがとても楽しかった。君と、あの人たち……私の愛した人々にも、そう伝えるべきだったのだ。
私の幸福は、言葉を交わすなかにあったのだと思う。
私はホグワーツ特急でそれからの五年、大いに議論する相手を得た。些細な会話のなかから私が腕時計を欲しがっていることを察した父が、小さな包みを誇らしげに差し出す。パリ発の奇抜なファッションを眺めながら、母は私の話に耳を済ます。歯車とコンデンサーに、ソニー、遮光板の話。私の好奇心の源流たる、美しいメカニズムの話を、母は熱心に聞いてくれた。
彼女にだけは私が何を幸福に思っていたか知って欲しかった。後戻りが出来ない奈落に沈み行く私が、私にも“愛することが出来た”のだと知って欲しかった。私が最期に愛した生徒、彼女に伝えたいことはまだ山とあったのに、耳障りの良い謝罪で終わらせようとしてしまった。
あの部屋に戻らなければならない。見慣れたばかりの扉を開けて、ソファの上の彼女に伝えなければならないことがある。
私は、
「あの、僕」
数度目のノックのあと、ようやっと開かれた扉から、母が怪訝な顔を覗かせている。
私は、マグルの町にラジオの部品を買い求めに黙って家を抜け出したのだった。マグルの町がどこにあるかは知っていたし、母が夕飯の支度をしている目を盗んで、ほんの三十分ほどで帰ってくるつもりでいた。しかし電解コンデンサーやアンテナがどこで売っているのか分からない上に、時計屋の店主と思った以上に話が弾んでしまって、気がついたら外は真っ暗になっていた。
「ぼく……ラジオの部品、欲しくて」
飴玉は貰ったものの、そもそもの目的だった電解コンデンサーは手に入らなかった。それで母の顰蹙を買うのだったら、鉱石ラジオを作ってみたいなどと考えるんじゃあなかった。夜風に吹かれながら、私はそんなことを思って俯いた。
母は息子の謝罪を待って、じっとりと私を睨んでいたが、背後から父の「凄い、この箱のなかに人間そっくりの庭小人が詰まってるぞ!」という歓声に気持ちが折れたらしかった。ちらと居間のほうへ振り向くと、母は仕方がないわねといった苦笑を浮かべた。
「今度からは、ちゃんと言っていくのよ。さ、冷えるでしょう。早く入りなさい」
母は扉を大きく開け放った。青いような夜が立ち込めた軒先に、長方形に明るい室内が迎え入れてくれる。
家の中からは、美味しそうな、デミグラスソースの焦げる匂いが漂ってくる。暖かな通路の向こうで、マグルの家電に興味津々の父が奇声をあげていた。一歩足を踏み出せば、父から「クィリナス、ほら分解してみろ!」とせっつかれるだろうことが、私には分かっていた。その傍らに侍る母が「買ったばかりのテレビを粗大ゴミにする魔法が見れるってわけね」とため息をつくだろうことも。
母は、不思議そうに私を見つめた。
「どうしたの?」
その目線が私と同じ高さであることに、私は気づいた。私のポケットには飴玉もなければ、電解コンデンサーも、まして賢者の石もない。大人のポケットは、いつでも何か入れられるように空っぽだ。
“これ”は過去の思い出ではなく、今も尚続いてる“私の現実”だった。どこかに、まだ彼女が存在している。
私は、まだ玄関先に突っ立っていた。このなかに入ってしまったら、二度と戻れない。私は、薄々予感していた。
「母さん、私は……」
哀れむような瞳で私を見上げる母に、私は頭を降った。「私は、まだ……私は、あの部屋へ。私は、」
私は教師だった。大人の、成人した魔法使いだった。私は彼女を、教師でありながら、生徒を守ることが出来なかった。
「もう良いのよ、クィリナス」
水仕事であかぎれた指が、私の目尻を拭った。母もまた頭を振って、音もなく唇を動かした。
「もう私たち、しずかに寝みましょう……」
居間から顔を覗かせた父が、一度も体を悪くしたことのないような笑みを見せる。その生涯において、私の何もかもを受け入れることがなかった母が、私の腕を引く。もう、良いのだ。私たちは、もう、マグルだとか、魔法族だとか、そうしたものの手の届かない場所にいる。
そしてもう二度と、彼女に会うことも出来ない。旅先で収集した押し花を見せてあげることも、欧州最大のユニコーンの群生地について話してやることも……決して、私は何もかもを憎んだまま死んだわけではなかったと、伝えることも出来ない。
ありがとう。君に出会えて、私は幸運だった。あのページに、私はそう記すべきだったのだ。今更になって、自分の気持ちに気づく。
私は、彼女を……
「クィリナス! はやく来てみなさい、ピクシーと庭小人をかけあわせたのかもしれない!!」
母はフーッとため息をつくと、ひらりとエプロンを翻した。私はその腰紐の端を、縋るように掴んだ。母が振り向く。
「母さん、すまない」
私は震える声で、言葉を続けた。
「動かない写真、撮ろう。母さんの友達にも、父さんの友達にも見せられる写真……いっぱい撮ろう」
母は嬉しそうに、とても幸福そうに笑った。業を煮やして私たちを迎えに父も、虚を突かれたような顔をしてから、にっこりする。
「どうしたクィリナス。今日は、馬鹿に冴えた提案をするじゃあないか。さすがは私の息子だ。しかし目元の蛇口は閉めておけよ」
父はパンと、彼らしい馴れ馴れしさで私の背を叩いた。そのまま、ズルズルと私を居間に引きずっていく。
背後でぴったり閉められている扉を振り向いて確かめる必要はない。“これ”が死後の世界なのか、はたまた走馬灯なのかは分かりかねる。私の頭のなかでのみ営まれていることで、肉体の死と共にパチンと弾けて消えてしまう類のものかもしれない。
ウロボロスの輪と同じだ。私はどこから始まったのかも知らないし、いつ終わりがくるのかも分からない。もう、死んでいるから。
『もっと、色んなこと教えてください。私がホグワーツを去るまで……一緒にいてください』
たった二人きり、特別な女性のうちの一人。私は彼女という生徒を心から愛していた。本当に、本当に……心から恋していたのだ。
七年語り – SPIN OFF